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The Arab condition

「アラブのおかれた状況」
エドワード・サイード
Al-Ahram Weekly Online 2003年5月22−28日 No.639
http://weekly.ahram.org.eg/2003/639/op2.htm



*中野さん→山口さんより

*************** The Arab condition ***************
アラブのおかれた状況  エドワード・サイード
Al-Ahram Weekly Online 2003年5月22 − 28日 No. 639
http://weekly.ahram.org.eg/2003/639/op2.htm

わたしの印象では、現在アラブ人の多くが、ここ2カ月にイラクで起きたことは、ほ
とんど破局に近いと感じている。 たしかに、サダム・フセイン体制はどこからみて
も卑劣なもので、とり除かれるにふさわしいものだった。 また、この体制が異様に
残忍で独裁的だったことや、イラクのひとびとが受けてきたひどい苦しみに対して、
多くの人が怒りを感じていたのもほんとうだ。他の政府や個人のあまりに多くがサダ
ム・フセイン政権の存続を黙認し、見て見ぬふりをしながら普段通りの仕事にはげん
でいたことには疑問の余地がない。 にもかかわらず、合衆国がイラクを爆撃し政府
を転覆することが容認された唯一の根拠は、道徳的な権利でも合理的な議論でもな
く、たんに純粋な軍事的優位だった。 長年イラクのバース党支配やサダム・フセイ
ンその人を支援しておきながら、合衆国と英国は、彼の専制に自分たちが共謀したこ
とを否定し、そのうえで自分たちはイラク人を嫌悪されているサダムの圧制から解放
するのだと述べるような権利をかってに手に入れたのだ。 そして今、イラクの真髄
である文明とその国民に対し英米がしかけた不法な侵略の戦中・戦後にかけて、イラ
クに生じつつあると思われるものは、アラブ全体にとって重大な脅威である。

いま最も重要なことは、まず第一に、アラブは内部に多くの分裂と紛争を抱えている
とはいえ、実際にひとつの民族を形成しているのであり、外部の干渉に無抵抗にさら
れる雑多な国々の寄せ集めではないということを、わたしたち自身が思い出すことで
ある。 16世紀のオスマン帝国によるアラブ人支配に始まって、現在まで続いてい
る明瞭な継続性がある。 オスマン帝国が第一次世界大戦で崩壊した後、イギリス人
とフランス人がこの地に進出した。第二次世界大戦後には、彼らに代わってアメリカ
とイスラエルがやってきた。 近年のアメリカやイスラエルのオリエンタリズムの中
でもっとも陰険に影響力を発揮してきた思想潮流のひとつは、アラブ民族主義に対す
る非常に根の深い敵意と、あらゆる手を使ってそれを粉砕しようという政治的決意で
あり、それは1940年代後期から両国の政策にはっきり現れている。 広い意味で
のアラブ民族主義《ナショナリズム》の基本的な前提は、実質的にもスタイルの上で
も多元的で多様性に満ちてはいるものの、言語と文化においてアラブでありムスリム
である人々(アルバート・ホウラーニが最新刊で呼んだように、アラビア語を話す諸
国民と言ってもよい)は、一つのネイションを形成しているのであって、単に北アフ
リカからイランの西国境までに散らばる国々を寄せ集めたものだけではないというこ
とだ。 この前提を個別に表現すると公然とした攻撃に出会う。1956年のスエズ
戦争やアルジェリアに対するフランスの植民地戦争、イスラエルの占領と迫害の戦
争、イラク攻撃などに見られるように。最後のものは、公表された戦争目標は特定の
政権の打倒だったが、ほんとうの目的はもっとも強力なアラブ国家の破壊であった。
そしてアブデル・ナセルに対するフランス、英国、イスラエル、アメリカの四国によ
る攻撃が、アラブを一つの独立した強力な政治勢力に結集させることを公然と目標に
掲げる勢力を潰すためのものであったのと同じように、今日のアメリカの目標は、ア
ラブではなくアメリカの利害にあわせてアラブ世界の地図を塗り替えることだ。 合
衆国の政策は、アラブの分裂、集団としての活性のなさ、軍事・経済面での弱さを糧
にしている。

個々のアラブ諸国のナショナリズムと教条的な分離性の方が(エジプトであれ、シリ
アであれ、クウェートであれ、ヨルダンであれ)重要であり、アラブ国家のあいだの
経済、政治、文化面での協調よりもずっと有用な政治的現実であるというのは馬鹿げ
た論議だ。 もちろん完全に統合する必要があるとは思わないが、有用な協力と計画
ならばどんな形のものであれ、わたしたちのネイションとしての存在を捻じ曲げてき
た不名誉な首脳会談(たとえば、イラク危機の間の)よりはましだろう。 アラブ人
ならだれしも(外国人もだが)質問することは、なぜアラブ人は自分たちの資金を出
し合って、大義のための闘いに使おうとしないのだろうということだ。その大義は、
彼らが少なくとも公式には支持を表明しているものであり、パレスチナ人の場合は、
民衆が積極的に、熱烈に信じているものなのに。

アラブ・ナショナリズムを奨励するためになされたことでさえあれば、濫用や浅見や
浪費や抑圧や愚行を許されるなどという愚論に時間をついやする気はない。 これま
での記録は誇れるようなものではない。 けれども断固として述べておきたいのは、
20世紀初期からずっとアラブ人は全体としての集団的な独立を一度も達成したこと
はないが、その原因の一部はまさに彼らの土地の戦略的、文化的な重要性が外部の大
国の邪心をそそったためだということである。 今日、アラブ諸国のなかで自国の資
源を望み通りに自由に処分できる国はないし、それぞれの国益にかなうような立場を
取れる国もない。とりわけ、そのような利害が合衆国の政策を脅かすと思われるとき
は、そうである。 アメリカが世界的な優位を確立してから50年余りになるが、そ
のあいだずっと、また冷戦終結後はとくにその傾向が強まったが、同国の中東政策は
2つの原則に基づいており、その2つのみで運営されてきた:イスラエルの防衛とア
ラブの原油の自由な流通という、ともにアラブ・ナショナリズムとは真っ向から対立
するものであった。 わずかな例外を除いては、あらゆる面でアメリカの政策は、ア
ラブ人の目標に対しては侮蔑的で、公然と敵視するようなものだった。ナセルが死去
して以来、アラブの統治者たちは要求されたことには何でも同調してきたのであり、
彼らのあいだから合衆国に挑戦しようという者は見事なまでに出てこなかった。

彼らのいずれかが非常に極端な圧力のもとに置かれた時には(例えば1982年にイ
スラエルがレバノンを侵略したときや、イラクに対して国民や国家全体を衰弱させる
ための経済制裁措置が施行されたとき、リビアやスーダンが爆撃されたとき、シリア
が脅迫されたとき、サウジアラビアに圧力がかかったとき)、彼らの集団としての弱
さはほとんど衝撃的なほどであった。 彼らの集団としての巨大な経済も、民衆の意
志も、アラブ国家にわずかな反抗の振りをさせることさえできなかった。 分断して
統治せよという帝国主義の政策が絶大の力を発揮した。それぞれの政府が、アメリカ
との単独関係に傷がつくのではないかと恐れたらしいからだった。 そのような考慮
が、どんなに緊急な不測の事態が起ころうとも、それより優先された。 アメリカの
経済援助に頼っている国もあり、アメリカの軍事力の保護に頼っている国もある。
しかし、どの国もみな、お互いに相手は信用しないことに決め込み、また自国民の福
祉については重大に考えない(つまり、ほとんど考えない)ことにしており、そうい
うものよりアメリカ人の高慢と軽蔑を甘受する方が好ましいと思っている、だがアメ
リカ人が唯一の超大国としての横柄さを長いあいだに次第に身につけていくに従っ
て、彼らのアラブ諸国に対する扱いは、どんどん悪くなっている。 実際、アラブ諸
国が外部からの本当の侵略者に対して闘うよりも、たがいの反目にせいを出してきた
ことは注目に値する。

その結果、イラク侵略を許した今日では、アラブ・ナショナリズムはひどく士気を阻
喪し、ぺしゃんこに打ちのめされ、アメリカが公言する自国とイスラエルの利害に
そって中東の地図を書き換えようという計画に黙従する以外のなにをする気力もなく
している。 この並外れておおげさな計画でさえも、アラブ諸国からはまだなにも
はっきりした集団的回答を受け取っていない。これらの国々はぶらぶら時間をつぶし
ながら、何か新しい展開が起こるのを待っているらしい――ブッシュやラムズフェル
ドやパウェルなどが行きあたりばったりに脅迫から訪問計画、つれない態度、爆撃、
一方的な発表などへとよろめいているうちに何かが起こるだろうと。事態を特にいら
だたしいものにしているのは、ジョージ・ブッシュの白日夢から出てきたらしいアメ
リカの(あるいは中東カルテットの)「ロードマップ」提案を、アラブ側が完全に受
け入れたにもかかわらず、イスラエルは冷淡に、このようなものの受け入れを保留し
ていることだ。 「 ロードマップ」の意図が a) パレスチナの内戦を煽り、b)パレ
スチナ人がイスラエル=アメリカの「改革」要求を何の見かえりもないのに遵守する
よう求めることにあることは、どんな幼い子供にも明らかである。それなのに、これ
までずっとアラファトの忠実な部下だったアブー・マーゼンのような二流の指導者
が、コリン・パウェルやアメリカたちを喜んで受け入れようとするのを見て、パレス
チナ人たちはどんな気持ちだろう わたしたちは、この先どこまで沈むことができる
のだろう?

アメリカのイラクでの計画については、これから起ころうとしているのが、1967
年以降のイスラエルの占領のような、時代遅れの植民地支配以外のないものでもない
ことは今や明々白々である。イラクにアメリカ流儀の民主主義を持ち込むというの
は、基本的にこの国を合衆国の政策に一致させることを意味する。それはすなわち、
イスラエルと講和条約を結び、アメリカの利益のために石油を売り、民生秩序は最低
限に保たれるだけで、真の反対派も真の制度構築も許されないということだ。 イラ
クを内戦時代のレバノンに変えることさえ、もくろまれているようだ。 それについ
ては確信がない。 けれども、いま進められているのがどのような計画かということ
の、小さな例をひとつ見てみよう。 ニューヨーク大学の法律学助教授で32歳のノ
ア・フェルドマンが、イラクの新憲法を作成する責任者になることが合衆国の新聞で
最近発表された。 この抜擢についての説明ですべてのメディアが言及したのは、
フェルドマンがイスラム法についての卓抜した専門家であり、15歳のときからアラ
ビア語を学び、正統派ユダヤ教徒として育てられたということだ。 だが、彼はアラ
ブ世界で法律の仕事をしたことは一度もなく、イラクに行ったこともなければ、戦後
のイラクのかかえる問題について真の実践的知識を持っているとも思われない。 な
んという率直な侮蔑だろう。イラクそのものに対してだけでなく、大勢のアラブやム
スリムの法律家たちに対してもだ。この人たちはイラクの将来のために完璧に役立つ
ことのできるのだ。 けれども、アメリカが望むのは、それを生意気な若造にやらせ
ることだ。そうすることによって、「我々がイラクに新しい民主主義を与えてやっ
た」と言えるように。 このさげすみの深さは、ナイフで切り分けることができるほ
どだ。

こうしたことに直面してアラブ人が見たところ無力らしいことには、きわめて意気消
沈させられる。それに対する集団的な回答をこしらえるための真剣な努力がなされな
かったからだけではない。 わたしのように外部から状況を眺めて考察する者にとっ
ては、いまこの危機の瞬間に、集団としての民族的脅威と見られねばならないものの
中で、統治者から国民に向けての支持の要請がいっさい見受けられないのは驚くべき
ことだ。 アメリカの軍事立案者は、自分たちが計画しているのはアラブ世界の急進
的な改革だという事実を隠そうともしない。そんな変革を押し付けることができるの
は、彼らの軍事力と、反対するものがほとんどないという状況のためである。 おま
けに、この試みの背後にある考えは、アラブ人の根底に流れる一体感を2度と復活し
ないように粉砕し、彼らの人生や願望の基盤を取りかえしのつかないほど変えてしま
おうということに他ならないと思われる。

このような力の誇示に対しては、アラブの統治者たちと民衆が前例のないような団結
を結ぶことのみが、唯一の抑止力となるだろうと思われる。 けれども、そのために
は、明らかに、すべてのアラブ政府が、自国民に社会を解放し、彼らを中に迎え入
れ、抑圧的な保安措置をすべて解除することによって、新しい帝国主義に対抗する組
織的な反対勢力を生み出すことに着手することが必要になる。 戦争を強要される
民、あるいは沈黙させられ抑圧された民には、決してそのような機会をもつことはで
きない。 わたしたちが必要とするのは、支配者と被支配者のあいだの自ら招いた緊
張状態から解放されたアラブ社会だ。 どうして自由と自決を守るために民主主義を
歓迎しようとしないのだろうか。 どうして、市民のひとりひとりが共通の敵に対す
る共通の闘いに喜んで動員されるようになってほしいと言わないのだろう。 すべて
の知識人とすべての政治勢力がわたしたちと一つになって、わたしたちの人生設計を
書き換えようとする帝国的な計画に対抗することが必要だ。 どうしてレジスタンス
が急進主義者と自暴自棄な自爆攻撃者の手にゆだねられねばならないのだろう。

余談だが、昨年のアラブ世界に関する国連人間開発報告を読んだとき強く感じたの
は、そこにはアラブ世界への帝国主義的な干渉についての理解があまりに乏しかった
ということであり、またその影響がどれほど深く、また長く後をひいているかという
ことだった。 もちろん、わたしたちの問題のすべてが外からきたものだとは思わな
いが、わたしたちの問題がすべて自分で招いたものばかりだとは言いたくない。 歴
史的な文脈と政治的な分裂の問題はとても大きな役割を果たしてきたのだが、国連の
報告書はそんなことにはほとんど注意を払わない。 民主主義の不在は、一部は西欧
列強と少数派の政権や政党とのあいだに同盟関係がむすばれたことの結果であり、ア
ラブ人が民主主義に興味を持たないからではなく、民主主義が脅威であるとドラマの
登場人物の数人が見なしてきたからである おまけに、アメリカ方式の民主主義(ふ
つうは自由市場の婉曲表現にすぎず、社会福祉や公共サービスにはほとんど注意が払
われない)を唯一のモデルとして採用する必要もない。 この問題については、もっ
とずっと深い議論が必要であり、ここでは充分に論じることができない。 ゆえに、
本題に戻ろう。

パレスチナ人が、コリン・パウェルに会うための代表団の地位をめぐって見苦しい争
奪を繰り広げるかわりに、共通して一致団結を示していたとしたならば、今日、合衆
国=イスラエルの猛攻撃の下で彼らの立場がどれほどましなものになっていただろう
かを考えてみてほしい。 長年わたしが理解できずにいるのは、どうしてパレスチナ
の指導者たちは、占領に反対するための共通の統一戦略をつくりあげ、ミッチェル
(上院議員)やテネット(CIA長官)や中東カルテットなどの停戦プランに振り回
されるのをやめることが、いまもできずにいるのかということだ。 すべてのパレス
チナ人に対して、わたしたちの敵は一つであり、彼らがわたしたちの国土や生活をど
のようなものにしたいと考えているかは周知のことであり、それに対してわたしたち
は一致団結して戦わなければならないと、なぜ言わないのだろう。 根本の問題は、
パレスチナだけでなくどこでもそうなのだが、支配者と支配される側の基本的な断絶
だ。帝国主義のゆがめられた副産物のひとつである。この民主主義的な参加に対する
基本的な恐れは、まるで自由を与えすぎると、政権を握っている植民地エリートが帝
国当局の愛顧を失うかもしれないといわんばかりである。 その結果は、もちろん、
全員を共通の闘いに向けて真に動員することができないということだが、そればかり
でなく、分裂と狭量な派閥主義が永続化することでもある。 現状では、今日、世界
中であまりに多くのアラブ市民が社会に関与せず、参加していない。

彼らが望むと望まざるとにかかわらず、アラブ人は現在、自分たちの将来に対する全
面的な攻撃を帝国主義の大国アメリカから受けている。この国はイスラエルと協調し
て動いており、わたしたちを平定し、服従させて、しまいにはわたしたちを相争う封
建領主国の集まりに貶めてしまおうとしているのだ。この領主たちが一番の忠誠を誓
うのは、自らの民ではなく、超大国そのもの(およびその地方代理人)なのだ。 こ
れが今後何十年にもわたって中東地域の方向を決定することになる紛争だということ
を、理解しないことは、みずからの目をふさぐ行為である。 いま必要とされるもの
は、アラブ社会を不満を抱いた民衆と不安な指導者と阻害された知識人の不機嫌な集
合に縛りあげてきた鉄の帯をうち破ることだ。 これは、前例のない危機である。
従って、それに対抗するためには、前例のない手段が要求される。 第一歩は、問題
の範囲をつきとめることである。その次は、わたしたちを無力な怒りと無用視される
反応しかできないようにしているものを克服することだ。そんな状態は、決して快く
受け入れられるものではない。 このようなぞっとしない状態に対して、そのオル
ターナティブはずっと大きな希望を秘めている。


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イラク戦争  ◇パレスチナ  ◇全文掲載
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