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「『障害をもつ子の親』の自己変容諸相――ダウン症児の親のナラティブから」

中根 成寿 20021230 『立命館産業社会学論集』38(3): 131-156

last update:20130722

要約

 2003年度から障害者福祉の制度がこれまでの措置制度から支援費制度へと変更される。これは社会福祉基礎構造改革の流れを受けての変化である。支援費制度は「措置から契約へ」,「施設から地域へ」と当事者の主体性・選択性を保障するという理念をもっている。新しい制度は,障害をもつ当事者やその家族の生活や親子関係を少しずつ,確実に変化させるだろう。過去の先行研究において,障害をもつ子の親は「悲劇の存在」だったり「愛情深く子どもを保護する存在」として,受動的にとらえられてきた。だが,「ノーマライゼーション」や「自己決定」という理念の浸透や当事者集団(セルフ・ヘルプ・グループ)でのグループ・ダイナミクスにより,親たちは主体的に行動を始めている。親は他の親たちとの相互作用の中で,社会における「障害をもつ子の親」役割に気づき,それを自覚的・批判的に変容させている。本稿はこうした親たちの自己変容に注目し,以下の目的を設定する。一つ目はダウン症児の親たちの語りから,親の立場から見える社会の姿を描き出すこと。二つ目は親たちが自身や社会との相互作用により,子の障害を理解し,社会から期待される親役割を知りつつ,自己変容を進めていく様子を記述すること。最後に,親たちが自己変容の結果を社会に投げ返す過程を描き出すこと,である。

 キーワード:権利擁護,家族介助,親役割,ナラティブ・データ,質的調査


目 次

 I.問題設定
 II.障害をもつ子の親のナラティブ・データ
  1.調査手法
  2.分析手法について
  3.親たちのナラティブから
 III.本稿のまとめ


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I.問題設定

 2003年度から,障害をもつ人々に対する福祉制度が大きく変わる。社会福祉基礎構造改革の流れを受けて,障害をもつ人々も「措置から契約」へと制度の枠組みが変更される。支援費制度は,当事者の主体性や選択性を重視するという理念をもっている。当事者への注目がなされたのは,ノーマライゼーションや自己決定といった1981年国際障害者年以降の一つの成果である。だが,筆者はこの「当事者主義」に一つの疑問を投げかけたい。果たして「当事者」とは誰か。「当事者」の範囲を障害をもつ本人と設定して,当事者を重視すればするほど,その近くにいる家族への視線は当事者の陰に隠れていく。当事者と家族がこれまでどおりの被保護―保護関係を続けていたとしても,である。支援費制度は,障害をもつ人々の生活や家族関係,親子関係を少しずつ,でも確実に変化させていくだろう。支援費制度が当事者に注目すればするほど,その家族に対する視線は重要となる。現状の家族ケアの実情や,家族規範を鑑みれば,当事者と家族が相互に独立する関係が現実的でないからである。 では,その前に,親たちや障害をもつ当事者たちの生活世界である「障害をもつ人のいる家族」の内実は果たしてどれだけ知られているであろうか。日々の生活や家族の姿,社会とどのようにつながっているかについて,親がどのような役割を担い,障害をもつ子との生活によって自己をどのように規定し,変容させているかについてはこれまで手記等1)では語られてきたが,アカデミックなアプローチはなされてこなかったのではないか。
 これまで,「障害者家族」を対象とする研究者は社会構造や,制度の持つバイアスを指摘しながら「障害をもつ人のいる家族」を分析してきた。それに加え,これらの立場とは少し異なる角度から「障害者家族」を読み解こうとする試みがある。キーワードとなるのは,「ジェンダー」,「家族」,「感情」である。「障害をもつ人のいる家族」を社会構造や制度的な側面を前提にせず,障害をもつ当事者や親を捉えようとする試みである。
 こうした社会学からの議論は,「障害をもつ人とその家族」に対する議論にどのように貢献するのか。これまでの障害に関する研究は,「障害」に対するネガティブな意味づけをなかなか揺り動かせず,「障害」を治療したり除去しようとしたりしてきた。その家族は「障害者を介護する存在」や「社会的支援の対象」として捉えられてきた。その場合,すでにある「障害」に対する価値観や,すでにできあがっている既存の社会体制のバイアスが無自覚に保持さえされてしまう。これまで語られてきた「障害」への認識は片面からだけであり,全体像を示していないのではないか,と障害を社会構築主義的に捉えようとする人々は指摘する(石川[2002])。日本では「障害学」という名前で呼ばれることになりそうである2)。
 土屋葉は「障害者家族」に対する先行研究に対して「家族研究のメインストリームでは論じられず,家族ストレス論(石原[1985][2000])という領域にゲットー化されてきた傾向がある(土屋[2002a])」と指摘する。社会福祉学も,当該家族を「支援の必要な対象」としてあらかじめ措定するがゆえに,多様な面をもっている「障害をもつ人のいる家族」を一面的に捉えがちである。「障害をもつ人のいる家族」を援助の対象,福祉の対象としてだけで論じてしまうと,障害もつ人やその親を支援対象として固定化し,さらには親と子を一体のものとして見なしがちである3)。
 また,家族ストレス論のように家族の中の障害をもつ人を「ストレス要因」としてだけみなしてしまうのは,障害をもつ人のいる家族が経験する「豊かな葛藤」を見過ごしてしまう。さらには親を「子を介助する存在」とみなして,「ケア」のもつ相互作用性やケアによって生じる新しい関係性4)を見落としてしまうことで,「障害児」を育てることのマイナス面ばかりを強調することになってしまわないであろうか。
 こうした批判をもとに,構築主義的な手法をもとに家族の内実を分析しようとする研究が行われるようになった。すなわち「家族」を自明のものとしない,ジェンダーの視角や成員の主観的な意味づけをもとに家族を捉え直す近代家族論の立場である。この立場に立ち,障害をもつ人のいる家族がおかれた社会構造を浮き彫りにさせる試みを行っている研究者には要田洋江,石川准,春日キスヨ,岡原正幸,土屋葉らがいる。要田は「健全者の論理」(要田[1986],石川は「存在証明」というアイデンティティ論から(石川[1992]),春日キスヨと岡原正幸は愛情規則を利用して(春日[2001],岡原[1995]),障害をもつ人々のいる家族の置かれている構造を描き出す5)。さらに土屋は要田らの先行研究をうけて,より「障害者家族」の内実へと実証的に踏み込むために,「障害者家族」の当事者(障害をもつ人々とその親)たちの語りをもとに「障害者家族を生きる当事者の意味世界」を構築する。土屋は,以上にあげた先行研究に対して,「抑圧的な構造を指摘しながらも,実証的な分析が行われていないこと,さらに,他の家族成員の経験に焦点化され,障害をもつ当事者の視点が欠如していること」(土屋[2002b])を批判としてあげる。ゆえにその実証的分析を行うという意味で,障害をもつ当事者や家族の語りから「障害者家族」の内実を表現する。
 「障害者家族」の内実を,当事者の主観的意味に寄り添う手法で明らかにした点で,土屋の研究は評価できる。だがあえて批判を行うならば,筆者はその当事者たちの語りの中に,「社会」との接点を見いだす事がさらに必要だと考える。「障害者家族」と「社会」との関係を見いだす事は,家族の内実だけではなく,家族が社会とどのようにつながっているか,親や障害をもつ子が社会からどのように規定されているかを見いだす事でもある。
 本稿は「障害をもつ子のいる家族」を,要田,石川らの分析枠組みを援用し,「障害をもつ子のいる家族」,さらにはそれと社会の関係を実証的に描き出すために,ダウン症の子を持つ親からのナラティブをその手がかりとする。筆者は親の話を傾聴して聞きつつ,同時に親や家族と,社会との関係もその語りから導き出したいと思う。話を聞く対象に共感しつつ,同時にそこから社会との関係性を見いだしていく手法は,「臨床社会学」の一つのスタイルでもある。
 また,専門家に語られてきた障害をもつ当事者や,その家族が,自分たちの言葉で自らを定義しなおすという試みは,近年日本で芽を出しつつある「障害学」(disability studies)の研究手法の主流でもある6)。筆者は語られる存在が語る主体へと変容することで,専門家や制度が描き出す現実とは異なった現実構成が可能になると考える。
 なお,本稿ではふれられないが,「障害をもつ子の親」というテーマを扱う際に避けては通れない親のジェンダーという視点を指摘しておかねばならない。本稿で扱うナラティブはすべて母親のものであることを断っておく。要田洋江が指摘しているように,障害をもつ子の親の問題は,家族介助におけるジェンダーバイアスと関連がある。家族介助とジェンダーという視点は筆者の研究関心において,今後の大きな課題となるが,それは次の機会に残す7)。



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II.障害をもつ子の親のナラティブ・データ

1.調査対象
 障害をもつ子の親からのインタビュー調査は,K市を中心に活動しているある親の会のメンバーと元メンバーに対して行った。筆者は,当該団体の賛助会員として会に参加しながら,会員と個別な面識を作りつつインタビュー調査を試みた。インタビューを行ったのは,2000年6月から2002年8月にかけてである。
 本稿に直接登場するのは,5人の母親たちである。いずれもダウン症の子どもを出産し,家庭において共に生活をしている。5人のフェイスシートは次の通りである。なお年齢は2002年9月現在のものである。
 Mさん。50歳。19歳になるダウン症の男性の母親である。Mさんにとって二人目の子どもである。ダウン症であるMさんの長男は地域の小学校,中学校の普通学級に通学し,無事卒業した。中学卒業後は,公立高校の通信制に通い,現在は自立生活を模索中である。
 Aさん。48歳。9歳になるダウン症の女の子の母親。2歳上に姉がいる。パートナを含め家族4人で生活している。家の近くに仕事場があり,Aさんも子どもが学校から帰ってくるまでそこで働いている。ダウン症であるAさんの次女は地域の小学校の普通学級に通学している。
 Sさん。26歳。5歳になるダウン症の男の子と,3歳の弟の母親である。二人の子どもは2002年9月現在,保育園に通園中である。
 Nさん。3人兄弟の2番目の女の子がダウン症である。その子どもは現在17歳,高校3年生地域の小学校,中学校を卒業し,公立高校の通信課程の3年生に在学中である。来年以降の生活をどうするかが現在の大きな課題である。
 Oさん。16歳になる女の子がダウン症である。地域の小学校,中学校を卒業し,公立高校の通信制に通う。時折実家の家業を手伝いながら,生活を送っている。Oさんのお子さんも義務教育が終了した後の進路について,現在検討中である。
 筆者と個別な面識がある方は調査時にはそう多くはなかった。それに会全体に筆者の存在が認知されているわけではなく,また自発的な当事者の会であるという性格上,会員すべてが同じ目的や立場(親でない方も所属している)にあるわけではない。そのため,代表者の方に会全体に説明していただくよりも,筆者個人が賛助会員として参加し,会の個人的面識や対話の中で,調査の趣旨や目的に関して説明し,インタビューに協力してくれる人を選んだ。
 本稿における調査の方法は,筆者とインフォーマントの1対1のインタビュー調査によって行われた。聞き取りでは質問や調査票は特別に用意することはせず,現在の子どもの様子や,出産時や小学校入学時のエピソード,パートナや親の両親の話,親の会,今後の生活の展望など,インフォーマントに話題をまかせる形式の半構造化インタビューを行った。調査で得られたデータはできる限り正確にテープを起こした。
 なお,本稿に登場する親たち(今回は母親だけとなったが)は全て,親の会への参加者たちである。親の会に参加する時点で,すでにある程度の現実への不満や情報が足りないと言う感覚ももった人々であり,参加することでなんらかのグループ・ダイナミクスの影響を受けていると考えられる。語る言葉にしても親の会への参加化なければ,得られなかった言葉であるかもしれない。だが,本稿の目的が親の語りから社会を描き出す,という点にある以上,経験の言語かが可能な集団を対象に選ぶ必要性があった。ゆえに本稿のデータが「障害をもつ子の親」一般を表象している訳ではないことをあらかじめご承知おきいただいたい。

2.分析手法について
 分析手法には,グランディッド・セオリー・アプローチの適応を試みた。グランディッド・セオリー・アプローチは本研究のような質的なデータを分析する際に有効な手段とされている。数量的統計調査に比べて,科学的客観性や方法論に弱点があるとされてきた質的調査をよりデータに密着させた形で,限られた領域に適応できる理論の構築をこの手法は目的とする。
 テープに起こした内容は,数行ごとに分け,表計算ソフトのセルに一つずつ張り付けていった。そのセルの隣には「コード」,「メモ」という項目を設定した。これはグランディッド・セオリーでの「コード化」の作業を円滑に進めるためである。そのコードを「カテゴリ」に分類し,同じテーマについて語られているカテゴリごとに整理した。コード化のプロセスにおいてはできるだけ当事者の語った言葉を利用し,コードに利用した。グランディッド・セオリーで言うin-vivoコーディングにあたる。本稿では
〔 〕で囲まれたフレーズをコードとして提示する。また本稿の分析の文章に登場する〈 〉で囲まれたフレーズが生成されたカテゴリである8)。カテゴリ間の関係を考慮し,過去の理論との関係を比較しながら分析を進めていった。グランディッド・セオリーの目標が概念や理論を生み出すことであるとするならば,できるだけ多くの理論(この理論とは限られた領域のみに適合する「小範囲」の理論である)を生み出すことにある。過去の理論との対話,データとの往復がよりよい理論を生み出すとするグランディッド・セオリーは,これまで職人芸的な意味合いの強かった質的研究の方法論となりうるはずである。質的研究に確固とした方法論を持ち込むという試みも,本稿の目的の一つである。

3.親たちのナラティブから
(1)親を傷つけてしまう医療スタッフ

■〈善意〉による傷つけ
 出生直後に,子どもに先天的な障害が判明することで,親はショックを受ける。それは親と子の間で起こる葛藤ももちろんだが,子どもに障害があることを巡って,親子の外縁と取り行われる相互作用によっても親は傷ついていく。未熟児でダウン症児を出産したSさんは,医師にダウン症の告知をされるときや看護婦との会話の中で少しずつ傷を負っていく。
 医療関係者やパートナ,時には双方の親の両親も親を傷つける可能性がある。それは時には,〈善意〉によってなされる気遣いでさえあったりする。Sさんの場合は医療従事者との会話の中でそれが起きた。
 なんて言われたかな,あんまりこう,前向きな言葉はあんまりかけてもらってなかったのかなって今思うんやけど,例えばね,自発呼吸もできひんかったりとか,だからなんかこのまま生きていけるのかわからへんような,を言われて最初,雰囲気的に。そんでそのダウン症って言う病気は,何年単位に生きていきますとか,まあ親よりも絶対長くは生きないとか,なんかそういう,なんていうか,なかったですね。
 で,極めつけに看護婦さんに言われたのが,あ,病院の先生と看護婦さんどっちかに言われたのが,「若いからね,そんなことはないと思ってた」って言い訳したんですよね。先生が。だから,そのことを聞いて,なんかすごいそれが頭に残ってて,その後,看護婦さんが「二人目の時は検査があるからね」ってすっといわはったんですよね。でそれもずっと残ってて,まあ今は二人目のこと考えるより,今前の子でしょ。だからそんな,今聞いたら,もうすごい言い返すと思うんやけど,まあその時は,うーん,みたいな流して聞いてた。まあ今から思えばそういう病院やったから,二人目は違うとこで産んだんやけど。(Sさん)
 Sさんは医師から「前向きな言葉はかけてもらえなかった」と受け止めている。告知の段階では親は障害に対する知識を持っていない場合が多い。医師の側からすれば,まず必要なのは障害の客観的な理解と判断したのだろう。しかしSさんは,その説明を否定的な雰囲気に受け止めている。「親よりも絶対長く生きない」という言葉はダウン症という障害を説明する際に多く使われる。親より長く生きないという表現は,親に大きな衝撃を与える。また医師はこの説明を肯定的な意味合いで利用している可能性がある。障害をもつ子を残して死ぬことに対する不安を和らげようと思ってする発言なのだろうか。ならば,これは「障害児」と「障害児の親」の密着を必要以上に求めようとする価値からの言葉である。その価値の裏には親と子が個人として「自立」して生きるにはほど遠い,親子密着型の「親は子が死ぬまで子どもの面倒を見る」という考えが根底にある。親より早く死ぬという言葉では,親は救われることはない。親と子が一生涯ケアしケアされる関係だと固定してしまえば,親は子より長生きすることで,一生子どものケアから離れらない。反対に子が親より長生きすれば,親は子を残して死ぬ心残りをもったまま死ぬことになる。ただ,これは親以外に子どものケアをする人がいない,という限定的な条件がそろった時に起こりうるのであって,家族自助規範を自明視した価値からの言葉にすぎない。
 さらに医療従事者とのやりとりにおいて,彼女は「極めつけ」とした上で「そんなことはないと思ってた」と言われたことを強く覚えている。「そんなこと」は「若いからダウン症が生まれるとは思ってなかった」という意味に彼女は解釈している。それを彼女は「言い訳」と受け取り,その言葉を忘れる事ができないほどの傷を受ける。ここでも〔何気ない言葉〕に〔傷つく親〕の存在を発見できる。悪意や差別の意志のない,〔善意の言葉〕により,親は傷を負う。同じように「検査があるからね」という言葉も彼女を傷つける。「検査がある」とは,出生前診断のことであり発言者はおそらく「二人目は障害のない子どもが産めるよ」という発言者にとっての〔肯定的メッセージ〕を善意で送ったつもりだった。残念ながらSさんはそうは受け止めなかったし,時間が経った今でもその言葉に納得できないでいる。

■傷つかないための戦略
 彼女は二人目の子どもの出産の時には長男の時とは違う病院での出産を選択している。出生前診断は行わなかった。検査をせずに出産したこと,長男の出産の時の看護婦の言葉への思いをSさんは次のように述べている。
 やっぱりなんでM病院で産みたくないって思ったかは,やっぱりその出産したときに,そういうことを言われて,傷ついた自分がいたからかなって。やっぱりその時点で,もう生まれてその時点で,命は大事なんやなって自分でも思ってたんかなって。例えば,絶対障害もった子なんかいやって思ってたとしたら,その看護婦さんがそういうこといわはったときに,「ほんまやな」って思ったと思う。「何で検査しいひんかったや,二人目なんか絶対検査しなうめへん」って多分そう感じてたんやろうと思う。もしそうなら。だけど,○○(長男)が生まれて,障害もってるって言われても,看護婦さんなんであんな事言うんやろって,思った自分がいたから。まあそれはそういう自分がずっといるんやなって思ったし,だから二人目もそういうあれも選択肢もない。産むなら産む。(検査をするっていう)選択肢すらなかったですねうちは。(Sさん)
 長男の出産の際に,Sさんと応対した医療従事者は彼らの価値観からSさんに障害についての説明を行った。〔親は障害のない子を望む〕,〔親は障害をもつ子どもを死ぬまで面倒を見たいと願う〕という価値が医療従事者たちからの言葉から導き出される。それは,医療従事者たちの,障害をもつ子どもの親に対する思いやりだったのだろう。確かに二つの価値観は,この段階での障害をもつ子どもの親たちが共通して経験する「常識的な」感情である。Sさんも最初は「その時は,うーん,みたいな流して聞いてた」と述べている。しかし,長男の成長によって生ずる親と子の相互行為が,Sさんの障害に対する価値を変容させていく。その結果,Sさんは長男を出産したときに言われた言葉にたいして抗議の気持ちをもっていく。医療従事者は医療という専門性から発する価値,家族自助規範から発する価値からSさんに言葉をかけた。そこにSさんを傷つけようとする「悪意」はないだろう。だからこそ,悪意がないからこそ,障害に対してネガティブな価値をもつ人々との〔ずれ〕を解消する事が困難なのかもしれない。ダウン症である長男の出産の後,Sさんは次男の出産の時,最初の病院を「今から思えばそういう病院やった」と見限り,別の病院での出産を行っている。その際の医師とのやりとりが以下の内容である。
 先生も一応聞いたんですよね,やっぱり一人目障害もってたりすると,二人目どうしますか,検査はありますけど,って。A病院ではそう先生聞かはって,うちはしませんっていうたら,なんかこう,(先生の顔が)ほっとしたんですよね,私から見たら。あ,この先生には心を開けると思って,そこでそんな「検査しなさい!」って言われるかもしれへんでしょ。病院の先生によっては。でもそうなったら多分違う病院で産んでたかなって思うんやけど,否定されることも経験していかないと,大きくなれないので,まあその病院ではたまたま私の想いと同じ想いの先生がいて,ほっとした自分がいたんやけど,まあそこで,楽に産めましたよ。気持ち的に。やっぱりなんでB病院で産みたくないって思ったかは,やっぱりその出産したときに,そういうことを言われて,傷ついた自分がいたからかなって。(Sさん)
 二人目の出産の時に,Sさんは出生前診断を行うかどうかの確認を受けている。彼女が「しません」と答えたときの医者の様子を,彼女は「(私から見たら)ほっとしたように見えた」と語っている。石川准が「差別は人を存在証明に括り付ける(石川[1992])」というように,彼女が二人目の出産の時に病院を変えたのも,出生前診断を断ったときの医者の態度を「ほっとしたように見えた」のも彼女の存在証明の方法である。つまり彼女は最初の出産でうけた傷をまたえぐられないために,自ら病院を変更した。医師の態度に安堵の意味づけを行ったのも,自分が〔傷つかないため〕の戦略である。もし彼女が同じ病院で二人目の出産を行うことになり,出生前診断をほのめかされ,それを断った際,医師がそれを素直に受け入れなかった場合,彼女はまたその傷を〔自分の努力で回復〕しなければならない。彼女はそれを未然に〔避ける戦略〕をとったのである。

■周りを味方につける
 その時,彼女の周りには,彼女を〔支持するパートナ〕,両親や〔親の会の人々〕がいた。Sさんは長男の出産の経験から〈支えてくれる人々の存在〉を重要視した。それは「たまたま同じ想いの先生がいてほっとした」という言葉と連続する。
 石川准の言う存在証明9)の一つである「開き直り」,「解放」は自分一人の思考で成功するものではない。新しい価値を生み出していくという試みは時間をかけ,継続していく必要がある。ふとした弾みに,かつてSさんを傷つけたような価値観と向き合わなければならない瞬間も子どもの成長の過程において直面するだろう。このプロセスを達成・継続するためには,彼女自身の努力もさることながら,彼女の子を育てようとする〔価値を承認〕し,周りから支える存在が必要である。存在証明を支えるには,彼女の〔意志ある行動〕や発言を周りの人に〔承認〕してもらうことが欠かせない。そのことを彼女自身も認識している。
 私ばっかり思っててもダメやと思う。相手がいて,子どもってできるから。だからパートナも私…はいいパートナを持ったのかなって思ったりしけど。のろけじゃないですよ。だからそういった面では,良かったかなって。お互いにそう思ってたから。いろいろ友達の話聞いてると,義理のお母さんが,(出生前)検査しなさいって言うとか…。やっぱりお母さんがとか,身内がとか旦那がとか(検査しなさいって言う)。それを押しのけて(検査なしで)産む人は産むかもしれないし…。私はたまたまそんな必要ないっていう周りがいっぱいいて,自分にとってほっとした。(Sさん)
 Sさん自身,「私ばっかり思っててもダメ」と語っているように一人では価値は貫けないと感じている。彼女は〔パートナが共通の価値を持つこと〕の必要性を語っており,また義理の両親からも傷つけられることはなかったことを「自分にとってほっとした」と表現している。
 親が社会の押しつけてくる価値観と拮抗していくためには,母親一人だったり,夫婦だけでは難しい。同じ立場・同じ利害に立つ親たちの集団で得られる安心感や情報なくして,傷つきやすい個人が社会と折り合いをつけていくのは至難の業である。「善意」や「常識」を振りかざして迫ってくる社会とつきあっていくには,親を支える仲間,親同士の〔当事者集団の必要性〕が重要視される。その親集団は,同じ障害をもつ子をもち,社会に存在する障害観に直面し,それに傷つき,それでも社会に抗議していく利害の共通した集団でもある。
 ここでは字数の都合上紹介できなかったが,Sさんは長男の出産後,1ヶ月間の母子分離を経験している。未熟児で生まれた長男は新生児集中治療室にはいり,Sさんはそれを壁の外側から〔眺めるしかなかった〕という経験をしている。Sさんは子どもに触れることのできない最初の一ヶ月間を「一番つらかった」と振り返り,子どもが退院し,胸に抱けるまでは「親になれなかった」と述べている。長男の退院後,訪問を受けた保健婦により現在の親の会を紹介され,児童福祉センターで初めてダウン症の子をもつ親と出会い,「回復のきっかけ」をつかんだ。「その頃(児童福祉センターに)通ってたのは,多分自分のために通ってたんだろうと思う。子どもの療育のためとかじゃなくて,まず自分の心を広げたい」と整理している。親仲間との相互作用の中で〔自分の心が広がる〕につれて,次男の出産で病院を変更し,出生前診断に否定的な態度を医師の中に発見するという戦略的な行動も,親仲間たちとの協力,〔自分の心の広がり〕なくしては達成できなかったであろう。

(2)過去の自分と相互作用する親

■母の姿の記憶から障害を恐れること

 多くの親にとって,障害との出会いは突然の出来事である。しかし,中には子どもが生まれる前から,子どもの障害におびえる親がいる。Aさんが長女を生んだのは38歳の時,次女(ダウン症)を生んだのは40歳の時である。いわゆる高齢出産とされる年齢であり,Aさんに体力的な面でも不安を与えた。彼女は長女を助産院で生んだとき,助産婦に「先生この子ダウン症じゃないですか?」と聞いている。助産婦はすぐにダウン症ではないことをAさんに伝えている。だが次女の妊娠・出産の時にも高齢出産であることの不安は残っていた。

 私ね,長女の時にね,生後1ヶ月で助産婦さんが訪ねてくださるんですよ,1ヶ月検診で。で,なんにもなかったんだけど,全然順調に1ヶ月育ってたんだけど,あの,「先生この子ダウン症じゃないんですか?」って聞いたんですよ。長女の時に。高齢っていうのが…上の子は38(歳)で産んで,下の子40(歳)だったし,高齢だったいう思いはあったね。「ダウン症じゃないですか?」ってすごく軽く聞いたんですよ。なにいってんの,ダウン症だったらね,猿線っていうの?手の線が(あるよ)。違うわよ,って(助産婦さんは)言って帰った。で,そうなのかって。で,だから2番目が生まれたときに,産んで,2時間して,ここ(手のひら)見たら,猿線があって,やっぱし…って。(Aさん)

 Aさんは,次女が生まれてすぐに手のひらを確認した。そして「なにかが違う」と感じた。そしてパートナの「お姉ちゃんの方がかわいかったな」という発言が,彼女の「なにかが違う」という〔感情を補強〕していく。

過去の記憶との相互作用
 なぜ彼女は執拗に障害を恐れたのか。高齢出産であることを差し引いても彼女の恐れ方は徹底している。そこには彼女の〔過去の記憶と経験〕が見え隠れする。
 Aさんにはかつて妹がいた。その妹には障害があった。起きることはできず,ずっと寝たきりであった。彼女の記憶にあるのは,妹とその世話をする母親の姿である。同時に彼女は育成学級についての記憶も語っている。

 あのね,でもね,その子は,妹は,ここで寝たきりな訳ですよ,私のそばでね。この子は怖くも気持ち悪くもなんともない,私にとってはかわいい。夜泣くし困ったなとか思うけど,あやせば笑うしっていう,…他の子よりは育成学級のことを見てたかもしれないね,私。小学校の時ね。ああ,あの子は障害児だけどあんなにハーモニカがうまいんだ,劇でこんなに一生懸命するんだっていうのは少し他の子より一生懸命見てたかもしれない。妹がいることでね。だから矛盾しないんだよね,矛盾…それはね,何だろうね…だから一緒に遊びなさいって先生が言えば,一緒に遊んだと思うよ。でも,そんな風になってなかった。だってその,(教室も)端っこの方にあったしね,そんな今みたいに交流とかなかったしね。で,そんなことにさほど矛盾を感じない幼稚な私がいた,そういうこともなかったね。違う人たち…。(Aさん)

 Aさんは妹のことを「かわいい」と思い,「怖くとも何ともない」と思っていた。それと同時に彼女は育成学級の記憶も呼び起こしている。「端っこの方にあったな」という記憶や「違う人たち…」という記憶は,一見妹への想いと矛盾しそうにも思える。しかしここには矛盾はないと彼女は語っている。「矛盾しないんだよね,矛盾…それはね,なんだろうね…」という彼女自身も言葉にしかねていると思われることは,彼女の「障害児の姉」としての視点と生活者としての視点の〔一貫しなささ〕である。Aさんは目の前にいた「妹と母親」と「障害児一般」を同じ目で見つつも,異なる想いを感じている。
 Aさんがダウン症という障害を恐れたのは,高齢であること以上に,彼女の過去の記憶と関連があるのではないか。彼女はダウン症という障害に関しての詳しい知識は持っていなかったが,障害をもつということ,そしてその親になることの意味,家族の中に障害をもつ人がいることで周りからどういうまなざしをうけるかについては知りすぎていた。その記憶は長女が生まれたときに,彼女に障害に対する強い恐れを抱かせた。その恐れの感情は,次女の出産の時には,子どもの手のひらを確認させてしまう。恐れはついに現実のものとなり,彼女はその恐れの感情に飲み込まれていく。

■子どもを愛せないかもしれない怖さ
 Aさんが親の会に顔を出すようになったのは,次女の生後2ヶ月を過ぎた頃だった。会の行事に出席すれば,自分の子以外のダウン症児たちとも会うことができる。生まれたばかりの子どもを抱いて会に参加した彼女がそこで抱いた想いは,「周りのダウン症の子がかわいく思えない」だった。

 まわりもダウンの子がいっぱいいて,あ,こんなふうになるのか…それは何とも言えない思いでした。あのね…やっぱり,あの,今でも思い出すんだけど,やっぱりね,周りの子を受け入れられなかったですね。自分の子はかわいかった。自分の子は最初からかわいかった,でもかわいいとか何とかいうもんじゃないですね,これはもうかわいいとかいやとかいうもんじゃなくって,そのここにいるわけだから。もちろんかわいいんですけど,周りの子はかわいくなかった。最初の年。やっぱり知恵遅れ?っていうそういうことですね。あのしっかりしてる子見れば,うれしいけど,ぼーっとしてる子見れば,切ない。切ない…いやだ,こんな子にならないでほしいっていうのが,あったですね,最初の年はそれは何とも言えない思いでした。(Aさん)

 この時のAさんは,「周りの子どもをかわいく思えない」と感じていた。ひょっとしたらこの段階ではまだ自分の子どもも本心からかわいいとは思えていなかったのではないか。彼女の「これはもうかわいいとかいやとかいうもんじゃなくって,そのここにいるわけだから」という,自分の言葉を自分で打ち消すような意味の言葉からそんな予測もできる。「何ともいえない」と彼女は説明しかねていた。おそらくその「何とも言えなさ」は表だって言葉にする事がはばかられる,障害に対するネガティブな言葉だろう。そして彼女が語った「自分の子にはこんな子にならないでほしい」という言葉は,親として正直な思いを表現している。ダウン症の子どもたちが〔集団でいる〕場面で,彼女は将来の自分と子どもの姿を周りのダウン症児の中に想像することができたのだろう。
 彼女が恐れているのは,障害をもつ子どもへの恐れというよりも,自分が子どもを受け入れられなかったらどうしよう,という恐れである。Aさんは母親が妹を介助する姿を見ていた。あの母親のように自分も子育てができるだろうか,という不安も存在しただろう。「あの母のように子どもを育てられるだろうか?」と考えたことがこの恐れの感情を引き出している。その恐れが現実のままだと,彼女は親をやっていくことに自信をもてなくなる。子どもにも後ろめたさが残る。子どもを〔受け入れられない自分〕を彼女は恐れた。親になるということは,子どもを出産しただけでは達成しえず,自身が親である事の自信を持ち,子との関係の中で親を継続していく自信をもてて,初めて親になれる。Aさんは子どもが障害をもつが故に,親であること,〈障害をもつ子の親になること〉を痛切に意識せざるを得なかったのである。

■セルフ・ヘルプ・グループと母の記憶に援助されること
 次の年からは周りの子もかわいくなりました。(その一年で何が?)実際に多分ね,自分の子がかわいくなってきた。だから,笑うようになる,お座りするようになる,遊ぶようになる,リアクションがある。リアクションがない時の子どもと,四畳半で向かい合っている親っていうのは健常児でもつらいですよ。なにか声かけたら笑いかけるとかね,そういうことの反応が多くなってくると,それはね,健常児でも障害児でも一緒だけど,かわいくなってくる。(Aさん)
 子どもに抱いた感情は,一年で解消したとAさん述べている。その理由を〔母子の相互作用〕と自身で位置づけている。さらに,もう一つの要因として〔母の姿を見ていたこと〕を挙げている。

 あ,私の立ち直りの早さはね,やっぱり私の母の影響です。私の妹に障害をもった子がいて,その子を育てて…明るくもなかったし,嫁の立場で,旦那とそれはいっぱいあっただろうけど,…で私も障害児の姉でもあるわけで,それはとても,だから私が元気でいられるのは,まあ,こういうもともとの性格に育ててくれた親のおかげ,と母がその妹を,育てていた姿を見ていたこと…。(Aさん)

 かつて,自分が恐れを抱いてしまった原因の一つとして存在した母の姿が,時間の経過によって今度は自分を援助してくれるという記憶への〔意味づけの転調〕が起こっている。母と妹の姿によって,出産前から障害を恐れたAさんは障害をもつ子の親になったのち,その母親の姿によって立ち直りを助けられた。もちろん,すぐに親の会に参加して,自己の中にある否定的な感情までも経験し,その感情と向き合えたことも重要な要因となっている。
 親の会をはじめとするセルフ・ヘルプ・グループの目的の一つに親の悩みを引き受け,その悩みを言語化し,共有するというものがある。Aさんのように「子どもを愛せないかもしれない不安」を打ち明ける親もいる。それに対する母子密着,家族自助を基盤とする常識的な反応は「そんなことでどうするの,母親のあなたがしっかりしなきゃ」であろう。セルフ・ヘルプ・グループでは,そうした「常識」からの返答ではなく,「うーん,私もそう感じることがある」という親の経験を共有する対応がなされる。親の悩みを常識で封じ込めず,言語化し共有することで,その悩みとつき合っていく。Aさんも親の会に早くから参加することで,四畳半の部屋から出ることで,子どもとの相互作用を進めていったと考えられる。過去の記憶との相互作用を行い,母親の記憶に不安にさせられながらも母親の姿に助けられるという一連の流れは,セルフ・ヘルプ・グループを媒介にして行われていることがAさんの事例から読みとることができる。

(3)「配慮ある特別な場所」か「普通の場所」か

■普通学級への期待
 Aさんの次女が小学校に入学する年齢になったとき(1999年)のことである。Aさんは大きな選択を迫られた。普通学級に入るのかそれとも育成学級にはいるのかということである。Aさんはまず障害をもつ子どもが普通学級に入れることに驚いたようである。彼女に障害をもつ子どもが普通学級へはいることのできる可能性を示したのはMさんだった。Mさんの長男は小学校,中学校と普通学級に通い,卒業をしている(1986年小学校入学)。Mさんの長男の試みは,Aさんに普通学級への期待を抱かせた。障害をもつ子どもが「普通学級にいたらいじめられるのではないか」というAさんの懸念も,Mさんの一言で和らいだ。

 最初はね,Mさんとこの○○ちゃんも普通学級に行ってるって,ええーっつって。初めてお宅に伺った時にそれを聞いてね,「いじめられないの,そんなことして?」っていうのが私の最初の(感想)…(Mさんは)大丈夫だよって。一つ言ったのは,「ちょっとできない子っていうのはいじめられる」。ボーダーの。「○○はそんなんじゃなくて,グンとできないから,いじめない。」そんなもんかなって。(Aさん)

 Aさんの疑念は勉強についていけないと落ちこぼれる,落ちこぼれるといじめられるのではないか,という心配である。Mさんの発言は経験則から出たものであるが,これはインテグレーションやノーマライゼーションの論理ともつながる。インテグレーションの目的は能力の差異を埋めることではない。能力の差異を認めた上で,自分とは異なる他者があることを認めるという理念である。能力の差異を克服するための統合ならば,それは同化主義的インテグレーションである。
 Aさんはもともと育成学級に自分の子どもが通うことを避けたいと思っていた。それは彼女に育成学級という場所がもつ雰囲気や彼女自身の記憶による〔育成学級との距離〕があったためである。

 で,やっぱり私,うちの小学校もあの,特殊学級ありましたからね。あたしらの時は。今はないけど。ダウン症の子何人も知ってました。で,とってもハーモニカのうまい子とか…でもやっぱりよう近づいていかんかった。集団で7,8人だったのかな?なんか,それこそダウン症の子が2,3人いたのかな?同じような顔した子が何人もいて,近づけようともしなかった,あの頃の先生たちも。一生懸命やってる先生みたいだったけど,だってその,(教室も)端っこの方にあったしね,そんな今みたいに交流とかなかったしね。「やだな」っていう想いは…学芸会の時の劇も,運動会の時も全部別。あ,うちの子がそこへ入るのやだな…って。腰が引ける?やだなっていうのはなくはなかった。
聞き手(「やだな」っていう感覚をもう少し聞きたいのですが)
 なんか,哀れみとかね。かわいそうとか,こわいとか。そんなですね。自分の子は怖くもないし,かわいそうじゃないと,なんかだから,特殊学級というところがいやだな…でもそれしかないかなって思っていたんだけどね,(普通学級にいけるって)話聞くまではね。(Aさん)

 Aさんは,小学校だけではなく,親の会の中心メンバーが集まって将来のことを話し合う場でもはっきりと「将来,学校を卒業した後でも,障害者だけしかいない場所に子どもをいかせるのはイヤだなって思う」と述べる。現在の福祉作業所や授産施設がAさんのイメージにはあるという。学校はインテグレーションが進んできても地域において,就業の場においてもインテグレーションを実現する進路作りが,Aさんの参加する親の会でも課題となっている10)。

■子どもの幸せを語られること

 Aさんは,普通学級への希望を持って,小学校との話し合いの場に臨んだ。ただ,学校側はAさんの希望をすぐには受け入れなかった。Aさんの希望を拒絶する論理として,教師が語ったのは〔子どもの幸せ〕だった。

聞き手(入学時のやりとりは?)
 それはもう,全然平行線。「かわそうじゃないですかって。○○ちゃん。お宅のお子さんが。あれもできないし,これもできない,1時間なにしてるんですかって。かわいそうじゃないですか,なんでおかあさんそんなに無理するんですか?」って言った。で私には,「もっと他のちゃんとあの子たちにあった場所が確保されているじゃないですか,特殊学級育成学級?無理しないで,そこへ入れればいいじゃないですか。あの子もその方が幸せですよって」って。(Aさん)


 学校は〔場所を確保すること〕,また〔子どもの幸せを代わりに語ること〕など,さまざまな言葉でAさんの普通学級へ気持ちを引き戻そうとした。教育の現場ではひとりひとりに教師が生徒に責任を持たねばならない,という使命感や責任があるためか,障害をもつ子どもへは対応が慎重になる。しかしAさんが望んだのは〔配慮のある特別な場所〕ではなく〔特別ではない共にある場所〕であった。過去の自分の記憶から〔同じ場所にいないこと〕のネガティブな影響は教師の想像を遙かに超えるほど大きいものであることを彼女は経験から知っていた。かつて自分が〔配慮ある特別な場所〕にその視線を向けていたように。だから彼女は簡単には引き下がらなかった。
 自分の経験から,自分の子どもが特別なまなざしを受けることを恐れた。Aさんは,自分や子どもが〔かわいそうな被害者〕として扱われることには怒りをあらわにする。自分や子どもに同情の目が向くことを極端に嫌う。Aさんが望んだのは〔はれ物に触るような優しさ〕よりも〔無遠慮でも共に在る場所〕だった。もちろん,彼女に普通学級への可能性を示したMさんの話を多く聞いていたAさんは,普通学級にいれることは摩擦の中に自分と子どもを置くことであるとも聞かされていた。ことあるごとに連絡帳が文字で埋め尽くされていく。なにかあれば,親が呼び出される。それでもなお,子どもの権利と親の権利を主張するため,Mさんが格闘してきたという話は,Aさんを奮い立たせる反面,不安も与えてきた。しかし彼女は,親の会の人々の「まあなんとかなるやろ,私らもいるし」の言葉に背中を押され,現在(2002年秋)も普通学級に籍を置いている11)。
 筆者の見解では,〔子どもの幸せを代わりに語ること〕と,先述のSさんの事例で見た,医療従事者の〈善意による傷つけ〉の根本は酷似している。どちらも本人の幸せや利益を他者が判断するという「パターナリズム」をその根幹にはらんでいる。もちろん,本人の最前の利益を知るものは本人が最も近いことは疑いようがない。だが,本人が未成年の場合,または知的な障害をもっている場合,ある程度のパターナリズムは許容されざるをえない。ならば,〔より本人の利益にあうパターナリズム〕を行っていくしかない。親が最前のパターナリズムを発揮できるとは限らない,しかしそれは学校が最前のパターナリズムを発揮できることにもならない。筆者は〔より本人の利益にあうパターナリズム〕は権利擁護と近い位置にあると考えている。しかし代理決定することの限界性が,両者を必ずしも一致させてくれない。本人の最前の利益と権利を擁護することの難しさと大切さをこの事例は表現している。権利擁護とパターナリズムが近い場所にあるからこそ,この問題は難しく,重要なのである。
 統合か,分離かというこれまで数多くの議論が繰り返されてきた舞台に筆者が本稿で踏み入るつもりはない。親でさえ子どもの最前の利益を知りうるはずもない,という前提にたてば,Aさんが行った必死の交渉さえ,よい結果を生むとは限らない12)。ただ,本稿のデータから一つ言えるのは,小学校入学時というたった一点で,親がこの大きな選択の責任を負わされてしまうこと,その理不尽さである。

(4)セルフ・ヘルプ・グループに支援される親

 親が子どもの障害と向き合ったり社会に対して訴えかけを行っていく際に,どうしても必要となるのが〔周りに支えてもらう〕ことである。これまでの事例で見られたのも,親の周りにいた存在が,手助けをしていたという点である。Sさんのケースでいえば医療従事者とは異なる価値観でSさんを支えてくれるパートナであり,Aさんのケースでは親の会であった親であり,Mさんである。Mさんもまた価値を育てることを助けてくれる人々に支えられていた。
 〔話を聴いてくれること〕が,親たちが「障害をもつ子の親」として生きていくために重要な役割を果たしていた。もちろん子ども自身の存在も同じ役割を果たしている。たとえ専門的な存在ではなくても,誰かがまわりにいてくれることには〔ありがたさ〕があると,鷲田清一は指摘する13)。「障害をもつ子の親」という社会から一定の価値観を押しつけられる立場を背負いつつ,自分の望むように生きていくためには,親は一人ではその「望ましさ」を得ることはできない。自分で自分を「こうありたい」と思うと同時に,他者からもそれを〔承認してもらうこと〕が必要となる。Nさんは子どもが生まれてすぐの不安な時期を救ってくれた同じ立場の親たちのありがたさをこう語る。

 先輩お母さんの話をその時点で聞いてた訳よ。(子どもが生まれて)結構早い時期に聞いてんのよ。あれはすごく精神安定剤になったね。いっこ上の先輩お母さんの話ってすごく…あの…うん…すごいなんか,ほっとするっていうか,うん,あ,そっかみんな同じ人がいっぱいいるんやって。だからなんか,わりと半年くらいでずいぶんすーっと楽になってた。(具体的な話がなくても)一緒にいるだけで,なんかこう,安心するみたいなのがあったから。うん。普通にみんな,笑ったりしてるし,そんな深刻に…深刻な話するときはしてたけど,うん,別に普通…に…普通に生活できるんやみたいな,あれでだからなんか,現実的に実感としてこう,本じゃなくて,うん。やっぱり,いくら本で読んでても,大丈夫ですよ,大丈夫ですよって書かれてても,ほんまかい,っていうのがあるけど,実際会ってみて,っていうのが,あれが一番大きい。(Nさん)

 「同じ人がいっぱいい」て,「普通に生活できる」という現実は,何よりの「精神安定剤」として語られている。残念ながら,というべきだろうか,社会の多くの人々は「障害をもつ子の親」に対しては,悲劇への〔慰め〕や無責任な〔励まし〕以外の言葉を投げかけることができないでいる。Nさんは同じ立場の母親たちの〔具体的な言葉より〕も〔生きる姿そのもの〕に助けられている。
 またOさんは,親の会の人々を「普通やったら巡り会えない」存在として,自分の周りに昔からいる「友達」と明確な線引きをしている。親の会で出会う人は「友達」ではなく,「仲間」であり,〔友達とは違った役割〕を果たしていると述べる。

 せやし,他の…普通やったら巡り会えないような,仲間やね,友達でもなく,仲間やんね。(友達と仲間って)違うね,せやし,親の会の事務局も,仲間なんですよ。友達じゃない。だから,例えば,普通の,みんなが普通の親だとするでしょ,絶対に友達になってへんと思うねん。でも今は,仲間なんですよ。なんやろ,違う…仲間やし…。あんまり私,(友達には子どもの障害の)話はしない。うん,あんまり私の昔からの友達には,あんまりしないね。友達は,友達として,昔のまんまの友達関係でいたいというか,小学校やったら小学校の時の関係の友達でいたいというか,ようわからへんけど…私はあんまり友達にはあんまり深い話はしない…。あんまりしたくない。したくない。(Oさん)

 SさんやAさんの事例でも見たように,ある人が今までの自分の考えとは違う考え方,価値を生み出そうとしたときにそこにはその考えや価値を支える人たちの存在があった。このことは,人は自らが望むアイデンティティを自給自足することはできないという構造から生まれている。人間は他者に承認されて初めて新しい価値を身につけることができる。共にその生き方を歩む人が必要となる。AさんがMさんに支えられたように,Mさんもまた市民活動家の人々に支えられてきた。

 つまりその誰かに押してもらわへんかったら,できひんとか,ひっぱってもらわなね,できひんとか。それこそ赤信号をわたるみたいな感じで,そういう仲間づくりはすごい幸せやったね。もし困ったらいくらでも助けてくれる人が周りにいるんやもん,そのための会なんやもんって,こうすごいいとも簡単に,人の手を借りるのは当たり前みたいな,人はそんな一人で生きてないっていうのを,早い段階で,そういう人たちに出会った事かな,で,療育者だけにしがみついてなかったもん。(Mさん)

 「赤信号をみんなでわたるみたいな感じ」という表現をMさんはする。今ある規則からは「逸脱」しているかもしれない。これまでそういう生き方をした人が少なかったかもしれない。しかし,その赤信号は誰かがそこに置いたとりあえずのものである。赤信号で止まることで別の弊害が生じてきたり,渡ることで得られるものがある。だが一人では渡れない,そんな時に手をかしてくれる人々の存在,手をかりることを許してくれる人々の存在は新しく価値を開こうとする人間にとって必要な力となる。そしてそこを歩いた人間は,次にその道を歩こうとする人たちにとってもなによりの支えとなる。手をかりる存在が,いつしか手をかす存在となり,さらに手をかすことが手助けした本人にも支援となる。この「援助者療法原理 Helper Therapy Principle14)」が親たちの連帯を支える一つの根拠となっている。

(5)「障害児の親」役割を知る親,子どもの成長過程で親役割を変容させる親,その変容を社会に投げ返す親

■愛情と「障害児の親」アイデンティティ
 知的な障害をもつ子どもとその親の関係を見る上で,自己決定とパターナリズムの問いは大きな課題である。先述のAさんの普通学級入学の事例において,学校が子どもに対して発動するパターナリズムを指摘した。これは言い換えると社会が障害をもつ人々やその家族に対して発動するパターナリズムともいえる。
 その社会のパターナリズムとは別に,文字通りの意味での障害をもつ子どもへの親のパターナリズムもまた,親子を取り巻く現実的な問いとして親子の間に横たわっている。もちろん親も何が子どもの利益になるかについては,日々考えている。知的な障害をもつ子どもと親の関係は,愛情という「正義」の名の下にパターナリズムが許容されていきやすい親と子の関係でもある。

 なんだろうね,愛情…おしつけてるかもしれない(笑)。なんか責任…があるんやから育てなあかんっていう責任があるやんか。義務。義務と責任と愛情はなんか,ごっちゃになって,はき違えたりしてる。その場面場面で,本当はそれを,わけな,使い分けなあかんねんけど,それが,こう,使い間違えてるかもしれない。あ,後ね,なんかね,親はね,やっぱし見栄もあるんやね。親ってこう,傲慢な生き物やと思うねんか。(Nさん)

 愛情と責任と義務がないまぜになり,そこに「親としての見栄」まで絡み合う。愛情豊かな親,とはどれだけ子どもに尽くせたか,と同義であると見なされる。特に障害をもつ子どもの場合,親とりわけ母親がどれだけ子どもに熱心に訓練をしたか,どれだけ体を張って「世間」から子どもを守ったかが,誰にとってかはさておき「よい障害児の親」というアイデンティティを付与される(岡原[1995],土屋[2002b])。

親役割を自覚・自制すること
 Mさんはダウン症の子どもを出産して以来,数多くの勉強会に参加し,早期療育も熱心に行っていた。子どもが1歳くらいになろうというとき(1980年代始め)に,Mさんはある当事者が講演する場に参加したときの記憶をこう語る。

 …その時に初めて脳性マヒの人,全身不随運動や言語障害がある人に会えると思って,楽しみっていうかね,何いわはるかとおもってね,どんな話が聞けるやろって思って。そうしたら,その人が,私に向かって「親は障害者の最大の敵やねん」っていいよってん。もう私,あの時,忘れられへんわ。私はあの言葉でね,私ね,生かされてんねん,今。私その時ね,すごい「え,なに言うてんの!?私これから無茶無茶がんばろうっておもってんのにから,なんで,なんで私が敵になんねん?」ってすごい思ってん。でもね,その人がね,あの,自分はそのままの自分を認めてほしかったのに,親は僕らのことを健常者に近づけるために手術はせいっていう,施設に入れって言う,でも施設なんかはいりたない。家におりたいのに,施設に入って訓練してこいっていう。もうあんな自分らの生き方を疎外っていうか,足引っ張る親,親が最大の敵やねんっていうてね,それが(子どもが)1歳前後(の時)やってん。あたしはその言葉にしがみついて生きてんのね。そうならんようにって。もう常にそうならんようにって。でもね,それは正しいと思うねん。絶対的に正しいと思って,反発よりね,なんとなく妙にね,そうかもしれんって頭下げながら帰った覚えがあんねん。ほんまに,あの時あれを言うてもらえへんかったら…(Mさん)

 思うような療育の結果が得られずに悩んでいたMさんに追い打ちをかけるように,当事者である障害をもつ人々からの「親は最大の敵15)」という言葉に,Mさんは大きな衝撃を受けている。「私これからむちゃむちゃがんばろうっておもてんのに」と「子どものためにがんばろう」としていた自分に対して,敵と言われることは素直な驚きだった。しかし彼らの言葉を聞くうちにMさんは「親は最大の敵」という言葉に「正しさ」を感じ取った。うまくいかなかった療育とそれをいやがる我が子の抵抗が,その言葉をより痛切に実感させたこともあるだろう。子どものために,と思って行う行為が子どもの抵抗を招く,それでも子どもの将来を思ってという親心が激しく揺れている。親が子のためにがんばることは,たとえそれが〔正しい親心〕であっても,親のがんばりのせいで子どもの〔敵になる可能性〕が存在する。この言葉は,Mさんに親としての自らのあり方を自制的に考えさせるきっかけになっている。
 しかしMさんがいくら自覚的でも自分の中にある価値観や常識は言葉ひとつだけではなかなか壊れない。彼女は生活の中で自身の〔多層的な意識と直面〕させられることも経験している。

 …その障害の人がこう,言ったら,あの,言い方ちょっと悪いけど,障害の人ががんばって運動会をしている場面でがーっとすごい涙を流している自分の不思議とかね,私の(こと)ね。つまり自分の中にある障害者差別,すごい,障害者差別って,そりゃ障害者だけじゃないね,自分の中にある差別にね,いつも結局は向かい合うことになったんよ。それはね,あの人が,あの親は最大の敵やと言った人がね,あの辺からか,それとも重度の障害の子をみながら何となく違和感を感じている自分に対する違和感とかね,だから,○○(長男)がどうのこうのというよりも,いつもいつもなんで私はここで立ち止まるんだろうとか,何でここでイワカンを感じるんだろう,何でここで涙をながすんやろう,なんでここで,あの,どんなんかな…抱けへんやろう,触れへんのやろう,涎垂らしている人の手が握れへんのやろうとか…(Mさん)

 障害をもつ人と接していて違和感をもってしまうという経験に,Mさんはその都度立ち止まる。彼女は自分の中にある多層的な感情に敏感である。Mさんは「差別」という言葉を使ったが,筆者はそれを「差別」という言葉とはまた異なった感情なのではないと感じる。差別・被差別という言葉には,両者を一挙に二項対立的な磁場に送り込み,両者の間にあるグラデーションを一挙に塗りつぶしてしまう暴力性がある。Mさんが感じている多層的な感情は純粋な当事者ではないことから生じる「異和感」(宮本[1995])ではないだろうか。同じ立場に立てないのだから,全く同じ感情を感じることができない。その絶対的立場の差を認識するからこそ,その「異和感」にたどり着けるのではないか。この感覚をもつことができる親は親子密着に自制的でありうる。少なくとも,母子一体化に疑問をもつようになる。
 そして,親の会に代表されるような他者との対話の中から,「愛情から発する抑圧」に気づき,〔親であることに自覚的〕に変容していく。再びMさんの事例である。

 あの子がちっさいころから自己を主張する中で,こういう(親の会等の)活動をしながらいろんな人と出会う中で,あの…人はそんなに,悪い人ばっかりやないな,と思うこともたくさんあって,そういう中で私が死んでも何とかなるんちゃうかっていう。普通学級入れて,一般の中での知恵の付け方をこうあの子なりにさせてきて,今現在大変うまいこといってると思ってんのやんか。だから,どれくらいからかな,あの,学校行き始めて私の手に負えへんっていうか,学校行っている間はなにがあるかわからへん,多分いじめられたし,いやな思いもあったやろうけど,かばえへんやんか。かばえへんって思って,あの子に,結構面と向かってね,もう自分のことは自分引き受けてって言うたことがあんねん。小学校の一年か二年かそのぐらいに言ったことがあんねん。つまりそれは私の中の整理のつけかたやってんで。
 なんでかって,私がいっつもいっつもそれが気になって気になって気になってね,何とか手だそう何とか手だそうって,で,手だそうとすればするほどその,手を出すって言うことは,あの子をコントロールしようと思うことやから,あの子から反発くらうやん。で,すごい疲れちゃって,もう,あの,自分でやってんかって言ったとたんに,うまいこと行き始めて,そういう経験があんねん。(Mさん)

 Mさんは〔手を出したい誘惑〕と,〔手を出したい自分への反省〕と〔親の援助の限界への気づき〕が循環している。その循環した葛藤の末,小学校の入学時に子どものことは〔子に対処させる決意〕をしている。そしてそれを親の〔援助の限界〕と捉えている。障害をもたない子と親なら,小学校入学時という早い段階で親と子の〔関係の模索〕という大きなテーマに取り組むことはないだろう。しかし手を出し続けること,制御し続けることが,いつか〔親が敵になる〕ことにつながると,Mさんは障害をもつ当事者の言葉から学んでいる。「私がいなくてもこの子が生きていけるように」という親心,同時に「私がいつまでもがんばると子どものためによくない」という自覚がせめぎ合っている。それが,子どもの発達に伴って,親と子の関係を自制的に再構築していく。その結果,彼女は自分が純粋な〔当事者でない〕ことを常に頭に置いて行動することになる。よく言われる「障害児の側に立って」という言葉は親が当事者であるかのように聞こえる。だが親は障害に関する問題の当事者には成り切れない。あくまで〔当事者の近くにいる者〕という限界は超えることができない。その点を勘違いすると親はとたんに最大の敵に変貌しうる。子どもが1歳の時にその言葉に出会ったMさんは,自らの立場を〔中途半端な当事者〕と位置づけ,親と子の〔関係の模索〕を続けていく。
 彼女が徹底的にこだわっていたのは,自分と子どもとの関係,そして自分自身の自己規定の問題であった。自分と子どもとの関係を深く考えるには,まず自分と子どもが全く別の存在であることを納得しなければならない。「親は最大の敵」という言葉をきっかけにして彼女は自分が子どもの敵にならないために,どのように関係を作っていくか,さらに自分自身がどうあればよいのか,どうありたいのか。それを考えてきたことになる。
 筆者の考察として,Mさんの事例から読みとれることを整理する。Mさんにとって,子どもとの関係の模索の答えは純粋な〔当事者ではない〕こと,子どもの〔決定に従う〕ことである。Mさんにとって子どもとはいつかは離れなければならない存在であり,そして自分とは異なる「他者」であるけれども最も気になってしまう存在である。そして子どもはMさんにいろいろなことをあきらめることを要求する。必要なときには誰かが支える必要が出てくる。しかし,その支え手は必ずしも親でなくてもよいのだ。
 「私がいなくても何とかなる」という願いと「私だけががんばると子どもによくない」という我慢との葛藤が親と子の距離を調整していく。そして親の役割,障害をもつ子の親の役割は変容していく。それは親だけが,家族だけが支える「家族内介助」から,家族以外の人々によって支えられる「地域ケア」「社会化されたケア」「(家族と社会とで)分担されたケア」という形をとるだろう。ケアが家族以外の人によっても担われていく場合,家族の,親の関わり方は身体接触を伴うような直接的な介助から,権利擁護をその代表的な例とする「見守り的なケア」にその比重を移していくことになる。

■親の変容を社会へと投げ返すこと
 もちろん,これは親だけの自己変容で完結していては実現できるものではない。そもそもなぜ親が自己変容を迫られるのか,という問いを整理しておく必要がある。親が自己変容を迫られる理由は,障害をもつ子どもをもつ以前の親自身の障害への理解,親の役割,子どもの自立といった,これまで社会の影響を受け生成されてきた意識の有り様が,障害をもつ子どもとの相互作用により維持できなくなるからである。それまでの意識の有り様では,自分が苦しい,子どもと関係を結ぶことが難しくなるからである。自己変容は子どものためというよりも,親自身のために起こっているものでもある。障害をもった子どもや自分の社会的な位置関係を掴んでいくと,その意識の変容が役割の変容を生み出すのである。
 (1)の事例や(2)の事例で見たような,障害を否定的に捉える価値,援助の対象としてだけしか捉えない価値観と折り合いをつけ,その価値観を保持している社会に与えられた親自身の意識と役割を変えていくことで,親はその変容を社会に投げ返そうとする。
 親(特に母親)と子を一体のものと見なし,親に献身的に「介護」する役割を期待する社会意識が存在している(要田[1999])。それが実現されている関係では親の役割変容も権利を擁護するという発想も,密着した関係の中に埋没していく。「親が変容したのだから,社会も変容できるはずだ」という「投げ返し」を親の役割変容は主張しているのではないか。
 なお,親の変容を社会へ投げ返す,という行為は一つは本稿に登場した普通学級へ子どもを入学させる,という事例が代表的なケースであるが,まだこのテーマを多面的に論じられるほどの事例が収集できていないため,以上の方向性を示すだけにとどまらざるを得ない。今後は,親の役割変容が起こった後の具体的事例からより深く掘り下げて論じたい。



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III.本稿のまとめ

 ある親が言う。「この子がいてくれるおかげで,人には見えない何かが,私たち家族には見える気がする」(野辺・加藤・横尾編[1999:75])。またある親が言う。「障害をもったこの子は,親にとってのリトマス試験紙だ。親がこれまでどんな風に社会を見てきたかをテストする。(筆者聞き取り調査より)」
 本稿では,その「障害をもつ子の親」という存在の生活世界,「障害をもつ子の親」から見える社会の断片を,その語りから描き出そうとしてきた。その結果,見えてきたのは先天的な障害をもって生まれてきた子とその親を,〈善意故に傷つけてしまう医療スタッフ〉の姿,親自身の内部に入り込んでいた〈障害に対する多層的な感情〉と相互作用する親,小学校入学時に子どもの幸せをもとに〈親を説得する教育的配慮〉,セルフ・ヘルプ・グループでお互いをエンパワメントしあう〈同じ立場の親たち〉,障害をもつ子の親としての経験から〈親役割の変容〉さらには〈社会への投げ返し〉を行う親の姿を発見することができた。
 医療の現場で社会における障害の価値に出会った親,障害をもつ子どもの親になることで,自分がそれまでもっていた障害への意識に気づき,その意識自体と相互作用を行う親,入学時のやりとりで子どもの幸せを語られた親,子どものために,自分のために連帯する親,親であることを意識し,親役割を自制し,それを社会に投げ返していく親,本稿で論じたこうした親の姿は多かれ少なかれ,親子関係一般にも通じるのかもしれない。しかし,子どもが知的な障害をもつことで,親子の関係がよりクローズアップされてしまうのが,「障害をもつ子の親」という存在なのである。要田洋江は「障害児の親」という対象を,「差別問題と社会問題の交錯する交点」(要田[1999])とし,さまざまな問題が複合して現れる場であると指摘した。障害者と健常者の関係,親と子どもの関係,現代社会における制度としての家族が一転で交錯する点,それが「障害をもつ子とその親」である。
 障害をもつ子の親は,障害をもつ子どもの出産によってその立場を与えられた後,多くの役割を社会によって演じさせられる。法的な扶養義務者,ショックにうちひしがれる悲劇の存在,直接的な介助の担い手,子どもの代弁者,子どもの権利擁護者などの役割である。親たちは社会との相互作用の中で,その役割にコミットメントしたり,時には役割を拒否し抵抗したりする。
 なぜ親たちはこれほどまでに「自分」と「子ども」について言葉や感情を費やさねばならないのか。恐れたり反発したり開き直ったりしながら親たちがしようとしていることは何なのか。親たちが行っているのは,親としての自己理解,障害をもつ子どもに対する他者理解,障害理解,さらにそれと平行して親役割を変容させることである。
 親たちはまずいったん「障害児の親」という社会が要請する役割を引き受ける。「障害児の親」という立場が含んでいるものは徹底的に子どもに対して愛情と保護を提供する純化された親役割を果たす存在である。
 しかし本稿で見てきた親たちは,その段階でとどまってはいなかった。いったんは引き受けた「障害児の親」の役割がもつ自分や子どもへの抑圧の仕掛けを敏感に察知し,社会が用意した「障害児の親」という役割から自分を意識的に引き離している。障害をネガティブなものと規定してそれを変えようとしなかった医療従事者と出会ってしまった時,教師に子どもの幸せをパターナリスティックに語られた時など,本来は専門的な立場から障害をもつ子とその親を支えることのできる人々との間にも,摩擦が起こることがしばしばある。もちろん医療者や教育者の多くが親に共感し,親たちをサポートしている。ただ,専門家と同じくらい,もしくはそれ以上に,親と同じ立場に立つ当事者集団のもつ力は大きいものである。同じ立場に立つ親仲間たちの協力を得つつ,いったん引き受けた障害児の親役割を脱構築し,組み替えていくという複雑な作業を行っている。その作業を行うことで,子どもの権利を擁護し,同時に自分の権利も主張する。
 愛情ゆえに密着し,全身全霊で子どもを守る,という親の姿は「障害児の親のプロトタイプ」であるかもしれない(松倉[2000])。だが,その姿は親の役割の一面しか表現していない。社会の中における自己が置かれた位置を知り,障害を個人モデルではなく社会モデルとして捉えていくプロセスの中で,親はその役割自体を変容させていく。介助の担い手から権利擁護者への移行,子どもの近くで体を張って子どもを保護する存在から,離れた場所から見守る存在への変容を見過ごすべきではない。いうなれば,ケアの質的変容である。もちろん一般の親子関係でもこうしたケアの質の変容はありうるだろう。しかし,そのケアの内容を押しつけられやすい「障害をもつ子とその親」の関係であるが故に,社会的な文脈の中での自己を理解し,他者を理解し,障害を理解し,その理解を社会への投げ返していくという作業を親たちは行っている。
 親たちが日々の生活の中で行っている変容が,単に親だけの自己変容ならば,それはただの「心がけ論」で終わってしまう。障害をもつ子とその親の構造的な環境は大きく変化しないだろう。だからこそ必要なのは,親たちの自己変容を受け,それを具体的な社会的実践に昇華させることである。
 具体的には,親の会の人々が作った権利擁護活動の質的研究を次の課題と考えている。「介助する親役割」から離れ「権利擁護する役割」へと移行した親たちの取り組みを記述すること,その活動における親の意識の変容を見ることは,親たちの自己変容だけで終わらせない,社会の変容を促す作業にもつながっていくことになる。


1) 優れた手記は学術的な論文よりもはるかに豊かな現実を表現する。だが,それでも親以外の立場から分析を行う視点も必要だと筆者は思う。親であるから言えること,親でないから言えることがあると感じる。児玉真美の手記(児玉[1998][2002])は,本稿で登場するような障害をもつ子の親が直面する場面を親の目線で描写している。
2) 杉野昭博は障害学の主張とはその内容よりも,その仕方にこそ固有のパラダイムが存在するとしている。杉野は家族のよる障害者殺しがなくならず,またその事件を理解できてしまう社会に対して既存のディシプリンは「声」を届けられなかったと批判する。「これまで医学やリハビリテーション学や心理学や福祉学における障害研究では届かない『声』を『障害学』はもっている。」(杉野[2002:254])
3) 福祉制度がもつ家族観,対象像の概説については拙稿「『障害をもつ子の親』という視座」(中根[2002])参照。現状の社会福祉制度をめぐる議論では,家族が主体的な担い手として制度からは見なされているにもかかわらず,家族に対する支援制度は当事者に対する支援の陰に隠れてしまっている。たとえば「ケアする人へのケア」として提供される「レスパイト・サービス」は制度上には存在せず,「介助者の緊急に介護できなくなった事由以外での短期入所」を自治体が柔軟に運用することで,レスパイト・サービスは実施されている。ただ,「短期入所」と「レスパイト・サービス」は似て非なるものであると指摘する論者もいる。(曽根・佐藤[1995:54])
4) ケアが「介護」という意味でだけ使われてしまう時,介護は負担,労苦と同義語になる。ケアとは直接身体を世話する「介護」だけではなく,親が子を黙って見守るということもケアに含まれる。より範囲を広げて言えば,成年後見制度が実現する「権利擁護」も広義のケアに含まれると筆者は考える。介護が新しい関係性を開く事については,春日(1997)。ケアの相互作用性については,鷲田(2001)。
5) 近代家族論における障害者家族の先行研究の整理については土屋の整理を参照。(土屋[2002b:23-38])
6) 障害学と質的研究の関連については,David Johnstoneは以下のように述べている。「これまでの障害に関する調査研究は,障害をもつ人々の日常生活における機能的制約を測定する量的調査や質問紙調査が支配的だったという傾向がある。そのような量的な調査研究は,障害を個人的な欠陥として見なすことを強固なものにする。そして障害をもたないものが行うそうした調査研究では,障害者やその家族と,調査者との関係に無自覚的である。こうした状況の中,障害をもつ当事者自身によって,あるいは障害もつ人とそうでない人との共同で行われる「解放的調査研究(emancipatory research)」(Oliver[1992],Stone[1997])や質的調査研究や事例研究に関心が高まっている。包括的なコミュニティを目指す政策や実践を考えるにあたって,障害をもつ人の生活経験の探求に向けたディスアビリティ調査研究における質的研究への注目が集まっているのである。」(Johnstone, David & Reynolds, Paul[1998])
7) 筆者は親の会で,多くの「障害をもつ子の父親」に出会っている。そして暫時聞き取りを進めていることを述べておきたい。その際,父親が共通して漏らすのは「父親の活躍の場がない」ことである。特に子どもの年齢が低い場合,身体的なケアを行うには父親は育児のスキルに自信を持てていない。「父親も育児に参加を」というスローガンだけでは,父親を当惑させるだけではないかと筆者はその聞き取りから感じている。性的役割分業とは異なった意味で,母親とは異なった父親のケアのあり方をこのテーマの中で掘り下げていくことを考えている。例えば権利擁護という課題ならば,父親に一定の活躍の場が与えられるのではないか。
8) 岡知史は「形だけのグランディッド・セオリー」についての批判を次のように言う。「たとえば,質的インタビューをして,その記録にコードをつけて,要素に分けて,その要素間の関係を推測するだけというようなタイプの論文は(これが,○○様のいう「基礎を踏まえていない,形だけのグランデッド・セオリー」という言葉をきいて,私が連想したものなのですが),ダメ,と,学生たちには言っています。理論との関係をあきらかにする必要があり,先行研究との関連を充分に論じる必要があるということを強調しています。」(http://www.freeml.com/message/qr@freeml.com/0000299,2002/09/13)
9) 存在証明の4つの方法について。自分の不利を隠すために演技する「印象操作」,社会的威信の高い集団や属性への所属を達成する「補償努力」,マイナスとされてきた価値をプラスへと転換する「開き直り」あるいは「解放」,自分の価値を高めるのではなく他者の価値を奪い取ろうとする「価値の奪い取り」がある。詳しくは(石川[1992:27])
10) 日本でも取り組みが進んでいる職場でのインテグレーションとして「ジョブコーチ」を挙げておく。就業するにあたってに対してサポートが必要な障害をもつ人に対して,専門のスキルを持ったジョブコーチが支援・指導に当たり,職場に参加できるように支援する試みである。アメリカでは公的に認められ,障害者の雇用に取り入れられ効果を上げている。
11) もちろん,大きな数の計算ができなかったりと,クラスの友人と同じ内容の勉強をしている訳ではない。しかし,能力の差異を埋めることではなく,空間を共有すること,これがインテグレーションを実現するための条件である。
12) ただ,今もAさんやその子と親しく話すことができる筆者の主観的な印象を述べておく。「できないなりに楽しんでいる」,「教師との葛藤は意味ある葛藤」という豊かな言葉を得ることのできたAさんは,この選択を正解と感じているのではないか,と言うことである。
13) 鷲田は,浜田寿美男との対談において次のように述べている。「…ただ一緒にいるだけ,そのことの意味を,今日のテーマである自己との関係で考えてみたいと思ってるんです。何故,そんなことを考えるかというと,誰に向かってであれ,あなたがいること,そのことだけで価値があると心の底から言えるというのは,そういうco-presenceの力,誰かがただいるということだけで有り難いという気持ちがなかったら,障害者の自己,あるいは胎児や乳児の自己に対する本当の意味での敬意というのはでてこないんじゃないか。私のco-presence,そのことの意味を認めてくれる人がいることが,最終的に我々が支え合うということの一番根っこにあるのだと思います。」(鷲田・浜田[1998])
14) 野口祐二は「援助者療法原理」についてこう整理する。「援助される側にいたのでは見えなかったことが,援助する側に立つと見えてくるという単純明快な原理に基づいている。(中略)援助される側から援助する側への役割転換は,問題の正確な理解を促進し,結果として自分自身を見つめ直す契機を与える。ひとを助けることで自分が助かるのである。」(野口[1996:70])
15) 親は障害者の最大の敵,というフレーズを積極的に打ち出したのは青い芝の運動であった。だが現在では,このフレーズは運動の全面にでることはない。行政との交渉の中で「親を敵」ということに官僚や政治家たちの理解が得られにくかったためである。障害者運動側と行政側のやりとりからロジックの変容を指摘した研究として(土屋[2002b:91-107]参照。

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Self-transformation of "Parents of Children with Disabilities":
Narrative of Parents of Children with Down's Syndrome

NAKANE Naruhisa*

Abstract: The social welfare system for people with disabilities will change in 2003 from public administrative placement to a service contract system, following basic structural reform of the social welfare system. The new system is based on the idea of ensuring that people with disabilities have the right to choose and act on their own initiative, which will gradually but certainly transform their daily lives as well as their family relationships. The parents of children with disabilities have always been envisioned in previous literature as devotedly dealing with a tragic situation. However, some parents have started to overcome this negative and passive image, due to group dynamics of self-help groups and penetration of some positive concepts, such as normalization and self-determination. They realize their role, given by society as the parents of children with disabilities, and try to transform it critically and awakeningly. Focusing on their self-transformation, this paper has set up 3 purposes. First is to draw a picture of society from the standpoint of the parents of children with disabilities. Second is to describe the process how they transform themselves in reciprocal action with themselves and society. Third is to discuss how they confront society after their self-transformation.

Keywords: Advocacy, Family Care, Role of Parents, Narrative, Qualitative Data

 *Graduate Student Graduate School of Sociology, Ritsumeikan University



*作成:小川 浩史
REV: 20091016, 20130722
ダウン症 Down's Syndrome 障害学(Disability Studies)  ◇中根 成寿  ◇全文掲載
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