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「声の政治学」

障害学研究会関西部会第17回研究会
 於:茨木市福祉文化会館 401号室
2003/01/26

last update: 20151222


障害学研究会関西部会第17回研究会記録

●日時:1月26日(日)午後2時 〜 5時
●会場:茨木市福祉文化会館 401号室
●テーマ:声の政治学
●報告者:稲原美苗さん
(ニューカッスル大学大学院(オーストラリア)
 社会学研究科カルチュラルスタディーズ専攻博士課程)

●自己紹介
稲原さん:9年間オーストラリアにいる。カルチュアル・スタディーズを研究、とくにイメージについて。今回の発表は専門外だがやりたかったこと。
(以下、参加者自己紹介は省略)

●稲原さん報告(以下の配布論文を朗読。後半は各自黙読)
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声の政治学

ニューカッスル大学大学院社会学研究科(オーストラリア) 
博士課程 (カルチュラル・スタディース専攻)
稲原 美苗
minae@lapis.plala.or.jp(@→@)

はじめに

<声>とは何か? 本報告は健音文化に生きる言語障害者の立場から声を考察することを目的とする(1)。本報告は、声と身体の関係、特に「声の政治学」に注目することで、声の多様性と言語障害者の権利意識への示唆を得ることを目的とする。声の多様性と障害という組み合わせは、障害学であまり論点にならなかった。しかし、私にとって<声>とは、人間の声帯が作り出す「音」だけでなく、個人や社会の政治性を含み、異なる立場を理解し合うコミュニケーションの手段である。そして、それは、個人間と文化間の和解(reconciliation)を可能にするものである。

 健音文化は、身体から発する音の言語化や基準化によって成立している。アメリカの古典・英文学者ウォルター・J・オング(Walter J. Ong) の『声の文化と文字の文化(Orality and Literacy)』によると、声には口承性、即時性、身体性が要求され、表現できる権利を持てる集団とそれを持てない集団がはっきりと二分されてしまう(2)。そして、健音文化は、音質や発音やトーンだけでなく、声の使い方や、理想とされる声についての知識、あるいは、発音・言語の分類にいたるまで、コミュニケーションのあらゆる部分を取り締まっている。健音文化には、声の規律や秩序が存在し、声に働きかける政治を構成していると考えられる(3)。

 近年、社会学、人類学、フェミニズム、そして障害学において、「身体」およびその社会性・政治性が研究対象になってきた(4)。しかし、声に対する社会・政治学的理解はまだ少ないと言えるだろう。「身体」と同じように「声」も性差、年齢差、地域差、そして障害による多くの違いが組み合って、自分の声となる。たとえば、あなたが受話器を取った瞬間、声の違いから話し手の特徴が予想できる。まず、話し手が「女性なのか男性なのか」、「大人か子供か」、「正常か異常か」などのイメージを持つ。声は生物学や音声学の現象だけではなく、<声>は社会的な音声構築であると考えられる(5)。

 私の声から、人々はどのようなイメージを持つのだろうか? 留学先のオーストラリアではパーティーが頻繁に行われる。外は土砂降りの雨で、もし歩けば、せっかくのドレスが濡れてしまう。それで、めったに乗らないタクシーを呼ぶことにした。もちろん、勇気を出して電話をかけた。「タクシーの手配をしたいのですが。---から--までお願いします。」と、お決まりのタクシー会社のオペレーターとの会話をかわした。外で待つこと10分、タクシーが来ない。心配になった私はもう一度電話をかけ直すために、部屋に戻った。受話器を取ったその瞬間、ドアをノックする音がした。「稲原さん、大丈夫ですか?」とドアの向こうで叫んでいる。不思議に思って、ドアを開けると、そこに2人の救急隊員がいた。びっくりした。私は事情を聞いて、笑いが止まらなかった。タクシーのオペレーターが私の声を聞いて、勝手に病気で死にかけている(老人?)と思い込んで、救急車を呼んだそうだ(6)。他のケースでは、テレフォン・アポインターから電話がかかると、私が受話器をとって、「もしもし」と発声するや否や、「ごめんなさい。寝ているところをお邪魔してしまいました。」などと言われた。私の声から病弱か寝起きなどをイメージする人が多い。つまり、声の差異は身体の差異と同様に、健常者中心社会において、「正常・異常」や「優劣」を二分的判断されるポイントになっている。身体・声に対する健常者中心社会の判断基準は「正常か? 異常か?」に二分化する傾向であり、「障害の複雑性」を無視し続けてきた。これを「声のバリア」と呼ぶ。

 健音文化の中で構築されていく「声のバリア」とは、たとえば、助けて欲しい時に、「助けて!」と発音を正しくできないために、無視されること、食べたいものの名前を発音できないために、発音できる名前のものを注文しなければならないことなどである。このように、言語障害者が社会生活を営んでいく上で障壁(バリア)となるものが沢山ある(7)。言語障害者の社会参加を困難にするバリアをなくすには、エレベーター・手すりの設置、段差解消など物理的な・ハード面の改善ではなく、周囲の人々の理解など情報・心理的・ソフト面を改善することが重要である。

 多文化主義社会(オーストラリア)で過去9年間暮らした中で、私自身が少しずつ変化していくのを感じた。オーストラリアでは、「声のバリア」を経験したものの、私のほかの差異が複雑に混ざり合い、そのバリアは常に変形していた。たとえば、オーストラリアの友人たちは、私を障害者というより日本人女性として認識していた。最初、全く英語を話せなかった私は不安な気持ちでいっぱいだった。もちろん、私だけではなく、英語を話せない日本人はあちらではある種の「声のバリア」を持つことになる。その経験から、「障害者」というカテゴリーは一つの同質集団を表すものではなく、あらゆる出身民族・年齢層、そして男も女も含んでいるということを実感した。そしてすべての人が障害を持つ可能性があるということも実感した。オーストラリアでは、多種多様な文化を持った人々が存在しているので、自分らしさや複雑さを表現しやすかった。それと共に、私の障害に対する考え方も、多文化的な複雑さへと変化してきた。次第に、声の出せない歯痒さが減少し、「私らしさ」を持てるようになった。どうしてその歯痒さが少なくなったのかを考えると、オーストラリアでは「日本人だから、英語を完璧に話さなくても良い」ということがいつも私の頭にあったし、周囲の人々も「あなたは日本人だから、英語を上手く喋れない。気をつけて聞かないといけない」という配慮をしてくれた。そのおかげで、私にとって、日本語より、英語の方が話しやすくなった。これらの経験が、私が「声の政治学」を認識するきっかけとなった。

 声の多様性をとらえるのは大変難しいことである。ここでは、私たちが日常生活の中で考えている声・コミュニケーションの観念について再考察する必要性がある。そして、私たちが「声を出して話せることがあたりまえ」と思っていることは、実はとても疑わしいことであり、事実を確認もせず、ただ信じているにすぎない。常識では、自分の声がまず存在して他者とコミュニケーションしていくように考えがちだが、障害学・社会学的に言えば、逆に、他者との関係がまずあって結果的に声が構築され、コミュニケーションが成立すると考える。

 本報告前半で、「声の政治性」について考察する。ここでいう「政治性」とは、狭義の政治領域(選挙とか国会とか)における傾向・状態ではなく、広義の政治関係、つまり、社会での人々の間に働く力関係=権力を意味するものである。健音文化は言語障害者の声をめぐって権力が働いている。声は単なる音声ではないし、また権力そのものでもない。それは話し手と聞き手を行き交う過程であると同時に、話し手・聞き手の関係において、見えない権力が行き交うことである。それは声に対する権利意識ということにつながる。声には、様々なものがあるが、ここでは、主に2つに分けて考える。それは、「音声言語としての声」と「主体の身体表現としての声」である。後者の「声=主体の身体表現=表現する権利」という立場で<声>のあり方について考察する。私が<声>を問題にしようと思う理由は、「声の政治性」は声を作り出している身体も含みこむようなものでなくてはならないと考えているからである。

 さらに、既存の言語療法が「音声と分節された声」に着眼する傾向が強いことについて、私は疑問を持っている。言語障害者の声が言語療法学的な問題があるというより、むしろ、健音文化に生きる人々が「異なる声」を理解しようとしないことに問題があると私は考える。

 本報告後半で オーストラリア映画「ピアノ・レッスン」を使って、「声の政治学」を説明する(8)。この映画は、唖者女性エイダの人生を描いた小説を基にしている。エイダは声帯を使った声は持っていないが、ピアノと手話を「身体的表現としての声」として考えられる。この映画の中で、健音文化の声に対する固定観念が崩壊し、「異なった声」の存在を明確になる。エイダとピアノとの関係に着目し、ピアノが彼女にとって何かということを考察することによって、新しい声の観念が生まれるのではないだろうか。音声が構築され<声>となる過程が、この映画に見る「声の政治学」であると私は考えている。


1.「声」と「権利」― 声の政治学

1.1. 声と権利

 私たちの周囲には実にさまざまな声が存在している。スピーチ(音声言語)、歌声,悲鳴、笑い声、泣き声など様々である。声とは身体とその経験に関係し、自己表現としての可能性を示唆するものとして考えている。音声言語を中心としている声は形式化されたものであったり,模倣したものであったりすることが多い。音声言語は、私たちが自由に自己表現するための<声>というより、同じ文化・言語を持つ人々に理解されるための声、そして、私たちの声を政治化させる構築という見方が妥当であろう。私にとって、スピーチと声は違うものである。<声>というものは、私たちの身体に近いものであり、身体とともに存在しているものである。声は個人の表現に対する欲望の現れであり、「誰かにその存在を知ってもらいたい」という欲求の現われでもある。したがって、<声>とは、感情の発露として,今ここに存在することを,身体・精神的な欲求として表現することである。しかし、それは成長するとともに文化・社会・言語によって形式化されて、本来持っている「声の身体性」を忘れられていくのが現状である。どうして大人になると自由な表現としての<声>を日常生活から切り離していくのだろうか? それは、社会や文化の中で、声というものが狭い枠で理解されていることに間題があるのではないか。

<声>と何なのか?ここでもう一度考えたい。英語の「voice」という単語を調べてみると、次のようになっている。

1. the sound or sounds uttered through the mouth of living creature, esp. of human beings in speaking, shouting, and singing. (動物の発声器から出る音。とくに会話・歓呼・歌のなかで人間が出す音声。)
2. such sounds considered with reference to their character or quality. (その人の特徴を持った音声)。
3. expressed opinion or choice. (音声化される意見と選択。)
4. the right to express an opinion or choice; vote; suffrage. (意見や選択を表現する権利。参政権。)
以下省略 
(The Macquarie Dictionary 1990年版からの引用)

ここで、<声>の定義として注目するのは4番目の「意見や選択を表現する権利」である。

 音声が<声>になるためには、話し手から送られる音声を聞き手・受け手が情報処理し、その音声が何を示すのかを判断して<声>となる。この理解するプロセスそのものが<声>であり、「声の政治性」なのである。しかし、言葉を音声に変えることだけが<声>ではない。たとえば、出産したばかりの母親のケースをあげて説明すると、母親は赤ちゃんの<声>(この場合、泣き声)を理解しようと努力している。赤ちゃんの鳴き声は何かを要求し、それを身体いっぱい使って表現している。このように、<声>は「主体の身体」と「表現する権利」との相関物であることを認識しておきたい。さらに、それは母親を動かす力があると考えられる。赤ちゃんの「意見や選択を表現する権利」は、その声が向けられた相手(ここでは母親)に理解と反応を呼び起こして、はじめて<声>となり、<声>はそのような理解と反応を求めている。そして、それらを得る権利が声に付随していると考えられる。しかし、成長過程で、言語障害を持つと、聞き手はその音声を「異常」とし、声として扱ってくれない場合が多くある。

1.2.言語障害と社会モデル
「障害」を考える上で、大きく分けて二つのアプローチが存在している。ひとつは、医学、作業療法、障害児教育、社会福祉、そして言語療法などの「障害を客体とする:医学モデル」アプローチである(9)。もうひとつは、「障害を主体とする:社会モデル」アプローチである。それは、英国と米国で確立された社会学的に「障害」を考えるディスアビリティ・スタディーズ(日本では障害学)の名前で知られている(10)。前者は、医療や教育・福祉の充実を目指し、健常者中心社会での障害者の受け入れ・障害の克服に貢献しようとするのに対し、後者では、障害者が直面している社会問題を障害者の立場から考えていくものである。医学、リハビリテーション、障害児教育を通じて障害者自身が変わるだけではなく、障害者の実情を受け入れない社会、そして、障害者の声に耳を傾けない社会のあり方を考える必要がある。

「音声言語としての声」について研究されてきたことは、「言語療法モデル」とよばれるアプローチから考察されてきた。これは健音文化の中で、「異常」の声を少しでも「普通」の声に近づけられるかということにその重要性を置いている。一方、障害学的な考え方は、声の「社会モデル」というアプローチに対して重要性を置く。この声の社会モデルを考えることは、既存の言語療法学研究を言語障害者のニーズに応じるように変えていく糸口になるだろう。

1.3.声の社会モデル―自己理解としての他者理解
 たとえば、日本に来て間もない外国人が駅で困っていたとする。切符を買うにも、プラットホームに行くにも、日本語を使えないと、目的地に着けない。その人は なぜ電車で目的地に行けないのか? なぜ切符を買えないのか? 恐らく、多くの人は「日本語ができないから。」と答える人が多いと思う。そう答えるのは、「日本では日本語が話せて当たり前」という考え方が強いからである。さて、私は日本人である。日本語も理解できる。しかし、日本国内で外国人と同じ経験をすることが多い。たとえば、乗り換えの便利な駅を訪ねると、私の声を聞くや否や、「えっ、ごめん。急いでいるから。」と無視されることが度々ある(本当に急いでいる人には尋ねないのだが)。発声の仕方が違うこと、そして、その時に筋肉が異常に萎縮することを理由に、私の声は無視され、他人から冷たい視線を感じることは多々ある。「人間ははっきりと発音できて当たり前」と思う人が多いと思う。しかし、その当たり前のことができない人間もいることを知って欲しい。このように、「当たり前」の固定観念の洗練された形が「医学・教育モデル」と関係し、影響し合っている。「医学・教育モデル」は話し手の一方的な改善に着目する傾向にある。「日本では日本語を話すものである。人間は決まった音声を発音できて当然だ。障害があって(もしくは外国人であって)、それが無理な人についても、治療、訓練、教育によって、声質、発音を改善する」という立場を取る。

 しかし、「社会モデル」のアプローチから考えると、「通訳者がいないから(声を聞いてくれる人がいないから)」と問題の流れる方向を変えていく。日本の中には 様々な<声>を持つ人間がいる。日本語をきちんとした発音で話せる人もいれば、別の言葉を使う人たちもいる。障害を持っているために、発音が正しくできない人もいる。逆に、日本人が外国へ行くと、日本語が通じない悔しさが残ると思う。知らない国で、道に迷うことも頻繁にある。その国の言葉は話せないが、ほかの手段でコミュニケーションを取ろうと努力するだろう。そんな時、現地の人から無視されたら、どう思うだろうか? 「こんなに頑張って話しているのに、ちょっと聞いてよ!」と不満を言いたくなるだろう。その光景を頭に浮かべもらえば、私が普段直面している声の問題が少し理解できるかもしれない。したがって、色々な人々が生活している社会の中で、聞き手の理解が必要なのである。

 このように、他者の立場に立って声を聞くことは重要である。たとえば、外国人と会話を交わすとき、自分の声が外国では理解されないことを知ることで、コミュニケーションを改善できる。私自身も自己理解が新たな他者理解によって深まった経験をした。また逆に、私が100%他者を理解することは不可能である。しかし、他人の置かれた状況を自分に起こるかもしれない状況として理解することで、その人が私にどうして欲しいかを考えることは可能である。

1.4.コミュニケーションとは?−声のキャッチボール
 コミュニケーションというと、私たちが頻繁に使用している手段は「言語」であると考えられる。しかし、コミュニケーションとはもっと多様なものではないのだろうか? 詳しくは後に本報告で展開することとするが,私がここで考えるコミュニケーションとは、自分の身体や精神に内在するものを「自己」として表現し、それを通して、お互いの自己を認め合って共生することである。つまり、私たちは人間として、コミュニケーションなしでは共生することができないと考えられる。しかしながら,多様化されたコミュニケーションは日常生活からほとんど切り離されている。ここでは,<声>という身体による多様な表現とその政治性について考察し,その声が私たちに働きかける可能性を中心として論じていく。声・言語については多くの先行研究がある。しかし、それらの研究で論じられているものは形式化された音声、つまり、スピーチがほとんどである(11)。これらの形式化された声も勿論重要な研究テーマであるが、そこには身体による多様な表現としての<声>はほとんど存在しない。それは,<声>による創造・表現が十分に論じてこられなかったからであろう。

 たとえば、既存の言語療法学は、話し手とその声に問題の原因があると考え、話し手の声質・発音の改善することを最優先する。このことを考えると、「言語療法モデル」は「個人モデル」と理解できる。言語療法学は言語障害者の声の機能性に注目することが多い。しかし、ここで考える必要があるのは、コミュニケーションの中の声である。コミュニケーションは一般的に「話し手から聞き手へのメッセージの伝達」と定義されている。コミュニケーションを考える際に、発信者(話し手)と受信者(聞き手)の関係、発信・受信手段、伝達内容、そして、その社会的効果を考察することに重点を置いている。コミュニケーションとは一方的な声の発信から起こるものではない。それは常に声のキャッチボールをしている状態をいうのである。キャッチボールを例に考えてみると、分かりやすいだろう。ボールを声だと考えて欲しい。いくら良い球を投げても受け手がキャッチできなければ、キャッチボールにはならない。それと同様に、話し手が発音練習をしても、聞き手が「音」を受け入れないと、<声>にはならないのである。

 もし「声のキャッチボール」を日頃から心がけていれば、声の多様性に対応できるような社会を作っていれば、このような「正常な声」と「異常な声」の二分化は生じない。そして、異常とされた声を「言語障害」として、リハビリテーションや福祉の対象とみなす。コミュニケーションできない声があって、そこから様々問題が生じるのではなく、その言語障害がその個人に存在し、そして、「異常」が「正常」から切り離されて考えられる。しかし、コミュニケーションの過程で、話し手の発音機能を改善しても、聞き手がその声を受信できなければ、言語療法の本来の目的を達していないことになる。ピッチャーとキャッチャーの関係の改善によって、声のキャッチボールが可能になるのである。

 したがって、声とは自己の政治活動である。自分の身体と精神に内在するものを外へ解放することは政治の基本である。そのために表現が存在するのだ。そして、この政治的行為(表現すること)はすべての人間のものであり,決して特定の人間に限られたのものではない。人間は一人では存在できない。社会的な生き物である。声には「認知」が伴わねばならない。お互いの理解なしで、一方的に表現だけをしても、それはコミュニケーションにならない。

 さらに,声には「権利」が伴うはずである。他から強制される声は自分の声ではないのだ。自分の意志で、好きなことを、好きな時に、好きなように、声を出せることが大切なのである。私たちは健音文化の中に生きると同時に,無意識にそれに私たちの声をコントロールされている。そして,私たちはある声を聞くとすぐにそれを普遍的な尺度に当てはめてしまう。しかしながら、その普遍的な音声とその普遍性は何を基準としているのか? まず、声は人間が自己を表現することあり、同じ人間はこの世界に存在しないので、同じ声が存在する可能性は全くない。それなのに,健音文化における普遍的な尺度は存在している。それを避けることはできないのかもしれない。しかし、重要なことは,その尺度によって、多くの人々が異常とされる声を認めていないということを理解することである。このような声という政治活動は健音文化に生きる私たちにとって重要な意味があるのである。なぜならば,健音文化を生きる言語障害者にとっては、自分の声が理解されないことが多く、ここで、それを明確にする必要性があると考えるからである。

1.5.声の見込みとその政治性
 社会的に望まれていない声に対して、言語療法学・医学的なラベルをつけて、コミュニケーションができない理由はすべて個人の「障害」のせいにしてしまう。つまり、言語療法学は、個人の音声・発音の回復を重視することで障害者問題の解決を求めるのに対し、障害学は、社会関係(話し手と聞き手の関係)の変革をもたらそうとする。ここで言語療法学を直接的に否定しないが、今までの声に対する考え方に疑問を持ち、そのあり方について考え直すひとつの糸口になることを願う。声を上手く出そうが出すまいが、言語療法で声質や発音が改善されようがされまいが、誰もがコミュニケーションできるような社会を求めることが必要である。声の問題は社会レベルで認識しなければならない。コミュニケーションしようとする時、私たちは政治的プロセスを構成している。一個人がある目的を追求するために、声を出し、相手にその状態・要求を伝えるという行為そのものに「政治性」がある。それは、「正常な声」がその社会や人々によって受け入れられる見込み(probability)、そして、「異常な声」受け入れられない見込みから来るものである。

「多分、分かってくれないだろう」という言語障害者の見込みは「多分、分からないだろう」という健音者・聞き手の見込みと常に関係している。そして、この否定的な見込みが言語障害者を無力化している。この両者を引き裂く見込みの緊張を少しずつ緩和していくことができたら、言語障害者は権利としての声を持てるだろう。この見込みは政治的である。「もしかしたら、分かってくれるかもしれない」という話し手の前向きな気持ちと「もしかして、分かるかもしれない」という聞き手との関係が、コミュニケーションを可能にする。

 すべての人間にとって、声と権利とは切り離せない。声は政治的である。声は身体的・社会的・個人的体験によって特徴づけられ、逆に個々の経験を構築する。もし声を出せなければ、自己決定権も持ち辛くなるし、自分を理解してもらえない。様々な政治的な問題がそこに存在する。<声>がそこに在るか無いか、表現できる・選択できる自由が在るか無いか、それが、私たち自身がどれだけ権利を持つができているかを知る指標になる。多くの人々(言語障害者に限らない)は、コンピューター技術の進化により、多文化的なコミュニケーションというものが存在することを認め始めている。そのようなコミュニケーションを体験したりそれに利用したりということで、そこに声の多文化主義が生まれる。

【途中休憩 15:15-15:30】

2.『ピアノ・レッスン』に観る「声の政治学」

「声の政治学」から何を学ぶのか? 健音文化の中で、「異常」な声が理解されなかった。声の政治的構造に疑問を持ち始めた時、私は『ピアノ・レッスン』という映画に出会った。この映画を通して、声の多様性と政治性を学んだ。この映画は、言語療法学や諸科学による偏りがちな声についての見解を問題視して、声を話し手・聞き手の相互関係の上で成立するものであると考えられる。健音社会に存在する声についての固定化した政治性と向かい合い、これまでと全く違う「声の政治性」をここで紹介したい。声の政治性は、家父長制度や健音文化と結びついた人間関係の維持とそれと密接に関係する社会システムの維持に結びついている。したがって,この映画の中で、現存する声の政治性がどのような文化と結びついて構築したのか、そして、声を「表現する権利」と考え、新しい声についての観念が生まれる。

2.1.『ピアノ・レッスン』の概要
 時代は十九世紀。幼少の頃、エイダは自分の意志で口を開かないことを決めた(12)。そして、ピアノだけが感情の捌け口だと自分の意志で決めた。彼女はピアノで思いを伝える。エイダが娘連れて、彼女の父親が勝手に決めてしまった結婚をするためにスッコットランドからニュージーランドへやって来た。夫スチュアート(サム・ニール)がピアノは運べないから海辺に置く事になる。夫の原住民との通訳者ベインズ(ハービー・カイテル)、この男が彼女をピアノのある海岸へ連れて行ってくれる。夫は土地の売買人で、エイダのピアノをベインズの土地と交換してしまう。ピアノはベインズの小屋に置かれて、エイダは彼のピアノ・レッスンを口実に毎日そこに通い続ける。そして、この男とエイダの恋が始まる。普通のラブ・ストーリーと違って、エイダは口がきけないし、ベインズは無学で文字が書けない。普通ならコミュニケーションのとりようが無い二人がピアノを通して愛し合うようになっていく。ついに、愛欲全裸で結ばれる、この状況を見ていたエイダの娘フローラが、父となったスチュアートに密告する。 エイダのピアノへの狂愛がベインズへの愛に移る。

 エイダとピアノの関係を分析すれば、この映画から学ぶ「声の政治学」が明らかにできる。エイダのピアノをめぐるさまざまな見方があるのだが、ここでは、ピアノはエイダの身体の一部、そして彼女の声として考えてみたい。おそらく,この映画の中で,政治的にみて重要な点はピアノ・エイダ・彼女のセクシュアリティーの関係であろう。これは声の問題を身体(性)の問題として考えることで,声の身体的機能の分析・解明することだろう。声は,人間のコミュニケーションを重要な構成要素としているために、その心理的ないし文化的要素を無視して音声的側面からだけのエイダの声を分析することは多くの危険を伴う。とりわけ、現存の健音文化の社会では,言語障害者によるコミュニケーションの欲求を結果的に抑制する危険性もある。

2.2.エイダと手話
 エイダが娘フローラと会話を交わすとき、手話を使う。手話が理解できるのは娘だけである。夫スチュワートも愛人ベインズもフローラの通訳を頼りに、エイダの声をフローラから間接的に聞く。そして、私たち観客はエイダとフローラのやり取りを字幕によって理解する。その手話のやり取りを見ていると、観客である私は、二人の手や身の動き、手話が作り出す表現空間に魅了された。ここでも、「声の政治性」が存在する。音声言語の優越によって、手話が軽視されていることである。

 アメリカの医学博士オリバー・サックス(Oliver Sacks)は、手話が音声表現に優るとも劣らない表現力を持つこと、そして、手話は「見る声」であることを主張した(13)。サックスは、聴覚障害者(ろう者)の歴史や経験を考察し、「声とは何か」という疑問を新しい視点から考え直した。そして、彼らが手話という視覚言語のもとに独自の文化を築いていることもこの本から理解できる。この映画の中で、エイダとフローラが独自の言語を持ち、その空間や身体を自由に表現している。エイダは聴覚障害者ではない。しかし、音声言語だけを聞くスチュアートはエイダとコミュニケーションが全く取れない。

2.3.ピアノとエイダの関係
 何人かのフェミニスト映画批評家たちはこの映画に対して否定的な見解をしている(14)。彼女たちは、この映画の中の仕組まれた結婚やレイプシーンを観て、女性であるエイダの権利を考え、彼女が家父長制の犠牲者であると主張した。これらのフェミニストが声に関して批判するのなら、「エイダは話せないから、愛の無い結婚を余儀なくされ、レイプされたのではないか?」という疑問を持つだろう。何故なら、これらのフェミニストたちはおそらく健音女性であり、家父長制的秩序では女性が「表現する権利」を持てないことを批判し、女性が音声言語を持つことを強く要求しているからである。

 しかし、言語障害者から(私が)観る『ピアノ・レッスン』は、これらのフェミニストの否定的な見解とかなり異なる。エイダは唖者であり、話すことが出来ない。彼女は、ピアノという深い感情の伝える音を媒介にしている。映画の中でその理由は述べられていないが、エイダは音声言語の存在(健音文化)に不信感を抱いていると考えられる。そのような普通に話すことの出来ない女性は、映画の前半では悲劇のヒロインとなる。しかし、よく考えてみると、その悲劇がエイダの言語障害によるものではなく、夫スチュアートを中心とした健音文化・家父長制度、そして、植民地制度によって生じるものである。その夫ははじめからエイダのピアノに全く関心がなく、そのピアノを勝手に通訳者ベインズに土地と交換した。このことはスチュアートが自分の妻の声と性をベインズに売ったことになる。彼はそのことに気づかない。

 一方、ベインズははじめからエイダと彼女のピアノに興味を持っていた。そこで二人のピアノ・レッスンが始まる。エイダはただ自分のピアノを弾ける(自分の声を持てる)という理由でベインズにピアノを教えることを引き受けたが、ベインズは次第にエイダに対して性的欲求を持ち始めていた。ピアノが奏でる非言語的なコミュニケーションが、二人の恋愛感情を高めて、関係を深めた大きな要因と考えられる。クライマックスで、ベインズへの嫉妬に狂った夫スチュアートは、エイダの中指を斧で切り落とす。彼女にとって指は<声>である。その指を切り落とすということは、彼女の権利を剥奪したことになる。スチュアートとの結婚は、コミュニケーションによって結ばれたものではなく、そこにピアノ(彼女の声)も存在しない。つまり、家父長制度の下で、ピアノを土地と交換したように、エイダ自身が交換物として、結婚させられている。スチュアートは最初からエイダの声であるピアノを無視し、そんな夫を受け入れられないエイダは、家父長制度・植民地制度・健音文化の秩序に対して疑問を投げかけたのである。

 ベインズとの旅立ちの過程で、筏がピアノの重さに耐えられないために、エイダは海にそれを投げ捨て、彼女自身も身を投げて自殺しようとする。しかし、エイダはベインズとともに生きる事を選んだ。ベインズと一緒に新しい土地で幸せに暮らすエイダを描かれている。そこで発声の練習を始めた事などがエイダの声によって語られている。これを一面的に見れば、家父長制度や健音文化の秩序に組み入れられた言語障害者を示しているといえるかもしれない。しかし、ここでもっと重要視すべきなのは、彼女のそばに新しいピアノが置かれ、金属の義指によって彼女がピアノを弾き続けていることである。この映画のラスト・シーンはエイダの夢想であり、夢の中で海中に静かに眠る昔のピアノとそこに永眠している彼女の姿が存在しているから、エイダはスチュアートからの抑圧に抵抗しながら、ピアノという彼女の声で分かり合えて、愛し合った男性とこの社会に生きるとも考えられる。

 この映画の中のピアノとは単なる「物」ではなく、エイダの<声>つまり、彼女自身の一部分となっていると言っても過言ではない。エイダの弾くピアノの音色に興味を持ち、言葉としては理解できない表現をベインズは聞いている。このピアノの表現はエイダの<声>である。<声>とは、一方的なスピーチによって作られるものではない。そして、<声>を聞く側の人間も、健音文化や家父長制度などによって制御されるロボットのような存在であってはならない。この映画は「声の政治性」を持っている。ここでの「声の政治」はエイダの差異を考察することで、<声>を多様なものとして考えられる。したがって、この映画分析の目的は健音文化の脱構築・再考察である(15)。


終わりに

 健音文化の中で、私は「声とは何か」という疑問を持ち、自分の<声>を探し続けている。確かに、幼少の頃、「美しい声」や「はっきりとした声」などに憧れたこともあった。(今でも、それに憧れているのかもしれない。)その憧れをどうして持ったかというと、正常な声は社会的に理解される見込み(probability)があり、異常な声は理解されないという見込みが極めて高いということからだった。この二分化された声の政治性は、私たちの声を単純化しているように思えてならない。「正常」か「異常」というものさしで測ってしまうのはあまりにも残酷である。前者の声が社会的に理解され、後者の声は無視される。これでは、声の差異によって、社会的な権利も得られないこともある。私にとって、声は、身体と同様に、複雑なものである。

 健音社会では「理解する」確実性の度合いだけに着目し、「異常な声」に対して「理解できない・されない」という恐怖感が生じるということが考えられる。初めから英語を聞いて理解できる人はほとんどいないし、初めから異色の声を聞いて理解できる人は少ないだろう。つまり、初めから確実性を求めることに問題があると思う。もし、異常な声を即座に理解できなくても、何度か聞いているうちに理解できれば良いという考え方がこの社会に広がり、様々な声を持つ人々か存在することを認めれば、きっと、相互理解(reconciliation)が可能になるはずである。

「表現する権利」なしで、私たちは社会生活を営めない。「表現する権利」を持つということは、自己だけでなく他者の声を「理解する義務」もあることを考えていくべきである。少しずつ私たちの差異を理解し合える機会を持つことによって、二分化された声の政治性を緩和することができると信じている。この先、健音文化の呪縛を解く手段を考えねばならない。

「声の政治学」についての私の研究は始まったばかりだ。
 

*最後になりましたが、本報告書を作成するにあたって、日本語の表現をご指導下さった山田嘉則さん、このような報告の機会を与えて下さった松波めぐみさん、倉本智明さん、ここで私の<声>を聞いてくださった全ての方、本当に有難うございました。

(1) 本報告者は先天性の脳性小児麻痺による軽度の言語障害を持っている。それによって生じる「声」の社会・政治的問題をここで提起したい。「声の政治性」を報告者の主観的な立場から考えたい。本報告では声のあり方に関する決定的な結論を出すことを目的としない。予め、ご理解頂きたい。本報告で、「社会的に望ましい音声・発音ができる人」を「健音者」とした。「非言語障害者」ということばも考えられたが、「言語障害者」の多様性を考えると、「非」だけをつけることでことばを定義できなかった。私としては、すべての人が違う<声>を持って生きていると強く信じているので、二分化をはっきりさせる「言語障害者・非言語障害者」や「唖者・健音者」というペアでのことばの使用をしない。

(2) Ong, Walter J. (1982) Orality and Literacy. The Technologizing of the Word. London and New York: Methuen. 
オングは、声の文化と文字の文化を対立関係に置くことで、声の文化への高い評価を説明している。それは、声は表記文化に無関係に存在することが可能だが、表記文化は、声の言語構築(スピーチ)なしにその存在は不可能である。常に文字による表現の基礎には声としての言葉(スピーチ)が存在しているのに、文学研究が、「書かれたもの」を絶対視してきたことに対して批判する立場をとっている。 オングは「声の文化」に関心を持ち、ホメロスの詩の中の強いリズム・反復表現と対語・頭韻や母音韻などを声の文化に基づいた思考と表現として分析し、声の文化は人間の日常生活に密着していると考えた。このことから、オングが健音者中心の見解で声を考察していることが明らかである。(報告者の博士論文にて詳細を記す。)

(3) フランスの歴史学者・哲学者のミシェル・フーコーは、「言説の秩序」と同時に、「身体の秩序」が存在していて、その両方で、社会を構成していると考えた。これが有名なフーコーの身体・主体の政治学である。「声の政治学」の出発点はフーコー理論の中で述べられていなかった私の個人的な疑問から考え付いたことである。

(4) Hancock, P., Hughes, B., Jagger. E., Partherson, K., Russell, R., Tulle-Winton, E., and Tyler, M. (2000). The Body, Culture, and Society: An Introduction, London: Open University Press.
Shilling, C. (1997 [1993]). The Body and Social Theory, London: SAGE Publications Inc.
Synnott, A. (1993). The Body Social: Symbolism, Self and Society, London: Routledge.
Turner, B.S. (1992). Regulating Bodies: Essays in Medical Sociology, London: Routledge.

(5) 本報告では、声というのがキーワードとなっている。しかし、声という単語が、いくつかの異なった意味が存在する。大きく分けて、「音声として分節された声」と「主体の身体的表現としての声」に分かれる。この違いを表記上区別しておく必要があるように思う。本報告では、後者の「主体の身体表現である声」に着目したい。したがって、後者を<声>というカギ括弧表記で表わすことにする。

(6) オーストラリア国籍またはオーストラリアの永住権を持っている障害者は色々なサービスを受けられるが、私は学生ビザを取る際に、それらを使うことを拒否しなければならなかった。オーストラリア国籍を持つ障害者はタクシー会社の専用ダイアルなどを利用すれば良いことになっている。が、これにも問題がある。専用ダイアルや専用タクシーはまだ数が少なく、2〜3日前から予約しなければ、そのサービスを利用できない。

(7) バリアには、様々なものがあるが、主に4つに分類できる。
物理的障壁:高さ、長さ、重さ、時間といったものが「行く手を阻む」こと。本来の意味での「バリア」。
情報の障壁:見る、聞く、話す、嗅ぐ、味わう、触れるということが出来ない場合に不都合が生じること。
心理的障壁:人間の心の中にある感情や不確かな知識が障壁となってしまうこと。偏見やあきらめ。
制度的障壁:本人の意志や能力ではなく、「障害」を理由として一律に資格取得等を制限されること。
参考文献:『バリア・フリー百科』日比野正己編著 TBSブリタニカ出版 1999年

(8) Campion, J.(dir.) (1993) The Piano, Buena Vista (Australia) 日本では『ピアノ・レッスン』として知られている。

(9) 社会モデルを個人(医学)モデルと比較して、分かりやすく解説しているマイク・オリバーの表がある。
障害モデルの比較
個人(医学)モデル
障害者本人の悲劇の理論
個人的問題
個人的治療
医療優先
専門家からの支配
訓練
適応
偏見
態度
ケア
統制
政策
本人の適応
社会モデル
社会的抑圧の理論
社会的問題
社会的行動
自助
個人及び社会の責任
経験
主張
区別
行動
権利
選択
政治
社会の変化

(引用:Oliver, M.(1996)Understanding Disability: from Theory to Practice, London:Macmillan.p.34)

(10) 障害学とは、「障害を分析の切り口として確立する学問、思想、知の運動である。それは従来の医療、社会福祉の視点から障害、障害者をとらえるものではない。個人のインペアメント(損傷)の治療を至上命題とする医療、「障害者すなわち障害者福祉の対象」という枠組みからの脱却を目指す試みである。そして、障害独自の視点の確立を指向し、文化としての障害、障害者として生きる価値に着目する。」(長瀬修・石川准編『障害学への招待』明石書店,1999年)と説明している。

(11) 言語学の中ある音声学が声と言語の関係に着目し、その音声形式を研究している。
Ashby, P., (1995) Speech sounds. London: Routledge.
Roach, P., (2001) Phonetics. London: Oxford
O'Connor, J.D., (1973) Phonetics. Harmondsworth: Penguin.

(12) 映画の中では、なぜ彼女が「音声言語としての声」、すなわち、スピーチを使うことをやめたのかという具体的な理由、および、彼女が手話をどのようにして使い始めたのかという説明は明確にされていない。映画の冒頭で聞こえるエイダの心の中の声は次のように語られている:
The voice you hear is not my speaking voice, but my mind's voice. (今、あなたが聞いている声は私の喋り声ではないが、私の心の声である。)
I have not spoken since I was six year's old. None knows why, not even me. My father says it is a dark talent and the day I take it into my head to stop breathing will be my last. (私は6歳の頃から話すことをしなくなった。誰も何故そうなったのか分からない。この私でさえも理由が分からないのである。父はそれが私の邪悪な才能であり、私が息をすることを止めると思いこんだ日が私の最期の日だろう、と言う。」…

(13) Sacks, O. (1989) Seeing Voice, New York: Vintage Books

(14) Bruzzi, S.(1995) "Tempestuous Petticoats: Costume and Desire in The Piano." Screen, vol.36.3 pp.257-266.
Dyson, L.(1995) "The Return of the Repressed?: Whiteness, Femininity, and Colonialism in The Piano." Screen, vol.36. 3, pp.267-76.

(15) 私が考える脱構築とは、「現在生きている時代や場所に合う自分の価値観を模索したい」「誰もが当たり前だと信じていることは、実は当たり前ではない」、つまり「現在の構築について疑う」ことである。

----(配布論文引用終わり)------------------------------------------------

●質疑応答
(A)感想だが、声のことについてまとめたものはないので斬新。自分は就職する前に言語聴覚士の学校に非常勤講師として勤めていたが、そこでは医学モデル主流で、社会モデルはなかった。しかし、「理解を求める」とはどういうことか教えてほしい。

(稲原)日本語の使い方が悪かったのかもしれないが、声が出なくなったことがあって、専門家に聞いたら、非常に遠いところに通えとか言われた。読めないから声に出ないのではなく、読む時に声を出しくい。頭にはいるが声にならない。なのに「毎日訓練しなさい」とか言われて、他に道があるのではないかと思った。
 オーストラリアで学会発表する時は、ホーキング博士が使っているようなコンピュータを使っている。だけど今回は自分の声を出したくて読んだ。あちらでも音声学とか発音学とか、医学モデルばかり。自分の音声は英語に合っていない。rの発音ができないのは日本人の癖なのに障害のせいと言われて、練習させられたりした。これではまずいと思った。
 声と身体はつながっている。自分は手がうまく動かせないが、どうしてもろう者と話をしたくて、コンピュータを使ったらできた。学長に言って、そうやってゼミをすることができて楽しかった。

(A)言語障害が強いことで運動機能ができるできないの判断に影響したことは?

(稲原)ある。中学校からコンピュータが好きで情報科に行きたかったが落ちた。エレクトーンもひけるとか説明したがわかってもらえなかった。声が出ないからばかにされたりした。ダウン症の友達も必死に訴えているのに親が勝手に決めつけたりしている。声ってすごく大事だなと思った。

(B)声によって判断されることは、脳性麻痺を持つ人の介護に入っている経験から、よくあると感じる。その人とはつきあいが長いので今では個性のある声と思って言語障害とは感じていないが、他の人に飛び入りの介護に入ると感じたりする。
 言語障害があることで知能が低いとか子供扱いされることが多い。外出先でちゃんとしゃべっているのに、店員が本人に対応しない。その人が電話するといたずら電話と思われる恐れがあるので、電話に限っては、かわりに電話するように介助者に頼むこともある。

(C)記号(意味)そのものが伝わっていないということと、ノンバーバルな部分(声色などの印象)が伝わるということは、分けて考えるべきでは?

(稲原)今後の課題になると思うが、本当の意味の声は赤ちゃんの泣き声だと思う。意味以前の段階で母親は動く。受け取る方

(D)言語聴覚士ができたのはオーストラリアでいつ?

(稲原)調べてメイルで送る。
【後日補足:オーストラリアの言語療法学の教授によると、オーストラリアで言語療法学が成立したのはそんなに昔のことではなく1931年で、専門家たちの協会が成立したのが1944年だそうです。】

(D)あと、三つほど質問。
 一つ目に、性差・地域差・階層差と障害に着目することとの関係は?
 二つ目に、理解とはどういう意味?前半では、発話をしていても聞き取り手が受け取らないと、といいながら、声は表現、とも言っているので。
 三つ目に、ナショナルなもの(ネイション-ステイツ、国民国家)をどう考えている?たとえば「日本語」というのは医学モデルに従っているのでは?多言語国家のことは?

(稲原)性差・地域差・年齢差というものは、健常者の場合だいたいが声の質で判断可能だが、自分がひとこと「もしもし」というだけで、間が空く。
 二番目は、たとえば赤ちゃんの声とか映画の中のピアノの音声とか、ある人によってはわかるとか、日本人が外国に行くと理解されないとか、のこと。でも身体全体で表現すると通じることもある。
 三番目は、母がオーストラリアに来た時にまったく通じず、「ここではあなたの気持ちがわかる」と言われたので取り上げた。もう少し具体的に書けばよかったかも。

(D)1番目についていえば、受け手の問題だけでなく、たとえば女性の話し方が男性支配がうまくいくように作られているとか、階層差などについても、話し方によって階層差が再生産されているとか社会学ではいうが、それが言語障害のある人とない人の間につながる?

(稲原)たとえば100年200年前は女性の声も聞かれてこなかった。言語障害についてももうすこし社会性について言えるということをアピールしたかった。

(D)社会性を持った声というのがいい。

(稲原)意味を持つ声とそうでない声をもしかしたら分けた方がいいかもしれない。

(C)階級差・階層差・性差との違いは、意味と意味以外の境界線自体を動かすのが言語障害の問題では。

(A)理解ということをさっき聞いたのも、健常者に伝えていかないと、いわゆる「一人一人を大切に」というような福祉言説に回収・消費されかねないので。

(F)理解と言うよりも、自分の持っている枠組を揺るがされることが大切。揺らいだ時に枠組をしっかりさせようと解釈しようとしてしまうが。

(A)肢体障害にしても、世間の正しい動かし方に則って動かそうとしている。

(稲原)自分も左利きなのだが、日本で左利きだと小学校などで誰も書き方を教えてくれないで、右に強制されかけた。「あ」が左右逆になる。オーストラリアでは人口の3割が左利きなので全然気にならない。言語障害の人も違う見方をしたらしゃべりやすくなるのではないか。「わかってもらえる」という見込があるからしゃべれるが、「無視される」と思ったら硬直してしゃべれない。
 イメージとか規範というのは、たとえば履歴書に名前を書く時にきれいに書きたいと思うが書けない。練習しても駄目であきらめた。規範が「こうしなければならない」と人の気持ちを抑圧することで自己イメージを変える。日本では自分の障害を認めたくなくなるのは、それだけ社会の抑圧が強い。優先座席を譲ってもらうために声を出すだけで変な目で見られる。日本は声を出しにくい社会。違ったものがとことん排除される。

(G)論文の最後に「もし、異常な声を(中略)相互理解が可能になるはず」と書かれているが、シンプルに考えすぎていないか?もし、それが可能になったとしても、まだ残される問題があるのでは?
 それと、論文のの中頃に「『もしかしたらわかってくれるかもしれない』という話し手の(中略)コミュニケーションを可能にする」とあるが、その先に政治性とか複雑な問題があると思う。私は1年ほど前に脳性麻痺の方にインタビューした時、釈然としないものを感じた。それは、聞き手である私の語り手の不明瞭な言葉などを聞き返すという作業が聞き手の語りを統制・誘導していたからでは、と思っていたが、じつはそれだけではなかった。語り手は、彼ならではの短いセンテンスや言葉できり返してきていた。このあたりのことを、どう考えているのか?

(稲原)自分が一番いやなのが無視されること、わかったふりされること。介助者とレストランに行く時、介助者のほうにオーダーを聞く。自分が言ってもウェイトレスは聞かない。怒ってケンカになった。でも、自分よりも重度の友達と行くと、自分にオーダーを聞く。ちゃんと本人にオーダーをとってほしい。だからGさんが本人に確認したのはすばらしいこと。わかってもいないのにわかったふりをされるのが一番腹が立つ。
 今回、手話のことに詳しく考えられなかったが、私自身、手や身体を使って会話をすることが多いので、手話などの音声以外の言語に興味がある。

(E)Gさんが指摘されたのは、稲原さんが今おっしゃられたこと以外にも政治性の問題があるということですね。

(G)ええ、そうです。

(A)稲原さんの今後の課題は?

(稲原)まずはこれ以外の仕事を先に仕上げて。これについては、他の人にインタビューしてみたい。他の言語障害、吃音とか重複障害とかも調べてみたい。障害と非障害の境界分けに疑問があるので。


*参加者17名(うち手話通訳2名)

*作成:
UP: 20090712
障害学研究会関西部会  ◇障害学研究会関西部会・2003全文掲載 
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