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介助者のリアリティへ

―障害者の自己決定/介入する他者―
前田 拓也(関西学院大学大学院社会学研究科博士後期課程)
2003/04/26
障害学研究会関西部会第18回例会



障害学研究会関西部会第18回例会記録

日時:2003年4月26日(土)
   午後2時から5時
場所:茨木市クリエイトセンター
報告者:前田拓也さん(関西学院大学大学院社会学研究科博士後期課程)
「介助者のリアリティへ ――障害者の自己決定/介入する他者――」
司会:横須賀、記録:松波

記録:松波めぐみ

【内容】
14:10 (司会あいさつ)
前田:まず自己紹介から。障害学に関心をもったきっかけから話したい。僕が障害者問
題といわれるものに興味を持ち出したのはごく最近のこと。修士課程に入るころから。
考えだして、まだ2年。どうして関心をもったかというと、学部のテキストで『生の技
法』を読んで、「ああ、こういうことをやっている人がいるんだ」という新鮮な驚きが
あった。自分も何か考えられないかと思った。つまり文字を介しての出会い方だった。
誤解を恐れずにいえば興味本位ではじめた。それを否定するつもりはないし、認めてい
かないと卑怯かと思う。どうやって自分を相対化し、批判しながらやっていけるのか。
それが一つのテーマ、最初で最後の問いかもしれない。今の段階では、何か言えるほど
のことはない。
 どうやって関わっていこうかな、と思ったときに、とあるCILにとびこんで、「介助
をやらせてくれ」と言った。そのCILがどういうところで、どういう人がいるかを知っ
ていたわけではない。「自己決定の尊重」ということが言われ、介助者という人がいる
、その程度の知識だけを持ったまま、とりあえず、泳ぎ方を知らないから飛び込んでみ
い、みたいな感じだった。そこで考えながらやってきたことが今回の報告。今日の報告
は修士論文をもとにしたもの。
 レジメに入っていきます。
(以下、レジメに沿って報告がなされた。時間の都合で1.は省略された。)

介助者のリアリティへ
――障害者の自己決定/介入する他者――

報告者: 前田拓也(関西学院大学大学院社会学研究科 博士後期課程)

●報告要旨
「介助者=手足」という考え方がある。「自立」を志向する障害者は、「他者による管
理」に引き寄せられる危険性に敏感である。それゆえ、介助者の存在を匿名性のうちに
留めておこうとし、そう主張することは、彼や彼女らが生きてきた歴史的経緯から見て
も、もちろん意義あることではある。そのことはいくら強調しても足りない。しかし、
介助を使って生活する以上、障害者の生活が常に介助者による介入を受ける可能性に開
かれており、必ずしもそれを回避できるわけではないというジレンマがやはり、同時に
ある。事実、介助の場においては、他者の介入を否定するどころか、むしろ、障害者の
決定に対する介助者という他者の介入が(好むと好まざると、意識的か無意識的かに関
わらず)前提とされている。もしくは「障害者ー介助者」という関係性の中に、介入は
すでに構造的にはらまれている。そして、その構造は、「障害者ー介助者」間に発生す
るトラブルを解消させようと、われわれが「策を弄する」こと、その行為そのものの中
で、顕著に見出されるのである。つまり、トラブルの解消に努めれば努めるほど、介入
は露わになり、われわれはその構造に巻き込まれることになってしまうことを、見てい
く。
ただし、それを指摘することと、介助を使って暮らす障害者が自らの生を、「自立生活
」として主張すること、それらはまったく矛盾しない。また、その「よさ」が減ずるこ
ともないことを述べる。


はじめに――.健常者というnobody?

 障害者は、障害者というアイデンティティとか立場を引き受けるにせよ拒絶するにせ
よ、つねに「障害者」として振舞わなければなりません。(中略)対照的に、健常者は
、健常者というアイデンティティはおろか、健常者という立場を自覚する必要すらない
のです。どのような立場やアイデンティティでも自由に選べるノーバディ(nobody)な
のです。
本来、自己の立場を忘却できる立場にあることの特権性、暴力性を暴き、揺さぶり、そ
うした非対称性を壊していくのがアイデンティティの政治であるはずです。障害者に感
情移入して共感したり、感動したり、激励したり、庇護したり、憐憫したり、知ったか
ぶりをしたりする健常者に、そのような「余計なこと」をする前に、自己のあり方を相
対化し反省することを迫るような言説を紡ぎだしていくことが障害学には求められてい
ると思います。(石川2000b: 42)

健常者の立場やアイデンティティ。たしかに、それが問いただされる契機が、現在の日
常生活にはあまりない。また、そういった現状に“あぐらをかいていられる”というこ
とが健常者の「特権性」である、という指摘は、ひとまず、全くもってその通りである
。そのことを慎重に理解し、確認したうえで、しかし同時に、疑問が浮かびもする。と
いうのも、健常者はこのように、「どのような立場やアイデンティティでも自由に選べ
るノーバディ」でありえるだろうか?少なくとも「障害者」と日常的に接する介助者に
、自らの「健常者」というアイデンティティやポジションを否応なく自覚させられると
いう経験のない者は、おそらくいないのではないだろうか。そして、介助者は多かれ少
なかれ、「障害者」によって自らのポジション ――安住の地――を見せ付けられ、そこ
からズラされ、移動してゆく。だから、「健常者/障害者」という関係性と「介助者/障
害者」という関係性とは――あたかもカーボン紙で写しとったかのようには――重なら
ないのではないか?・・・


1.「介助者ー利用者」間に生じるトラブルと、その解消法
1)さまざまなトラブル([石川1986]、[岡原・石川・好井1986]を基にした[岡原1990])
a. 意思決定をめぐるトラブル

行動の主目的(「何を食べるか」「どこへ行くか」など、総じて”What to do”)は両
者間に共有されており、その主目的の決定権や選択権が障害者にあるということは両者
によって合意されている。この次元での障害者の主体性の優越は、「介助」という行為
が前提的に承認していることであり、非問題的である。・・・(中略)・・・では、ど
こにコンフリクト発生の場が存在するのか。それは、主目的が障害者と介助者の相互作
用という形で達成される具体的過程やその仕方(”How to do”)にある。 (岡原・
石川・好井前掲: 28)

 利用者の行動の主目的の決定は、利用者が行ない、それを達成するための手段の遂行
に「ゴー・サインを出す」というさらなる「意思決定」が必要になる。トラブルはここ
に生じる。 ex.)階段、エレベーター、エスカレーターの選択

b. 感情や身体をめぐるトラブル ――パンツ1枚の攻防

「介助活動が構造的に生み出す、それゆえ簡単には対処できない否定感情の問題」、す
なわち、「排便・入浴・着替えなどの活ョが、社会的文化的に共有されている身体規則
(身体距離や身体接触に関する規範で、その多くは人々にとって自然に感じられるよう
に身体化されたものとしてある)を侵犯」し、その結果、「当惑、不快、嫌悪感、羞恥
、不快感などを喚起しやすい。」(岡原前掲: 126-7)

身体間の“取るべき距離”を侵すこと。ホックシールドが名付けた「感情規則feeling
rules」という概念(Hochschild, 1979)=状況と感情との間の、「適/不適」「好ま
しい/好ましくない」という認識を指示するガイドライン(岡原1997: 28)。つまり、
「好ましくない感情」とは、社会文化的に共有された「感情規則」であり、そこからの
「逸脱」として経験された感情である。
問題は、そういった「好ましくない感情」を経験することを、「自然な発露」(だから避
けられない)として社会が規定することにある。ここでは、感情は「自然なもの」ではな
い。そして「この場で感じなければならないこと」を想定して、そう感じることができ
ない自分にプレッシャーをかけてしまう(Hochschild 1983)。
しかし、いくら感情が相対的なものだとは言え、感じてしまうものはひとまず仕方ない
のだ。問題は、感じてしまったものから脱するための「合理的な」技法だ、ということに
なる。

[入浴介助について]
ある利用者の発言を以下に引いておきたい。彼は入浴介助の最中、湯船につかり、楽し
そうにニコニコしながらこんなことを語ってくれた。

「この前ね、Sさん(介助者)とSさんの彼女と一緒に旅行行ったんですよ。温泉行った
んですけどね。いやー、あの人とは1年以上の付き合いになるけど、はじめて『裸の付
き合い』しました(笑)」

さて、わたしは入浴介助を行なう時には、パンツをはいている。換えのパンツがあれば
トランクスやブリーフのままでいいし、水着を準備してもいい。これは(わたしの関わ
るX会に関しては)基本的に介助者同士ではもちろん、利用者も含めた介助に関わる者
全員の「了解事項」である。もちろん、上のSさんも例外ではない。介助者が「パンツを
はいている」ということを奇異に感じるかもしれない(少なくとも最初わたしは変だと
思った)。まず、「自立生活」における入浴介助は、施設とは違って、同性が行うのが
普通である。そして、言うまでも無く、入浴介助はあくまで「利用者の」入浴を介助者
が支援しているのであり、「一緒に風呂に入っている」のではない。ましてや「裸の付
き合い」などでは決してない。だから、上の発言をした利用者は、Sさんに1年以上入浴
介助をさせているにも関わらず、旅行で一緒に温泉に入ったことのみを唯一「初めて」
の「裸の付き合い」と見なしたのだ。先の議論に倣えば、入浴介助は男同士が下半身を
さらして「身体距離」を侵犯する行為である。それゆえそこには、「否定感情」を抱く契機
が無防備に存在することになる。結論から言えば、介助者がパンツをはくことで、両者
間に生起する「身体をめぐる否定感情」を「パンツ1枚で」巧妙に回避しているのだし、
「パンツをはいている」という一点の事実が、両者の“われわれは「介助者ー利用者」
という関係なのだ”というリアリティを安定させる装置になっているのだ。どういうこ
とか。

2)トラブルの解消法――ゴッフマン「フレーム分析」
ゴッフマンは、現実を幾層もの次元=フレーム(frame)が折り重なったものとして描
いた(Goffman, 1974)。人々は、何重にも重なり合ったフレームを、時に転調し、時に
それを「居心地のよい」ように維持する。われわれ誰もが、こういった意味の層(R1〜3
)の違いを正確に識別しているが故に、それぞれのリアリティは維持される。そして、
それに「ほんとう」も「うそ」もない。 ex.)ボクシング
これに従えば、リアリティは、そういったフレームが折り重なったものとして「同時に
」あり、「ほんもの」と「うそ」の違いは、どの次元に重きをおくか、といった程度の
ものだということになる。
 トラブルが発生している目の前の現実。それに巻き込まれている「いまーここ」の「
わたし」。これは、幾層にも折り重なっているがゆえに他でもあり得たはずのフレーム
によって作り出される、リアリティの一つである。その「ほんもの」のフレームが「し
んどい」ものならば、それを別のフレームにズラすことで、目の前のリアリティをより
安定的な、「居心地のよい」ものに変容させればよいということになる。ただし、完全
に変容してしまう、ということはない。「しんどい」、「居心地の悪い」フレームもや
はり厳然と「同時に」存在し続け、そちらのフレームに簡単に転んでしまう(downkeyi
ng)可能性に開かれている。
とはいえ、その脆さを利用し、「生きやすさ」を生み出すフレーム、「居心地のよい」
方のフレームの維持はどのようになされているか。それがここで言う、「トラブルを解
消する方法」だということになる。

<利用者の方法>
1. 「経済的方法」
介助への雇用関係の導入
2. 「感情的方法」
介助者との間に「ヒューマンな関係」や「情緒的な関係」、「友人的な関係」、「共感
的な関係」などなどを確立すること
3. 「理念的方法」
いま、この社会の価値・規範を書き換え、変更を求めるような、新たな価値・規範を創
造し、主張すること。この延長線上に、介助者を「自己の身体の延長」と考えること、
「介助者は自分の手足だ」と考えること、そして、そう主張することがあると捉える。
この主張は、意思決定権はあくまでも障害者にあるという意味、自分の手足なんだから
「いらない主張をしないで」、自分の思うように動いて当たり前、という意味がまず1
つ。また、それと同時に、「否定的感情」の解消法としても役に立つ。

「もし介助者が自分の身体の延長にすぎないのなら、そもそも『他者』という存在から
していないことになる。そうだとすれば、それらの身体を統括する主体性は障害者のみ
に属することになるし、『他者』に触れられることによって生じる様々の否定感情(羞
恥や負い目)も経験しないですむことになる。」(岡原前掲: 132)

一種の「感情管理(操作)(emotional management)」(Hochschild, 1979)=「感情
管理」とは、自分の内的状態について、現在欠如している「望ましい感情」を喚起した
り、現在経験している「望ましくない感情」を消去する営みのこと。
・ 認知的方法=感情状態を変えるためにそれに適合したイメージ、理念、思考を変化
させる。
・ 身体的方法=感情の身体的生理的徴候を変化させる。
・ 表出的方法=内的感情に作用するために表出動作を変更する(Hochschild, ibid.:
562)。
「介助者を自分の手足と考える」ことは、・の「認知的方法」に相当する。
近代の感情経験を相対化し、新たな感情経験のあり方を創造しようとするという意味で
、「感情変容をめざした一種の社会運動」(岡原 1997: 31)でもある。だから、これは
「理念的方法」だと言うことができるだろう。

<介助者の方法>
1. 「経済的方法」
介助を職業労働と位置づけること、自らを「介助のプロ」と見なすということ。
2. 「感情的方法」
上に同じ。
3. 「理念的方法」
例えば、自分がコミットする障害者解放運動の意義をいっそう強調することなど。

「(・・・)かつて、それは自明のことのようにして(・・・)健常者中心に権力関係
が構成された歪な社会を変革していく、という理念を共有することにおいて、初めて介
助者になったのである。(究極1998: 179)」

「こっちは反体制という気分で介護やっているのに。ぼくらがやチていることと政府が
推奨していることとは根本のところでぜんぜん違うんだ。」(石川前掲: 16)

 さらに、その延長線上に、「障害者の方法」にもあったのと同様、「自分は利用者の
手足だと考える」ということがある。

3)「介助のフレームワーク」という把握
これらの「方法」は決して、独立し、相互に排除しながら存在しているのではなく、「
同時に」使用される。もともと「利用者ー介助者」という関係性には、「障害者ー健常
者」という非対称な関係性が含まれている。われわれが出会った時点では、その関係性
は、現行の社会的布置からして、図らずもそうならざるを得ないものとしてあるだろう
。これをまず最初のリアリティ、フレームR.0として見たらどうか。そこからの脱出、
「解消法」としてのフレームワーク。つまりそれ以外のフレームの層(R.1〜3)がR.0の
上に塗り重ねられていく。

R.0=「障害者ー健常者」(「介護」的な関係性)
R.1=「経済的方法」
R.2=「感情的方法」
R.3=「理念的方法」
・・・・・

介助者はR.2やR.3を好む傾向にあり、利用者はR.1を好む傾向にある(石川前掲: 19
)=「フレームやぶり(breaking frame)」(Goffman, ibid.)
そうしてズレはなぜ起こるか。例えば、利用者は多くの場合、何人もの介助者を使って
いる。彼ら一人一人と「親密な」「暖かい」関係を結ぶことなど、到底不可能だし、そ
のことに神経を使うだけで、疲弊してしまう。だから、「そんなものは一々必要ないん
だ」、「金は払うから、ただただ手段として存在してくれればいいんだ」ということ。
介助をどうしても必要とする障害者にしてみれば、そうした「関係」を一々介助に求め
られては迷惑。
また例えば、一見すると、R.1の「経済的方法」がオールマイティな方法に思えるかも
しれないが、おそらく支援費制度などが改善したところで、他の問題も解決するわけで
もないだろう。「経済的方法」を採用していながら、「理念的方法」なども同時に採用
しており、唯一最上の方法というものは、存在しない。
「自立生活」を始めたばかりのある障害者は、わたしになにか指示するたびに、「すいま
せん、すいません」と謝っていた。それをやはりどこかおかしい、意思決定権は利用者
にあるのだし、それを了解した上でわたしは介助を行っているのだから、謝ることなど
なにもない、そう感じたわたしは、「こっちは仕事で、好きで選んでやってることです
し、なにも謝ることないですよ。気にせんと、やってほしいことドンドン言うたらエエ
んですよ」と言った。すると彼はこう言うのである。

「そうは言うても、大したお金払えてるわけやないし、おんなじ時給やったら他に楽な
仕事なんぼでもあるでしょ?それやのにわざわざ介助やってくれてはるんやから、やっ
ぱり偉いなあ、悪いなあ思て・・・」

 彼は「介助への雇用関係の導入」が、トラブルを減らす1つの方法として有効だとい
うことを、よくわかっており、にもかかわらずそれが現段階では完璧ではないことを、
自分の肌で感じていたには違いない。確かに、「割のいい仕事」は他にいくらでもある
。お金だけで介助で経験してしまう「しんどさ」を解消するには「現時点では」無理が
あるし、もちろん、そのほかの方法を同時に用いて、なんとか「しのいで」はいるのだ
。とはいえ、「解消法」を「経済的方法」のみに頼ることができないのは、なにも「支
援費の不備」が全ての原因なのではないのではないか。

[再び入浴介助について]
介助者がパンツをはいているかはいていないかということが、両者のフレームにどれだ
け変化を及ぼすのか。まず介助者(つまりわたし)がそこで、パンツをはいていること
で、「裸の付き合い」というリアリティは否定される。しかし、やはりそれを取捨して
でもより良い他の「方法」があるから、それはなされているはずだ。利用者の側からす
れば、全裸で下半身をさらした同性の他者が目の前を動き回り、自分の体に触れる、と
いうのは決して気持ちのよいものではないだろう。だから、介助者にパンツをはかせる
ことによって、まずそれを少し解消する。その上で、上に見たフレームワークがなされ
る。利用者にとっては、他者に目の前で下半身をさらされていては、「自分の手足と考
える」といったフレームワークを成功させることが、非常に難しいのではないか。だか
ら、「介助者はパンツをはく」という「決まり」が暗黙のうちに作られ、その上で安心
して例のフレームワークが可能になったのだろう。
しかし、介助者がパンツをはいてしまうことで、「見るー見られる」という関係性にお
ける、羞恥を伴った非対称性が生まれてしまう可能性を、見逃してはならない。「一方
的に眼差される」ということ。「下半身が見える/見えない」というこのギリギリの一
点をどう考えるか。
ある利用者の入浴介助の最中、彼は世間話として、わたし以外の介助者による入浴介助
のエピソードを語りだした。ある介助者は、「パンツをはかないで」、全裸で入浴介助
を行うことを好む、という。

「○○くんってさあ、たまにパンツはかんと風呂入れようとすんのよ。あれ、イヤやわ
ー、ほんま。勘弁してくれよ。気持ち悪い(笑)」
――えー?!パンツはけって、言わないんですか?
「言うたけど、風呂入るのにパンツはくなんておかしい、そんなヤツおれへんとか言う
て、聞かへんねん(笑)」

 ここで注目すべきは、「とにかく気持ち悪いからパンツははいて欲しい」という利用
者の感覚だ。やはり、多くの障害者にとっては、下半身をさらした他者が目の前にいる
、自分の体に触れる、そのことの気持ち悪さに比べれば、「一方的に眼差される」とい
うリアリティは、大した問題ではないのだろうか。確かに、視線という権力の非対称性
というものが、そこにはあるのには違いない。とはいえ、多くの障害者は、下半身を眼
差されることに「慣れてしまっている」ということを念頭に置くことも必要かもしれな
い。一度、ある男性の障害者にこんな質問をしてみたことがある。

――はじめて他人に風呂入れてもらう時にさあ、なんか、変な感じ、無かった?
「変な感じ?」
――うん、なんか、気持ち悪いとか。
「気持ち悪い?なにが?」
――いや、だって、よく知らん人と裸で、触れ合ったり(笑)するわけやん?
「あー(笑)」
――それまでは、親がほとんどやってたんやろ?
「ほとんどっていうか、全部な」
――うん、だから、初めて他人にやらせる時って、どうやった?イヤやった?
「いや、別に・・・どうってことはなかったけど」
――ふーん、チンチン見られて恥ずかしいとかは、無いの。
「ははは。うーん、それは別に無いなあ。だって、チンチンは、トイレする時とか、い
つも見られてるやん」
――あ、そっか
「うん。トイレは、親以外にもやってもらったりするやん。学校の先生とか、友達とか
、ボランティアとかな」
――そら、そやな
「せやから、別に、慣れてるし。いまさらチンチン見られたから恥ずかしいってことは
、別に無いかなあ」
――なるほどなあ。トイレとかも、じゃあ、今さら別になんとも思わへんわけや
「うん。そんなんいちいち、無いわ」
――女の人とかでも?
「あー、女やったらなあ・・・後からよくよく考えたら、確かにちょっと変な気分にな
ることもあるけど(笑)」
――まあ、そうやろなあ(笑)
「うん。でも、後からはそう思うけどな、その時はおしっこしたい、早く出したい、っ
てことしか頭に無いから、そんなこと考えへんねん。その時はもう、それどころやない
って感じ(笑)」

 まず初めのわたしの質問がいまいち要領を得なかったことに注目してほしい。「どう
ってことなかった」がゆえに、そんなことは考えもしなかった。それまでの彼には、特
に問題として意識されてこなかったことがなかったことが伺える。そして、結局裸同士
で触れ合うということや、性器を一方的に眼差し、眼差されることからくる「否定的な
感情」という問題は、多くの場合、介助者によって経験されるのではないかと考えられ
る。なぜなら、利用者にとって、「見られて恥ずかしい」ということよりも、「そんな
ことよりオシッコがしたい」もしくは「そんなことよりちゃんとかゆいところを洗って
ほしい」ということのほうが重要なのかもしれない。しかし、介助者は意識しすぎてし
まう。「自分に見られていることによって、この人は今、恥ずかしいと思っているので
はないか」と思ってしまうことが、さらに「居心地の悪さ」にフィードバックする。自
分の視線を「相手が意識することを意識する」ことによって、自分の視線が自分に跳ね
返ってきてしまう。こうして、両者のフレームは齟齬を来たす。
 ただしもちろんその間も、「経済的方法」というフレームワークが両者によって常に
、同時になされていることも忘れてはならない。なにはともあれ、基本は、「仕事やし
、まあ、ええか」なのである。

2.「介助者=手足」?――介助者の匿名性――

「以前の運動では、『障害者』が施設に隔離されて、まさに自由を奪われ切り捨てられ
てきた、そういうことのアンチとして、介助者は、『障害者』の手足になればいいんだ
、ということでやっていた。だから、手足となる「介助者」さえつけば、後は勝手にや
ってください、ということだった。」(小佐野 1998: 79-80)

「介助者は障害者が『やってほしい』ということだけをやる。その言葉に先走ってはな
らず、その言葉を享けて物事を行うこと。障害者が主体なのであるから、介助者は勝手
な判断を働かせてはならない。このような論は『介助=手足』論などとも呼ばれている
。」(究極前掲: 179)

「単に『手段』であればよい。自分でできるということの快適さは、そういうところに
あるのであるかもしれず、それを他人が行うのであれば、その行いは無色である方がよ
い場合がある。機械があれば機械がよいかもしれない。(・・・)ただ少なくとも、そ
の場に顕在化する『やさしさ』や『近さ』、『交流』はいつも求められてはいない。や
ることをやっていればよいという場合がある。」(立岩2000b: 245-6)

 全くその通りなのだが、しかし、日常生活において介助者という「他者」を「あって
無いもの」とすること、抹消することは、やはり相当困難であるということが同時にあ
りもする。「自己決定」を中心に据え、介助者を「単なる手段」とする。他者が「いる
けどいない」と考えることの意義はいくらでも強調すべきであるし、何度でも言うべき
である。だが、万一それが、「理念」としてドグマ化してしまうとすれば、他者が「ど
うしてもいてしまう」ことに「しんどさ」を感じてしまう恐れがあるということだ。そ
う「感じてしまう」ものは、とりあえず、仕方ないということがある。
 例えば小山内は、その著書の中で、介助者が「私の手足」であることを強調しながら
、同時に以下のようにも述べている。

「ヘルパー(ケア)は私の手足である。でも、それを言ってしまうと次の週からコミュ
ニケーションがうまくいかなくなる。(・・・)他人の手は百パーセント自分の手には
ならないということを悟るしかないことを覚えた。」(小山内1997: 123)

彼女はこの「揺れ」に、自身戸惑いながら、「自分の迷いと戦うのが、心地よいケアを
受けるための勝負所だと思う」(小山内前掲: 120)と語っている。だから、以下のよ
うな指摘が妥当性を帯びてくることになる。

「以前の運動が「自己決定」を主張してきたとき、それは介助者を単に「手足」として
手段化することであったのに対し、今日的な運動においてはそこで忘れられていた他者
との関係がクローズアップされてきている」(星加:2001: 161)

ある意味で、当たり前といえば当たり前のことではある。しかしその「当たり前」を、
言いにくくさせてきたものとは何だったのかを、考えておかねばならない。障害者にと
って介助者が「抹消できない他者」であること。もちろん、「忘れられていた」わけでは
ない。障害者が介助者を自分の身体の延長とすること。「そう言わなければならない」
もしくは「そう思わないとやってられない」現状が、彼や彼女らには確かにあったのだ、
ということである。「自分たちがお前たちを選択し、あくまでも手段として使っている
のだ」と言ってのけることは、彼我に横たわる既存の力関係を逆転させようとする、そ
ういう試みであっただろう。
結局、「介助者ー利用者」という安定したリアリティの「外側」にいる、第三者の「視
線」の存在があったからだ。その視線とは、端的には障害者に「障害者役割」(「障害
者はこういったものだ、こうするべきだ」という期待)を押し付けようというこの社会
の視線である。石川が言うには、それは例えば、「愛らしく(loveable)あること」(
石川1992: 118)だ。

「(・・・)障害者が介助者をあごで使うなどとは言語道断なことであり、わずかな金
で介助者を雇うのも障害者にはふさわしくない。理念的メディアを通した間接的な関係
という一線を越えて、介助者と親密かつ対等に付き合うというのも障害者役割に反する
。つつましく貧しくひそやかに、ボランティアに頼って受身に暮らすのが障害者らしい
生き方だ。それに、障害を克服するために精一杯努力することも忘れてはならない。」
(同上)

 これを「介助者ー利用者」ユニットに対する、「オーディエンスによるフレームワー
ク」(石川1987)だと考えてもよい。障害者が「気まぐれな人間愛を恵んでもらう客体
の位置」(石川1992: 118)に依然として置かれている状況において仮に、「やはり介
助者は自分の手足だなんて、割り切れない」とでも言おうものなら、「やっぱりそうだ
ろう!」と言われ、「介助のフレーム」は一気に否定されかねないのだ。短絡されてし
まう。
また、介助者からの視点に重きを置けば、こうも言えるだろう。「人の手段の役割に徹
することは、人によってはそんなに簡単なことではな」く、介助者にとっての「『主体
性』にとって時に無理のかかること」である(立岩前掲: 246-7)。介助者は介助が「
地味な仕事」であることを否定し、「よさ」や「意味」を見出し、つくり、語ろうとし
てしまう。「手段でしかないんだ」と主張することは、介助者が、いや、健常者が、そ
のように流れていってしまうことに対して「釘を刺す」ことでもあった。
これらの主張の意義は、いくら強調しても足りないほどなのだが、しかし今、だからこ
そ、そのような過程を経て、重度の障害者にとってもっとも身近な問題である「介助者
との関係」という「しんどい」問題に対して、再び向き合うことができるようになった
。そしてそのこと自体が、これまでの運動や議論の成果なのだ、と言うこともできるだ
ろう。
しかし、最も重要な論点はこうだ。いま、介助し、されるという両者の関係は、主体と
その単なる道具といった関係として割り切ることはできない、という主張があるとする
。その「言われ方」に注目すべきである。
従来の介助(介護といってもいい)を巡る知は、「介助者ー利用者」間の関係における「
やさしさ」や「近さ」や「共感的であること」といった「感情の交流」を「人間関係の本
質」として当然視してきた。そして、それを当然視するべきではないと、当事者は異議
を申し立ててきた。それを契機に、「確かに、他者というものは時に煩わしいものかも
しれない」「だったら、『介助者=手足』という考え方も必要かもしれない」と、従来
の考え方を見直そうとする。これは一見「よいこと」のように思える。しかし、初手か
ら「話の順番が違う」のだ。
介助者は、まず、利用者の手足「でしかない」のであって、「透明」で「匿名」の存在
である。それ以上でもそれ以下でもない。それがまず、大前提。だが一方で、介助の場
においては、完全にそう割り切ることもできないのではないか、という疑問が「次に」
出てきてしまうということだ。この論理、話の順番が、「正解」だ。
全てが転倒していたこと。そしてその転倒こそが、なによりも真っ先に修正すべきもの
なのである。「介助者=手足」であること。その主張がまずは正しい、ということを慎
重に確認した上で、それでもなお残ってしまう問題というものがある、ということだ。
否定せずにどう語るか。介助者である「わたしは」それをどう受け止めればよいのか。
「わたしから」どう見えているのか。そこから離れて、nobodyとして語っては意味がな
い。


3.介入とパターナリズム

「自立」を志向する障害者は自らの生活を自らの決定によって組み立てているが、同時
に、介助者の力を使って生活する以上、「障害者の生活がパターナリスティックな介入
を受ける可能性に開かれている」(星加前掲)ということ自体はやはり否定できないと
いうジレンマ。

1) what to do / how to do
ここではまず、本人の決定に対して、介助者が介入する「余地」が存在することを示す
。まず先に引用した、[岡原・石川・好井1986: 28]を再び。

「行動の主目的(「何を食べるか」「どこへ行くか」など、総じて”What to do”)は
両者間に共有されており、その主目的の決定権や選択権が障害者にあるということは両
者によって合意されている。この次元での障害者の主体性の優越は、『介助』という行
為が前提的に承認していることであり、非問題的である。・・・(中略)・・・では、
どこにコンフリクト発生の場が存在するのか。それは、主目的が障害者と介助者の相互
作用という形で達成される具体的過程やその仕方(”How to do”)にある。」

そこで述べられているように、what to doとhow to doを区別し、前者に関しては「非
問題的である」とすることができるものなのだろうか?という単純な疑問を、わたしの
経験した2つの事例を検討することを通して投げかけてみたい。

a. 爪切り
まずは、ある男性障害者の入浴介助を終え、パジャマを着ている時に彼とわたしとの間
で交わされた会話である。

「爪切り、やったことありますか?」
――いや、ないなあ。
「ああ、じゃ、いいです」
――ちょっと怖いなあ。
「コッチも怖い(笑)。1回アテに身イ切られたことあるんで」
――うわあ・・・痛あ・・・そんなん聞いたら余計ようやらんわ(笑)。スマン。
「はい。今日はいいです。また別のアテに頼むんで」

b. コンタクトレンズ
 次は、ある日、上記の彼に、わたしがメガネのレンズを拭くように指示された、その
最中に交わされた会話である。

「実は、コンタクト(レンズ)にしたいんやけど、自分でできないから怖いんですよ。
だって眼エさわるんやもん」
――そうやわなあ。オレ、コンタクトやけど、そら人にやってもらうのはちょっと怖い
なあ。
「第一アテが怖がる。やったことない人やったら怖がってできんと思う」
――あ・・・そっかそっか、確かにな。やったことない人やったら、眼球触わんのなん
か怖がってできへんやろなあ

このエピソードから、様々な問題を引き出すことができるだろうが、ここでは、以下の
ような問題提起にとどめておく。
岡原ら(前掲)は、あたかも、目的(what to do)が先行してあり、これに合わせて手
段(how to do)の検討、あるいは構築がなされるかのように描いている。しかし、手
段の欠如があらかじめ予測できそうな目的が、介助者に提案されるだろうか。さらに、
目的と手段を切り離して、どう考えても手段の確保が不可能な非現実的な目的だけを「
藪から棒に」提案することなど、あるだろうか。手段の確保が可能だと予測されていて
はじめて、目的が介助者の口から提案され、合意形成が図られるはず。
他の例で言えば、障害者男性が、性風俗店に行きたい、もしくは「デリバリー・ヘルス
嬢」を自宅に呼びたいが、それを言う前に「この介助者には頼める、この介助者には頼
めない」という判断がなされる、ということがある2。

「来週ちょっと、デリヘル呼びたいんですけど、いいですか?」
――ああ、そう、そら別に、かまへんよ
「はい、じゃあ、そういうことで、お願いします」
――それはええけど、来週って、それまで我慢できるん?
「はい、まあ、できると思いますよ」
――来週まで待たんでも、他のアテに頼むとかしたらエエやん
「まあ、そうなんですけどね・・・」
――頼みにくいん?
「そうですねえ。そういうの、イヤがりそうな人も、いるし、“ノリ”的に」
――あー。まあ、わからんでもないけど
「前田さんやったら、まあ、大丈夫やろう、と(笑)」
――まあな(笑)。やっぱり選んでしまうかあ
「そうですね」

このように、「ノリ」の合わない介助者、つまり「頼めない介助者」(=手段の欠如)
にはそもそも、「風俗店に行く」という目的が提案されることすらない。つまり、介助
者にはそういった目的(what to do)の存在すら知りえない。
目的に関する合意はあっても、手段の欠如によって目的の達成が制限される。また、手
段のありようによってその時設定される目的は自ずと変化していく。しかし、どちらが
先か、後か、といったことではない。どちらかがなければ、どちらも、無い。両者は相
互補完的なものとしてある。つまり、障害者の自己決定に関して、他者としての介助者
が手段(how to do)の確保というレベルで大きく影響しており、結果的に目的(what
to do)を制限している。その意味では、「障害者の自己決定」に関する、他者の介入
を避けることは不可能である、ということができる。

まず、「介助者を使う」ことは、端的には、他者を「自分の手足」にすることで、「自
分でできない」ことを「自分でできる」ようにすることだ。「介助」を供給すること、
つまり、他者が、「社会」が負うことによって、「できる/できない」を巡る「障害者
/健常者」の差異は減少していく(=社会モデル)。しかし、他者に指示してやらせる
ことによって「できる」ようになっても、解決しない問題もまた、ある。いやむしろ、
他者に指示してやらせるということそれ自体によって「あってしまう」問題が、残るの
だということだ。

2) 「できること」と「できないこと」

「『できないこと』がわかっていれば、当人が指示して『できないこと』を支援者にや
らせればよい。しかし、すべてのことについて『できないこと』が自覚されているわけ
ではない。『できないこと』が当人に自覚されていない場合、当人が支援を依頼するこ
とができない。」(寺本2000)

ある日の夜のことだ。ある利用者が、友人宅で食事をし、お酒を飲んで、したたかに酔
ってしまった。彼はわたしに、そろそろ帰ろうという。その日は手動車椅子で来ていた
から、彼が運転する必要はない。しかし、彼は「筋ジストロフィー」であり、全身の筋
肉が弱っている。したがって、体のバランスをうまく取ることができず、油断すると、
上半身は車椅子からはみ出るようにして前後左右に倒れてしまう。普段からそうなのだ
が、酔っていれば、なおさらである。おまけに彼は、その時点でもうすでに、車椅子に
座っていられなくなり、降りて、横になっていた。「バランスとられへんのちゃうか。
無理せんとけって。酔いが覚めるまで待ったほうがエエって」とわたしは提案する。彼
は賛成し、少し眠って、3時間以上経っただろうか、再びもう大丈夫だから帰ろうとい
う。半信半疑だったので、「ほんまに大丈夫なんか?ほんまか?」と何度も確かめた。
「うーん・・・」としばらく頭をひねった末、「じゃ、もうちょっと待ちます」と言い
、さらに2時間以上経った。すでに空は白んできている。「今度こそ帰ります」と言う
。確かに頭はすっかり冴えているように見えた。彼自身も「もう大丈夫です」と言う。
そうして、家に向かって出発した。
しかし、である。最初は順調に進んでいた。しかし、時間が経つにつれて、体のバラン
スは怪しくなってきた。何度か止まって、体のバランスを立て直し、進む。また倒れる
。進む。倒れる・・・。道路の凹凸からの振動を受ける度に倒れてしまうのである。自
宅はまだまだ先。友人宅は、出発してから、もう、大分経っていて、かなりの距離まで
来ている。行くことも戻ることもできない。そこから一歩も先に進めなくなってしまっ
たのである。文字通り、「立ち往生」であった。最終的には、「もう、このままでいい
です!倒れたまま行ってください!」という指示がなされる。おまけに、わたしはかな
りの方向音痴で、彼の指示なしに正しい道を行くことはできない。しかし彼は、首が完
全に後ろに倒れたまま、半ばアクロバティックに、なんとかわたしに指示し続けたので
ある。それは苦渋の最終手段であった。
ここでは、車椅子の移動に不可欠な「体のバランス」が「とれない」、ということが彼自
身には認識されていなかった。「どうしてもバランスが取れない!」という状況に直面
して初めて、彼は「できないこと」を認識したのである。しかしわたしは、最初から「
嫌な予感」がしていた。とはいえ、わたしは「障害者の手足」であるし、「雇われている
身」であるし、「意思決定権」は彼の元にある。だから、途中で「折れた」。では、わた
しが「もうちょっと待ったほうがいいのではないか」と提案し、そうさせたこと、その
後もしつこく引き止めたことは、「意思決定権」の侵犯なのだろうか。では、どうすれ
ばよかったのか。

「『できないこと』は、行為のそのときどきによって常に構成されていく(認識される
)ものであるから、『できないこと』に対応して支援することは、常に困難を伴う。そ
れは、過去の体験を参照してあらかじめ『できないこと』を予想し、先回りして予想さ
れる『できないこと』に対処するか、そうでなければすでに『できないこと』が起こっ
た後でしか支援をすることができない。」(寺本前掲)

介助者という他者が「先回り」して“やってしまう”こと。それを否定すれば、あらゆ
る介助行為は、常に「後手に回る」しかなくなる。そして、「後手に回る」ことによっ
て、時に「命にかかわる問題」(後述)になってしまうことにもなりうる。つまり、介
助者の介入無しに生活が成り立つのか。確かにこれを排除してしまうことは不可能であ
ることがわかる。
ただ、これがパターナリズムなのか、というと、必ずしもそうとは言い切れないように
も思えてしまうのも確かだ。パターナリズムとは、つまり、本人にとってもっとよい選
択があるとされ、他者がその決定に対して介入することだ。「よかれ」と思って勝手に
やってしまうこと。この「よかれ」、つまり、「利用者にとってのよい選択」=「利益
」もまた、介助者には事前に自覚されているわけではないからだ。利用者が「できない
こと」に遭遇し、そこで初めて「できないこと」が自覚されると同時に、介助者が勝手
に考える「なすべきこと」もまた、その時初めて自覚される。だから、利用者が「でき
ないこと」を自覚していないのと同様、「勝手に」やってしまう側も、「なすべきこと
」を事前に自覚してはいない。もちろん、自覚的であったか否かは、言い訳にはならな
い。むしろ、パターナリズムは担い手の無自覚性にこそ問題があるはずだからだ。しか
し、その「無自覚」はこのように、しかたなくある。だからこそ、「部分的に」、しか
たなく認めざるを得ない介入がある、ということだ。
この場合、問題は、介助という行為が、しばしば瞬間的な、「アドリブ」的要素を伴う
ことに由来する。

「『障害者』も『介助者』もどちらもが主体であったり、客体であったりすることはな
く、いわば『介助』アレンジメント-複合体として歩く方向と速度と調子が暫時的に決
定されていくのである。(・・・)車椅子が進む方向を決定する主体は、『障害者』で
ありながら、しかし厳密には、『介助者』が介入する余地が全くないわけではないので
ある。ここには、単純な主体ー道具といった図式では表現できないいわば奇跡的なアレ
ンジメントが出現しているわけである。」(小倉1998: 190)

「介助」としてなされる行為の主体は、原則的に利用者の側にありながら、結果なされ
るその行為自体は、アドリブ性を帯びた共同作業であるがゆえに、介助者の介入も、不
可避的に含みこまれてある。なされた行為が自覚され、分節化されるのは、多くの場合
、その行為がなされた後なのだ。だから、介助者の、決定に対する介入は、しかたなく
あってしまう。

3) 「命にかかわる」こと――自己責任について
介助者は、利用者に指示されていないことを、「よかれ」と思ってするべきではない。
原則的には、指示されていないことをしなかったことで利用者が結果的になんらかの困
難に遭遇しても、それは利用者の「責任」であるとされる。以下は、わたしが介助をや
ってみようと、初めてCILの「門を叩いた」時に、「介助者の心得」として語られた、ある
スタッフ(障害者)との会話である。

「お風呂でな、障害者抱えてるときに足滑らせてこけるとするやん?それで障害者が大
怪我する。悪いのは誰やろ」
――んー・・・そうですねえ・・・どうやろ・・・
「うん、それ、悪いのは障害者やねんな」
――はあ・・・そんなもんですか
「うん。風呂入る前に、足場が滑りやすくなってへんか、つまずくようなもんが落ちて
へんか、確認しとかんかった障害者が悪いことになんねん。それに、足元に注意してく
ださいって、アテンダントに言わんかったのも、障害者の責任やねん」
――なるほど・・・
「そやから、怪我さしてしもても、別に自分が悪いて思う必要ないねんで。訴えられた
ら、オレは悪ないって、言うても大丈夫(笑)。障害者は危ないて、ようわかってて、
それでも自立生活してんねんからな?」

そうなってしまうのであろうか。しかし、問題は、障害者が遭遇する困難や危険、その
中でも特に、「命にかかわる問題」があることである。だから、先に述べたように、「や
ってしまっている」ということはあるだろう。それにいちいち目を光らせて、「言って
ないことはするな」「出すぎたマネをするな」ということなどができるだろうか。アド
リブ性を帯びているから、それはなおさらだ。これは、「意思決定をめぐるトラブル」の
解消法の是非にかかわる問題である。命にかかわる問題ならば、当然介助者は、「先回
り」して気を配らせ、「配慮」することになる。ここで介入は、「命にかかわるから」と
いう論理によっても正当化されてしまう。


4) 「介助」の「介護性」
こうして、「自立生活の“要件としての”自己決定」という「理念は」、否定される。
皮肉なことに、トラブルを解消しようと、障害者と介助者双方が用いる技法それ自体が
、結果的に、介助者による障害者の決定への介入を誘発してしまっていることがわかる
だろう。これはどういうことか。岡原は、以下のように結論付けている。

「拍子抜けかもしれないが、それは、「介助」の「介護性」である。つまり、あることを
自分はできて、かつ、それをできない人がいて、自分がその人に代わってそれをする、
という形式である。この形式は、たとえ個人が介護という意識を消去しても、介助行為
が型として持たざるをえない構造である。」(岡原前掲: 141)

これは「福祉的配慮」となんら違わないのだろうか。そうだとすれば、おそらくこのまま
では、「利用者ー介助者」という関係は、「障害者ー健常者」という、ある「関係性」
の中に未だあることになってしまう。そして、それに嵌まっているかぎり、われわれは
、自身の意図とは無関係に「配慮」や「介入」を生み出してしまうということになるだろ
う。どう考えるか。
「命に関わる問題」が存在するがゆえの「配慮」に関しては、確かに、「ある時点まで
はそれでよかったのだ」と“あえて一旦は”言うことができる。結果的にそうなったと
しても、である。なぜなら、「社会において、自らの自己決定権を行使するためには、
自己決定と自己責任が等値化されるという枠組みの中で、<自己責任をとる>というこ
とで自己決定を手に入れるという形の戦略しかとりえなかった」(児島2000: 29)から
である。「保護される立場から離れ」、「自らの主体性を、『危険を冒す自由』を主張
」し、「責任は取るから保護してくれなくてもよいのだということ」(立岩1999: 86)
。決定の結果はみずから責任を負う、と言ってみせる。そうでなくては容易に受け入れ
てもらえない。そういう現状が、確かにあったのだということである。とはいえ、だか
らと言って「しかたない」、「よい」ことにはならないだろう。
そういった時代的要請や政治的文脈といった「歴史」を踏まえた上で、しかし、そこか
ら一つずつ卸していかねばならないことがあるように思える。今だからこそ、なにが言
えるか。

4.理念からの自由
1)コンフリクトへの自由

 「コンフリクトを起こすという作業は、当事者がぶつかり合うことで、逆に、当事者
を対等な関係へと導く。介助者は、そこではモノローグ的な方法に解決を求める余裕を
持たされない。むりやり、モノローグ世界からディアローグ世界へと、遠慮し、配慮す
る自分から、主張する自分へと、引きずり出される。そうなれば、そこで発生している
問題について、障害者と介助者は対等にわたりあうことになる。だから、二人の合意や
折り合いが、障害者の意志や望みとずれることもあるだろう。だけど、当たり前だ。対
等な人間が二人で関係を作っていて、いつも一方の思いだけが通るとしたら、そのほう
がおかしい。配慮を拒絶するとは、挫折を知ることでもあるのだ。」(岡原前掲: 144


結局、モノローグ世界に閉じているうちは、「配慮」は「問題」として顕在化しないま
ま先送りされてしまう。障害者が微分的な排除に尻込みし、自己規制する。「健常者の
社会」はそれをあてにすることによって「穏便に」成り立っていく。やはり自覚的にダ
イアローグへと引きずり出すことを、そういった装置を外す試みとして認識する必要が
あるだろうということだ。介助者は時に図らずも、障害者の自己規制をあてにした健常
者の一員でもあってしまうからである。
また、上で岡原は「折り合い」という言葉3を用いている。これは、あえて言うなら、
両者の「妥協点」を見つけるということだ。介助という相互作用の内に生起する行為は
、両者の意思や判断が不可分に重なり合って、一つの織物のようにしてできあがったも
のである。その「できあがったもの」は、本来利用者と介助者という個々人が担うもの
であるにせよ、それは両者それぞれの個人の性質に還元できるものではない。そして、
それはしかたなくそう「あってしまう」ものだ。だから、「折り合い」や「妥協」は、
当事者たちが意識的に行っているものではないかもしれない。多くの場合そうだろう。
だからといって、利用者がそれを後に反省し、悔いていないとは限らないのだ。
もちろん「ダイアローグへ!」などと言っても、これは誰よりも、障害者にとってしん
どいことではある。介助者は、コンフリクトが顕在化した「しんどい」場から、いつで
も「逃げる」ことができる。介助者の側は利用者との関係において「限定性」を保つこ
とができるが、利用者の側からすれば、介助者と「無限定に」つきあわねばならない(
市野川2000: 125)。そこにこそ彼我の非対称性があったはずだからだ。
とはいえ、「ダイアローグ世界への開き」は、どうしても必要なものとしてあるだろう
。それが誰よりも、障害者に対してエネルギーを強いることだということを、介助者の
側が、自覚し、引き受けていくしかない。それを可能にするためのアイディアはいくら
でもあるだろうが、わたし自身がこれからそれを実践的に試み、丹念にそれを見ていく
しかない。


2)理念からの自由
介助の場において、自己決定に対する介助者のパターナリスティックな介入が構造的に
はらまれており、それゆえにパターナリズムは「部分的に」認められざるを得ない。し
かし、「部分的に」とはどのくらいの範囲なのか。「誰にも、自分のことであっても未
来のことはわからないという必然に由来している」(立岩1999: 97)からである。この
先どんな運命が待ち受けているのか。誰にもわかりはしないとして、だからこそ面白い
のだが、しかし同時に、だからこそ、しんどい。石橋を叩いて渡る人、石橋を叩かずに
すんなりと渡ってしまう人。石橋を壊れるまで叩いておいて、「ほら、渡らないでよか
ったでしょ」と言う人。さまざまで、それでよい。ひとまず「出ること」、「自分の気持
ちのいいように」暮らすこと。しんどければ時には「決めないという決め方」もできる。

「(・・・)誰かに何かを行うのは、単にその人自身が決め行うことができないからで
はなく、その時に何かを与えようとしているからなのである。なにをなぜ与えようとす
るかにはいくつかあろうけれども、その中で一つ正当性を得られるのは、その人の存在
を認め存続させようとしてなされることであろう。」(立岩2000b: 303)

 自ら決定することで自らの生活を作っていくこと。そのことでかえって「しんどい」
、あるいは「命にかかわる」なら、それに固執することはない。決めるのがしんどけれ
ば決めなくてもいい。そもそも「健常者」は日常的に、生活の隅々において、一々「自
己決定」を「主体的に」行っているか。少なくともわたし自身は行っていないように思う
。自己決定する権利を奪われることには確かに耐えられないが、だからといって「主体
性」を常に求められることにもやはり耐えられないだろう。時には「いたれりつくせり
」がよいし、――「なにが食べたい?」と問われ、「なんでもいい」とつい答えてしま
うように――「いいようにして」欲しいこともある。にもかかわらず、障害者にだけひ
たすらに「主体的であること」が求められるとしたら、そのことに問題があるのは明ら
かだ。

とはいえ、「自己決定する自立」を主張することの意義は決して減ずることはなく、この
ことは矛盾しない。なぜなら、自己決定は、「あくまで在ることの一部であるから、何
よりも、その人が在ることよりも大切なものなのではない」(立岩1999d: 99)からで
ある。だから、自己決定を批判することは、自立生活そのものを否定するのと同じでは
ない。

施設や親元から離れ、自分で介助者を雇い、自分の望むことを「介助者を使って」成し
遂げていくということ、つまり、ひとまず一人で暮らすことそれ自体が「自立生活」な
のであって、それを要するに「自己決定する生活」への移行であると言えば言える。し
かし、理念としてではなく具体的な生活の仕方をもって自立(生活)とし、必ずしも「
自己決定」や「自己決定としての自立」を最初の唯一の原則とはしない。従属と保護か
ら離れて暮らすことと、自己決定を達成すべき目標とする生活を送ることとは完全に等
しくはないからである(立岩 1999b)。

このように、かつての、「堅い理念」としての「自己決定する自立」――介助者という
他者が介入してしまうことを否定するものとしてのそれ――を批判してきた。しかし、
「自己決定する自立」はやはり尊重され、その価値が減ずることは無い。このことは矛
盾しない。倉本が「社会モデル」に関して述べたこと(2002: 202)に即して言うなら
ば、否定されるべきは、「自己決定する自立」そのものではない。否定されるべきは、
それが語られ、要請された状況や政治的文脈を無視して、「自己決定する自立」を「完
成品扱いし、ドグマ化する」ことだ。わたしが批判するのは、自己決定する主体があり
、その決定を実現するために、ただただ透明で匿名の、「単なる手足」たる介助者がい
る、という風に、複雑で矛盾に満ちた現実を「あまりに単純化してしまった点」につい
てだ。それをわたし自身の介助者としての経験にできるだけ即して述べた。必要なのは
、「自己決定する自立」ということの意味と射程を広げることだということになる。
だから結局、介助者は「ノーバディ」ではいられないのだ。健常者を、「ノーバディで
いられる」という「特権性」から引き摺り下ろす営みでもあったはずの「自立生活」が
、介助者を「単なる手足」として単純化することによって、逆に「ノーバディ」として
語ってしまっていることになっていたのではないだろうか。その逆説を述べてきたこと
になる。
障害者の自己決定を実現させるために、介助者は「単なる手段」であれ。それを徹底し
て主張することがまず、正当なこととしてあった。しかし、そのことによってそこから
「はみ出る」ものがあることを確認し、これを語ることをためらってしまうことに対す
る違和感を表明した。しかし、こういった従来の「堅い理念」としての「自己決定する
自立」という範囲では解決しきれないものを、自立生活というものの外側に括り出し、
取るに足りないものとするのではなく、それを含みこんだ上での自立生活なのだという
ことを言う必要があるのだろう。

(以上)

<引用文献>
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■ ――――, 2000b, 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』青土社
寺本晃久, 2000, 「自己決定と支援の境界」『Sociology Today』10: お茶の水社会
学研究会: 28-41
■ 好井裕明・山田富秋編, 2002, 『実践のフィールドワーク』せりか書房

1 [石川1986]、[岡原・石川・好井1986]、[岡原1990]の3つの論文は共同研究から得ら
れた成果であるようなのだが、それぞれの論文において、ほぼ同じ事柄(「行き違いや
不満」)を指しながら、用語が異なっている。前2つでは「コンフリクト」という語が
、後者では「トラブル」という語が当てられている。混乱を避けるために、本論考では
、「トラブル」という語を選び、それをもって統一した。なぜなら、「コンフリクト」
という用語には、心理学的な用語としての先入観がしばしば伴う恐れがあり、それは報
告者の意図とは相容れないからである。ただし、引用文中での用法に関してはこの限り
ではない。
2 男性障害者を巡るセクシュアリティに関して、素朴な記述であることは認める。議論
を深める必要があるが、ここではその余裕は無い。また、本報告の趣旨とは異なるので
、「セックス産業」の是非については取り上げない。
3 [折り合う]=おりあうこと。妥協すること。→ [妥協]=双方が折れ合って一致点を見
出し、事をまとめること。(新村出編『広辞苑 第四版』岩波書店)

――――――――――――――――――――――――――――――――――――
15:10:休憩。
15:25:再開。

【質疑応答】
A:この文章の中に、「障害者」のほかに、「当事者」とか「利用者」とか、言葉がい
くつかにわかれているが、前田さんが意図してばらばらにしたのか、何気なく勝手にば
らばらになってしまったのか、どっちでしょうか。
前田:校正ミス。基本的に「利用者」という言葉を使っていたが、ばらついているとこ
ろがあるかと思う。
B:あまり本質と関係がないようで、あるのかもしれないけど。前田さんと利用者との
会話を見ると、利用者が丁寧で、前田さんがタメ口なのは、どうしてなのか。
前田:僕が年上で、利用者が年下だから。但し書きをしておかないと、と思ったが。ず
っと敬語を使われているんで、僕は「タメ口でええで」と言ってるけど、その人は(敬
語を)はずさない人なんです。
A:障害者がすべての責任を負うことが、自立の基本的な考え方であって、たとえ障害
者が失敗しても、障害者の責任と考えられる。けど、それと関連して、「障害者は失敗
する権利があるんや」といわれる方もいて、私もそう思う。障害者が生活の中で失敗さ
せないために先回りしている場合もあって、障害者の社会経験をさまたげていると思う
。障害者が失敗すると「かわいそう」とかいうけど、たとえば、この中の「酔っ払って
帰る」時の出来事でも、障害者本人が今までこのような経験をされてこなかったから、
酔っ払った時のことがわからない。失敗も経験の一つだと思うし、その経験で、今度か
ら酔っ払った時は、別のやり方を考えるきっかけになると思うから。みなさんいかがで
すか。
司会:前田さん、いかがですか。
前田:「どうすればいい」と、あっさり言うことはできない。とりあえず私はこのこと
について利用者と話し合うことになった。背もたれを上げて倒れないようにしたり、工
夫してみた。「あれでよかったんか」と僕から聞いたり。「あの時は酔っ払ってた」と
は、本人は思っていない。筋肉が弱っていたんだろうと。「今度からは気をつけるわ」
ということだった。(お酒は)ほどほどにするとか、酔ったら強めにベルトをしめると
か。アイデアを出しあったり、話し合った。答になっているかわからないけど。
C:今のAさんの質問は、自立生活運動のなかで繰り返し言われてきたこと。今日はそ
の「先」の話をしている。人はいくら経験をつんだからといって、すべてを制御できる
ようになるわけではない。リスクをおかす権利が大切なこと、それはそうだが、それだ
けでことはすむのか、ということを報告者は問いかけているのではないか。

D:ここで前田くんが言っているのは、自己決定=自己責任と言われたことへの疑問で
すよね。本当にそうかな。という疑問、それはとてもわかるし、大事なことだと思いま
す。自己決定=自己責任と結びつけられてきた言説があって、当事者からもそれが語ら
れる。でもそれが自分の感覚とずれること。
 同じようなロジックで、パターナリズムをすべて悪であるというのも無理があるよう
な気がする。自分のパターナリズムを抑制し、介助者が、利用者の決定を待っていると
、介助者が「申し訳ない」と思ってしまう瞬間がある。
(レスパイト・ケアの施設で)ある人が新聞の映画欄の時刻表を楽しそうに書き写して
いた。(私が)「映画に行くんですか?」と尋ねたら、「はい、行きます」とその方は
答えたんです。でもその方は一人では映画に行けなくてまだ誰と行くか決まっていなか
った。ガイドヘルプを申請しないといけない。僕自身も見たい映画だったし、「じゃあ
一緒に行きましょうか?」で話は済んじゃうと思ったんですが、「パターナリズムの抑
制」ってフレーズが浮かんで、結局彼が自分でガイドヘルプを申請して、映画に行く!
と僕にお願いするまで僕はなにも言えなかった。結局彼は映画に行くことができず…。
正直なところ、「パターナリズムの全否定」は双方にとってもどかしい。だから「認め
ざるをえない介入」の「アドリブ性」はとても興味深い言葉です。具体的現実の中では
、パターナリズムに敏感である人ほど、もどかしくてしんどい思いをしちゃう。

E:いわゆる福祉的配慮のパターナリズムと、実践の時の配慮とを対置されているのか
な?「パターナリズムじゃないか」と悩みをかかえておられる。福祉的配慮とふつうの
配慮、違うのではないかと思った。「職務配慮義務違反」というのがあり、訴えられる
ことがありますよね。タクシーの運転手が、客が乗ったのを確認しないでドアを閉めた
ら訴えられるとか。通常の社会生活のなかで配慮義務は存在している。(今日の報告の
中の、利用者が)酔っ払ったケース。それは積極的な配慮じゃなくて、運転手が酔っ払
いを乗せたくないのと一緒では。偏見じゃなくて、「車内を汚されるんじゃないか」と
か。そういう配慮は、通常なされている。一つは、福祉的配慮とかパターナリズムとか
いうものの性格は、はっきりと詰められていないかな。なんでも「介助者が配慮すれば
福祉的配慮だ」、みたいなのはちょっと違うんじゃないかな。パターナリズムというの
は何なのか、大きな問題だろう。
 もう一つは、逆に、一般社会の配慮義務みたいなもので、介助者−利用者関係を割り
切っていくと、分析していくと、マーケット的な市場原理的な、「プロフェッショナル
サービスとしての介助」という話に展開していく。問題の立て方は逆転していく。人間
関係が先にあって、「手足」、転倒しているんだ、と(報告では)いわれたが、歴史を
ふりかえると、初期のころ、現実問題として、自立生活をすると「介助者という健常者
」と初めて出会う。そこで対等な人間関係を結んでいく方が多かった。実態としてもね
。今は逆に、そうじゃなくて、「手足でいいんだ」という利用者の人が増えているんだ
とすると、介助も職業として業務としてつくっていくと、かなりの問題が解決されるの
だろうか。「賃金労働として介助」というのも打ち立てていったほうがいいのだろうか
、僕はよくわからない。マーケットでの介助サービスの提供というのは。「(お客が)
ここまで泥酔していたら乗車拒否してもいい」というふうに、割り切っていかれるのだ
ろうか。そうなると、どういう問題があるのかな。
 もうひとつ、ちょっと思い出した話。『ラブ』という本がある。障害者のナラディブ
(がおさめられた本)。その中で、介助者が泊まり介助をしていて、障害者が寝ている
そばで、恋人とセックスを始めてしまうという話がでてきて、障害者はそれで「傷つい
た」という。その時点では、「介助者=手足」だとしたら、機械がセックスしてるわけ
ですから、気にする必要はないわけですよね。だからある意味で、やっぱり手足とみな
すということも、無理があるのかな。手足とみなすと、自分自身も人間疎外になる。今
はお互い割り切れる時代なのか。『ラブ』から30年、今はもう、介助者というのはサー
ビス提供機械といっしょなんだ、セックスしても「業務怠慢」で怒ることはあっても、
「ショック」ではなくなるんでは。
F:いまEさんは、介助を市場原理の中で考える時代にきているのではないか、介助者
と利用者の関係をわりきって捉える時期にきているのではないか、という問題提起をさ
れたと思う。その点に関連して、今日の報告の中で、デリヘル嬢を自宅に呼ぶという時
に、「この人には頼める、頼めない」という判断がなされることに興味をもった。
介助行為が障害者と介助者との関係性の上に成り立っているとするならば、介助場面に
おける自己決定に限定したときに、自己決定を介助者との関係性の中で、流動的かつ動
的に捉えることもできるのではないか。自己決定を点として捉えるのではなくて。
「この介助者との関係においてはここまで」「あの介助者との関係においてはここまで
」というように、介助者との関係性の中で自己決定がなされているのではないかと思う

そこで、質問を2つ。
報告中、「ノリのあわない介助者」という言葉が出てきたが、障害者と介助者の関係を
「ノリ」という言葉でおきかえてしまっていいのか。また、「コンフリクトへの自由」
に関する報告の中で、障害者と介助者の開かれた対話(本文では「ダイアローグ」)の
重要性が挙げられているが、密室で行われる介助場面で互いが煮詰まってしまった時に
、二者間のみで”開かれた”対話がなされるのか。
前田:「ノリ」とは、そんなにしょうもないことだと思わないですが。「ノリ」という
のはたとえば、「その場の雰囲気とか気分」ということでもないんですよね。
D:そういえば、90年代の半ばにもミヤダイせんせが「仲間感覚」を表現する言葉とし
て「ノリ」という言葉を使っていたのを思い出しました。砕けた言葉のようで、意外と
一定の関係性を表現する言葉じゃないのでしょうか。
前田:一緒にイタズラする感覚かなあ、とも思うし。
C:「ノリ」という言葉は、とりあえず、ある現実や感覚を捉えるのに悪くない言葉だ
と思う。ある種の「共犯関係」を含んでいたりもする。
E:猥談のできる相手ということか。

A:介助者の中でも、例えば恋愛の話や悩みを話せる関係もあれば、自分の悩みを絶対
知られたくない介助者もいる。失礼だけど、介助者を使い分けている面もあるかと思う

司会:前田くんへの質問が他にもあったが。
前田:本当の対話ができているかいないのか、なんともいえない。
C:ここで言うコンフリクトというのは、対話に限定されたものではないのではないか
。対話というかたちをとることもあるかもしれないが。
前田:とりあえず話してみるしかないことがある。いい話し合いになるかどうかはわか
らない。これが本当の対話なのか、とか言い出すときりがない。でもとりあえず話して
みることはできる。
プロフェッショナルとしての介助ということですが。フリーターがやるバイトとして、
一つの選択肢として(介助の仕事が)あっていいと思う。でもそこで出会う人たちによ
って、自分のこれまでの経験を相対化するような経験があれば。むろんそういうことは
どういう仕事でもありうるが。(介助を)普通の仕事として見ていってよいのでは。

B:反論ではないが、議論が行き詰っている気がしないでもない。前田さんの報告はす
ごく面白かった。最初は介助者の「福祉的配慮」が前面に出て、いわば「図」になって
、障害者が「地」になっていたのを、障害者の「自己決定」を強調することで障害者の
ほうを「図」にして、介助者は「地」になった。でも今度は介助者の主体性のようなも
のが語れなくなってしまったので、もう一度考え直してみよう、と。
それで「自己決定」ということをもう一度考え直してみるとすると、私はむしろ、介助
場面における介助者のほうの自己決定って何なのかを考えてみたらどうかと思う。「手
足」を選択したとしても、介助者はロボットではないから、そこになんらかの自己決定
はある。それはどういう種類の自己決定なのか。「私は奴隷となります」という自己決
定ではないはず。だとしたら「手足」ということの意味は何かということになり、だい
ぶ話は変わってくる。
さっきEさんがいっていた、パターナリズム的な福祉的配慮と介助者の実践的配慮を区
別するのは、あまりうまくいかないと思う。職務上の配慮義務という法的な文脈にのせ
られると、タクシー運転手がお客さんが怪我しないようにドアを開け閉めする義務とい
うのと、前田さんが「今日このまま車椅子で帰ったらどうかな」という配慮とは、あま
り区別されないと思う。法が基準にするのは一般的な社会通念で、それは相変わらず介
助者を障害者の「保護者」として見ている。だから事故が起これば介助者が職務上の義
務をきちんと果たしていないということにされてしまい、利用者本人が訴えなくても周
りが訴えるかもしれない。つまり、法的な見方では、一般的な社会通念にのっとって、
介助者が「保護者」という文脈にのせられてしまう。
もう少し具体的なことでいうと、「命にかかわる問題」のことが出てきた時に、「(そ
の場合は介助者が)当然先まわりして」ということを言われていたが、それは「当然」
じゃないはず。そう言ってしまったとたんに、ドサッと落ちていることがある。
ここには「職務上の配慮義務がある」という文脈と同じような論理が働いている。どう
して「命にかかわる」と、そうなってしまうのか。それを考えるのが結構大事なことな
のでは。それを考えていく一つの方法として、介助者の自己決定というのを考えてみた
らどうかというのが提案です。
前田:それは大きいことですね。(報告では)あまりふれなかったが、「介助者のリア
リティへ」というタイトル。不遜な言い方かもしれないけど、介助者にしか見えないこ
とがあるんじゃないか。それは何か。障害者/健常者と利用者/介助者の関係性とずれ
。そこから見えるもんがあるんじゃないかと思った。

E:さらに混乱させるかもしれないが。まず今のBさんの指摘は、確かに、自己決定自
己決定といわれ、障害者だけを主体にして考えていたんで、介助者の主体性が見落とさ
れている点、線として正しいと思う。Bさんへの反論なんですが、原理論的には、配慮
とパターナリズムは区別できない。でも僕が聞いたのは、もう少し下世話な話。社会福
祉制度は、「措置から契約へ」という流れにある。特に東京方面の人たちの間に、「新
しい資格をつくろう。学校をつくって、授業料とって、資格出して」という話を真剣に
する人がいるんじゃないか。前田さんの話は、そういう方向につながっていく恐れがあ
るんじゃないか。
前田:そうではないと思う。どこがそうではないかは聞きたいが。資格がどうこうでは
なく、自分としては、(介助は)誰にでもできる仕事だと思ってる。自分自身、予備知
識があったわけでも経験もなく、いきなりできたわけですから。他の肉体労働とどう違
うか。
・・・「そんな難しいお仕事じゃないですよ」っていうのを言えるか・・・。
E たとえば契約で、「介助者の義務はここまでです」という契約をかわすなり、デリ
ヘルを呼ぶのはどうとか契約をかわしたら、解決できるじゃないですか、という意見が
あった場合、そうではないと反論できるか。
前田:それは今のところできない。

G:Eさんの言われたことに違和感がある。実際、この4月からの支援費制度でも、介
助者に資格を必要とするようになってきていて、それは自立生活者の現状と合っていな
くて、困っていたり、不平を言っている。私自身、前田くんが言ったように基本的に介
助は「誰もできる仕事」だったし、学生とかいろんな人が経験することに意義があると
感じている。不適格な人はどこにでもいるにしても、資格で線をひくべきものじゃない
と思う。資格があっても自立生活の考え方に理解のない人もいる。そもそもヘルパーの
資格がある人と、泊まり介助できる人があまり合致しないということもあるし。
 前田くんの報告の中で、「what to doも介助者との関係で決まるところがある」と
いうのは、納得する。私の経験でも、ご飯(利用者と介助者が食べる)の献立をきめる
のに介助者の好き嫌いを考慮したり、介助者の誕生日にケーキを買ってきて祝ってくれ
る利用者の人がいた。「そんなことをしてくれなくてもいいのに」と思ったが、それに
よって得られる楽しさ、「喜んでもらうという経験」みたいなものを利用者が望んでい
るのだとわかり、それも自己決定かと思った。こういう関係は、「プロフェッショナル
な介助」ではありえないことだろう。
とにかく、Eさんの言うような「プロフェッショナル、資格」という方向にはそうそう
いかないと思うし、今日の報告でも、そうはなりえないという話が示されていたのでは
ないか。
C:すごくおもしろい報告だったが、どういう議論をしたいのかがやや不鮮明な気もす
る。いろんなレベルで議論ができると思うが、整理は必要。介助一般の話と、自立生活
する障害者の介助とはひとまず切り分けて考えた方がいいように思う。
前田:ここでいう介助は「自立生活する障害者の介助」。有償で。
C:介助が労働であることが前提されているなら、そのことについてはっきり明示する
必要がある。
前田:制度面が充実していなくて、ボランティアに頼っていかざるをえない人もいるの
は事実。・・・・どういうところを強調して、どう議論していくか。・・・・そうして
いく必要はあったんだと思う。確かに。方向性は闇の中。すごく大雑把なことを最初か
ら最後までしているな、という気はしている。大枠みたいなことが出せればいいのだが

A:介助者とを職業として確立することは障害者のの生活の安定にとって重要だと思う
一方で、たとえば、私みたいな、脳性まひで言語障害ある方や、知的障害者ある方は、
ひとりひとり障害の度合いが違っていて、コミュニケーション上の困難が、脊損や頚損
の人たちよりもっと大変。そこのなかで、アテンダントも一定の人間関係を構築しない
といけないという側面はあると思う。
E:いじわる質問。なんでそんなことを言ったかというと、プロフェッショナリズムへ
と行きそうな流れはあって。「そうじゃないんだ」ということを言っていくためには、
それなりの理屈をつくっていく必要がある。それも、急いでやらないといけない状況。
C:専門職化? 労働一般じゃなくて。
E:そう、最初に決めてしまうという。
C:それと専門職化は別でしょう。
E:今の支援費制度などの流れでは、what to doと how to doをあらかじめ書面で決め
てしまう、そういう方向性があるんじゃないかと思うが。

B:プロフェッショナルになることと、それが福祉−保護的パラダイムになるのは全然
別のこと。私が研究しているのは「医療」という、専門職が幅をきかせている典型的な
分野なのだが、そのなかでも「患者中心」にやっていこうという動きなどがある。むし
ろ、プロフェッショナリズムがどういうパラダイムや社会通念で動いていくかというこ
とこそが問題。契約的になっていくのは、「障害者は保護しなければいけない、かわい
そうな存在だから介助を恵まなければならない」という社会通念から、障害者にお金を
持たせて介助に賃金を払うことで「障害者は利用者なんだ、お金を払って介助をやらせ
ているんだ」という社会通念へとひっくり返そうとしているという面がある。だから、
必ずしもプロフェッショナル化と福祉的パターナリズムは連結しない。
 それから「パターナリズム」というのは非難のために使う、「悪いこと」に対して使
われる言葉。ある一定の行動の様式を「パターナリズム」と呼んで客観的に記述するわ
けではなく、それを「悪い」こととして非難する場合に使う言葉なので、議論が混乱し
ないためにも、気をつけたほうがいい。
 3つめ。私は、たとえただでやっていても、介助という行為をやっている以上、事故
が起これば法的責任を問われる可能性は常にある。私がボランティアをしたときにも、
保険かけてくれと言われるわけです。そういう文脈がつねに用意されている。ボランテ
ィアかプロフェッショナルかの違いはそこにはない。
(報告の11ページであった、利用者である)彼がそもそも前田さんに頼んだのは何なの
か「帰ろう」と前田さんに行った時点で、「今すぐ自宅に帰るということを遂行するん
だ」と決定して、それを介助者に要求したのではないのではないか。むしろ「安全に自
宅に着きたい」という要求だったと翻訳すれば、その要求を引き受けて、安全に自宅に
送る義務を果たすために「今すぐ帰るのならその義務を果たすことができない、だから
ちょっと待って」といえる。そうすると、すぐに帰らずに待ったのはパターナリズムと
は言えなくなる。パターナリズムなのか、配慮なのかは、要求されていることは何かに
関する解釈によって変わる。私に求められるもの何なのかということは微妙なところが
あり、解釈は一通りではない。
 さっきも言ったことで、「命にかかわる」という言い訳が容易にされているけれど、
ここにはかなりややこしい問題がある。ロボットと本質的に違うは、そこに介助者の自
己決定が入っている点。自己決定同士のすりあわせがある。「人にやってもらう」って
いう行為自体がそういう構造をもっているわけで、本当の意味で「手足」になるわけじ
ゃない。「手足」というのは比喩なわけで、健常者か障害者かに関係なく、お金を払っ
てご飯をつくってもらったり、お金を払ってタクシーに乗せてもらったりという中にも
ある。やったことがないので危なくて爪が切れないという話があったが、本当に「手足
」なら、そんなことはいえないはず。そこには介助者の自己決定がある。
 要するに、「自己決定」とか「パターナリズム」とか「手足」とかいうキーワードの
意味にかなり幅があって、さまざまな解釈が可能。だからむしろそういう言葉というか
スローガンが必要とされる文脈のほうに目を向けるほうがいい。つまり、障害者は「か
わいそうな、保護すべき存在」としてその主体性を奪う社会通念とか、健常者と障害者
では力関係がまったく不平等だという事実とか、おおもとにあるものを変えるために、
そういう言葉が必要とされるということ。もっとも、これは今更言うまでもないことな
のだが。
前田:僕自身が「手足」にこだわっていた。自分で「これをやったらあかん。これはパ
ターナリズムだ」とチェックして、しんどい、というところがあった。
B:その感覚は正しいし、そう感じるのが当たり前でなければならない。でも、それは
根本的な立場の強さ・弱さの違いを感じるということなのであって、それ以上でも以下
でもない。
C:介助をめぐっては、社会通念自体がゆらいでいる。かつてなら、ある意味、ここま
で悩まなくてよかった。障害当事者から揺さぶりがかけられるなか、いまのところ、ま
だ落ち着く場所が定まっていない。結果、過剰な自己決定が求められるところがあるの
ではないか。

司会者:これまで発言していない方で。
H:(自分は)バイトで働いているが、障害者枠だった。自分は難病患者。退院してか
ら、一度旅行に行ったが、リーダーは私が体が悪いとわかって「おまえ、座れ!」とい
った。僕は調子が悪くなかったから「いい」と言った。そこで意見が対立した。相手の
ほうが「座れといったら座れ」と強要されることがあって。「病人だったら制限されて
もいいんか」と思った。その旅行はギクシャクし、結局けんか別れになった。人間関係
も悪くなった。契約と考えてしまうと、自己決定を認めてるというか。契約だけじゃな
くて、信頼関係とか。「手足」・・・・結局「抑止する」ことになるのではないか。ま
とはずれとは思うが、今の話を聞いて、どう思われましたか。
前田:手足に徹することを抑制しないといけない、ということ?
H:そういう問題じゃなくて。時には黄色信号を出すというのも必要と思うけど。友だ
ち関係を、こっちが希望してもおしつけられて、人間関係に及んでしまった。自分でも
整理できないので、もう少し考えます。
I:いろいろ論点があった。パターナリズムとか自立生活とか契約とか、それぞれ語る
ときの、それで表現しようとしてる内容が異なっているので混乱するんだろうな。
ある種、契約にすることと、市場労働に介助をのっけていくことは、運動でめざされて
いたことですね。ここまではパターナリズムだとか契約だという話があったんですけど
も、そういう議論と、市場にのっかる議論と別にしていいのでは。ペイされる労働とし
て、あっていい。ペイされるとはどういうことか、その中身についての議論ですよね。
どこまで誰が決めるかということは別の問題として議論していいのではないか。
(以下は自己紹介のため、省略。)

参加者 計21名(うち手話通訳2名)

以上


UP: 20030520 REV:0614(リンクミス訂正)

前田 拓也  ◇障害学  ◇障害学研究会関西部会  ◇全文掲載
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