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「障害児の親」の身体介入

――形成外科治療のフィールドワークを手がかりに――
静岡県立大学 堀 智久
hori-027@abelia.ocn.ne.jp
第76回日本社会学会<福祉・保健・医療2>(2003/10/12 9:30-12-30)


1. はじめに(本報告の目的)

 1-1「障害児の親」の社会的位置付け
 「障害児の親」が1つの研究対象として、とりわけ近年わずかながらも、社会学の観点から社会的位置付けを論じるものがあらわれている。「障害児の親」は差別される対象であると同時に、差別する主体でありうることを「健全者の論理」から指摘した要田(1999)や、アイデンティティ論から「障害児の親」として「適切に」生きることが要請され、実際そのように振舞うことが存在証明なるとする石川(1995)、愛情規範論から障害児の「運命」=家族の「運命」として、家族の不遇は自明なものとされるという春日(1992→2001)などの説明がなされてきた。
 とりわけ、全身性の重度障害者における家族介助といった場合には、「暖かい家族」「家族のきずな」という家族定義によって、家族間に介助の介在する場において生じる問題が見過ごされてきた(土屋 1998)。また、家族内部の情緒的関係によって障害者と親が閉鎖的な空間を作らされてしまい、社会への窓口を失うことを回避する意思の現われとして、自立生活や脱家族という主張があった(岡原 1995)ことが確認されている。

 1-2子どもへの身体介入
 「障害児の親」(注1)の身体介入を軸にとった先行研究としては、自ら口唇口蓋裂の子どもをもつ中田(1994→2000)の研究があり、治療を通じての医療専門職と親と本人の体験の相違を表(注2)のようにまとめている。中田の身体介入モデルでは、医療専門職と親との権力関係に焦点を当て、親の葛藤や不安、情報の無知等によって、医療専門職との間に何重にも依存と服従の関係が作られるにも関わらず、親はその決定を自分で決めたものと「思い込んでしまう」という構造を明らかにしている。
 一方で、中田のモデルでは口唇口蓋裂の初回手術を念頭に置いているが、見た目の問題が中心となる口唇口蓋裂の修正手術や小耳症の耳介形成術の事例となると、この手術を「するかしないか」「どこまできれいにすべきか」については、個々の親の価値観「どれだけ子どもの見た目を重視したいか」によって変わってくる。また中田は「親の会」に参加する親は、偏りのない公正な医療情報を集め、自らの意思で治療の「自己決定」を行うべきだと主張するが(中田2000:208)、ここでいう「自己」とは、医療専門職もしくは社会一般との関係においての「自己」であり、子どもとの関係においてではない。

 1-3本報告の目的
 本報告では、「障害児の親」が子どもに対してなす、見た目を理由にした治療を事例として扱い、「障害児の親」が「どのようにして、子どもの身体に介入するのか」を注意深く見ていく。これによって、1つ目の視角からは、「障害児の親」の社会的位置付けとして、「障害児の親」には「温かみのある家族」としての介助機能が期待されたように、子どもの身体に介入することもまた、「温かみのある家族」として「障害児の親」に期待された行為であることを明らかにしていく。2つ目の視角からは、子どもへの身体介入として、医療専門職が「親の同意」「親の自己決定」を折り込みつつ治療を決定しているように、「障害児の親」もまた、「子どもの同意」「子どもの自己決定」を折り込みながら、身体介入を行っていることを明らかにしていく。つまり、「社会一般」「医療専門職」→「障害児の親」→「子ども」という三者間においては、中田の研究を合わせると、二重の権力構造と服従の関係による身体介入の政治が存在していることが示唆される。

2. 調査方法

 2-1調査概要:本論文で用いられるデータは、筆者が2002年1月から2003年5月まで継続して行ってきた聞き取り調査によるものである。基本的に、外形の障害をもつ子どもの親と子ども本人の計15人(うち、本報告での抜粋は母親4人、子ども1人)による聞き取り調査のテープ起こし記録、また「医者を囲む会」での子どもの作文による。
 聞き取り調査については、基本的に可能な場合には対象者の自宅で、そうでない場合には、落ち着きある静かな場所で一対一で行った。聞き取り調査が行われる前に、調査目的、調査内容、テープ起こしをしたものはすべて対象者に返送すること、またプライバシーへの配慮などの了解を紙面にて行い、承諾を得た。
 聞き取りの仕方は、自由回答法によっており、聞き手の側で状況や枠組みを設定することを回避するため、調査票は用いていない。おおよその質問項目としては、「子どもの治療」または「今まで受けてきた治療」を中心に、そこに至るまでの経緯や経験、将来の展望などについて伺った。聞き取り時間は基本的に2時間から3時間。
 2-2対象者:ここでの対象者は、外見の障害をもつ子どもの親と子ども本人であるが、本調査でのデータで取り上げられる外見の障害は、小耳症と呼ばれる耳介の形成異常の障害である。
 口唇口蓋裂の治療との一番の大きな違いは、生後の早い時期になされる機能回復を目的とした初回手術があるかどうかである。口唇口蓋裂の修正手術や小耳症の耳介形成術の治療選択においては、生後10年以上の期間が存在するため、この間に、口唇口蓋裂や小耳症の子どもをもつ親は、「親の会」で医者を招いて行う「医者を囲む会」等の勉強会に頻繁に参加し、最善の治療の選択ができるよう準備を整えていく。
 2-3対象者のサンプリング:対象者のサンプリングは、この「医者を囲む会」に参加した親や子どもを中心に、聞き取り調査の依頼を行うことによっている。したがって、対象者のサンプリングは、きわめて、その「医者を囲む会」というフィールドの特質そのものに規定されている(注3)。

3. 調査結果の分析

 3-1前向きであること/身体介入
 (1)親役割の要請
 「障害児の親」にとって、子どもを生みそれが障害児だとわかるやいなや、その時点から「障害児の親」として生きることを要請される。これは出産の場を乗り切ってもなお、日常生活のなかで、執拗なまでに追いかけられるものである。周囲は「障害児の親」として「愛情深い親であること、子どもの育児と世話に責任をもつ親であること、子どもが社会の迷惑にならないように子どもの監視を怠らない親」(石川 1999:36)であることを求めてくる。

 保健所っていうか、先生とかどこでもそうだもんね。検診あるとき、ここ3ヶ月検診、4ヶ月検診なんだけど、行った時に、「質問ありますか」という質問事項があって、私は上の子とかも帰ってくる時間があるもんで、「ありません」って書くんだけど、小耳症なんで必ずまわされる、個別相談に。「病院行ってますかぁ?」ってすごい暗い顔で、「大丈夫ですか、お母さん」って言われるんで。「そういう人[小耳症の人]がいたら紹介してください」って言ったんだけど、「5年間、いないですねぇ」って。こういうので見せるのが嫌な人は連れて来ない人もいるんだって。95%しかこないから、5%来ないから、すごい重い病気の子とか、そういうちょっと、親が連れてきたくない人はこんもんで、「そういう中にいるかもしれませんけど」って言われた
〔ここで検診とは母子保健法にもとづく「健康診査」を指している〕

 子どもに障害があったために個別相談にまわされ、「すごい暗い顔で、心配された」という体験が語られている。出産の場に限らず医療に関わる場では、身体的形質がことさらに取り出されることになるため、また医療的配慮という名目があるばかりに、「不幸な、かわいそうな親」としての見方を押し付けられやすい。
 またこのような親の相談にのることが業務となっている公的な場において、「きちんと病院行っているかどうか」をたずねることは、一般社会から期待されている「障害児の親」の役割がどのようなものかを伝える機能を果たしている。すなわち、「子どもの身体について責任をもち、管理しなくてはならない」という「障害児の親役割」であり、これが専門職の振りかざす専門性によって押し付けられている。このように「障害児の親」として、子どもの身体に責任をもつよう教えられるのは、なにも医療の場に限ったことではない。

(2)感情管理役割
 「きずながある」家族が介助を行うこと、とくに女性がその役割を担うことが当然の前提とされた(土屋1998)ように、子どもの身体に介入する「障害児の親役割」もまた、とりわけ母親に要請されている。
 「障害児の親」役割は、「家庭内で生じた諸問題(子どもの障害の問題をも含む)を前向きに処理していくこと」といった既存のジェンダー役割と結びつけられて、母親に対して偏向して帰属される。母親には、子どもの障害の問題も含めて、家庭内を明るく演出すること、つまり「感情管理(emotional management)」(Hochschild1979)――自分の内的な状態に対して、望ましい/望ましくない感情を喚起/消去する営み――が、障害児の親役割として要請されるのである。

 落ち込んだのはほんのちょっとの間、一日もかからんかったと思う。まあ、見るたびに「あー」って思ったけど、みんな泣いたっていうけど、あんまり泣かなかったかもしれない、私。落ち込んでいても仕方がないと思って、上の子2人いるし、私が落ちこんどったら上の2人困っちゃうし。この子だって困るかなって思って、落ちこんどらんないなぁって思って。病院を先生探してくれているけど、自分でも探したりとか、前進というか、前向きな行動をとるしかないと思って、落ちこんどってもなおらんじゃんって思って、そんな落ちこんどっても仕方ないと思って。
 お父さんはショックだったみたい。自分の親にもすごく暗くショックだぁって電話したらしいんだけど、旦那のお母さんも、「そうか、そういう子もおるよね」って言っただけなんだって。私もだけど、お母さんもそんなに気にしてなかったみたいなんで、「それに救われた」って言っとったけど

 母親には「障害児の親」役割として、「落ちこんでいられない」、他の子どものためにも「前向きな態度」をとっていくこと、障害の問題など何事もなかったかのように「平穏に繕う」こと、つまり、家庭内部を温かみのある家庭として演出する「感情管理」が求められている。この母親による感情管理によって、家庭内が明るい安らぎのある雰囲気に醸し出され、子どもの障害といったシビアな問題は無効化される。母親には感情管理によって、家庭内で起きている諸問題を前向きに整理し、切りぬけていく推進主体としての役割が求められている。
 一方で父親は、この母親による感情管理によって救われる立場、いわば、生産物の消費者であるかのような位置付けである。父親の「自分の親の前向きな反応に救われた」という語りからわかるように、「感情を作り出す」という視点から捉えれば、先の「親の障害受容研究」(注4)は、母親に家庭内を明るく演出する役割が求められていること、そのことにあまりにも鈍感である。むしろ、親の障害受容研究は、実のところこの母親の感情管理としての役割を母親個人の「適応」「再起」といった本質的な問題として書き換えることによって、それ自体が社会的に求められる役割であることを隠蔽してきた可能性がある。

 (3)身体介入役割
 「障害児の親」にとって、「家庭内を明るく演出すること」という感情管理の役割のほかに、もうひとつ重要な役割が、「障害をもつ子どもの身体に積極的に関わり、制御し管理しようとする」役割である。つまり、子どもの身体に対して積極的に介入すること、身体介入である。後者は前者の証明手段であると同時に、感情管理が家庭という空間全域に働きかけ間接的に問題の無効化を図る作業であるとすれば、身体介入は、子どもの身体に直接的に働きかけることによって、問題の根本を除去しようとする作業でもある。本論文で取り上げられる、親による子どもの見た目を問題にしてなされる形成外科手術は、この「子どもの身体を制御し管理する」という身体介入の役割として存在している。
 「障害児の親」にとって、子どもの身体に介入することの方向性が確定されることは、確かな安心感をもたらせる。母親にとって、それが愛情を感じていることの証明手段としてあることと同時に、感情管理の実践は間接的にしか問題解決の糸口を与えないのに対して、身体介入の計画が定まることは、問題の解決の糸口をはっきりと示してくれ、家庭内で生じている問題を根幹から除去してくれるように思われるからである。

 耳をつくるつくるって言ったって、どうやってつくるんだろうって思ってたんですけど、8月くらい、新聞で埼玉でF先生の記事が載っていたんですよね、それを誰かが教えてくれたんですよ。ウチは違う新聞だったんで、販売所までね、暑いさなかだったんですけどね、もう必死でね乳母車押して、30分くらい歩きましたね。買いに行ったの、その新聞欲しさに[笑い]。となりのセブンイレブンまで最初行ったんだけどそこは売り切れていて、そのときはもう、すごい形相で買いに行ったらしいですよ、後から奥さんに、あの時何かあったんですかって言われたくらいで。次に、販売所に電話して見ようと思って、販売所にあるって言われたんで、もう、電話切って、暑い炎天下の中、ほんとあの子も寝てたんですけど、乳母車押してずーっと歩いて、だからあの新聞捨てられないんですよ、ほんとに

 「手術できることが支えになった」「治療の記事欲しさに炎天下のなか買いに行った」というそれぞれの語りは、「手術して治すことができる」と親が認識することが、どれほど親に安心感をもたらすかを明らかにしている。親の務めを果たすにあたって、子どもへの治療の方向性が明確にされることが、宙ぶらりんの状態で不安を抱えていることからの離脱として、確かな問題解決の糸口を示してくれるように思われるからである。
 こうしていったん、子どもへの治療の方向性が決定されれば、多数回長期にわたる治療であるために、その治療を中心にして子どもの進路等が決められていくことになる。障害児の親にとって、医者の選択など含めた治療計画は最大の関心事であり、親同士が集まれば、このことが必ず話題にされる。

母親:O先生はここの中の耳の部分も使ってくれるっていうんですけど。
堀:あー、そこでするんですか。
母親:いや、どこでするかは決まってないんですけど、Y先生のところに行っちゃうかもしれないし。〔肋軟骨を採取する時にできる胸の〕傷が小さいと聞くといいかなって思って。
堀:N先生もそうだって言ってましたね。
母親:N先生の時の傷跡もみせてもらいたいなぁと思って。N先生のほうが近い、N先生は患者の要望聞いてくれないって言ってたから。
堀:あー。そうね。
母親:N先生のところ一度行くかもしれない。いろんな先生に会ってみて、インスピレーションが大事かなって

 ここでの語り手と聞き手(筆者)の「どの医者がよいか」についてのやりとりでは、(引用した部分だけでも)3人の医師が比較されている。このようにいろいろな医者を品定めすることができるのは、今日、インターネットや親の会などで情報を得やすくなったことが背景としてあるだろう。また、形成外科手術のように、見た目が問題となっている場合には、素人でも医者の技術差が確認できてしまうということも手伝っている。カリスマ的医者の場合には、10年後まで予約が埋まっているということがあったりして、「障害児の親」は、子どもが外形の障害を持って生まれたとわかるやいなや、その治療目標に向けて着実に準備を整えていくのである。
 (4)感情管理と身体介入の結びつき
 このように「障害児の親」にとって、子どもへの身体介入の役割は、そこに至るまでの過程までをも含めて、手落ちなく果たすべき重要な役割としてある。だが実際には、子どもの治療は必ずしも、計画どおりに進むとは限らない。むしろ、治療の結果具合によって順調に進まないことはざらにあり、子どもの治療にかかる負担は、あらかじめ予期していたよりもはるかに増大してしまうことがある。

母親:久々の手術なんで、いや久々でもないですね、溝取ったのが去年なんで、全身麻酔5回、もっとかな、細かいの入れると数え切れないですね。いつも思うのはやって無駄なことはないって、必ずどんなことだって無駄なことはないし。それは残念だと思うか、いい経験だったと思うかの違いで、子どもがかわいそうだと親が思ったら、かわいそうな子でしかなくなっちゃうから。お母さんの言葉がけ一つで、まず受け止めて、「でも○○だったよね」ってそうやって言えば、どっかで子どももそうだよなぁって言って終わるから、絶対それは私は必要なことだと思うんです。実際そうやってきたから。
堀:そうですか。[考えをめぐらし、頷くことを忘れる。長い沈黙と気まずい雰囲気]
母親:ウチの子はちょっと諦めが強かったりね、ちょっとあるんで。私ね、ものごとをいつもよかったよかったで終わらせようとするんですね。あの子はなんだか逆みたいでね、あの子はいつも、「なんとかだった、なんとかだった」って甘えているのかもしれないんですけどね。私がすぐ話をすり変えて明るい方向にもっていっちゃうのが逆にイヤみたいで、しらじらしいのかもしれない。あれですね

 医者は手術の説明をするにあたって、「うまくいけば、何回で終わる」という情報を親に与えるが、それはあくまでも「うまくいった場合」であって、実際には治療にかかるコストがあらかじめ確定されているわけではない。また一度支払ったコスト(手術だけではなく、通院などそこに至るまでの膨大なコスト)を水の泡に帰するのは、とても勇気のいることである。さらに、多くの医者は、「もう一度手術すればよくなる」といった期待をもたせがちであるため、多くの親はその治療どれだけ客観的に見て不確かであっても、その場から降りることができないものである。こうして、もともと予定していた何倍以上ものコストを再投資することになってしまうことがある。
 といっても、実際にその追加コストを直接的に支払うのは、もちろん親ではない。親自身が子どもに代わって、治療を受けるわけではないのである。親が子どもへの身体介入を押し通していくためには、親はそれとは別の支払手段によって、つまり、家庭内を明るく演出し、起きてしまった問題を無効化するという作業よって、身体介入の不全を補完する。
 語りでも、あったことを「やって無駄なことはない」と前向きに整理すること、これを「親の務め」として、自信をもって実践してきたことが語られる。子どもの治療が計画どおり進まないと、今回の治療はけっして無駄なことではなかった、よい経験だったと、子どもに言い聞かせてきたのだという。
 一方で、聞き手である筆者は、その親の実践の仕方に対して、意図せず頷くことを忘れてしまい、あまり乗り気になれない反応を示してしまっている。この調査者の礼儀正しくない対応によって、「明るい方向にもっていっちゃうのが、子どもにとっては逆にイヤみたいで、しらじらしいのかもしれない」ということが吐露され、自らの実践に対する懐疑が表出されるに至っているのは、語りのあり方としては、示唆深い。
 ここでいう、子どもが「しらじらしい」と感じてしまうこと、「知っていて知らないふりをしている」ように感じてしまうこと、その「知らないこと」とされる知識とは、もちろん「治療に費やしてきたコスト」に他ならない。母親による感情管理によって、この「治療に費やしてきたコスト」が「大したことがないコスト」に変換され不可視化されること、これと同時に家庭内の差異や葛藤が抑圧されるのである。感情管理が身体介入を補完するなかで、家庭内部が「親密圏を深刻な葛藤や抗争のない安堵の空間(home)」(斎藤2000:140)として描き出されるなかで、それと引き換えに、子どもが体験したこと感じたことが奪われていく。

 3-2抵抗/消去

 (1)身体介入への抵抗
 子どもに対して「障害児の親」がとる役割には、積極的に「管理しようとすること」「制御しようとすること」という側面をもつ一方で、それに対してブレーキをかけようとする態度もないわけではない。子どもを「あるがままを受け止めたい」「受け止めなくてはならない」と言われるとき、これが母親としての行為規範(注5)として機能している可能性がある一方で、「制御してはならない」という感覚、子どものあり方を奪ってしまうことの抵抗の感覚として語られることがある。

 形成の方はずっとやりたいと思っていたんですけれども、いざやる直前になって、ちょっとなんというか、こうやって変えてしまうというのはいいのかなって、そういうふうに急に思った時期があって、やっていいのかなって思ったことがあったんですよね。なんかそれをこう、正直やっぱり親の欲望とかそういうことで、見た目とかそういうのを優先したくて変えるというのはどうなんだろうな、それは「あるがまま受け止めているのとは違うんじゃないかな」って思ったんですけど。相談して、親として選んだ道ならいいんじゃないですか、おっしゃってくださって。やっぱり治せる手術と治したくても治せない手術ってありますよね。この子の場合、選べるんだから、やらせてもらおうじゃないけど、そういう気持ちで最終的には臨んで

 この語りの中では、子どもの手術直前になって「あるがまま受け止めていないのではないか」「親の欲望によって変えてしまってよいのか」という悩みを抱えてしまったことが語られている。これは「子どもの身体を管理すること、制御すること」という「障害児の親役割」への懐疑、抵抗の感覚である。形成外科的な手術が、見た目を問題にしてなされるため、障害児の親自らの個人的な価値観をどうしても自覚せざるを得ず、「親の欲望によって変えてしまってよいのか」という抵抗感を感じてしまったのである。
 このような障害児の親役割である「子どもの身体を管理すること、制御すること」といった身体介入役割への抵抗を、どれほど多くの親が痛感しているのかは、正直、筆者にはまだよくわからないところである。だが、次に見るような、身体介入を貫徹するための実践を見る限り、これほどまでに手の込んだ親同士の連携作業があって、このような作業を経由しなければならないほど「障害児の親」は追い詰められているのではないか、と考察することはできる。

 (2)抵抗を消去する3つの技法
 子どもへの身体介入は、その介入の特性として、その介入の達成が裏切られる可能性がないという意味で、つまり子どもが完全に客体化されてしまうという意味で、特有の問題を孕んでいると考えることができる。子どもに向けてなされる介入の多くにおいては、たとえば、子どもに勉強を強要する親は、決まってその期待が裏切られるという幸運さが、その介入のうちに内蔵されている。この点、身体介入における親の介入は、「制御すること」と「制御しようとは思わないこと」の両者の矛盾が、顕著に現れてしまうのである。
 (@)「認識的な操作(Hochschild1979)」: この矛盾を解消し、子どもへの身体介入を貫徹するためには、一方の「制御することをためらうこと」という感覚を鈍化させ、消去することが求められる。そのための1つの手法が、子どもの障害を、あらかじめ子どもの外部に置くという認識的な操作である。子どもの障害をあらかじめ子どもとは切り離しておくことで、身体介入は、子どもに介入するのではなく、あくまでも子どもの付属物に介入するにすぎないと捉えることが可能になるのである。

 この子にそういうふうに言われたら[どうして耳がないのか聞かれたら]、お腹の中で怪我したんだよいうことと、大きくなったら手術して治すんだよって。そういうことだけは幼稚園では言えんくても、小学校入るくらいにはそれを言えるように、しとかんといかんなぁって思うんだけど

 この親が子どもに障害を説明するときになされる「お腹の中で怪我した」「大きくなったら手術して治す」という言い方は、親同士の間でよく用いられるレトリックとして存在している。「お腹の中で怪我した」という言いまわしは、子どものデフォルト値として「健常の状態」が設定されており、その上で、「大きくなったら治す」は、「一時的な状態として、障害が子どもに宿っているにすぎない」という、意味合いが含まれているのである。
 これらの説明は、子どもの障害を子ども自身からあらかじめ切り離しておくことによって、「介入すべき」対象を障害のみに限定させ、子どもには介入しないというやり方によって、つまり、制御の照準をずらすことに意義があるものである。この「お腹の中で怪我した」「大きくなったら手術して治す」という両者の説明は、同時に用いられることによって、子どもの障害を認識的にあらかじめ外部化しておき、親の身体介入を正当化しているのである。
 (A)情報を包囲する: 子どもの身体に「介入すること」と「介入してはならないと思うこと」の矛盾は、子どもに対して直接的に強制するのではなく、治療の環境を整えることによって、それとなく促すという戦略を導く。小さい頃から、治療の情報を継続的に与えたり、医療機関に頻繁に通うなかで、治すことを暗に勧め、「見た目をきれいにした方がよい」という価値観を教え込む。子どもの周囲に治療の情報を張り巡らすことで、子どもに主体的に治療を選び取ってもらおうとするのである。

 ドタキャンはできるけど、急に「僕が手術をしたい、お耳が欲しい」って言った時に、一番いい病院ってすぐにはわからなかったりするから。だから一応こう、外堀っていうか、私にできるだけのことはしておいて、ほんと手術前になって、「僕このままでいい」って言ったら、まあそのままにしてもいいし、そういうふうにしてもいいかなぁって思うけど。親としたらやれることっていったら、情報収集して、いい病院はこことか、ここが駄目ならこことか、そのぐらいはやっといて、一応ツテも作っておいて、手術できるように

 だが実際には、何か治療法があるという事実だけではなく、それをした方がよいという規範的なことが教えられているのではないだろうか。「情報を集めたり、ツテをつくる」という作業は、それ自体は、情報や人脈があること以上のものではないにしても、やはり「情報を集める以上のこと」として、子どもはその親の期待を汲み取らざるを得ないものである。
 (B)子どもに身体介入を語らせる: 「医者を囲む会」では、一方的な医者の治療の説明だけではなく、たとえば、その医者のもとで手術を終えた子どもが、その経験を作文にして、多くの親の前で読み上げる(読み上げさせられる)というのがある。このような語りの様式の設定は、参加者である親たちの身体介入の抵抗を消去させるものとして意義がある。

 僕は小さいころから、早く耳の手術をしてもらいたいと思ってきました。たぶん4、5才くらいの時からです。だって、みんなと同じようになりたかったからです。でも、あと1週間ぐらいで手術となったら、急に怖くなってきて、手術のことばかり毎日考えるようになりました。そのときお母さんが、「どうする? やめてもいいよ、手術」といったので、「冗談じゃないよ、やめるもんか!」と、僕は思いました
 僕は自分という人間に耳がなくて良かったと思います。それは神様が僕に耳のない人たちの気持ちを経験させて、もっと困っている人たちのために役立つような人になれ」ということなのかと思います。僕は将来、お医者さんになるつもりです[終わり]
[100人もの親の前で、小学4年生の子どもが読み上げた作文。この会の終了後、この子どもとは直接対話する機会を持ち、作文がどういった経緯で書き上げられたのかを聞いたりした。]

 親が手術について「やめたいならばやめてもよい」という、あくまでも中立的な態度を示すのに対し、子どもは自ら強く「手術をしたい」という意思を語っている。このような語りの様式の設定によって、身体介入は本来的に介入ではないことが証明される。身体介入の主体を親から子どもへ移動させることによって、親は「あるがままを受け止める」という態度を保持したまま、身体介入を実践することが可能になるのである。ここでの意思決定の尊重は、子どもの周囲にどれほど身体介入の情報を張り巡らし教えてきたかは問題ではない。
 このような相手の自己決定を折り込みつつ、自らの意思のもとに服従させる手法は、中田(2000)のいう医療専門職と親との関係と構造的には何も変わらない。医者が「親の同意」「親の自己決定」を折り込みつつ意のままに治療を決定するのと同じように、親もまた「子どもの同意」「子どもの自己決定」を折り込みながら、身体介入を行っているのである。
 このコミュニティを代表して語られる語りは、その成員間で強い反応が示された言葉や象徴群として、コミュニティ成員の抱えている困難を統括し、解決指針を与えるものとして、汲み取られなくてはならない。「障害児の親」は、このような場に参加することによって、身体介入の実践を貫徹させるための準備を整えていくからである。
 本来、親同士が集まる場は、親役割が期待されない悩みを打ち解け合える関係が保障される場として、心の安らぎの場として重要な機能を果たしている。また個々の親が、子どもの障害に関わる悩みを吐露することによって、障害児の親が社会の周縁的な位置付けに置かれていることを確認させられるようになる。親の悩みが共有されることは、親の抱えている問題がけっして個人的な問題ではないことを明らかにし、そのような悩みを生み出している社会構造そのものが、社会の差別性を示すものとして逆照射される。
 だがしかし、このような親役割を背負う者同士の承認関係が成立することは、だからといって、自らの担いかつ実践する「障害児の親」役割そのものまでもが可視化されることを意味しているわけではない。つまり、親たちの抱えている問題が、同成員との承認関係によって可視化され、それが社会的排除力を示すものとして問題化されたとしても、親自らが社会的エージェントとして担っている行為についてもまた、排除と差別の可能性を孕んでいることまでは言われない(言うわけにはいかない)のである。それどころか、親自身が身体介入の直接的な実践者である以上、「医者を囲む会」には「障害児の親」の連帯によって、個々の実践に正当性を付す機能が期待されてしまう危険がある。このことは、上の子どもの作文で、はっきりとあらわれている。
 (3)周囲による再生産
 このような身体介入を正当化してしまう可能性のある装置は、何も障害児の親のみによって望まれて作られるものではない。現実として、「障害児の親」は周囲から常に障害児の親として適切に振る舞うように期待されているのであり、周囲の目から見て、親が熱心に「医療の勉強会」に通うことは望ましいことなのである。つまり、障害児の親の周囲からは、「医療を目的としない親の集まり」よりも「医療を目的とする親の集まり」への参加の方が、受けがよい。障害児の親の「医療の勉強会」の積極的な参加は、これを裏で支える人が存在し、事実上、そのような場にしか参加させてもらえないことによって、再生産されている。

母親:長崎[で行われた形成外科学会]行ったのはねぇ、長崎のみんな[語り手出身:愛知県]にも会いたかったのと、観光行きたかったのがあって、一泊して観光してきたんだけど、なんか[行った動機が]、観光がこのぐらい[両手幅]で、みんなと会うのがこのぐらい[両腕を広げた幅]、学会がこのぐらい[人差し指と親指幅]。
堀:学会は、資料見せてもらったけど、かなり、ウルトラマニアックな内容じゃないですか。
母親:あのねぇ、N先生の内容はわからんかった。[笑い]何言っとるかわからんかったんだけど、みんなと会ったのがすごい嬉しくて、Sさん[別の親]に会ったから。ついでに観光も行って、Sさん、長崎の人なので、ずーっと車に乗って連れてってもらったり。この子のお耳をきっかけにというか、長崎の学会もこんなことがないと長崎行けないって、そういうことがなければ親も来てくれないからさ。親が来てさ、子どもたちもみててくれたからさ、そんなことでもないと頼めないもんで、お耳のおかげで楽しませてもらってるって感じ。

 「こんなことがないと長崎行けない」「子どもたちを面倒みてくれるよう頼めない」という語りは、治療を目的とする勉強名目だからこそ、子どもを自分の親に預けて、他の親と交流を深めることが許されることを示すものである。ここでの障害のように、地域に同じ障害をもつ親を探すのが難しい場合には、親同士で交流するには、週末など人の手を借りる必要がある。たとえば、親戚に子どもを預けたり、夫に車を出してもらって長時間運転してもらったりという協力である。
 このことは、親同士の交流が、周囲によって無条件には支持されない、親もまた気兼ねしてしまいやすいなど、それ自体の意義があまり評価されていないことを示している。実際、これらの周囲の協力は、周囲との利害関係が一致したとき、つまり、治療に関する勉強会を名目として参加することで、「障害児の親」役割を引き受けることと引き換えに与えられている。親たちは、交流する機会を持とうとするとき、「子どものため」という名目を探しながら、それが周囲に身勝手な態度に見られないように、つまり愛情行為であるかのように努めているのである。

4. おわりに(本報告の結論)

 本報告では、見た目を理由とした治療を事例として取りあげ、障害児の親が「どのようにして、子どもの身体に介入するのか」を考察してきた。
 1つ目の視角である「障害児の親」の社会的位置づけという観点からは、子どもの身体に介入することもまた、「障害児の親」に期待される行為であることを考察した。「障害をもつ子どもの身体に積極的に関わり、管理し制御する」という役割が、とりわけジェンダー役割との結びつきのなかで、母親に強く要請されている。母親による「家庭内で生じた諸問題を前向きに整理し、明るく演出する」作業によって、治療が順調に進まない場合など、予想していた以上に費やしたコストが無効化され身体介入の不全が補完されるなど、身体介入のために重要な機能を果たしていることが示された。
 2つ目の視角である「障害児の親」の身体介入という観点からは、中田のいう医療専門職等だけでなく、「障害児の親」もまた身体介入を達成するために、子どもに対して政治的に関わることを考察した。「障害児の親」は、身体介入に関わる「子どものあり方を奪ってしまうことの抵抗」を消去または鈍化させるために、「認識的な操作」「情報の包囲」「子どもに語らせる」といった実践を、ときに親同士の連携作業によって行なっていることが示された。
 最後に本報告を踏まえて、基本的なところに立ち返るならば、見た目を理由にして子どもの身体に介入することは、何のために誰のためになされるのか。外見の障害による「生きづらさ」があることは事実であるが、それが周囲の無配慮によって作られてきたこと、「治療をせずには生きていけない社会はよい社会ではない」ことは強調してもし過ぎることはない(注6)。また一方で、「障害児の親」が結果的に引き受けることにならざるを得ない身体介入役割が、周囲から期待される愛情行為として存在し、「身体介入をしなければ、愛情を疑われる社会もまた、よい社会ではない」ことが問題にされてよいだろう。
…………………………………………………………………

注釈
(1)外見上の問題を障害と捉えるかどうかは、論者によって見解が分かれる。筆者は「その人だけに現れる」のか、「他人の価値を介する」かによって苦痛を二分し(立岩1997:405、413)、後者を「障害」として定義するのであれば、外見上の疾患による苦痛のほとんどは、「他人の価値を介するもの」「他人の配慮のなさによる」ものであり、ゆえにこれを「障害」であると捉える。なお、法制度的には基本的に、障害者扱いされない。

(2)
中田による身体介入モデル(専門職・親・子どもの体験の相違)
医療専門家の体験 親の体験 本人の体験
授乳方法の指導産科の医師として喜ばれないことの残念さ親の心理的葛藤に対応できないしんどさ医療に関する情報提供親を支配     ←口唇裂の手術に関する情報提供と術前指導手術親を支配     ←親を支配     ← 授乳の難しさ拒否・怒り・罪障感・なぜ自分に・子どもが可哀想という心理的葛藤↓この自分の葛藤の体験は子どもも同じように体験していると思い込む(こどもとの一体感)口唇口蓋裂の医療に関して無知なために生じる混乱他者(親族を含めて)には知られたくない−事実を隠す↓孤立・情報の入手困難紹介された医療機関に従う↓専門職への感謝と依存手術への不安看護上の身体的・精神的負担手術結果への満足・不満足戸外へ連れ出せるようになる↓専門職への一定の感謝と依存社会の価値観の踏襲権威者に従うのが安心↓専門職への依存と服従 乳を飲みにくい養育者の心理上の不安定に伴う安定の欠如親になされるまま他者とのふれあいが少ない親の決定のなすまま手術に伴う苦痛口唇の縫合に伴う不快感他者とのふれあいが増す親の決定のなすまま
(中田2000:185)

(3)筆者は「医者を囲む会」を、「親の会」で医者を招いて企画される「医療の勉強会」として位置付けている。小耳症の耳介形成術や口唇口蓋裂の修正手術の事例では、医療専門職と親の会との関連は、他の障害に比較しても濃厚であり、セルフヘルプグループ全体が、医療専門職に依存してしまう危険が強い。専門職との関係からセルフヘルプグループを分類したものとして、アダムズ(1996)や中田(2000)の分類があり、これらは個々の「親の会」が極めて均質的で一般的な機能を有するものと論じられることが多いなかで、極めて意義のあるモデルである。また、個々の親と医療専門職との関係について言えば、親の会自体はきわめて「自律的な」グループであったとしても、「個々の親」が、医療専門職との関係において自律的であることを意味しない。医療情報だけを求めて参加する親は多い。

(4)たとえば、「悲嘆の過程論」(Klaus,M.H..and Kennell.J.H 1985、2001)があり、ここでは、「障害児の親」こそが取り出され、周囲から切り離されたところに彼女ら固有の問題を浮上させる。このような「子の不幸」=「親の不幸」を自明視した議論は、母親に「障害児の親」としての感情管理が期待されていること、そのような社会のあり方に鈍感である。このように母親の内的問題として取り扱うことが、その態度が誰によって求められ、どのような効果をもっているかを不問にしてしまう危険がある。

(5)確かに、母親の「子どものあるがままを受けとめる」という語りは、語り手と聞き手の相互作用のなかで、語り手の母親として期待される適切な態度を演じようとすることの結果によるものかもしれない。もしこの語りを、母親としての規範的な語りとして機能していると考えるのであれば、「介入すること/あるがままを受け止めること」の2つの役割は互いに矛盾する価値として、だが補完する関係として、再生産労働領域に同時に組み込まれていることになるだろう。だがそれでも、この感覚の所在の分岐を見積もったとしても、この「制御してはならない」という抵抗への消去、親役割実践の貫徹を語りの中から汲み取っていくことは可能である。

(6)日本で活動する外見上の障害をもつ人のセルフヘルプグループとして、NPO法人ユニークフェイスがあり、外見上の生きづらさに関わる差別問題を社会に訴えている。なお、彼らは筆者のように外見上の問題を「障害」と定義しているわけではなく、顔のインペアメントを指して「ユニーク・フェイス」と自己定義している(松本2000)。

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引用文献
Adams, R., 1996, Social Work and Empowerment, Macmillan
Hochschild, A. R., 1979, Emotion Work, Feeling Rules and Social Structure. American Journal of Sociology, 85, 551-575
石川准, 1995,「障害児の親と新しい親性の誕生」井上眞理子・大村英昭編『ファミリズムの再発見』世界思想社
石川准, 1999,「障害児と家族−愛と努力の物語を相対化するプロセス−」渡辺秀樹編『変容する家族と子ども』教育出版,107-125
春日キスヨ, 2001,「障害児問題からみた家族福祉」『介護問題の社会学』岩波書店
Marshall H. Klaus,John H. Kennell, 1985, 『親と子のきずな』竹内他訳 医学書院
Marshall H. Klaus,John H. Kennell, 2001, 『親と子のきずなはどうつくられるか』竹内徹訳 医学書院
松本学2000「隠ぺいされた生きづらさ――『ふつう』と『ふつうでない』の間の容貌」『看護学雑誌』5月号医学書院 407-412
中田智恵海, 1994, 「セルフルヘルプグループ(家族の会)の機能と専門職との関連」『ソーシャルワーク研究』Vol.19 No.4 相川書房
中田智恵海, 2000, 『セルフヘルプグループ―自己再生の援助形態』八千代出版
岡原正幸, 1995, 「制度としての愛情――脱家族とは」安積他『生の技法−家と施設を出て暮らす障害者の社会学』藤原書店:75-100
斉藤純一, 2000, 「集団と所有――生の所有から生の保障へ」大庭・鷲田編『所有のエチカ』ナカニシヤ出版
立岩真也, 1997, 『私的所有論』勁草書房
土屋葉, 1998, 「〈家族のきずな〉とケアに関する一考察−全身性障害者の「語り」を読み解く」『国立婦人教育会館紀要』第2号[47-56]
土屋葉, 2002, 『障害者家族を生きる』勁草書房
要田洋江, 1989, 「親の障害児受容過程」1989藤田弘子編著『ダウン症児の育児学』同朋舎出版
要田洋江, 1999, 『障害者差別の社会学』岩波書店


UP:200311102
日本社会福祉学会  ◇障害学  ◇全文掲載
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