第20回国際反戦沖縄集会アピール文
6月23日を「慰霊の日」と定めたのはなぜか。
多くのものが、「沖縄戦終結の日」と勘違いするこの日。
時の司令官、牛島満中将が沖縄をさらなる地獄にすることを命じ、自らは楽に逝った日。(注)
この日に私たちが集まるのはなぜか。
何をするために、ここにいるのか。
我々は、あの沖縄戦を経て、決意したはずだった。
すべてのいくさ、いくさにつながるものを拒否しようと。
しかし、我々の島沖縄は、
人殺しの島として機能し続けている。
朝鮮、ベトナム、湾岸、そして、アフガニスタンとイラク。
我々は、平和を願いながらも、いくさからの利益を受けとることを、本気では拒否できずにいる。頼ってすらいる。
6月23日、年に一度のこの日を大切に覚えつつも、我々の島が今なお殺しつつある命について真剣に覚え続けることには、あまりにも怠惰である。
我々が今、想うべきは、沖縄戦で踏みにじられた20万余の命か。
そうではない。その20万余の命に誓いつつも、いくたびも戦を重ね、安らかに眠る暇(いとま)も与えない我々のだらしなさである。
沖縄戦の犠牲者を覚え大切にすることは、慰霊祭を行うことではない。単に行進や集会を行うことでもない。「いかなる理由があろうとも、いくさを許してはならない」という死者たちの叫びに、まじめに耳を傾け、心に刻み、実行することである。
鉄の暴風と呼ばれた砲弾の雨あられの中で、ガマにも入れずに逃げ惑った人々の苦しみを二度と繰り返さないということである。
今こそ、決断すべきだ。
聴き始めよう。最も身近なものたちの声を。言葉にならないうめきを。
その声を生き様に刻め。自らの行動とせよ。
今日、ここに集まったことを戦争への免罪符とせず、確かな決意の場としよう。
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(注) 牛島司令官は自決に先立って、全将兵に、「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべ
し」と命令した(1945年6月21日)。降伏でもなく停戦でもなく、最後の一
兵になるまで闘い続けよ、と命じて、自分は先に自殺してしまった。(自殺したの
は6月22日か23日だろうということしかわからない。)
参考文献「観光コースでない沖縄」(高文研)