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「生まれないほうが良かった」という思想について

―Wrongful life訴訟と「生命倫理」の臨界―

加藤秀一(明治学院大学)
第76回日本社会学会大会シンポジウム・報告要旨(提出:200307)



1.はじめに

  本報告は、いわゆるWrongful life訴訟が惹起する問題群について、できるだけ広範に、かつ、できるだけ原理的な水準で考察することをめざすものである。それは直接には、差別、自己決定権、遺伝決定論といった主題に照準する作業であるが、それにとどまらない多様な含意が行論に見出されることを願っている。

2.Wrongful lifeという概念について

  Wrongful life訴訟とは「子が先天性障害を持って出生した場合に(……)子自身が、医師の過失がなければ、障害を伴う自分の出生は回避できたはずである、と主張して提起する損害賠償請求訴訟」を指す(丸山英二[1995])。ここで言う「医師の過失」とは、多くの場合、通常の医療過誤事件のように医師が患者を傷つけたことを指すのではなく、先天性障害のある子の誕生する可能性についての正確な情報を医師が親に告げなかったために、避妊や中絶によってその出生を回避する機会が奪われ、結果として障害のある子が生まれてしまったことそれ自体を意味する。
  Wrongful lifeの概念に基づく請求の多くは否定されてきたが、2000年11月17日、フランス破棄院は「障害を持つ恐れがわかっていれば母親は中絶をしたのに、医師が診断を間違えたために重度の障害を負って生まれた」として医師に損害賠償を請求した子供名義の訴えを認めたという(『朝日新聞』2000年11月19日)。この事例では出生した子に知的障害があったため、実際に裁判を起こしたのは本人ではなく親だったが、実質的にWrongful life訴訟の有効性が認められ、かつ原告の勝訴に終わった。

3.「差別」の臨界点としてのWrongful life訴訟

  このようなWrongful life訴訟は差別現象の臨界点に位置づけられる。第一に、ある人が生まれたこと、あるいは存在していること自体を損害とみなす、その徹底した否定性において。しかもそこに現出しているのは、自殺とは違って、生の全体を否定しながらその持続を選ぶ、屈折した否定性である。第二に、否定する主体と否定される対象が同一人物であること、すなわち自己否定の形式をとることにおいて。それも障害という社会的に価値づけられたカテゴリーと関係する限りにおいて差別ではあるが、しかし自己決定にもとづく自己否定である以上、他者危害としての差別一般に対する批判は失効する。
  上記2点を本質的要素とするWrongful life概念に基づく訴えが、しかし重大な矛盾(遂行的矛盾)を犯していることも明らかだろう。私が私の誕生=存在そのものを損害とみなすということは、私が「私が非在である場合」と「私が存在している場合」とを比較考量して、前者よりも後者のほうが劣った状態であると言明することに等しいが、しかし現実に誕生して存在している私が「私が非在である場合」について判断することは端的に不可能だからである。私は私の非在を経験することはできない。それが可能であるかのように誤認されるとき、実際に経験されているのは、「存在している私が〈私が存在しなかった場合〉について想像する」という事態にすぎない。したがってWrongful life訴訟はある意味で無意味である。
  だがそれにもかかわらず、それは訴えとして認められ、原告勝訴の判例さえ行なわれている。こうした事実についてどのように考えればよいのか。ここで我々がとりうる態度には二つの水準がある。第一に、事柄の全体を無意味として切り捨てること。報告者も最終的にはWrongful life概念を否認する。少なくともそれを訴訟として認めるべきでないと考える。しかし第二に、それを認める判決が現れているという事実、さらにそれを深層で支える心性の表出であろうP:「(私は)生まれないほうがよかった」という言明が文化史的に広く歴史を超えて共有されているという事実にも興味を抱く。そのような興味に駆動されつつ、Wrongful life訴訟の淵源する場所をいくらか慎重に踏査してみたいと思う。

4.非在者の騙り

  確認しておけば、ここで問題なのはPそのものではなく、Pと¬Pに共通の前提である。生の価値に肯定的な¬P:「(私は)生まれてきてよかった」「私を産んでくれてありがとう」といった言明もまたPと同様の理由で無意味だが、P以上にポピュラーであることは周知の通りだ。さらに手が込んでいるのは、妊娠中絶の倫理的是非をめぐる議論にしばしば登場する、「もしも私が中絶されていたら……」という前件の下に語られる言明の類である。これもまたある意味で無意味な言明である。胎児は未だ「私」ではなかったのだから、それが中絶されていたとしたら、そもそも話者である「私」は一度も存在しなかった。仮に、その胎児がすでに発話者と同じ「私」であったとすれば、これは殺された「私」が語るということになり、〈霊界からの通信〉の類と同じお話であるということになる。いずれにしても、存在している「私」にはそのような話者としての地位は与えられていない。
  一般に、存在者が非在者として語ることはつねに「騙り」である。もしも私が存在しなかったら、私はこう考えていただろうという言明は虚しい。だがそうした虚しい「騙り」が修辞として一定の力を持っているという事実をめぐって考えることは必ずしも虚しい作業ではない。すでに存在している者が、未だ存在しない者の立場から語ること(環境倫理学)や、生者が死者の名の下に語ることはどうなるだろう。
  以上は未だ練り上げられた議論ではなく、直観的な覚え書きである。ここから出発し、シンポジウムの主題と報告者の思考が交差する地点を見いだせればよいと思う。

*この報告においてなされた考察の続きは以下の著書で展開されています(立岩)。
◇加藤 秀一 20070930 『〈個〉からはじめる生命論』,日本放送出版協会,NHKブックス1094,245p. ISBN-10: 4140910941 ISBN-13: 978-4140910948 1019 [amazon] ※ b be


UP:20030925 *以下は立岩による
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