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障害学の時代へ
石川 准
2002/11/11 『東京新聞』『中日新聞』2002-11-11朝刊
3年前、私は仲間とともに1冊の本を出版した。
『障害学への招待』
(明石書店)という。この種の本にしては思いがけず大きな反響があった。そして先頃その続編の
『障害学の主張』
(明石書店)という本を出版した。
「障害学」という聞き慣れない言葉を聞いて読者は何を想像するだろう。大半の人は、障害者について、たぶん福祉とか教育とかリハビリテーションとか、あるいはバリアフリーみたいなことについて研究する学問か何かだろうと推測するだろう。
そうではない。障害学はいまの社会のあり方を解読し、より望ましいと考える社会のあり方を提案する学問だ。少し具体的に説明する。
様々な人が生きている。元気に働いている人、体が悪くて働けない人、車椅子が必要な人、良い目と耳を持った人、目の見えない人、耳の聞こえない人、頭の良い人、知的障害のある人、精神的に病んでいる人など、それはそれはいろいろな人が生きている。
障害学とは、どのような社会であれば、障害のある人もない人も、自由に、つつがなく、元気に暮らしていけるかを考える学問である。
こんな不景気な時代に、五体満足な自分たちだって暮らしは楽ではないのに、そんなのんきなことを考えているのかとあきれる人もいるかもしれない。あるいは高齢化が進む時代だからこそ、そういう学問も必要だろうと好意的に受けとめてくれる人もいるかもしれない。
しかし、時代は関係ない。これはどんなときでも考えたほうがよいことだ。
人々が自由に、つつがなく、元気に暮らしていける社会を作ろうと思えば、相当の知恵が必要だ。まず問題になるのは、衣食住その他、必要な財がみんなに充分いきわたらなければならないということだ。財を社会に循環させる仕組みとして市場は有効だが、限界もある。ところが、自由に競争できる市場さえあればあとは何もいらない、政府は小さければ小さいほどよろしい、などと主張する人もいる。考えることの嫌いな、面倒くさがり屋の人だと思う。
もちろん多くの人々は、医療、福祉、教育などでは、その基本部分は公的に供給されるべきだと考えているだろう。障害学でもそのように考えるが、考え方の順序が違う。
普通はこう考えられている。人々は労働にいそしみ、市場で売れるような財やサービスを生産する。市場で評価されるようなものを生産した人は収入を得る。それで生活していける。だが、働けない人、市場で売れるものを生産できない人がいる。そこで、集めた税金のなかから、国が困窮する人に生きていくために必要なだけの給付を行う。これで働けない人もなんとか生きていける。それでよいではないか。
障害学の考え方はこれとは違う。だれもが自由に、つつがなく、元気に生きていくのに必要なだけの財やサービスが得られるように分配することを優先すべきだと考える。もちろん働ける人には大いに働いてもらわなければならないので、働いて市場で評価された人ほど多くの収入を得てよいと考える点は同じだ。働いても報われなくなる社会にしようというのではない。だが、収入の多い人の税負担がある程度重くなるのはやむをえない。そのかわり、働けない人も人間的な暮らしができる社会になる。こう考える。
たしかに働けない人が多いと働ける人の負担は増す。働ける人にとっては嬉しくない。そこで障害の発生予防などということを考えることになったりする。出生前診断とか着床前診断などによって重篤な障害を発見し、そうした障害を持って生まれてくる子供をできるだけ減らそうという考え方だ。障害学はこうした考えに賛成しない。社会は迎え入れる「いのち」の質を選ぶべきではないと考える。
分配という人の利害が一番ぶつかる問題をあえて語った。だから反感を買ったかもしれない。しかし言っておくべきだと思った。
もちろん、障害学は分配問題だけを扱うわけではない。たとえば承認という問題がある。私たちの社会は自分の価値を証明しえた者だけを評価し承認を与える社会だ。証明できない者には辛い社会だ。それでよいのか。どうしようもないではないかという人もいるだろうし、そのほうがやる気が出てよいという人もいるだろう。しかし、そんなに証明に躍起にならなくとも承認される社会のほうが安らぐと思う人が本当は多いとすれば、そんな社会を作るにはどうすればよいのか。障害学はそんなことも考えている。
UP:20021119
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障害学
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『障害学の主張』
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『障害学への招待』
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