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「インフォメーション・ディバイド」と知的障害者のエンパワメント

第16回アジア知的障害会議基調講演原稿(日本語版)
2003年8月21日
福島 智(東京大学先端科学技術研究センターバリアフリー分野助教授)
英語版



  みなさんこんにちは。アジア各国からお集まりの知的障害者関係のみなさんと今日一同に会することを、とてもうれしく思います。
  21世紀を迎え、私たちはますます多様化し、複雑化する高度情報技術社会、つまりIT社会で生きることを要求されています。しかし、ご承知のように、この「インフォメーション」へのアクセスやその利用に困難を抱える人には、デジタル・ディバイドという問題が指摘されています。つまり、ITを利用する上でコンピュータをはじめとする情報機器の操作や活用、たとえばコンピュータへの情報の入力と出力を行う上での「読み書き能力」、つまりコンピュータリテラシーなどに大きな格差が生じてくるという問題です。
  しかしながら、私は知的障害者を含む多くの人にとって、こうした操作性、あるいは機能面でのデジタル・ディバイドだけでなく、いわば「インフォメーション・ディバイド」とも言うべき構造的な問題が生じて来るのではないかと思います。
  たとえば、視覚・聴覚の重複障害によりあらゆる情報の入手に困難を抱える私のような盲ろう者に対して、知的障害者は、入手した情報の処理や利用に困難を抱えているという特徴の相違はあるものの、この「インフォメーション・ディバイド」の問題は共通しているように思えます。どうすればこの困難な問題に対応して行けるのでしょうか。私自身の体験も踏まえつつ、情報とコミュニケーションをキーコンセプトとして、この問題を考えてみたいと思います。まず、私自身の体験をご紹介したいと思います。
  私は9歳で失明し、18歳で失聴した全盲ろう者です。私が盲ろう者となったのは今から22年前、ちょうど国際障害者年の年である1981年のはじめのことでした。
  そのときまで私は全盲だったわけですが、全盲の生活と全盲ろうの状態とはまるで違うということに、私はそのとき気付きました。
  18歳で全盲の状態から盲ろう者になったとき、とてつもなく大きな衝撃を私は受けました。それは私の周りからこの現実世界が消えてなくなってしまったような衝撃でした。
  言い換えれば、それはまるで、この地上からちょうど地球の「夜の側」の宇宙空間、つまり、太陽の光がとどかない暗黒と真空の無重力の宇宙空間に放り出されたような感覚でした。私は絶対的な虚無と孤独感を味わったのです。
  なぜ盲ろう者になったとき、私はこれほど大きな衝撃を受けたのでしょうか? それは夜空の星や海に沈む夕日といった美しい風景が見えなくなったからでしょうか? それとも、朝、目覚めたときに窓から流れてくる小鳥たちの歌声やオーディオセットから流れるバッハやモーツァルトの美しいメロディが聞けなくなったからでしょうか。
  私はこれらの問いにいずれも「ノー」と答えます。もちろん、「風景」や「音楽」が感じられなくなったことも寂しいのは確かです。しかし、私に最も大きな苦痛を与えたものは、見えない、聞こえないということそのものではなく、他者とのコミュニケーションが消えてしまったということでした。
  私は驚きました。他者とのコミュニケーションがこれほど大切なものであるということをそれまで考えたことがなかったからです。私は深い孤独と苦悩の中で考えました。「人は見えなくて、聞こえなくても生きていけるだろう。しかし、コミュニケーションが奪われて、果たして生きていけるのだろうか」と。
  このように、私は絶望の状態にありましたが、その暗黒と静寂の牢獄から解放される時がやってきました。その解放には三つの段階がありました。第一はコミュニケーション方法の獲得、私の場合は新しいコミュニケーション方法の発見でした。つまり、「指点字」という新しいコミュニケーション法が母によって発見され、私は再び他者とのコミュニケーションをとり戻すことによって、生きる意欲と勇気がよみがえってきたのです。
  私にとっての解放のための第二の段階は指点字という「手段」を用いて実際にコミュニケーションをとる相手、身近な他者に恵まれた、ということでした。そして、第三の段階は、「通訳」というサポート、私にコミュニケーションの自由を保障してくれるサポートを安定的に受けられる状態になった、ということです。
  こうしたみずからの体験をとおして、私は障害者の解放、すなわち自立と社会参加にとって大切なポイントは三つあると考えています。
  その第一は、生きるための基礎的な手段を提供し、生きるうえでの意欲と勇気を障害者一人一人がもてるように励ますことです。このポイントには、教育やリハビリテーションの取り組みが含まれます。
  第二のポイントは、こうした手段を駆使して、障害者が生活していくうえで、実際に接触する身近な他者が協力する、ということです。とりわけ、同じ障害をもっている仲間の協力は大変有益です。このポイントには、当事者や家族の自助的取り組みや市民の差別的な意識の改革、といった取り組みが含まれるでしょう。
  そして、第三のポイントは、障害者一人一人がみずからの幸福な人生を追求することを支援する仲間を安定的に支えるための、社会の法制度的な枠組みです。このポイントには、障害者に対する差別を禁止し、その尊厳を大切にする法律の制定や障害者の福祉や労働を支援する各種制度の整備、といった取り組みが含まれるでしょう。
  言い換えれば、第一の側面が障害者自身のエンパワーメントであり、第二の側面が障害者一人一人の身近な関係者によるサポートであり、第三の側面は法的枠組みを含む社会の制度的インフラの整備ということです。
   つぎに、こうした三つの解放の側面に関して、「コミュニケーション」と「情報」とはどのように関わるのか、また、ITは障害者の解放にどのような貢献が可能であり、どこに限界があるのかについて考えてみたいと思います。
  まず、情報、およびコミュニケーションとはなにか、について考えてみます。たとえば、日本のある代表的な辞書では、情報は次のように定義されます。
  {判断を下したり行動を起したりするために必要な、種々の媒体を介しての知識。}
  これにたいして、コミュニケーションは同じ辞書で次のように定義されます。
  { 社会生活を営む人間の間に行われる知覚・感情・思考の伝達。}(「広辞苑」第5版)
  もちろん、これらは現在実際に用いられている「情報」や「コミュニケーション」という語の多義性、多様性から考えれば、十分な定義とは言えませんし、この他にもさまざまな定義は可能であると思います。しかし、この二つの定義を比較しただけでも、重要なことが少なくとも一つは分かると思います。それは、「情報」と「コミュニケーション」ということばが持つ概念には、大きな質的ちがいがある、ということです。すなわち、「情報」は知識という静的な、そしてある意味で物質的な存在であるのに対して、「コミュニケーション」はその担い手としての人間の存在と、コミュニケイトする、という行為を前提とした「動的なプロセス」だということです。
  ここで聖書を例にとってお話させてください。特定の宗教に関する話題を出すことをおわびします。私自身クリスチャンではありませんが、これから私がお話しようとする内容を説明する上で助けになると思いますので。
  さて、ここに1冊の聖書があるとします。聖書自体は「情報」です。それが紙でできた本なのか、コンパクトディスクなどに入った電子図書なのか、といった媒体がなんであるかに関わらず、また書かれている言語が英語であっても、日本語であっても、その他の言語であっても、聖書自体はたんなる「情報」でしかありません。しかし、その聖書の内容について、たとえば教会で牧師や神父が説教をしたり、信者同士が語り合ったりすれば、その瞬間、聖書の内容は「コミュニケーション」のプロセスに同化して、時間と共に動き、人間の実人生に影響を与えうる存在になった、といえるでしょう。このように、「情報」と「コミュニケーション」は一見似ているようで、かなり異質な概念ではないかと思います。
  ところで、IT社会の特徴とはなんでしょうか。IT社会の重要な特徴の一つは、すべての人ができるかぎり多くの情報を、さまざまな情報媒体で入手し、瞬時に処理・活用することが奨励される社会なのではないでしょうか。そして、IT社会の進展と共に問題化しているのがみなさんご承知の「デジタル・ディバイド」です。
  ここで改めて、デジタル・ディバイドについて、さきほどの聖書の例で考えますと、それは聖書という本の内容自体がなんらかの理由で読めないという問題に対応するでしょう。つまり、聖書そのものが手に入らないこともあるでしょうし、書かれている言語が母国語でなかったり、あるいは文字が小さすぎて読みづらかったり、周囲が暗すぎて字が読みにくかったり、その本がふるすぎるのか、あるページがひらいたまま紙がはりついてしまって、ページがめくれなくなっていたり・・・・などといくらでもトラブルのパターンは考えられます。
  これと同じことが、コンピュータのようなIT機器の利用においても生じうるということです。たとえば、ある人が所属する国や地域、家族などの社会・経済的事情で、コンピュータ自体が入手しにくかったり、適切なソフトがなかったりする場合もあるでしょう。また、その人自身の障害や加齢などの身体的条件、教育・文化的な条件等で、画面の文字がみえなかったり、取り扱い説明書が読めなかったり、キーボードの操作ができなかったり、などといった、やはりさまざまなトラブルのパターンが想定できます。
  しかし、こうした、情報媒体へのアクセスそのものの難しさは、その媒体自体の改良や工夫で対応が可能だと思います。
  ところで、聖書に書かれているイエス・キリストの教えという「コンテンツ」へのアクセスはどうでしょうか。それはどのように読みやすい文字や装丁で聖書を印刷・製本しても、どのように明るい部屋で読んだとしても、分かりやすくなるとは限りません。これと同じように、どれほど使いやすいコンピュータを作っても、それでさまざまなコンテンツの利用や理解が保障されるわけではないと思います。つまり、コンテンツが含んでいる情報の意味、ねらい、意図などの理解自体が難しければ、どんなに優れたITも意味をなさないだろうということです。私はそこに「インフォメーション・ディバイド」の問題があるのではないかと思います。
  一般的な意味での知的障害者だけではなく、盲ろう者のような重度の感覚重複障害者や文化的・教育的条件の制約等で「情報の内容」自体がなかなか理解できない人は、世界には数多く存在すると思います。それでは、たとえば知的障害者が直面するこのような「インフォメーション・ディバイド」はどのように解消されるべきでしょうか。
  私は鍵を握るのは他者とのコミュニケーションだと考えます。つまり、聖書の例でいえば、聖書そのものの入手しやすさや文字の読み安さを向上させるだけではなく、その内容理解を助ける牧師や神父、信者仲間の存在、働きが大切であるのと似ているのではないかと思います。
  その意味で、すべての人にとって価値のあるIT(インフォメーションテクノロジー)の進展は、常にCーATコミュニケーションーアシスティブ・テクノロジーとでもよぶべき、コンテンツの理解を助ける支援技術と共に発展することが期待されるのではないでしょうか。さらに、それは人によるコミュニケーションサポートを常に重要な要素として含むべき支援技術なのではないかと思います。
  私はさきほど知的障害者を含む障害者の解放をめざす上で重要な側面として、第一に、障害者自身のエンパワーメント、第二に、障害者一人一人の身近な関係者によるサポート、第三に、法的枠組みを含む社会の制度的インフラの整備という三つの側面をあげました。
  これら三つの側面それぞれに対して、ITは重要な貢献を果たしうると思います。そこでまず大切なのは、デジタル・ディバイドなくす努力です。しかし、それだけでは不十分です。インフォメーション・ディバイドを生じさせないための支援、しかも、テクノロジーと人の両面からの広義のコミュニケーション支援がますます求められて来るのではないでしょうか。
  私たちが作っている社会の究極的な目的はなんでしょうか。それは社会を構成する私たち一人一人がそれぞれの人生において幸福を追求していけるように相互に支援することではないでしょうか。各人が幸福を追求する上で、多くの情報が活用できることは確かに便利です。
  しかし、ここで私が最後に強調したいことは、ある人が入手し、利用する情報の高度さや複雑さ、あるいは分量の多さといったものと、その人の幸福の実現度とは相互に独立した要因だ、ということです。
  「情報」の活用はあくまでも幸福追求の手段の一つであり、目的ではない、ということです。それはちょうど、聖書において用いられている膨大なことばがすべて手段であって、目的は、おそらくたった一つ、「愛」ということばに集約される価値を人間の生活において実現させることと似ているでしょう。
  私たち障害者を含むすべてのひとびとが願っていることは、たんなる利用可能な情報量の増大でもなければ、たんなる情報処理の速度・効率の向上ではないでしょう。私たちは他者と共に心ゆたかな生活をおくることを願っているはずです。そして、そのためのもっとも重要な鍵は、私たち一人ひとりが無意識のうちに生み出してしまっている心理的なバリア、すなわち、「人間の相互理解におけるインフォメーション・ディバイド」をなくしていくことではないでしょうか。人と人との直接のふれあい、密度の濃いコミュニケーションこそが、この人間同士のインフォメーション・ディバイドを解消していく道なのだと私は確信しています。
  みなさん、共に歩んでいきましょう。
  ありがとうございました。


UP:20021207 REV:20080802
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