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立岩真也『私的所有論』との対話

三村 洋明 20030410



 立岩真也さんへ

  以前、もう4・5年前になるでしょうか、『私的所有論』について論点を指摘する手紙を立岩さんに出しました。なぜ、「市場経済を前提にして論を進めてしまうのか」という内容の提起でした。そのときは、「それについては、○章△章にちゃんと書いてある、ちゃんと読んで欲しい」という返事でした。で、何度かの読み返し作業をしていました。その後、立岩さん自身が、その様な応答の仕方をするのはまずい(まずかった)というようなことを書かれている文をどこかで読みました。ただ、わたしとしては、今回はちゃんと細かいノートを作って対話−批判をしたいという思いがあり、そのため準備作業として本に書き込みをしながら何度か読み直しをしていました。途中、障害学研究会の関東部会の例会に報告者でこられたことがあったので、そのときに質問をしたりしていましたが、『私的所有論』の宿題に関しては触れずじまいでした。結局、そのときは「書いてある」という指摘もみつからず、日常の運動的なことの事務的な作業に追われ、ずっとノートつくりも果たせないままでした。ずっと、のどに小骨がかかったような思いを続けていました。
  最近やっと、ノートつくりに取り掛かろうとして、記憶力の弱いわたしは全体の構成が頭に入っていないことに気がついて、もう一度全体を読み直してから、ノートつくりに取り掛かろうとしました。わたしは遅読で厚い本を読むのにすごく時間が掛かるのですが、今回はわたしとしては、かなり集中して読み通しました。で、全体を見通して、木を見て森を見ないという状態に落ちいっていたことに気づいて、やっと何が問題になっているのか、わたしなりに理解ができました。
  わたしは、あれほど細かく論をたてていく立岩さんが、なぜ問題の堀さげを途中でやめていくのか、それがどうしても理解できなかったのですが、そもそも文を書く上でそれぞれどのような立場性で文を書くのかということがあり、その立場性の違いということを押え損なっていました。今回の『私的所有論』は、いわば、現在のバイオテクノロジーの進行で生命倫理が問題になり、福祉の切捨てが進む中で、現在社会の論理の中でどうそのことを批判していくのか、どう生命倫理をたてるのか、どう障害者の存在根拠をみいだしていくのか、ということで論を立てられたわけです。それに対して、現在の障害者運動が社会参加の名の下に、差別的関係性の中に取り込まれていっていると批判する、社会変革志向の障害者運動の理論を打ち立てようとするわたしは、なぜ現状を固定化しようとするのかというような批判をしていたわけです。生命倫理は現実的に問題になっていて、障害者の未来を規定していく内容をもつているわけで、それにどう対処していくのかというときに、未来社会の普遍的生命倫理などということは問題になりようもなく、現在社会の論理で現実的に批判していくしかないとも思います。
  わたしは、立岩さんの「困難」という言葉を固定化というようにとらえてしまっていたのですが、立岩さんとしては、今現実に問題になっていることの解決が迫られているところで、現実社会の近代的個我の論理で論を進めていくしかないこととして、あの大著を書かれたなのだということをやっと理解したのです。
  わたしの読みの構成が正しければの話ですが、・・・。
  で、もうそこでこの対話の大筋がおわってしまうのですが、立岩さんは障害者運動にもコメントされていますし、わたし自身にとっても、現実的にバイオテクノロジーとか、福祉の切捨てに対してどう批判していくのかということが、現実に問いかけられていることもありますので、そこでの互いの論の深化ということとも含めて、もう少し対話を求めてみようと思います。細かい論の内容には踏み込めません。大枠のところでの対話を、手紙という形で試みます。うまくまとめ切れません。いくつかの論点に沿った箇条書き風のなってしまいます。

(1)「私」について

  (イ)近代的個我の論理としての「私」
  わたしの立岩さんとの最初の対話は、障害学研究会が発足する前の東京での「障害学への招待」と名打った連続講座でした。そこで、立岩さんは「障害とは何かをさておいて論を進める」とされたので、わたしが質問の中で、障害学として出発しようとするのに、何故、障害とは何かということをさておいて論を進めえるのかと、問いかけたことです。
  この『私的所有論』においても、「私は誰か、私はどこから来たのかと問うのではなく、何がわたしのものとされるのか、何を私のものとするのかについて考えてみたい。」と始まっています。
  立岩さんは博学のひとで、近代批判の文を読んでいないわけではありません。わたしの中には、近代的個我の論理自体を批判するというところから、関係性をとらえていくという志向性があります。認識論的背景としては、マルクスの流れの中から出てきた廣松渉というひとの影響が大きいといえます。今回の『私的所有論』にも廣松さんの本が運動にコメントしたところの文献としてでてきますが、認識論的な文献は挙げられていません。ただ、立岩さんのホームページの文献の中にも、廣松さんの文献は多々挙げられています。したがって、近代的な個我を、実体主義的に立てる−物象化することの批判は十分理解されているはずで、何故そのあたりがすっかり抜け落とせるのか、という思いがありました。
  そこで、連想していたのはマルクスの『資本論』の上向法といわれることです。

  (ロ)『私的所有論』の端緒としての「私」−『資本論』との類比
  マルクスの『資本論』の端緒は商品です。その第一章の商品の中で、価値形態論を展開しています。そして、第一章の最後の節は「商品の物神的性格」で、資本論の解釈は色々なされていますが、廣松の流れのひとたちは、資本論は全編物象化という概念で貫かれていると押さえています。
  それに比すれば、立岩さんの端緒は「私」、そして価値形態論にあたるところが、「私の作ったものは私のものである」という論理ではないかと思います。
  マルクスの価値形態論についても色々解釈がなされています。商品経済発生の頃の物々交換的世界、初期資本主義の時代の市場。それに対して、これも廣松の流れのひとたちは、商品経済の物象化された相での一つの理念として押えているといいえるでしょうか?
  立岩さんの「私の作ったものは私のものである」という論理は、市場経済の基本理念ですが、現実にそういう社会があるわけではありません。労働者の作ったものは資本家のものですし、そもそも分業の中で「私が作ったもの」を特定できない社会構造になっています。極めてまれに、例えば経済的に切迫しない芸術家がもしくは、芸術家的活動として、ひとりで作品形成をするとき、そのひとが社会的歴史的関係性の中で生きている、生きてきたことを捨象するならば、という断り書きの中で、近似的にありえるのかもしれませんが、・・・。近代以前にさかのぼれば、もしくは、産業化されない社会では、もっと、その様な論理が通用しなくなります。奴隷の作ったものは主人のものであったし、自然の中で生きる民は、共同体の一員が外で仕事をして何らかの収入があったら、それをみんなで分けるというルールがある、という文献などもあります。
  何故、現実にもありえない、資本主義社会の理念に過ぎないことに、何故執拗にこだわり反論されようとするのか、わたしには理解しがたいものがありました。
  確かに、マルクスも商品を端緒にして資本論を展開し、「『資本論』は国民経済学の完成という意味も持っている」と称されるように、資本主義社会の論理を展開してみせました。しかし、そもそも、物象化されたというところをマルクスはちゃんと押えていたし、その志向性は、マルクスが『資本論』執筆だけにのめりこんでいたのではなく、運動家マルクスの姿があったし、研究的にも「古代社会ノート」などの執筆として、資本主義社会を歴史的相対性の中でとらえようとしていた事実もあります。
  立岩さんも、確かに冒頭の提起にもかかわらず、繰り返し、わたしとは何かという問題に再び立ち入ろうとする動きは出てくるし、そもそも、「他者」論を論じるときには、「私」を問題にせざるをえなかったはずです。しかし、繰り返し、「困難」というひとことをもって、市場経済を前提にしたところで堀さげを停止し、そこで論じてしまっているのです。

  (ハ)私的所有と私有財産制
  もうひとつ、私的所有について分からないのは、私の作ったものは私のものであるという論理が成り立たないのは、今の社会がそのような私的所有の論理でなりたっているのではなく、私有財産制の制度としてあるというとらえ返しが落ちているのではないでしょうか。すなわち、財産の相続という問題が落ちているのです。意識だけを問題にしていくので、制度なり、差別の構造という言うことが落ちているのです。立岩さんは、差別を定義して「「ゆえなく」人を不利に扱うことを差別という」としていますが、反差別運動の中で、「差別に、ゆえある差別もゆえなき差別もない」と語られてきたことがあります。その意味は、歴史的社会的文脈の中でおきてくるので、そういう意味では、「ゆえある差別」だけれども、どのような差別も認められないという意味では、「ゆえなき差別」ということになる、とわたしは押さえています。
  現実には現在の社会においては、現実に社会的にどう承認されているかの問題として、二つの不問に付される差別(もっと掘り下げれば差別としてとらえられるけれど、現実の当事者意識として差別としてとらえられない差別)があります。それは、生産手段の私的所有の問題と労働力の価値をめぐる差別の問題です。労働力の価値をめぐる能力主義的差別はゆえある差別、もしくは差別と定義しないということなのだろうと思います。市場経済の論理を受け入れてしまうとその様になってしまいます。(誤解のないように書いて置きますが、今の社会は必ずしも能力主義的な社会ではありません。能力主義的に社会にするには私有財産制を廃止せねばなりません)私有財産制というものは、確かにそれがうまれるときには、自分の子ども、自分の愛するものによりおおくのものを残したいという意識からうまれてくるにせよ、一度制度・体制というものが作られれば、むしろそれを維持するために、逆に意識を規定していくことが生まれます。例えば、性差別において、能力主義ということから言えば、ゆえなき差別ですが、私有財産制を維持するためには、家族幻想をあおらねばならず、男が自分の子どもを特定するためには、女を「独占」しなければならないというところにおいて、今の社会の根底である私有財産制を維持するために、性差別は必要とされるのです。
  立岩さんは、倫理をどう立てるのかというところで、意識の問題に問題をきりつめていくので、制度や構造ということがとらえられなくなっているのではないでしょうか?
もう一つ問題にしておかねばならないのは、立岩さんは私的所有も問題を分配の問題としてとらえられているようなのですが、マルクスは分配が問題なのではない、問題は生産手段の私的所有の問題だと論じていました。それを分配の問題としてどう立てるのかというところで論じていくと、差別の構造がとらえられなくなります。再分配としての福祉はあくまで、私有財産制の補正としてあるわけで、競争原理がこの社会の原理で、再分配は補正であって原理ではありません。再分配−補正を進めていけば原理が解体できるわけではありません。再分配は共同幻想をなりたたせるためにでてくることとしてあるわけで、あくまで原理の従であって、原理ではないし、原理と対等なこととしてあるわけではないと思います。余りにも再分配ということに過大な期待をかけすぎているのではないでしょうか? このあたりのことは倫理を論じる問題にも通じることなのでそこで再度述べます。

(2)反差別の根拠としての「他者との出会いの喜び」について

  (ニ)自我−他我の論理
  立岩さんの倫理ということを立てる根幹にあるのは、その他者論だと思いますが、わたしはどうも理解できません。というのは、立岩さんにとっては、自己があって他者があるというような論理になっているようなのですが、認識論的には、これも廣松さんの援用ですが、自我と他我というのは不可分的にあり、むしろ他我が先行すると言われているようです。とすれば、近代的個我の論理からする立て方自体がおかしいのだといわざるを得ません。むしろ、自我他我不可分的にある関係でのわたしというところで問題を立てていくようなこととしてあるのではないかと思います。これも、立岩さんが現在社会の論理の中で、倫理を立てようとしたことからおきた陥穽に落ちたといえることではないかと思えます。これも「私」を掘り下げないとしたところから、起きて来ていると思えます。

  (ホ)「他者との出会いの喜び」という物象化
  さて、立岩倫理の根幹には、「他者との出会いの喜び」というような論理があるのですが、それは有効なのでしょうか
  むしろ、差別を論じるときに出てきた論理というのは、逆に他者への恐怖と言うようなことがあるのではと思えます。差別問題の古典ともいえる著書を著したメンミは、差別の根拠を「異質性嫌悪」ということに求めました。これは農耕の定着民にいえることで、牧畜などで移動してくらす民の世界観には当てはまらないというような批判も出て、物象化として批判しえることではないかと思えます。立岩さんは逆に「他者との出会いの喜び」というようなことを挙げられているのですが、これも一面的ではないかと思えます。尤も、二面性があり、一面において、そういう面もあるからそれが反差別の倫理として機能するということであげられたのでしょうか? 反差別の倫理をたてるために、一面だけを取り上げた、プロテクロスのベッドのような話ではないでしょうか?
  もうひとつ、立岩さんの「他者との出会いの喜び」というような論理を見たときに想起したのは、マルクス−廣松のフェイルバッハ批判です。「他者との出会いの喜び」というような論理は、フェイルバッハの「受苦的存在」の裏返しになっているのではないでしょうか? フェイルバッハ批判の中で、そのようなことは物象化として批判されたのではないでしょうか?

  (ヘ)倫理は差別を押さえ込めるか?
  そもそも、差別の構造−市場経済の競争原理の中で反差別の倫理をどうたてるか、という差別の問題を倫理主義的に解決しよう−押さえ込もうという志向性は、競争原理に対する補正作用としてあるのではないでしょうか? 「私の作ったものは私のものである」という理念の補正としての−再分配の論理の過大評価に陥っているのではないかと思えます。補正は補正であって、原理ではありません。むき出しの競争原理では、共同幻想が働かない、ゆえに、福祉として色々な処置をとることになります。そこで言う補正は能力主義的な補正であって、能力主義そのものが差別である以上それで差別をなくせるわけではありません。そこでおきているのは、差別の形態の変化でしかありません。これについては、後に述べます。いやむしろ、補正によって、能力主義的に純化しているような幻想を抱かせているだけかもしれません。

  (ト)歴史的・社会的相対性
  古代社会の研究や民俗学的研究を見ると、蓄えができ私有財産的なものが生まれる中で、同心円的な排他性をもつた共同体に移行し、差別の構造が生まれてきます。歴史的社会的相対性をもって、共同性のあり方が変化していることをおさえねばなりません。自我の論理にしても、たかだか近代になってから出てきていることで、協働連関の中の共同体的紐帯の中での、自我−他我未分化なわたしというとらえ方がむしろ歴史的スパンとしては長いものがあったのではないでしょうか?
  立岩さんは、現在社会の変革を困難ということで退けたのと一緒に、そのような歴史的相対性もすててしまっています。確かに今の社会の中でどういう倫理を立てるかということでは、今の社会の論理で論を進めえざるを得ないのですが、その様なところで出していく論理というのは、もし現在社会が変わらないとしたら、というところで立てる仮定と、現実分析がごっちゃになって、まさにプロテクロスのベットのような論理になってしまっています。

(3)「自己決定」について

  (チ)「自己決定」はあるのか?
  そもそも自我−他我論的なとらえ返しが必要なのですが、一様前述しているので前に進めます。
  そもそも差別社会−なんらかの強制が働く社会でのそもそも「自己決定」というのはあるのか、ということがあります。
  例えば、女性の障害者の集まりに、子宮を自らの意思で摘出したというひとがきて、みなさんも楽だから取ったほうがいいと勧めたという話がありました。みんなでとんでもないと、話をしていって、やっとことの意味を当人もつかんだという話ですが、ここでいう自己決定とはなんでしょうか?
  安楽死や尊厳死といわれることがあります。それが確かに当人の意志としても、そもそも「役に立たなくて、他人に迷惑をかけるより、死んだ方がましだ」という考え方がこの社会に広く広まっていて、それを当人が取り入れている、取り入れるように強いられるというとき、それは自己決定なのでしょうか?
  自殺という言葉があります。他殺の対語で、他殺ではない自らが自らを殺すということなのでしょうが、この言葉には抵抗感があります。だから、わたしは自死という言葉を使っています。自殺といっても、死に追い込まれたという側面が強いからです。
  それらのことを考えると、いったい自己決定ってなんでしょうか?

  (リ)それでも「自己決定」は必要
  自己決定がありえるのか、と問題にしつつも、それでも、わたしは自己決定は必要としてきました。それは、障害者が、そして被差別者が自己決定を奪われてきた歴史があるからで、自己決定を奪われるということは、支配される−モノ化されるということを意味するからです。
  もうひとつ、決定論批判の脈絡での、主体をどうとらえるのかというところでの、とらえ返しの問題として自己決定を押さえておく必要があります。
  差別の構造を押えるとき、その根底に、私有財産制と分業の問題があるとわたしは押さえていますが、分業の止揚ということをどうとらえるのかが、今日問題になっています。協働連関の中の役割分掌ということまで、なくせるわけではありません。そこで、分業の止揚ということで問題になっていたのは、役割の固定化としての分業の問題、とりわけ、決定と執行の分離の問題ではないかとも思えます。そこでも、自己決定というのは、キー概念になってきます。

(4)「「正しい」優生学」について

  (ヌ)「優生学」とは何か
  「正しい」優生学という刺激的過ぎる言葉がでているのですが、そもそも「優生学」というのをどう規定するのかという問題があります。何々できるようになる、何々できるようになりたいというのは、別に否定するようなことではありません。問題なのは、こうあるべきだ、というところで、できるようになることを強いることです。『資本論』にも出てくる概念に、「標準的人間労働」という概念があります。現在の社会では、労働ということを基準にひとが価値付けられます。何か事故などで死んだときに、その人が一生の間にどのくらい稼ぐことができたかで、損害賠償の額が決められます。まさに、ひとが労働力の価値で、価値付けられる社会なわけです。そういう中で、標準的人間像が現にあり、理想像が描かれます。テーラーシステムということにそれは端的に現れています。そういう中での、できる−できないが問題にされているわけで、こうあるべしという論理が働いているわけです。「優生学」自体が、そういう資本主義の成立の中で生まれてきています。だから、「正しい」ということは、強制がない−標準的人間像が描かれないということを意味するのかもしれませんが、そういうことは資本主義ではありえないわけで、そもそもそういうことが描かれなかったら、優生学という概念自体がなくなることだと思えます。だから、「正しい」優生学などというのは、論理矛盾なのです。

  (ル)「障害はないにこしたことはない」考
  さて、前述の正しい優生学で出てきたのは、「できるにこしたことはない」という論理でした、その対としてあるのは、「障害はないにこしたことはない」という論理です。
  そもそも、立岩さんがさておくとした「障害とは何か?」の問題があります。イギリス障害学では、「障害とは、社会が障害者と規定するひとたちに作った障壁である」という規定がなされています。そこでは、「障害はないにこしたことはない」と言いえます。ですが、ここで問題にされているのは、障害者といわれるひとが障害を持っている、障害があると規定されたところでの、「ないにこしたことがない」という論理です。いったいどういうことでしょうか? パラダイム転換ということが語られてきています。フェミニズムにおいては、性差を歴然としてあるモノとしてとらえないとして、反本質主義なり脱構築の概念で語られるポストモダンの情況があり、物象化というとらえ返しも出てきています。立岩さんがその様な情況をしらないわけがなく、あれだけ精巧な綿密な論を張られるのに、何故、旧態以前の論理の枠組みの中で論を進められるのでしょうか? すべてが、困難だということから規定されるのでしょうか?

  (ヲ)「障害の否定性」の否定
  もうひとつ、ここで書いておくことは、そもそも障害とは何かというとらえ返しを抜きにして、障害者が障害を持っている、障害者側に障害があるとして、「障害の否定性」の論理が語られてきたことです。先ほどのイギリス障害学の地平で言えば、障害は否定すべきものなのです。「障害の肯定」ということも、「障害の否定」の単純な反発、しかも文化主義的な反発として出てきています。障害者文化という脈絡で「障害の肯定」ということは評価できるし、その意義は大きいと思うのですが、そもそも障壁としてある障害の問題を抜きにして文化だけを語ることはできません。わたしがやっていること、やろうとしていることは「「障害の否定性」の否定」と突き出しています。それは、障害が障害者に内自有化される形で浮かび上がる構造自体を問題にしているのであって、障害を肯定しようということではありません。時には、固定概念を崩すということで、既成のイデオロギーに対峙させた「肯定的な」突き出しのさせ方をしたりしますが、「「障害の否定性」の否定」は、語弊を生むことを恐れつつ、敢えてひとことでいえば、「どうでもいいじゃん」という突きだしになると思います。
  さて、余談的になりますが、イギリス障害学の障害規定批判として、それだけですまないとされる問題についてコメントして置きます。障害が障害者に内自有化される根拠として、出てくる痛みの各私化−固有性の問題です。病気と障害は一応区別しなければならないとしても、それで痛みはとりあえずはないにこしたことはないといえなくもない、ととりあえずいってきたことの更なる深化です。
  痛みが確かに、そのひとのものとされる各私性ということはあります。ただ、自分の痛みとしてとらえられないままにも、そこに痛みがあると感じえることはあるといえます。廣松が例に出す、金槌で手を打った人の痛みをそこに感じるということはあるという譬え、更に、身近な他者の「肉体的痛み」を「精神的痛み」として感じるということはあると思います。更に、痛みが必ずしも否定的にとらえられない例も示しえます。例えば、胃の痛みが慢性化し、その痛みが出るときは体疲れているときで、休もうと誘っていることとして休みをとる、その様な付き合い方、よく言われる病気と友達になるという話です。そういう中で、むしろそれだからこそ新しい生をそこで得るという話です。こういう病気と友達になるとか言う話は結構東洋においては老荘の思想とかで語られてきたことです。十牛図のような話しもあります。まあ今の社会一般には、ひとはつらいこと苦しいことをさけるものだというようなとらえ方があり、立岩さんのこの本の中でも、囚人のジレンマとか共有地の悲劇として例示されたりしています。しかし、そのような世界観というのは近代的世界観、自然の征服というようなところで起きてきたことではないでしようか?
  現代においても趣味的なことといわれることにおいて、例外的なこととしての話があります。例えば、冬の寒い時期に朝早くから釣りに出かけるひとが居ます。冬山の登山や大きな波に乗ろうとするサーフィンなどをわざわざ危険冒すひとがいます。「自然」という中でおきることに関して、むしろその中でのつらさや苦しさには存外と楽しめるものかも知れません。公害などで強いられて痛みを持たされるということに対しては、耐えられないというようなこと、すなわち、他者から強いられる、しかもモノ的に扱われる中での苦しさということに対しては、怒りをもつとしても、自然の中で、おきてくることに対しては、そのことと共生しえることとしてあったのではないでしょうか? 病の中で、病と共生し、むしろその中で何かを残していくひとがいます。穏やかな波にサーフボードに乗って波に揺られて楽しむような生もあれば、台風のような荒波に乗って楽しむ人もいる。病の中で、時には痛みと向き合いながら、むしろ病をえたからこそ、限られた生の中で自己を表現していくような生がいろんなところで、いろんなひとから語られてきたのではないでしょうか? 自然の征服という近代的世界観の中で、そのことを忘れてしまって、近代的個我の論理ということが、痛みの各私性の論理を倍加させたのではないでしょうか?
  わたしたちは、今の社会資本主義の社会の中で生きていて、その中でどっぷりつかって生きているその枠組みで、個人の意思や自己決定ということを考えたりしていますが、それは自己決定などどこにあるのかというところでの自己決定になっているわけで、自己決定がなしえるところで、個人の意志が働くところで、どのような関係が作られていくのかということを、どこまで今の社会から想像しえるのでしょうか? だからこそ、マルクスは「共産主義はわれわれにとっては、つくりださるべき一つの状態、現実が基準としなければならない一つの理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは、いまの状態を廃棄するところの現実的な運動である。」と語らざるを得なかったのです。

(5)倫理をたてることについて

  (ワ)倫理主義批判
  わたしには、立岩さんの倫理をどう立てるかというところで、論を進めることが良く理解できないで居ます。アルベール・メンミは差別問題の古典といえるその著書で「差別主義とは、現実上の、あるいは、架空の差異に普遍的、決定的価値づけをすることであり、この価値づけは、告発者が己の特権や攻撃を正当化するために、被害者の犠牲をも顧みず己の利益を目的として行うものである」(『差別の構造』1971合同出版)と利害の問題として差別の問題を記しました。ゲゼルシャフトの社会では、ひとは倫理で動かない利害をめぐって動くという定式化ができるのではないかと思います。このようなことを書くとき、わたしには根マルクスの唯物史観ということがあります。今日、ドグマ化した、曲解したマルクスをもってマルクス葬送が語られ、その提起している意味をとらえないままに、社会分析をしているときに、まさに、本人が自覚しないままに、唯物史観的なとらえ方になっています。例えば、アメリカの今回のイラク攻撃の本当の理由は石油にあるというとらえ方なりというのはそうだし、有明湾の埋め立て事業が表向きの理由はふっとんでゼネコンのための事業になっている、いうとらえ方などがそうです。どう倫理を立てるかということが、建前になって、本音が出てきたときにそれが吹っ飛んでしまう、そういう歴史をとらえるとき、倫理をたてるとき、その限界性を押えた上での、倫理でしかないという思いがわたしにはあります。岸田秀が新聞のコラムの中で、「倫理主義とはファシズムの通路である」という提言をしていました。倫理主義−基本的人権に基づく福祉という共同幻想が競争原理の中で解体されたとき、別の共同性をもってするしかない、それが民族なり、国家の論理であり、ファシズムとして現れる、というようにわたしはとらえました。ナチスドイツの登場は、極めて倫理主義的な登場でした。そういう歴史をとらえたとき、わたしは、倫理ということばに恐怖さえ感じるのです。

  (カ)倫理主義的差別
  もう一つ、わたしの倫理嫌いは、差別には倫理主義的差別ということがあるというとらえ方からきています。それはわたしの吃音者としての体験に基づいています。というのは、吃音者が吃るときに起きる笑いが一つの差別としたら、逆に吃音者が吃っている時のシーンとした沈黙、それは差別してはならないという倫理に基づき、しかし差別的な心情を出してはならないというところでの張り詰めた沈黙、これは倫理主義的差別とわたしは名づけています。吃音者にとって、時として笑いよりもこちらの方がつらい場合もあります。だから、吃音者自ら道化を演じることで笑いに昇華させようとする行為さえ出てきます。これは吃音者に限らず視線恐怖の体験をもつ障害者ならば同じ思いを体験しているのではないでしょうか?

  (ヨ)差別形態論の欠落
  さて、倫理ということをたてることの中には、倫理ということで差別を押さえ込もうということがあるのですが、こういう動きが出くることの中には、現在の人権思想の普及の中で、差別が軽くなってきているというとらえ方があるのではと思えます。果たしてそうなのでしょうか? アメリカで公民権法が成立したのが60年代の初めの頃、キング牧師は「これは終わりではない、始まりだ。これからの問題は貧富の問題・・」というようなことを言いました。その貧富の差−相対的な差というのは、逆に拡大したといわれています。確かに、機会均等という意味では何かしらの前進があったのかもしれません。ですが、機会均等としてもなくならない差別、差別の構造があるところで、機会の均等といっても機会の均等などにはならないという問題、わたしはその様なところの問題を「障害者反差別論序説」の差別形態論で論じました。
  もう一つ、立岩さんは障害者への差別を抹殺などの排除型の差別を中心に捕らえられてその反論を組み立てられるのですが、抑圧型の差別からとらえると、どうなるのでしょうか? 生まれてくる障害者の存在を否定する論理は、生きている障害者の抑圧になるし、障害を障害者に内自有化させるところで「障害の否定性」の論拠に乗れば、障害者の存在を否定する抑圧を許してしまうことになります。
  障害者差別の根拠をどこに見るかの問題もあります。現在の人権思想や倫理で問題にできるのは、排除型の差別で、絶対的排除は抑止しえても相対的差別は不問に付してしまいます。そこでおきているのは、差別の形態変化です。形態変化を差別が軽くなるというようにとらえる人たちがいます。それに対する批判は、相対的排除の性格の強い差別を受ける人たちが、自己責任論から逃れるために、自らの障害を素因論に求めていくことで現しえます。すなわち、抑圧型の差別から逃れるために、排除型の差別を求めていく、求めているのではなく、結果として陥っているだけですが、それでも、一時しのぎとはいえ、そういう罠にはまってしまうことを見れば、必ずしも相対的排除が絶対的は維持よりも差別が軽いとはいえないといえます。
  差別によって、不合理な差別としてなくせる可能性もないわけではないと思います。では、障害者差別はどうでしょうか? 労働能力のないとされる障害者は、排除されてしまう、相対的には差別の構造にとらわれてしまう、そのことをどうするのか、立岩さんは社会変革は困難だとされ、現在社会での倫理を立てるという方向性に向かわれているのですが、確かに、困難だとして現在社会の枠組みの中で、障害者問題を倫理で解決しようというのは、困難より以上の不可能だといわざるを得ません。確かに、ある場面で倫理は、差別の抑止力としてはたらくことがあるにせよ、差別の構造を不問に付して、出てくる差別をたたいていくだけになり、悪無限的に叩き続け、それもある情況下で、一挙に無に帰する、それが歴史的情況ではないのでしようか?
  それとも、差別はなくならないとされた上で、できるのは倫理で差別を押さえ込むだけだとして、悪無限的な差別のもぐらたたきとして倫理をたてられているのでしょうか?
  反差別運動で先行したフェミニズムの例があります。能力主義的に言えばおかしい性差別はなぜなくならないのか? それは私有財産制を存続させるために、家族幻想を維持させねばならず、産む性としての女性に貞操を求めざるを得ず、女性が従属させねばならない関係に貶められるからです。ここでも、目的が逆転させられています。そもそも、私有財産制は、自分の子どもに何かを残したいと特化することによって生まれたものなのに、それが逆に体制−私有財産制を維持するために幻想があおられていく、丁度土建国家で、何のために工事するのかをさておいて、ゼネコンのための事業となっていくように、・・・。ファイアーストーンは、女性が産む性であるがゆえに差別されるとして、試験管ベビーの技術の開拓によって女性の解放を夢想しました。そのことが現実化してきているのですが、それはひと総体のモノ化しか意味しません。
  障害者差別の土台は、ひとが労働力によって価値付けられることにあります。だから、労働力の価値というモノ化されることをなくせない限り、障害者差別はなくなりません。
  それを困難だということで退けられたら、何が残るのでしょうか?

  (タ)障害者運動の現在と未来
  現在の障害者運動は、障害者の社会参加という流れが主流になっています。そこで問題にされているのは、能力主義に基づく機会の均等です。それで障害者問題は解決しえるのでしょうか? 先ほど書きましたように、そこで起きているのは差別の形態変化です。
確かに、排除型の差別は、差別としてはっきり分かる差別だからそこから問題にしていこうということなら分からぬわけではありませんし、実際にはそういうようなところでしか運動は進まないともいえます。ですが、排除型の差別だけを問題にしていっても結局形態変化がおきていて、障害者差別が軽くなるわけではないということを押えた上で、問題を立てていかなくてはなりません。ですが、全体的な社会変革運動の解体的情況の中でそのような方向性を今の障害者運動はなくしています。
  例えば障害者差別禁止法制定の運動があります。過程の問題として押えるならば、それなりの意義はあると思います。ですが、日本における反差別運動を切り開いてきた部落解放運動の中でも語られてきたのですが、「法律で差別はなくせない」という定式があります。差別禁止法で差別はなくせません。そもそも、法−国家という差別機構の中で差別を解決しようというのが論理矛盾です。そもそもアメリカのADA法が日本に伝わってきたときには、日本ではその動きには批判的でした。というのは、障害者の分断をもたらす両刃の剣的なとらえ方がされていたのではないでしょうか? 倫理を立てて、差別を抑圧しようというのは、この障害者運動の社会参加型の運動に収束されている現在の障害者運動を背景にして出てきているといえるでしょう、それでは、障害問題の解決は困難でなくて不可能なのです。

(6)まとめ−倫理主義批判の中での倫理

  かなり、話が広がっていってわたしの主張を出しすぎて、論点が曖昧になってきました。問題を整理します。
  そもそも立岩さんのこの著書に衝撃を受け、共鳴することがありつつも疑問に思うことがあり、対話したいと思ったのは、この文章を立岩さんが障害者問題を総体的に論じ、深化させるところで論じているととらえたところから始まっています。何回か読み直しつつ、やっと気づいたのですが、立岩さんとしては、昨今のバイオテクノロジーの進行や、福祉の切捨てなどの状況下で、今の社会の中で障害者サイドからいかに、存在の根拠を得るか(抹殺の論拠を否定するか)、倫理をどうたてるかというところで、この論を進められたのではないでしょうか? だから、今の社会の論理に乗って話を進めざるを得なかったし、近代的個我の論理に乗って話を進められたのだと、わたしの理解が正しければの話ですが、理解できました。そこで、細かい部分でちょっとは疑問に思うこともあったのですが、大枠としては、膨大な論として完結しているのだと思います。
  この著書にもし副題を勝手に付ければ、「生命倫理をどう立てるか?」ということではなかったのでしょうか? わたしとしては、社会参加型に障害者運動が収束されていくことを批判し、いかに障害者差別をなくしていくのかというところで、障害問題を原理論的に立てようとしていたので、そこで過大な思いを抱いて、この著書を読み違えてしまったのです。現実の問題をどう解決していくのかということでは、立岩さんの論も必要なことと思います。ただ、それだけではすまないし、過渡的に論じているということを押えたところでの、読み込みが必要なのだと思います。
  今回の立岩さんの著書の読み直しの中で、わたしの倫理嫌い自体の自己批判的とらえ返しもしていました。共同幻想下での倫理には批判的であり続けるとしても、現実にバイオテクノロジーの進行や、福祉の切捨てに対抗する理論が必要ですし、現実に倫理的なこととも必要になっていくと思います。そして、どう新たな関係性を作っていくのかというところでの倫理、共同幻想にとらわれない倫理ということも必要になっていくのではないかと思ったりしています。
  ただ、未来社会の倫理など言うことは余り考えられません。立岩さんの今回の論を進める根拠は、社会変革は困難と言うところから始まるのですが、その運動における、一部の意識あるひとが運動を引っ張っていくというスタイル、そこにおける差別的な関係を生み出していくこと、そのような関係での運動の困難性、いわゆるボリシェビキズムというようなことに対する批判も、運動の理念というようなことではなくて、現実的に解決していくようなことではないかと思います。わたしたちは、現在社会から未来を見てしまいがちで、そこでの困難性を想うのですが、何故かの『ド・イデ』のマルクスの提言があったのか、というところから現実に運動を進めていくことだと思います。このあたりのことが、立岩さんとの議論の隠れた論点になりそうなのですが、わたし自身もまとめきれていないし、著書との主題にずれますので、今回はここまでにします。レジメ風の文章になって、廣松とかマルクスを前提にした議論になってしまいました。そこから論じるとそれだけで、本数冊になってしまいます。その前提のない他者の入り難い文になってしまったのですが、とりあえず、立岩さんとの約束の対話、かみ合いにくい対話になったのですが、宿題を果たせただしょうか


cf.
◇立岩「返信」(準備中)

UP:200304
三村 洋明  ◇『私的所有論』  ◇障害学  ◇全文掲載
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