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「朋の時間――母たちの季節」の上映会後の記念講演

於:広島県安芸郡府中町ふれあいセンター
20030615
日浦 美智江


◆「朋の時間〜母たちの季節〜」の上映会後の記念講演
 2003年6月15日(日) 広島県安芸郡府中町ふれあいセンター
 主催 : 府中町に社会福祉法人格を持った障害児・者総合福祉施設を造る会


 私は現在、お母さん方と一緒になってつくった「朋」という所にいます。
 横浜という所は、大変ユニークな教育を実践しています。今から31年前、当時、重い障害がある人の場合は「訪問教育」と言って、ハンディを持ったお子さんがいらっしゃるお家に、先生が行って教育をする、そういった時代がありました。まだ、猶予、免除などがいきていた時代でした。
 しかし、その頃、既に(横浜には)、どんな障害がある子どもたちにも学校教育がありました。その教育の方法として、障害を持った子どもたちの家に行くのではなく、障害を持った子どもたちが学校へ行き、学校で教育をしましょうということをやったのです。
 なぜ、そういうことが始まったかというと、家庭に訪問していたある40才ぐらいの男性の先生が、障害を持っている子の家に行って授業をしていたときに、なぜ、この子は学校へ出られないのか? なぜ、先生のほうが家を訪ねて行っているのだろうか? それは、そのお子さんに学校に出る力がないのか? それとも、学校側にハード面もソフト面も含めて、そのお子さんを連れて出てもいいという条件(体制)が整っていないからなのか? 学校側の都合なのか? それとも、本人の力なのか? もし、本人がちゃんと学校へ出られる力があるのに、学校側にその条件(体制)が整っていないから、「あなたは訪問指導ね。」としているのであれば、これはとんでもない間違いをしているのではないかと思ったのです。
 まず、この子たちが学校へ出られるという条件(体制)を作ろうではないか。それで、なおかつ、みんなが出て来れないということであれば、取りやめればよい。そういった場も作らないで、ただ障害の重い方はお家で訪問教育というのは、おかしいと思ったのです。
  今、福祉でこの2003年4月から"支援費支給制度"というのが始まりました。なぜ、今、これが画期的なことかというと、本人との契約であるからです。サービスは本人が決める。このサービスが欲しい。こうしたい。こう生きたいということを周りが決めるのではなく、本人が決める。これが大きなことです。今までは、"措置"といって、行政の方で判断して決めていました。そうではなく、本人が自分で自分の生き方を決めていく。それが当然なのですが、今まではそうではなかったのです。福祉の方では、それが画期的な基礎構造改革ということで、人権、自己決定、地域生活など、そういったキーワードがたくさん生まれました。
 31年前に、ある教師が既にこの考えを持っていたということは、今思えば本当にすごいことだなあと思います。それで、その先生は、教室にじゅうたんを敷いて、プレハブに畳を敷いた教室を作って、というハードを整え、それから、学校の先生方は障害の重い方であればあるほど専門性を要求されるので、きちんと障害のある人たちの教育を勉強してきた先生方をそこに連れてきたのです。国立大学をたくさん歩いて優秀な先生を捜して連れてきたのです。岩手、長崎、愛知などいろいろなところから先生が来られました。それからもう1つは、自分が家庭訪問をしながら、家族の存在ということをとても強く思っていらっしゃいました。やはり、家族が本当に幸せな状態であること、それが一番、お子さんにとって大事なことです。それから、家族のことをきちっと考えられ、家族の機能がきちっと動いて行くように、特に養育に中心になっているお母さんの気持ち、健康などを含めて、いろいろ相談にのる人がいると学校に福祉職を入れました。学校教育の中に福祉はないが、先生は「制度がないからそれは要らない」ではなくて、必要であればそれを入れようではないかということで、その福祉職を教育委員会に所属させて、そこから出向というやり方で学校に入れました。
  もう1つ、医療が必要です。障害をもった子どもたちには必ず医療が必要です。だから、小児科医やリハビリテーションの先生にそこに関わってもらい、月に1度、そこに、その先生が来て、お子さんの状態を診て、先生に教育のアドバイスをするという方法を取り入れました。31年前に考えたこの学級の考え方が、非常に私の中に大きな影響と言うか、財産になったと思います。
  さあ、学校を卒業となったときに、重い障害のある方たちの出て行く日中活動の場がありませんでした。そんな時、教育って何なんだろうと考えました。
 教育と一言で言うと、私はやがて人間は社会に出て行く。他人の中で生きていく。その為の力をつける。それが教育だろうと思います。私たちは、そうやって教育を受けて社会に出ました。みんなも学校に行って教育を受けました。なのに、その力を試す社会がない……それは、おかしい、何のための教育だったんだろう。重い障害の人たちは、本当にお母さんからしかご飯を食べられない人がたくさんいました。それが、学校に通うことにより、教師や他人からご飯が食べられるようになる、それに3年かかった人がいます。せっかくそうやって身につけた一人で生きられる力……それから、これは気持ちいいよと言ったら笑顔で応え、嫌だよという表現を体をつっぱって私たちに教える……そうやって、その人なりのコミュニケーションの力をつけてきたのに、なぜ、また家族と親のところへ帰って行くしかないのだろう……または、入所施設しかないのだろうか。なぜ、その力を試す場所がないのだろう……。それはおかしいと思って、みんなでせっせとお金を貯めて、そのお金を持って、これだけやったんだと行政に対処をしようというのが私たちでした。バザーやパートなどいろいろなことをしてお金を貯めました。最初は小さなプレハブ、そしてそれが一軒家になり、そこに約3年居て、こういう小さな所で、果たしてみんながのびのびとした青春時代が送れるのかどうかを考えました。
  青春というのは、チャレンジの時代だと思います。自分の可能性に向けてチャレンジするそれが青春だろうと思います。だから、青春という言葉の中に、挫折という言葉があったりする。それに向かってチャレンジする場、それがない。小さな家でシコシコやっていて何なんだと思いました。それで、1年発起。そして「朋」を造るために、町の市役所に何年何日通ったか! 最後の方にその役所の部長さんのところへ行くと、新聞で顔を隠していました。私が「おはようございます。」と言ったら、新聞で顔を隠して「また、来たな」という顔をしていましたが、ついに、部長さんは「あなたたちの言われるのも一理あるね。」と言われ、そして、横浜市があの土地を貸してくれて、そして、私たちは10年間で貯めた3500万円を出して、4500万円は医療福祉事業団に借金をし、2億と少しを横浜市が出してくれました。
 その時に、もう1つ(あった問題)は、重い障害のある人の通所という制度がなかったことです。制度的には知的障害者の通所施設か、身体障害者の通所施設しかなかったのです。重度重複とか重症心身障害者の通所はありませんでした。これは、訪問学級という学級で、福祉の人間を学級に入れる制度がない(のと同じことです)。(ならば)知恵を出せばいいじゃないということで、教育委員会に所属させて出向させる方法を取ったのです。その時に、横浜市の市長さんは、制度がないから無理だとは言いませんでした。それは、今でもとても感謝しています。みんなで法律の本を出して調べました。これが、最終的に"知的障害者の通所更生施設"で行こうと決め、厚生省に認可を申請したという経緯です。今、とても感謝しているのは、行政の方が、制度がないから無理だとは言わずに、いっしょに考えてくれたことです。いろんなことをみんなが考える……「思い」は私たちにある……でも、それをどういう制度を使ってどうするかというのは、これは行政の得てだろうと私は思います。二人三脚。「思い」そして、更に言えば、「おかしいよ。こうでなければ変だよ」という怒りの思いがエネルギーになったと思います。そうやって「朋」はできました。
  できる時に、実はあそこは、周りが高級住宅街でした。小、中学校があって、ロケーション的には非常にいいところです。横浜市はその高級住宅街のど真ん中はどうかと言いました。それは、大きな建設会社が住宅街を造っていくときに、公共用地として提供しなくてはならないのです。その公共用地として提供した土地でした。富士山が見事に見えるすばらしい高台の土地です。さて「すんなり建つかな?」という不安は少しありました。案の定、地元から反対ということで、市長宛に手紙が来ました。そういう場合は、学校の体育館に地元の人に集まってもらって、地元説明会というのをやらなければなりません。生まれて初めて360人ほど、地元の人が集まったところで、私が代表と言うことで前に立たされました。地元のみなさんは、反対はしないけれど、ここでなくてもいいだろうという考えでした。一番最後に、後ろの方から、「日浦さんに質問します。」と言って若い方が手を挙げられました。私は、答えなければならないと思い、心臓がドキッとしましが「はい」と返事をしました。その方の質問は「施設ができたら散歩に出ますか?、出ませんか?」という質問でした。私は「出たいと思います」と答えました。すると、その方は「どんどん出てきて下さい。そして、お友達になりましょう」と言って下さったのです。すごい方だと思いました。この間、その話を今の自治会長さんにお話をしたら、自治会長さんは「日浦さん、その人はもしかしたら、天使だよ」と言われました。あの時、私は、こういう方が、反対の集会の中で、そういった発言をする人がいらっしゃるのなら、この人を信じてみんなを連れて来たいと思いました。今、年間で延べで2600人ぐらいのボランティアさんが入ってくれています。それから、今日、この中にはヘルパーさんも来ていらっしゃるかと思いますが、横浜の私たちのところでは、障害のある人たちのヘルパー事業というのが始まっていて、そこのヘルパーさんに多くの人がなって下さっています。そして、介護をサポートして下さっています。
  1つ、私は教育がどこにつながるんだ。みんな社会に出て行く必要があるじゃないか。それが、普通の人の生き方じゃないかと思いました。それと、私はファミリーサポートということで、家族の方と関わりました。家族を孤立させてはいけない。みんなつながって生きていきたい。その場がほしい。「朋」に来ていただいたらわかりますが、2階に保護者室というお部屋があります。普通の施設には、そういったお部屋がありません。そのお部屋はお母さんたちが自由に使っていいのです。畳が敷いてあったり、ほりごたつがあったり、フローリングがあったり、お台所もついています。そこで、お母さんたちは、今もいろんな活動をしています。クラブ活動もやっています。陶芸、新舞踊などいろんなことがあります。金曜日、土曜日は"レスパイト"と言って、親の方に少しでも休んでもらいたいということで、医療的なケアがある人のレスパイト(ショートサービス)もやっている。今、50人のうち、5人が器官切開となっており、その器官切開をした人を自由に泊めてくれるところは、まだ今はありません。それを「朋」の職員が月に2回やっています。その制度を使って、昨日、一昨日と3人の仲良し(お母さん)が、京都に行ってリフレッシュをしてきました。お母さんたちは、そのレスパイトを使いながら、いろんなところに出かけたり、リフレッシュしたり、そして友達と本当に手をつないで生きていくという場を保護者室の中からドンドンやり、いつも、気持ちで前に向けて頑張って行けたら……そういう思いで「朋」を造りました。
  今、「朋」は18年目を迎えている。本当に18年、泣いたり笑ったり怒ったり、いろんなことがありました。そして、エピソードがたくさん生まれました。この毎日のように、起こる事を日記に書いて、いつも私が思ういろんなお母さんの言葉、そしてみんなの表情、それを先ほど紹介して下さった資料に書いたのですが、やはり書くだけでは、限界があり、実際に私だけの口からではなく、みんなの口から、みんなの表情から、みなさんに直接伝えられるそういうものが欲しい。それで、映像(映画)ということを考えました。「しがらきから吹いてくる風」の西山監督が監督を引き受けると言って下さって、本当に嬉しかったのですが、さあ、お金(制作費)ということになるとかなりのお金がかかります。それを毎年の理事会の席で、私が「いつかはこの記録映画を作りたい」と言っていたら、うちの理事の一人であるファンケルという化粧品会社の社長が個人的に制作費を出してくれました。よく私は「思いは力だ」ということをいうのですが、やはり、夢は見ないといけないと私は思います。まず、夢を見ること。そして、その思いを伝え続けること。それがいつか力になるのではないかと思います。そういった経緯で、これが映画になりました。
  芝桜が大好きな坂田国男さん。今日、この映画で彼の笑顔がいっぱい映ったと思います。この映画の撮影が2002年7月2日に終わり、西山監督は郷里の福岡に帰られました。そして2002年7月20日、彼(坂田国男さん)は海が大好きだったのですが、その海の記念日に彼は亡くなられました。ですから、今年は、国男さんなしの芝桜をみんなでこの間、眺めに行ったところです。国男さんは、歩けなかったし、もちろんお話もできなかったし、手も最後は使えませんでした。でも、あの芝桜に寝転がって声を出して笑っています。国男さんはいつも生きてるっていいよって、いつも笑顔で私たちに伝えてくれました。そして、それをこの映画で本当に伝えたい……国男さんが一番言いたかったのは、そうではないかと思います。何かができるとか、できないではない。「生きてるっていいよ。やっぱり命があるってすごいよ」ということを、彼は笑顔で私たちに伝えてくれているんだと思います。
  国男さんは、港湾病院という病院とそして私たちのところと本当に行ったり来たりしていました。港湾病院の中に、とてもいい看護婦さんがたくさん出てくる。そして、若いドクターが出てきました。そのドクターにとっては、国男さんは、初めての自分が責任を持った患者でした。お母さんが来る。国男さんはすごく喜ぶ。朋の職員が来る。国男さんはとっても喜ぶ。彼は、人工呼吸器をつけたり、何度もそういう目にあった。少し調子がいいと彼(ドクター)はこう言います。「国男さん。ここにいないで家に帰りなさい。朋に行きなさい」この映画の中でもドクターは言っています。「今度帰るときは、救急車で来なさい」と言っていますね。そんな状態でも国男さんの笑顔、あの笑顔を消してはいけない。彼がやはり生きていることを、喜ぶその場面をずっと大切にしなければならないと彼(ドクター)は思っているのです。7月、七夕の短冊にお母さんが「もう一度、海に連れて行きたい」と書きました。それを看護婦さんとドクターは見ました。看護婦さんは、会議をしてくれましたた。「今、自分たちは治療と言うことでは何もできない。薬を何を使っても彼の障害は進んで行っており治らない。本当に対処療法しかできない。今、私たちにできることは何だろう……」看護婦さんたちの結論は、国ちゃん(国男さん)の笑顔を、とにかく最後の最後まで消さないことだ……ということで、「海に連れて行きたい」とドクターに言いました。ドクターは「わかった。じゃあ、調子がいい時に何とか海へ行こうよ」と言ってくれたのでした。
  実は、港湾病院というのは、海がとても近く、すぐそばにベイブリッジがあり、すぐベイブリッジの高速に乗れるんです。しかし、国男くんの人工呼吸器がなかなかはずれない。「さあ、その時が来るのだろうか?!」と思いました。そうしていると、2002年7月12日頃に、病院から電話で「今の状態だったら何とかなるから、月曜日に連れて行きたい。車は『朋』が手配して下さい」と言われ、私たちは、車を用意をし、「朋」の職員もつけることにしました。その日の朝、GOサインを出すということで待っていました。そして、ついに電話が来て、今日の午後、決行ということになり、海へ行きました。私ももちろん行きました。病室に入ったら、夜勤明けの看護婦さんが2名、夜勤明けのドクターが1名、それは全くのボランティアです。呼吸を補う黒いゴム風船のようなアンビューバッグで、手動で酸素を送って、それは30分ならOK。そして酸素ボンベを持って海へ行きました。私も心配で、その車の後ろについて行きました。前の車の看護婦さんの顔が、私の車のフロントガラスを通して見えます。私の車に一人だけ一緒に乗っていたお友達がいるのですが、一生懸命、前を見ながら「大丈夫だ。看護婦さんの表情は穏やかだ。あっ、笑ってる」などと言って行きました。でも、海に降りるのは無理で、車の窓を開けて風をあてました。びっくりしました。私の携帯に国男さんのお母さんが電話をくれました。「国(国男さん)が笑ってるよ。海のにおいがわかるんだよ」と電話をくれました。私は、ただ、ただ涙ばっかりで車の追って行きました。それから、1週間して彼は、この世を去ったのです。
  この間、国男さんのお母さんがおかしいことを言いました。実は、おかしいことといったら、言い方が変だけど、家に蛍が来たそうです。私のところに来て泣きながらそのお母さんは言うんです。「蛍が来た」と…。蛍が家の中に入って、台所まで飛んでってそして出て行ったと言うんです。「国だ。国が来たんだ」きっと今、一番お母さんは辛いんだと思う。と言うのは、去年の今ごろは国男さんは、危篤かどうかの繰り返しのときでした。そのお母さんは、今、泣かないように泣かないようにして頑張っているこの時期に、お母さんのところに蛍がやって来て、その蛍は「きっと、国ちゃんだね」と言いました。
  本当に、理屈ではおかしなことがたくさんあります。でも、私は思います。ただ、理屈で解明されないことは山ほどあるけれど、みんなは、理屈で生きているのではなく、心で生きているのだと私はいつも思います。楽しいときは楽しい。嫌なときは嫌と言って…。国男さんは、この人だから笑っていようとか、そんなことを思う人ではありません。本当に素の心で生きている。その心が電波みたいになって、こっちの心に伝わって、そうやって心をお互いに動かされながら、全く、理屈では考えられない、いろんなつながりとか思いが広がって行くのではないかと思います。国男さん、芝桜、海が大好きでピエールロバンという障害は食事が取れず、ミルクだけで生きました。体重は、13Kg。その彼が私たちに笑顔から伝えること…。実は、クロネコヤマトの小倉昌男会長さんが、「朋の時間」の映画を観て下さいましあ。そして、アンケートの用紙に書いて下さった言葉に「暗い映画と思って来ました。ところが、明るい映画でした。生きることは明るいことだと分かりました。僕は生かされて今日があります。これからもよく生きてまいります」と書かれていました。「生きることは明るいことだと!」、あの国ちゃんの笑顔がそう彼に言わせたんだなと言うことと、私は余計この映画を観ていただくことの必要性を思いました。決してみんなは、嘆いたり悲しんだりして生きているのではない。みんな胸を張って生きている。お母さんたちもこうおっしゃる。「私たちの人生。いいよね。一味違っているよね。一味違っていいもんだよね」それを、本当に伝えたい。
  原さん(岳史さんのお母さん)は、いつも言います。岳史が生きたということをみんな知って下さい。
 それから、中学まで普通に生きてきた佐々木佑季(ゆき)さん。ニーマンピックという、これは急激に落ちていく障害です。彼女は、成人式を迎えて9日後に亡くなりました。成人式のときに、お父さんが言われた言葉が忘れられません。お父さんはこうおっしゃいました。「今日の佑季(ゆき)はきれいです。本当にきれいです。佑季(ゆき)は幸せです。そして、僕も幸せです」と言われました。もう、成人のお祝いができるかできないかという、本当にそんな状態の娘。その娘と成人のお祝いに「佑季(ゆき)は幸せです。そして、僕も幸せです」と…。私はその時に、いつも私が簡単に口にしている幸せという言葉を思いました。「そうか、悲しいとか辛いというのは、ずーと連続して起こっているのではないんだな」そういう状態、外から見たら、きっと辛いんだろう、悲しいんだろうという時も人間は、スポットのように「幸せ」って感じる心を持てるんだ。その「幸せ」って思う時間をいっぱいいっぱい「朋」が作っていけばいいんだなぁと思いました。そして、それは1人ではできない。人と人との関係から生まれてくる……そんなときに、「あ〜、幸せだね」っていう時間、それをいっぱい作りたいと思います。
  出会いということの不思議……。横浜市は350万人、私たちの区(栄区)だけで12万人の人口がいます。あの都市はそれこそ、ランドマークタワーがあるような、本当に日本でもすごい外国のような都市です。でも、その一方で、一番弱い命、そんな命も大事にしてくれている。そのことがきっと、国ちゃん(坂田国男さん)の笑顔になる。そして、家族の笑顔になるのだと思います。
 どうか、この府中町でもみんな笑顔になれる。そんな人と人との出会い、関係、それを今日、主催なさった「造る会」のみなさんを中心に、もっと広げて、そして、本当にお互いに「出会ってよかった。生まれてよかった」そんな社会を府中町で横浜で、いろんなところから作っていけたらいいと思います。
 それこそ今、地方の時代と言われています。 いろんな意味で今、教育の問題などで日本がいいと思っている人はいないと思います。それを地域から、障害のある人たち、本当に素の心で生きている人たち。私たちが、20世紀に「できることはいいことだ」という価値観で進んできた、そのことの間違いを、本当に1つ1つの関係や心の大事さみたいなものをもう一度、障害のある人を真中にしながら見直せて行けたらいいなと思います。 
  まだ、課題はいっぱいです。医療の問題、教育の問題、いろんなことがまだまだ、地域で生きるという前には立ち塞がっています。
 私たちもグループホームを4つつくりました。その中のおひとりがこの間、重責の発作を起こして気管切開になりました。さあ医療的行為が入ってきて、グループホームで、看護婦さんがいないのにできるかという問題に私たちはぶち当たりました。「それでは入所施設か」というと「それは、違うね!」とそれもみんなで考えました。今、お医者さんの指導を受けながら、職員が一生懸命その人のケアーを習っています。そして、本当にその人が生きたい生き方を、どれだけ私たちが支援できるか。それは、私たちが人をどう捕らえるか。人をどう考えるか。そこにかかってきていると思います。障害のある人は1人では生きられない。誰かの支援が必要です。どこかであなた任せに生きざるをえない人たち、その任されたあなたの1人1人が私たちだと思っています。横浜も頑張ります。府中町もいい形でみなさんの願いが実現できるように祈っています。


この講演録のテープ起こしは、府中町の上映会にお出かけくださった石井政浩さんがやってくださいました。(後にこちらで語尾を修正させていただきました)
石井さんは、ダウン症の大貴君のお父さんで、
「大貴くんのホームページ」 を公開されています。
http://www.urban.ne.jp/home/masa0714/index.html

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■以下に、石井政浩さんからいただいたメールの一部分をご紹介いたします

私は、講演会に行くときはいつもボイスレコーダーを持ち歩いています。
 今回の日浦さんのお話しはあまりにもよかったので、帰ってすぐにテープ起こししました。
 家内も行きたかったのですが、ちょうど子どもの親の会の行事と重なってしまい行くことができませんでした。
 起こした文章を読んだだけで、とても感動していましたので、映画を観たらもっと感動するだろうと家内はとても残念がっていました。
 本当にあの映画は、すごくよかったです。
 一般のみなさんに観ていただく必要性を感じました。
 広島の府中町で行われた日浦さんの講演会の記録を掲載させていただき、そのページで、映画「朋の時間〜母たちの季節〜」、訪問の家の紹介ということでリンクさせていただこうと思っています。
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*作成:
UP: 20091107
全文掲載  ◇障害児と学校  ◇難病/神経難病/特定疾患
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