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アマルティア・セン――個人の主体性と社会性・公共性のバランス

後藤 玲子 『人間会議』2003年冬号



  *京都大学大学院財政学研究会春講演 2005年4月30日資料1

  アマルティア・センはインド出身のノーベル経済学賞受賞者である。理論経済学、とりわけ社会的選択理論において先駆的な業績をもたらすとともに、貧困や不正義、開発や福祉、自由や権利、民主主義などの問題領域に関して、大きな学問的進歩をもたらしている。
  哲学者アイザイア・バーリンが自由の概念を2つに区分し、自由の平等な保証は、個人の身体や精神が外から介入されないという意味の消極的自由に限られるべきであると主張したとき、若きセンはバーリンに噛み付いた。川に人を突き落とすのがいけないとしたら、川に溺れそうな人を見過ごすことがなぜ許されるのか、人から食べ物を奪うのがいけないとしたら、飢えている人を見過ごすことがなぜ許されるのか、たとえ他者からの拘束から逃れることができたとしても、実際に何かを実現することができないとしたら、はたして人は自由であるといえるのだろうか、と。
  かくしてセンは、バーリンが追放した積極的自由の概念を再度回収し、より広義な自由概念を作ろうとする。センによれば自由とは、「本人が価値をおく生を生きられる」こと、より正確には、「本人が価値をおく理由のある生を生きられる」ことである。それは、自己にも他者にもその理由をつまびらかにしながら、ある生を価値あるものとして選び取っていくという個人の主体的かつ社会的な営みが、実質的に可能であることを意味する。以来、センは、このような広義の自由を人々に平等に保障すること、そのために必要な制度的な諸条件、例えば、生存を支える物質的手段の保障から個人の主体的な生を支える社会的諸関係や精神的・文化的諸手段を整えることまで、広く関心を向けていく。

  だが、広義の自由の平等な保障を唱えようとした途端、たくさんの問題を引き受けなくてはならなくなる。例えば、バーリンは、実際に何かを実現するためには自分自身の傾向性をコントロールするというカント的な自律が必要とされるが、それが個人の内面を越えて社会に要請されるとき、多数者支配という全体主義・管理主義を招来する恐れはないかと憂慮していた。また、リバタリアンは、積極的自由の保障には余裕のある人から困窮した人への資源の移転を伴うが、そのような移転は資源を所有することへの介入ではないかと問いつめる。さらに、近代経済学者は、生存ぎりぎりのラインを越えて「本人が価値をおく理由のある生」を保障することは、人々の勤労意欲を低め、福祉依存を強めることにつながらないだろうかと問いかける。他にも、個人を目的として尊重することは、本人の目的に反する社会的移転や個々人に分割不可能な共同的目的を個人に要請する途を閉ざしてしまうのではないか、というコミュニタリアンの批判が存在する。はたして、センはこれらの疑問にどのように答えるのだろうか。センの考える自由の保障とは具体的にどのようなかたちをとるのだろうか。

   はじめに、「本人が価値をおく理由のある生を生きられる」という言葉の意味を検討しよう。例えば、法学の分野では、はたして権利の付与は選択主体であることを根拠とすべきか、それとも利益主体であることを根拠とすべきかという古典的な問題がある。それに対してセンは次のような議論を展開する。個人を利益や意思の主体として尊重するといっても、それが困難であることは想像に難くない。なぜなら一方で、個人の選択を尊重するとしても本人が自分でなした選択が本人の意思を正しく示す保証はないし、本人の示した意思が本人の利益を正しく伝える保証もないからである。長い抑圧経験をもつ人は、他者からの批判を恐れて、自分の意思からかけ離れた選択をなしてしまうかもしれないし、自分の真の利益から目をそらすことが習い性になってしまっているかもしれない。そうだとしたら、本人の選択や意思はひとまず留保したうえで、本人の利益を直接、社会的に保障しながら、本人が自分の真の利益に適う選択をなすために必要な力(合理性や理性)の修得機会、あるいはそのような力の発揮を支える条件の整備を行う方が得策ではないか。
  だがその一方で、本人の利益を尊重するとしても何が真に本人の利益であるかは自明ではないという問題がある。たとえ人々に共通の利益をもたらす財が社会的に特定化されたとしても、個々の特殊な文脈においてその意味が異なってくる可能性を否定できない。ある個人にとって飢えないことがかならず利益になるといえるなら、有無をいわせず食料を給付すればよいだろう。移動することがかならず利益になるなら、迷うことなく移動手段を提供すればよいだろう。けれども、ひとの利益や関心は途方もなく多様であって、他に何かの目的があり、それとのひきかえで、いまは飢えを忍ぶことが彼自身の利益に適うかもしれない。移動の不自由を我慢することが彼自身の利益に適うかもしれない。個々人は、外からは容易にうかがいしれない固有の事情をもち、独自の希望をもつとしたら、本人の意思を越えて本人の利益を知ることはきわめて困難であると覚悟せねばならない。
  加えて考慮しなくてはならないことは、個人の利益(関心)や意思がきわめて多層的であるという事実である。個人が関心を抱く対象は、自分自身の私的利益に限られない。また、個人の選択は、私的利益に対する関心に基づくとは限らない。例えば、個人は、親しい家族や隣人の利益を広く考慮する場合もあるし、特定の他者との関係性を越えて、何が正しいかという問いへストレートに向かう場合もある。そして、何が正しいかがストレートに関心事となるような場面においは、あえて自分の私的利益(たとえそれが真の利益であろうとも)を差し控え、それとはかならずしも一致しない選択をなす可能性がある。あるいはまた、自己の有する知識や情報が不確かな事柄については、自分の意見が公共的に等しい重みでカウントされることを恐れて、あえて選択しないことを選ぶかもしれない。

  これらの問題を考え合わせたうえで、センは、一定の福祉を達成するために必要な手段を社会的に保障する一方で、最終的に何を達成するかは本人に委ねるという方法を提起した。それがケイパビリティ(潜在能力)の理論である。ある個人の潜在能力は、本人の達成可能な福祉の選択肢集合を表すものであり、選択の幅を示すものである。基本的な潜在能力が不足している場合には社会的に保障されるが、保障された選択集合の中から何を実際に選ぶかは本人が「価値をおく理由のある生」に依存して決められる。潜在能力理論の真髄は第一に、個人は自己の福祉に対する価値評価(の体系)をもつと仮定される点にある。それは、本人の主観的評価である点において効用と共通するものの、評価の的が福祉に絞られている点において、効用とは異なる。福祉に対する評価を通じてなされる財への評価は、財から直接得られる効用一般(快、満足、あるいは幸福)と一致するとは限らない。例えば、アルコールに依存している個人は自己の福祉を損ねることを自覚しながら、より高い効用を求めて酒を購入するかもしれない。その一方で、福祉に対する評価を最大化することが、ただちに個人の生の目的になるとは、かならずしも想定されていない。自己の福祉以外の関心に基づいて、あえて自己評価の低い福祉を選択する可能性が、理論の中で考慮されている。
  潜在能力理論の真髄は第二に、個人に対してどのような潜在能力を保障するかは、本人の意思を越えた事柄であるとしても、本人の意思からまったく離れたものでもないことが想定されている点にある。このような想定は、センの社会的選択の理論をベースとした民主主義の議論において次のように説明される。社会的に保障する潜在能力の具体的内容は、理論的に与えられるものではなくて、社会を構成する個々人の意思を基盤とする社会的な意思決定プロセスによって決められなくてはならない。ただし、ここでいう社会的な意思決定プロセスはかならずしも多数決を意味するものではない。上述したように、個々人の関心は多層的な構造をもち、意思もまた単一ではないとしたら、選択にあたって個人は、自分の抱いている関心それ自体を振り返る作業を余儀なくされるだろう。潜在能力の社会的保障といった公共的問題を決めるうえで最も重要なことは、自己の持ちうる多様な関心や自己のなしうる多様な選択の中から、公共的な判断により相応しいものを選択しようという、個人のメタ的評価の営みであり、そのような評価を形成する理由を広く公共的に問うような討議プロセスではないだろうか。

   このように、センの潜在能力理論ならびに社会的選択と民主主義の理論は、個人の社会性・公共性を尊重しながら社会的に保障する手立てを決定し、社会的に保障する手立てを講じながら本人の主体性を尊重するという、離れ業に挑むものだった。その背後には、個人の主体性と社会性・公共性との関わりについての深い洞察が読み取れる。人には、選択することを通じて選択する力自体を高め、自分や他者に対する責任を自覚し、自分のなした選択と真の利益とのギャップに気づいていく側面がある。だが、その一方で、自分にとって価値ある生は何かという主体的な問いは、人々にとって価値をもつ福祉は何かという社会的・公共的な問いとの関連で、より深く吟味される側面、他者に対して説明する努力を通じて価値をおく理由がより明確化される側面があることも確かではなかろうか。
  以上が自由の保障に関するセン理論のエッセンスである。最後に、近代経済学者からの問いに関して2つ付記したい。潜在能力の保障においても、政策意図を裏切る帰結が生じる可能性は残る。だが、それはむしろ個人が動かざる受動体(motionless patients)ではなく主体的な行為者であることの証左であるとセンは主張する。自由の保障の目標は、個人の主体的な活動性の回復にあった。ところで、個人の活動は、目的や意思に応じて多様な展開を遂げるものであるとすれば、政策意図とずれがでるのはむしろ自然なことである。そして、たとえずれがでたとしても、ある範囲内で個人が理性的な活動の意欲や方向性を見出したとすれば、自由の保障は確かに成果をもたらしたといえるのではないだろうか。

  2001年の初夏、ドイツのビーレフェルドで、ある経済学者が「低賃金ではあるもののセクシャル・ハラスメントがない」か、あるいは「セクシャル・ハラスメントはあるものの高賃金である」という2つの雇用条件をめぐって、労働者自身が選択をするという報告をしたとき、センはまた噛みついた。「物事には経済学的分析が適切な問題とそうではない問題がある」というのが、長い長い批判コメントの主旨だった。続けて私が、「切羽詰まった貧しい少女にはたして選択の余地があるといえるのか」とコメントし、あとで「もし私がそんな張り紙を見つけたら、中に入っていって雇用者を蹴っ飛ばすのに」と話すとセンはハッハッハッハと大声で笑い、「私をサポートしてくれてありがとう」と言葉を添えた。そのとき私は、センの近著『自由と経済開発』にあった次のような一節を思い浮かべていた。「半奴隷的な境遇に生まれ落ち、拘束的な状態にある労働者、抑圧的な社会で束縛的な状況におかれている女性、自己の労働力以外に格別の実質的稼得手段を持たない労働者らは、福祉の観点から剥奪されているばかりではない。彼らは責任ある生を送る能力という観点からも剥奪されている。なぜなら、責任ある生を送る能力は基本的諸自由をもつことに依存するものであるから。責任はその前提条件として自由を要求するのである」。


UP:20050429
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