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書評:岡野八代著『法の政治学――法と正義とフェミニズム』

菊地 夏野 2003/12 『女性・戦争・人権』6


  「正義」を論じたテクストを読んでいると違和感を感じることが多い。行間から、書いている者の特権への無自覚さを感じて仕方ないのだ。つまり、多くの場合、社会的弱者を「他者」と位置づけ、他者にいかにして「正義」を分け与えるかという構図になっているのだが、どうして具体的な誰かを「他者」と名指すことができるのだろうか。そこで暗黙に「主体」であるのは、筆者であろうし、また社会的強者であろう。具体的な個別の暴力を受けた被害者、いやサバイバーであることは、「他者」であることとは違う。「他者」とは西欧の文化・歴史が「主体」の隠れた対象項として構築した、一義的にはテクスト内の存在であり、文脈によって限定的に用いられるべき言葉だ。自分を西欧的主体に同一化し、マジョリティに抗議する者を他者と呼ぶことは、それ自体、マジョリティへの批判から力を奪うことになる。特権から降りることが当然必要だし、降りるためにはまず自らの特権を相対化する作業がされるべきであり、自己を「主体」としてそこを問わないような議論は抑圧を再生産してしまう。
  この違和感は、おそらく西欧の哲学的伝統の総体へと向けるべきだろう。この数十年間にわたって西欧の哲学は「主体対他者」の二項対立的構成を批判されてきたが、その批判すらも取り込み、いまだ生き延びている。
  本書はそのような表象の暴力に対して、真っ向から挑んだ書である。本書において「法」は単に実定法だけではなく、「社会規範、文法などをも含んだ広義の法」である。法は「豊かな世界をさまざまな領域へと分断し、その分断された諸々の領域がいかなる人為的な力をも免れた『自然な』領域であるかのように見せかける」。西洋政治思想が培ったこの「法」の政治性を著者は問おうとするのだ。
  以下、ここでは本書の構成に従って、上記の問題――法、正義、他者――について考えてゆこう。
  第一章「法とフェミニズム」が論じるのは、法の議論につきまとうパラドクスである。法を批判することが逆に法のもつ力を再強化してしまうというパラドクス。例えば、女性法学は「人権」概念が男性の権利に過ぎなかったことを問うてきたが、その原因を女性特性論や性役割分担論に見出してきたと著者は言う。しかしその見解は、原因を法にとっては外的な要因、社会通念や慣習に見出し、法のもつ力を見過ごしている点で批判される。むしろ著者が見ようとするのは、法そのもののもつ力、起源や歴史性を問うことなく適用される法の機能である。この辺りの指摘に、著者の鋭さが最もよく現れているように思う。「『法学』という知の体系そのものが、普遍的な法とジェンダーというカテゴリーの双方を構築しているのではないか」。法学にとって「ジェンダーは普遍的たるべく法を鍛え直すための要素の一つにすぎないか、あるいは、そうでなければ普遍的な法の外部に存在するなにものかである、というのだ」。フェミニズムが理論化するさいに陥る罠を著者は明確に見抜いている。この問題を受けて、アーレントのテクストを読み込み、そこに「裏切り」を発見する。アーレントは自らのテクストが非本質主義であることを宣言しておきながら、テクストのある箇所で「自然」を反映した暴力的ではない理念的な法の存在を挿入してしまう。そうして法「以前」の自然な二分法――男/女、国民/非国民、さらに文明人/未開人――を構築する身ぶりは、アーレントだけではなく、ミルやウルストンクラーフト、また第二派フェミニズム以降の理論も共有しているものだ。この章は、まさに「自己/他者、私的領域/公的領域、女性/男性、自国/他国といった領域設定を分断する境界線に政治的なるものを読み取る」という本書を貫く鮮明な問題意識を最もよく体現している。
  第二章「従軍<慰安婦>問題が照らし出す<わたし>の諸相」では、従軍<慰安婦>問題をめぐって、「<わたしたち>日本国民」という同一性について論じられる。著者自身が経験した具体的なエピソードを通じて、元<慰安婦>にさせられた女性たちの声を聞き取ることは「日本国民」という立場へのどのような関わりを求めるものなのか考えてゆく。そのなかで著者が彼女たちの証言のもつ力について、「背景という客体であり続けた彼女たちから、もう一度この現実(見慣れた日本の現実、引用者注)が見られることによって、今度は〈わたし〉や〈わたしたち〉が客体として背景化する、その主/客の逆転の様に、わたしたちは驚きを感じずにはいられない」と書くとき、指摘されているのは冒頭に挙げた表象の暴力とその転覆の瞬間であろう。
  このようにして証言が自分自身に与えた力、意味を恐れずに言葉にしていくこと、この作業こそが、証言を貶める者達への抵抗の始まりになるのではないだろうか。証言を無視、否定する者たちの多くは、証言に向き合ったときの自分自身の辛さを避けるために、「売春婦」「嘘つき」などの表象を持ち出すことで、楽になろうとする。証言を聞いたときに、「模範的な応答」ではなく、自分のありのままの感情を表現することはとても大切なことだ。
  第三章「〈わたし〉の自由と〈われわれ〉の責任」では、「戦争の記憶」という「亡霊」に取り憑かれたように感じる「不自由さ」の思いを起点に、自由と責任の意味を再考する。そのさいに著者が参照するのはバーリンの決定論批判である。バーリンは西洋思想史の二大潮流である目的論と機械論を、「自由の代償としての責任を引き受ける必要がなくなる」論理として批判したが、著者はバーリン自体もその二者とある前提を共有しているとする。つまり自由が責任に先立つという前提を。そしてその前提によって守られている<わたし>という同一性を分節化してゆく。
  第四章「暴力・ことば・世界について」は、ヌスバウムとアーレントへの対峙を通して、「暴力」の言語化を試みる。著者が行き着くのは、「合理的な哲学」と同じように<わたし>とあなたの関係性においても、暴力は「ひとがことばによる呼応関係の中でみずからの唯一性を具体化すること」を拒絶するということだ。そしてその先を見据えようとする。
  第五章「遅れる正義/暴力のあとで」では著者自身が参加した女性国際戦犯法廷の意義を正面から論じる。法廷の現実を改めて見て、著者は「法や正義はどこまで傲慢なのか」と感じてしまったという。その思いを、正義の女神ユスティティアが目隠しをしている形象に仮託して論を進める。そして法廷での証言者たちの姿を想起することで著者が見出すのは、彼女たちが単に女神の掟に従わされていただけではなく、女神に「まだ見えない未来」を伝えに来たのだ、ということだ。
  最後の第六章「正義はどこまで可能か」は、二〇〇一年三月に関釜裁判に対して広島高裁が、従軍<慰安婦>にされた女性たちの訴えを「道義的責任はあるが法的責任はない」として却下したことから問いが立てられる。なぜ法は、無限の倫理的責任と正義を切断するのか、と。著者の導きによって読者は、主流の現代正義論は構造的不正に応答できない責任体系を想定していることを知る。その限界を乗り越えるために提唱されるのは、「倫理的責任は無限責任であることを意識しながらも、なお限界を問い返しながら責任を取ろうとする積極的な正義」すなわち「政治的正義」である。「政治的正義」は、現在の社会構造が生む支配や抑圧に目隠しをする「リーガリズム」に対抗して、過去においては不正とは考えられていなかったものを正義の領分へと想像し直すことによって、わたしたちが他者と共にあるための責任の可能性を提起するのだ。
  現実に「目隠し」をして主体の同一性の夢にまどろむ現行の「法」や「正義」に著者が切り込む眼差しは鋭く強い。さらに未来をもたぐり寄せようとするこの書は、「正義」への希望を鍛えなおそうとする。
  おそらく、著者の根本的な問いは、西洋政治思想に対する根源的な批判を必要とするのだと思う。そしてそれはもちろん著者にのみ突きつけられたものではない。
  一読してわたしは、思想と「場所性」について考えさせられた。どうして「正義」はある場所ではより不在に感じられるのだろうか。この三月に訪れた沖縄では、米軍のイラク攻撃開始を受けて、基地は厳戒態勢を布き、話をしてくれた女性からは恐怖感と緊迫感がひしひしと伝わってきた。沖縄で感じる「イラク攻撃」と本土で感じる「イラク攻撃」はまったく違う。この圧倒的な現実に、「正義」はどう立ち向かうのだろうか。「正義」を西洋中心主義的なテクストに閉じ込めずに、わたしたちの生活、現実の中から立ち上げていくことを、著者と共に考えてゆきたいと、強く思った。
  わたしたちに正義の可能性を垣間見せながらも相変わらず「主体」と「他者」の境界を刻みつづける「法」は強固だ。まきこまれず内在的に変化を喚び起すきわどい著者の位置取りが今後も緩みを見せずに、さらに確実な未来を喚び起していくことを期待したい。

UP:20021225
岡野 八代  ◇全文掲載
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