1) what to do / how to do
ここではまず、本人の決定に対して、介助者が介入する「余地」が存在することを示す
。まず先に引用した、[岡原・石川・好井1986: 28]を再び。
「行動の主目的(「何を食べるか」「どこへ行くか」など、総じて”What to do”)は
両者間に共有されており、その主目的の決定権や選択権が障害者にあるということは両
者によって合意されている。この次元での障害者の主体性の優越は、『介助』という行
為が前提的に承認していることであり、非問題的である。・・・(中略)・・・では、
どこにコンフリクト発生の場が存在するのか。それは、主目的が障害者と介助者の相互
作用という形で達成される具体的過程やその仕方(”How to do”)にある。」
そこで述べられているように、what to doとhow to doを区別し、前者に関しては「非
問題的である」とすることができるものなのだろうか?という単純な疑問を、わたしの
経験した2つの事例を検討することを通して投げかけてみたい。
a. 爪切り
まずは、ある男性障害者の入浴介助を終え、パジャマを着ている時に彼とわたしとの間
で交わされた会話である。
このように、「ノリ」の合わない介助者、つまり「頼めない介助者」(=手段の欠如)
にはそもそも、「風俗店に行く」という目的が提案されることすらない。つまり、介助
者にはそういった目的(what to do)の存在すら知りえない。
目的に関する合意はあっても、手段の欠如によって目的の達成が制限される。また、手
段のありようによってその時設定される目的は自ずと変化していく。しかし、どちらが
先か、後か、といったことではない。どちらかがなければ、どちらも、無い。両者は相
互補完的なものとしてある。つまり、障害者の自己決定に関して、他者としての介助者
が手段(how to do)の確保というレベルで大きく影響しており、結果的に目的(what
to do)を制限している。その意味では、「障害者の自己決定」に関する、他者の介入
を避けることは不可能である、ということができる。