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フレイザー、ヤング、ベンハビブについて

中川 志保子(関西学院大学大学院法学研究科) 2003/11/22
アイリス・ヤング勉強会 於:立命館大学



1、フレイザー

1-1
・ 承認/再分配のジレンマ
=承認に対する要求は集団の分化を促すが、再分配に対する要求は集団の脱分化を促す
・承認/再分配のジレンマに対する救済策
=(1)肯定的救済策
(不公平を生じさせる基礎構造を乱すことなく、社会的取り決めによる不公平な結果を修正)
(2)変容的救済策
(不公平を生み出す基礎構造を再構築することによる不公平な結果の修正)
肯定         変容
再分配 自由主義福祉国家 社会主義
承認 主流の多文化主義 脱構築
・「承認/再分配のジレンマ」を解決する最良の組み合わせ
=変容的救済策の社会主義と脱構築の組み合わせ
←(1)肯定的承認型の救済策‥現存する集団の分化を促進
 (2)変容的承認型の救済策‥長期的には分化を動揺させ、将来の再編成のための余地を作ろうとする
+ (1)肯定的な再分配型救済策‥誤認という反動を招きうる
 (2)変容的な再分配型救済策‥誤認を正すのに役立ちうる

1-2
・その戦略の欠点二点
=(1)その戦略が「大部分の有色人種の直接的な利害やアイデンティティからは遥かに隔たっているという点である。というのは、これらは今現在文化的に構成されているものだからである」
 (2)「このシナリオを心理的かつ政治的に実行可能とするには、自己の利害関係やアイデンティティの基礎となる現在の文化構造に対する執着から、全ての人々を引き離さなければならない」

2、ヤング

2-1
・このフレイザーの欠点二点
=ヤングにとっては、どうしても譲歩できない問題
・むしろヤングは、この二点を重視して戦略を立てている
・「差異は構築されている」という所から一歩進んで、「構築された差異をそれぞれがどう受け取るか」を重視した点でヤング(とベンハビブ)は脱構築的フェミニズムと一線を画している
・ヤングにおいても、差異は歴史的、社会的に構築されてきたものでしかない
・その構築されてきた差異に人々は現にアイデンティファイしてあるという現状をふまえるならば、その差異は肯定されるべきであり、それゆえに、その差異の否定につながる普遍的シティズンシップによる同化政策を批判
・ヤング‥抑圧の内容−どのような支配関係がどのような抑圧を生んでいるのか−を問う戦略(=被抑圧者集団に対する抑圧に抵抗するために、普遍的シティズンシップに含まれる「普遍性」を問い直して、修正を求めるという戦略)は採らない
←ヤングは、真に中立的な公準は不可能と考えているため
・より中立的な公準を立てようとするベンハビブ
⇔その公準を立てようとしない点では、ヤングと脱構築的フェミニズムは共通
⇔公準が不可能なので現にある差異を肯定しようとするヤング
⇔現在ある公準が何によってどこにひかれているのか、そしてその公準がどのような差異を生み出しているのか、を追求し続けようとする脱構築的フェミニズム
・ベンハビブと脱構築的フェミニズム
 ‥別々の方法で抑圧の内容を問おうとしている
⇔ヤング‥抑圧の内容を問わない
・抑圧の内容を問わず、差異を肯定するという戦略
(=フレイザーに言わせれば、肯定的救済策)
→ヤングはフレイザーの戦略の欠点をカバーすることができる
⇔抑圧の内容を問わないということ‥ヤングの最大の欠点

2-2
・ ヤング
(1)フレイザーが変容的救済策を採る根拠としている、承認/再分配のジレンマ自体がフレイザーの二分法によって生み出されたものでしかないと批判
(2)その二分法によって、抑圧と正義に関する全てが承認と再分配に減じられるのに異議を唱え、代わりに四つの分析枠組(=資源と財の配分パタン、分業、意志決定権力の組織化方法、文化的意味付け)の必要性を主張
(3)再分配のために承認が必要なのであって、抑圧の根源は文化にあるのだからその救済策もまた、文化的でなければならないと主張
・ヤングの採る戦略
=被抑圧者集団に限定して、アファーマティヴ・アクションを行うというもの
→被抑圧者集団に対象を限定することによって、被抑圧者集団の差異を他の差異と同様に扱い、結局は差異の無化につながるという差異派に与えられる批判から逃れられている
・ヤングの肯定する差異(=被抑圧者集団の差異)
 ‥特権者集団の差異とは異なるものとして、境界線をひかれたものとして、表象されているため、押しつけられたままの差異を主張することになり、その境界線自体は問えない
⇔被抑圧者集団の差異を肯定することは、特権者集団の差異を問い直すことにはつながる

2-3
⇔ヤング‥抑圧の内容について問わないために、結局は集団内部の抑圧を問うことも、そして集団外部(から)の抑圧を問うこともできなくなってしまう
・ 外部
 (1)ヤングは、アファーマティヴ・アクションを必要とする非抑圧者集団を選ぶ規範を持っていないため
 (2)抵抗運動自体は理論根拠になりえず、その規範は主観的にならざるをえない
 (3)むしろ、抵抗運動が無くても、もしくは目に見えなくても、抑圧を指摘できる規範が必要とされる
・ 内部
 (1)集団の承認と個人の承認とを曖昧にしている、というベンハビブからテイラーへの批判が、ヤングに対しても同様に言える
 (2)「構築された差異をそれぞれがどう受け取るか」を重要視した点では、ヤングもベンハビブも同様であったが、ベンハビブは集団の承認と個人の承認を明確に分け、後者を優先

2-4
・フレイザーの変容的救済策=抑圧の内容を問うもの
→その選択肢‥脱構築の他に普遍主義が挙げられる
→伝統的自由主義的普遍主義とは異なるベンハビブの普遍主義

3、ベンハビブの普遍主義

3-1
・ ベンハビブ‥ヤングの採らなかった戦略−抑圧の内容を問うという戦略を採るために、集団内部の抑圧も外部の抑圧も問うことができる
+フレイザーの欠点二点も越えることができる
・ベンハビブが集団の承認より個人の承認を優先する
←ベンハビブにとって、文化に対する権利は、自律的な個人が彼らの生活の中で意義深い幅のある選択が可能なことに由来しているため
→諸個人の活動を通して表現されたものを除いて、異なる文化間の価値の間にどのような違いも認められえないとする
←自由主義の伝統
⇔ベンハビブの普遍主義
 ‥デリバレイティヴ・デモクラシーを基礎とする独自のもの
 =ハーバーマスのコミュニケーション的合理性を批判的に継承して、対話によって民主性を担保するもの
→対話を可能にするための市民権が要請
・個人の主体=包囲されている物語の中から自分の物語を語り直すことができるところに保持される
=「一次的な行為の説明に向かう一定の規範的態度を内包する二次的な物語が存在する」ことを最重要視

3-2
・ベンハビブの物語モデル
=主体が社会的に構築される前のより正しい主体に近づいていこうとすることで、社会的に構築された主体を脱ぎ捨てていこう、抵抗していこうとするアプローチ
→ベンハビブの考える行為性
 =唯一独自の個別な自己である自分にとって意味の通じる人生の物語を、家族やジェンダーの物語、言語の物語、集団的アイデンティティといった大きな物語や物語の断片から作り上げる能力
・多様な文化の中で確立された様々な物語コード‥物語を語る能力を多様なやり方で規定
⇔自分にとって意味のあるような人生の物語を語る時
 ‥常に主体によって選択が為されているという所に着目、主体性回復の可能性を見いだす
・そのような自己の物語を可能にする→対話
←ベンハビブにとって、物語を再配置していくためには、常に一つ以上の物語が必要とされるため
=他の人々は、私の物語の単なる題材ではなく、その人自身の物語の語り手でもあるため、他の人々の物語と私の物語とはせめぎ合い、物語は終結することはない
→対話
・「私が自分自身のために作り出す意味は、私が他の人々と共に紡いでいる壊れやすい『物語の網』に常に巻き込まれているからである」
・権力関係の埋め込まれた言説を踏まえて、私たちは存在
 私たちを取り巻く物語は規定され、構築されている
⇔そのような規定され、構築された物語を語り直していくことで、「わたし」という主体が、「私たちの現在の物語の中でのみ意味を有するものとして、現在において再生される」
→個人的アイデンティティ=各々が作り上げる成果、すなわち自己の物語

3-3
・ベンハビブ‥文化を統一された、全体論的で自己矛盾のない統一体として見ることに異議を唱え、それに対して「デリバレイティヴ・デモクラシーの多文化主義的政治は、女性と子どもを彼女達の意志に反して彼女達の出身のコミュニティに閉じ込めないが、彼女達の帰されたアイデンティティと向かいあって彼女達を自律的な行為体に発展させることを促進する」と擁護
EX.1
・アメリカにおいて移民がその出自の文化によって刑を容赦される事例を挙げて、そのような「文化的弁護」戦略は集団内で最も弱い構成員、すなわち女性と子どもの被傷性を増大させると批判
・彼女達のアメリカの市民権が無視されていること、そして「文化的弁護」戦略は、個人を一義的な文化解釈と心理的動機の檻に拘束すると批判
EX.2
・フランスで大学にヘッドスカーフをしてくることを禁じられたムスリムの女子学生達がそれに従わずヘッドスカーフをしてきた事例
=彼女達がそうすることによって、一方で彼女達のフランス国民としての宗教の自由を実践し、他方でムスリムという出自を公然と示し、私的領域の象徴を公的空間のしきたりに異議を唱えるために使った例と指摘
・「彼女達は、公的空間でホームの象徴を使い、自分達の頭を覆うことでイスラム教によって要請されているつましさを保持するが、同時に、彼女達は市民的公的空間における公的なアクターになるためにホームを去り、市民的公的空間で国家の意味を明確にした」
→ベンハビブにとっての市民的公的空間
 =対話によって民主主義的に鍛え上げられていくもの
 →市民的公的空間で対話を可能にするための市民権が重要
・「複雑で文化的な対話の方法によって私たちが伝統と対話が互いに浸透していることに焦点をあて、自己と他者のイメージの相互依存を明らかにすることが示唆される」ため、「私たちはこの複雑な対話の中で他者と自己、『私たち』と『彼ら』を位置付けることや位置づけ直すことに注意深くある必要がある」
→「私たち」を構成することが同時に、「彼ら」を構成することでもあることへの注意
←規範をもってして抑圧の内容を問うならば、生政治的に排除を生む
⇔ベンハビブにおいてもバトラー同様に対決によってその排除を避けようとしている
・ベンハビブにとって対決が必要なのは、意味をずらすからではなく、より規範的な普遍性に近づくことができるから
⇒その対決の仕方は本当に排除の可能性を脱しているだろうか?
→ベンハビブ
 ‥アイデンティフィケーションを第一に置くため、アイデンティファイされている文化が不当かどうかは市民的公的空間に委ねてしまう
 →そこでアイデンティファイされている「私たち」が排除を行う可能性
⇔ベンハビブがフレイザーを評価する点
=承認の政治がアイデンティティ・ポリティクスに減じられえないということ
←アイデンティティ・ポリティクスのみだと集合的アイデンティティの反省的再構成が不可能になるため

4、ベンハビブにおける反転可能性

4-1
・ベンハビブの普遍主義において反転可能性が使われていること
←ヤング
 (1)各々の立場を入れ換えて考える反転可能性に基づく相互性とはベンハビブの考えるように対称的なものではなく、非対称的なものであるとして批判
 (2)その非対称的な相互性は差異を不明瞭なものにし、また位置の反転は不可能であり、政治的に望ましくない帰結を導く
 (3)重大な差異を対称的と捉えることで、建設的なやりとりが失われてしまうとして、「たとえ道徳的な尊重の最良の表現が他者によるニーズや視点の表現を進んで聞こうとすることだとしても、しかし、そこでなぜ私たちは、道徳的観点が他者の位置にある自分自身を想像できることを要請するという見解を必要とするのか?」

4-2
・ベンハビブがそのような見解を必要とする
←民主主義を可能にする、対話のため
・ベンハビブ
 ‥「あらゆる普遍化可能性の手続きは、『類似のケ−スは類似的に処理されるべきだ』ということか、それとも、同じ状況にある人は誰でも私と同じように行為するであろうと望まれるようなやり方で 私は行為しなくてはならない、ということを前提している。だが、いかなるそうした手続きにも属するもっとも困難な局面は、何が類似した状況を構成しているのか、あるいは、もう一人の他者にとって、私の状況と似た状況にあるという事が実際何を意味するのか、ということを知ることである。そうした推論の過程が、完全に実行可能であるためには、具体的な他者の観点を含んでいなくてはならない」
←ベンハビブにとっての相互性
=決して制度的なものではありえず、私たちの差異を排除するというより補完しあうもの
→ベンハビブの反転可能性の論理におかれている投企
 ≠伝統的自由主義のような自己と同じものとしての投企
 =自己と異なるものとしての投企
・この投企を以てしても、たしかに「具体的な他者は実際は、せいぜい擬似的な他者に過ぎず、擬似的な具体性に過ぎない」ということをベンハビブ自身も認めている
⇔ベンハビブがこの反転可能性を使う
 ←共約不可能性を強調し過ぎることへの危惧

4-3
・ベンハビブ‥ヤングの批判に対して、対称性は主体の位置の平等性に関するものであると反論
・ヤングの社会集団を他の集団の立場を理解できないものとする見方
=集団的アイデンティティを本質化する危険を犯している
・「集団は、個人と同様に、実際にはそれよりもさらに、異なっていて、競合していて、衝突している、声や視点、物語から構成されている」
=集団的アイデンティティもまた、対話によって反省的に再構成されていく
・視点を反転可能と見る方法は、ある状況に競合する全ての視点が平等に法的に認められていると想定している、というヤングの批判
←ベンハビブはそのような社会を目指しているとしか答えられない
⇔例えばホッブズ的な反転可能性が自己利益に即して捉えられていたこと
→ベンハビブ‥反転可能性というフィクションを使い、そのフィクションの可能性を広げることで、ホッブズ的な反転可能性から脱する

<参考文献>
I.M.Young,Justice and the Politics of Difference,Princeton ,1990.
―,"Polity and Group Difference:A Critique of the Ideal of Universal
Citizenship,"Ethics,Vol.99 No.2,1989(施光恒訳「政治体と集団の差異-普遍的シティズンシップの理念に対する批判-」『思想』867号、1996年).
―, "Asymmetrical Reciprocity:On Moral Respect,Wonder,and Enlarged
Thought"Constellations,vol.3,No.3,1997(in Intersecting Voices,Princeton,1997).
―,"Unruly Categories: A Critique of Nancy Fraser's Dual Systems Theory",in
Cynthia Willett, ed., Theorizing Multiculturalism: A Guide to the Current
Debate (Oxford: Blackwell Publishers, 1998).

N.Frazer,"From Redistribution to Recognition? Dilemmas of Justice in a
'Postsocialist'Age," in Cynthia Willett, ed., Theorizing Multiculturalism(原田真美 訳「再分配から承認まで?――ポスト社会主義時代における公正のジレンマ」,『アソシエ』5).
―,"A Rejoinder to Iris Young,"in Cynthia Willett, ed., Theorizing
Multiculturalism.

S.Benhabib,Situating the Self:Gender, Community and Postmodernism in
Contemporary Ethics, PolityPress, 1992.
―,"In Defense of Universalism-Yet Again!A Respose to Critics of Situating
the Self",New German Critique;Spring/Summer94 Issue 62,1994.
―,The Claims of Culture,Princeton,2002.


UP:20031204
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