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書評『日本文学のなかの障害者像』

大津留 直
2002/10/05
『しののめ』106

last update: 20160125


 本書は、明治以来、現在に至る日本文学のなかで障害者がどのように描かれてきたかを、代表的な作品を取り上げることによって明らかにしようとする試みである。どの作品を選ぶかは、花田春兆氏をはじめとする『しののめ』の代表者たちによって慎重に決定されたものであり、そこには、障害者として長年文学とかかわってきた彼らの貴重な経験が反映されている。このような試みにおいては、すべての作品を網羅しようとするなどということは、そもそも不可能に近く、それほど意味のあることでもない。むしろ、経験を積んだ者たちによる選択を経てこそ、読者、特になんらかの形で文学にかかわろうとする同時代とこれからの障害者にとって重要な意味を持つものになり得るのではないかと思われる。

 本書は二部に分かれており、第一部では、明治から戦前までの、いわゆる近代日本における文学が取り上げられ、第二部では、戦後の現代日本の文学が扱われている。それぞれの作品における障害者像に集中しながら、それぞれの評者における視点の特色を生かして書かれた評論部と、全体の文学史と障害者史に顧慮して書かれた花田氏の『補充されるべきノート』は、互いに照らし合い、補い合いながら、それぞれの時代の文学作品における障害者像を、その変遷と変わることのない問題性において描き出している。

 それにしても、このように多くの優れた文学作品において、ほかならぬ障害者がテーマとして扱われてきたことは、驚きである。そして、この本の企画を支えてきたものは、ほかならぬこの驚きであったのではないか。もちろん、そこで扱われた障害も、それぞれの作品における障害者の扱い方もきわめて多種多様であり、そこにある統一した像を求めることはきわめて困難であるとしても。花田氏が述べておられるように「生、老、病、死」が人生の変わらぬ大問題であり、「現に、老と呼び病と呼んでいるものにしても、障害が現象として陰を落とすからこそ問題を大きくしているのだ」とすれば、こんなに多くの文学作品において障害者が扱われていることはなにも不思議なことではなく、これまでの文学史研究において「障害者像」があまり省みられてこなかったことのほうがむしろ不思議なことであると言うべきなのかもしれない。といっても、この本の目的は、文学史研究に寄与することだけにあるのではなく、むしろ、「障害者の人生そのものを見つめる」ことにあると言われている。

 われわれが障害者の人生そのものを見つめるのは、われわれ自身が障害者としていかに生きるべきか、そして、いわゆる健常者といかに共生していくべきかを考えることであり、その問題をたとえばわれわれ自身の文学作品においていかに昇華させていくかを考えることに他ならない。

 ところで、日本文学における障害者像をテーマとする本書において浮き彫りにされている問題点の一つは、まさにその「障害者」という言葉の多義性と曖昧さである。この多義性と曖昧さは、一方では、特に、この言葉が権力によって保護と管理、そして、その陰で行われる隔離と排除の対象を指すものとして用いられる場合には、確かに非常な危険を孕んでいる。

 しかし、他方、「障害者」がマイナスのイメージを持ち続けるかぎり、この言葉の多義性と曖昧さを逆手にとって、それを極端にまで押し進めることによって逆説化するという「抵抗」の一つの可能性が生まれてくる。たとえば、楠哲雄氏は三島由紀夫の『金閣寺』についての評論において、「障害者」を「自身の困難」を受容し、そこに生まれる「自由」に立ち返ることによって「個々の具体性のある困難の原因を見極め、これを除去するように行動する人々」と規定しなおし、その意味では、大江(健三郎)も三島も「障害者」であるが、その障害の「内容と方向」には大きな差異があるとして、三島における肉体的脆さをボディービルによる鍛錬によって克服しようとする方向の問題性を指摘している。筆者はこの指摘に、「障害者」にマイナスのイメージを付与してきた「世間の常識」に対する一つの「抵抗」を読み取る。本書には、実際、いたるところにそのような目立たないが、忍耐強い「抵抗」の跡があるように思われる。特に、花田氏の俳人らしい『天邪鬼』な(と彼自身しばしば言う)批判精神は、その簡潔でウィットに富む表現によって本書の大きな魅力をなしている。このような抵抗は、障害による逆境に鍛えられながら、他者と自分自身をかけがえのない命として知る人間としての「尊厳」からほとばしり出てくるものなのであろう。

 俳人である花田氏を中心に編集された本書のもう一つの特色は、正岡子規、明石海人、富田木歩、村上鬼城をはじめ比較的多くの歌人、あるいは、俳人として活躍した障害者たちを取り上げていることである。このような場合、「障害者像」とは、それらの詩歌のなかで歌い上げられた障害者としての自分自身の姿を意味することになるのであり、より真実味を持ってわれわれに迫ってくるであろう。「真実味を持って」と言うのは、われわれはそこで、時には、自暴自棄に陥ったり、被害者意識・加害者意識にがんじがらめになったりしながら、文学を通して自分自身の「あるがままの命」を確認する生身の「障害者」に出会うのであり、そこでは障害者像が一方的にイデオロギー化されたり理想化されたりする危険を最も免れているはずであるからである。このことは、もちろん、本書で取り上げられている素木しづ、仁木悦子、そして、花田氏自身をはじめとする小説家・散文家として活躍している障害者にも当てはまることである。

 最後に、本書は、主に、萩原正枝さんによる多くの美しい挿絵によって飾られていることを言い添えて、私の書評を終えることとしたい。

UP: 20030127 REV: 20160125
障害学  ◇全文掲載
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