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DMの<視覚化>と患者の認識過程の検討

――DM教育入院を事例として――

福島 智子 20021116 第75回日本社会学会大会


■報告要旨

 慢性疾患のひとつである糖尿病(以下DMと表記)は、初期であればほとんど自覚症状がなく、その診断は主に血糖値という数値によってなされるため、患者にとっては見えにくい疾患である。現在、DMは、近代医療による完治が不可能であり、その治療は、良好な血糖コントロールよる合併症の予防に主眼を置いている。良好な血糖コントロールに不可欠なのが、食事療法、運動療法、薬物療法であり、その成否は、患者の自己管理に大きく依存しているといわれる。
 患者の自己管理の方法を教育・指導するのが、DM患者教育の目的であり、日本においてその中心となるのは、患者を一定期間病院に入院させて実施される教育入院である。
 本研究の目的は、患者のエンパワーメントに照準したDM患者教育において、見えにくい疾患を患者自身がどのように認識していくのか、すなわち、患者の主体的な説明がどのように再構築されていくのかに着目し、DMの<視覚化>の過程における医学的言説の影響を検討することである。
 本研究は、国立N病院において2002年3月11日から4月2日まで行った、DM教育入院患者を対象とした聞き取り調査・参与観察によって得られたデータに基づいている。
 本研究では、自覚症状がないDM患者が、DMであるという医学的言説にいかに直面し、幾多の制限を伴う食事療法・インスリン療法を受け入れていく過程を明らかにするため、上記の調査の中から、それまで自分がDMであるという認識をもたず、教育入院によって初めて、DMに関する医学的知識を得たひとりの患者(Pt.A:71歳・男性・娘夫婦と同居)を取り上げ検討した。
 教育入院以前には、DMに関する医学的知識を持たなかったPt.Aにとって、知識の獲得は積極的な意味をもつが、それをそのまま受け入れることはしていない。それを妨げるのは、自覚症状がないという、現在の身体感覚に依拠した「自分は健康である」という認識である。
 Pt.Aは、血糖値が安定せず、治療法が確定しない状況で、DMという診断に対する疑念を一方でもちながら、医療機器によって示される数値に対しては、抗しがたい正当性を見出している。自覚症状のないPt.Aにとって、血糖測定器によって示される数値は、それ以外の医学的言説以上に説得力があり、自らの身体状態を映し出す「正直な」機械であるとの認識がある。
 このように、見えにくい疾患が<視覚化>される過程において、大きな影響力をもつのは、Pt.Aが信頼をよせる医療機器が示す科学的数値の効力である。それに反する自らの身体感覚との間を揺れ動きながら、過去の生活習慣を振り返り、否定的意味づけと肯定的意味づけの二つの方向性をもって、現在の自己を再構築していく過程がみられた。
 その過程において、患者は自らのライフヒストリーのなかに、医学的言説を部分的に取り入れながら、時にそれとは矛盾する視点を維持しつつ、ダイナミックな再構築を行っていることが明らかとなった。

 

報告原稿


<はじめに>
 糖尿病(以下DMと表記)は、「インスリン作用の不足に基づく慢性の高血糖状態を主徴とする代謝疾患群」1と定義され、その発症には、遺伝因子と環境因子の関与が指摘されている。DM患者の代謝異常は、初期であればほとんど自覚症状を表さず、その診断は、血糖値やHbA1cなどの医学的数値に依拠する「見えにくい疾患」である。このような特徴をもつDMは、適切な治療が行われないまま長期間放置されることによって、最終的には三大合併症(網膜症・腎症・神経障害)を発症すると警告されている2。
 現在、近代医療によるDMの完治は不可能であり、DMの治療は、良好な血糖値の維持による将来的な合併症の予防に主眼を置いている。合併症予防を目的とした血糖コントロールに不可欠なのが、三大療法といわれる食事療法3、運動療法、薬物療法である。そして、血糖コントロールの成否は、患者の自己管理に大きく依存しているといわれる。自己管理の方法を教育・指導するのが、DM患者教育の目的であり、日本における患者教育の柱となるのが、患者を一定期間(2週間前後)病院に入院させ、患者に対する精査加療・患者と家族に対する教育指導を実施する教育入院である4。
 教育入院は、自覚症状のない患者に、DMに関する医学的知識を提供し、今後の自己管理の方法を習得させる機会と位置づけられるが、その際、医療者による一方的な教育・指導ではなく、患者の自律性の育成、エンパワーメントが重要であるといわれる5。
本研究では、患者のエンパワーメントに照準したDM患者教育において、見えにくい疾患を患者自身がどのように認識していくのか、すなわち、患者の主体的な説明がどのように再構築されていくのかに着目し、DMの<視覚化>の過程における医学的言説の影響を考察する。

<研究の目的>
 本研究の目的は、教育入院における患者自身のDMに対する説明の変化に注目し、自覚症状がないDM患者が、幾多の制限を伴う食事療法・インスリン療法を受け入れていく過程において、医学的言説をDMに対する主体的な説明にどのように位置づけていくかを明らかにすることである。教育入院に至るルートは多岐にわたるが6、今回の研究では、様々な入院経緯をもつ患者を対象とした聞き取り調査の中から、それまで自分がDMであるという認識をもたず、教育入院によって初めて、DMに関する医学的知識を得たひとりの患者(Pt.A)に注目する7。

<研究方法>
 本研究は、国立N病院8において2002年3月11日から4月2日まで行った、DM教育入院患者を対象とした聞き取り調査・参与観察によって得られたデータに基づいている。本調査は、文書による同意が得られた入院患者を対象として、クリティカルパス9(患者用パス)に従い、調査者が患者に同伴する形での観察・聞き取りを行っている10。
 Pt.Aを対象とした調査者と患者の一対一の聞き取り調査は、上記の期間中において実施され、他の入院患者を含めた教育場面における患者同士、医療者とのやり取りを参与観察したデータも適宜参考にしている11。

<調査結果・考察・結論>
 本研究の対象となるPt.Aは、71歳、男性、娘夫婦と孫2人と同居している。(ライフヒストリーと病歴に関しては注を参照のこと)12。Pt.Aは国立N病院に2002年3月7日に入院後、早い段階からインスリン療法を開始しているが、血糖値が安定せず、試験外泊中には低血糖を数回経験している。病院においても、良好な血糖コントロールが困難であり、通常2週間の教育入院の期間が、3週間に延長された。Pt.Aは、他の入院患者と同様、最初の一週間でDMに関する集中的な教育・指導が行われている13が、入院2週目以降も、息子が買ってきたDM関連の書籍や、試験外泊中に患者自身が図書館に赴いて借りてきた書籍を読んで、DMに関する知識を積極的に得ようとする姿勢が窺えた。
 Pt.Aの教育入院のきっかけは、同居する娘から指摘された「身体的変化」に加え、「時間的余裕」ができたことであった。教育入院を経て、患者の「身体的変化」がDMに起因する症状であったことが、患者自身による入院の説明においてもみられるが、入院の時点でもそれ以降も、自分がDMであるとの確固たる認識はみられない。
 教育入院以前には、DMに関する医学的知識を持たなかったPt.Aにとって、知識の獲得は積極的な意味をもつが、それをそのまま受け入れることはしていない。それを妨げるのは、自覚症状がないという現在の身体感覚に依拠した「自分は健康である」という認識であり、ライフヒストリーにおける過去の「人並み以上に健康で、体力に自信があり、酒もタバコもしなかった」という自己認識である。
 Pt.Aが、自分がDMであることをもっとも意識する(せざるをえない)のは、厳しい食事制限と煩雑なインスリン自己注射時である。血糖値が安定せず、治療法が確定しない状況で、Pt.Aは医療者の説明・診断は「間違っているかもしれない」との疑念を抱き、食事制限やインスリン注射から解放されたいという気持ちを吐露する一方で、「なってしまったから仕方ない」という診断に対するあきらめが並存している。
 Pt.Aは二つの相反する認識を維持しつつ、生活の制限を伴う食事療法・インスリン療法を受け入れていくが、そうした変化に影響を与えるのは、医療機器によって示される科学的数値であると考えられる。数値に還元されたDM診断には、ある程度納得するというPt.Aは、機械による診断に対して抗しがたい正当性を見出している。
 見えにくい疾患が<視覚化>される過程において、科学的数値を示す医療機器に対する信頼が大きな影響力をもつ。自覚症状のないPt.Aにとって、血糖測定器によって示される数値は、医療者や書籍が彼に与える医学的説明以上に説得力があり、自らの身体的状態を映し出す「正直な」機械であるとの認識がある。それに反する自らの身体感覚との間を揺れ動きながら、過去の生活習慣を振り返り、否定的意味づけと肯定的意味づけの二つの方向性をもって現在の自己を再構築していく過程がみられた。
 その過程において、患者は自らのライフヒストリーのなかに、医学的言説を部分的に取り入れながら、時にそれとは矛盾する視点を維持しつつ、ダイナミックな再構築を行っていることが明らかとなった。

1 [葛谷健他、1999:387](『糖尿病』42巻5号)。
2 「代謝異常が長く続けば糖尿病特有の合併症が出現する。網膜、腎、神経を代表とする多くの臓器に機能・形態の異常を来す」。[葛谷健他、1999:387]。
3 三大療法の中でも特に重視される食事療法は、厳密なカロリー計算に基づく適切な栄養摂取によって血糖をコントロールするものであり、それまでの食習慣を大きく変更することを余儀なくされる。また、薬物療法のひとつであるインスリンの自己注射は、操作を誤れば低血糖を引き起こし、最悪の場合は死に至るとされる点で、患者さらには周囲の家族にとっても慎重な注意を要するものである。
4 [瀬戸隆志他、1999:863](『糖尿病』42巻10号)
5 DM専門医である石井は、「糖尿病患者教育においては、知識や技術を一方的に教え込むのではなく、患者が日常生活で遭遇する多彩な場面で、適切な選択ができ、困難な問題を解決していけるような能力と自律性を育てていくこと(エンパワーメント)が奨励されている」[石井均、2000:16]と述べ、患者の適切な自己管理には、患者自身の考え方に加えて、医療者や家族の援助、職場や学校といった患者を取り巻く環境のあり方が大きく影響することを指摘している[石井、2000:13](『糖尿病』43巻1号)。
6 自覚症状がなく、合併症を発症していない場合、集団検診などによって血糖値の異常が発見され、そのDM診断に基づいて治療が開始されるという経緯をもつ。教育入院は、比較的軽症(初期)のDM患者を対象とすることが多いが、血糖コントロールの指導を行っても、時間の経過にしたがって日常生活でのコントロールが疎かになる患者を再び入院させ、再教育するというルートもある。
7 その理由は、DMの診断と教育入院の時期が一致したPt.Aのケースでは、患者にとって医学的診断は突然のものであり、血糖値に依拠した医学的診断と患者自身が入院以前に持っていたDMに対する認識との比較を行うに際しては、その差が比較的明瞭に表れるとの仮定に基づいている。さらに教育入院以降、DMに対する患者の認識に変化を与えうる医学的言説の影響を検討するにあたって、格好の例と考えられるためである。
8 国立N病院は、1986年に国が打ち出した国立病院・療養所の統廃合により再編され、1997年に誕生した。当時、国立N病院周辺地域は高齢化が全国平均より進行し、慢性疾患の増加、高度医療に対する医療体制の不備が指摘されており、それらを克服するために統廃合が実現されている。入院420床、外来には500人に対応可能であり、主な診療機能は、高度ながん治療、心疾患を対象とした救急医療、膠原病等の難病を対象とした専門医療などとなっている。国立N病院は23の診療科を備え、職員は医師45名、看護職204名他、計350名で構成されている。今回、調査の対象となったDM教育入院患者は、年間40例から50例あり、教育入院が行われる病棟の全病床数は50、医師3名、看護職18名である。
9 クリティカルパスとは疾病毎に標準化された治療計画書である。医療者用と患者用があるが、今回は患者の経験に沿った質的調査のため、患者同様、患者パスを参照しながら、患者のスケジュールを把握し、それに基づいて参与観察、聞き取り調査を行った。
10 本研究における聞き取り調査、参与観察とも、会話をテープに録音することはせず、調査者の書き取りによってフィールドノーツを作成している。報告における引用はすべてフィールドノーツからのものとする。
11 なお、調査者の主眼は患者自身の説明にあるため、医療者から患者に関する情報の提供は原則的に受けていない。さらに、教育入院中において、患者に提供されるDMに関する医学的知識・指導を把握するため、入院患者、患者家族を対象とした教育・指導の場面に調査者も同席するという方法をとっている。
12 Pt.Aのライフヒストリー・病歴(発表当日配布)
13 国立N病院における教育入院のスケジュール(発表当日配布)



医療社会学  ◇糖尿病  ◇日本社会学会  ◇全文掲載
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