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容貌問題を巡る「語り」と「法」

朽網 由紀 2003/03
九州大学大学院法学研究科修士論文


≪ 目 次 ≫

はじめに  「日常に存在すること」  1

第一章  容貌問題をめぐる「語れなさ」の構造  4

 第一節  容貌問題をめぐる当事者の語り  4
  第一項  当事者の語りによる問題提起  4
 第二節  「居ない」とされること  7
  第一項  容貌問題の「語り」に存在する多様な「違和感」  7
  第二項  容貌問題を抱える人々と他者の位置  10
  第三項  存在しない「言葉」  15
 一章のまとめ  19

第二章 法と容貌を患うこと  22

 第一節 問題の所在   22
 第二節 集計結果  22
 第三節 「隠すこと」と「心配事」をめぐって  26
  第一項 「見た目」への対応について  26
  第二項 「心配事」の分析  28
 第四節 患い、煩うこと  30
  第一項 「補償」を巡って  30
  第二項  「法」 を患い、煩う  32
  第三項  「法」 への期待?  35
 二章のまとめ  36

第三章 法の力  39

 第一節 容貌問題を巡る「紛争」と「法」  39
  第一項 容貌問題に機能できない?「法」  39
  第二項 裁判解決の不・可能性  41
 第二節 法に囚われない弱者へ  46
  第一項 容貌を患う当事者と法の関係を通して  46
 三章のまとめ  48

 添付資料  …2000年実施アンケート質問用紙



はじめに 「日常に存在すること」

  私達は、日常生活の中で容貌(顔等を含む)に疾病・傷病を患う人々の姿をほとんど目にする事が無い。例えば、肌の色が人種特有なものではなく、皮膚内の出血痕のような紫や青や赤の色を肌の一部として持つ人々、熱傷痕のケロイドを患っている容貌の人々、薬の副作用によって、髪の毛の一本もないスキンヘッドの人々、顔面に固有の「変型」(そして「変形」)を負った人々を私達は、目にする事があるのだろうか。これほど情報が氾濫し、通信手段が多様化している現在であるにもかかわらず、絵画や写真そして、映画やTVやインターネット等の中に自然にその人々の姿を見ることはできない。視野の中の主役でなく、端役としてでさえも容貌に疾患・傷病を患うi(または煩う)人々を見つけることが出来ない。この容貌に問題を抱える ― 容貌に疾患・傷病を患う ― 人々が、患っていない人々と同様に生活を送っているとされるならば、私達は、彼/女らを日常的に見かけるはずである。それともそのような人たちは、想像上の存在にすぎず、現実にはこの世界に一人も存在しないとでもいうのだろうか。
  これまで私達は、文学、社会学、哲学、倫理学そして法学等の様々な学問分野において、「社会」の中に生きる「人」を捕らえ続けてきた。具体的には、「身体に機能障害を持つ人」の存在についてあげることができる。彼/女は、身体に問題が無いとされている人より、(多少)困難な日常生活を余儀なくされた人である。それらの人々は、これまでは身体の機能の問題から、一人で街に出て行動することが困難な場合が往々にしてあった。このような問題には、それぞれのアカデミズムの視角から多くの研究が行われ、改善がなされている。一例としては、道路の段差を無くす補整がなされ、横断歩道には音声信号が設置され、多くの場所や建物の中にスロープが常設され始めたことが挙げられる。更に身体的機能ではなく、「精神を患っている人」の存在である。この彼/女を取り巻く情況に関しても多様な取り組みがなされている。また時折、精神を患っているように見受けられる人々(ブツブツ独り言を口にし続ける者、大声で一人笑いをする者)を街角で見かける事がある。一瞬、ドキッと驚くことは、仕方がないとしても誰も警察へ通報したりはしない。これらのことは、私達が個別の理由に関係なく突然に何らかのhandicapを身体や精神に伴い(または伴ってしまい)、社会的(国)にdisabledだと見なされた場合でも、その存在は、社会を構成している多様な存在の一員(「人」)であることを私たち自身が認識し始めた兆しであろう。
  だからこそ、従来のアカデミズムの多様な視覚の取り組みは、社会の中に埋没している多様な人々の中から単なる自然科学界に存在する「人」だけにとどまらず、多面的なハンディ=不平等を持った「人(=主体))の存在をも積極的に捕らえてきた。現状では、更に詳細に、その不平等さえも再検討が試みられ、新たなる問い直しが始められている。そして社会の中(位相)に存在する人の持つ多面的な不平等の認識が、多種のアカデミズムが取組んできたテーマ(例えば正義や自由)に活力を与え、更に法を駆動させ法制度を促してきたとも考えられるii。
  しかしながら、上記の人々とは状況の全く異なった「人」を見逃してはいないだろうか。身体の機能障害でもなく、精神障害でもない、社会の問題として取り組まれる現象の対象からどうしてか、抜け落ちてしまった「人」の存在である。本来の自分の容貌、姿で社会に存在することを隠し、社会からもその存在自体が、「居ない」とされている「人」が「居る」ように私には思われる。本来の姿を隠避し日常の生活を送っているとしたならば、なぜそうしなくてはならないのだろうかiii。
  ある体験記ivがある。内容は、現在容貌を患っている「笹川真紀子」が、熱傷体験後の何気ない日々に起きた出来事についてその時の心情を吐露したものだ。笹川は、全身70%vに及ぶ熱傷を負いその後、完治し容貌を患うことになった。容貌を患った笹川が、バスに搭乗した折、車内で騒がしくしていたある子供に対して、同乗者の親が「いい子にしてないとあんな人(笹川氏個人を示しているように伺えるがここでは、汎用的な意味に置き換えて『容貌を患う人』のことであろう)のようになるわよvi」とひそひそ話をした出来事があったこと。また笹川が外出した際、全く面識の無い者から「家でじっとしていればいいのにvii」と心無い言葉を受けた出来事を経験したことを語っている。これらの経験を経て彼女は、容貌を患うことの困難さについて、思惟を巡らせながら彼女の体験に根ざした彼女の言葉で次のように語っている。

顔に、傷が残っても受傷前と同じ私であることには変わりはないのにviii

  今まで、このような顔や他者の目に触れやすい部分に容貌の「変型」(『変形』)、「変色」「傷」等を抱えた当事者達の受難(日常生活的な社会参加への拒絶の状況)について耳を傾けた事があっただろうか。先天性・後天性の原因はともかく、容貌に何かしらの「見た目」の問題を伴う人々の「語り」に内包される「生き辛さ」に着目し、救済の必要性や救済への方向が志向された事があったであろうか。容貌に問題を抱える人の「見た目の問題」に関連した「生き辛さ」は、法学界を含む多くのアカデミズム界においてもこれまでダイレクトに論じられる様相がみられなかった。その要因としては、医学的にも機能障害を伴わない事に起因する問題自体の軽視ix、問題の隠蔽xが挙げられるのではないかと議論されている。しかし私は、むしろ容貌に問題を抱える人々を巡る「語り」にヒントがあるのではないかと考察している。この彼/彼女を巡る「語り」に含まれている「生き辛さの語り」(=『声』)には、私達に取組まなければならない多様な課題が提示されている。本論にて詳細に分析、検討を行いたい。まずここで本論の内容を簡略して述べておく。
  第一章では、容貌問題を抱える人々の3つのケース「語り」を紹介し、微細に『語り』の分析を行う。「語り」を手がかりに容貌問題を巡って人々が「生き辛さ」と戦いながら、日常を生き抜いている姿を読み解くことにしよう。
  第二章では、アンケート調査の結果報告とアンケートに記された当事者達の意見の分析を行うことにする。さらにそこから浮かび上がった「容貌問題」と「法」の関係に着眼する。アンケート調査を介して「法」に問い掛けている、当事者の「声」の伝達と容貌問題に関連する法システムへの批判的検討を行う。
  第三章では、二つの裁判事例をもとに容貌問題を巡る「紛争」と「法」の関係に触れつつ法と人の関係について述べていきたい。

i 「わずらう」の表現は、病気を実際に「患っている」ことまた思い悩むことの「煩う」がある。本論文は両言語を射程に考えて論を展開している。これは、疾患あるいは、傷病が治癒医療的には治癒したと判断されていても当事者からは、まだ「患った」状態(納得の行く状態ではない)と認識されているからだ。「患う」の漢字をもって双方の意味を表す事にする。
ii アメリカにおけるアファーマティブ・アクション(差別撤廃のための法による積極的行動)法政策などが特に有名である。日本では、機能障害、精神障害について例えば、身体障害者福祉法(1949年制定)、精神薄弱者福祉法(1960年制定)、現・知的障害者福祉福祉法が制定されている。このように法によって権利が保護され、今以上の取り組みは必要だとしても何かしらの形で具体的な救済策がなされている。
iii 実は、もっと研究を深めていけば、容貌問題は、機能障害を伴う者も内包している問題である。ドキュメンタリーで報道された当事者(先天性四肢切断障害)は「なぜ、成長に伴って義足をつけ変えなければならないのだろうか?」と疑問に思い、自分自身の回答を見出し義足や義手を放棄してしまう。周囲の視線にどのように写ろうとも、ありのままの姿で生活をしようと選択する当事者の姿を映している。 FBS福岡放送局200年7月16日(月曜日)16:00再放送「奇跡の子育て奮闘記 両腕を失った母親の愛」
iv 笹川真紀子「自身の熱傷体験から心のケアを考える」『看護雑誌第』64巻第5号2000年428頁 一部引用
v 笹川 (前掲書)428頁参照 2度および3度の熱傷の病状
vi 笹川 (前掲書)428頁より 一部引用
vii 笹川 (前掲書)428頁より 一部引用
viii 笹川 (前掲書)428頁より 一部引用
ix 看護雑誌編集者記載「特集 疾患・外傷のある顔 知っておきたい『見た目』の問題」『看護雑誌第』64巻第5号2000年 397頁 以下は、引用: 病や障害、先天的な「奇形」などが容貌に表れる人がいます。それが、機能的には問題ない場合、「命には別状ない」「身体障害に比べたらたいしたことはない」として、医療の中では関心が十分もたれないままきたようです。また、疾患や外傷を顔に持つ人たちの多くは、日常の社会生活の中だけでなく、医療機関においてさえも、無理解や心無い対応に「自尊心を傷つけられた」経験をもつといいます。すなわち、当事者が感じている精神的な苦痛に対して、医療者は過小に評価し、両者の間に大きなギャップが生じているのではないでしょうか。
x 松本学「容貌から顔に向かって」『アジャパーウェスト』創刊号2000年 74頁 〔タイトル:顔は問題じゃないと言う建前〕より、「美醜というは本質的問題でないことから問題を隠蔽してしまう」と、松本氏は指摘している。



第一章  容貌問題をめぐる「語れなさ」の構造

第一節 容貌をめぐる当事者の語り

第一項 当事者の語りによる問題提起

(1) 容貌問題の「生き辛さ」

  まず本節は、容貌に問題を抱えた人々の個別の「語り」の紹介から行っていくことにする。なぜならば、容貌に問題を抱えて生きることから生じる「生き辛さ」は、意外に知られていないからだ。これまで私達は、容貌問題を抱える人の「(生の)語り」を何らかの形で聞く機会が無かったようにも思われる。訊ねる者に意があるにせよ無いにせよ、安易に容貌の問題を抱える人へ個人の容貌を巡る問題について訊ねることは、心情的に憚られ他者には相容れない感情としてこれまで察していた。
  このようなこともあり意外に熟知されていないのだが、現在のところ容貌に問題を抱えた人には、法的な特定サービス(医療面、社会福祉面にせよ)の受給権が与えられていない。つまり彼/女達は、社会的には全く「生き辛さ」を抱えておらず、社会的支援は要しないとされている状況である。しかし多くの「人(=容貌を患っていない人)」は、彼/女の日常に巻き起こっている「困難さ」や「生き辛さ」について、その理由を繰り返すまでもなく、全く認識していない。ある視角すると確かに容貌に問題を抱える人々は、「法」に保護(監視)をされることのない自由な「人(主体)」であると言える1。けれども、本当に自由な「人」であろうか、と疑問が浮かぶ。またなぜ、彼/女らは、社会にありのままの姿で自然に存在していないのだろうか。そしてこの現象は、なぜ起こるのか。自己の姿を隠して生きる彼/女らは「生き辛く」ないのだろうか。これらの疑問は、幾重にも広がりを成していくのだ。
  そこで多様な問題を抱える「人」の存在認識と「法」による対処が、何処まで可能であるのかを探るために、まずは容貌に問題を抱える人々の「個別の語り」を直接手繰る手法が有益であろう。また次の節にて、容貌に問題を抱え「生き辛い」と思う人々の声が、なぜ、そしてどのように社会的に汲み取られる事無く、こぼれ落ちてきたのかの究明していくことにしたい。


(2) 当事者の「語り」

  ではこれから、容貌にならんかの問題を抱えている人を巡る「語り」を紹介しよう。「語り手」は、何気ない日常の中の出来事を自分達の言葉で語っている。「語りT」は、容貌問題を抱えるA(傷病:血管腫2)の母によるものだ。Aの小学校時代に起きた印象的な事件についてである。一部質問に対し、返答が返ってきた内容も記載している。

語りT3
  私(大阪の小学校に通うAの母)は、「一度話し合いを持ちたい」と担任の教師から連絡を受け、学校へ出かけました。私は、Aの教室に入るとAの顔面の一部の皮膚の色が、赤に塗りつぶされたAの自画像が教室の後ろに掲載されているのを見ました。そしてAの苦しみと言えばいいでしょうか、悩みでしょうか、「生き辛さ」と言えばいいでしょうか、そんなものを察しました。この行為に対し、担任の教師は「本人(A)の素直な気持ち」と表現されていましたが、私(Aの母)は、周囲に対しての精一杯の「自己主張(周りに赤い顔の自分=Aを認めて欲しい)」だったのではないか?と今は、振り返えります。
  私(Aの母)は、当時小学生のAは、友人から「赤い顔が嫌い」と言われたことからAの心の中では「赤い顔=悪いこと」と結びついてしまっていたように思えました。そして、その出来事(他者から発言された容貌の状況)の問い返しが、Aの中で繰り返し行われ続けていたのではないか?と私は、推測しています。そして、Aが「どうして、赤い顔が悪いといわれるのか?」という意思を示した結果が「あの絵」だったのではないか?と私は考えています。また、同時期、「お母さん、顔が赤いって悪いこと?」とAが私に尋ねていたことを記憶しています。
  当時、職員室に呼ばれ、教師と共にAに事情を尋ねたところ、次のようなやりとりがあった事を私は、非常に印象的に記憶しています。私が「どうして、顔を赤い色で塗ったの。」と尋ねるとAは「だってこの方が、僕らしいもん。」と答えました。

≪メールでの質問に対する保護者からの返答内容≫
  保護者(母)は、この事件の後Aとコミュニケーションを密に図ったとのことだ。具体ていには、人間の身体の固有性について身長差や体重差を例に挙げ、赤い顔でも構わないことを説明したと述べている。
  現在、中学生になったAに当時の情況を詳しく訊ねることが可能であるか保護者を通して、もう一度尋ねて頂いた。保護者からは、「ただ、この出来事はAにとってあまりいい思い出ではないようで、一番辛い時期だった思い出を自分でも忘れようと思っているのか?当時のことをあまり良く憶えていないようです。」と返答があった。また、次のようなコメントも添えられていた。
  「Aが、自画像を掲示した後、そのクラスの友人達と容貌を巡るトラブルがなくなりました。そして、その事件時のクラスメイト達は、学年が変わっても小学校時代の期間中、Aがトラブル(いわゆる小さないじめや喧嘩)に巻き込まれると相手方との仲介役を果たしてくれていました。結局あの事件が、あったことが、Aには良かったんだと私は思っています。」

 「語りU」は、現在、成人している容貌問題を抱える当事者C(傷病:熱傷痕4及び移植痕5)と友人Bの思い出話を照合しながら、当事者達で交わされた会話を中心に記載したものである。CとBが、ペアで相互に相手の顔を描いていた図工のクラスでの出来事である。Cの顔の絵を書いたBは、当時を振り返って、「その事件を誰にも話してはいけないような気がしていた」と述べている。CとBの記憶には、鮮明に残る出来事だ。

語りU6
  福岡県の小学校低学年のあるクラスで、図工の時間に二人一組で相互に肖像画を描く課題が出された。あらかじめ教室の席の隣同士でペアが組まれていた。
  作成時間中ごろ、B・Cペアの前席にいた別のペアの生徒(A)がこんな発言を始めた。

A:Bの絵を指し「これ、違うやん。」
B:慌ててBは絵を両手で隠した。「いいやん、これでべつに。ねっ。」
C:黙ったまま下を向いていた。「…」
A:「こいつの顔には、フランケンみたいなキズがあるし、鼻もトナカイみたいに真っ赤で、他の色も所々違っとうやん。」そう言いながら、Cの顔を見た。
B:「もう、あっち行って。気にせんでよかよ。」Bは、Aを片手で押しながらCの様子を見た。
C:「うんん。ほんとに違うけん。」下を向いたまま答える。
周囲は、徐々に騒がしくなり、クラスは収拾がつかない状態になった。
この後教師は、Bの絵を自分の手元に取って、「上手く描けているわね」と話した。

教師は、この騒動を知り、その日の放課後Cと二人で対話を持った。
教師:「Bちゃんの絵、上手く書けてるね。」教師は、Bの描いた絵を見ながら話した。
C :「そうだけど、それ私じゃない。」Cはチラッと教師の様子を窺ったが下を向いた。
教師:「どうして?Cちゃんそっくり。Cちゃんの顔もこれと同じよ。」教師が、強い疑問口調になっていたことをCは、記憶している。
C :「だって、顔に火傷の傷が無いもの。本当は絵を書くの嫌だった。Bちゃんが、私の顔どう描くのか、怖かった。それにその絵を見たら、お父さんもお母さんも嫌な思いするでしょ。」Cは、教師の問いに、どうして傷が無いって皆、嘘つくんだろう。と心の中で何度も思っていた。
教師:「Cちゃんの顔もみんなと同じよ。体育も、なんでも一緒にできるでしょ?」
C :「皆とは、違うよ。
ねぇ、先生。
どうして、顔に傷があったらいかんと?目の色が違う人も、肌の色が、私よりも黒い人もいるんでしょ?
それが、クラスの皆と同じでなきゃならない理由は、ないでしょ?
でも、私は、好きでこうなったんじゃない。けど、どうして、皆そのことをからかうと?私も一緒がよかったけど。ホントは誰も一緒じゃないの。」

  Cは、この出来事を振り返って「どうして先生は、身体の問題に置き換えられて体育の話をしたのだろうか?」と疑問に思ったし、「誰に何を、どう言えばいいのかさえ解らなかった。ただ、苦しかった。」と述べている。そして、教師に答えてもらいたかったことは、「何故、傷を皆が、からかうのか?」だったと語っている。また、Cの記憶では、教師が、Cに回答をださず、ただ困った顔をしたことが印象的だったと述べている。

  「語りV」は、容貌に問題を抱えている当事者(傷病:血管腫7)が現在の心境や生活情況について語ったものである。
  
語りV8
  私がカバーメイクを初めて経験したのが20歳の成人式のことでした。私の意思とは関係なく気が付いたら美容師さんがコンシーラーで右顔面を叩いていました。私は、それまでカバーメイクは、顔を土壁のように塗りつぶすものだと思っていました。鏡にうつったのは、決して不自然な厚化粧と感じる顔ではありませんでした。そして空想しかしたことのないような「普通」の顔。一緒に成人式に参加した友人は目をまるくして「きれい」を連発してくれ、私は華やいだ開放感でいっぱいでした。
  私はそれから、カバーメイクを行うようになりました。
  しかし時間をかけて懸命にメイクをする間に、ふと自分の姿を省みました。
  自分の「欠点」を覆い隠そうと必死になっている姿が(実際にカバーメイクをされている方には言えませんが)実にあさましく思えたのです。
  このメイクが習慣化すればもうメイクなしでは表に出られなくなるだろうことも容易に予想がつきました。そうなった時、自分はいつも世間に隠し事をしているといううしろめたさを抱えて生きることになる。たとえそれで誰かが「きれい」といってくれることがあったとしてもその賛辞が言ってみれば相手をメイクで騙した結果、得られたものだとしたら空しさしか感じないでしょう。
  普段アザをさらして生きていると時として傷つけられることもあります。
  しかし隠していても結局は自分自身の感情に傷つけられなくてはいけません。その二通りの痛手を比べ、どちらが重いと感じるかは人それぞれでしょう。楽な方を選べばいいと思うのです。私は世間に傷つけられる方が楽だと思いました。それなら子どもの頃からなれっこですから。
  そんな私に仲良くなった同僚や友人が、遠慮がちに小さな声で、「お化粧とかは?」って感じで問い掛けます。
  いきなりそのことを言うのではなく、何となくあざのことに話が向いた時にです。その人にとってはあざという好ましく見られないものが見えないことは単純にいいことだ、と思ってるふうです。その単純さは「健康な方の気楽さだなあ。」と心配してくれることに感謝しつつも、内心皮肉な笑いを浮かべてしまいます。治療を勧められることと比べたら不快感はそれほどではありませんけど。(人の体に決定的な結果を残してしまう治療を無責任に勧められるのは、いつまでたっても結構いやです9。)


第二節 「居ない」とされること

第一項 容貌問題の「語り」に内在する多様な「違和感」
 
(1) 「生き辛さ」と「違和感」

  さて、3つの「語り」の紹介を行った。この作業を行ったことで、容貌に問題を抱える人の何気ない日常に巻き起こる個別、具体的な「生き辛さ」を垣間見ることができたのではないだろうか。むろん、現段階においてこの「生き辛さ」なるものを具体的に限定し、示すことは可能ではない。だが「語り」の中に容貌問題を起因とした様々な「違和感」が、生じていることは読み取ることができるのではないだろうか。もちろんまだ、ここで「違和感」と表現したものが具体的にとらえられているわけではない。しかし私達には、それぞれの「語り」に関してなにがしかの「違和感」が残っているはずである。この「違和感」は、なんであろうか。
  この糸口を手がかりにして、容貌問題について語られているそれぞれの「語り」の分析を行っていくことにする。私達が着眼し分析を始めようとしているこの「違和感」と、容貌に問題を抱えている人が「居ない」― あるままの姿で生きることが、許されない? ―とされていることとには関連があるのだろうか。


(2) 容貌問題を抱える人の「違和感」

  容貌問題を抱える当事者達の「違和感」を読み解いてみよう。この「違和感」は、容貌に問題を抱えていない者が、容貌に対する一般的なイメージ10に支配されてしまったことから生じている。容貌に問題を抱えていない者は、「語り」の中である情況に際し、無意識に容貌を患っている人々の容貌を拒絶し、否定している。そのある情況とは、社会において人の容貌とは、多様であっても構わないはずにもかかわらず、画一化されたものとして取り扱いその価値を押し付け、普遍概念に悖る行為(多様性を否定して消去)を行う瞬間である。この行為を受けて、容貌に問題を抱える人は、容貌を患っていない人(他者)の容貌価値観に「違和感」を反射し、意識的に拒絶しているのである。もう少し、踏み込んでそれぞれの「語り」中の具体的な「違和感」を記述してみよう。
  語りTでは、保護者の「どうして、顔を赤い色で塗ったの」との問い掛けに対して、Aは「だってこの方が僕らしいもん」と答えている。語りUでは、教師が「どうして?Cちゃんのそっくり。Cちゃんの顔もこれと同じよ。」ということに対して、Cは「だって、火傷の痕が無いのも。」と答えている。語りVでは当事者が「私に仲良くなった同僚や友人が、遠慮がちに小さな声で、『お化粧とかは?』って感じで問い掛けます。その人にとっては、『痣という好ましく見られないものが見えないことは単純にいいことだ』と思ってるふうです。」と述べている。上記の場面は、「一般的(もしくは、『普通』)」だとされている容貌イメージを持つ者が、容貌に「固有性(先天的な希少、難病)」・「傷(皮膚移植後の縫い傷、事故による縫い傷)」、「変色」、「変型(形)」を抱えた人々(容貌に問題を患う人々)の存在を何気なく、また悪意なく否定してしまっている瞬間である。
  「一般的」だとされる容貌を持つ他者(各語り中の保護者、教師、同僚や友人に代表される)「多数派」から、そうでない者(各語り中の容貌に問題を抱えている当事者達)「少数派」が、ある一定の容貌に対する「一般的」とされるイメージ概念(各語り中で示される容貌とは、いわゆる肌色をしていることが好ましいとされている概念)を強いられてしまうと圧迫感を感じるのだ(赤い顔が嫌いと言われた事、こいつの顔には、フランケンみたいなキズがあるし、鼻もトナカイみたいに真っ赤で色も所々違っとうやん、と言われている情況やお化粧をしない容貌問題を抱える当事者に『お化粧とかは?』と問い掛ける行為)。
  おそらくその圧迫感を感じたと同時に、容貌に問題を抱える人は、自分からしか感じる事の出来ない「違和感」の中で困惑しながら、他者(=容貌問題を抱える当事者と関わり合う者)に対して、「自分らしさ(自分の意志では、変化させる事の出来ない自分の容貌)」を主張していると推測される。しかし、容貌に問題を抱える当事者達は、自己の容貌アイデンティティの表明が他者には肯定的に受け入れられないことを相互間の「会話」のやり取り(プロセス)で認識し、さらに「違和感」を強めている。


(3) 容貌問題を患っていない者の「違和感」

  次に、容貌に問題を抱えていない者達の「違和感」に迫ろう。
  多少繰り返しになる部分を含むが、再度各「語り」から抜き出して具体的な記載を行うことにする。語りTからは、保護者の問い掛け「どうして、顔を赤い色で塗ったの」に対して「だってこの方が僕らしいもん」と当事者Aが答えた事を保護者は、非常に印象的に記憶していること。次に語りUでは、教師が「みんなと同じよ」と説得を行し、それを受けて「皆とは、違うよ。ねぇ、先生。どうして、顔に傷があったら、いかんと?以下省略」と、Cが応えている。その後、教師は、次の応答を出していないこと。最後に語りVでは、「普段アザをさらして生きていると時として傷つけられることもあります。しかし隠していても結局は自分自身の感情に傷つけられなくてはいけません。」と考えている彼女に「お化粧とかは?」と問い掛けると表現するよりむしろ、口添えをする行為だ。これらの部分は容貌に問題を抱えた当事者達が、一般的な容貌イメージや価値観を戸惑いながらも否定や拒絶を表現し、「私らしさ(自分の容貌の状況)」を「会話の相手(=他者)」に対していわば個人の容貌アイデンティティの主張している個所である。そしてこれらの会話のやり取り(現象)は、それぞれ異なってはいるけれどもそれぞれが自分の存在を認めて欲しいと他者に訴えている行為でもある。
  だが当事者達の容貌アイデンティティの提示に対して「会話の相手(=他者)」が、まるで当事者の「違和感」に呼応したかのように異なる「違和感」を表しているのだ。再び各「語り」の中から具体的にそれぞれ抜き出すことにする。語りTでは、Aが顔を赤く塗った行為に対して「どうして」と保護者(母)に言わしめていること、語りUにおいては、教師からすれば「みんなと同じよ。」とCを説得したにもかかわらず、それをC は否定(もしくは拒絶)してCの言葉で更に問い掛けてくる。その行為が、教師に理解不能だった推測されること(あくまでも、語りの中の教師が会話を閉じてしまっているので推測に留めるしかできない)、語りVでは、容貌問題を抱える当事者が、痣を曝して生きることを公然と話していることを他者(周囲の人)は認識して当事者の意思に耳を傾ける行為を取りつつも化粧で隠すことを勧めてしまう行為が挙げられる。
  それぞれの「語り」中から、容貌問題を患う人々とそうでない者の相互関係に小波のような「違和感の連鎖」が窺える。容貌問題を巡って展開されている「違和感」に容貌を抱える人々が「居ない」とされてしまう要因が、内在されているのではないだろうか。
  にしても私達は、これら「違和感」の分析から無意識に言葉を使い容貌を患う人の自由(自分を表現する事の自由)を奪い、そして言葉の暴力で抑圧している情況を認めなければならないだろう。そして今もなお無意識に「人」は、容貌問題を抱える人々にやわらかく一定の容貌価値を押し付け抑圧し続けている。


(4) 「違和感」の煩瑣

  更に一歩踏込んで、各語りを読み込んでみると、容貌問題を抱える当事者達側からまた新たに、最初とは異なる「違和感」が生まれていることに気づかされる。再びそれぞれの「語り」の言葉を抜粋しながら分析を行う。語りTでは、当事者が自分の取った「自分の顔を赤く塗った」行為を忘れようとしていること。語りUでは当事者が「みんなと一緒がよかった」と主張していること。語りVでは「カバーメイクをし、痣を隠した自分を友人が『綺麗』と賞賛してくれることで華やいだ開放感でいっぱいになった」と話している。上記は、容貌問題を抱える当事者達が、容貌アイデンティティの主張を他者に行ったにもかかわらず、自己内では現在の容貌を受け入れていない気持ちが込められていることを示している。この分析を通して当事者達が、自己の内面で容貌アイデンティティのジレンマ11を抱えていることを推測することは可能になる。(一例としては、現在の容貌と容貌に問題を抱えていない状態のイメージ容貌との狭間で揺らいでいる12ことが挙げられる)
  つまり、一つの語り中に幾重にも折り重なるように発生する「違和感」は、容貌問題を抱えている当事者とそうでない者の間に小波の様に次々に生み出されているのだ。そして、この現象は、当事者達のジレンマ状態にて鎮静に向かうことが多いのかもしれない。そのため周囲で見ているもしくは、見守っている「他者(『語り』を読んでいる私達も含めた者達)」は、やはり一般的なイメージがベストだと認識してしまっているのではないだろうか。もちろん、当事者とそうでない者の対話のやり取りは、当事者相互間のものである。確かに相互間の「違和感」であるのだが、その出来事から生まれる「違和感」はまるで湖面に広がった波のように円心を描きながら更に「人」に影響していくのだ。
  また上記の問題に増して慎重に注意を向けなければならないのは、容貌に問題を抱えている人が、容貌アイデンティティに対してジレンマのままの状態で日常生活を送っていることだ。他者(容貌に問題を抱えていない者)の中には、相互間において容貌問題の「違和感」が派生していたとしてもその問題に関しては、遮断や無視をする者の存在も推測される。だすれば、容貌問題を抱えた人は、相手を失ったまま、「違和感」の煩瑣を自己内で孤独に繰り返し続けるしかないことになる。
  そのことに触れるメッセージが、語りVには込められている。(『普段アザをさらして生きていると時として傷つけられることもあります。しかし隠していても結局は自分自身の感情に傷つけられなくてはいけません。』)特に、この最後に一例として挙げた当事者から発せられる「違和感」の複雑さは、「他者(主体を取巻く人々)」には認識しづらいと考察される(※また本論では、引篭もりなどの事例の調査までは実施できていない)。
  さて、私達は「違和感」に着眼しながら、それぞれの「容貌問題の語り」を荒削りではあるが読み解いてきた。そしてこの作業を行うことで、「なぜ彼/女らの『語り(言葉や行為)』は、どうして今まで手繰られる事がなかったのだろうか」と新たな疑問が浮かんでくる。それぞれの「語り」の中の容貌問題を抱える人が存在しているサイトでは、相対する人間相互の関係において容貌を巡る「支配/抵抗」とも言い換えられるような現象が、密やかにそして深刻に展開されている。詳細に分析を深めた結果から容貌の価値観に対する権力構成の構築は、体制化しているようにも見受けられる。ややもすれば、いじめや差別を生み出す危険性を孕んでいる可能性が懸念される。にもかかわらず、容貌問題には固有の「人(『語り手・聞き手』)」が、「居ない」とされているのだ。そうされていることへの戸惑いは深まるばかりである。


第二項 容貌問題を抱える人々と他者の位置

(1)「生き辛さ」と容貌問題を巡る「語り」

  一項では、「語り」に内在する多様な「違和感」の分析を進めてきた。この作業からそれら「違和感」が、容貌問題を抱えて生きる人の持つ「生き辛さ」ではないと考察される。それは、「違和感」がそれぞれの「語り」の中の様々な人に巻き起こっていることから確信できる。むしろこの「違和感」は、容貌問題を抱える人の「生き辛さ」の生産/減少を促している装置的な役割をはたすものではないだろうか。つまり、特定の位置や場所内での人間相互関係の揺れが、「違和感」と考察すべきである。だとすると、「違和感」は、容貌問題特有のもではないかもしれない。もちろん容貌問題に端を発した「違和感」であるとする固有性は残るとしても、人間相互間の揺れは、私達の日常にも存在しているからだ。
  では、容貌問題の「生き辛さ」とは、どのようなものだろうか?彼/女らの具体的な「生き辛さ」に迫る為には、新たに視角を移してそれぞれの「語り」を手繰る必要があるのではないだろうか。
  二項では、容貌問題を巡る「語り」の構造内で他者と容貌に問題を抱えている人が、どのような関係にあるのか。そして当事者の「語り/言葉」は、私達を含めた他者にどのように絡め採られていくのか。一項にて分析を深めてきた「違和感(人間相互間の揺れ)」も一方で踏まえつつ、新たな視角から「生き辛さ」の分析に取組むことにしたい。


(2)容貌問題の「視角」/「死角」?

  3つのそれぞれの「語り」の中では、容貌を抱える当事者と多数の人が、それぞれ何かしらのサイトの中でそれぞれの「位置」に付けられて散在していた。そしてまた、それぞれの「語り」を話す「語り手」とそこに相対する「聞き手」そして語りを「読む」私達もそれぞれに異なる個人経験をすでに持っている。同時にそれぞれの人が、様々なサイトを構成する多様な「人(主体)」だと予測される。微細に述べたがここで私が指摘しておきたい事は、「語り」はおうおうにして、「聞き手」のジェンダー、年齢、個人の経験に絡め取られて、解(『解釈』)されていく事が多いことだ。ゆえに、「語り」自体を様々な視角から解く(『解釈』する)ことは、可能にもなるのだけれども語り手の語ったもしくは、語ろうとした意図とのズレも否めなくなる。例えば、聞き手(私達を含む読み手)となる相手方の理解の拒絶、語り手の意図していなかった解釈の発生等が推測される。ここに指摘した相互間に発生する多様な解釈の「視角」は、場合によっては「死角」に変化しうる危険性を示唆している。
  これまで以上に十分に「語り」の分析に注意を払わなければ、容貌に問題を抱えた当事者の具体的な「生き辛さ」を分析することはできないだろう。



(3) 語れること? 「語りTを中心に」
  
  生徒達は、図工の時間に課題の自画像をそれぞれに描き、教師がそれらの絵を教室の後方に掲示した。語りTの内容は、何気ない日常に埋没してしまいそうな出来事である。
  語りTは、クラスという固有な空間に相反しあう容貌観念を持ち合わせた紛争当事者達(一般的イメージを持つ「他者13=クラスメート」と容貌に問題を抱えるA)が、存在していた。双方の存在するこのサイト(クラスもしくは、もっと広がった学校全体だったのかもしれない)内で生徒達の相互間は、理解不可能なトラブル状態下(容貌問題を巡る『違和感』の連鎖状態)に陥り、ある種の緊張関係に達していたのであろう。この状態が耐えられなくなったAは、容貌を患って生きることの「生き辛さ」をクラスメートへ向けて語ることを試みた ― Aが自己の顔を赤い色で塗った絵を描いた ― と考えられる。
  この語りは、容貌問題に関して容貌に患いを抱えて生きることの「生き辛さ」を解釈できなかったものが、Aの「声(絵を描く行為)」に促され当事者の言葉にできない「生き辛さ」を認識できた「語り」なのだ。そして一旦、容貌を患う当事者とそうでない者の間に容貌観念の変容が相互間に促されれば、「他者=クラスメート」間にも容貌イメージの揺らぎ ―ある一定の人々によって描かれる容貌イメージは、揺れていながらも完成され、多くの人々に前提付けられている。けれども新しい容貌を確認すると、それまで前提付けたれていた容貌イメージは、排除され脱構築を促される。つまり、容貌イメージは、新しい容貌イメージの認識が可能になれば、個々の内面で何度も再構築されるもの ― が、促進されていく様が窺える。現象を語りの中から要約して記せば、容貌問題を巡る新たな紛争にAの友人達が、仲裁に入るようになったことである。このAの友人達は、Aの「生き辛さ」の「声(顔を赤く塗る行為)」に促され、以前(Aの「声(顔を赤く塗る行為)」を受取る以前)のAの容貌イメージを脱し、新たなAの容貌を確認したことから起きた行為だと理解できる。
  この語りTには、最後までクラスメートとAの相互間で交わされる具体的な「会話」が存在しない。当事者は、ただ自画像を(容貌を赤く)描写したのみである。もしかすると容貌問題を巡る語りの中に語られている「人(=主体)」の「生き辛さ」には、言葉が存在しないのかもしれない。


(4)無意識の否定 「語りUを中心に」

  子供達は、なかなか上手くいかないとか、ちょっと上手く描けたなどと他愛無い日常のオシャベリをしながら、互いの肖像を描くつもりだったに違いない。いや、他愛無いオシャベリの延長だとかたづけてしまうことも可能な「語り」だった。
  容貌問題を抱える人が、自分の容貌でない(『一般的』であるとされる容貌イメージに沿う)表現(表像)を自己の容貌として、権力と知の支配構造の中で他者(=教師)に認識付けられる状況が窺える「語り」があった。もちろん、当事者を囲む人(=クラスメート達)も同じように認識付けられていく様子が語られている。また、容貌に問題を抱えている当事者を囲んでいる人(=クラスメート達)も、それを認識付ける行為を行う人(=教師)も無意識に、ある観念に支配されている傾向であることが発見できる「語り」である。では具体的に、語りUを振り返ってみたい。
  語りUで教師は、「Cちゃんそっくり」とクラスメートB の作成した「容貌に『傷』を患っていない肖像」 ― 傷を描いていない絵 ― を示しながらCに対して説得を行っている。そしてクラスメートBの現在の記憶では、教師はBの描いたCの似顔絵に対して「上手くかけているわね」と評価をしただけで外に、何も言及していないとのことだ。このように語りUから教師の言葉だけを抜き出して記述すると気が付くのだが、生徒達は(容貌に問題を抱える者=Cもそうでない者=B)、無意識ないし自動的に、一般的イメージに準じなければならないと教師の言葉を解釈したのではないだろうか。なぜならば「語り」を語っている生徒達(C、B)と教師の「位置」に特徴があるのだ。小学校の教育システムに取り込まれた教師(知を与える者)と生徒(知の影響を受け管理される者)の関係(『位置』付け)は、容貌問題とは異なるある種の権力と抵抗のせめぎあいを展開している場とも考えられる。ここで改めて指摘することは要しないかもしれないが、この「語りU」は、いわゆる権力/知の相互の結びつきが深く関わる場だ。おそらく生徒達(C、B)は、教師が意識することなく与えてしまった「知」 ― 「傷のない」顔がCに似ていて、かつ上手に描かれているとされる評価(=傷がない方が良い) ― の支配を受けて、更に「ある種の拘束力」から逃れられなくなるのではないだろうか。この「ある種の拘束力」とは、容貌イメージを構成するイデオロギー的観念14 ― 女性の美意識と捕らえられる面が強いが、ジェンダーの区別に限定されたものではなく人が、人であるために必要な容貌/身体だと捕らえる観念 ― から発するものだと言えよう。
  語りUの空間(クラス)では、異なる権力相互関係が、浸透しあいながらさらに新しい構造を構築しつつある。この状況下では、容貌問題の「生き辛さ」を語ってもその声は色あせ、切迫感を失ってしまう可能性が高いのではないだろうか。むしろ教師の説得をCが、拒絶し「生き辛さ」を教師に語りかける試みを私達は、無謀な抵抗のように解釈してしまうだろう。(『語りU』の語りから『皆とは、違うよ。ねぇ、先生。どうして、顔に傷があったらいかんと?目の色が違う人も、肌の色が、私よりも黒い人もいるんでしょ?それが、クラスの皆と同じでなきゃならない理由は、ないでしょ?でも、私は、好きでこうなったんじゃない。けど、どうして、皆そのことをからかうと?私も一緒がよかったけど。ホントは誰も一緒じゃないの。』)
  それでもあえて当事者Cは、「位置」を一旦乗り越えて「人」という「位相」に存在している教師に「生き辛さ(=声)」を発しようとしている。このCから発せられる「語れなさ(ある意味での正しさを繰り返し否定しつづける行為)」は、容貌問題を抱えることの「生き辛さ」を語ったものとして教師に聞き取れ(『解釈』され)ただろうか。教師は、自分が位置付けられている「位置」ゆえにCが「語れなさ」を語ろうとする声を聞き取ることは困難だったかもしれない。いや、理解できない「声(行動)」としたのかもしれない。


(5)容貌問題における支配/抵抗の波 「語りVを中心に」

  ある種の拘束力(容貌観念)にダイレクトに抵抗する容貌問題を抱える当事者の存在(容貌観念の支配/抵抗の露呈)を示す「語り」がある。私達は、「痣を曝して・メイクをせずに過ごす」行為をどのように解釈するだろうか?この容貌を患う当事者を巡る「語り」で話されている「生き辛さの語り」は様々な「死角」に絡み取られる危険性が高い。
  語りVの当事者は、一般の容貌イメージに準じなければ他者からの承認を得られることがないと理解しつつ ― 『メイクが習慣化すればもうメイクなしでは表に出られなくなるだろうことも容易に予想がつきました』― けれどもそれは、幻の承認 ― 『たとえそれで誰かが〔きれい〕といってくれることがあったとしてもその賛辞が言ってみれば相手をメイクで騙した結果、得られたものだとしたら空しさしか感じないでしょう』 ― であることを理解している。だが容貌観念に逆らう行為選択をし、日常に「ありのままの姿で」存在する事は、その行為を選択した当事者に、多くの「生き辛さ」を負わせる結果となる事が「語り」から―『普段アザをさらして生きていると時として傷つけられることもあります』― 窺える。
  ここで私達は見落としがちなのだが、容貌観念に抵抗する者(当事者達)と同空間に居合わせる「人」(=他者)からのその行為の選択に対して「違和感」が、パラレルに発生していることに注意を払わなくてはならない。仮にこの「違和感」の要因について他者が、当事者間で会話を持とうとしても当事者側には一般容貌イメージの押し付けに他ならないと「容貌問題について語り合うとしなくなる」危険性が残るのである。少し長くなるが語りを一部抜出してみる。

「そんな私に仲良くなった同僚や友人が、遠慮がちに小さな声で、『お化粧とかは?』って感じで問い掛けます。いきなりそのことを言うのではなく、何となくあざのことに話が向いた時にです。その人にとってはあざという好ましく見られないものが見えないことは単純にいいことだ、と思ってるふうです。その単純さは健康な方の気楽さだなあ、と心配してくれることに感謝しつつも内心皮肉な笑いを浮かべてしまいます。治療を勧められることと比べたら不快感はそれほどではありませんけど。(人の体に決定的な結果を残してしまう治療を無責任に勧められるのは、いつまでたっても結構いやです)」

  語りVの容貌観念は、多数の人の無意識の中に内在し当事者を抑圧し続けている。そうではあるのだけれど、当事者が他者と「容貌を語ること」を無意識に遮断してしまう作用もあると考えられる。
  では、例えば「『人』が、痣を曝して過ごす」と「『人』が、メイクをせずに過ごす」の2つのテーマがあった場合、私達はこれら2つが安直にリンクする問題を含んでいるとは予想しないのではないだろうか。けれども「人」という主語を固有の性に変更してしまうと不思議なストームが巻き起こってしまう。2つのテーマは、容貌問題を接点としてリンクする事がある。それは、固有の性から派生する容貌問題の「語り難さ」の問題だ15。先ほどから指摘している「視角」の問題にリンクするが、当事者の「語り」を聞く(行為を見た)他者は、存在している「位置」(ジェンダー、年齢や宗教観、その他の個人の体験など)の価値観をすでに持っているため、それぞれの価値観に絡み取とって当事者の「語り」を解釈してしまう可能性が高い16。「痣を曝して日常をすごす語り」は、一定の「容貌観念」の価値観からの離脱(『美の権力ゲーム無効』)の「語り」の様であるが、そうとも言えず ― 非常に複雑さが増すのだが、「権力の無効化」を図った者だけにそれが可能となる ― メイクをする(『容貌観念に従う』)ことの必要性(『支配』)を強めてしまう「語り」にもなりうるのである。
  たとえそうであるとしても語りVの当事者は、固有の容貌をさらすことの意味「生き辛さ」を多くの人(=他者)に自分の「語り(声)」で語っている17。極当たり前の事だが、容貌に問題を抱えて語る人も語りを聞く人も、無数の社会(サイト)の中に人間相互間の関係を築き「位置」を構成している。そして様々なトポロジーに属しながら「人」として存在しているのだ。容貌問題を巡る「語り」の当事者達の「生き辛さ(声)」は、それぞれの人間相互関係を大小それぞれに揺らし拡散していく。


第三項 存在しない「言葉」

(1)「生き辛さ」と「言葉」

  容貌問題の「生き辛さ」は、多くの人に「語られている」けれども「語られていない」。おそらく、具体的な「言葉」は存在しないのではないだろうか。私達は、「生き辛さ」が、具体的な言説として浮かびあがらない「語れなさ」を語る「語り」を既に読み解いてきた。語りTを例に採ると「語り」の中では、言葉にして語ることが困難であるために(『語れなさ』ゆえに)絵に描く手法をもって容貌問題に内在されている「生き辛さ」があることを他者(Aの母親を含むAを取巻く周囲の人)に示している(『語っている』)。
  だが、各語りを回顧し読み直してみると、容貌問題を巡る「語れなさ」の「声」は、当事者だけが語っているのだろうかと疑問が浮かんでくる。それぞれの語り「語り」の中で容貌問題に関する「違和感」は、特定な人の間でだけではなく多様な人との間に巻き起こっていたはずである。「違和感」が、人間相互間の揺れであることからも上記の疑問は深まる。
  三項では、容貌問題を巡る「語り」中の語られている様々な主体達の「生き辛さ(=声)」をもとに「居ない」とされてきた容貌問題を抱える人々への救済の取り組みについて述べていく事にする。
  
  
(2) 「語り」の中の「語れなさ」と「語らなさ」

  すでに読み解いてきたように、容貌問題を患う事の「語れなさ」は、各語りの中で語られていた。とはいえ、全ての「語れなさ」を網羅できたかは疑問が残る。これまで私達は、出来得る限り当事者の視点に寄り添い「生き辛さ」を追ってきた。
  結果「居ない」とされる容貌に問題を抱えた人を巡る「語り」には、容貌を患う事の具体的な「生き辛さ」=「言葉」の不在の問題が横たわっている現状を認識できた。この現象は決して、容貌に問題を抱えた人の「生き辛さ」が、存在していないということではない。「生き辛さ」は、言説に示せない為に「聞き手(読み手)」から多元に聞き(読み)説かれてしまう可能性が残る。ややもすると、言葉で語られなかった「生き辛さ」は、他者の意識から漏れ落ちてしまうことも推測される。
  しかし、全てが漏れ落ちてしまうのだろうか。本論で読み解いてきた容貌問題を巡る「語り」中に、当事者から投げかけられた「生き辛さ」の言葉になることのない「声」を受取った者はいなかっただろうか。容貌問題を抱えた当事者を取巻く他者が、「語り」の中には存在している。私達は、それぞれの「語り」において見落としてしまった「語られていない(声)」の存在を見落としていないだろうか。容貌問題を巡る人々の「語り」には、人間相互間に幾重にも「違和感」が織合わされ、その中に網の目状に「生き辛さ(『語れなさ』)が存在していた。他者の存在に留意し、そして更に異なる「語らなさ」の存在についても、「語り」の中から抜出してみよう。


(3)言葉を奪う/与える

  各容貌問題を巡る人々の「語り」の中には、「語れなさ」だけが内在されているわけではなかった。「語れなさ」と「語らなさ」が、当事者と他者の間で折り重なるように展開されている。そのプロセスを分析しやすく展開しているのは、語りUの「語り」だと考えられる。語りUは、偶然にも前半の子供達で構成されるサイトと後半の教師と生徒の関係で構成されるサイトで同じテーマ(『Cの容貌』)について語りあっている風景である。語り中の人々のコミュニケーションは、非常に複雑である。ややもすれば、子供達(A、B、C)のサイトでは、それぞれの発言を理解し合いながら、言葉を交しているのか疑問が残る。前半部分の「語り」の子供達の発言は、シンプルなだけに「読み手(例えば私達)」には曖昧に読み解かれてしまう可能性が高い。けれども、意外なことに子供達は、容貌問題をテーマとして多元の声でコミュニケーションを交わしているといえるのだ。
  語りUはAが、Bの描いたCの肖像画について、実際の顔と異なることを指摘することから始まる。次にBはそれを受けて、「いいやん、これでべつに。ねっ。」と答えている。このBの言葉は、非常に趣き深い言葉ではなかろうか。Bのその言葉は、いったい誰に向けて投げかけられた言葉なのであろうか。Aに向けて、問い掛けられたのか、それともCに対してだろうか、あるいは両方へだったのだろうか?と言う疑問が浮かんでくる。
  AとBの容貌問題に対する認識の違い ― 容貌公認のジレンマの存在 ― があるのではないだろうか。Aは、実際のCの顔の差異(違い)に基づいて正しく(視覚的差異に照らして)指摘を行っている。おそらく、意図的な悪意などなく気づき「差異(医学的な治療跡の有無)」を安直に述べたと推測される。しかし、Bは、自分の描いたCの顔の描写に差異があることを気づいていながら、同時に「差異」の存在を否定している。見落としそうになるのだがBは、別の視角から容貌問題の「語らなさ」を語っていたのだ。つまりBは、「語らなさ」 ― Cの「容貌アイデンティティの自己決定」=「顔に火傷の傷がある主張する」を代行して行うことはできないこと18 ― を双方に語りかけているといえるだろう。
  Bは、語っているけれども語っていないのだ。おそらくCの容貌問題の「生き辛さ(『語れなさ』)」を認識していたBは、自己の問題ではない(他者の容貌アイデンティティの決定)ことから容貌問題の「生き辛さ」については「語らない」ことを判断したと考えられる。もちろんこのBの行為は、容貌問題を抱える人を取巻く周囲の他者からの容貌問題を巡る「語れなさ(容貌問題を抱える人をどのように受け止め、理解すればいいのか)」とも読み取れる可能性が残る。
  語りUを読み直すと、AとBの会話は、Cの沈黙 ― 「語らなさ」 ― を挟んで再度繰り返されている。
  ある正しさは、言葉を与える(容貌の差異を語らせる)が、同時に言葉を奪ってしまう ― 「語らなさ」 ― 沈黙を導く。この作用は、当事者Cと教師の間でも展開されている。教師は、生徒達の騒ぎを知りCと対話を持っている。その対話は、事実の肯定と否定が簡素に繰り返されていた。教師は、Cの容貌アイデンティティの否定を実行し、容貌の優劣を無意識に抑圧し ― 「Cちゃんの顔もこれと同じよ。」 ― 語ってしまっている。その語りが、口火をきり次の瞬間から両者は、正しさ(=理論)の掛相 ― 「だって、顔に火傷の…省略」 ― を開始している。正しさは、両者に言葉を与えつづけるのだ。迂闊にも教師は、ある要素をもった正しさ(=論理)に絡取られ、身体的なハンディ(機能障害)の無さと当事者の顔の傷をあること(容貌問題)を混同し、比較考慮的な ― 「Cちゃんの顔もみんなと同じよ。体育も、なんでも一緒にできるでしょ?」 ― 発言をしてしまった。この正しさの内包する矛盾は、Cによって指摘されてしまう。Cは、まず人種の特徴を挙げることによって容貌の多様性を示し、次に容貌アイデンティティの自由の重要性を指摘している。更に容貌問題が、身体の機能障害の問題ではないにもかかわらず身体機能的な効用の比較を受けることの「生き辛さ」(やはり、『生き辛さ』これ自体を語るための具体的な言葉は存在していない) ― 異なる不平等性の存在 ― を不器用(稚拙)に主張しようとしているのだ。語りUから、抜出しておこう。

Cの言葉:「皆とは、違うよ。ねぇ、先生。どうして、顔に傷があったらいかんと?目の色が違う人も、肌の色が、私よりも黒い人もいるんでしょ?それが、クラスの皆と同じでなきゃならない理由は、ないでしょ?でも、私は、好きでこうなったんじゃない。けど、どうして、皆そのことをからかうと?私も一緒がよかったけど。ホントは誰も一緒じゃないの。」

  結果的に教師は、Cの語りに内在している多くの「語れなさ(この一つの要素として、容貌問題を抱えていることの具体的な『生き辛さ』には、具体的な『言葉』が存在しないため『語れない』ということがあること)」をおそらく理解「解釈」できないまま、正しさ(=理論を導き出そうとする論理)の矛盾に屈してただ「語らなくなる」のだ。いや、教師も「語れなさ」に気づいたのかもしれない。語りUは、「語らない」という沈黙で終えられている。


(3)「語り」と関わること

  時に正しさ(=理論)は、主体に「言葉」与えながら、「生き辛さ」の「語れなさ」を導き、「言葉」を奪われた相互関係に断絶(『語らない』)を導いてしまう。一旦「語り手」が固有の聞き手に「語らない」行為を選択したとしても、容貌問題の「生き辛さ」を患う者(=主体)が、ただちに不存在になったわけではない。「語り手」は、「語り」を変容させて再度「聞き手」に語りかけていることもある。また時折「話し手」と「聞き手」は、その役割を入れ替えながら相互間で「語り」を編合わせているとも考察できるからだ。私達が読み解いてきた容貌問題を巡るそれぞれの「語り」からもそのようすは窺える。例えば、語りTでは、当事者Aの母は、Aの担任の連絡によりAの「語らなさ」を知り「語れなさ」や「生き辛さ」を認識していくことになる。おそらくAのクラスの友人達もプロセスは、異なるがAの「語れなさ」や「生き辛さ」を受取ることができている。Aのクラスメート達は、Aと新たな他者(=クラスメート)の間のトラブルに対して仲介(『声』の促し)を果たしていた。語りUでは、子供達が、語り内の出来事の後も現在も友人関係を構築し続けていることが窺える。なぜなら、容貌問題を抱えた者とそうでない者が、共に語りUを編み合わせて、連続されながら語られているからだ。容貌問題を巡る語りは、相互間で今まさに語られ、語り続けられている。語りVは、「語り」自体に「聞き手」と「語り手」の間にある種の断裂(『正しさ』をぶつけ合うことから生まれる『沈黙』)を孕んでいたとしても語りを語り続けていること自体の意義を示している。
  また、改めて容貌に問題を抱えて生きる人々が、「居ない」とされてしまった背景を述べるとするならば、一つは「生き辛さ」を含んだ容貌問題を巡る「語り」が、多様に存在する人々(様々なサイトに所属しそれぞれの位相に存在している『主体』)に多元に「聞き(読み)」説かれてしまうことあげられるだろう。私達も例外ではない。しかし、それは大した問題ではないのではないだろうか。難題は、次に控えている。
  もう一つは、「生き辛さ」を表す具体的な言葉が、見つからない事である。仮に私達が、ある「語り(出来事)」を文字に起こす作業する。それから、持合わせた自分の知識(理論)で、その「語り(出来事)」の整理をし、解釈を試みたとする。その後私達が、書き上げられた文章を読んだときに、具体的な言説化さていない「生き辛さ」の現象をどう考察し、更にどのように表現し、他者に示していくことが適当になるのだろうか。語り手の「語り」によって語られた言葉は、文章となり紙の上に文字として羅列されていくだろう。そこに、書かれていない、いや、書かれている全ての事柄が読み解けるだろうか。
  この問題に私たちは、どう向き合えばいいのか?
  当事者達が「語る語り」には、私達が何一つ無意味で無駄な言葉そして、意味をなさない行為だと断定していいものはないのだろう。私達は、無意識にたまたま持合わせたそれぞれの知識や某かの理論を頼りに「語り」に向かってしまう。せめてその事によって、無作為に「語り手」の「語り」を遮断してしまうような事 ― 一つの事例として、容貌問題の「生き辛さ」を抱えて生きる人々は、「居ない」されてきた ― は、避けたい。今後私達が、今持合わせた知識や理論では、理解不能な「物語(出来事)」に出くわしたとしてもだ。
  私達には、他者の声を聞き「語り」を手繰るという貴重な術が残されているのだから。


《 一章のまとめ 》

  本章では、「居ない」とされている容貌問題を抱えている人を巡る「語り」を第一節にて紹介した。そして、第二節にて内容を詳細に分析した。
  第二節以降の分析は、容貌を患うことに内在している「生き辛さ」に着眼し、3つの語りを様々な視角から分析している。まず、「語り」の中で語られている人間相互間の揺れにあたる「違和感」の分析を行い次に「容貌を患う人(主体)」と「語る」もしくは「語り」を聞く状況下においての相互間の関係と位置を中心に分析を試みている。最後に容貌問題が内包している「生き辛さ」とは、「言葉」で示す事ができない障害のため、他者からは理解し難いもしくは、理解されないことを指摘した。更に、私達が言説に捕らわれるもしくは、無意識に支配されることによって、漏れ出でてしまう「言説」不存在の問題への取組みをこれからの課題として提示している。
  では次章にて言説に抵触せず、具体的に保護される事の無い容貌問題の「生き辛さ」を抱えた人々が、「法(言説)」にどのような救済を求めているか、またどうやって、救済の術を得ているのか等をアンケート調査のデータを利用して分析することにする。


1 生活の面倒を見るという形で法によって人間の日常が支配されることは、自由が侵害される危険性を伴う。たとえば、ハーバーマスが「法制化」(市民生活が国家の法律によって管理されること)への批判を行っていることやフーコーの身体的レベルにおける訓練や自己規律といった日常面での管理問題への批判を展開しているようなことからもそのことが裏付けられる。
2 現在、顔面の半分が、濃いエンジ色、または血色の状態の違いから赤色をしている様に見える。治療方法としては、レーザー治療が有効で形成外科で行われている。
3 容貌問題を抱える当事者と家族の所属するあるセルフ・ヘルプ・グループの活動(例会)の中で、個人の近況や意見の交換が行われることがある。そこで、語られた「語り」を記載した。容貌に問題を抱えている当事者や例会の参加者(情報提供者)から、本論の研究の目的に使用する事に了承と協力を得られた部分のみを記載している。また、出来事に対して後日、メールを使用して語りの内容を改めて文章し、提供して頂いた。出来事内の「?」マークの記載は、保護者の記述である。
4 ケロイド痕
5 患部より他の離れた部分から皮膚を採取して移植する遊離植皮術を受けた痕。現在では、移植する場合、細かい血管を吻合する事によって、広範囲の皮膚を「変色」させることなく行う事が可能になっている。この治療方法は、移植した皮膚と周辺の皮膚の「変色」差異を明確にしてしまうことがある。境界部分は、完全に見えなくすることはできない為カモフラージュメイクを使用することが多い。
6 語りUは、当事者とその友人がお茶をしながら小学校の出来事について思い出話をしている中からできる限り会話のやり取りだけを抜出した。もちろん教師との会話は、Cの記憶上のやり取りである。文章を書き起こした後、当事者に読み直して頂いている。ゆえに文中の「?」マークの記載は、当事者の希望で付している。容貌問題を抱えた当事者の記憶(事件当事は、8歳)を再構成した形での聞き取り調査を行っている。また、当事者の通っていた事件の発生した当時のクラスメート(1クラス28人編成中10人に聞取りを行っている)に調査協力をお願いしている。この場を借りて感謝を申し上げたい。
7 語りVの当事者は、顔面を含む、身体の(左右対称に)半分に血管腫を患っている。
8 語りVは、容貌問題を抱える当事者と家族の所属するあるセルフ・ヘルプ・グループの活動(例会)の中で、個人の近況や意見の交換が行われる。そこで、語られた「語り」を記載した。容貌に問題を抱えている当事者や例会の参加者(情報提供者)から、本論の研究の目的に使用する事に了承と協力を得られた部分のみを記載している。後日更に、語りの詳細について、メールで文章にて提供して頂いている。語りVは、送られてきたメールの内容に関しては修正を行っていない。
9 レーザー治療は有効的なもののようだが、万能ではない。一台のレーザー機では治療が難しいので治療を行う当事者は、治療の為に多くの医療情報を必要としなければならい。また、目の周り(眼球自体にも血管腫は発病する)などの血管腫は失明の恐れもある。
10 この一般的な容貌イメージとは、容貌に医学的な「損傷」、「変型(形)」、「変色」を伴わない容貌を指したものである。
11 筆者が、ここで示しているジレンマの背景は、非常に大きな広がりをもったものである。個人が、容貌を受容する困難だけではない。当事者には、現容貌になら無ければならなかった原因(事故には様々な原因がある。ネグレクト、アヴューズが起因するものもある)と、原因の事実を理解、受容しなければならない過程がある。また、現容貌のままでこれから過ごさなければならない医療の限界から引き起こる個人の心情的な問題。現容貌を引き受けることから派生する身近の者との障害(例えば、現容貌を受け入れることによって治療を中止したいと述べれば、容貌が元に戻ることを信じて治療に励む両親の希望をなくしてしまうのではないか等の問題)と、どう立ち向かえばいいのか?の間で当事者達は、画一化できない様々なジレンマの中で揺れていることを付け加えておきたい。
12 ピーター・レナルド著刺激俊彦・宗沢忠雄訳「人格とイデオロギー」株式会社大月書店1988年234頁 8章 社会秩序の周辺 自己、アイディンティティ及び抑圧の項目で著者は、「一つの傾向として、障害児は、障害をもたない人が完全である、と感じるにいうことに注目されてきた」(シェイクスピア1975年)と引用を行い実際の個人のボディーとボディ・イメージとの差異が、障害者を持つ人にとって自己の尊厳を維持する為の戦いを困難にすると分析をしている。
13 クラスメート達は、多数派ではある。しかし個人が備えている容貌イメージには、グラデーションがあると推察される為、共同体にはなり得ない。
14 FBS福岡放送局200年7月16日(月曜日)16:00再放送「奇跡の子育て奮闘記 両腕を失った母親の愛」参考 本論「始めに」脚注にて紹介した障害者実(先天性四肢切断障害)は、「なぜ、成長に伴って義足をつけ変えなければならないのだろうか?」と疑問に思い、自分自身の回答を見出し義足や義手を放棄してしまう。周囲の視線にどのように写ろうとも、ありのままの姿で生活をしようと選択する当事者の姿を映している。つまり義足や義手が当事者にとって機能的に意味がない者であってもそれらの着用を好ましいと考えてしまう観念が私達には無意識に働いていると推測される。
15 松本学「隠蔽されたいきづらさ」藤井輝明/石井政之編者『顔とトラウマ 医療・看護・教育における実践活動』かもがわ出版 2001年 著者は、「男性は性役割からいきにくさを感じることはないのか?」と問いを立て、「『男らしさ』として要求されているものに、『美について語るな』とういうものがないだろうか?」と疑問形であるが個人の見解を述べている。
16 第三章で紹介するステロイド禍訴訟昭和58年京都地裁 事件番号(ワ)1856江崎ひろ子「顔がつぶれても輝いて ステロイド軟膏禍訴訟」一光社1988年 この著書に記述されている内容からも窺うことができる。例えばステロイド禍訴訟に関する記事が出た折、新聞社を通して「お化粧くらいで大騒ぎして、しばらく化粧をするのを控えれば直ります」とある人(他者)から投書が送られたことが書かれている。この現象はまさに、当事者の志向する訴訟提訴の意義からは大きくそれた、他者による位相からの解釈が固有に展開されている状況を表している。
17 語りVを語って頂いた当事者は、多くの社会福祉施設等に積極的に出かけ多くの人に自分の体験や思いを語る活動を行っている。
18 立岩信也「弱くある自由へ」青土社1999年 −21頁より 立石は、3章 緩い自己決定の中で自己決定の定義(一つの在り方)を簡易に2点挙げている。一つ目を次のように述べている。一部抜出しを行う。「その者の存在を決定すべきでないと言う価値がある。次に、決定をすることはその者が存在していることの一部である。ゆえに、自己決定を尊重するということはその存在を尊重すること、その存在を決定しないことの一部である。そして、当の者は、多くの場合、自分にとって良い状態を(他の人達よりもよく)知っているから、自己決定は肯定される。一部省略 更に自己決定は、確定されない事実への参加を可能にするものであり、危険を冒す自由を(冒さない自由とともに)与える。一部省略 その人から私達はその人の決定だけを受け取っているのではない。そして他者を決定できないこと、決定しないことは他者との関係の可能性の条件になっている。」引用を参考に考察を行えば、語りUのBは、瞬時にCの容貌アイデンティティの自己決定について代理して行う事ができない趣旨を含めた「語れなさ」を語っていたことが理解できる。また、BはCの自立を尊重しているとも考えられる。



第二章 法と容貌を患うこと

第一節 問題の所在

  一章では、個別に当事者の「語り」に内在する様々な現象を追いながら、当事者の視点により近い位置で「生き辛さ」へのアプローチを試みた。だが容貌を患うことは、ある特定な人々だけに起こる事ではない。事故、天災や災害などによって容貌の「欠損」・「変形」・「変色」は誰にでも突然起こり得るからだ。具体的には、後天性難病類の発病・天災・事故・他者による傷害などの起因が予測される。容貌を患う(または煩う)状況になったとき誰もが、自分の容貌の変化を受け止めることができるのだろうか。またその際、何に戸惑うのだろうか。実際にアンケート調査を実施して、容貌に問題を抱えた人とそうでない人との間に何らかの差異が、存在するのかまたそうでないのか明らかにすることを二章では試みたい。容貌を患うことは、社会上問題とはされていない。要因は、身体に機能障害を伴わないことが考えられる。そのように機能障害が残らず容貌のみの変化を患う事になった場合また実際に患っている場合に、人は、何を懸念し、どのような心配を抱えるのだろうか。また、「法」になんらかの救済を求めるのだろうか。
  第二章では、アンケート調査の報告と調査を基に「人(容貌問題を抱えた人そして、そうでない人)」が、法に求める救済方法を探ることにする。また、アンケート結果から実際に容貌問題を抱えている「人(主体)」を救済する為に作用している現象の様態を把握し、新たな救済の可能性を検討したい。


第二節 集計結果

  このアンケート調査は、北海道を除く都府県を対象に各種団体(セルフ・ヘルプ・グループ,大学,高校,教育委員会等)に協力を依頼し実施している。調査期間は、2000年9月20日から同年12月21日の3ヶ月間である。実施枚数は、おおよそ一千部1配布、その内回収部数は、850部である2。アンケート対象は、容貌問題を抱えた人々の所属している各種団体また、当事者とそうでない人が混在している可能性が予測される普通高校及び私立・国立大学。また社会人の団体は、容貌問題に関心を示された関西地区の一部の教育委員会に協力をお願いした3。
  「DATA1」を見ると理解できるように、回答者のおよそ4割弱の人が、自分の容貌に何らかの問題(痣、熱傷痕、傷、アトピー等)を抱えていると主張している。今回のアンケートは、本人の回答に基づく統計とした。そのため、無効回答になってしまったデータが数部存在する。無効回答になった事情は、以下の理由である。容貌問題を抱えている者の年齢が、0歳〜6歳までに含まれる者である。この代理によって書かれた回答は、本人の意思でなく、保護者の意思の反映と考えられる為に無効とした(保護者の意思による回答と当事者の情況が、混在して分析が行いにくいため無効と判断した。ただし、記述によって詳細に諸事情を書いて頂いた回答選択理由に関しては、参考にさせて頂いている)。また、個人の容貌に問題を抱えているか?いないか?の回答に答えを頂けていない方は、今回の調査目的のデータとしてはカウントしにくいので省かせて頂いた。
データは以下の通りだ。

「DATA1」答えられない(2%),「無回答」(6%)

  次に「DATA2」では、回答者の年齢割合を知ることができるが、高校・大学の協力を得ることができことから若年齢の回答割合が、高くなっている。0歳〜10歳未満の人数割合も「DATA2」グラフからは、読み取りにくいが全体の(1%)ほど回答されている。(回答年齢9歳。各所設問の意味が、理解できない問いには、『わからない』とひらがなで答えて頂いている用紙があった。このアンケート回答は、協力してくれた意思に敬意を評しカウントしている。)

  グラフの記載について、「DATA1〜10」の分析用語は、容貌に問題を抱えた人を当事者と表して、容貌に問題を抱えていない人を一般者と表す。「ドーナツグラフ」の場合、主に外円に一般者、内円に当事者の傾向を示すものとする。データの誤認、誤解が無いように、グラフ内の注を必ず参照して頂きたい。最後に本論では、本論末尾に添付しているアンケート回答用紙に記した全設問のデータ集計分析は、本論に関係しないためおこなっていない。

DATA 1.2.3
容貌(傷病、疾患を何か抱えているかどうか?)・年齢・性別に関する統計


DATA 4
『問い』:あなたが、顔もしくは、外形で他人の目に触れやすい部分に治ることのない痣や外傷を負った場合その部分をカバーメーク4(化粧)してその部分を隠すと思いますか?実際に傷病を抱えた方は、カバーメーク・リハビリメークされていますか?
※女性の日常メイクではありません。
回答方法は、YES/NO、および無回答の選択方式。可能であれば、その理由について記述を求めた。


DATA 5
『問い』:あなたの顔もしくは、外形で他人の目に触れやすい部分に生まれつき(先天性)紫色・赤・青などの大きな痣・ケロイドがあったとします、何が一番心配ですか?
何らかの事故(後天性)によって、あなたの顔もしくは、外形で他人の目に触れやすい部分に大きな外傷または変型が、残ってしまいました何が一番心配ですか?
回答方法は、選択方式。可能であれば、その理由について記述を求めた。


DATA 6
『問い』:何らかの事故によってあなたの顔もしくは、外形で他人の目に触れやすい部分に大きな外傷または変型が、医師によって一生治らない(消えない)と告げられた場合、事故を起こした相手に(相手が明確でなかったとしても)どれくらいの損害賠償請求額を請求したいと思いますか?
回答方法は、選択方式。その理由について回答可能であれば記述を求めた。
※この問いは、現在容貌に問題を抱えている当事者に対しても行っている。


DATA 7
『問い』:顔もしくは、外形で他人の目に触れやすい部分に治ることのない痣や外傷や変型を負ってしまった場合、(機能障害を除く)今の自分と同じ生活を過ごせると思いますか?
回答方法は、YES/NO、および無回答の選択方式。可能であれば、その理由について記述を求めた。
※この問いは、現在容貌に問題を抱えている当事者に対しても行っている。


DATA8
『問い』:現在生活機能障害と認められてはいませんが、顔もしくは、外形で他人の目に触れやすい部分に治る事のない痣や外傷や変型を負ってしまった場合、あなただったら国に対して何らかの生活保障・支援を求めたいと思いますか?
回答方法は、YES/NO、および無回答の選択方式。可能であれば、その理由について記述を求めた。


第三節 「隠すこと」と「心配事」をめぐって

第一項 「見た目」への対応について

(1) 容貌の修復

  血管腫、太田母斑、扁平母斑、白斑、熱傷(皮膚移植後の境界の縫い傷等)、ケロイド痕、傷(交通事故の修復痕)に対しては、容貌の形状に違和感がでないような治療が施されている5。それでも、化粧によるカモフラージュが、形成外科医療の補えない部分には必要とされている。そのカモフラージュの為のメーキャップは、リハビリメークまたは、カバーメークと呼ばれている。
  人は、容貌に問題を抱える状況になったとき「見た目」を隠したいのだろうか、それとも隠さなければならないのだろうか。

(2) 隠さない理由

  「DATA4-1」の数字データ割合から当事者6及び一般者およそ(60〜70%前後)が、カバーメークの使用を希望していることが解る。更に「DATA4-2」において、YES回答者の詳分析を細に行った。男女比は、当事者が男性(40%)に対して女性(60%)、一般者に関しては、男性(31%)に対して女性(69%)である。「DATA4」の問いに関して、YESおよびNOと答えた回答者に「どうしてカバーメークをするのか?/しないのか?」理由を答えて頂いた。

YESの記述回答群 
  当事者:「小さい頃から(選択意識の無い頃から)メークをやっていて自分には、選択肢がありませんでした、(回答時10代後半)」、10代中心「他者の視線が、気になってしまう、」「好奇の視線に曝される、」多数、20代以上「他者に怖がられたくない」、「社会に受け入れてもらいたいから」、「恋人に少しでも受け入れられたいから」、「夫が私の容貌を気にしないでいいように」
  一般者:「人が見たら気持ち悪いでしょ?」、「少しでも、普通の人に見られたいから」、「他人が差別したら怖いから」

NOの記述回答群
  当事者:10代未満「このままでいい」、10代「カバーマークが皮膚の特性に合わなかった」、「眉や睫毛は、修復ができない」、「全身70%近くの火傷なので化粧では隠せない」、「腕や足なので、長袖長ズボンを年中使っている」、「首から下の傷病なのでパッと見は、大丈夫ですがお風呂に入るときに断られたことがる。お風呂の時に見られないように出来ないでしょうか?」
  一般者:「コンプレックスを隠すのは、いけないと思う」、「隠す必要は無い」、「身体が太っていることをアピール材料とするので、同じ感覚で隠さないと思う」、「俺は、人がどう思おうと、このままで強く生き抜いて見せます」、「正直、わからない」

  人が、他者の視線を集めることを避けるために多くの人と異なった容貌をメークで隠す行為は、当事者と一般者の間にそれほど違いがない。けれども「DATA4」の分析において、注目しなければならない重要点は、YES/NOの回答数ではなく、むしろNO回答を出した者の理由ではないだろうか。回答は、NOであっても、当事者か一般者かの両立場によって、全く異なった意味を内包している。
  当事者の具体的な回答は、「隠そうと思った。けれども、メークでは、何らかの問題があったことからできない。」と答えている。つまり、NO回答であっても隠す行為自体は、肯定的にとらえている。そして、できることなら他者からの視線を回避したいことも望んでいると考察できる。しかし一般者の回答は、隠す行為を否定的にとらえていることが読み取れる。この一致しないNOの回答理由群は、何を意味するのだろう。隠さなくてもいい状況なら、隠す行為を望みはしないのではないだろうか。隠さなければならない状況にあるから、隠したいのではないのだろうか。

(3) カモフラージュ・コスト

  そして、「DATA8」とリンクするが、メークの為の保険は、国からの保障は行われていない。社会的保障を行うほどの障害とは、認められていないことから、カモフラージュするメークにかける経費の負担は個人任せとされている。生活保障希望率を示した「DATA8」の具体的な回答として、「カバーメークのコスト負担を国に一部支援して欲しい」と書かれているものが多かった7。これは、当事者にならなければ知りえない事情である。「DATA8」の当事者(63%)と一般者(40%)のYES回答率の格差は、「見た目」の大変さは理解できても、具体的な困難さが理解できない為に生じたものだと考察される。


第二項 「心配事」の分析

(1) 偏り

  それでは次に、「DATA8」ともリンクする「DATA5」容貌を失った場合の「心配事」の分析を行っていこう。「DATA5」の比較で、まず一番に注目すべき点は「無回答」が極めて少ない点である。ちなみに当事者の「無回答」はゼロである。実際に容貌に問題を抱えている当事者達が、「心配事」に無関心ではいられないことは、ごく当たり前のことであろう8。また「もしも、先天的(外円データ)、後天的(内円データ)に自己の容貌を失った場合」の「心配事」を質問し統計を取ったところ、結果は両ケース(『DATA5-1』当事者、『DATA5-2』一般者それぞれの内円と外円)とも「心配事」には、大きな偏りは無い。人生のどの時点で容貌に問題を抱えることになっても「心配事」は、往々にして存在するのだろう。ただし、それぞれのグラフ(『DATA5-1』当事者、『DATA5-2』一般者)の凡例を詳細に分析をすると、当事者の就職の問題と一般者の「いじめ」の問題に格差が見られる。若干当事者か、一般者の立場によって心配事に差異が表れている。この現象は、回答者が、それぞれの位置や位相にてアンケートの質問を解釈し回答した結果の表れだと考察する。そのことにも注意を払って分析を行う。


(2)「心配事」の温度差

  事前に心配事の選択語群(特に無い、いじめ、就職等以下グラフ参照)をアンケート内に挙げて置いた。アンケート回答者が、それを選択し、回答結果を集計したグラフが「DATA5-1、DATA5-2」である。まず、一般者の回答グラフ「DATA5-2」の「いじめ」の高回答率の注目する(『DAT5-1』外円9と『DATA5-2』外円10を比較した場合)。一般者回答グラフ「DATA5-2」外円グラフは、全体の約3分の1(35%)が「いじめ」で占められている。この現象の理由は「DATA2」を参照して頂ければわかりやすい。アンケート回答者の年齢は、半数以上が10歳から30最未満である。また、「DATA5-1」の外円グラフも「いじめ」の回答率を他と比べてみると、他の回答率より異常に少ないわけではない。つまり、アンケートの質問に答えて頂いた回答者の大多数が、「いじめ」を生活習慣の中でとても身近なものとして捉えている年代であり、そことが若干影響していると推測される。とはいえ、当事者「DATA5-2」外円グラフ(17%)と一般者「DATA5-1」(35%)間で回答率に逆格差が生じている事は意外である。当事者は、先天的に容貌に病気を患っていても「いじめ」が特に心配だとは考えていないことになる。この現象から人々が、容貌問題をテーマとして、当事者と実際(生)に語り会う機会が少ないことが窺える。
  次に後天的(突発的な事故によって)何らかの容貌問題を抱えることになった場合の回答率に移ろう(『DATA5-1』を『DATA5-2』のそれぞれの内円比較した場合)。「DATA5-2」内円グラフは、やはり「いじめ」が高い割合をしている。他は、特別偏ることなく心配事が散在している。しかしそれとは、対照的に当事者の「DATA5-1」内円グラフは、回答者の約半数が、「その他」を選択している。後天的な原因から容貌を失った場合では、当事者の約半数(46%)の人が「その他」を選択している。後天的な原因から容貌をしなった場合のグラフ「DATA5-1」外円グラフの場合も「その他」の回答は、高回答率を示している(38%)。一方一般者は、その他の回答に関しては内円、外円グラフとも選択理由について具体的な記載は、3回答しか記載されていなかった。一般者には、漠然と心配事が、広がっているという感じなのだろうか。
  以下、アンケートに記載頂いた「その他」の記述回答群を一部示すことにする。

  当事者:「傷病変化及び悪化11」「結婚して子供もいるので自分のことよりも子供が、嫌な思いをしないかどうか心配12」「精神的な葛藤13」「仕事につきたくてもやはり外見はかなりポイントが高いので就職が心配14」「現在、悩んでいることは多いのに相談先の窓口が無くどうしたらいいのか困っている15」「温泉等に入る折に人々にじろじろ見られるから入りにくい」「カバーマークの経済負担が高く心配している」

  一般者:「すべてに置いて心配だと考えるが、始めて会った人の視線が一番怖い」「引きこもって、部屋の外へ出て行けない」「自分の容貌を耐えることは、可能だが、自分の子供がいじめられないか心配だ」


(3)纏まらない容貌問題の「心配事」

  「容貌を失う」出来事が、人の心に多くの心配事を生み出すようだ。しかしその「心配事」には、おそらく傾向や特色などは無いのであろう。今回の調査を行った結果から、実際に容貌を失っている当事者とそうではない者の間では、多少心配している意識レベルに温度差があることを知った。グラフや選択回答理由から当事者は、個別にかつより具体的な心配事抱えていて、一方一般者は、漠然と不安でかつ心配をしている情況だと読み取る事ができた。このような、一つに纏める事のできない容貌問題の「心配事」の事情が、社会の中に容貌問題を埋もれさせていくようでもある。
  さて、自分の容貌を他者によって ― 事件の因果関係や他者の意思はともかくとして ―「欠損」「変形」させられたら人は、どれくらいの賠償を求め、どのような要求するのだろうか。上記に述べてきたように容貌問題のアンケートの「心配事」には、特色が表れていないのは確かだ。しかしそのことは人々が、心配をしていないわけではないのだ。繰り返しになるが、容貌損失や欠損が、発生した場合に人々は、纏まる事の無い思い思いの心配をそれぞれ多種、多様に巡らすのだ。では、このような問題を抱えることになった折、人々は、どれくらいの金額でそれぞれの「心配事」を補填できると考えているのだろう。


第四節 患い、煩うこと

第一項 「補償」を巡って

(1)希望金額

  「DATA6」は、当事者と一般で賠償希望金額を示したグラフである。
  両立場の共通点としては、高額な賠償支払額を希望していることである。一般者の回答比率は、1千万から1億の範囲の回答率が非常に高い。それに対して、実際に容貌に問題を抱える当事者は、特に「その他」を回答した人の比率が高いことが窺える。しかし人々の希望金額に反して通常、民事裁判によって確定される損害賠償額は、機能障害が後遺傷害とならないと判断されうる「欠損」や「傷害」の場合、さほど高額になることは無いといえよう。


(2) どのような「補償」を望むのか

  次に、選択肢群から「その他」の回答を選び、具体的な補償案を示した回答例を当事者と、一般者に分けて紹介しよう。

  当事者:「容貌がもとに戻るのならば、一円もいらない」「故意か過失かで、請求したいと思う金額が違う」「お金では癒されない」「親ですし、請求はしません」「お金ではなくて、一生生活できるだけの保障」「天災だったので、誰に責任を求めていいのかわからない16」「時間を戻して欲しい17」「親ですし、請求はしません」

  一般者:「もとに戻るのなら元に戻してもらう、もとに戻らなければ、一生の生活保障分お金が欲しい18」「今は、全くわからないが、生活保障をしてもらいたいので話し合いたい」「今後の生活の問題を考えると補償金額の算定や請求金額を冷静に考えられないが、お金は絶対必要なので相手方とは、話し合いたい19」「金額は、自分だけでは決められないが、相手にこのような容貌になった自分を見せたい。そして、その金額であなただったらこの容貌で、その保障でこれから生活できると思いますか?と話し合いたい。」「満足する金額じゃなかったら、報復の為に自分の容貌をきちんと目に焼き付けてもらえるようにするためにも会って話し合いたい。」「相手に、重度身体障害に陥った人と、同じ額の補償を行ってもらいたい。」

  「DATA6」の当事者の回答は、「その他」の回答率が、非常に高い20。しかし、実際に容貌を失った当事者の回答は、複雑で繊細な問題を含んでいる。当事者達は、個々別々に様々な情況で、実際に容貌を失っているのだ21。しかし当事者達は、「その他」の具体的な補償案の記載を読んでも解るように金銭のみによって満足を得ることはできないようだ22。
  次のような記載が存在する。「親ですし、請求はしません」、「お金で済むことならいくらかけても、子のこの容貌を直します。23」。確かにこの当事者達の情況下において、被害者/加害者と区分けし事件の因果関係を追求し帰責し、何らかの算定基準で金額に算定することで解決を図ることは当事者の望むところではないことと考察する。
  一般の回答は、大きく2タイプにわかれている。高額な賠償を求める(一千万円から一億円、またはそれ以上を選択している)か、他の金額を選んで選択理由の記述の回答が必ず添えられているかのどちらかである24。記述回答は、一生分の生活費の保証もしくは、相手方(加害者)との「話し合い」を求めているものが多かった。
  このことから、当事者、一般者が望んでいる補償の接点は「容貌を元に戻して欲しいけれども、元には戻らないかもしれないので、金銭の補償が必要だと考える」ということになる。つまりアンケートには、容貌修復と復元の為の金銭補償の必要性とパラレルに容貌を失う事になった原因に関わる者で「話し合う」 ―当事者間でコミュニケーションと図る ― ことの必要性も示されていることになる。


(3)「語り」合うこと

  一旦失った容貌を法の力では、元に戻すことはできない。もちろん、医療に関しても限界が存在する25。それらを人は、すでに認識していると推測する。なぜならば、心療を受ける状況下で当事者は、「心理カウンセリングをやってももらっても傷あとが消えるわけではない。26」と手立てのない容貌問題の悩みを吐露しているからだ。
  だがそうであっても、容貌に問題を抱えて生きることになると仮定される場合に、人々は容貌問題を当事者間で「語り合いたい」とアンケートにて希望していた。つまり、金銭補償だけに留まらず、十分に当事者(加害者/被害者)間で対話(事実確認や賠償額、将来問題、当事者の心情などについて)を持つことこそが重要な「補償」の要素だと示唆しているのである。
  保護者の管理下で、不慮の事故が発生した場合や親族の過失によって容貌に「欠損」または、醜状痕を患うことになった当事者は、第三者によって引き起こされた者と異なった心的なジレンマを抱える事になっている。おそらく、容貌欠損及び損失に対する賠償を親族に求めるまたは、被害確認を争うことは少ないと予測される(第四節第一項(2)より『親ですし、請求はしません』)。日本での社会背景を顧みても、あまり容貌問題について公に語り合われることは無かったといえよう27。
  一方、社会で第三者の行為によって醜状痕が残った場合には、法によって損害を与えた者に責任の追求が行われている。民事交通事故訴訟における損害賠償額算定基準1994年2月(東京三弁護士会交通事故処理委員会)の事案中、顔面醜状痕に言及した例として下記に記載する。

  後遺症による逸失利益の説明の中に女児(症状固定時6歳)の顔面醜状痕(障害等級7級該当)につき、身体的機能の障害をもたらすのもではないが、将来就職をする際、選択しうる職業の制限、あるいは職業の機会の困難さを招来する程度の蓋然性が推認されるとして、18歳から67歳までの49年間、25%の労働能力過失を認めた事例28。

  法廷空間では、容貌に問題を抱えて生きることになる当事者へ、身体的な機能障害が伴わないケースにもこれから先に発生すると推定される社会的「障害」を考慮し、法による補償(後遺障害等級など)何らかの形で話し合われている。


第二項 「法」を患い、煩う

(1) 救済の不存在?不平等な救済の存在?

  裁判では、第三者によって容貌に問題を抱えてしまった情況を醜状痕障害と表現する。実務レベルでの取り扱いに付いて言及されている文章を引用しよう。

  「醜状障害ですと知的、肉体的に見て労働機能には影響ないじゃないかと、よく論争の出ることろでありますが、民事の解決などでは、逸失利益を減じたりし、その分を慰謝料でもって加算するような方法が取られていると思います。
  また、労災保険に尋ねてみると就労に制限を受けてしまう恐れを考え労働能力喪失でみてあげてもいいんじゃないか(以下省略)29」

  実務レベルで行われている、醜状痕障害を抱えた当事者への積極的救済姿勢を上記の文章から窺うことができる。ならば裁判などで話し合いが持たれた中で当事者達30は、いったい何が話し合われておらず、補われていないと感じたのだろうか。
  手がかりを探す為にアンケートに添付された手紙や各語群選択の理由(記述回答)をもとに更に整理した。以下、簡単な箇条書きで記載を行う。
1. 全く法によって救済、保護がされていない人々の存在について
2. 労災認定の問題に関して
3. 後遺症障害及び障害等級の認定に関して

  確かに容貌を患う人の間には、「法」の救済を巡って大きな差異が存在している。容貌に問題を抱えて生きている者にとって、容貌を患って生きなければならない事実の有無には、違いがないのだが無いのだが、「法」救済を受けようとする際には個別に様々な差異(ケア)が発生する。
  容貌に問題を患うことになった全ての人の背景が、同じであるはずはない。そのことはそれそれ皆が、認識できているはずだ。そのことを踏まえて考察を深めれば、アンケートの回答者達は、「法」救済(例えば障害認定適用)の存否や労災認定を求める際に機能障害の有無を判断し、容貌問題を軽視している可能性があること等を指摘しているのではなく、箇条書き3点全てに内在しリンクしている救済を求める折の差異(ケア)の意味を問い直したいのではないだろうか。
  具体的に記載するとすれば本論にて先ほど引用をおこなった「就労の困難性(就労に制限を受けてしまう恐れを考え)」についてである。この救済の差異(ケア)は適当なのだろうか。法救済を受ける手立てのない容貌問題を抱える者と救済を受ける事ができた者の就労の困難性の間には差異(ケア)の存在はないのだろうか。さらに、広げて考察すると容貌は、労働機能の能力になるのだろうかと疑問も浮かぶのだが。
  容貌を患うことから派生する「障害」(『就労問題』)に対しては、詳細に再検討が望まれているにちがいない。なぜならば彼/女らは、他者へのケアを踏まえながら、アンケートに次のように回答している。
  脚注にて紹介をしているが、容貌に熱傷を患う当事者から「障害等級の認定の見直し」、「生活支援などの福祉の向上のためにも、もっと早くこのようなアンケートの実施を行って欲しかった」「私はもう歳ですが、小さいお子さんの為にも研究や取組みが行われますように」との意見が存在した。
  また当事者達は、差異(ケア)に内在する課題を示している。


(2) 課題(『ジェンダー』から派生する『法』の救済の差異)

  アンケート調査を行っても、男女間に性固有の「生き辛さ」の特徴は発見できなかった。今回アンケート調査に参加した男女の割合「DATA3」は、「男性」(47%)、「女性」(52%)である。容貌問題に関して性別に関係なく関心が持たれている事をうかがわせている。また、「DATA4-2」を参照して頂くとカバーメークの使用希望率が当事者で「男性」(40%)「女性」(60%)の回答割合を示している。男女間の「生き辛さ」の差異の存否については、更に詳細に分析を重ねなければならないだろう。
けれどもケアに性のエッセンスを盛り込む必要があるだろうか。興味深いアンケートの選択理由を紹介しよう。

「DATA8」回答選択理由
  当事者:「労働災害の場合、女性であれば顔に傷が残ると保険があるが、男性には無い」、「男性の全身に火傷を負った場合(身体の全体のおおよそ半分の面積が火傷を負っており、毛穴が潰れ体温調整が困難で長時間の肉体労働は困難)と、女性が顔だけに傷を負った場合では、労働能力喪失割合が女性の方が高くなってしまい、悔しい思いをした」
第三者間との間で容貌を失った者は、(醜状痕傷害)査定及び(後遺障害)認定がなされる。このアンケート回答は、その際固有の性の間に格差が存在するのではないかと指摘しているものだ。もちろんこの事実に関しては、男女別で同じ傷病(醜状痕状態)、年齢においてどのような判断がされているかの実体調査を行って見なければ明確で、適切な指摘は困難である。だが、法廷空間で審議される訴状からも固有の性に頼る戦略が、見え隠れする事実が伺える31。一部、例を紹介をしよう。

  「未婚の若き女性でもあるにもかかわらず顔面に著しい醜状があるため、結婚や就職の機会すら奪われており、精神的苦痛は勘大なものである。したがって、原告が被告から受けた損害は、慰謝料及び逸失利益として金三千万円を下らない。(訴状・五のみ)32」

  上記は、ステロイド軟膏禍訴訟の訴状である。若い女性の容貌を失う事実を強く主張することで、労働能力に関する逸失割合を必要に強め(高め)ようとする意図の語りではなかったのかと考察する33。改めて誤解のないように、ここで批判的検討を展開している内容は、弁護士が発揮しいている弱者救済への熱意や前向きな取組みに対してではない。裁判において紛争当事者が、まず事実を主張し、証人がそれを裏付け、そして裁判官がそれを聞いて心証を形成し、その後事実認定が行われ、またそれに対して一定の法的効果が付与される必要がある場合には、法解釈作業が行われたと考えられる。
  だがどうしても、疑問が浮かんでくるのだ。私達は、社会労働を得る上で男女間に能力以外の格差、差別は無いように「法」は規範を設けて幾度となく、不平等の再検討を繰り返している。しかし上記の訴状または他の各判例34から判断すると、法廷空間では「固有の性を有していることで、容貌を失ってしまった折に就職の機会が限定されてしまう(=女性は、容貌が就職能力の一つである)」ことを公認し一部規範化しているのではないかと指摘可能となる。この法のアンビバレンスな現象を私達はどのように捉えればよいのだろうか。念のために女性の顔貌醜状についての労働能力低下をもたらすと見るか否かに関して幾例かの事案を検討し判例から鑑みれば、法廷空間での法解釈の判断に揺れが生じていることが読み取れる35。
  私達は、この現象に関して容貌を患うことになった人を救済する際に必要とされる「ケア」とみなすべきなのだろうか。
  容貌を患う人々の「語り合われていない」と感じていた彼らの視点により沿い現状を見つめた時、「人が、容貌を患うことは、『法』に救済されるのではなく、『法』を煩う事を引き受けることになるのだろうか?」と疑問を抱かずにはいられなくなるだろう。


第三項 「法」への期待?

  容貌に問題を抱えても人は、その困難に前向きに取り組んでいる。人は、容貌に何らかの問題を患い、思い悩まなければならない状態になった折、「法」に何を期待しているのだろう。近代法の根底に作用している理論もいわゆる一般者の視点にたった論理でしかないだろう。そのため理論には、当事者達の「声」の反映は現在のところ、少ないようだ。故に、「法」の作用と日常社会で暮す容貌問題を抱えた人々との間に矛盾と「煩い」が生じてしまったのではなかろうか。
  あるセルフ・ヘルプ・グループの例会(ピアカウンセリングの中)で男女間での「法」の擁護の差異について話題が上った。容貌を患うある当事者(女性)が、「もし、女性が、容貌問題を抱える(顔に傷が残る)ことで後遺障害の等級が男性より重く判定されているとするならば、それは女性に対する『法』が生み出した逆差別だと私は思う。」と語った。
私達は、彼女の「語り」に耳を傾ける必要があるだろう。彼女は、容貌問題に関する「法」救済の差異(ケア)の問い直しの必要性を共に容貌を患う者へ語りかけている。そして、更にその差異が内在している「法」規範(就労問題、労災認定の問題、後遺症障害等級)についても現状からの脱構築の必要性があること彼女は、彼女の言葉で語っているのだ。
私達は、彼女の語りやアンケートから語られる「声」を実直に受け止める必要がある。
更にアンケートでは人が、容貌に問題を抱えた時に「法」に何らかの救済を求め必要としていることも理解できた。「DATA7」の当事者の結果は、容貌を患っていない人々からすると意外なものかもしれない。容貌を失うことによって、自分を取り巻く世界は一変し、強いダメージを受けることになる。けれども当事者達は、そこからいずれ立ち上がり、変容してもとに戻ることの無い容貌と共に、社会生活の再生を果たすだろう。容貌の変化に恐怖して、現状と同じ生活をできないと答えている回答比率は、両方の立場共あまり変わらない情況だ。一般者は、容貌を失ったその先をイメージすることができないのかもしれない。けれど当事者達は、迫り来る明日を拒否することはできないことや、自分の容貌を変える事も、切捨てることもできないことを現実の問題として認識しているのだ。それゆえに、「DATA5-1」の設問に対し心配事を具体的に示し、そして「DATA8」で生活保障の希望を「法」(=「国」)に訴えているのだろう。「DATA8」当事者の選択回答記載の中には、法制化を望み生活保障を懇願している例が多数存在した。
  容貌問題を抱える人々は、身体の機能障害を抱えて生きる者に比べれば確かに、日常生活に支障が無いのかもしれない。その理由が、「DATA8」の一般者と当事者の回答の差異を導くのであろう。容貌を失った折の社会的、日常的「生き辛さ」は、当事者の経済生活も圧迫する可能性を私達は、認識できていないのかもしれない。


≪ 二章のまとめ ≫
  三章では、アンケートの紹介及び、そこから浮かび上がった裁判空間に発生している「法」の問題の検討を行った。なかでも、アンケート調査から究明できた人々の受ける「法の場」での「患(煩)い」は、近代法自体が本来意図としていなかった現象だと考察する。
  私達は、(例えばアンケート調査を通して)当事者の「声」に耳を傾ける事によって、テキストから見出す事のできない、「法」に内在する問題に気づかされる36。また、裁判におけるジェンダーに起因する差異(ケア)に関しては、両性の容貌問題を抱える当事者達が、「法」救済に内在される差異(ケア)の意味を問い直そうとしている。当事者の「声」が、容貌問題をこれからどのように「法」を動かしていくかは、まだ答えが無い。ただ容貌に問題を抱える当事者は、ゆっくりと着実に、法の動態を促し、法の支配の態様を作り変る兆しを示し始めている。

1 印刷枚数は、一千部であるが、回答者が好意的にその地域やグループ、知り合いの家族など、更にコピーをして配布して頂いたので実際数はもう少し多いかもしれない。
2 このようにアンケートの回収情況が、高回収率になった背景は、現在容貌問題を抱える人々の所属する団体(セルフ・ヘルプ・グループ)の参加及び、高校・大学(一つの団体が約200〜300人単位)での協力実施によるものある。
3 この場にてアンケートに参加頂いた皆様に謝意を表したい。
4 このメークは、通常の女性のメークよりも「変色」部分の皮膚の色を隠すことができる。
5 保阪喜昭「医療は『顔』にどこまでかかわれるのか 最新形成外科技術でできること・できないこと」―看護雑誌第64巻第5号2000年424〜427項 参照及び参考
6 アンケート回答に容貌に何らかの問題を抱えている回答した者を「当事者」そうでないものを「一般者」と本章では定義する。
7 熱傷の場合、長時間火傷の患部が太陽光に直接あたると皮膚癌を併発する率が高い。全身に熱傷痕が残った場合紫外線防止の為のクリームは、小面積の当事者より高額になることが推測される。
8 アンケートの実施を行った折、アンケートと共に「今までどうして、このような調査が行われなかったのか?」や障害等級の見直しを願う手紙が添えられてきた。容貌に問題を抱えて生きる当事者の「生き辛さ」は予測以上に深刻なのかもしれない。
9 確認の為に、「DATA5-」1外円の質問の内容は、回答者(容貌を抱える当事者)に先天的(生まれつき)容貌に何らかの問題を抱えていた場合(現在抱えている当事者も)一番心配と思われるものを回答群から選択して頂いた。グラフは、集計後の回答率を表示したものだ。
10 確認の為に、「DATA5-2」外円の質問の内容は、回答者(一般者)に先天的(生まれつき)容貌に何らかの問題を抱えていた場合一番心配と思われるものを回答群から選択して頂いた。グラフは、集計後の回答率を表示したものだ。
11 熱傷の場合、熱傷は回復するが、年とともに熱傷痕・容貌はまた変化する。血管腫の場合通常は皮膚の「変色」だけだが、眼球内に発病する場合「失明」の可能性が高い。
12 当事者から、家族を気遣う回答が多数存在した。
13 成長過程に置いての僻みや歪みが生じているのではないかという心配が多数存在した。
14 身障者手帳を取得できない「当事者」は、手帳の発行や就職時の対策についての要望が多数、挙げたれていた。
15 現在セルフ・ヘルプ・グループで、個人の日常生活の問題を「語り合う」折に「当事者達」は、ストレスを開放しているようである。
16 天災で損失した場合やまたは、先天的遺伝、病気等によって容貌に問題を抱えてしまった者は、誰を責めていいのか解らないことに悩みを抱えていた。
17 容貌を失う前に戻りたいと言う希望は多数存在した。
18 類似回答多数
19 類似回答多数
20 第四節第一項(2)当事者の回答記載が少ない理由は、容貌を失った当事者それぞれの個別の事件の概要を調査し検討しなければ、当事者の記載内容が理解しにくいこと。また、当事者のプライバシーが守られにくいことから、削除させて頂いたものが多数存在する。
21 容貌を失った原因は実に様々である。一つ例として、容貌を「欠損」した直接的もしくは、間接的原因となった過失責任が、血縁者に及ぶ場合がある。その場合、当事者とその血縁者は、容貌損失の出来事に関して心的葛藤を繰り返していると推測される。
22 アンケートの回答理由から、実際は、高額な賠償額が当事者(容貌失った被害者)に支払われることがあまり無いことを経験によって熟知しているようである。
23 今回データ数としてのカウントからは、省かせて頂いた幼児の保護者の回答である。
24 他の設問では選択理由の記述回答は少なかったが、「DATA6」の選択理由の記載は多く回答者の関心が高いことをうかがわせていた。
25 保阪喜昭「医療は『顔』にどこまでかかわれるのか 最新形成外科技術でできること・できないこと」―看護雑誌第64巻第5号2000年 参考
26 笹川真紀子「熱傷体験による心の傷のケアを考える」藤井輝明編『顔とトラウマ』かもがわ出版 2001年 一部引用
27 手島正行「外見に現れてきた傷や生涯を持つ患者のために出来る支援活動―米国重度熱傷体験者が取った行動とその方法」看護雑誌第64巻第5号2000年433頁 一部引用「私は、一つには封建時代から続いてきた日本社会の閉鎖性が大きく影響しているように思います。従来の日本では、家庭に問題を抱えた家族がいると社会の噂になり、当事者のみならず身内までもが揶揄され、いじめられ見下され、あるいは厄介者扱いを受け、抑圧された生活を余儀なくされるケースがまま見られました。日本の社会環境では、経済的理由から、自分にも災いが及ぶのを恐れてか、他人もそうした家族に係わり合いのないように、見てみぬふりをする傾向にありました。この結果、身内に問題を抱えた家族を持つ家庭では、社会から醜聞をたてられ排斥されないように、当事者を極力人目から遠ざけ、人前でその当事者に関する話をする事もはばかってきました。この結果、当事者は孤立無援となり、困難への対処方法がわからず一人で苦しんできたケースが多いように思われます。」
と述べている。容貌問題を日本で公にて語り合うことの困難さが、述べられている。
28 民事交通事故訴訟における損害賠償額算定基準 東京都三弁護士会交通事故処理委員会1994年 ― 一部引用
29 民事交通事故訴訟における損害賠償額算定基準 東京都三弁護士会交通事故処理委員会1994年自賠責保険における後遺障害認定上の着眼点(講演)自動車保険料算定会心理部部長代理大友重雄氏 後遺障害認定の基本的事項より。一部引用
30 アンケート回答を行った「当事者」の中には、第三者によって容貌に「欠損」や「損傷」を負い裁判の経験を得ている者がいる。
31 自賠責保険における後遺障害認定上の着眼点(講演)自動車保険料算定会心理部部長代理大友重雄氏 後遺障害認定の基本的事項東京都三弁護士会交通事故処理委員会 1994年 林哲郎(弁護士)「女の顔の値段―女性の顔の傷に労働能力の過失が認められるか」弁護始末期1198号 1983年 参考
32 江崎ひろ子「顔つぶれても輝いて ステロイド軟膏禍訴訟」一光社1988年63項 一部引用
33 実際の損害賠償請求額は、3062万4871円後遺症7級12号労働能力喪失率100分の56慰謝料418万円逸失利益2134万7263円 和解金総額500万円 江崎(前掲註101) 参照、参考
34 大阪地裁昭和47年2月6日判決判例タイムズ302号・246号 東京地裁昭和49年10月8日判決交通民事裁判判例集7巻5号1373頁 札幌地判昭54年12月7日判例時報964号 参照
35 林(前掲註95)―「判例から見ると不利?」以降に交通事故による醜状痕に害における具体的な裁判過程が示されている。一審(札幌地判昭54・12・7判例時報964号)第二審(札幌高判昭55・9・29交通民事判例集10巻5号 ―1383頁及び判例時報989号60頁)の判決について林哲郎弁護士は、この判決には、以下の見解から―「精神的肉体的能力のみが労働能力だと限定してしまうと、女優が何故高い収入をあげるのか説明がでなくなってしまうのではないか。能力は、相対的なもので、一般の就職についても職場が与えられて、初めて能力が発揮できるものだし、対人関係を無視しては、家事労働の能力も発揮し様がない。― 故に 承服できないと」述べている。
36 和田( 前掲脚注)和田は、このテキスト238頁にて、フィールド「市井」の人々との「かかわり」や「人々のプラクティス」そして「語り」を通して日常的プラクティスの中に生成する法ディスコースの支配と抵抗の契機を見出し、威圧され忘れられた声や強かな密猟の試みを救出し称揚していく事(解釈法社会学)の必要性を指摘している。



第三章  法の力

  第二章では、まずアンケート結果の報告を行った。次に、そのアンケートから浮かび上がった人々の「声(回答選択理由およびアンケートにつけられた個別のメッセージ)」を主に拾い集め、容貌問題を通して「法」の救済のあり方を問い直す作業となった。
    容貌を患うことになった経験を持つ「人(主体)」の中には、ある局面の法の規範をすり抜け、なおかつ法を道具として利用し、法の権利から派生する「補償」を手中に収めている者もいる。具体的には「法の場」で女性の醜状痕被害の等級が男性より重く取り扱われる情況を挙げることができる。しかし、これとて「法」は、この矛盾を引き起こし利用したことの代償のように「法の場」にて戦略として使用した者を結果的に社会の中で「生き辛く」しているのだ。
  私達は、上記のような容貌を患うことから派生する予想もしなかった法の束力に、戸惑わずにはいられなかった。私達は法を使う者として、これから容貌問題とどのように向き合えばいいのだろうか。このように、ただ戸惑いを覚えるしかない私達を置去りにして、なお「人」は、「法」へのアクセスを必要に応じて果敢に行っている。
  最終章にあたる本章にて、容貌問題を巡る二つの「紛争」の分析を深めつつ少々荒削りになりそうだが、法と人の関係について述べていきたい。


第一節  容貌問題を巡る「紛争」と「法」

第一項 容貌問題に機能できない?「法」

(1)容貌問題における「法」救済の現状

  「法(条文)」によって、人権の保障がなされていることは誰もが承知のことだろう。ある種、「法」は、正義・平和・秩序などのシンボル的役割を果たしている1。人はそのシンボルに感化され、法の駆動を可能にする制度を志向し構築を試みる。また現在法務省に設置されている人権擁護推進審議会等によって、啓発活動、人権救済活動が盛んに取組まれていることは確かだ2。けれども容貌問題についての取組みは、特段なされていない3。
  容貌問題には、本論一章の当事者達の「語り」の分析から判明した複雑な障害が、横たわっている。容貌問題の「生き辛さ」は、「語れなさ(言説化できない等)」の問題を内在させているのだ。言説化できないトラブルを法が、抑圧し拘束することは不可能なのかもしれない。しかし一方で、二章のアンケート調査によって確認できた事実がある。ひとたび現容貌を失う事になれば、社会的「生き辛さ」の問題や社会生活の困難が伴う情況に陥る(容貌を隠す行為『カバーメイク』をして毎日、生活しなければならいことやいじめ、就職、結婚等に何かしらの支障が起きる可能性が否めない)ことを誰もが認識していたのである。そのような事を人が、容貌の「損失」、「欠損」した場合には、賠償や今後の生活などの事について、医療カウンセリングを受けるよりも相手(自分の容貌を喪失に関わった者)と「語り合いたい」と希望しているのだ4。
   ならば容貌問題を起因とするトラブルにて両当事者間で「語り合う」ことが不可能になりつつある場合、もしくは不可能になった場合に人々は、語り合えない問題だとあきらめるだろうか。いや、それはありえない。なぜならば、自らの意思によって「紛争処理機関」に足を向かわせている実例が存在しているからだ。このような現象から、おそらく人は、法の力に内在している拘束性の限界や煩わしさを予め認識しつつ、そして法の力を使用した事で予想外の新たな困難が、ひき起こるとしてもそれらを引受ける覚悟で法の使用を望むのではないだろうかと推測をする。
  

(2)紛争と処理

  裁判事例を紹介する前に、当事者の揉め事「(生)の紛争」と法的紛争処理の関係について触れておきたい。私達は、社会の中でそれぞれコミュニケーション(相互関係)を保ちまた交わしながら、日常生活を試みている。その中で、社会の出来事としては極些細とされる、しかし本人にとっては重大であったりする事が多彩に繰り広げられている。サイトの中に存在する人は、もしかすると個人の背景に何らかの事情で各々「生き辛さ」を抱えているのかもしれない。けれども、できるだけそれに抵触しないよう迂回し、避けながら人々のコミュニケーションは、当事者間で巧みに交わされているのではなかろうか。ところが、コミュニティー内の当事者間に大きなコミュニケーション齟齬が発生してしまうと当事者達は、自力ではもう次のコミュニケーションが取れなくなってしまう場合がある。すると、日常生活に支障をきたしてしまう当事者は、ある程度、自助努力を持って相互間でコミュニケーションの復興に努めると考えられる。が、それでも駄目な場合は、第三者の介在を求めて紛争処理機関へ足を運ぶ選択をすることになるのだろう。
  当事者によって持ち込まれた紛争は、まず法の言語に加工し、法的手続きを行い、法の言葉に選別され、法の形成がなされる。法的紛争処理機関を選択した当事者は、この過程を通過しなければならない。このように当事者間で起きた揉め事「(生)の紛争」から一歩踏み出して、「法の場」へ持ち込むことは当事者にとって不本意な作業を強いられることになるともいえる。この法的制度の適用が、紛争をかえって複雑にする場合もあると懸念される。
  それは、紛争処理機関の一つである裁判が、法的問題のみを処理していく機関だとされているからである。容貌問題の揉め事を法的に争う事は、極めて困難で厳しいと考察される。けれども法と紛争は、連続性をなし互いに影響を与え合い、そして形成をなしているものなので、相互の連続性を利用しながら、当事者間の相互関係を促進させ紛争を新たに形成していくことは、一旦閉じてしまった当事者達の関係を新たに開く可能性を持ったものである。ゆえに紛争処理機関に持ち込まれた紛争が、紛争処理機関に持ち込まれた事によって当事者間の相互関係を遮断し、終了させるわけではない。当事者間の「語り合う」作業が、形を変えて「法の場(法廷)」にて続けられることになるだけだ。
  ただ当事者達は、法手続きが開始されると新たな役割を果たす他者(『弁護士、裁判官等』)が揉め事に介在するため、個人のなすべき役割に混乱をきたし「法の場」へ足を向けるのを避けてしまうケースや法的問題のみが簡素に処理されてしまうケースがある。
  この上記の問題に関しても若干、留意して次項の事案を検討していきたい。


第二項 裁判解決の不・可能性

(1)二つの事案

  例えば、紛争には、交通事故紛争、セクシャルハラスメント訴訟等と呼ばれるような、紛争に内在している共通の要素から、一つの類型が見出され、呼称的に示される訴訟がある。容貌問題に関して現在のところ呼称的に示すことができるほどの数は、提訴されていない。殊更繰り返す必要はないが、容貌問題のトラブルに関しては、法が介在するには困難を極め、不適切なケースが多数存在するからである。それでも容貌に関連する問題に焦点を合わせて詳細に調べてみると実務レベルでは、少数ではあるが果敢に取組んだ形跡が残されている。次に挙げる二つの事例は、容貌問題であっても紛争処理機関の使用の可能性示すものである。事例の簡単な概略の紹介を行おう。
  まず「石に泳ぐ魚裁判5」は、被告Y1の執筆した『石に泳ぐ魚』に登場する「朴里花」のモデルとされた原告が、名誉感情を侵害されたとして、損害賠償、本件小説の公表の差止等を求めた事件である。第一審判決は、一部認容、一部棄却となっている。第二審は、一審東京地裁判決を支持し、被告Y1側の控訴を棄却した(2001年2月15日)。次に「ステロイド禍訴訟6」は、昭和56年12月8日「D総合病院分の証拠保全申し立て」から始まった専門性の強い医療、薬害裁判だ。しかもステロイド禍による容貌変容の損害賠償を求めた初の(ステロイド軟膏禍)訴訟である。
  二つの事案は、事件概要も訴えの要素も一見、全く異なった接点のない事案のように見受けられるが、幾つかの接点がある。ここで簡易に述べて置くとすれば、紛争が、容貌問題を巡る「語れなさ」を内在させたトラブルという点。そして、二つの訴訟とも両者相互間では揉め事が継続しなかった事が挙げられる。つまり両訴訟の当事者たち(原告/被告の立場に関係なく)が、「裁判でなければ、他に解決手段が無かった7」と紛争処理機関の使用を強く望んでいた点だ。
  しかし二つの事件には、全く異なった要素も内在している。「石に泳ぐ魚」裁判は、紛争当事者(この事案では被告)対弁護士の対立という構図が形成されてしまっている。当事者相互間に起きた問題が、いつしか法の問題へとスライドしてしまったのである。このことで本訴の紛争の主体達は、当事者相互間に起きた容貌問題を巡る「生き辛さ」のトラブルに関して語り合うことを辞めてしまっている。他方「ステロイド禍」訴訟は、容貌を患うことになった起因を巡り、紛争を法の言説に添い合わせ、提訴した時点でのそれぞれの役割と相互関係を維持しながら語り合っている。このような二つの訴訟の特徴に留意ながら、順に分析していく事にしよう。



(2)「語れなさ」から産まれた言葉の齟齬

  まず「石に泳ぐ裁判」に関する、ある言葉に着眼し分析を行う。訴訟においては、紛争が法的に加工され日常の言葉が、法的に形成されることは先に述べてきた。また、当事者間で起きた揉め事「(生)の紛争」から一歩踏み出して、「法の場」へ持ち込むことは当事者にとって不本意な作業を強いられることになることも指摘している。そのことから生じた一つの言葉の齟齬を紹介しよう。「石に泳ぐ魚」裁判または、この事件に関係する出版物の中で、文章の節々に「障害」と表現して個所を多く見かける。例にあげてみよう。
  プライバシー侵害と表現の自由保障(憲法・21条)との関係で注目を浴びた「石に泳ぐ魚」裁判。この裁判で東京高裁は判決で「『障害』それ自体の苦痛の上に、さらに他人の好奇の目や差別によって受ける悲しみを倍加させる損害を与えるものだ」として人格権とプライバシーの侵害を認定した8。
  次に、雑誌・創において「原告本人が綴ったその心中」と、小題された中に書かれた文章の一部を紹介しよう。
  柳美里氏は私を「『障害者』だと思ったことはなく、それは私が一度も自分に『障害』があるような態度を見せたことがなかったからで、だからこそ、この小説を書いたのだ。」と言う信じ難い理論を展開しています。
  しかし、このような「障害」を顔面に持った女性が、こうして「障害」などではないかのごとく振る舞い、他人にもそのように思ってもらえるほどになるまでに、どれほどの努力と痛みがあったのかを、わからなかったというのでしょうか9。
  裁判官、原告、被告10の「語り」の中に「障害」と言説化される言葉に、不思議な齟齬が生じていることに気付くだろうか。三者それぞれが、共通して「障害」と語るこの言葉には、共通性がないのだ。つまり、「障害」と言う語の内包している意味が、それぞれ異なっていると考察される。この裁判で三者が、使用している「障害」が内包する意味の分析を行ってみよう。
  それでは、裁判官の「障害」とは何を指しているのだろうか。もちろん実務家の裁判官が、苦肉の策として原告の抱えている容貌問題(顔面の『腫瘍』)の表現に対して、言葉を慎重に厳選したことは推測できる。けれども、判決文で使用されている「障害」とは「顔面」の症状を指す言葉になると考えられる。容貌の腫瘍が、他の身体的機能障害を引き起こしていない限り、法的に原告は「障害者」ではないからである。次に原告の「障害」は、もちろん顔面も含まれると考える。しかし、顔面それ自体というより、その容貌を抱えて生きる者の「生き辛さ」を含んでいるように窺える。容貌問題を抱えて生きることの困難さ、苦しさ、原告を取り巻く日常的背景までを込めて「障害」とう言う語に託して語っているのだろう。原告は具体的な言葉では、いい表すことは可能ではなかったかもしれない。しかし、原告が裁判に臨むためには容貌問題の「生き辛さ(=『言説無き語り』)」をあえて「言葉」に変化させなくてはならなかったのだろう。けれどもやはり、「生き辛さ」は、具体的には語られていないのである。最後に被告は、「『障害者』だと思ったことはなく」や「被告に原告が、一度も『障害』があるような態度を見せたことがなく11」の部分から考察できるように、容貌を患う事を身体の機能障害の視角から捉えてしまったのではなかろうか。もちろん、単純に被告が、身体の機能障害者と同様に解釈したとは言い難い。
  ただここで、注意を払わなければならないことは、容貌に何かしらの問題を抱える者を「障害者」とみなす傾向が社会に存在することだ12。容貌問題を抱える者は、身体の機能の不自由さを受けているのではなく、むしろ周囲の理解不足に障害を感じるのだ13。誤解のないように本論は、身体の機能障害者の抱える社会的「困難さ」と容貌問題を抱える人の「生き辛さ」の比較を行っているわけではない。「石に泳ぐ魚」裁判において、「障害」とされた言葉は、多元的な解釈を生み出し原告と被告そして、裁判官まで巻き込んで、それぞれに大きな齟齬を引き起こしていたと考えられる。容貌問題を抱える人々の社会的な情況と、日常生活の送ることの困難さとそのことに関する理解が深められるまで、容貌問題を「障害」と一言で表現するには、早すぎるのかもしれない。
  容貌に問題を抱えて社会生活を送ることは、「生き辛さ」がある。が、本件は、そのことに関して、法廷でオープンに語り合われることはないのだ。いや、「石に泳ぐ魚」裁判に関しては、異例的にできうる限り、容貌問題に関して積極的に法的範囲内で「語り」あったのかもしれない14。としても、裁判所に登場する全ての登場人物たちが、「障害」という言語に頼り切りになってしまっている情況に、気付いただろうか?「法的」紛争内容を争うことになる法廷では、決して今以上に当事者の持つ言葉で、容貌を巡る問題(両当事者間のトラブル)が語りあわれることはないだろう。裁判は、訴状に書かれた「法」的権利を争う「場」である。このため本件は、訴状に記載された争点を巡る出版停止に関連する「表現の自由とプライバシー保護の問題」へとスライドしてしまった。
  このことによっていっそう容貌問題は、「法の場」で「語れない」問題として定義され、促されてしまうのである。



(3)それぞれの役割

  次に「ステロイド禍訴訟15」を紹介する。裁判システムの利用は、往々にして様々な要因から使用の開始まで困難を極める。本件も原告は、父と試行錯誤の末に京都第一法律事務所から、一人の弁護士を紹介されることになった。しかし苦労の末に出会った弁護士と原告は、新な相互間の揺らぎ「違和感」を抱いてしまう。その場面を原告の著書テキストから引用しよう。

  "あの日"――それは私があなたに出会って間もない曙ワ十七年の二月の打ち合わせの日でした。
  事務所へ出向いた私の顔は、症状が悪化する冬場のことですから、血膿とカサブタに覆われて惨たんたる有様でした。そうとは知らず私を一目見たあなたは「どうしたの!!」と言ったきり次の言葉に思い当たらないようでしたね。
  一通り事情を聞いたあと、あなたは「今のうちに、写真をとっておこう」と言って戸惑う私をソファに座らせ、至近距離から次々にフラッシュをたいたのでした。こんな強引さは初めてのこと、あまりのつらさに私が顔を伏せると、すぐ冷酷な注意が飛んできました。
  私はあの時、あってほど無い他人、しかも若い男性に〈一番ふれらたくない部分に土足で踏み込まれた〉と言う思いから、言いようの無い悔しさを感じました。16

  このように本訴の原告は、被告となる相手方ではなく共に戦うパートナーの行為に「違和感(新たに構築される人間相互関係内に発生した、問題意識の解釈のズレ)」を抱き、新たな「語り合い」を持ち続けることになる。
  通常、紛争を抱えた当事者が「(生の)揉め事」を「法の場」に持ち込もうと考えたおり、まず弁護士に「揉め事」を語る作業から開始する。その際、弁護士とクライアントの日常や生活背景には、必ずしも共有の接点があるとは限らない。それぞれが、様々なサイトの位置に存在し、各々の位相に位置付けられていると推測される。つまり、当事者の「語り(言葉、行動そして本件の場合は容貌を含む)」は、弁護士によって様々に解釈され、極自然に両者の間に「違和感(当事者相互間の揺れ)」が発生する17。この現象については、原告(依頼人)のみならず、弁護士サイドからも述べられている事から上記のように理解できる18。
  更に注目すべきは、原告と原告弁護人は、和解に至るまで何度も互いの意思をぶつけ合いながら、その相互間の関係(パートナー)を解消する寸前までコミュニケーションを交わし続けていることだ。しかし、彼/女達は、最後までパートナーの解消を行っていない。原告は、弁護士との初対面の行為を次第に次のように解釈するようになっている。
  
<なぜあの時のあなたの目はああまで厳しく、同情のかけらさえも浮かべていなかったのか…>
  無遠慮に写真をいっぱいとられてくやしいだろう、恥ずかしいだろう。しかしこんなことは序の口だ。裁判になれば新聞に載る。近所の人たちの好奇の目も集まる。
  ≪若い女の身でお医者様を訴えたとんでもない奴≫…見当違いの非難をあびるかもしれない。いわば、さらしものになるんだ。このていどのつらさですむわけはないぞ。裁判で人に罪を認めさせるというのはそれほど大変なことなんだ。これくらいでネをあげてどうする!
  あの時あなたはこう語りかけていたにちがいありません。私が原告としての指名を自覚したのは、あなたの眼差しの意味をこう解釈した瞬間だったように思います。19

  おおよそ六年間原告は、原告弁護士と意見を交わし、同時に裁判システムを利用して、失ってしまった容貌の問題を巡って被告側(医師及び病院側)とコミュニケーションを交わし続けているのである。
  さて、先ほど紹介したように本件は、約六年の年月を経て、総額500万円での和解が成立している。この月日の経過と金額をどう捕らえるかは難しいところだが、原告はこの裁判を和解で終えたことに満足感を得ており、そして紛争を裁判に提訴し、訴訟を進めてきた多くの負担や出来事に後悔は無いと著書の中で語っている。
  確認になるのだが、「法」によって容貌問題に解決を図ろうと試みる場合、例え容貌を「損傷」、「変形」に至らしめた第三者が、存在したとしても損害額を争う事はできても「容貌をもとに、もどして欲しい」とする当事者の希望は、決してかなえられない。また、その紛争に新たな介入を果たす弁護士や裁判官は、特殊性や専門性の強い(例えば『医学』)問題に関連する重厚な知識を備えているわけでもない。そして原告が提訴を意識した時点で多少の決意や覚悟はあったかもしれないが、新たな障害(『法の場』へ紛争を持ち込むことの多くの煩わしさや法外から受けるリスク)は予想外に多数発生することになる20。
  このような情況の中で彼女は、なぜ本訴から満足を得る事ができたのだろうか。
  本訴訟には、繰り返し述べてきた大きな特徴がある。それは、紛争に関わる弁護士とクライアントの相互関係上の役割(なすべき行為)が、時を重ねるごとに着実に構築されていることだ。この特徴にこそ、上記の疑問の回答が、内在されていると考えるべきである。
  少し詳しく掘り下げみてよう。本件は、原告と弁護士は、互いの「違和感」をぶつけ合える環境を整えながら、パートナーシップを築き上げ和解まで共に歩んでいる。その成果は、本訴の「和解の選択」に如実に現れている。
  
  三月二五日―三度目の和解期日。裁判所が決めた最後の日である。ならんで座った廊下の長椅子で、のぞきこむようにして
「どうする?高裁、行く?」
とたずねる村井さん(原告弁護士)に、私は首を横に振った。
「ごめんね。申し訳ないと思ってる五〇〇万円で和解なんて、弁護士としてはとても満足できないでしょう。これだけ一生懸命やってくれたんやもん、当然やわ。でも、私は『慰謝料もらってオワリ』にはしたくないの。私には、この事件を一刻も早く、しかもくわしく世間の人に知らせる義務があると思っている。以下一部省略」
じっと聴いていた村井さんが、静かにうなずいた。
「ありがとう。ごめんね。」
彼の横顔をひたと見つめながら、私はなおも、心のなかで叫んでいた。21

  この情況から鑑みれば弁護士とクライアントは、決して共同体、主使従関係(権力支配)でないことが理解できる。「揉め事(当事者間相互間の齟齬)」は、当事者のものであり弁護士は、あくまでも法を扱う者という役割でしかない。紛争処理機関の中での一つの法の力とは、「人」を原告、被告、弁護士そして裁判官をそれぞれの役割に配置し、役割の追行と厳守を促すだけに留まるのだろう。裁判の役割を追行する中(齟齬しあった人間相互関係への遮断ではなく、促しを試みる作業)で、当事者は「揉め事」と自分の関わりに自分なりの整理をつけた。その結果、本訴の当事者は「法の結果」を必要としなくなったのではないだろうか。
  原告は、あくまでも原告の役割に沿って(徹し)裁判システムを使用した後、最終的にイニシアティブを発揮し当事者間(原告・弁護士)の話合いもって紛争処理システムの使用を終了している。


(4)新たに開かれる可能性へ

  「ステロイド禍」訴訟の当事者が、裁判を通して得た利点とは、なんだろうか。もちろん一言では言い表せないだろうが、被告に対してのわだかまりが無くなったことなのだろう。もっと砕いた表現をすれば原告/被告間で紛争内容を「語り」尽くしたということになるのではないだろうか。そもそも訴訟を提訴した当事者が、裁判(紛争処理システム)手続きを利用する目的は、「(勝利)判決」を得るだけではない。紛争処理システムを使用した事で、当事者が満足を得られるということは、紛争処理機関の達成しなければならない原点的要素の一つだ。
  この紛争は、「法」的な解決つまり、判決を得たわけではない。むしろ、「法」的な視角からこの訴訟をかいま見れば、少々無謀自棄なものにとられるかもしれない。そうであっても、原告(当事者)の視角からすれば、容貌問題(「語れなさ」を内在させる紛争)であっても裁判手続きを利用することで、その紛争を抱えた当事者を何らかの形で救済できる(『語り合える』)可能性を十分備えたものと説明できるのである。


第二節 法に囚われない弱者へ
 
第一項 容貌を患う当事者と法の関係を通して

(1) 柔軟なエンパワーメントを求めて

  本論にてたびたび繰り返されているテーマが、もう一つある。容貌問題を抱える人々は、社会的「行き辛さ」を抱えているが、障害者(身体機能及び精神障害者)では無いことだ。決して重度障害者達の立場とは同じではない。いや、違っているように見せてそうではないのかもしれない。それは、「その個人に残る機能を様々に補うことはできるにしても、姿や形はそのままあり続け、障害者は『異なる人』22」だと表現されるからだ。このことを素直に受け取れば、容貌問題を抱える人々は、機能障害が抜け落ちた実社会に存在する障害者ということになる。
  そしてまた類似点を挙げるとすれば、容貌問題を抱える人々も障害を持つ人も社会で存在する為のある種のしなやかさと軽やかさを身につけている。障害を患う人々は、法の規定する機能障害に関してのみ法の権利支配を許し、あくまでも自由を選択する事が可能な「自由な主体」である事を主張している23。他方、容貌を患う人々は、特定の法に支配されようとはしない(容貌を患うある人達は、法からの『障害者認定』ラベリングを拒む24)。それは、法外に存在する事を望んでいると言うこととは異なるけれども(現在の自分の置かれる法のコースの中にいるにしても)、できうる限りしなやかに多様な手段を残したまま社会的「生き辛さ」を避け、迂回し、時には、「生き辛さ」を避けるために法をツールとしてできうる限り使用する。たとえ使用する法が、使用するツールとして不完全であるとしても試みる事をあきらめはしない。これらは、微妙な接点である。
  デメリット的な類似点としては、「障害」を一つのスローガンとして、多様な「人(主体)」を共同体として構築していくことは、不可能ではないのだけれども主体の抱える固有の「障害」をパターン化し、沈殿させてしまう危険を伴う25ことである。
  更に現状容貌問題を抱えた人々は、自由であることを保持するために「生き辛さ」(具体的な「言語」の表現方法が存在しないため、権利の保障がし難い)という、不自由さを個々の主体(人)が引き受けなければならい。人は、「自由だけれども権利がない」とも表現できる、この困難を意識しておかなければならないだろう。
  以上の課題を踏まえながら多様な「障害」を持つ多くの人々が、法の支配を受けることなく時には法の使用を試み、そして不器用に紆余曲折を辿りながら少しづつそれぞれのニーズに応じた団体を自分達の意志で編成し始めている26。


(2)法の射程
 
  権利の多様化については、今更紹介を要することではないだろう。人権と言う言葉もずいぶん使い古されてきた。それでも私達は、その言説(『法』)から漏れ出でる権利の主張をする主体の「声」に、耳を傾け続けなければならないだろう。たとえ社会という、人々が暮している日常の全てを「法」の概念にあてはめて解釈する事が、無理な事であると懸念していたとしてもだ。
  日常には、私達が見落としていた様々なイデオロギーの支配/抵抗の関係に苦しむ主体が存在している。本論で採り上げてきた容貌問題を抱える人々が居たようにである。そして、純粋に「法」の権力関係に徹した権利を求める主体もある。日常に様々なトラブルを抱えた主体が、混在し、そして様々な方法で「法」へのアクセスを開始している。
  様々な主体が存在しているコミュニティーの空間ないの出来事と日常という時間の流れが、「法」の動態を常に静かにゆっくり促しているのだ。私達は、混沌としながらスピーディーに変化を生み出す他者を「法(言説)」を介して、どのように確認し、解釈していけばいいのだろうか?こう問い掛けるよりも、むしろすでにテキストに書かれた中の「法」は、他者を媒介にし、人を支配できるほどの権力は無く、強かに日常を生き抜く主体に、現支配構造の変容を迫られている状況なのかもしれない。
  一つの例として、これまで容貌問題を抱える人々は、「法」に見落とされてきた容貌問題を強くそして詳細に「(近代)法」へ投げかけることはしなかった。それは、今まで法の救済を見過ごされてきた当事者達のしたたかな「(近代)法」の支配への抵抗であり、消極的な法へ権利主張の現象ではない。むしろ、「法」の支配から距離を置かれた自分の存在(「行き辛さ」を抱えた主体であること)を社会から軽視され、隠蔽されてしまう問題と多様に戦う手段を残す為である。
  本論にて採り上げてきたような「言説」化できない障害(例えば『生き辛さ』)を内在させたトラブルへの取り組みは、多くの場で展開され始めている。セクシャリティー問題、ハラスメント賠償などに付随し「法」と「人」の関係についても様々な角度から新たに多様サイトで多数問い返しがなされている。そこではまさに「法の射程(ラインやピリオド)」自体が、その射程内の人のイニシアティブによって決定付けられようとしている。
   私達は、それぞれの立場でそれらの現象を見つめ続けていくことにしよう。そしてそこから派生する新たな議論の展開を更に検討していく必要があるだろう。このことを今後の課題としてひとまず本論の筆を置くこととしたい。



≪ 三章のまとめ ≫

  三章では、容貌問題を内在した二つの事案を分析し、「法」と「人」の関わりを荒削りであるが検討してきた。まず、二章のアンケート結果をもとに言説の不存在を認識しつつも人は容貌問題について「語り合う」ことや「語り合う場」を望むことに着眼した。そこで容貌に関係する二つの訴訟事案を採り上げている。
  「石に泳ぐ魚」裁判では、当事者達(原告/被告だけでなく弁護士、裁判官を含む)がそれぞれの位置と立場から「法の場(法廷)」に移された「言明できない障害」を含むトラブルを法的に処理する為に言説を駆使し、奔走している。にもかかわらず、容貌問題の「語れなさ」は、やはり当事者達に「語られる」ことなく法言説問題へとスライドしていく情況を述べてきた。
  他方「ステロイド禍」訴訟は、上記と同じ「語れなさ」の障害を内在させるトラブルである。また更に、訴訟を提起した原告と原告弁護士との間にも容貌問題に内在している「語れなさ」の問題が、波及していく。そうであっても両者(原告/原告弁護士)は、「法の場」で与えられたそれぞれの役割を果たしながら訴訟を進め、そして見事なパートナーシップを築き上げている。原告は、六年の月日を経て和解を自らの意思で選択している。それでも原告は、訴訟を使用した事に満足を得ているのだ。この満足とは、原告が「法の場」にて語り尽くしたことから生まれたのではないだろうか。
  本訴のように判決を得る事だけが、紛争処理システム利用の目的ではないと位置付けるならば、容貌問題を巡るトラブルも紛争処理システム使用によって救済されることが可能である考察される。
  以上のように容貌問題を内在させた裁判の紹介と分析を行いつつ新たな法と人の関わりについて荒削りであるが検討を行っている。


1 千葉正士「21法と社会」本間康平他編『社会学概論 −社会・文化・人間の総合理論−』1976年11月有比閣大学双書 409頁
2 「主な人権侵害類型と被害者の救済にかかわる制度等」ジュリスト2001,3,15(No,1196)7頁 人権侵害に対しては、法務省にて「あらゆる人権侵害を対象とする総合的な相談と、あっせん、指導などの手法による簡易な救済」と「自主解決が困難な情況にある被害者の積極的救済」の二段構えで行われている。そしてまた、憲法14条中に規定されている障害・疾病に関しては「積極的救済」の対象とされている。
3 http://www.moj.go.jp 〔法務省公式法務ページサイト〕参照
4 本論第二章第四節第一項を参照
5 「石に泳ぐ魚」出版差止請求事件 判例時報1691号1999年91頁 参照
6 昭和58年京都地裁 事件番号(ワ)1856
7 江崎ひろこ「顔つぶれても輝いて ステロイド軟膏禍訴訟6年間の記録」―株式会社一光社1988年 58頁 飯田正剛「『言論の名前による人権侵害』は認められない」月間 創1999年 9月号 80頁 柳美里「『石に泳ぐ魚』裁判を巡る経緯について答える」月間 創 創出版1999年 9月号 ―63頁 参照
8 (k)「司法記者の眼 私小説、二審もプライバシー侵害」ジュリスト2001年3月15号No.1196 一部引用
9 飯田正剛 「柳美里さんを訴えた原告女性が吐露した“痛み”」月間 創 創出版1999年 10月号 119頁 一部引用
10 実際は原告及び裁判官の文章の引用だが、原告が被告の容貌をどのように捕らえているから語っていることから三者と捕らえることは可能になる。
11 もちろんこの言葉は、被告(柳美里氏)が語っているものではなく原告によって語られているもので、原告が被告の自分の容貌についてそのように解釈しているのであろうと発言している語りを分析しているものである。飯田正剛 「柳美里さんを訴えた原告女性が吐露した“痛み”」月間 創創出版1999年 10月号より、一部引用
12 第二章で実施したアンケートにも当事者の方から周囲の人に「障害者」と間違えられてしまうことで苦悩することが多いと語られている。
13 石井政之「タイトル:周囲の無理解に孤立している日本の当事者」看護雑誌第64巻第5号2000年405頁 参照
14 飯田正剛 「柳美里さんを訴えた原告女性が吐露した“痛み”」月間 創 創出版1999年 10月号120頁「傷付いた者の『痛み』」参照 (98年10月20日)「原告の痛み」に関する反対尋問(被告への尋問)の掲載を参照のこと。
15 昭和58年京都地裁 事件番号(ワ)1856
16 江崎(前掲脚注7)7頁 一部引用
17 本論第一章第二節第一項及び第二項を参照のこと
18 廣田尚久「紛争解決学」 信山社出版株式会社1995年 「上手にトラブルを解決するための和解道」朝日新聞社出版局 1998年 著者は、著書に豊富な弁護士経験から得た多くの事案を用いて弁護士の役割と紛争処理について述べている。また局所的に弁護士側がクライアントから紛争解決の依頼を受ける折、全ての事件を法的問題として提訴すべきかについて自己の見解を述べている。
19江崎(前掲脚注7)9頁 一部引用
20江崎(前掲脚注7)63頁 参照
21 江崎(前掲脚注7)202頁 一部引用
22 立岩信也「弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術」青土社2000年93頁 参照
23 立岩真也「私的所有論」勁草書房1997年 322〜372頁 立岩(前掲脚注21)88頁〜118頁 参照
24 本論第二章第四節第二項を参照のこと
25 J・ジニングズ著 河田潤一訳 「ブラック・エンパワーメントの政治」株式会社ミネルバァ書房 1998年 著書は、1960年代後半以降に展開されてきた黒人政治を理論的に再検討されたものである。また著書中に多くの黒人の「語り」(著作・インタビュー)が紹介されている。ブラック問題と本論がテーマとする容貌問題の背景には大きな差異が存在するが、参考(類似)に読み取れる個所も多い。黒人を「黒人・ブラックス」として集団化することから生まれるブラックパワーの成功や歪(サイトの様々な位置で異なる位相に存在するそれぞれの『主体』が、集団化することで漏れ出でてしまう状況)の再検討など。容貌問題を障害として、カテゴリー化することは、今以上に十分な分析と取り組みが必要であることは確かである。
26 一例として、容貌問題を抱える人々で構成されるセルフ・ヘルプ・グループの一部の活動は、活発に行われており、UFは、2002年にNPOとなった。

アンケート内容
※これから貴方が最も適当・そして心配だと思われるものに対して1つだけ○をつけて下さい。
1 .あなたについて教えてください
(年齢)
0歳〜10歳未満   10歳〜20最未満   20歳〜30歳未満   30歳〜40歳未満   40歳〜50歳未満
その他( それ50歳以上  /  答えられない)
(性別)
男性   女性   その他(答えられない  /  他      )
(職業)
学生   社会人   フリーター   無職   その他   答えられない
(顔・身体等の容貌に付いて)
痣がある   傷がある   変形(型)がある   その他(     )何もない   答えられない


2. あなたは、街や生活圏内で顔もしくは、外形で他人の目に触れやすい部分に痣や外傷を負っている人を見かけたことがありますか?

Y・はい     N・いいえ


3. あなたが、顔もしくは、外形で他人の目に触れやすい部分に直ることのない(治癒したとしても)痣や外傷を負った場合その部分をカバーメーク(化粧)してその部分を隠すと思いますか?実際に傷病を抱えた方は、カバーメーク・リハビリメークされていますか?
※女性の日常メイクではありません。

Y・はい     N・いいえ
良ければ理由をお答えください。



4. 何らかの事故によって、あなたの顔もしくは、外形で他人の目に触れやすい部分に大きな外傷または変形(型)が、残ってしまいました何が一番心配ですか?

A・特にない   B・いじめ   C・就職   D・恋愛   E・結婚   F・その他

Fを選んだ人は、具体的な内容をお書き下さい



5. 何らかの事故によってあなたの顔もしくは、外形で他人の目に触れやすい部分に大きな外傷または変形(型)が、医師によって一生直らない(治癒ではなく痕が消えない)と告げられた場合、事故を起こした相手に(相手が明確でなかったとしても)どれくらいの損害賠償請求額を請求したいと思いますか?

A・0円〜100万円以内   B・100万円〜1千万以内   C・1千万〜1億以内   D・それ以上   E・その他

Eのその他を選んだ方は具体的な補償方法が思いつかれる場合は、お書き下さい。


6. あなたの顔もしくは、外形で他人の目に触れやすい部分に生まれつき紫色・赤・青などの大きな痣・ケロイドがあったとします、何が一番心配ですか?

A・特にない   B・いじめ   C・就職   D・恋愛   E・結婚   F・その他

Fを選んだ人は、具体的な内容をお書き下さい


7. 現在(日常における)身体的な機能障害と認められてはいませんが、顔もしくは、外形で他人の目に触れやすい部分に直ることのない(治癒はしたとしても)痣や外傷や変形(型)を負ってしまった場合、あなただったら国に対して何らかの生活保障・支援を求めたいと思いますか?

Y・はい     N・いいえ

はいと、答えられた方にお伺いします。具体的にどのような保証(保障)を求められますか?あれば、簡単にお書き下さい。


8. 顔もしくは、外形で他人の目に触れやすい部分に直ることのない(治癒はしたとしても)痣や外傷や変型を負ってしまった場合、(機能障害を除く)今の自分と同じ生活を過ごせると思いますか?

Yはい     Nいいえ

お答えいただける方だけで結構です。それぞれの方にお伺いします。その理由を簡単にお書きください。


ありがとうございました。




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