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障害者解放運動の新しいかたち

――「対抗」から「だつりょく」へ――

井上 芳保
(札幌学院大学)
20021214
障害学研究会関東部会第29回研究会
於 東京都障害者福祉会館

last update: 20160125


はじめに

T.いま私の関わっている社会運動(らしきもの)の実例から

(1) アイヌ差別落書き事件への抗議の運動

(2) 各学会に託児室を設置してもらう運動

(3)    「心の専門家」の資格制度化を問うためのアカデミズム批判の取組み

(4)    異常性欲者向け社会臨床産業(SM系出版社)支援のための取組み

(5)    各出版社への視覚障害者のための電子テキスト提供要求の取組み

U.マイノリティの「生きづらさ」の表現という視点から捉えた社会運動

(1)    「強がる態度」の深層――「社会運動以前」についての検討から

(2)    石川准のアイデンティティ・ゲーム論の魅力と限界

(3)    構築主義では掘り起こし得ない障害者の生きづらさとは何か

(4) 「ルサンチマン処理」概念の有効性

V.現代社会の支配構造をどう捉えるか?

(1)    グローバリゼーションの動きと社会のマクドナルド化

(2)    総力戦体制と合理主義の相性のよさ

(3)    ボランティア動員型社会の落とし穴

(4) 解決主義を批判するアルベルト・メルッチの社会運動論

W.今後の社会運動のあり方について展望

(1) 実利的価値を求める運動と象徴的価値を求める運動

(2) 「青い芝の会」は何がどうまちがっていたのか

(3) まじめな運動がマクドナルド化に取りこまれる状況

(4)    不まじめな運動の魅力――ホーキング青山とビートたけし、伏見憲明
の発言から

(5)    「だめ連」と「ドッグレッグス」にみる「だつりょく」のかたち

(6)    「対抗」型と「だつりょく」型のルサンチマン処理性能の比較



はじめに

 報告者のプロフィールは別紙資料1参照。「ルサンチマン」をキイワードにして自
己啓発セミナー、アムウェイなどの実証的調査研究を実施。ここ数年は日本社会臨床
学会のメンバーと共に昨今のカウンセリングブームを再考する共同研究も行なう。例
年ゼミは「人間の高尚ではない諸問題」をテーマに開講。具体的には、差別、逸脱行
為、アイデンティティ、微妙な社会意識などに触れた論文を取り上げている。

 2002年度は勤務校の札幌学院大学の留研制度により国内研究員として東京大学文学
部に在籍し、島薗進研究室で宗教社会学を研究中。「精神世界志向意識の宗教社会学
的研究」が課題テーマ。日経財団の助成により「SM系メディアによる「癒し」の可
能性に関する社会臨床学的基礎研究」を現在、実施中。

 今回の報告で参考資料となっている野宮大志郎編『社会運動と文化』(ミネルヴァ
書房)掲載の論文「対抗的社会運動とルサンチマン処理文化」は、1999年度の日本社
会学会大会で設けられた公募形式による同名テーマセッションでの報告を元にしたも
の。この本の執筆者は伊藤公雄さんと私以外は全て東京で続けられている社会運動研
究会のメンバー。私は社会運動の研究者としては素人だが、自分が学生の頃に直面し
て強いショックを受けた「青い芝の会」について社会学的に考察することで総括する
機会とした。



T.いま私の関わっている社会運動(らしきもの)の実例から

(1)    アイヌ差別落書き事件への抗議の運動

 1994年から1995年に札幌市内の浄土真宗西本願寺派の寺院で起きた「差別落書き事
件」を問題にするアイヌの団体「ヤイユーカラの森」の運動に参加。「ヤイユーカラ
の森」主宰の夏のキャンプで知り合いになったのをきっかけに関わり続ける。この事
件は教団組織内の紛争から生じたもの。教団の腐敗が運動を進める過程で明らかに
なっている。教団の体質を問う運動は粘り強く続けられている。アイヌの人たちの和
人に対するうらみつらみの深さについても団交の場などに同席していて実感。



(2)    各学会に託児室を設置してもらう運動

 私と妻には現在、5歳の子がいるが二人とも学会に出たい。夫婦が共に会員である
日本社会学会、北海道社会学会に要求して学会会場内に託児室を設けてもらう働きか
けを展開。1998年度以来、両学会に実現させて今日に至っている。これまではこうし
た場合、夫婦のどちらかが欠席になっていたと思われる。同じニーズを持った人たち
にも出会えた。日本社会学会大会の場合、今年度は3件、昨年度は5件の利用あり。
別紙資料2参照。



(3)    「心の専門化」の資格制度化を問うためのアカデミズム批判の取組み

 昨今は何かにつけて「心のケア」が必要だと言われる。厄介な問題が個人の心理次
元に還元されて語られる。「心の専門家」の需要が高まり、「臨床心理士」などが増
えている。アカデミズムの世界もこれに関与している。こうした事態をおかしいので
はないかと問い直す動きが現れた。日本社会臨床学会は「心の専門家」の国家資格を
めざすことに反対して日本臨床心理学会を辞めた人たちが作った学会であり、都内で
連続講演会をしたり、『カウンセリング・幻想と現実』(現代書館)という論文集を
出すなどの活動を行なっている。私も1995年から会員となり、カウンセリングの社会
的機能や資格社会化について批判的に検討中。さっぽろ自由学校「遊」でそうした
テーマの連続講座をコーディネートして市民にも働きかけた。近刊の編著『「心のケ
ア」を再考する』(現代書館)参照。2001年度の日本社会学会ではテーマセッション
「ホモアカデミクスの社会学」部会でアカデミズムの側の都合で専門資格が増殖しつ
つある現状を批判する報告を行なった。



(4)    異常性欲者向け社会臨床産業(SM系出版社)支援のための取組み

 上記の「SM系メディアによる「癒し」の可能性に関する社会臨床学的基礎研究」
のフィールドワークで大手SM系メディアの版元を訪れて最近知ったが、その編集部
におかれた「甘えん坊教育振興協会」は社会的マイノリティとしての各種異常性欲者
のための商品を開発、販売し当事者に喜ばれている。そこから派生して仲間を癒すボ
ランティア活動を自室で独自に実践している女性もいる。男性嫌悪の「甘えん坊」に
はDV被害者もいるという。異常性欲は一種の嗜癖である点で、摂食障害やリスト
カットと同等である。性欲における障害者といえるのかもしれない。彼らの多くは精
神障害をも有している。異常性欲者というカテゴリーは一般のスケベ男性とは明確に
区別されるべきものである。

 「甘えん坊教育振興協会」は「思い残し症候群」の人に「癒し」の場を提供してい
る臨床心理学者と同じくらいの社会貢献をしている。とすれば少なくともルサンチマ
ン処理産業としての自己啓発セミナー主催団体やカウンセラーと同等くらいに社会的
に尊敬されてもいいはずである。性自認や性的志向性におけるマイノリティである同
性愛者や女装愛好者が比較的カミングアウトしやすくなったのに比べて性的嗜好にお
けるマイノリティのそれは遅れている。彼らの存在を社会的に認めさせていく運動に
今後取り組みたい。それは現代日本のあまりに貧困なエロスを豊かなものに復権させ
ることをもねらいとする長期的展望に立った運動となろう。ノーマルに結婚したパー
トナーと正常位の性交のみを重ねた人だけを正常性欲者とする社会の方こそがいびつ
なのである。

 「SM系」、「エロ雑誌の出版社」という言葉に含まれる侮蔑的な響きがよくな
い。社会臨床産業とでもネーミングし直して定着させていってはどうか。基本戦略と
しては日常に退屈している専業主婦層をターゲットに既にかなりの部数が出ていて、
『おもらし倶楽部』や『おしおき倶楽部』への入り口としての機能をも有している月
刊誌『タブー』の中身を改善していく手が考えられる。この雑誌の読者投稿欄のなま
データ(編集部の加工以前のもの)は多くのことを物語っている。生きづらさの訴え
が読み取れる。今後、このメディアの研究を進めていく過程で新しいさまざまな出会
いと知的発見に恵まれそうである。



(5)    各出版社への視覚障害者用の電子テキスト提供要求の取組み

 今回の研究会での報告者への主催者サイドからの要望があったという理由で視覚障
害者用に拙論の電子テキストを『社会運動と文化』の版元のミネルヴァ書房に要求。
再三の催促のメールに対して総務の担当者から電話があり、「検討中なので今しばら
くの御猶予を...」という返答(11月26日)。その後も返答なし(12月4日現
在)。

 実質的には著者が手持ちのフロッピの中身を渡せば済む話であること、それだけに
フォーマルな申し入れが一種の政治的な要求運動であることをミネルヴァ側もよく承
知している。紙媒体に情報を載せて商品化している出版という事業の根幹に関わる問
題を含んでいるだけに慎重にならざるを得ないと思われる。しかし視覚障害者のバリ
アフリー拡大のために今後さまざまな出版社に要求の対象を広げていくことを考えて
もいいのかもしれない。獲得目標は出版社に本というメディアに存する視覚障害者に
とってのバリアを自覚させること。ちなみに知る範囲では、せりか書房、明石書店は
巻末頁にシールを印刷し申請者に郵送する方式。以前に打診した現代書館はコピー許
可の断りを奥付に記載するものの電子テキスト提供までは認めず。青土社は高額の金
銭の支払いという条件をつけてきた。



U.マイノリティの「生きづらさ」の表現という視点から捉えた社会運動

(1)  「強がる態度」の深層――「社会運動以前」についての検討から

 サングラスをかけている人、口ひげをたくわえている人は、そのように生きている
自己というものを実は周囲に対して提示してしまっている。強がっている人、何に対
してもまず反対する人などについても同様。理屈の背後に横たわっているものとして
の憎悪と反感。これは「青い芝の会」の運動に関わっての経験的な気づき。「殆ど言
いがかりみたいなことを言ってくる。それに慣れないと介護などできない」と最初に
先輩に言われた記憶。

 愚痴、つぶやき、ぼやき、ため息の世界(社会運動以前の世界)と社会運動の世界
とは意外と近しいのでは(高橋準)。その根底には「生きづらさ」が潜んでいる。一
般に運動を始めるのは時間的にも精神的にも金銭的にもコストがかかるものであるか
ら少々のことならがまんして私的に解決するという選択をすることの方が実は多いは
ず。私的戦略ではなく、他者にも働きかけて共同で何かを変える行動を起すのはそれ
なりのポテンシャルがあってこそ。激しい怒りや反感もそのようなポテンシャル足り
うる。



(2)  石川准のアイデンティティ・ゲーム論の魅力と限界

 マイノリティが追い詰められた時にアイデンティティを確保しようとして取る戦略
を大きく四つに分類。@印象操作(身元隠し、成りすましなど)、A補償努力(社会
的に威信の高い集団への帰属によるカヴァリングなど)、B他者の価値剥奪(他を低
めることで自分を高めようとする差別落書きなど)、C価値の取り戻し(自分はこれ
でいいんだと言う開き直り、或いは死に物狂いのやせがまん)。

 このほかにそのようなゲーム自体から「降りる」という選択もあるのかもしれな
い。石川が後に言うようになった「存在証明からの自由」。そのようになれたらとて
も楽なはず。私見では自己啓発セミナー参加直後に人はそんな晴れ晴れした気分をひ
ととき堪能できる。宗教という現象も同じ状態を提供できるのかもしれない。

 石川のアイデンティティゲームの説明には個人に存在証明を特に強く強いる社会構
造に関しての比較考察が乏しい。マクロな歴史的視点からの現代社会分析が必要とな
る。



(3)  構築主義では掘り起こし得ない障害者の生きづらさとは何か

 構築主義のアプローチは問題を分析していくにあたって優れたものだといえる。
「○○とは人々が○○とみなし、○○として扱うもの」と定義するのがこのアプロー
チ。それは通常、本質主義とは水と死油の関係のアプローチだとされる。実にすっき
りとしている。研究者が対象に対して「認識の暴力」を行使するのを防いでくれるメ
リットは確かにある。その場合、社会学が分析すべき対象は言語、表象、テクストの
みに限定される。構築主義とは厳格な科学主義の適用のようでいてその実、知的遊戯
かもしれない。

 たとえば、「ルサンチマンは人々がルサンチマンとみなし、ルサンチマンとして扱
うもの」ということになる。つまり、ルサンチマンとは研究者が勝手にでっち上げた
物語に過ぎない、そんなものは実在しないと言う話になる。しかし、天然のものなど
はなく、全ては人々の共同主観によって構築されたものだという見方をするこのアプ
ローチによって「障害者の生きづらさ」を十分に掘り起こしていけるだろうか。



(4)  「ルサンチマン処理」概念の有効性

 ルサンチマンの実証は難しい。それは仮にそのようなものがあると考えるとうまく
説明がつくという程度の概念装置なのかもしれない。しかし「青い芝の会」の運動に
関わっていて自分が経験したことを納得のいくように記述するという場合にこの概念
はたいへん便利でしっくりといくものだったことも事実である。厳密なものとして定
式化できなくても或る程度のリスクを意識しつつ使用した方がいい概念というものが
社会学研究には必要ではなかろうか。私はルサンチマンをそのようなものの一つとみ
ている。

 ルサンチマン処理産業、ルサンチマン処理装置、ルサンチマン処理需要、ルサンチ
マン処理文化、ルサンチマン処理性能。これらは全て私の造語であるが、これらを用
いることによって用いないときよりも現代日本社会に存在する「生きづらさ」に迫る
ことができたように考えている。「すっぱいブドウ」のキツネはやはり生きづらかっ
たはずだ。ルサンチマンとは何らかの弱者の内面に生ずるこじれたうらみつらみの表
現形に他ならない。



V.現代社会の支配構造をどう捉えるか?

(1)  グローバリゼーションの動きと社会のマクドナルド化

 マクドナルド化(McDonalization)とは、ジョージ・リッツアーによって使われ始
めた概念で「ファストフード・レストランの原理がアメリカ社会やその他の世界の多
くの領域を支配しつつある過程」のこと。マックス・ウェーバーの官僚制組織におけ
る合理化についての分析をさらに現代社会に応用したもの。リッツアーによると「社
会のマクドナルド化」の基本原理は、効率性(efficiency)、計算可能性
(calculability)あるいは数量化(quantification)、予測可能性
(predictability)、テクノロジーによるコントロールの四つ。このテクノロジーに
は機械や道具だけではなく、スキル、知識、ルール、規制、手続き、マニュアルが含
まれる。「社会のマクドナルド化」は多様な地域、場所、領域、ビジネスに転用可
能。マクドナルド化を免れた生活領域はもはや皆無かも。たとえば、手軽に効率よく
予測された性的欲求を満たすことも可能に。

 グローバリゼーションの本質とはアメリカ的価値の世界中へのおしつけ。業績主義
原理の過剰とセラピー文化のセットのおしつけ。現在、進んでいるのは「社会のマク
ドナルド化」の世界化。親密さや感情に関わる領域の商品化が加速度的に進展する状
況。たとえば、カウンセリングというサービスを購入すれば、自分の最愛のパート
ナーとなら得られるであろうほど大きな満足ではないにせよ、ファストフードの商品
と同じく、手軽に効率よく自分の好きな時間に予測された「癒し」がほどほどに得ら
れる。「臨床○○士」などの「心の専門家」の資格制度によってアカデミズムの世界
が振り回され始めたのもこうした事情によるもの。日本社会臨床学会の存在は現在の
状況への貴重な抵抗勢力。



(4)    総力戦体制と合理主義の相性のよさ

 戦時は平時と違って「合理化」がとりわけ強く要求される。優生思想を徹底させた
ファシズム社会はある種の合理性によって貫かれていた。戦闘員としての資質という
基準の適用によって二級市民の一級市民への格上げも行なわれた。戦時に達成された
技術革新とは我々の時代にも共通している技術者的合理性の欲望を歯止めなく満たす
もの。戦時の総力戦体制は「近代化のプロジェクト」からの逸脱ではなく、その新た
な段階。二つの大戦を経て古典的近代は現代への転換を遂げた(山之内靖ほか)。

 もっとも障害者が戦時にどんな目にあっていたのかについて考えてみると、多くは
被差別部落民やアイヌなどとは違って二級市民から一級市民への格上げの恩恵にあず
かれなかったはずである。だが、それだからこそ障害者という存在、あるいは障害者
の社会運動は総力戦体制の継続としての現代社会において価値があるのではないの
か。



(5)    ボランティア動員型社会の落とし穴

 アルベルト・メルッチは「今や高度に発達した情報メディアやコミュニケーション
手段を通じて複合的に分化した社会の諸権力が個人の自己定義、動機づけ、感情の持
ち方、セクシャリティ、生物的欲求などこれまで自然的な特性とみなされていたとこ
ろにまで深く介入する。私とは誰なのか?という問いは多様に広げられ、同時にコン
トロールされたものとして形成される」と指摘している。こうした現象の一つが自己
啓発セミナー。

 中野敏男は上記のようなメルッチの現代社会分析を受け止める形でボランティア動
員型社会論を展開。「ボランティアという生き方の推奨は、現状とは別様なあり方を
求めて行動しようとする諸個人を捉えてその行動のを現状の社会システムに適合的な
ように水路づける方策としてはあまりにぴったり」。ボランティア活動はそれ事態と
しては目的を持たない。そこにあるのは「何かをしたい」という意志だけ。「この主
体=自発性は抽象的であるがゆえにかえって「公益性」をリードする支配的な言説状
況にどうしても親和的になってしまわざるを得ない仕掛け」が存在している。



(6)    解決主義を批判するアルベルト・メルッチの社会運動論の意義

 メルッチは昨年亡くなってしまったが、邦訳されている1989年の『現在に生きる遊
牧民』の後、1996年に刊行したChallenging Codes.では次のように指摘。「介入と
いう実践を行なうところの近代のテクノロジーは既存の技術の有効性を拠り所にして
解決主義に凱歌をあげてしまい、その結果、聴く態度を不可能にする」。 

 メッセージの背後に横たわっているより大きな問題の存在に気づき続けるためには
安易に解決主義に走らないほうがが好ましいということのようだ。障害者の解放運動
の方向性について考えるにあたっても示唆深い言及ではなかろうか。

 「脱魔術化」の果てに到来した「再魔術化」の時代には「聴く態度」もまた見直さ
れてくるのかもしれない(山之内靖)。マクドナルド化に巻きこまれずに「聴く態
度」を再生させる方法的工夫とは何か。



W.今後の社会運動のあり方について展望

(1)   実利的価値を求める運動と象徴的価値を求める運動

 大まかにモデルを提示すれば、社会運動は大きく二つに分けられる。実利的価値を
求める運動と象徴的価値を求める運動である。どちらも政治的な要求を行なうが、前
者は要求の実現によって目的を達成すれば運動体は解散する。しかし後者はなかなか
解散せず、次の要求を見つけ出してくる。運動をし続けることそれ自体が多くの構成
員にとって快感を伴っていたり、アイデンティティを確証する根拠になっていたりす
る場合、なかなかやめられない。このとき社会運動は一種の集合的な嗜癖のようなも
のと化している。

 私が強い興味を持つのは後者のタイプである。存在そのものからして合理的ではな
い。ルサンチマン処理機能を多く担っている。だからこそグローバリゼーションの進
む現代の支配体制にとっての抵抗勢力となるのでは。



(2)  「青い芝の会」は何がどうまちがっていたのか

 倉本智明論文の分析に大筋で賛成である。青い芝の会の横塚は「障害者が示す社会
性のなさ」といった特徴まで「肯定すべきありのままの存在」として評価したが、倉
本の指摘するように「〈健全者文明〉のもとで培養された負の特性」まで持ち上げら
れたのは「支配文化のもとで否定的な意味を持つという一点からだけにほかならな
い」。「横塚もまた、他者から価値を奪い取ってでも、自らにより望ましい意味を付
与しようというゲームに参加してしまった」。対抗的であることそれ自体が価値を持
つような運動は空しい。それはやはり倒錯でしかない。健常者に執拗に自己否定を迫
る過激さはこのような弱点への危機感や焦燥感が作用してのもの。私の言い方を使わ
せてもらえば、ルサンチマンの虜になる道を知らず知らずのうちに選んでしまい、従
属文化に吸収されたということ。



(3)  まじめな運動がマクドナルド化に取りこまれる状況

 但し、横塚がなぜ罠に陥ってしまったのかに言及する論旨を辿ると倉本は、ろう文
化宣言と比較し、ろう文化宣言の場合は手話というコミュニケーションの方法を対抗
文化のよりどころにしており、それには支配的文化と対抗できる積極的な要素が含ま
れていたのだが、青い芝の会の場合はそれが欠落していたという押さえ方をしてい
る。

 青い芝の会とろう文化宣言との相違を強調していく倉本の論述の道筋は適切なもの
か。倉本はろう文化宣言に一条の光明を見出したようだが、私には青い芝の会とろう
文化宣言の両者は本質においてそんなに大きく違うのだろうかとの懸念が強い。現に
人工内耳というテクノロジーの利用の是非をめぐってはろう者の間で動揺が起きてい
るのでは。「聞こえる方が聞こえないよりはいい」という誘惑はろう文化にとってや
はり手ごわいのでは。それともこれは私がろう文化の魅力をよく理解していないため
の邪推か。

 実際のフィールドワークをしていないからここでは一般的に仮説的なことを言うし
かないが、「対抗」を志向する動きの多くは「対抗」しているはずの相手を結局は模
倣してしまいがちである。それも模倣は本物に比べたらやはり二級品でしかない。
今、気にしなければならないのは「まじめな」対抗的社会運動が当人たちの主観的思
惑とは裏腹にマクドナルド化して体制に取りこまれてしまうことである。



(4)  不まじめな運動の魅力――ホーキング青山とビートたけし、伏見憲明の発
言から

 それではどうしたらいいのかという話に当然なる。不まじめな運動が面白いという
気が個人的にはしている。障害者解放運動についてはホーキング青山がビートたけし
の対談が目にとまった。二人は乙武洋匡『五体不満足』が多くの人に感動を与えてい
る状況そのものを批判している。やりとりを抜粋すると次の通り。

 ホーキング:いわゆる障害者っていうと、それに便乗しちゃえってのが最近は多く
て。

       殿は乙武洋匡くんの『五体不満足』とか読まれましたか?

 たけし  :読んでない。

 ホーキング:読むわけないですよね(笑)。どう考えても。

 たけし  :オレはね、感動とか愛がなけりゃならない理由がわからない。なんだ
か、

       みんなそっちに持っていこうとするじゃない。だからオレは、今の日
本は

       タカリ文化だっていってるんだけど、自分でやることなしに、必ず人
から

       いただく感動ばっかりじゃん。「ジーコありがとう」とか、「ワール
ドカッ

       プありがとう」とかな。感動をありがとうって、それは全部タカリだ
ろう

       って。自分がやれっての。もらうんじゃなくて一度でいいから与える
方に

       回ってくんねぇかってさ。(以下、省略)



 ここでゲイであることをカミングアウトし、マイノリティのためのさまざまな活動
を続けている伏見憲明さんが「キャンピィ感覚」という言葉を紹介しておこう。それ
は自分を絶対に正しいと思っている人には到底わからない感覚である。何かに対して
対抗している自分自身をも笑い飛ばしてしまえる余裕の文化のことである。そんな余
裕のある人はおしきせのものには感動せず、自分が与えるほうに回れるわけだ。こん
な感覚が本報告で言う「だつりょく」に近い。



(5)  「だめ連」と「ドッグレッグス」にみる「だつりょく」のかたち

 「だめ連」は相当に屈折した人達の集まりである。知的水準は高い。会話をしてみ
ると、そのことがよくわかる。自分は本当はすごく勉強してきた人間なんだぞ、頭が
いいんだぞという隠れたメッセージがびんびんと伝わってくる。それでも自分たちは
「だめ」だと自覚してそのことを積極的にアピールして多くの人を巻き込んでいくと
ころがすごい。殆ど冗談半分で「だつりょく」的に早稲田でたまり場を経営してい
る。ヘンな人間がいろいろ集まってくる。訪ねていった私もそのヘンな人間の一人に
他ならないが。

 「ドッグレッグス」については2000年11月末に北海道で興行した時に、ボランティ
アで関わった。千歳空港に着いたレスラーたちを愛車のオデッセイに乗せて会場の美
唄体育館まで運ぶ仕事をした。それに会場の設営と後片付けを手伝った。興味を持っ
たゼミ生と友人も同行してくれた。試合は面白かった。男女二人のリングアナウンス
のかけあい漫才のような調子がおかしくて笑ってしまった。終わった後の打ち上げ
パーティも盛り上がった。北島さんの書いた本を読んで私が勝手に抱いていたイメー
ジは、見ている者を挑発する激しさ、厳しさというものだったが、実際にはもっと
もっと「だつりょく」している人たちだった。



(6)  「対抗」型と「だつりょく」型のルサンチマン処理性能の比較

  むずかしいので省略(笑)。あとは皆さんと一緒にこの場で考えていきたい。

 以下に参考までに1999年の日本社会学会のテーマセッション「社会運動と文化」で
報告した時のレジュメから関連する部分を抜粋しておく。



対抗的であることの意味:「青い芝の会」→「劇団態変」と「だめ連」を事例に

1.「青い芝の会」→「ドッグレッグス」、「劇団態変」の系譜の場合

 「健常者」に近づこうとするのではなく、「障害者」であり続けることから「健常
者」文化を批判するというスタンス。「健常者」に厳しく自己批判を迫る運動を展
開。

 「青い芝の会」は対抗的であることそれ自体を価値化したところもあって失速。そ
の思想を受け継いだ「ドッグレッグス」と「劇団態変」。異形のものがいやでもまな
ざしを浴びてしまうことを逆手にとる。「ドッグレッグス」は固定化された障害者観
の解体めざす。「劇団態変」も当初は過激な異化を戦略として選ぶ(その後やり方を
変える)。いずれにしても差異の解消という方向をめざすのではなく、差異化をめぐ
るヘゲモニーを問題にするという点では共通。



2.だめ連の場合

 脱力、脱力... 、だつりょく... 。自分たちの「だめ」さ加減を積極的に認めてし
まった人たちの冗談半分のような運動。そこから生まれる新しい可能性とは何か。む
ろん「だめ連」は少なくとも自分たちを「だめ」と笑いとばせるくらいの余裕のある
人たちの運動であって、そんな余裕を持ち得ない本当に「だめ」な人たちからみたら
異次元の存在なのかもしれない。しかしこのだつりょく的やり方だと自己啓発セミ
ナーのように無理に非日常的解放に導くこともないから、ルサンチマン処理性能は案
外高いのかも...。



「だいたい美しいもの、ユートピア的関係を欲すれば欲するほど、内側にドロドロと
した毒が溜まっていってしまう。いったん運動として旗を掲げてしまったら世間から
見て、清く正しく美しい人間にならなくちやいけないという抑圧があるのね。しか
し、人間って成長するのに長いスパンが必要じゃないですか」(田中美津)



「運動ってたいしたことない人が、なかなか言動一致できないっていう矛盾を抱えな
がらやってるってとこが重要だと思う」(神長恒一)[だめ連編1999:259]





《文献》

だめ連編1999 『だめ連宣言』(作品社)
伏見憲明1995『キャンピィ感覚』(マガジンハウス)
ホーキング青山・ビートたけし2002『日本の差法』(新風舎)
井上芳保2002「「ホモアカデミクスの社会学」の現代的課題」北海道社会学会編『現代社会学研究』15号所収 
井上芳保2002「対抗的社会運動とルサンチマン処理文化」野宮大志郎編『社会運動と文化』(ミネルヴァ書房)所収
井上芳保編2003『「心のケア」を再考する』(現代書館)
石川 准1992『アイデンティティ・ゲーム:存在証明の社会学』(新評論)
木村晴美・市田泰弘1995「ろう文化宣言――言語的少数者としてのろう者」『現代思想』
3月号
北島行徳1997『無敵のハンディキャップ:障害者がレスラーになった日』(文藝春秋)
倉本智明1997「未完の〈障害者文化〉:横塚晃一の思想と身体」大阪府立大学社会福祉学部紀要『社会問題研究』第47巻1号
倉本智明1998「異形のパラドックス:青い芝・ドッグレッグス・劇団態変」石川・長瀬編『障害学への招待』(明石書店)
Melucci.Alberto,1989,Nomads of the Present――Social Movements and Individual Needs in Contemporary Society,edited by John Keane and Paul Mier,Temple university press.=1997山之内靖、貴堂嘉之,宮崎かすみ訳『現在に生きる遊牧民』(岩波書店)
Melucci..Alberto,1996,Challenging Code――Collective action in the information age,Cambridge university press.
中野敏男1999「ボランティア動員型市民社会論の陥穽」『現代思想』5月号
Ritzer.George,1996,The Mcdonalization of society,Pine Forge Press.=1999正岡寛司監訳『マクドナルド化する社会』(早稲田大学出版部)
高橋 準1994「自分を・語る・ことば:〈個〉に根ざす運動の姿」『一橋論叢』22巻2号
田中美津1972→1992『いのちの女たちへ:とり乱しウーマン・リブ論』(河出書房新社)
横塚晃一1981『母よ!殺すな』(すずさわ書店)
山之内靖、ヴィクター・コシュマン、成田龍一編1995『総力戦と現代化』(柏書房)
山之内靖2003「「脱魔術化」した世界の「再魔術化」にどう向き合うか――グローバリゼーション時代の「心のケア」を考える」 井上編『「心のケア」を再考する』(現代書館)所収

UP: 200212 REV: 20160125
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