1.本発表の位置付け
生殖の自律、わけても中絶の権利の獲得は、フェミニズムの主要なイシューである。フェミニズムは、個人の権利の尊重を説くリベラリズムの力をかりて「自己決定権」の獲得を実現させてきた。しかし一方でこの自己決定権の主張は、「胎児は女性の所有物なのか」、「胎児の生命への配慮をいかに担保しうるのか」という難問を投げかけられてきた。女性の権利か、胎児の権利かをめぐる相克は、今もって解消されていない。
本発表の目的は、自己決定権を基礎づけているリベラリズム諸理論の精査を通じて、中絶の自己決定権の孕む問題を解明していくことにある。リベラリズムのパラダイムにおいてこの困難を乗り越えることができないとしたら、中絶問題はリベラリズムの臨界点を指し示しているといえるだろう。
以下では「身体」(2節)、「自己決定」(3節)、ふたつの概念の検討を通じて、中絶の自己決定権が孕む問題の所在を明らかにしていきたい。さらにこれらの検討を通じて浮かび上がった従来のリベラリズムのパラダイムの限界を乗り越える視座を提示していきたい(4節)。
2.身体をめぐって
まず、身体をめぐる議論を検討する。中絶の自己決定権を基礎づけているものとして、身体の「所有権」の概念があげられる。所有権の概念の始祖は周知のとおりジョン・ロックである(Locke 1690)。ロックは、生命・自由・財産を個人の自然権として位置付け、財を獲得する労働を可能にする身体を各人の所有権の起点と考えた。このようなロック的所有権の概念は現代において、ロバート・ノージックをはじめとするリバタリアニズム(自由尊重主義)によって再生された (Nozick 1974)。ここでは、身体を制御しうるという事実から、制御してもよいという規範が導出される(森村1995)。この所有権は、主に英米圏の生命倫理学によって中絶に結び付けられている。これら生命倫理学の諸理論は所有権を援用することで、中絶問題に明快な結論をだす。胎児は権利主体ではないか、もしくは生きる権利を有していても女性の所有権はそれを上回るものとされる。エンゲルハートの「パーソン」論 においては、胎児は正当な「人格」、権利と義務の主体ではなく、女性によってつくられたひとの所有物にすぎない(Engelhardt1986=1988)。またジュディス・J・トムソンは、妊娠を人格と人格の契約関係に例え、胎児に生きる権利を認めた上で、胎児の生命を救う女性の義務を否定する(Thomson 1971=1988)。なぜなら、女性の身体は胎児とは別個の女性自身の所有物であるのだから。身体の所有者は自らの身体を制御する権利、身体から胎児を切り離す権利を有するのである。
一方でフェミニストからは、胎児を所有物や別個の権利主体とする所有権のパラダイムに対して異議が唱えられている。フェミニスト法哲学者のキャサリン・マッキノンは先のトムソンの議論を批判しながら、胎児は「私であり、私ではない」両義的存在であると論じ、自己の境界を揺るがすようなものとして胎児との関係を表明する(MacKinnon 1991)。さらに「権利」の概念が、胎児の生命の価値を消去するというモラル上受け入れがたい含意をもつことに対し、以下のように異議を唱える。
身体的・感情的結合のゆえに胎児と妊婦が分離された別個のものであると主張することは、両者が分離されていないものであると主張することと同様に誤りなのである。妊婦が経験するこれらのすべての特徴―妊娠と中絶に関する、特別で、複雑で、皮肉で、悲劇的なもののすべて―は、リベラル派の説明においては軽視されているのである。(MacKinnon1991:1316)
このような権利の概念が抱える困難を乗り越えようと、中絶の自由を所有権のパラダイムから切り離して擁護しようとする試みもでてきた。フェミニスト法哲学者のドゥルシラ・コ―ネルは、中絶を「平等権」としてリベラリズムの枠組みに位置付ける(Cornell1995)。コーネルは(男性と同様に)女性の「私の身体は私のもの」という感覚を保護する権利として、中絶権は不可欠なものであるとする 。しかし、コーネルの議論ではマッキノンが論じた「自己」の境界を揺るがすような胎児との関係は明らかにならない。「所有権」のパラダイムに向けられた異議は、そのままコーネルの議論にも向けられるであろう。
3.自己決定をめぐって
以上のように身体をめぐる権利の議論は、胎児のステイタスや生命の扱いをめぐるモラル上の問いと衝突する。以下ではモラル上の観点から「自己決定」権の孕む問題を検討していきたい。
自己決定権の概念を支えているリベラリズムの特徴は、ジョン・ロールズが『正義論』で定式化した「正の善に対する優位」テーゼにある(Rawls1971)。リベラリズムの目論見は、相対立する価値観をもった人々が共にひとつの社会のもとで生きていくことができるよう、諸個人の自由と基本的な権利(正義)とを保障し、多様で特殊な個人の生(善)の可能性を確保することにある。ここでは権利の枠内では、自らの善の最大化を試みる合理的な自己、他者とは独立に生き方を選択する自律的個人が前提とされている。この論理において中絶の自己決定権とは、女性が自己の生き方(善)を追求することを保障するものであり、結果として「利己的な女性が胎児の利益を奪う」という構図が想定されることになる。さらに権利の概念は、権利の枠内の行為への干渉を排除する。中絶が権利である限り、それがどのような理由による中絶であっても個人の自己決定は尊重されねばならない。それゆえに「自己決定権」の主張は、「モラル」上の観点から批判を受けてきたのである。
このジレンマを乗り越えるべく中絶を「モラル」の観点から論じ、なおかつ個人の自己決定を擁護するという力技を試みたのが、ロールズとならぶリベラリズムの理論家ロナルド・ドゥオーキンの『ライフズ・ドミニオン』(Dworkin1993=1998)である。ドゥオーキンによれば、人々は胎児をも含めたあらゆる「生(life)」に、神聖さという本来的価値を認めている。それにもかかわらずある人々が中絶を決定するのは、望まない妊娠によって成人の野心、才能、訓練、希望が挫折することのほうが、胎児の早死によって胎児に対する自然の投資が挫折することより、一層重大な生の神聖さに対する脅威と考えているからである 。ドゥオーキンは、このような生の神聖さをめぐるモラル上の信念は、宗教的な信念であるとし、リベラリズムの宗教的寛容の原則のもと中絶を個人の自己決定権として認める。
しかしドゥオーキンは、障害をもった胎児の生が本来的に不幸なものであるとの判断からなされる中絶も生の神聖さの価値を擁護した上での決定なのだとするが、ここでおこなわれているのは、実質的には生の価値の比較考量である 。ドゥオーキンの議論は、「なぜ人は生命の問題にまじめに取り組みながらも、中絶を決定するにいたるのか」というモラル上の問いに答えうるロジックとしては不充分なものであろう。
一方で、中絶に直面した女性たちに対する聞き取り調査であるキャロル・ギリガンの『もうひとつの声』では、中絶の決定をめぐる異なるロジックを見出すことができる(Gilligan1982=1986)。ギリガンは女性たちの思考のなかにあるロジックに支えられた道徳的判断、「ケアの倫理」を見出す。女性たちは単に「利己的」な関心からではなく、いかにして他人を傷つけないですむかを考え、自分の判断に他人の視点を含み込んでいるとされる(ibid:22) 。家族や周囲の人間との関係、これまでのそしてこれからの自分の人生、さらに生まれてきた場合にその胎児がいかなる人生を送るのかといった自分に帰せられた様々な責任を引き受けながら、なにが最善の策であるのか判断しているのである。
先にみた権利の主体である「自己」は、自己の善の構想を追求していく利己的存在であった。他者との帰属の事実から独立に個人的利害が同定できることが前提とされてきた。しかしここで見出されるのは、他者と道徳的、認識論的に結びついている「自己」である。「自己」のあり方は、周囲の他者との関係性、愛着、コミットメントと不可分であり、それゆえ「何をなすべきか」は自己反省や自己理解をへて決定される。道徳的深みをもった「自己」ある 。こうした判断や熟慮をおこなう「自己」を想定することで、中絶のモラルの問題、「なぜ人は生命の問題にまじめに取り組みながらも、中絶という決断にいたるのか」ということはよりよく説明される。女性たちが考慮しているのは、自らの利己的な関心でも「悲劇」の度合いの比較考量でもない。
4.「自己」の再編
以上、胎児のステイタスや、モラルの問題から中絶の自己決定権が孕む問題点を考察してきた。これらの考察において浮かび上がってきた身体と自己の関わり、自己決定の主体の「自己」のあり方は、従来のリベラリズムの「自己」には回収しえない要素をもっていた。ここでは再び身体にも目を向けながら、「胎児」という存在が、従来の「自己」や「私の身体」という概念にどのような変更を迫るのか考えてみたい。
先にみたように権利の概念は、制御しうる対象としての個別の「身体」を前提に組み立てられてきた。しかし「私の身体」という概念の自明性を解体する作業は、中絶以外の観点からもおこなわれている。たとえば、熊野純彦は、「所有」という概念の成立する条件を問う過程で、対象としての「私の身体」という概念が成立するのは「自己」が意思によって制御しようとしたときにすぎないと述べる(熊野2001)。身体が十全に機能しているとき、さらには病にとりつかれているとき、「私」と「私の身体」の区分はもはや不明瞭になってしまう。「身体」は「自己」が制御する対象物ではなく、逆に「身体」に「自己」が規定されているのであり、「自己」はこうした「受動性」を乗り越えることができない。熊野はこう述べる。
「私であり私ではない」胎児があらわれる妊娠という経験も、こうした「私」と「私の身体」の境界を不鮮明にするようなものとしてとらえられるだろう。妊娠とは、身体が把握できない「他者」になっていく過程である。いつから一個が二個に増えたのか遡及的にふりかえっても明確に規定することはできない。身体の「他者性」「制御不可能性」を、日々成長していく胎児という生命こそが如実に現実化させる経験であろう。「私の身体は私のもの」という感覚は、まさに「幻想」にすぎないことを。
さらにこのような経験において、「自己(私)」の「利益」すら特定化しえない。「私」という外延すらも不明瞭になってしまうだろう 。妊婦が食べ物を摂取するとき、どれだけを「自己」が所有し、どれだけを「胎児」が所有するといえるのか。妊婦が病に伏した時、失われるのは一体誰の「福利」なのか。
独立したひとつの「自己」、ひとつの「身体」を起点とした「権利」の概念においては、こうした経験の意味は明らかにしえない。これまでのリベラリズムのパラダイムで中絶を論じることに限界があったのである。今後、「自己」と「他者」の関係、また「自己」と「身体」の関係を再構築していくこと、さらには妊娠や中絶といった経験を言語化していくことは、重要な課題となるであろう 。
5.自己決定権の功罪
これまで、フェミニズムに政治的言語を供給してきたのはリベラリズムであった。フェミニズムは自由と平等、「自己決定権の尊重」というリベラリズムの理念を梃子に、「女の身体は女のもの」「産む・産まないは女が決める」という自らの主張に説得力を与えることに成功したのである。しかしこの「自己決定権」は、女性を「身体を制御する主体」、さらには「自由に生き方を選択する自律的個人」として描き出すことになった。結果として中絶の自由を訴えるフェミニズムの主張は、胎児の生命を軽視する主張ととらえられ、胎児を「所有物」とみなす論理と共犯関係を築くことになってしまった。女性の解放を実現させた「権利」の概念が、いつのまにか自らの首をしめていたのである。フェミニズムの主張に説得力を与えるためには、自らの主張と従来のリベラリズムの議論との差異を明確にすることが不可欠であろう。フェミニズムは、「自己」や「身体」を語る新たな言語を必要としているのである。
〈主要参考文献〉
Cornell, Drucilla., 1995 ,The Imaginary Domain:Abortion, Pornography & Sexual Harassment, New York Routledge.
Dworkin,R,M.,1993, Life'sDominion:An Agreement about Abortion Euthansia,and Individual Freedom,Alfred A.Knopf.(=1998,水谷英夫・小島妙子訳,『ライフズ・ドミニオン』信山社.)
Engelhardt,Hugo,Triatram,,1986,The Foundation of Bioethics,Oxford UP(=1989加藤尚武・飯田亘之監訳『バイオエシックスの基礎付け』,朝日出版社.)
Gilligan,C.,1982,In a Different Voice:Psycological Theoryand Woman's Development.(=1986,岩男寿美子訳,『もうひとつの声―男女道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』川島書店.)
熊野純彦,2001,「所有と非所有との〈あわいで〉(下)−生命と身体の自己所有をめぐる断章」『思想』(No923)
Locke, John.,1689,Two treaties of Government(=1980,宮川透訳「統治論」大槻春彦編『ロック・ヒューム』(世界の名著32)中央公論社.)
MacKinnon, Catharine A., 1991, "Reflections on Sex Equality Under Law" in Yale Law Journal, No. 1281.
森崎和江,1962,『第三の性』三一書房.
森崎和江,上野千鶴子,1990,「見果てぬ夢―対幻想をめぐって」『ニュー・フェミニズム・レビュー 第1号』学陽書房.
森村進,1995,『財産権の理論』弘文堂.
Nozick,R.,1974,Anarchy ,State,and Utopia,Basic Books.(=2000,嶋津格訳,『アナーキー・国家・ユートピア』木鐸社.)
Rawls,J.,1971,A Theory of Justice,Harvard UP.(=1979,矢島鈞次訳『正義論』紀伊国屋 書店.)
Sandel,M.,1982,Liberalism and Limits of Justice,Cambridge University Press.(=1999,菊地理夫訳,『自由主義と正義の限界』三嶺書房.)
Thomson,J.J.,1971,"A Difence of Abortion,"Philosophy and Public Affairs,1(1),Princeton UP.(=1998,星敏男他訳,「人口妊娠中絶の擁護」加藤尚武・飯田恒之編『バイオエシックスの基礎』東海大学出版会,94‐110.)
……以上……
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Cornell, Drucill, 1995 ,The Imaginary Domain:Abortion, Pornography & Sexual Harassment, New York Routledge.
Dworkin,R,M.,1993, Life's Dominion: An Agreement about Abortion Euthansia,and Individual Freedom,Alfred A.Knopf.(=1998,水谷英夫・小島妙子訳,『ライフズ・ドミニオン』信山社.)
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