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デフフリースクールに関する考察

−ろう教育における意義と多文化社会への応用−

青山 鉄兵
2003
東京大学教育学部総合教育科学科(教育行政学コース)2002年度卒業論文

last update: 20160125


目次
  1.口話法の変遷と矛盾
   1.1.口話法以前
   1.2.口話法の登場と手話の排除
   1.3.戦後の口話法
   1.4.口話法の修正-2つの方向性
    1.4.1.聴覚口話法
    1.4.2.トータルコミュニケーション
    1.4.3.トータルコミュニケーションの限界
   1.5.ろう児から手話を奪うことの問題点
  2.バイリンガル教育の理念と課題
   2.1.バイリンガル教育の登場
   2.2.ろう児のためのバイリンガル教育とは何か
    2.2.1.第一言語としての手話の獲得
    2.2.2.音声言語に対する考え方
    2.2.3.家族へのサポートの重要性
    2.2.4.成人ろう者の役割
   2.3.バイリンガル教育とろう文化
   2.4.ろう学校におけるバイリンガル教育の限界
    2.4.1.口話法を擁護するシステム〜金沢貴之の指摘〜
    2.4.2.ろう者教員養成の困難
    2.4.3.インテグレーションの拡大
    2.4.4.ろうナショナリズムへの批判
  3.デフフリースクールの取り組み
   3.1.デフフリースクールとは何か
   3.2.「スマイルフリースクール」の活動
    3.2.1.スマイルフリースクールの子ども
    3.2.2.スマイルフリースクールの大人
    3.2.3.スマイルフリースクールの授業
    3.2.4.スマイルフリースクールの運営
   3.3.バイリンガル教育とデフフリースクール
    3.3.1.口話法を擁護するシステムに対して
    3.3.2.ろう児と成人ろう者の交流
    3.3.3.インテグレーションへの対応
    3.3.4.ろうナショナリズムへの批判に対して
   3.4.社会教育機関としてのデフフリースクール
  4.社会教育と多文化主義
   4.1.デフフリースクールとマイノリティとしてのろう者
   4.2.多文化主義における対立軸
    4.2.1.同化主義への反発
    4.2.2.二つの方向性
    4.2.3.ろう教育史における対立との類似
    4.2.4.学校教育の限界
   4.3.イギリスにおけるイスラムの自文化教育活動
   4.4.多文化共生社会の社会教育
  おわりに
  注

はじめに

 近年わが国は手話ブームであると言われている。手話を扱ったテレビドラマが高視聴率となり、書店では手話学習書が平積みにされている。地域の社会福祉協議会などの主催する手話講習会には応募が殺到している。
 しかし、わが国のろう教育において、手話が使われてこなかったことはほとんど知られていない。わが国のろう教育では、戦後一貫して手話は否定されてきたのである。しかし、近年「ろう文化」に関する議論が盛んになるにつれ、こうした状況に変化が起こっている。議論の発端となった『ろう文化宣言』では、次のように述べられている。1

“「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である」−これが、私たちの「ろう者」の定義である。
 これは、「ろう者」=「耳の聞こえない者」、つまり「障害者」という病理的視点から、「ろう者」=「日本手話を日常言語として用いる者」、つまり「言語的少数者」という社会的文化的視点への転換である。このような視点の転換は、ろう者の用いる手話が、音声言語と比べて遜色のない、“完全な”言語であるとの認識のもとに、初めて可能になったものだ。”

 ここでは、「手話が音声言語と同等の構造をもった独自の自然言語である」という認識をもとに、ろう者が手話を用いたコミュニティ(デフコミュニティ)を形成していること、及びそこに独自の文化が存在することが主張されている。こうした議論を前提とするとき、わが国のろう教育はどのように行われるべきであろうか。そうした状況の中で、現在注目を集めているのがデフフリースクールの活動である。本論では、デフフリースクールの意義を検討するため、わが国のろう教育史を振り返り(第1章)、新たな方向性としてバイリンガル教育に注目する(第2章)。そして、バイリンガル教育の実践の場として、デフフリースクールの活動を取り上げ(第3章)、そのような活動が、多文化教育においてどのような意義を持つのかを検討する(第4章)。
 なお、本論で「ろう者」という語を、手話を使う、デフコミュニティの成員という意味で用いており、耳が聴こえない人という意味の「聴覚障害者」・「難聴者」と区別している。2また、学齢期の子どもに関しては、文化的に「ろう」であるかを問わず、一貫して「ろう児」を用いている。

1.口話法の変遷と矛盾

1.1.口話法以前
 日本のろう教育は、1878(明治11)年の古河太四郎による京都府盲唖院設立に始まったとされる。欧米ではすでに18世紀後半に本格的なろう教育は始まっており、日本においても江戸時代に寺子屋などでインフォーマルなろう教育の試みはなされていたが、明治になるまで本格的な学校はなかった。3
 当時、欧米ではろう児のための教育方法として手話法4と口話法5のどちらを採用するかという大きな議論が起こっていた。当初は手話法が圧倒的に有利であったが、19世紀半ばから口話法が次第に強くなり、19世末には形勢が逆転する。6
 当時の口話主義者の主張は伊藤によれば“・手話は健聴者には通じない・手話法では音声言語の習得が困難で、文章を書いても不完全である・手話法は家族も手話を学習しなければならないが、実際は不可能である・世間では手話を異常とみなしている・口話で教育されれば、異常であるろうあ児が発語を覚えて正常になる・口話法で音声言語を覚えれば、自立した社会生活ができる”の6点にまとめることができるという。7ここには、手話が自然言語の一つであるという現在の言語学では常識とも言える認識が欠如しているだけでなく、ろう者への否定的な価値観や聴者中心のパターナリスティックな価値観を見ることができるだろう。米川も述べているように口話法普及の背景に“国家統一をひとつの言語によって押し進めようとする考えにもとづき、ろう教育の場でも音声言語が重要視されたという事情”があり、また、“二十世紀初頭、心理学のタイトヴントの進化論に立った言語起源論は、手話を含む身振り語を音声語以前の未開語としたことから、ろう者のための口話法は、ろう者が創り育てた文化、手話を否定するという差別的矛盾を内包して普及した”と考えられる。8
 こうした欧米での口話法の拡大にもかかわらず、古河は盲唖院の教育方法として手話法(古河によれば手勢法)を採用する。ただしこれは、口話を用いなかったというわけではなく、“手話・指文字・口話を駆使してろう児に日本語を教え、読み書きができるように教育”9したものである。口話の比重としては“読話・発話も取り上げられはしたが、中心は筆談と手話”10であったようだ。その後、各地にろう学校が設立され、1906(明治39)年には46校を数えている11が、基本的には古河の方法を踏襲していたものと考えられる。12
 古河が手話法を採用した背景には、世界のろう教育に関する情報があまりなかったということが考えられる。また岡本の指摘するように、古河が“東洋的で日本文化の伝統に立つ”独自の教育観を持っていたことの影響もあるだろう。13
 しかし、古河や当時手話法で教育を行った他の教育関係者においても、ろう者や手話がポジティブに捉えられていたわけではない。矢沢によれば当時ろう学校の必要性を主張した山尾庸三や遠山憲美において“無用を転じて有用となす”、“盲唖その他の廃疾といえども天賦の才力はみな同じ”といった発言が見られ、一見“聴覚障害者の能力は健聴者と変わらない”という極めて進歩的な価値観とも思えるものの、実際には“その「能力」は差し当たり「手に職」をつけて経済的に自立する能力の付与が目標であり、この社会の中に手に職をつけた聴覚障害者の生きる場所を確保する、という意味では健聴者とは「別の枠組み」を設けての統合”を図るという考え方であったという。したがって“別枠であるから言語・コミュニケーション手段については取り立てて何でなければならぬ、という理念的な規定もなく、手っ取り早く聴覚障害者とのコミュニケーションに使用できる「手勢」(手話)が採用された”と考えられる。14
 また、金沢は“なぜ手話による教育が行われていたのかといえば、それは教育者が手話に対してポジティブな価値を持っていたからということではなく、むしろ聾児がしゃべれるようになるとは考えられていなかったということにすぎない”と述べており、手話はある種の必要悪としてろう教育に用いられていたという指摘もある。15

1.2.口話法の登場と手話の排除
 手話法によってスタートしたわが国のろう教育であったが、19世紀に入ると欧米の口話法が伝わり、1920年代には各地のろう学校に普及していく。日本に口話法が伝わる大きなきっかけとなったのは、1898年のA・G・ベルの来日であると言われている。その後1920年にはライシャワー夫人がアメリカの口話法を導入した日本聾話学校を設立し、名古屋市立盲唖学校で口話法による教育が橋村徳一によって始められる。16
 口話法の普及において中心的な役割を果たしたのは、日本聾口話普及会を発足させた西川吉乃助、川本宇之介、橋村徳一の3人である。特に川本は文部省の役人として欧米のろう教育を視察し、口話法を日本に普及させるべく、1924年東京聾唖学校の教諭(後に校長)となる。同年、東京聾唖学校には師範部が設置され、口話法の教員の養成が始まる。17
 同じく1924年には盲学校及び聾唖学校令が出され、私立であったほとんどの盲唖学校が公立に移管され、また盲学校と聾唖学校に分離された。同時に新設された聾唖学校もあったため、聾児の就学率も大幅に伸びることになる。こうしてろう教育は制度上の基盤を持つこととなるが、“口話法の普及、徹底化はこうした聾学校への(国家による上からの)整備と軌を一にしている”との指摘もある。18口話法の全国への普及を決定付けたのは1933年の鳩山文部大臣の全国盲聾唖学校長会議での訓示であった。鳩山は“聾児にありましては日本人たる以上、我が国語をできるだけ完全に語り、他人の言語を理解し、言語によっての国民生活を営ましむることが必要であります(中略)全国各聾唖学校に於いては、聾児の口話教育に奮励努力し研鑚工夫を重ね、その実績を挙ぐるに一層努力をせられんことを望みます”と述べて、ろう学校における手話の排除を決定づけた。19
 ただし、清野が述べているように、ここでの口話法推進派の主張は“手話法よりも口話法が優れている”という主張ではなくて、ろう教育の中から一切の手話を排除しようとするものだったのである。20実際、手話法の採用されたろう教育の初期においても、口話は手話とともに用いられていた。
 ではなぜ手話は排除されたのであろうか。川本は手話の欠点を以下の7点にまとめている。21
・ 手話語は自然表出運動に基づき、人類の言語としては最も初歩的で、幼稚なるものである。
・ 手話語は多義であり変化しやすい。したがって意義が曖昧になる恐れが多い。
・ 手話語は直感的であり思想を直截簡明に、絵画的に表現することは容易であるが、抽象概念を表出することは困難である。
・ 手話語は思考を論理的になすことを困難ならしめ、したがって文を論理的になすことを困難ならしめ、論理的表現を完全ならしめない。
・ 手話語はそれ自身には、一つの語法があるかも知れぬが、その語法はいかなる国語とも一致することはない。
・ 手話語は殊に時間空間、原因、結果などの事物の関係、物の属性、殊に人間の関係を明瞭に表現すること困難である為、甚だしきはその文は文をなさず、語法の紛更を来し、しばしば単語の羅列となることがある。故に聾唖児の思考力を発達させることに貢献することが少ない。
・ 斯くの如くであるから、手話語は各国の国語とは、全くその体系を異にする。異種の体系語と結合して教授しても聾児の使用する国語は、あたかも木に竹をついだ様になる傾向が甚だ強い。したがって自ら、聾児に文の理解力を盛にし、読書力を発達させることを甚だ困難ならしめる。

 ここにも手話が音声言語と比して劣った言語であるという認識、つまり音声言語のみを言語と考える聴者中心の価値観をみることができるが(上記・〜・)22、ろう教育の議論と関連して最も重要であると考えられるのは、・であろう。・の根底には、「手話を習得してしまうと、口話(音声言語)の習得が阻害される」という論理がある。この論理は近年に至るまでわが国のろう教育では自明のこととして考えられてきたが、“その科学的な証明はされないまま”23であった。近年では、両親がろう者であるろう児の方が、就学以前から手話によって育てられるので、すでに第一言語(母語)として手話を獲得しており、思考力や記憶力においては第一言語を持たない他の子どもに比べて高い能力を示し、言語能力も高いという研究結果が報告されている。手話が排除されたのは単に“子どもたちに口話の習得という困難な課題を克服させるためには、手話のように容易に意思を伝達し合える手段があっては困る、ということにすぎなかった”24とも考えられる。
 こうして、手話はろう教育から徹底的に排除された25が、手話がなくなるということはなかった。木村の指摘するように“ろう学校では、先生の目の行き届かないところ、例えば、学校の校庭の片隅で、先生のいない休憩時間、登下校の途中の駅やバスの中で、ろうの子ども達は手話を使い続けてきた”のである。そして、“ろう児集団も含め、ろうの成人が中心のろう者社会では、自分の意志を確実に、しかも快適に伝えることができ、お互いの意志を知る道具として、口話より手話を選択し、手話を守り通してきた”のだと言える。26

1.3.戦後の口話法
 太平洋戦争が終結し、戦後の教育改革の中で1948年に盲聾教育が義務化され、ろう教育制度が整備されると、ろう児の就学率も大幅に増加していった。ろう学校の在籍者は、1959年までに2万人を越えるが、“ろう教育の理念・方法は戦前のまま”であり、“口話法の実態はいぜんとして読話・発語”であった。27
 しかし、ろう児にとって発語と読唇のみによって音声言語を獲得するのは、非常に困難な作業であり、口話法の成功率は非常に低かった。木村・市田によれば、“本来、自然に習得されるべき言語を、特別な訓練や教育によって習得させようという試みは、その熱心さにもかかわらず、あまり成功しなかった”のであり、その結果として“この話し言葉の習得のつまずきが、書き言葉教育の不十分さにつながり、さらには、深刻な学力低下を招”いていった。28
 こうして口話法の限界点が教師や親に認識されるようになって、ろう学校教育は口話法の修正を迫られることになる。そして、口話法の修正は2つの異なる方向へと向かっていった.一つの方向は、“耳を使う”方向への修正であり、もう一つは“視覚的補助手段を用いて読話のあいまいさをおぎなう”方向への修正であった。29前者は「聴覚口話法」と呼ばれ、後者は「トータルコミュニケーション」と呼ばれている。

1.4.口話法の修正-2つの方向性
1.4.1.聴覚口話法
 口話法を修正する第一の方向は「耳を使う」ことであった。「聴覚口話法」と呼ばれるこの方法は、それまでの“読話中心の口話法とはまったく異なる発想、つまり「耳から音声言語を習得する」という発想”を元にしている。そして“健聴児が言語習得するのと同じ道筋を辿って言語習得”することを目標としている。30
 戦後の急速な医療技術の進歩により、補聴器が普及し、その性能が大幅に高まった結果、ろう教育でも補聴器が活用されるようになった。金沢はろう教育へ聴覚活用が導入された状況を以下のように説明している。31

“補聴器の使用が口話法の中に取り入れられるのは時間の問題であった。最初は聴力の軽いと思われる子どものための特別な教育としてなされていたものが、医学の発展により、これまで聾児と思われていた子どものほとんどがわずかながらも聴力を有していることがわかったことで、すべての聾児に対して聴力の程度に関わらず行われる方法となっていった”

 補聴器の進歩に加えて、ほとんどのろう児に残存聴力があることが確認されたことは、それまでの口話法に大きな変化をもたらした。なぜなら、“「どの子にも聴覚活用の可能性はある」という言い方がなされ、「わずかな聴力を最大限に活用させること」こそが聾教育の使命とされるようになった”からである。そして、“聴覚活用は聾教育の中心的な役割として位置付けられるように”なっていった。“従来の口話法の基本であった読話や発語は、それはそれで軽視されているわけではないが、やはり補完的な位置付けへとシフト”することとなった。32
 また、聴覚口話法においても手話が認められることはなかった。初期の口話教育と同じく、聴覚口話法においても手話は“口話の妨げになるもの”として否定され、排除され続けたのである。金沢は聴覚活用以前の「口話派」の主張が“手話を使用することで、口話の力が育たない”つまり、“手を見ることで口を見なくなる”というものだったのに対し、聴覚口話法では“手指を使用することで、聴覚活用の力が育たない”、つまり“手を見ることで、音を聞かなくなる”ということへと手話否定の論理がシフトしたと指摘している。33
 聴覚口話法の登場によって、音声言語を耳からインプットすることが目指されたわけであるが、これによってはたしてすべての聾児がしゃべれるようになったのかといえば、そうではなかった。“実際には一部の子どもの「成功」例を除いては、しゃべれるようにならなかった”のであり、“加えて口話法を行うためには、子どもと親に相当の負担を強いることになり、しゃべれること以外のことを犠牲にしなければならなかった”のである。つまり、“聾児がしゃべれるようになるということは、他のあらゆる事を犠牲にしたとしても、なおかつ実現が困難な、きわめてリスクの高い方法”であった。34
 池頭35も指摘するように、補聴器の技術が上がっても、聴覚の状況は一人一人まちまちであり、特に感音性難聴36者に対して、雑音と聞きたい音声とを実用に耐えるレベルで耳まで届ける補聴器は未だない。また、感音性難聴の場合は音自体が明瞭に聞こえないため、たとえ補聴器を最大限に活用できたとしても“何か音は聞こえるが、それがどういう言葉でどういう意味なのかがわからない”という状態を必然的に生んでしまうのである。したがって、・騒音下での会話・遠距離での会話・複数の話者による会話においては非常に困難を伴うことになる。また、ろう学校教師や親の話し方は“大きめの声と口形でゆっくり話す、文節ごとに話す、常に論旨を明確にして話す、正面から話す、逆光の位置は避ける”など、口話のための配慮がなされた特別な話し方であり、それらは分かる子どもであっても、一般の人とスムーズに会話ができることはまずないという。そして“音声での会話がすべて聞き取ることができないときには、読話し、話の流れなどから類推しながら、聞こえた部分部分を自分でつなぎ合わせて、なんとか会話を可能にしている”ので、“高い集中力と言語力、思考力が必要”になり、“極度の緊張と精神的疲労”を伴う場合もあるのである。このように、聴覚口話法は、従来の純粋に発語と読唇のみによる口話よりは意志疎通の可能性を広げたと言えるし、特に残存聴力が比較的高い子どもにとっては効果があったと言えるが、多くのろう児にとっては日常のコミュニケーション手段としては不十分なままであった。
 だが、金沢はろう教育が、聴覚活用の必要性を主張することについて、さらに深刻な問題を指摘する。“すべての聾児が「残存聴力」を有しており、それゆえに聴覚活用が聾教育に不可欠なものであると主張されたこと”により、結果的に子どもがしゃべれるようになるかどうかが聴力の程度に左右される”状況が生まれたのである。そして“「早期からの聴覚活用こそが、成功のカギを握る」という主張がなされる”こと自体が、“結果的に口話法がすべての聾児に有効な方法ではないこと”を意味しており、“聴力的に聾でないことこそがしゃべれるようになるための必要条件であること”示すことになったと述べている。37ろう教育の成功の条件が「良く聴こえること」にあるとすれば、聴覚口話法自体が、大きな矛盾を孕んでいると言わざるを得ない。38

1.4.2.トータルコミュニケーション
 1960年代における口話法の修正の第二の方向は「視覚的補助手段を用いて読話のあいまいさをおぎなう」方向であった。そしてこのような方向性の中心となる理念がトータルコミュニケーションである。
 トータルコミュニケーションとは、1968年に“カリフォルニア州サンタ・アナ学区の一般学校内の「統合教育」における実践であり、同学区の聴覚障害教育担当の指導主事、ロイ・ホルコム氏の提唱”したのが起源であるとされている。39
 田上編『聴覚障害者のためのトータルコミュニケーション』ではトータルコミュニケーションは以下のように定義されている。40

“耳の聞こえない人どうしの、あるいは、耳の聞こえない人とのコミュニケーションにおいて、相手の人の条件や、その場の状況、話題などに応じて、最もよい方法を選択し、組み合わせて、コミュニケーションの効果を高めようとする考え方であり、その方法である。”

 ここでは、ろう者がコミュニケーションに用いる方法としては聴能(補聴器で音声を聞き取る)、口話法(口の動きから話を読み取ったり、自分でも声を出して話す)、手指法(手指の形や動きで、意味を伝え合う方法)が挙げられており、状況に応じて最適な方法を選択し(最適方法)、組み合わせたりする(相互補完)べきであると述べられている。それまで「手を見ることで、口を見なくなる」として手を動かすことすら禁じてきたろう教育において、手指を動かしてコミュニケーションすることを認めたことは、画期的であった。41
 トータルコミュニケーションの登場した背景としては、前述したように口話法の成果が上がらなかったことが挙げられるだろう。Evansは“普通学校に聴覚障害児を統合させる傾向によって、特殊学校は、より重度な障害をもつ児童のニードに応ずるものとなった。このことが、すべての聾児に純粋口話法が適当かどうかという疑問を生む結果となった”として、当時次第に広まっていったインテグレーションが、トータルコミュニケーションの登場を促した点を指摘している。42
 1968年に提唱されたトータルコミュニケーションは、1976年にはアメリカ聾学校校長会において、公的な定義が与えられまでに関心が高まり、アメリカ全土のろう学校へと広がっていった。そして、アメリカ以外の国にも急速に伝わり、世界的な動向に発展していく。43
 トータル・コミュニケーションは教育実践の発展につれて、“いかに用いられるべきかという方法的規定よりもむしろ、口話・手指メディアを受け入れる理念的な態度として理解すべきことが強調され”るようになる。44確かに、トータルコミュニケーションはさまざまなの方法を組み合わせたものであり、特定の方法を指示するものではない。しかし、理念であって方法ではないとはいえ、それがろう学校で採用され、実践されるときには、何らかの特定の方法という形を取らざるを得ない。45生徒ごとに方法を変えて授業をすることは現実的に不可能である。46
 そうした中で、欧米では音声言語を話し、その語順に沿って手話の単語を同時に表すという方法が広まっていく。この方法は、日本では日本語対応手話や手指日本語、欧米ではSSS(sign-supported speech)やシムコム(simultaneous communication:sim-com)など様々な呼称があるものであるが、本稿では呼称ごとの具体的なニュアンスの違いは問題としない。今後、日本の問題に言及する場合には「日本語対応手話」を用い、こうした方法一般をさす場合には「音声言語対応手話」という用語を用いることにする。
 音声言語対応手話の根本的な考え方は、以下のようにまとめられるだろう。

“口話と手話を併用すると、読話がしやすくなり、手話のほうも意味が正確につかめるという効果がでてきます。しかし、伝統的手話と口話は、ことばの順序が違うなどのために、組み合わせて使うことに無理なところがあります。それに対し、日本語コードの手話なら、口話や聴能と単語の順序も同じになり、組み合わせて、相互補完させながら使えます。相互補完できるなら、手話だけ、口話だけの場合より、楽に、しかも正確に伝達し合えるはずです。また、日本語を覚え、使い方をマスターするためには、毎日の生活の中で、非日本語コードの手話を使っているより、日本語コードの手話を使うほうがよいことは明らかです。”47

 このような考えに基づき、音声言語と手話(単語)を組み合わせる様々な試みがなされた。アメリカでは「SEE・」、「SEE・」、「LOVE」といった複数のシステムが作り出され、日本においては栃木県立聾学校と栃木県ろうあ協会の共同作業で「同時法」が考案された。48
 しかし、日本では「同時法」を使用した栃木県立聾学校以外では、音声言語対応手話はなかなか受け入れられなかった。音声言語対応手話ではなく、日本語音節の母音は口形で表し、子音は手のサインで表してコミュニケーションする「キュードスピーチ」が多くのろう学校で採用された。49キュードスピーチもトータルコミュニケーションの理念に基づくものであったが、日本においては手話に対する否定的な価値観が強く残っており、音声言語対応手話の導入が妨げられた結果、用いられたのではないかと考えられる。
 日本において音声言語対応手話がろう教育で広く用いられるようになったのは1990年代に入ってからである。手話に対する社会的関心が高まる中で、授業の中に手話を取り入れたり、ろう学校の中学部や高等部では生徒の手話使用を容認する学校も増えている。1993年には文部省の発足させた「聴覚障害児のコミュニケーション手段に関する調査研究協力者会議」の報告(1993)によって、手話は多様なコミュニケーション手段の1つであると公式に位置付けられた。50したがって、現在の日本のろう学校の教育方針は1970年代以降の欧米のトータルコミュニケーションに近いと考えられるが、これは、ろう教育をろう者の言語である手話で行うことを主張する、近年のバイリンガル教育の流れに対して、口話法を温存するための妥協案としてトータルコミュニケーションが今になって採用されたのだと考えられる。

1.4.3.トータルコミュニケーションの限界
 アメリカでは、トータルコミュニケーションの導入から20年近くをへた1988年にろう教育委員会(The Commission on Education of the Deaf)の報告書が出された。この報告書によれば、当時のアメリカのろう教育の状況は“受け入れがたいほど不充分である”とされている。51
 ろう児は“年令が進むにしたがい、大きな投資にもかかわらず、同年令の聴児よりも年ごとに遅れていく”。そして、“高校卒業時点では平均的ろう児の学科目の成績が総体的に劣った青年として成長してしまう”のである。ギャロデット大学評価・人口統計学センターが定期的に集計した統計によれば“高卒ろう学生の平均学力は高卒聴学生よりはるかに低く、とくに英語の聞き取り、読みに関する分野が遅れている”との評価が下されている。52このように、1970年代にアメリカ中に急速に広まったトータルコミュニケーションであったが、結果的に見ると、ろう児の学力を伸ばすことはできなかったのである。
 トータルコミュニケーションはなぜ失敗したのであろうか。これには2つの理由があると考えられる。一つ目の理由は、トータルコミュニケーションの中心的な方法として用いられた音声言語対応手話である。もう一つの理由はトータルコミュニケーションと口話法の関係である。
 トータルコミュニケーションにおいて主に用いられた音声言語対応手話は、音声でしゃべりながら、それに合わせて手話単語を表出していくというものであった。こうした手話の目的は手話と口話を同時に発することにあり、どちらも完全な言語の表出と考えられていたが、現実にはそうではなかった。Johnson・Liddell・Ertingによれば、これは聴者が人工的に作り出したものであるが、“聴者が声に出して話をすると同時に手話をするということは心理的にも肉体的にも過重な負担”であり、このような条件下では“シグナルの一方あるいは両方が悪化”してしまう。彼らによれば、“アメリカのろう教育全部で用いられているSSS(音声言語対応手話)の手話はかなり慣れた手話使用者にも一部しか理解できない”ものとなってしまっているという。また、仮に、音声言語を完全に手指で表現できたとしても、音声言語の“統語・形態規則に基づいて組み立てられた手話表現を理解するためには子供はまず英語ができなければいけない”という矛盾が存在するのである。53
 また、不完全にも関わらず、なぜ音声言語を手話で表すことが目指されたのかと言えば、口話を補助して、音声言語の習得をスムーズにするためであった。日本で広く用いられたキュードスピーチについても同じことが言えるであろう。最終的な目標には常に音声言語の獲得があったのである。その背景には手話が言語であるという認識の欠如と、聴者中心の価値観が存在する。実際、トータルコミュニケーションを主張した人々の中では、“トータルコミュニケーションは口話法の長い努力の上に提案されたもので、いわば口話法あってのトータルコミュニケーション”であると考えられていた54し、手話の認識に関しても“手話はことばとして貧弱であって、この事実は率直に認めるべき”だと考えられていたのである。55この点に関してJohnson・Liddell・Ertingは“どのような名で呼ぼうとも、教師は教える時には話をしなくてはならないという要求やろう児の発語を強調することは実際は口話法の実践である。だからTC(=トータルコミュニケーション)は“手指法”と見なすのが普通であるが、私たちは『クリプト・オーラリズム=隠れ口話主義』であると思う。なぜならTCの本質はたとえ手話がついていても、結局は口話法により理解し学習することを生徒たちに要求しているからである“と指摘している。56したがって、トータルコミュニケーションを採用しても、口話法の抱えていた問題を根本的に解決することができないのは当然と言えよう。

1.5.ろう児から手話を奪うことの問題点
 以上のように、わが国のろう教育の理念の中心であった口話法は、1960年代以降に聴覚口話法とトータルコミュニケーションという二つの方向に修正を受けるが、口話法の根本的な問題点は変わらず、むしろ温存されてきたと言える。
 金沢は日本のろう教育の問題を以下のようにまとめている。

“聾教育者が一貫して聾児に求めてきたことは、しゃべれるようになることに他ならない。そしてそれは聾の子どもを産んだ親の切実な願いと重なりあう。それゆえ教育方法は音声言語の習得にプラスになるかどうかで評価されることとなり、音声言語の習得に妨げになると考えれられた「手話」は聾教育の中で否定的に扱われ続けた。”57

“なぜ聴者が聾児にしゃべることを要求し、手話を否定しようとするのだろうか。それはすでに聴者の価値観の中に、耳が聴こえないことが「障害」として埋め込まれているからに他ならない。耳が聴こえないことは「かわいそう」なことであり、耳が聴こえない人(=聾者)は「かわいそう」な人とされる。(中略)(親は)やはり、できれば聴こえないよりは聴こえた方がいいし、それが無理ならしゃべれるようになってほしいと願うのである。そしてその願いに応えようとして、専門化が努力して作り上げてきたものが「口話法」というシステムである。”58

すなわち、口話法は「聴こえないこと」への否定的な価値観とそれに基づく手話の否定・排除の上に成り立っていたのである。そこには、手話を言語として認識し、ろう者を手話を母語とする言語的少数者として捉える視点は見られない。
 そして、根本的な差別意識を内包しているが故に、ろう教育者たちは自らの教育方法が抱える問題点に目を向けずにきたのである。これまでの聾教育では“もし生徒の読み書きが向上しなくても、それはいつも子供の側に問題があるからとか、ろう児に英語を教えることの困難さの結果であるとされて”きた。“失敗の原因は本当は教師と生徒のコミュニケーションの失敗にあると考えることはまずなかった”のである。59
 このようにして、ろう教育の中で温存されてきた口話法は、二つの問題を引き起こしていると考えられる。一つはろう児の学力を充分に伸ばすことができず、人格形成にも問題をもたらしていることであり、もう一つは、そのような教育のあり方自体が、言語的文化的少数者としてのろう者や、その言語および文化を抑圧してしまっているという問題である。
 1点目については、Johnson・Liddell・Ertingは今までのろう教育のアプローチは“ろう児がどう頑張ったところで不完全にしか理解することのできない形のコミュニケーションを通じて学ぶことを期待してきた”としている。そのため、“ろう児は既に言語発達の面でも、同年齢の聴児に遅れをとってしま”い、“同年齢の子供なら当然もっている知識、情報の獲得面で聴児にかなり遅れてしまう結果”となる。そして、自然なコミュニケーションが成立しないため“一般的な文化知識や社会情緒的経験、そして認知発達に影響するかもしれないその他の社会的交流も限られたもの”になってしまうと批判している。60
 2点目について。ろう者を手話を話す言語的文化的少数者であると捉えた場合、ろう者は民族のアナロジーで捉えられることになる。そして、口話主義に基づく教育は、手話およびろう文化への“弾圧”として認識される。61マイノリティとしての自覚を持ち、ろう者としてのアイデンティティを持つ人々がいる以上、マイノリティの言語としての手話が、教育によって否定されているとすれば、それは文化的な抑圧に他ならない。国連人権規約第二十七条には“種族的、宗教的又は言語的少数民族(minority少数者)が存在する国において、当該少数民族に属する者は、その集団の他の構成員とともに自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し又は自己の言語を使用する権利を否定されない”と規定されている。62口話法はマイノリティとしてのろう者の人権を侵害してきたとも言えるだろう。

2.バイリンガル教育の理念と課題

2.1.バイリンガル教育の登場
 今日までのわが国のろう教育は、聴覚活用(聴覚口話法)や手指による補助の容認(トータルコミュニケーション)などの修正を加えられながらも、基本的には口話法の理念のもとで行われてきた。そして、口話法による手話(デフコミュニティで用いられる日本手話)の否定が、ろう児のあるべき成長を阻害するだけでなく、ろう文化への抑圧としても機能してきた。
 こうして、口話法そのものの問題点が指摘されるようになる中で、ろう教育の新たな理念として登場してきたのがバイリンガル教育(バイリンガル・アプローチまたはバイリンガリズム)である。木村・市田はろう児におけるバイリンガル教育について次のように述べている。63

“現在、ろう者が熱い期待をよせているのが、北米の一部や北欧各国で採用されているバイリンガル・アプローチである。これは、ろうの子どもたちが自然に習得できる言語は手話であり、まず手話を習得する機会を与え、それを基盤に、書きことばや話しことば、学力を身につけさせようというものである。これまでのような「初めに音声言語ありき」という固定観念を打破し、「学力の遅れを解消するためにも、より徹底的な口話教育を」とする、多くの教育者が陥っている悪循環を断ち切ろうとするものであると同時に、もう一度、ろう者の教育をろう者自身の手に取り戻そうとするものでもある。”

 バイリンガル教育は、1960年代のアメリカの公民権運動において、マイノリティの権利保護という文脈の中で生まれたものである。東によれば、1964年に公民権法が制定されたことで、“人種、肌の色、出身地などによる差別が禁止されたのを契機に、アフリカ系アメリカ人などの少数人種(マイノリティ)、ひいては彼らが話す言語についても以前よりは寛大な対応がみられるように”なった。そして、1968年に連邦政府が“初等中等教育法のタイトル7としてバイリンガル教育法を定め、経済的に不利な立場におかれたマイノリティ言語を話す子どものためにバイリンガル教育を施す必要性を認め、特別予算を配分することを決めた” 64ことによって、制度としてのバイリンガル教育の基盤が作られることとなった。近年では、急速な国際化の中でバイリンガル教育の必要性は高まってきており、マイノリティの教育だけでなく、帰国子女教育などにおいてもその重要性が認識されている。
 ろう教育の中にバイリンガル教育を導入しようという動きが初めて起こったのは、1970年代の初期のアメリカにおいてである。これはトータルコミュニケーションの導入への反発として一部で提唱されたのであるが、当時のトータルコミュニケーションの広まりの中であまり受け入れられなかった。65
 ろう児へのバイリンガル教育の実践が初めて公的に行われたのは1980年代のスウェーデンである。そして、これがデンマークやフィンランドなどにも広がり、北欧全体に広まることになった。長年トータルコミュニケーションを標榜するろう学校の多かったアメリカでも、バイリンガル教育を採用する学校が増えてきている。66

2.2.ろう児のためのバイリンガル教育とは何か
 ろう児のためのバイリンガル教育を理論化し、世界中に実践が広まる契機となったのは、ギャローデッド大学67から出版された『Unlocking the Curriculum: Principles for Achieving Access in Deaf Education(邦題「学力の遅れをなくすためにーろう教育における学力獲得のための基本原則ー」)である。68ここでは、それまでの聴覚口話法とトータルコミュニケーションによってなされたアメリカのろう教育を批判した上で、新たな教育原理としてバイリンガル教育が提唱されている。

2.2.1.第一言語としての手話の獲得
 ろう児のためのバイリンガル教育は、“教育的場面で子供と大人がするコミュニケーションはすべて子供ができる言語で行われるべき”という前提の上に立っている。これは、これまでのろう教育が、ろう児にとって理解不可能なコミュニケーション手段の上に立っていたことへの反省である。そして、すべてのろう児が理解可能なコミュニケーションを通して教育を行うためには、“ろう児の第一言語は自然手話であるべき”であることが主張される。69これは、ろう教育において「手話を教える」ことを意味しない。「手話で教える」ことこそが重要視されているのである。
 ろう児の第一言語として手話が適当である理由としては、“子供は生まれた時から自然言語を学習するようにできて”おり、また“自然手話はろう児が早期にその環境におかれると、通常の言語習得過程により簡単に学習される”という研究結果も報告されている。それ故、“自然手話は幼児期の社会文化的情報を提供する手段として、また全学年にわたる教育カリキュラム内容に最適な手段である”とされるのである。そして、これまでろう教育の中で定説とされてきた“初期の手話獲得が英語の読み書きや口話の獲得を阻害するという考えを指示する証拠はない”とし、反対に“初期の言語環境が、その後のろう児の学力や言語能力を形成するという証拠はある”として、“平均的なろうの両親を持つろう児は学校関連能力については、家族がみんな聞こえる家庭のろう児よりも高い実力を身につけている“という研究結果が述べられている。70
 また、“子供の第一言語学習は早ければ早いほど世の中のことを多く知る機会にめぐまれ教育プログラムのカリキュラムをこなす力が(言語的にも文化的にも)できてくる”として、ろう児を、手話と接触できる環境にできるだけ早く入れることの重要性が指摘されている。71
 このプログラムの最終目標としては“アメリカ教育のカリキュラムすべてについて学年相応にできるようにすること”が挙げられている。72

2.2.2.音声言語に対する考え方
 バイリンガル教育の中では、音声言語はどのように位置付けられるのだろうか。バイリンガル教育においては、まさにその名が示すとおり手話と音声言語の二言語を獲得することを目的としており、音声言語が無視されているわけではない。『学力の遅れをなくすために』によれば、“私たちはろう者への英語教育の価値を低めようとは思っていない。英語の能力はアメリカで経済的に生きていく上で必要であることは否定できない事実である”としている。そして、“私たちの目標はASL(アメリカ手話)と英語のバイリンガルの子供”であり、“英語能力は主目的の1つである”とも述べられている。73
 とはいえ、第一に音声言語の獲得が目指されるようなこれまでのろう教育とは異なり、音声言語は第二言語として教えられる。そして、第二言語として音声言語を獲得する際には、第一言語である手話が使用される。つまり、ろう児たちは手話を通して音声言語を学ぶのである。“英語学習とカリキュラム伝達手段の両方とも第一言語であるASLを確立することにより加速され増長される”と考えられているのである。74
 ここでの音声言語とは従来のろう教育で中心的な位置を占めてきた口話のことではなく、読み書きのことである。これは“話し言葉の学習はたとえ見かけは聴覚的方法によってはいても結局は視覚的経験である”という前提に立つものである。75したがって、このプログラムでは口話はそれほど重視されていない。口話については以下のように認識されている。76

“口話の理解と発語は言語獲得の手段としてではなく、言語獲得の結果として言語能力が文字により確立したあとに発達する技能である。これは幼児期の音の刺激や声の練習を排除するものではない。どちらも幼児教育に対する私たちの提案の重要な部分である。また子供たちが適当な時期に補聴器を装用してはいけないというものではない。ろう児が言語的入力を受ける主たるチャンネルとして聞こえを使うべきではないということであり、聴能や発語に中心をおくことは通常の年令相応の言語獲得、知識獲得を妨げるので許すべきでないといっているのである。”

ここでも、すべての子どもが理解できるという点が強調されている。つまり、口話はすべてのろう児が身につけられるわけではないので、すべてのろう児にアクセス可能な書き言葉が、音声言語教育の基本となるのである。

2.2.3.家族へのサポートの重要性
 このプログラムの中では、学校だけでなくろう児の生活全体が視野に入れられており、とくに家庭での教育が重視される。ろう児の90%は聴者の両親から生まれるのであるから、家族への教育的なサポートは重要である。“子供の認知的、言語的、社会的、情緒的成長を促進できるような家庭環境を作るため、子供の家庭に集中的な手話訓練とろうに関する指導”がなされなくてはならない。77
 そして、『学力の遅れをなくすために』においては、ろう教育のモデルプログラムの中の部門として「ファミリー・サポート・プログラム」が置かれており、その内容として・両親支援グループ、・週単位のろう社会との接触(里祖父母制度)、・専門家による家庭教育とカウンセリング、・ろう社会と日常的かつ緊密な接触をもつための週末キャンプ、・ろう社会との長期的な接触をもつためのサマーキャンプ、の5点が挙げられている。78

2.2.4.成人ろう者の役割
 全体を通して強調されているのが、成人ろう者のプログラムへの関わりである。上述した「ファミリー・サポート・プログラム」においても成人ろう者の役割が明記されていた。成人ろう者がろう教育における意義としては、次のように述べられている。79

“聴者の両親をもつろう児の言語獲得の最初のモデルは成人ろう者であるべきである。(中略)すべての教育的コンテクストでは成人ろう者がいなくてはならない。ASLは他の自然言語同様、文化的コンテクストにおいて初めて存在するものであるから、これはひじょうに大切である。こうしたコンテクストで起こるいろいろな出来事を理解できる手段をもつ大人の存在なくして、言語獲得は完全にはなしえない。”

ここでは成人ろう者は、ろう児の手話のモデルとしてだけでなく、ろう児のロールモデルとしての機能を期待されている。ろう児は、成長してやがてろう者として生きていくのであるから、ろう教育が聴者だけによって行われる場合、ろう児は適当なロールモデルを自分の周囲に見いだせないのである。したがって、“アイデンティティをえる上でも、自然に言語を獲得できる能力という有利さをいかすためにも、ろう児は手話のできる成人ろう者との幅広い接触を持つべき”であると考えられるのである。80
 これまでのろう教育で、あるべきロールモデルとしてろう児に示されていたのは聴者であった。そして、できる限り聴者的にふるまい、行動できることに価値が置かれ、口話法を中心としたシステムが作られていったのである。しかし、本来、ろう児の立場を最もよく理解できるのは成人ろう者である。休み時間や給食の時間に、子どもたちが目の前で話している内容が理解できない教師が、ろう児に対して、適当な学習支援を行うのは非常に困難だと言わざるをえない。81

2.3.バイリンガル教育とろう文化
 バイリンガル教育はろう児の成長だけでなく、ろう文化にとっても有益である。「9割ルール」によって、ろう文化が家庭内で再生産されないことはすでに述べた。したがって、木村・市田も述べているように、“ろう者が始めて自分以外のろう者に会うのは、ろう学校という、ろう者のための特別な学校である。本来広い地域にばらばらに存在しているろうの子どもたちは、そこで初めて仲間と出会い、結束の堅い集団をつくる。その集団こそが言語と文化を伝承するコミュニティへの入り口”なのである。82これまでは、その「入り口」において文化の基盤となる手話が否定されてきたのであるから、ろう教育に手話が導入されれば、ろう文化の再生産はよりスムーズになる。そして、より多くのろう児にろう文化へのアクセスを可能にすることができるだろう。こうしてデフコミュニティの成員となり、「ろう」としてのアイデンティティを獲得することが目指されるのであるが、ここにおいても成人ろう者が重要な役割を果たすことになるだろう。ろう文化特有の価値観や行動様式などは成人ろう者との交流の中でこそ身につくものである。
 しかし、ろう児のろう文化の獲得の必要性を述べることは、聴者文化の獲得が不必要であることを意味しない。ろう者は圧倒的多数の聴者の中で生活しているのであり、また職場や家庭においても聴者との交流は不可避であるから、日常生活を営む上で聴者の文化を知らないことは大きな不利益をもたらすだろう。したがって、ろう教育に求められるものは、バイリンガルであると同時にバイカルチュラルな子どもを育てることであろう。近年では「バイリンガル・バイカルチュラル教育(BiBi教育)」という呼び方もなされるようになっている。83ここでは、ろう教育に関わるろう者と聴者の連携が重視され、ろう者教員と聴者教員によるチームティーチング(TT)などの実践も報告されている。84

2.4.ろう学校におけるバイリンガル教育の限界
 ろう教育へのバイリンガル教育の導入は、ろう児の学力および人格形成において大変有意義なものであると考えられる。しかし、わが国のろう教育においては口話法は根強く残っており、また、インテグレーションの拡大によって、ろう学校そのものの存在意義すら問われている。バイリンガル教育を現在のろう学校教育に導入するにあたっては、いくつかの壁が存在する。

2.4.1.口話法を擁護するシステム〜金沢貴之の指摘〜
 金沢は、ろう学校において口話法がさまざまなレトリックによって擁護され、温存されるシステムが存在することを指摘している。そして、そこには、手話や「ろう」へのネガティブなイメージが構築され、それによって口話法への批判が受け流されてしまう状況が存在するのである。
 1994年の調査によると、現在のろう学校職員の97.5%が聴者で占められている。85そして、保護者の90%が聴者である。したがって、ろう教育に関わる大人のほとんどが聴者であり、成人ろう者からの批判は常に少数派の意見となってしまう。聴者は“自分から聴力が失われた存在”として「ろう」として想定するため、「ろう」は常に“克服すべき状態”として規定される。86
 しかしそうした「ろう」のイメージは、“聴者の世界から聴覚によって受ける恩恵を取り除いて残ったところのものとして作られるイメージ”にすぎず、それは“中途失聴者のリアリティには近づけるかもしれないが、聴者の知らないところで手話を言語として生活している聾者の世界をイメージしているわけではない”のである。結局、“聴者が想像の世界で規定しようとする限りにおいては、聾はネガティブな状態として構築される”ことになる。87
 自分の子どもが「ろう」だとわかった場合、両親はろう学校の幼稚部などに相談に行くが、“「聴覚障害」の宣告を受けた聴者両親に対する対応は、特殊な例外を除いてほとんどの場合は聴者の専門家によってなされる”ため、“専門家による聾の構築もまた、聴者として想定されるところの聾者像をもとになされていく”ことになる。88
 こうして、ほとんどのろう児が、教育の最初の段階においては口話法に基づく教育を受けることになる。現在では、口話法の問題点が指摘されているし、また自分の子どもの口話の力が伸びない場合などは両親もろう学校のやり方に不満を持つことになる。しかし、このような場合、ろう学校では“「口話法が間違っているのではなく、我々の指導に問題があるのだ」というレトリックが使用されることにより、口話法という方法自体は傷つかないまま聾教育が進められる”ことになる。89金沢はこうした状況を次のようにまとめている。90

“教育者が口話法に夢中になるためには、わずかな成功例があればよかった。わずかでも成功例が示されることで、多くの失敗の原因は口話法の理念自体には向けられず、それが実現できない指導の現実に向けられることになる。理想と現実の差を埋めるために、口話法の指導方法も「研究」され、より一層体系化されていく。そしてその体系が高度に複雑化していけばいくほど、その体系は硬直化し、一朝一夕には習得できない方法、つまり「名人芸」へと昇華されていく。若手の教員が上手くいかないのは、「指導技術に問題があるからだ」とされ、疑問を口に出そうものなら、「自分の指導の足りなさを棚に上げて、何を言うか!」と叱られる。結局、一生懸命口話法に習熟するしか道はない。”

 こうしてろう学校内部での、さまざまな葛藤に目が向けられない状況が発生するのである。
 近年では、ろう学校の外部からもさまざまな批判がなされるようになってきている。しかし、成人ろう者が自分の経験を元に聴覚口話法の問題点を指摘しても、“「今の聴覚口話法は違うのです。子ども達も楽しんでいます。」”と言われ、「手話を導入するべきだ」という主張に対しても“「私どもは手話を否定してはいません。以前はそれこそ手を動かすことすら禁止していた時代がありましたが、今はそんなことはないのです。身振りも自由に使って、楽しく言葉を覚えています」”91という答弁がなされる。ここでは「手話」が「身振り」にすりかわり、「導入するべき」が「否定していない」に入れ替わっている。金沢によれば“聾教育の指導法をめぐる問題を論じたとき、こと手話に関してだけ、このようなズレが生じる”という。92このようなレトリックによって口話法に基づくろう教育は温存されていくのである。
 金沢はここにろう教育の専門家と口話法の間にある「共依存」的な関係を指摘している。つまり、“聾児に口話法を習得させるという困難な課題があるからこそ(中略)専門家のアイデンティティは保証される”のであり、“献身が裏切られることによって、同じ努力を何度でも飽くことなく繰り返すことが可能になる”のである。93
 こうして、自らのアイデンティティを求める専門家によって、“口話法は「擁護システム」を内在化”させ、“壊されることなく維持され続ける”ことになる。94

2.4.2.ろう者教員養成の困難
 先述の通り、バイリンガル教育の導入には、成人ろう者の果たす役割が非常に大きい。成人ろう者はろう児に手話とろう文化を伝え、彼らのロールモデルとなることが期待されるのである。しかし、先述の通り、全国のろう学校の全教職員(約5000人)に占める聴覚障害教員の割合は約2.5%しかない。95そして、その大半が高等部に所属していて、乳幼児期の指導に当たっているものは皆無である。しかし、バイリンガル教育では、手話の早期導入が原則である。子どもの母語獲得には臨界期があるといわれており、また乳幼児期は家庭へのサポートも大切である。バイリンガル教育を実践するためには早期(特に幼稚部)から、成人ろう者が教育に関わる必要がある。
 当然のことながら、ろう学校の教員となるためには、教員免許を取得し、教員採用試験に合格する必要がある。したがって、ろう教員を増やすためには、これらの基準を満たすろう者を数多く養成しなければならない。しかし、現在のろう学生の状況をみると、それはたやすいことではない。
 大泉によれば聴覚障害学生の総数は約800〜1000人とされている。96この中で、何人が教員を志すかはわからないが、高等教育を受けられるろう者の中で、教員を志し、試験に合格できるのは、ごく一部である。
 また、ここでの「聴覚障害学生」は必ずしも言語的文化的な「ろう」であるとは限らない。高等教育を受けることのできる聴覚障害学生の多くは、インテグレーションした生徒であるため、手話を知らないかまたは充分に使いこなせないことが多く、場合によっては自分以外のろう者に会ったことがない、ということもある。
 したがって、実際にろう児のロールモデルとなれるろう教員を配置することは、非常に困難であると言わざるを得ない。

2.4.3.インテグレーションの拡大
 これまで、主にろう学校に焦点を当ててろう教育の歴史を整理し、その問題点とあるべき姿について述べてきたが、手話やろう文化、およびバイリンガル教育の導入にとって、現在最も大きな問題だと考えられるのは、インテグレーションすなわち統合教育の問題である。これまで問題にしてきたのが「あるべき/べきでない」ろう教育であったのに対し、インテグレーションの問題はろう教育そのものの存在を揺るがすものであると言える。
 インテグレーションとは、1960年以降のノーマライゼーションの高まりの中で登場した、、健常児と障害児が同じ場で学ぶという教育理念である。わが国においては、1971年の中教審答申で「養護学校の義務化」が提言され、1973年の「養護学校義務化についての予告政令」が出される中で、地域の普通学校への障害児の就学を求める運動が起こり、その後インテグレーションする障害児が徐々に増えていく。97
 国際的にも、1982年に国連で採択された「障害者に関する世界行動計画」において、“障害者の教育はできる限り一般の学校制度の中で行われるべきである”と規定され、インテグレーションは世界的に広まっていくことになる。98
 しかし、こうしたインテグレーションの流れに対して、デフコミュニティは一貫して反対し続けてきた。デフコミュニティにとって、インテグレーションは、手話とろう文化を伝承できる唯一の期間であるろう学校をなくす方向に働くものだからである。木村・市田は“たとえ手話が禁止され、弾圧されていたとしても、ろう学校がある限り、生徒集団による手話とろう文化の伝承は途絶えることがないであろう。だが最近、この「民族」の基盤を揺るがす動きが力をもちつつあるのだ。ろうの子どもたちをろう学校に通わせず、普通学校に通わせようとするメインストリーミング(=インテグレーション:引用者注)の波と、その究極にあるろう学校廃止の動きである”99と危機感を募らせている。1991年の世界ろう者会議では“ろう児には、手話とろう者の文化が大きな役割を果たすろう学校が必要である”100と分離教育が主張され、全日本ろうあ連盟も1996年の全国ろうあ者大会で“ろう学校の全体的な学力の向上を図り、無原則で安易なインテグレーションの傾向をなくす”ことと、“ろう学校はろう教育の専門校としての能力を高めるために、ろう者団体との連携を強化して、幼稚部を含む全校的な「手話」教育の実践と充実”を求めている。101
 こうした動きを受けて、1993年に国連で採択された「障害者の機会均等化に関する基準規則」では、“政府は障害を持つ児童・青年・成人の統合された環境での初等・中等・高等教育機会均等の原則を認識すべきである。政府は障害を持つ人の教育が教育体系の核心であることを保障すべきである。”とインテグレーションの流れを踏まえた上で、“ろう者と盲ろう者はその特別なコミュニケーション・ニーズにより、ろう者と盲ろう者用の学校もしくは普通学校内の特別学級・班での教育が一層適切であるかもしれない。とくに当初の段階では、ろう者もしくは盲ろう者の効果的コミュニケーションと最大限の自立をもたらす、文化に配慮した教育に特別の注意を寄せる必要がある”とデフコミュニティへの配慮を見せている。102
 しかし、現実にはこのようなデフコミュニティの抵抗にも関わらず、インテグレーションする子どもが増えている。それに伴い、ろう学校の在籍者数も激減しているのである。藤井によれば、1959年に20744人だった、ろう学校の在籍者数は、1993年には7842人まで減少している。103デフコミュニティにとっては、インテグレーションとは聴者への「同化」教育であり、インテグレーションの拡大の背景には、口話法と同じ手話や「ろう」への否定的な眼差しをみることができる。しかし、実際にインテグレーションの拡大に拍車をかけているのは、ろう学校の深刻な学力低下と障害の重度・重複化である。長年の間、ろう児には「9才の壁」があると言われ、小学校4年程度の学力しか獲得できないと言われてきた。104これは手話を否定され、口話法で教育を受けてきた結果であるとも考えられるが、このような根拠のない常識がインテグレーションを拡大させている面も指摘できる。そして、これが国際的なノーマライゼーション、インテグレーションの流れと結びつくとき、ろう学校はその存続さえ危うくなるのである。
 インテグレーションした聴覚障害児は、高い学力を身につけることができる場合も多く、大学に在籍する聴覚障害学生の多くがインテグレーション経験者である。しかし、インテグレーションすることによって、周囲の聴児と充分なコミュニケーションが取れず、人格的な成長が阻害されてしまう場合も少なくない。
 中野は、自らのインテグレーションの経験から、インテグレーションの問題点を指摘している。中野は“常に不完全なコミュニケーションしか存在しない世界に身を置かなければならない聴覚障害児は、まず第一段階として親や教師の言うように聴覚活用をがんばり、一生懸命先生や友達との話を聞き取ろうと努力する。しかし、聴者と同じにコミュニケーションすることはどんなに努力しても難しいことに気づきはじめる。そうして、友人との会話を減らすように興味ないふりをしたり、わかったふりをして、周囲に合わせて笑う術だけが身についていく。そこには、誰かと話すことの楽しさも充実感もない。ただ苦痛の時間だけになる。一方授業では、教師の話していることなどはわからないから、ほとんど独学になる。それで、なんとか授業についていけるのであれば、「先生の言うことはだいたいわかっている」と思えることになる。こうした積み重ねと、「人に迷惑をかけちゃいけない」「かわいがられる障害者になりなさい」といった無言の期待がかかってきて、それを演じる自分が「あたりまえ」になる。”という。105そして、聴者の世界に同化しきれるわけではないが、手話とろう文化を知らないためろう者の世界にもに入れない“第三の世界”が作りあげられていることを指摘し、インテグレーション経験者はアイデンティティの確立が非常に困難であると述べている。106上農は“たとえ、ろう学校が口話教育を実践しているとしても、そこに在籍した場合には「ろう者」としての意識が芽生える”のに対し、“普通学級にインテグレートした「難聴児」には、聴者との差異を厭い、むしろ聴者に同化しようとする全く逆の自己形成が起きがち”であり、“アイデンティティという根本的な面からも「難聴者」は独自の問題を抱えている”と指摘している。107
 安易なインテグレーションには問題があるが、しかし、全ての聴覚障害児の「分離」を志向するのには限界があろう。軽・中度難聴児の教育には有効な場面も多くあり、また、現在のところ学力に関してはインテグレーションの方に分があるのも事実である。そして、たいていの場合、ろう児の教育方針は、聴者の両親によって決められる。中等部や高等部からろう児の意思でろう学校に戻るというケースもあるが、バイリンガル教育に必要な早期の教育では、ろう児の自己決定は不可能である。したがって、「できれば普通の子と一緒の学校で」という親の願いによって、インテグレーションはこれからも続いていくと考えられる。

2.4.4.ろうナショナリズムへの批判
 バイリンガル教育の理念には、ろう文化運動の強い影響がある。確かに、ろう児の学力の遅れをなくし、自然な人格の発達を促すことも強調されるが、ろう者を「民族」のアナロジーで捉え、「民族の言語」として手話を教えるべき、という民族運動的な側面も否定できない。しかし、独自の文化や言語を強調するろう文化運動に対しては、その運動の当初から多くの批判があったことも事実である。
 その中でも、代表的な批判は次の2つであった。すなわち、“一つは「ろう者は障害者というよりむしろ言語的少数者である」という定義に対する批判、もう一つは、一般的に「手話」と呼ばれているものを、日本語とは異なる構造をもつ「日本手話」と日本語の補助手段にすぎない「シムコム」に分類し、日本手話を話す人たちを「ろう者」として、それ以外の人々、すなわち、「中途失聴者」や「難聴者」と区別したことに対する批判”であった。108
 長瀬は、ろう者が自らの民族性を強調し、自らを「障害者ではない」としていることが、他の障害者への新たな差別につながるとして批判している。長瀬は “損傷や機能的制約をもつ個人に対して、社会が作り出す障壁や抑圧が存在する”以上、“そういった障壁や抑圧にさらされているという意味でろう者も障害者ではないだろうか”と述べ、“ろう者は自らについては社会的文化的視点を訴えるが、他の障害種別に関しては病理的身体的視点を用いるために、ダブルスタンダードである”という批判を紹介している。109そしてろう文化運動については、“ろう文化の認知、推進には心から共感するが、過度のろうナショナリズムと化した場合には排除の論理や自文化優越主義などの弊害も生じるだろう。パッデンとハンフリーはろう者の独自の中心CENTERの存在を指摘した。しかし、中心は常に周辺を生み出す。もちろん、聴者の中心だけが存在するよりも、ろう者の中心もある方がパワーとの対応という意味では望ましいだろう。しかし、それでも例えば難聴者や中途失聴者はどこに活路が見いだせるのか”と疑問を呈している。110
 すなわち、社会的なバリアが存在する以上、ろう者も障害者であるという前提に立つとき、ろう文化運動には、障害者を文化を「持てる者」と「持たざる者」に分割し、新たなバリアや差別を生み出す危険性がある。ろう文化運動が、自ら告発した、ろう者に対する社会のネガティブな眼差しを、そのまま他の障害者に向けてしまっているとすれば、ろう文化運動は根本的な矛盾を抱えているとも言える。
 また、ろう文化運動は、日本語とは異なる構造を持つ「日本手話」だけを唯一の“民族の言語”として、日本語を話しながら、日本語の語順に合わせて手話単語を表す日本語対応手話を「手話ではない不完全なコミュニケーション手段」だと主張している。111しかし、インテグレーションの経験者や、中途失聴者、難聴者にとっては、日本語対応手話こそが最も使いやすいコミュニケーション手段であることが多いのも事実である。新井は、“本来コミュニケーションは、その当事者どうしにとって適したものかどうかということが最も重要なことであって、それが「言語」であるかどうかの証明を必要とするものではない(中略)にもかかわらず、中途失聴者や難聴者のコミュニケーション手段に対して「言語」かどうかをつき付けて、その不完全さを論じることは、相手に差別的なレッテルを貼る行為にもなる”と述べて、 “「言語」を錦の御旗にして、他者の「コミュニケーション」を評価規定する物言いをすることが、「障害」や「差別」を抱えた現実社会のなかで新たな逆差別をつくる行為である” と手話の違いに基づく中途失聴者や難聴者へのネガティブな眼差しを批判している。112
 もちろん、バイリンガル教育の実践の全てが、こうした危険性を持っているわけではない。しかし、インテグレーションや日本語対応手話による教育などを批判するとき、「民族の言語・文化」が過度に主張されるのはやはり危険である。差異を強調することで、今あるバリアを不問に付し、新たなバリアを作り出してしまうとすれば、共生への道は断たれることになる。
 このように、バイリンガル教育の導入にはさまざまな障壁が存在する。ろう学校の中では未だに口話法の影響力は根強く、またバイリンガル教育に不可欠なろう者教員を増やすことは難しい。また、インテグレーションするろう児の増加によって、ろう学校在籍者は激減している。そして、バイリンガル教育の理念自体も、過度のろうナショナリズムと結びつくことによって、新たな差別やバリアを生みかねないのである。
 ろう学校の教育のあり方を変えていくことももちろん必要である。しかし、こうした状況を解決するためには、ろう教育の主体がろう学校だけでは不十分だと考える。ろう教育に関する充分な情報と選択肢を提供するためにも、ろう学校以外の教育主体に注目する必要があるだろう。その中で、現在注目を集めているのが、デフフリースクールの活動である。


3.デフフリースクールの取り組み

3.1.デフフリースクールとは何か
 ろう教育の改革の必要性が叫ばれながらも、わが国のろう学校は従来の姿勢をなかなか変えることができないでいる。そうした背景には、聴者的な価値観に基づく口話法教育が温存され、インテグレーションの拡大によってろう学校の存在意義が問われるようになり、またバイリンガル教育を主張するろう文化運動そのものの危険性が指摘されている、という状況があった。
 そうした状況の中で、1990年代の後半以降、ろう者によるろう児のためのフリースクールが全国に設立されるようになった。現在は東京、名古屋、京都、大阪、福岡などの大都市圏を中心に約10校のフリースクールが活動している。それぞれのフリースクールはすべて独立した活動を行っており、趣旨や活動内容などに少なからず違いもある。しかし本論文では、こうしたフリースクールが、学校外の教育主体として、ろう者によって自発的に設立されたという属性に注目し、これらを「デフフリースクール」と呼ぶこととする。
 ろう学校が、「聴者による、聾者のための学校」と表現される113のに対して、デフフリースクールは、「ろう者による、ろう児のための学校」であると言えよう。しかし、これらは全国で約800あるとされる、“深刻化した不登校現象に対応するために、不登校の子供を持つ親たちの手で子どもの居場所をつくっていこうという動きからつくられた”114フリースクールとはその目的を異にするものである。デフフリースクールの多くは、1ヶ月に1〜2回集まって活動をするのが基本である。したがって、一般的なフリースクールとは違い、学校の存在を前提とする。また、デフフリースクールはろう児の教科学習を支援するのではない。体験学習を基本とした様々なアクティビティやレクリエーションを活動の中心としている。一般的なフリースクールが学校教育のオルタナティブとして認識されるのに対し、デフフリースクールは学校教育を補完するものであるとも言えるだろう。
 デフフリースクールはコミュニケーションの手段として、手話を用いているが、これは「手話を教える」ことを意味しない。「手話で教える」または「手話で学ぶ」ことが目指されるのであり、いくつかのデフフリースクールでは、その教育目標の中にバイリンガル教育が掲げられている。また、デフフリースクールのスタッフは、20代〜30代のろう者が中心となっている。こうした事実から、デフフリースクールは、従来の地域の聴覚障害者協会を中心とした障害者運動とは一線を画すものであり、90年代以降のろう文化運動の直接または間接的な影響を受けた若い世代のろう者によって始められたものであると考えられる。
 
3.2.「スマイルフリースクール」の活動
 デフフリースクールは実際にどのような活動をしているのか、また、どのような組織のもとで運営されているのかを見るため、本節では、筆者がスタッフとして活動している「スマイルフリースクール」の活動を見ていくことにする。
 スマイルフリースクールは、1997年6月1日にろう児ためのワークショップとして始められ、1999年2月1日に「スマイルフリースクール」として開校された、日本で最初のデフフリースクールである。2003年には5周年を迎え、記念大会が予定されている。

3.2.1スマイルフリースクールの子ども
 スマイルフリースクールには現在、31人の教師・スタッフと54人の生徒が在籍している。生徒は主に東京、神奈川、埼玉、千葉、茨城、山梨から集まるろう児である。生徒は学年ごとに乳児部、幼児部、小学部、中学部、高等部の5つの部に分かれ小学部はさらに低学年と高学年に分かれている。また、生徒の定員は60人に定められている。
 パンフレット115によれば、入学条件は“ろう児、両親兄弟姉妹にろうがいる聴児”である。したがって、CODA116(ろうの両親を持つ聴児)やろう児の兄弟も入学することができる。ろう児にとって、自分の兄弟と手話でコミュニケーションができるようになるのであり、家庭環境の改善にもつながる。現在、スマイルフリースクールには2人の聴児が在籍している。いずれも兄弟にろう児がいるのだが、年令が低いときから手話に接し、家庭でも使う機会が大いにあるため、彼らの手話の能力は非常に高いと言える。
 入学してくる子どもたちのコミュニケーション方法は多様である。ろうの両親を持つ生徒たちは手話を母語として習得することができるが、普通学校にインテグレーションをしている生徒の中には普段手話と接触する機会がない生徒もいる。また、ろう学校に通っていても、手話に柔軟な姿勢の学校か、口話主義の学校かでも生徒たちの方法には違いがある。軽度・中度の難聴児の中には音声でコミュニケーションができる生徒もいるし、人工内耳117の手術を受けている生徒もいる。彼らは、手話だけでなく、口話やキュード、指文字、音声言語対応手話などのさまざまコミュニケーションの方法を持って、入学してくるのである。
 スマイルフリースクールは、彼らの持つさまざまなコミュニケーションの方法を否定しない。しかし、教師やスタッフは生徒へ手話で語りかける。授業も手話で行われるのである。したがって、生徒たちは必然的に手話と接することになる。手話を全く、あるいはほとんど知らないで入学してきた子どもであっても、小学部の生徒と高等部の生徒では違いがあるだろうが、段々と手話に慣れてくる。授業は1ヶ月に1度しかないので、授業の中だけで手話を母語として獲得することは難しいであろうが、しかし、手話を全く知らない、すなわちインテグレーションしているろう児に手話や他のろう児・者との接触の機会を与えることは重要である。インテグレーションしているろう児の中には、高校を卒業するまで、手話の存在さえ知らず、自分以外のろう者に会ったことがないというケースも少なくない。インテグレーションしたろう者が、聴者社会への同化に失敗したとき、聴者とろう者の間で、アイデンティティの確立が困難になるのは先述の通りである。彼らにとって、デフフリースクールは手話とろう文化への窓口として機能すると考えられるのである。

3.2.2.スマイルフリースクールの大人
 スマイルフリースクールの中で、生徒と関わる大人は、教師、スタッフ、ボランティア、講師の4種類の立場に分かれる。教師は実質的な責任者であり、カリキュラムやプログラムを考え、実際に授業を行う。教師になるためには、1年に2回の教師ライセンス試験に合格する必要があり、試験は、筆記、実技、面接によって行われている。一方、スタッフは教師の補助役であり、子どもの誘導や生活などをサポートする。授業を行ったり、プログラムを考えることはないが、スタッフは将来教師になるための見習い的な役割を担っていると考えられる。スタッフになるための試験はないが、1年ごとの登録制となっており、ボランティアとは区別されている。教師とスタッフは1ヶ月に1度、研修会を開き、互いの情報交換と、指導技術や今後の予定などを話し合っている。ボランティアは1回ごとのお手伝いであり、見学などを兼ねている場合もある。講師は、授業内容ごとに招かれる専門家であり、基本的にろう者が招かれている。
 現在のろう学校と比較した時、これだけの数の成人ろう者と接する機会を提供できることは、スマイルフリースクールの大きなメリットとなる。成人ろう者は、ろう児にとっては自らの将来像であり、ロールモデルとして非常に重要である。ろう児達は、成人ろう者との交流を通して、手話を学び、ろう文化を獲得し、それらを自らのアイデンティティとしていくのである。そして、ろうの両親を持つろう児を除けば、ろう学校に通っていようが、普通学校に通っていようがそのような機会を持つことは非常に難しいことである。したがって、ろう児たちにとって成人ろう者との機会は貴重であると言えるが、ここで一つ問題となるのは、ろう児に接する大人たちの教育者としての専門性である。すなわち、学校と異なり、公的な資格があるわけではないので、教師達がろう児と接する上での技術や知識を習得しているかどうかは保障されず、また客観的な評価の基準も持ちにくいであろう。現在のところ、教師・スタッフの資格に関してはスムーズに運営されていると思われるが、資格と研修の両面から、教師・スタッフの専門性を高める努力が必要になるであろう。
 教師・スタッフの多くはろう者であるが、聴者の教師・スタッフも若干名参加している。ただし、手話で最低限のコミュニケーションを取れることが参加の条件となる。ろう児が、単にろう文化を学ぶだけでなく、聴者文化とのバイカルチュラルになることが目指されるとすれば、聴者の教師・スタッフには、聴者としてろう文化を相対化しつつ、聴者文化の体現者として聴者文化を生徒に伝える役割があると言える。

3.2.3.スマイルフリースクールの授業
 スマイルフリースクールの活動は・授業の開講、・教師の養成、・研究、・教材の作成、・カリキュラムの作成、の5つに大別できる。118この中で、スマイルフリースクールの中心的な活動となるのが、・の授業の開講である。毎月1〜2回週末に東京・神奈川の青年の家や少年の家などに集まり、様々な授業が行われている。2002年度の授業のテーマは「交流・メディア」「筋肉番付」「ウォーターワールド」「夢の手作りスポーツ祭」「スマイルアドベンチャー大作戦」「クッキング」「日本・世界の旅」「伝統工芸」「ファッションと演劇」「文化と未来」「恋愛といのち」「スキー旅行」であり、内容は多岐に渡っている。このうち、「スマイルアドベンチャー(伊豆大島でのキャンプ)」と「スキー旅行」は2泊で行われた。
 授業には、大きく分けて宿泊授業と日帰り授業がある。スケジュールや授業のテーマによって、日帰りか宿泊かが決められているが、基本的には宿泊授業である。2002年度において日帰り授業が行われたのは「筋肉番付」と「夢の手作りスポーツ祭」の2回であった。
 これら授業の教育方針はどのように設定されているのだろうか。公式WEBページ119には、授業の目的として、
 ・子どもの持つ様々な力を育てる
 ・育った力を磨いて発揮させる
 ・ルールやマナーを学ぶ
 ・ろうの大人のモデルと触れ合う
 ・さまざまな体験をさせる
 ・学力を育てる
 ・幅広い知識を学ぶ
 ・生活を学ぶ
 ・自分の考えや思いを主張させる
 ・夢を見つけふくらませる
の10項目が挙げられている。
 また、業の時間割は日帰り授業と宿泊授業で異なるが、基本的に以下の表1から表3のようになっている。120(ただし、これは目安としてのスケジュールであり、毎回この通りに行われているわけではない。)

 表1:日帰り授業の時間割
 9:00〜      ホームルーム
 9:30〜12:00 授業
12:00〜13:00 昼食
13:00〜15:00 授業
15:00〜15:30 ホームルーム
15:30〜      生徒解散 教師&スタッフミーティング

 表2:宿泊授業1日目
13:00〜      ホームルーム
13:30〜17:00 授業
17:00〜18:00 入浴、自由時間
18:00〜19:00 夕食
19:00〜21:00 授業
22:00〜      就寝

 表3:宿泊授業2日目
 6:00〜      起床
 7:00〜 8:00 朝食
 8:00〜 9:00 片づけ、掃除
 9:00〜11:30 授業
11:30〜12:00 ホームルーム
12:00〜      生徒解散、教師&スタッフミーティング

 実際の授業の形式としては生徒全員で1つのことを学ぶ全体授業と、それぞれの部(乳児部から高等部まで)に分かれて行う部別授業がある。
 全体として、日常生活が重視されている点が特徴であると言えよう。そして、宿泊の部屋は基本的に縦割りであり小学部から高等部までの生徒が一緒の部屋に泊まる。したがって、実際に小学部の生徒の面倒を高等部の生徒が見ることが多い。これは、小学部の生徒にとっても、高等部の生徒にとっても有益であると考えられる。小学部の生徒は単なるイベントではなく、寝食を共にする中で、上の世代の価値観を吸収し、人格を形成していく。これらが幅広い人間関係の中で行われるということも、大きな意味を持っているだろう。また、高等部生徒にとっても、小学部の生徒の世話をする経験は、有益であると考えられるし、将来の教師・スタッフの養成という観点からも大切なことであると考えられる。
 毎回の授業には、保護者も参加可能であり、毎回就寝後には、教師・スタッフと保護者との交流会がもたれている。また、この時間を利用して、保護者への手話講習会を行うこともある。いずれも、保護者にさまざまな情報を提供し、ろう児との関わり方やコミュニケーションの方法について、成人ろう者から学べるという点で重要である。また、入学時には連絡ノートが配布され、保護者と担任教師との情報の共有を図ったり、子育ての相談などができるシステムになっている。

3.2.4.スマイルフリースクールの運営
 スマイルフリースクールは、非営利団体として活動している。そのため、生徒が支払うのは1年間の事務・教材費の25,000円と各授業の際の実費だけである。教師やスタッフ、ボランティアも各授業の実費を負担して参加している。
 運営にあたっては、各教師が事務を分担して行っているが、ほとんどの教師は社会人であるため、なかなか時間を割くことができないことも多い。スマイルフリースクールには保護者の会である「おひさま」があり、施設との交渉などを教師と連携して行うなど、さまざまな支援を行っている。

3.3.バイリンガル教育とデフフリースクール
 以上のようなデフフリースクールの活動は、ろう児のバイリンガル教育の場として大きな意義を持つと考えられる。第2章において、現在のろう学校制度の中で、バイリンガル教育が導入されにくい背景として、・ろう学校の中の口話法を擁護するシステム、・成人ろう者の不足、・インテグレーションの増加、・ろうナショナリズムの持つ危険性、の4点を指摘した。デフフリースクールはこれらの問題点への1つの解決策になると考えられる。 

3.3.1.口話法を擁護するシステムに対して
 口話法を擁護するシステムに関しては、デフフリースクールは手話を基本に教育しているので口話法に悩まされる心配はない。むしろ、デフフリースクールの活動は、金沢の述べるように、ろう学校の固定的な価値観を相対化し、ろう学校のあり方を変えていく可能性を持っているといえる。121

“これまでは、親にとって唯一の情報源が聾学校であった。しかしこれからは情報源も多様化するし、選択肢も多様化する。フリースクールで成人聾者に子どもを託し、親もまた手話のスキルが磨かれ、そしてその子どもが(手話を用いて教育する学校が少ない以上)聴覚口話法の学校に通う、という図式が頻繁に見られるようになる。そうすると、親の注文も厳しくなる。専門家としての教員が、情報に遅れていると、親の信頼が揺らいでいく。”

 デフフリースクールがろう児の親への新たな情報源となることの意味は大きい。第2章で検討したように、口話法がさまざまレトリックによって擁護されたことの原因の1つは親の側の情報の不足であった。しかし、近年のインターネットの普及によって、親同士のネットワークが生まれ、情報が幅広く伝わるようになった。スマイルフリースクールの「おひさま」などの保護者の活動も1つのネットワークと考えられる。そうしたネットワークの中で、デフフリースクールがろう教育の主体としてさまざまな情報を提供できるようになってきているのである。
 また、親にとって重要であると考えられるのは、親と成人ろう者との交流である。これまでの口話法によるろう教育が、まさに「親の願い」によって支えられてきたという側面は否定できない。親が持つ「ろう」への否定的な感情こそ、口話をその限界を指摘されながらも生き長らえさせてきたものであった。そして、そうした感情を持つ親のほとんどは、成人ろう者との交流の機会を持たなかったのである。しかし、現実には、多くのろう者が「ろう」であることにアイデンティティを持ち、仕事や家庭を持って、ごく普通に生活しているのであり、彼らにとって手話やろう文化はかけがえのないものである。そういうろう者の現実に目を向けてこなかった親たちに、デフフリースクールを通して成人ろう者との交流の場が与えられることで、彼らの否定的な「ろう」への感情を拭い去ることができると考えられる。
 そして、そうした親の変化と同時に、ろう学校教員にも変化が起こっている。近年は手話への柔軟な姿勢を示すろう学校が増えているし、手話を積極的に導入しようとしているろう学校も出てきている。そして、手話を導入しようとするろう学校にとって、参考になるのがデフフリースクールでの先駆的な実践なのである。実際、ろう学校教員の研究会やろう教育のシンポジウムにおいて、デフフリースクールの活動が紹介されているし、ろう学校と提携して教材を作成する実践なども報告されている。122このことは、デフフリースクールが、体験活動やロールモデルの提示など、ろう学校を補完するだけでなく、ろう学校を変革していく主体にもなりうることを示しているといえるだろう。

3.3.2.ろう児と成人ろう者の交流
 ろう学校でのバイリンガル教育が困難であるのは、バイリンガル教育に不可欠な、成人ろう者の不足であった。現行の制度のもとでは、教員採用試験に多くのろう者が合格し、各ろう学校に十分な数のろう者教員が配属されるということは、まず考えにくい。
 しかし、デフフリースクールであれば、ろう児に成人ろう者と接する機会を容易に与えることができる。特に、それが、継続的に、生活を共にする中で達成されるという点は重要であろう。成人ろう者は、ろう児とのコミュニケーションに優れ、また、ろう児として育った経験から、ろう児の気持ちや状況を把握しやすいと考えられるのである。
 もちろん、先述の通り、専門性をどう確保するか、という問題は残る。スマイルフリースクールにおいても、教師とスタッフを区別し、資格付与に際しては試験を課し、また毎月の研究会の開催するなど、専門性を高める様々な努力がなされていた。とはいえ、過度に専門性を追求することには、デフフリースクールの持つ自由や自発性を損ない、教育の硬直化を招く危険性も考えられよう。ボランタリーな活動の中で、専門性をどのように位置付け、バランスを取っていくかが、今後の課題であるといえる。

3.3.3.インテグレーションへの対応
 現在、、ろう児の普通学校へのインテグレーションが増加し、ろう文化の再生産装置としてのろう学校の存在意義が問われていることはすでに述べた。また、インテグレーションのメリットが数多くある反面、インテグレーションの結果として、十分なコミュニケーション環境が与えられず、人間関係がうまく作れなかったり、アイデンティティを確立できないなど、さまざまな問題点が指摘されることも少なくない。
 先述の通り、スマイルフリースクールには、インテグレーションをしている生徒も数多く在籍している。インテグレーションをしている生徒にとって、同じ「ろう」の仲間を作ることができ、デフコミュニティと接する機会があることは、意味のあることである。インテグレーションの経験者は聴者への同化傾向を示す場合が少なくないため、手話もろう文化も知らずに成長し、手話やろう文化に否定的な感情を持つことも少なくない。結果として、ろう者と難聴者の対立が生まれることもある。しかし、たとえ、将来的にデフコミュニティの成員にならないとしても、子どもの時からデフコミュニティとの接点を持つことで、そういった対立を減らすことができるのではないだろうか。そして、デフフリースクールを通じて、手話を獲得し、積極的にデフコミュニティの中へ入っていく子どももいるであろう。そうすれば、ろう文化の存続にデフフリースクールが果たす役割は非常に大きいものになる。
 また、デフフリースクールで手話を通じたコミュニケーションを経験することで、インテグレーションに不満を持ち、ろう学校へと転校する例も報告されている。123これも、デフフリースクールの情報提供の一つと考えられるであろう。インテグレーションをしている子どもにもオルタナティブを提示することで、ろう児や両親の選択の幅を広げていくことができるのである。もちろん、ろう学校に通っていた子どもが、デフフリースクールでの経験をきっかけに、インテグレーションを始める例も考えられよう。いずれにせよ、デフフリースクールの活動が、これまでその閉鎖性のゆえに、価値観や選択肢の固定化を招いていたろう教育の風通しをよくしている例として評価できると考える。

3.3.4.ろうナショナリズムへの批判に対して
 第2章で提示した、バイリンガル教育の4点目の課題は、ろう者がカルチュラルアイデンティティをたち上げ、聴者や他の障害者との差異を強調することが、新たな差別を生み出す危険性を孕んでしまうことであった。インテグレーションを否定し、バイリンガル教育を主張することの背景には、近年のろう文化運動の流れがあるのは確かであり、そうした主張が安易に普遍化されることには慎重であるべきであろう。
 デフフリースクールの活動も、ろう文化運動の影響を少なからず受けていることはすでに指摘した。それでは、デフフリースクールの活動には、新たな差別や抑圧に結びつく可能性があるのだろうか。
 カルチュラルアイデンティティの立ち上げが、差別や抑圧と結びつくのは、そうした主張がある種の強制力を持つときであると考えられる。すなわち、たとえそれまでの被抑圧的な状況を背景に持つとはいえ、「ろう児はかならずろう学校へ進学するべきである」とか、「日本語対応手話ではなく、日本手話のみを使うべきだ」といった主張は、強い政治性を帯びており、必然的に様々な対立を生むことになる。そして、ろうナショナリズムへの批判の多くは、政治性を帯びたこのような主張が、安易に普遍化されて語られたことに向けられていたのだ考えられる。
 デフフリースクールの活動は、それ自体確かに政治性を持った活動ではあるが、その強制力は極めて小さいと言えるだろう。ろう学校であれ普通学校であれ、公教育の場での教育は強制力を伴うものであるが、ボランタリーな教育主体であるデフフリースクールは、生徒の側に参加/不参加の選択が委ねられている。また、学校教育の存在を前提にした上での付加的な教育活動であるから、生徒がどこの学校に行っているとしても、そこでの教育を否定するものではない。したがって、ろう文化運動の影響を受けていたとしても、デフフリースクールの活動が新たな差別や抑圧を生み出す危険性は小さいと考えられるのである。

 このように、デフフリースクールは、第2章で検討したバイリンガル教育の課題を、全て乗り越えることが可能である。したがって、ろう教育にバイリンガル教育を導入するにあたっては、デフフリースクールでの実践が大きな効果を持つと考えられる。また、それだけでなく、多くの人間関係を築き、様々な体験をすることで、ろう児の健やかな人格形成を促すこともできるであろう。

3.4.社会教育の主体としてのデフフリースクール
 ところで、社会教育法第2条によれば、社会教育とは、“学校教育法に基き、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーションの活動を含む)”と規定され、デフフリースクールの活動も、社会教育の1つであると言える。
 バイリンガル教育の導入におけるデフフリースクールの活動の意義について検討してきたが、こうした活動が大きな可能性を持っているのは、デフフリースクールの社会教育の主体としての特性によるところが大きいと言えるのではないだろうか。
 第一に、デフフリースクールは、学校教育ではできない様々な教育を子どもに提供することができる。ろう学校の生徒にはバイリンガル教育を実践し、インテグレーションしている生徒に対しても手話との接点を提供することできる。教科学習ではなく、さまざまな生活体験や世代を超えた交流を提供することも、学校教育(ろう学校であれ、普通学校であれ)には困難なことであろう。これまでろう教育の課題とされてきたことの多くは、こうした活動で解決に近づくことができるのではないだろうか。もちろん、これらは学校教育を否定するものではなく、学校教育を前提とするものであるから、ろう学校などとデフフリースクールがどのように連携していくかが今後の課題となるであろう。
 次に、デフフリースクールは学校教育を補完するだけでなく、変革する可能性も持っている。先述のようにデフフリースクールの実践が広がることで、親の意識も変化し、それに伴ってろう学校のあり方も変わりつつあるのである。また、デフフリースクールの実践をもとにして、ろう教育の講演会やろう学校教員の研修会も開かれるようになっている。既存の学校教育のシステムを変えるような、先駆的で自由な実践を行うことができるのも社会教育の分野の特性であり、デフフリースクールはこうした特性をうまく活用していると言える。ろう児だけでなく、ろう児の親やろう学校の教員もデフフリースクールを通して多くの学習をしていることが、こうした変革の推進力となっているのだと考えられる。また、教師やスタッフも、ボランタリーな活動を行う中で、お互いに高め合い、多くのことを学んでいる。特に聴者の教師やスタッフにとっては、ろう文化の中で活動を行うことは、自らの文化を相対化することになり、意義深いものだと考えられる。
 しかし、デフフリースクールの社会教育の主体としての意義はそれにとどまらないといえる。筆者がさらに重要だと考えるのは、デフフリースクールは、社会教育の主体であるがゆえに、ろう教育の内部の対立に縛られずにいられるということである。すなわち、手話か口話か、日本手話か日本語対応手話か、普通学校かろう学校か、これまでのろう教育はこうした形式や方法論の争いばかりに終始し、肝心のろう児のことが抜け落ちてしまっていたのではないだろうか。近年では手話の導入の必要性が叫ばれ、大きな流れとなりつつあるが、それでも手話の種類の問題やろうナショナリズムをめぐる問題など、争いの火種は数多く残っている。こうした背景には、これまでの議論が学校教育に関することだけに集中し、ろう児やその親は常に「AかBか」の二者択一を常に迫られていたことがあるのではないだろうか。しかし、ろう児や親のニーズは多様である。不毛な二元論を脱し、より多くの情報と選択肢が与えられる中で、ろう児の側がそれらを比べたり、組み合わせたり、検討したりしながら自分にあった教育を選択できる環境をつくっていくことが求められているといえる。そのようなとき、新しい教育の主体として登場するのが、デフフリースクールのようなボランタリーな社会教育の主体であろう。今日のろう教育にとって、社会教育における自由で自発的な活動が、大きな可能性を持っていると考えられるのである。

4.社会教育と多文化主義

4.1.デフフリースクールとマイノリティとしてのろう者
 デフフリースクールは、バイリンガル教育を通して学校教育を補完し、変革しうる存在である。そして、デフフリースクールの活動が様々な可能性を持つのは、社会教育の主体として、政治的な論争に縛られることなく、自由な教育活動を展開できることに起因していると考えられる。
 ここで、再び“「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である」”124という定義に注目したい。斉藤は、アメリカのろう文化について次のように述べている。125

“ろう者は、ユダヤ人Jewやネイティブ・アメリカンのナバホNavajoと同じように、アメリカ社会の中で「少数民族」としての地位を獲得しつつあるといえるだろう。アメリカのろう者が、「私はデフだ」126というとき、そこには「私は“デフ族”の一員だ」といっているかのような響きがあり、その響きのなかには多くの場合ろう者としての自信と誇りがこめられている。(中略)アメリカで、日本で、中国で、ろう者はそれぞれの社会の音声言語、たとえば英語、日本語、中国語にとりかこまれていながら、自分たち自身の固有の言語としてのアメリカ手話、日本手話、あるいは中国手話を作りだし、またその言葉を伝えながら、ろう文化とよばれる独自の文化を形成してきたのである。”

ここでは、ろう者は一つのエスニックマイノリティとして捉えられている。127このように考えた場合、バイリンガル教育はろう文化の再生産のための教育ということになる。1960年のユネスコ「教育における差別を禁止する条約」第5条によれば、“「国内の民族的少数者に属する者が、自己の教育活動(学校の維持、及び、各国の教育政策のいかんによるが、自己の言語の使用又は教授を含む)を行う権利を承認することが肝要であること」”と定められている。128デフフリースクールの活動は、ここに定められているようなマイノリティの自文化教育活動として捉えることができるのではないだろうか。
 したがって、ろう教育は今後、多文化教育の文脈で検討される必要があるだろう。急速なグローバル化の中で、マイノリティの言語と文化をめぐる問題が深刻化しつつある。そして、こうした多文化社会をめぐる議論の中で、教育は常に論争的である。ろう教育におけるデフフリースクールの活動は、多文化社会の教育にとってどのような意味を持つのだろうか。

4.2.多文化主義における対立軸
 第二次大戦後、世界的な人権意識の高まりの中で、それぞれの国々の中の異質な文化を持ったマイノリティと呼ばれている人々の存在が認識されるようになる。129それ以前は、社会の中で隔離、排除され、平等な市民権さえ持ち得なかったのであるから、彼らの存在が認識され、新たな市民として登場したことは画期的なことであったと言える。そして、1948年には「世界人権宣言」、1966には「国際人権規約」が定められ、マイノリティの存在が認識されると主に、彼らの人権をどのように保障していくかが、国際的なテーマとなっていった。その後、マイノリティの概念は民族や人種を超えて、ジェンダーや階層、障害、年齢、セクシャリティなどにも広がっていく。130

4.2.1.同化主義への反発
 様々なマイノリティが存在する社会において、最初に考えられたのは、全てのマイノリティをマジョリティへと同化させることであった。アメリカでは、「人種のるつぼ」という言葉のもとで、“個々人の文化の相違を認め合わず”に、全ての“アメリカ人がアングロサクソン的な価値観へと一元化”されることが目指された。131ここでは、「るつぼ」が“全ての人種の融合したものから、アングロサクソン人種へとすり替え”られており、そのため、レーシズムとそれに基づく差別を内包した考え方となっている。ここでは、文化間の差異は無視され、差別を受けているマイノリティの立場は固定化されてしまう。132こうした中で、文化的な差異を認めた上で、各々の文化の共生を目指す多文化主義が登場する。

4.2.2.二つの方向性
 津田は、Gordonの分類を紹介しながら、多文化主義における「リベラル多文化主義」と「コーポレイト多文化主義」の対立を整理している。133多文化の共生を目指す多文化主義は1980年代以降、二つの異なる立場に分かれ対立するようになったのである。「リベラル多文化主義」とは“人種的、宗教的、言語的ないし民族的な起源を持った集団を、特定の型の人種基準を用いて、法律ないし、政治的な面で差別することを禁止”する考え方であり、一方の「コーポレイト多文化主義」とは“人種、民族の独自性を認めつつも、人間として一人ひとりを考えることを求め”る考え方であるとされている。134
 Taylorはこうした対立を、社会的な承認という観点から、「平等な尊厳をめぐる政治」と「差異をめぐる政治」として、説明している。135

“平等な尊厳をめぐる政治においては、実現されるものは普遍的に同一なものと想定されている。すなわちそれは諸権利と諸特典の同一の組み合わせである。差異をめぐる政治においては、我々が認めることを求められるのは、ある個人や集団の独自のアイデンティティ、すなわち、他の全ての人々からの区別なのである。まさにこの区別こそが無視され、曲解され、支配的なあるいは多数派のアイデンティティへ同化されてきたというのが、その思想である。”

ここでの「平等な尊厳をめぐる政治」、「差異をめぐる政治」はそれぞれGordonの「リベラル多文化主義」と「コーポレイト多文化主義」と対応している。ここで問題となっているのは、個人的なアイデンティティと集団的なアイデンティティの区別である。すなわち、個人的なアイデンティティを最も重視する自由主義の立場から言えば、集団的なアイデンティティの主張は、新たな差別を生み出すものに他ならない。しかし、集団的なアイデンティティを重視する立場にとって、各個人に平等な尊厳を与えることは、新たな同化を生み出す危険性があるのである。
 Rockefellerは自由主義の立場から、差異をめぐる政治すなわち「コーポレイト多文化主義」を批判している。Rockefellerは“第二義的なものにすぎない民族的アイデンティティを、重要性という点において、個人の普遍的なアイデンティティと同等の地位、あるいはそれ以上にまで高めることは自由主義の基礎を弱め、不寛容への扉を開くことになるのである”として、“民族的アイデンティティを普遍的な人間としてのアイデンティティよりも優先する分離主義の精神からは、基本的人権を徐々に崩していく危険が生まれるのではないか”と、個人の諸権利が侵害されることを危惧している。136
 一方、Taylorは個人を重視する自由主義的な主張が、結果的に同化主義に陥ってしまうプロセスを説明している。Taylorによれば、“平等な尊厳をめぐる政治の、差異を顧慮しない中立的な一連の諸原則なるものは、実際には、一つの支配的な文化の反映である。そうであるとすれば、少数派のあるいは抑圧された諸文化のみが、自己疎外の形態をとることを強制されていることが分かるのである。この結果、公平で差異を顧慮しないと想定された社会は非人間的である(アイデンティティを抑圧するから)ばかりでなく、潜行的で無意識な形において、それ自体きわめて差別的なのである”という。137
 しかし、Taylorは差異をめぐる政治についても、“価値についての好意的な判断を断固して要求することは、逆説的にー悲劇というべきかもしれないがー同質化を強いるものである”として、差異をめぐる政治も結果的に同化的な側面を持つという矛盾を指摘している。138
 Taylorは多文化主義をめぐるこのような状況を次のようにまとめている。139

“このようにして、これら二つの政治の形態は、ともに平等な尊敬の観念に基づきながら、対立するに至る。一方にとっては、平等な尊敬の原則は、我々が差異を顧慮しない仕方で人々を扱うことを要求する。(中略)他方においては、我々は特殊性を認め、さらに涵養しなければならない。前者が後者にて対して行う非難は、まさに後者が不差別の原則を侵害するというものである。後者が前者に対して行う非難は、前者が人々を、彼らにとって非本来的な、均質な鋳型へと押し込めることにより、アイデンティティを否定するというものである。”

このように、人種主義的で差別的な同化を克服するという目的を共有しながらも、「リベラル多文化主義」と「コーポレイト多文化主義」は、全く異なる結論を導き出すのである。そして、こうした対立は、言語と文化の再生産に関わる教育をめぐる問題において、最も深刻なものとなる。
 また、同化主義も消滅したわけではない。Toddはフランスの移民を例に同化主義の復権を訴えている。Toddによれば、フランスにおける“イデオロギーと政治の幹部層による差異の賛美は、同化の進行を止めることも、その速度を鈍らせることもできなかった”のであり、むしろ“移民と受け入れ社会の両方の関係者の苦痛を一層激化させ”る結果となったという。140なぜなら、“エリート層がフランス文化への賛同を移民の子供に与えられた目標として提示することをやめてしまったため、民衆階層は自分のことを、万人に開かれた、疑問の余地のない内在的な価値を有する文化を、気前よく分け与える者だと考えることができなくなってしまい、その結果、民衆階層の中に不安な状態が広がる条件を醸成してしまった”からである。141そして、“移民の将来とは多数派の習俗に同調することでしかあり得ないということを、堂々と言い切ることができないからこそ、受け入れ住民の不安が掻きたてられるのだ。”として、“開かれた同化主義こそが、(中略)多くの移民集団が最大の効率性を持って適応の過程に向かうことを可能にするだろう”と述べている。142したがって、中心的な対立軸は「リベラル多文化主義」と「コーポレイト多文化主義」の間にシフトしてきているとはいえ、同化を理想と考えるものも数多くいるのが現状である。

4.2.3.ろう教育史における対立との類似
 以上の多文化主義をめぐる議論は、わが国のろう教育史においても、多くの共通項を持っている。
 口話法以前のろう教育においては、「ろう児達は聴児と平等に扱われるべき」とさえ考えられていなかったので、普通の学校に通うということはありえなかった。平等な存在だと思われなかったからこそ、逆説的に手話の使用が認められていたのである。こうしたろう児の状況は、市民権が与えられず、隔離・排除の対象であった第二次大戦以前のマイノリティの状況と同じである。
 戦後広まった口話法では、音声言語だけを言語と見なし、「しゃべれるようになること」が常に目指された。最終的には「聴者になること(聴者のようにしゃべれること)」が目指されたのであり、同化主義に基づくものであると言える。そして、結果的に口話法は手話とろう文化の否定という差別を内包していた点も同化主義の特徴の一つであろう。ただし、口話法は、ろう学校において展開されたのであるから、隔離された上での同化であったと言える。
 そして、世界的に多文化主義の必要性が叫ばれ、「リベラル多文化主義」と「コーポレイト多文化主義」の対立構図が生まれるのと時を同じくして、ろう教育にも二つの新たな方向性が登場する。一つは従来の分離教育を差別に基づく隔離であるとして登場するインテグレーションの流れであり、もう一つは、ろう文化運動から派生したバイリンガル教育の流れである。インテグレーションとバイリンガル教育の主張は対立しており、この対立軸は「リベラル多文化主義」と「コーポレイト多文化主義」の対立軸と極めて類似している。
 インテグレーションの立場は、聴児もろう児も同じ学校で同じカリキュラムで学ぶことこそ平等であると考える。したがって、ろう学校における分離教育は、ろう児が聴児と同じ教育を受ける権利を侵害していると捉えられるのである。これは、個人の普遍的な権利を守ろうとするものであり、各人に平等な尊厳を与える「リベラル多文化主義」の立場であると考えられる。しかし、第2章で検討したとおり、インテグレーションはろう学校での口話法以上に同化を強いるものであると考えるデフコミュニティから、強い反発を招いているのである。
 一方、バイリンガル教育は分離教育を志向する。バイリンガル教育では、まず手話の獲得が目指され、子どもたちには「ろう」としてのアイデンティティを獲得することが目指されるのであるから、聴者との差異を明確にしており、「コーポレイト多文化主義」の立場であると考えられる。しかし、分離教育は、たとえ積極的に目指されるものであったとしても、結果的に聴者による隔離・排除と変わらないものとなってしまい、差別や抑圧を温存してしまう危険性がある。また、文化の存続を求めるあまり「ろう児はろう学校へ行くべき」という主張がなされることは、かえって同質化を強いるものであるだけでなく、ろう学校に行かなかった人に対して否定的なレッテルを貼り付けることにもなってしまうのである。
 現在のろう教育は、口話とインテグレーションとバイリンガル教育が混在しており、それぞれに対立した状態であると言える。近年では、口話法の問題点が叫ばれる中で、インテグレーションとバイリンガル教育の対立がさらに深刻化している。こうした状況は、多文化主義における、同化主義、「リベラル多文化主義」、「コーポレイト多文化主義」の関係に極めて類似していると考えられる。

4.2.4.学校教育の限界
 多文化主義をめぐる対立は、必然的に多文化教育における対立を生み出すことになる。中島は“多文化教育は、国によって事情がことなるばかりか、研究者や実践家にとってもその目的が、異文化理解や偏見の除去から社会再建へのコミットメントまで多様”であり、“理論、政策、実態、実践、運動のあいだの整合性は見つけにくく、それらが混同されると建設的な論語となりにくい”点を指摘している。143
 現時点で、多文化主義をめぐる議論の中から一つの立場を選択し、それに基づいて新たな多文化教育のモデルを作りあげるのは困難であろう。どの立場においても欠点を指摘できるだけでなく、議論自体が極めて政治的なものとなっているからである。
 津田は、McLaren、Wieviorka、Taylorの議論を整理しながら、「リベラル多文化主義」と「コーポレイト多文化主義」の対立図式を超える新しい多文化主義を模索している。144しかし、どのような結論にせよ、最終的に一つの立場が示される以上、その立場は極めて政治的であり、対立を超えることはできないのではないだろうか。
 このような状況において、デフフリースクールの活動は、非常に示唆的である。デフフリースクールは私的な社会教育の主体であるため、学校教育以外に、第二、三の教育を行うことができる。そのため、ろう児に二者択一および三者択一を迫ることなく、選択の幅を広くすることを可能にした。ここに、議論が常に政治性を帯びる多文化主義をめぐる議論の中で、政治的な対立を超える可能性があるのではないだろうか。すなわち、これまでの多文化教育の議論は、学校教育の議論だけに終始してきた。145多文化社会において、教育のあり方を一つに定めるのには限界があろう。様々な教育モデルの中から、「教育モデルのるつぼ」を作り出そうとすること自体が多文化主義と相容れないのである。政治的な対立を超えるためには、様々な教育モデルがお互いの差異を認めた上で、共生していくことが求められるであろう。
 その時、社会教育の持つ意義が見直されなくてはならないだろう。すなわち、社会教育の分野で様々なマイノリティのための教育が、マイノリティ自身の手で行われることによって、学校教育をめぐる対立を相対的にやわらげ、それぞれの集団的なアイデンティティを保持しつつ共存することができるのではないだろうか。また、このような教育は、マイノリティ自身によって行われることが重要であろう。マイノリティへの公的な教育活動を整備することも重要ではあるが、ここでは「同化としての社会教育」よりも「異化としての社会教育」が目指されているのであるから、マイノリティ自身のボランタリーな教育活動が、今後注目されてよいであろう。

4.3.イギリスにおけるイスラムの自文化教育活動
 マイノリティ自身のボランタリーな教育活動は、デフフリースクール以外にも見ることができる。特に、イギリスのアジア系住民のためのサプリメンタリー・スクール(補助学校)やコンプリメンタリー・スクール(補習校)での実践は、イスラムの独立学校やイギリスの普通学校との関係において注目に値する。
 イギリスでは、第二次大戦後アジア系移民が急増した。特にアジア系住民の多い地域では、多文化教育を重視した教育政策も進められているが、“既存の学校だけでマイノリティ住民の要望をとても満足させることはできない”ため、正規の学校とは別のサプリメンタリー・スクールの活動が始められることになる。146子どもたちは、“日中、正規の学校を終えたあと、近所の補助学校で母語や母文化を習う”のである。147
 佐久間は、イスラム系住民がサプリメンタリー・スクールを必要とする理由を三つにまとめている。佐久間によれば、・“自国の言語、文化、宗教を習得させたいとする親の要求”、・“自分たちと同じ民族の教師によって母国語を教えて欲しいという要望”、・“キリスト教主義に基づく教育への反発”の三つが主な原因であるという。148すなわち、“イギリスの学校でもイスラームについては、多くの宗教の一つとして教えるが、ムスリムにとってのイスラームとは、多くの宗教のなかの一つなどでは断じてない”ため、親にとっては“カリキュラムの一部としてイスラームを紹介するのとムスリムの原理にもとづいて教育する”のとは全く異なるのである。149したがって、“生活の原理としてのイスラーム”150を要求する親たちにとっては、サプリメンタリー・スクールでの教育は非常に重要になる。
 近年では、“滞在の長期化と二世・三世の台頭が教育の重心をイギリスへと移動させ、母文化を尊重しつつも白人と対等な学力養成を目標とするように”なってきている。151そのため、“通常、土曜日や夏期休暇に地域の学校の教室を借りて、同じエスニシティの教師や教師としての有資格者が、英語、数学、科学、コンピューターなどの重要な科目の補習をする”、コンプリメンタリー・スクールの活動が広がっている。152“サプリメンタリー・スクールが、地域のモスクなどを利用した母語・母文化の教育に主眼がある”のに対し、“コンプリメンタリー・スクールはイギリスの学校で重視される「中核科目」の教授を目的としている”という点で特徴がある。153
 こうして、ムスリム自身の手による教育活動が軌道に乗ると、次にムスリム達はイスラムの独立学校(イスラーム・スクール)設立を要求するようになった。イスラムの教育とイギリスの教育は、言語だけでなく、食事、祈祷や性意識などいたるところで対立するため、いじめなどの問題も深刻化しているのである。そのため、イスラムのための学校の設置が求められたのである。154
 しかし、“これに対してイギリスの教育界は、(中略)多民族教育を実現するには、独立学校という名の人種隔離学校はかえってマイナスとみて”、これを許可しなかった。1551985年に出された「スワン・リポート」では、“このような要求が後を絶たないのは、結局自分達の共同体を維持するために都合のいい子どもを育てたいからであること、その意味で子どもたちから相手国の文化を学ぶチャンスを奪っていること、真の意味での民族の融合なり連帯は様々な異質な人々が学ぶなかで得られるものであること”が強調されている。156ここにも、「リベラル多文化主義」と「コーポレイト多文化主義」の対立構図を見ることができるだろう。
 イギリスにおいて、イスラーム・スクールの設立が初めて認可されたのは、1997年に労働党が政権の座についた直後のことである。157これにより、ムスリム達は、ナショナル・カリキュラム等の遵守を条件に、自分たちの独立学校を持つに至った。オランダなどでは、1980年代からイスラーム・スクールが認可されていたことを考えると、“イギリスの対応はやや遅きに失するとも思えるが、キリスト教を国教としている国がナショナル・カリキュラムの遵守と引き換えにイスラーム・スクールの統合へと踏み出した意味は大きい”と考えられるだろう。158
 「コーポレイト多文化主義」の立場からいえば、マイノリティがそれぞれに独立学校を持つことは自然なことであると言えるだろう。ただし、独立学校はマジョリティとの差異を深めるものであり、同化主義者からの反発も考えられる。しかし、白人とムスリムなど、生活原理の全く異なる集団が学校生活を共にすることは非常に困難であるから、独立学校の設置を認めないことは、マイノリティの言語や文化を奪い取る行為に他ならない。
 しかし、たとえイスラーム・スクールが公式に認可されたとしても、全てのムスリムが自分の子どもをイスラーム・スクールに入学させるわけではないだろう。文化の存続を主張するあまり、「全てのムスリムの子どもはイスラーム・スクールに入学するべき」と考えるのは、新たな同化主義になりかねない。強制力をもってイスラーム・スクールに入学させることはできない以上、また、将来的にイスラーム・スクールへの入学を促すためにも、普通学校に通う生徒に、サプリメンタリー・スクールやコンプリメンタリー・スクールの意義が失われることはなく、むしろ大きくなるであろう。
 ここにも、二元論を乗り越えるという社会教育の意義を見ることができる。そして、こうした教育活動が学校教育を補完・変革する中に、多文化共生が実現する可能性があるのではないだろうか。そのためには、様々な社会教育の主体が、多種多様な教育活動を自由に展開していくことが重要になるだろう。その意味で、サプリメンタリー・スクールやコンプリメンタリースクールなどの様々な特徴を持った教育活動の登場は注目に値する。
 
4.4.多文化共生社会の社会教育
 このように、デフフリースクールの活動は、ろう教育だけに限らず、多文化教育にも応用できるものである。
 近年、わが国においても、「内なる国際化」が叫ばれている。法務省の2001年の調査によれば、国内の外国人登録者は177万人で、今後さらに増えることが予想されているが、一方で子どもの未就学や日本人とのトラブルなど、新たな問題も発生している。159国内におけるマイノリティの問題への対応は急務であるにも関わらず、“彼らの生活環境整備に対する政府の対応は鈍い”のが現状である。160今後、わが国でも多文化教育的な視点がさらに求められていかなければならない。今後、多文化教育において、社会教育の分野をどのように活用していくかが、重要となるであろう。
 もちろん、社会教育とは、教育の一つの形式に他ならないから、専門性や内容が軽視されてはならない。社会教育活動の意義を認めた上で、どのように教育の質を高めていくか、また、どのような教育内容を提供していくのかが問われなくてはならないだろう。
 さらに、社会教育に注目する場合、学校教育との関係が重要となる。青少年教育に話を限れば、学校教育を前提として、補完と変革の両方を視野に入れていくことが必要であろう。

おわりに

 これまでの多文化教育をめぐる議論は、学校教育をどのように行うかに集中しすぎていたのではないだろうか。社会教育は学校教育を補完するためのものと考えられ、学校についていけない子どもたちをどのように学校に適応させるかが、中心的な課題であり続けた。
 もちろん、そのような活動の意義が失われることはなく、今後も今以上の支援がなされる必要があるだろう。しかし、そのような活動だけでは、異文化集団としてのマイノリティへの教育活動として充分であるとは言えない。161まず、様々な政治的対立を超えるためのものとして、社会教育の役割を活かしていくこと、さらに、マジョリティへの「同化としての社会教育」だけでなく、マイノリティが独自の文化を存続させ、新たなアイデンティティを獲得するための「異化としての社会教育」の意義に目を向けることが必要になろう。
 一方で、わが国のろう教育においては、長年にわたって口話法が採用され、手話は否定され排除されてきた。口話法による教育は、ろう児の学力や社会性を充分に伸ばすことができなかっただけでなく、マイノリティとしてのろう者の言語と文化を奪ってきたのである。近年では、バイリンガル教育の必要性が訴えられているが、インテグレーションの拡大などもあって、改革はなかなか進んでいないのが現状である。
 こうした状況の中で、デフフリースクールの教育のあり方は、新たな教育のモデルの1つとなりうる。ろう者が言語的少数者として認識され、バイリンガル教育の必要性が訴えられるとき、ろう教育と多文化教育はその問題点を共有することになる。社会教育主体としてのデフフリースクールの活動は、ろう教育だけでなく、多文化教育の新たな方向性をも提示していると言えるだろう。

 最後になりましたが、本論を執筆するにあたって、時に厳しく、時に暖かくご指導下さった鈴木眞理先生、執筆のきっかけだけでなく、多くのご協力を頂いたスマイルフリースクールの早瀬憲太郎理事長をはじめ、ご指導とご協力を頂いた全ての方に厚く御礼申し上げます。有り難うございました。

<注>

はじめに
1 木村晴美・市田泰弘「ろう文化宣言」『現代思想 臨時増刊号「ろう文化」』青土社,1996,p.8.
2 「ろう者」、「難聴者」、「中途失聴者」などの定義に関しては、上農正剛「ろう・中途失聴・難聴 その差異と基本的問題」(『現代思想 臨時増刊号「ろう文化」』青土社,1996)が詳しい。

1.口話法の変遷と矛盾
3 米川明彦『手話ということば』PHP研究所,2002,p.101.
4 手話を用いて、ろう児を教育する方法。
5 読唇と発話によって、ろう児を教育する方法。
6 Ibid.,p.94.
7 伊藤政雄『歴史の中のろうあ者』近代出版,1998,p.207.
8 米川明彦,op.cit.,p.94-95.
9 米川明彦,op.cit.,p.104.
10 中野善達「教育制度から見た聴覚障害児教育の歴史と展望」『第11回世界ろう者会議資料 日本の聴覚障害者』1991
11 文部省編『盲聾教育八十年史』文部省,1958,p.48-50.
12日本における手話やろう者をとりまく環境にとって、この時期の教育は非常に大きな意義を持っている。なぜなら、ろう教育の始まりこそが、日本における手話の起源であり、手話に基づくろう者のコミュニティの起源であるからである。
 前述の通り、近年では手話が言語の枠組みで分析可能であり、その構造の複雑さは音声言語と比べて遜色のないものであることが明らかになってきた。(鳥越隆士「手話の獲得」〈小林春美・佐々木正人編著『子どもたちの言語獲得』大修館書店,1997〉p.213)つまり手話は独自の文法体系をもつ自然言語の1つなのであるが、手話はその伝承方法において、他の自然言語と大きく異なっている。木村・市田は手話の伝承について次のように述べている。“ろう者の約九割は耳の聞こえる両親の元に生まれる。「民族」の言語である手話も、その文化も、普通の民族のように家庭や地域社会の中で伝承されるわけではない。ろう者が初めて自分以外のろう者に会うのは、ろう学校という、ろう者のための特別な学校である。本来広い地域にばらばらに存在しているろうの子どもたちは、そこで初めて仲間と出会い、結束の堅い集団をつくる。その集団こそが、言語と文化を伝承するコミュニティへの入り口なのである”。(木村晴美・市田泰弘,op.cit.,p.9.)すなわち、音声言語(及びそれに基づく文化)は一般に家庭内で伝承されるが、九割のろう児は聴者の両親の元に生まれるため、手話においては家庭内における伝承が起きないのである。また、ろう者集団は一般に非常に緊密なコミュニティ(デフコミュニティ)を作ることが知られているが、ろう学校はろう児にこうしたコミュニティにであう機会を提供する役割を果たしてきたのである。したがって、ろう学校の設立以前にこうしたデフコミュニティは存在しなかったため、ろう児はそれぞれの家庭で個別の身振り語(ホームサイン)を使っていたであろうが、言語としての手話は存在しなかったと考えられる。鳥越も指摘する通り、“手話を生み出し、育んできたろう者社会は、ろう教育のはじまりが契機となった”と考えられるのである。(鳥越隆士,op.cit.,p.230.)
13 岡本稲丸『近代盲聾教育の成立と発展 古河太四郎の生涯から』日本放送出版協会,1997,p.673.)
14 矢沢国光「同化的統合から多様性を認めた共生へ」『現代思想 臨時増刊号「ろう文化」』青土社,1996,p.23-24.
15 金沢貴之「聾教育における『障害』の構築」〈石川准・長瀬修編著『障害学への招待』明石書店,1999〉p.199.
16 米川明彦,op.cit.,p.106.
17 Ibid.,p.107.
18 矢沢国光,op.cit.,p.24.
19 清野茂「昭和初期手話−口話論争に関する研究」〈清野茂『手話・口話論争の時代と手話を擁護した人々』市立名寄短期大学「清野研究室」2002〉p.13-14.
20 Ibid.,p.14.
21 川本宇之介『聾教育學精説』信樂會,1940,p.492-493.
22 こうした手話への誤解は現在でも、専門家や手話学習者の中に根強く残っている。(市田泰弘「誤解される言語・手話」『現代思想 臨時増刊号「ろう文化」』青土社,1996,p.233-247.)
23 木村晴美・市田泰弘,op.cit.,p.10.
24 Ibid.,p.10.
25 口話法一色に染まった当時のろう教育界において、唯一手話を擁護し、ろう教育に手話が必要であることを主張した人物がいる。当時、大阪市立聾唖学校の校長であった高橋潔(1890〜1958)である。高橋は、“口話法教育がろう児を人間とみなさず、障害者を否定するところから出ていることを批判”し、ろう者の言語として、手話が“自然な言語”であり、“情操教育にも適している素晴らしいものである”と主張した。(米川明彦,op.cit.,p.113-114.)
 高橋の手話への認識や口話法の問題点の指摘は、現在の口話法の議論に通じるものである。特に高橋が導入したORAシステムは現在におけるバイリンガル教育とトータルコミュニケーションの中間に位置づくものと考えられ、それらの教育理論の登場の半世紀以上も前にそうした実践を行っていたことは、今後さらに注目されてよいだろう。しかし、大阪市立聾唖学校も口話法教育の拡大の中で孤立を余儀なくされ、昭和20年代末には手話は教室からほぼ駆逐されることとなる。(清野茂,op.cit.,p.15.)
26 木村晴美「『ろう者』として」〈河合隼雄・谷川俊太郎『現代日本文化論 第5巻 ライフスタイル』岩波書店,1998〉p.89.
27 矢沢国光,op.cit.,p.24.
28 木村晴美・市田泰弘,op.cit.,p.10.
29 矢沢国光,op.cit.,p.25.
30 Ibid.,p.27.
31 金沢貴之,op.cit.,p.197.
32 Ibid.,p.197.
33 金沢貴之「聴者による、聾者のための学校」『現代思想 臨時増刊号「ろう文化」』青土社,1996,p.35.
34 金沢貴之「聾教育における『障害』の構築」,op.cit.,p.199-200.
35 池頭一浩「聴覚障害者の理想像」〈金沢貴之編著『聾教育の脱構築』明石書店,2001〉p.164-166
36 内耳である蝸牛あるいは蝸牛神経系に異常・障害が生じたことによる難聴。伝音性難聴と異なり、医薬や医学的処置による回復は難しいとされる。
37 金沢貴之「聾教育における『障害』の構築」,op.cit.,p.197-198
38 聴覚口話法のもたらしたもう一つの矛盾として、聴覚活用によって増加した普通学校へインテグレーションする軽度のろう児の問題があるが、この問題については後述する。
39 Lionel Evans『トータルコミュニケーション』[Total Communication,Gallaudet College,1982]草薙進郎・上野益雄・都筑繁幸訳、学苑社,1983,p.5
40 田上隆司編著『聴覚障害者のためのトータルコミュニケ−ション』日本放送出版協会,1985,p.18.
41 ただし、ここで述べられている手指法とは言語としての手話とは必ずしも一致しない。この問題については後述する。
42 Lionel Evans,op.cit.,p.30.
43 Ibid.,p.29,34.
44 Ibid.,p.29.
45 矢沢国光,op.cit.,p.25.
46 Ben Bahan「トータルコミュニケーションーまったくのお笑い種」〈Wilcox, Sherman『アメリカのろう文化』[American deaf culture : an anthology鈴木清史・酒井信雄・太田憲男訳]明石書店,2001,p.177.
47 田上隆司編,op.cit.,p.22-23.
48 Ibid.,p.23.
49矢沢国光,op.cit.,p.25.
50 木村晴美・市田泰弘,op.cit.,p.11.
51 Ibid.,p.10.
52 Robert E.Johnson,Scott K.Liddell,Carol J.Erting『学力の遅れをなくすために』[Unlocking the Curriculum:Principles for Achieving Access in Deaf Education,Department of Linguistics and Interpreting and the Gallaudet Research Institute,1989]神田和幸・森壮也訳,日本手話学術研究会,1990,p.2
53 Ibid.,p.5-8.
54 田上隆司編,op.cit.,p.17.
55 Ibid.,p.30.
56 Robert E.Johnson,Scott K.Liddell,Carol J.Erting,op.cit.,p.14.
57 金沢貴之「聾教育における『障害』の構築」,op.cit.,p.211.
58 金沢貴之「聾教育における『障害』の構築」,op.cit.,p.211-212.
59 Robert E.Johnson,Scott K.Liddell,Carol J.Erting,op.cit.,p.14.
60 Ibid.,p.3-4.
61 木村晴美・市田泰弘,op.cit.,p.10.
62 田中圭治郎『多文化教育の世界的潮流』ナカニシヤ出版,1996,p.9.

2.バイリンガル教育の理念と課題
63 木村晴美・市田泰弘,op.cit.,p.12.
64 東照二『バイリンガリズム』講談社,2000,p.171-172.
65 西垣正展「『対峙』と『共存』と」『現代思想 臨時増刊号「ろう文化」』青土社,1996,p.40.
66 鳥越隆士「ろう教育における手話の導入」『兵庫教育大学研究紀要 第19巻』兵庫教育大学,1999,p.164.
67アメリカ・ワシントンDCにある、世界で唯一のろう者や難聴者のための総合大学である。
68 西垣正展,op.cit.,p.41.
69 Robert E.Johnson,Scott K.Liddell,Carol J.Erting,op.cit.,p.16-17.
70 Ibid.,p.11,17.
71 Ibid.,p.17.
72 Ibid.,p.19.
73 Ibid.,p.18-19.
74 Ibid.,p.18.
75 Ibid.,p.18.
76 Ibid.,p.19.
77 Ibid.,p.17.
78 Ibid.,p.21.
79 Ibid.,p.17.
80 Ibid.,p.17.
81 金沢貴之「聾教育のパラダイム転換」〈金沢貴之編著,op.cit.〉p.21.
82 木村晴美・市田泰弘,op.cit.,p.9.
83 西垣正展,op.cit.,p.40.
84 「二言語・二文化による英語教育―二人の聴者とひとりのろう者が共同でいかにして英語を教えるか」〈Wilcox, Sherman,op.cit.〉p.181-214.などを参照。
85 全国聴覚障害教職員連絡協議会研究調査部の1994年11月の調査による。
86 金沢貴之,op.cit. (1999),p.190.
87 Ibid.,p.190.
88 Ibid.,p.194.
89 Ibid.,p.200.
90 Ibid.,p.200.
91 金沢貴之「聾教育におけるリアリティのズレ」〈金沢貴之編著,op.cit.〉p.61.
92 Ibid.,p.62.
93 金沢貴之「聾教育における『障害』の構築」,op.cit.,p.212.
94 金沢貴之「聾教育における『障害』の構築」,op.cit.,p.213.
95 この中には中途失聴者や難聴者も含まれるため、いわゆる「ろう者」の数となると、さらに少ないものと考えられる。
96 大泉溥「聴覚障害青年と高等教育の課題」『障害者問題研究 第21巻第4号』全障研出版部,2001,p.334.
97 堀正嗣「『共に生きる教育』をすべての学校で」〈佐伯胖他編『岩波講座 現代の教育 第6巻 共生の教育』岩波書店,1998〉p.190.
98 長瀬修「教育の権利と政策-統合と分離、選択と強制」〈河野正輝・関川芳孝編『講座 障害をもつ人の人権 第1巻 権利保障のシステム』有斐閣,2002〉,p.171.
99 木村晴美・市田泰弘,op.cit.,p.11.
100 長瀬修,op.cit.,p.1177.
101 Ibid.,p.178.
102 Ibid.,p.175. 長瀬によれば、1993年のユネスコの「サラマンカ宣言」においても同様の配慮が見られるという。
103 藤井克美「聴覚障害教育の現状と課題」『障害者問題研究 第21巻第4号』全障研出版部,2001,p.304.
104 Ibid.,p.302.
105 中野聡子「インテグレーションのリアリティ」〈金沢貴之編著,op.cit.〉p.332.
106 Ibid.,p.336.
107 上農正剛,op.cit.,p.57.
108 木村晴美・市田泰弘「ろう文化宣言以後」〈ハーラン・レイン編『聾の経験』[THE DEAF EXPERIENCE]石村多門訳,東京電機大学出版局,2000〉p.397.
109 長瀬修「〈障害〉の視点から見たろう文化」『現代思想 臨時増刊号「ろう文化」』青土社,1996,p.47-48.
110 Ibid.,p.49-50.
111 木村晴美・市田泰弘「ろう文化宣言」,op.cit.,p.9,13.
112 新井孝昭「『言語学エリート主義』を問う」『現代思想 臨時増刊号「ろう文化」』青土社,1996,p.64-66.

3.デフフリースクールの取り組み
113 金沢貴之「聾教育における『障害』の構築」,op.cit.,p.34.
114 伊藤志野「フリースクールの現在−教育のオルタナティブ」〈千葉大学文学部社会学研究室『NPOが変える!?−非営利組織の社会学』千葉大学文学部社会学研究室・日本フィランソロピー協会,1996〉p.262.
115 スマイルフリースクールDDD校「2002年度パンフレット」 p.9.
116 Children of Deaf Adultsの略。金沢によれば、成人ろう者の9割は成人ろう者と結婚し、ろう者の両親を持つ子どもの9割が聴児である。
117 内耳の神経を電気的に刺激する装置を耳の後ろに埋め込み、音を供給するもの。効果については、聴者と同じように聞こえるということはなく、人の話し声はロボットの声のようにしか聞こえないとされている。なお、デフコミュニティは人工内耳に対して激しく反発している。
118 http://sfs.tatitute.to/参照
119 http://sfs.tatitute.to/参照
120 2002年度パンフレットより抜粋
121 金沢貴之「聾教育におけるリアリティのズレ」,op.cit.,p.79.
122 阿部敬信「国語教材の日本手話翻訳ビデオを用いての授業実践」『2001年度龍の子学園実践研究発表会予稿集』龍の子学園,2002.P.33.
123 岡本みどり「インテグレーション、龍の子学園、そしてろう学校-ろう児を持つ聴者の親が学んだこと」〈金沢貴之編,op.cit.〉p.224.

4.社会教育と多文化社会
124 木村晴美・市田泰弘「ろう文化宣言」,op.cit.,p.8.
125 斉藤道雄『もうひとつの手話』昌文社,1999,p.35-36.
126 斉藤も指摘しているが、アメリカのろう者の間では、英語の「デフ」は2つの意味を持っており、deafとDeafで区別される。両者の違いは、“小文字のdではじまるdeafが昔ながらの「耳が聞こえない」という医学的・身体的状況を指すのに対して、大文字のDではじまるDeafは、ろう者が「手話という固有の言葉と文化をもつ人々」であることを指す。(斉藤道雄,op.cit.,p.35.)
127 前述の通り、これは「ろう者は障害者ではない」という主張につながるため、問題点も指摘されている。しかし、手話という独自の言語とデフコミュニティの存在を鑑みたとき、他の障害者と全く同列で扱うのは限界があると考える。
128 田中圭治郎,op.cit.,p.7-8.
129 Ibid.,p.5.
130 中島智子「多文化教育研究の視点」〈中島智子編『多文化教育−多様性のための教育学』明石書店,1998〉p.24.
131 田中圭治郎,op.cit.,p.40-41.
132 Ibid.,p.41.
133 津田英二「『障害文化』概念の意義と課題〜共生の社会教育のための理論構築に向けて〜」『神戸大学発達科学部紀要第7巻第2号』神戸大学発達科学部,2000,p.91-92.
134 田中圭治郎,op.cit.,p.42.
135 Charles Taylor「承認をめぐる政治」〈Amy Gutmann『マルチカルチュラリズム』[Multiculturalism 佐々木毅・辻康夫・向山恭一訳]岩波書店,1996〉p.54-55.
136 Steven C.Rockefeller「自由主義と承認をめぐる政治」〈Amy Gutmann,op.cit.〉p.130-131.
137 Charles Taylor,op.cit.,p.60-61.
138 Ibid.,p.98.
139 Ibid.,p.60.
140 Emmanuel Todd『移民の運命−同化か隔離か』[LE DESTIN DES IMMIGRES,Editions du Seuil,1994]石橋晴己・東松秀雄,藤原書店,1999,p.503.
141 Ibid.,p.503.
142 Ibid.,p.518-519.
143 中島智子,op.cit.,p.16.
144 津田英二,op.cit.,p.92-94.
145 例えば中島は、多文化教育を“学校改革のための一つの視点”であると述べている。(中島智子,op.cit.,p.25.)
146 佐久間孝正『イギリスの多文化・多民族教育』国土社,1993,p.80.
147 佐久間孝正「多文化、反差別の教育とその争点」〈宮島喬・梶田孝道『国際社会 4 マイノリティと社会構造』東京大学出版会,2002〉p.76.
148 佐久間孝正『イギリスの多文化・多民族教育』,op.cit.,p.81-82.
149 Ibid.,p.81-82.
150 Ibid.,p.82.
151 佐久間孝正「多文化、反差別の教育とその争点」,op.cit.,p.77.
152 Ibid.,p.77.
153 Ibid.,p.77.
154 佐久間孝正『イギリスの多文化・多民族教育』,op.cit.,p.82-89.
155 Ibid.,p.89.
156 Ibid.,p.91.
157 佐久間孝正「多文化、反差別の教育とその争点」,op.cit.,p.78-79.
158 Ibid.,p.80-81.
159 読売新聞2002年12月10日朝刊
160 Ibid.
161 佐久間はムスリムの自文化教育活動に関して、“何よりも注目すべきは、イギリスの学校任せでは不十分として、マイノリティ自身が自分達の問題として立ち上がったこと”であると述べている。(佐久間孝正「多文化、反差別の教育とその争点」,op.cit.,p.78.)


UP: 20030213 REV: 20160125
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