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「障害」の意味付けと障害者のアイデンティティ

―「障害」の否定・肯定をめぐって―

星加 良司
20020915
『ソシオロゴス』26:105-120

last update: 20160125


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 障害者にとって「障害」とは何か。通常自らのアイデンティティに否定的に作用することの多い「障害」に対する態度のあり方は、障害者にとって重要な問題である。そしてその態度は肯定と否定の間で揺れ動き、ときにそれは矛盾や対立として意識される。本稿では、「障害」の位相を適切に分節化することを通じて、障害者のアイデンティティと「障害」との関連の仕方を把握する。その結果、対立を含むように見えた「障害」に対する態度が、実は障害者のアイデンティティの肯定化の中で並存し得るものであったことが明らかになるはずである。


1 はじめに

 障害者は「障害」(1)の経験を含めた自らの生を生きている。そしてその「障害」は多くの場面において焦点化され重要な意味を持つという点で、彼らのアイデンティティの主要な一部を構成するのが普通である。もちろん、障害者は常に「障害」を持つ者として自己定義を行っているわけではなく、障害者のアイデンティティの中に占める「障害」の位置は個別具体的な状況に相関して多様であり得るのだが、「障害」に特別な意味を与えて障害者を規定する社会的な圧力の中で(2)、「障害」への態度を意識せざるを得ない場面は多い。そこで「障害」の持つ意味は、彼らが肯定的にアイデンティティを形成・維持していく上で重要な問題となる。「障害」が克服されるべきものか、肯定されるべきものかという問いが立てられるのも、こうした事情を反映したものである。「障害」はない方がよいと考える立場からは、「障害」は否定的なものであり、それを消去し克服する努力が要請される。他方、「障害」をかけがえのないアイデンティティの一部と捉える立場からは、「障害」を積極的に肯定することが求められる。「克服派」と「肯定派」は少なくとも表面的には対立するように見える。「障害」の克服を目指すことは「障害」を肯定できないことの現れであるとされ、また「障害」を肯定してしまうことはその克服に向けての努力を否定することにつながるとされる。
 この二者択一的な問いに対して、幾つかの議論がなされている。例えば石川は、「障害」をめぐる当事者の態度を通じてこの問いにアプローチする(石川[1999、2000])。同化による統合を求める社会的規範の下で、障害者は同化(差異を消去すること)を達成することで統合を実現するか、異化(差異を主張すること)を志向して

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排除の状態に甘んじるか、という二者択一を迫られる。しかし、実際には同化による統合という社会的規範そのものが偽りであって、同化を達成しても排除の状態に放置されることになる。したがって、この偽りの規範を信頼して同化か異化かという選択にはまりこんでしまうと、社会の差別主義的な本質(ディスエイブリズム)を隠蔽することにつながってしまう。結局「障害」の克服と肯定を障害者のアイデンティティ管理の中で戦略的に使い分けながら、社会のディスエイブリズムの解体を目指すことが重要であるとされる(3)。
 また立岩は、「障害」を「できないこと」と読み替えた上で、「障害」はないにこしたことはない、という言明の仕方に反論する(立岩:[2001])。「できないこと」が否定的であるのは特定の条件下で成立することに過ぎず、主に「できないこと」を代行することになる他者にとっての都合であると結論される。「できないこと」は、少なくとも当事者にとっては積極的に肯定される可能性を残しているのであり、その意味で「障害」は必ずしもなくすべきものだとは言えないことになる。むしろ、そのように両義的であり得るはずの「障害」について、その肯定か否定か、あるいは肯定か克服かという問いを障害者につきつける社会の圧力こそが問題であるとされる。
 これらの回答は、この問いをめぐる問題状況の一端を明らかにしてくれる。前者は、「障害」の克服か肯定かという選択に文字通りに囚われると、その背後にあるディスエイブリズムを隠蔽するという「意図せざる結果」を引き寄せてしまうことを指摘し、後者はそうした問いが発せられてしまうこと自体の権力性に注意を喚起する。これらは障害者が陥りがちなジレンマ状況を、障害者個人に内閉させるのではなく、それを生み出す社会のあり方へと問いの地平を移動させるという点で、非常に重要な指摘であると思われる。しかし同時に、何かものたりない印象をも与える。これは、問いを成立させた障害者のリアリティを十分に反映したものだろうか。障害者が「障害」を否定、または肯定すると主張してきたとき、そこには否定し克服しなければならない「障害」の経験、肯定すべき「障害」の経験があったはずである。それらの経験を根拠に「克服派」と「肯定派」はそれぞれの主張を展開したのではないか。だとすれば、そうした主張の根拠について十分な検討を行った上で、何が対立を生んでいるのか、もし対立でないのだとしたら、それらが二者択一的な選択肢を構成してしまうような問いの構造がどのようなものであるのかを、分析することが必要なのではないか。
 このように考えてみた上で、改めて問いに対する従来の回答を検討すると、「障害」という語の多義性や、その構造に関して十分に分節化されないまま議論されているように思われる。障害者が「障害」の否定/肯定を語るとき、その「障害」は文脈に応じて様々な意味内容を持っている。ところが、「障害」の有する意味について十分な理論的探求は行われていない。より正確に言うならば、「障害」の意味をめぐる種々の議論は、「障害」の持つ多層的な意味内容を十分に把握していないために、論点を曖昧にしてしまっているように思われる。本稿では、まず、ともすれば一くくりに語られがちな「障害」の位相を問題に即して分節化し(2節)、障害者のアイデンティティの中で「障害」のそれぞれの位相がどのような意味を持ち得るのかについて、「障害の否定」と「障害の肯定」という文脈において考察する(3、4節)。これらを通じて、「障害」が障害者のアイデンティテ

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ィにおいて占める位置を考える際の基礎的な枠組みを準備することに貢献したい。

2 「障害」の位相

 今日において「障害」をめぐる問題は極めて社会学的なテーマである。従来「障害」は個人の身体的・精神的な欠陥としてのみ捉えられ、医学的な治療の対象とされるとともに、リハビリテーションによる回復に向けての努力が障害者に不断に要求されていた。これは「障害の医療モデル」(以下「医療モデル」と記述)として、障害者運動の中で批判の的とされてきた障害観である(4)。これに対して、1970年代後半のイギリスを先駆けとする障害学(disability studies)(5)の成果としてもたらされた「障害の社会モデル」(以下「社会モデル」と記述)は、「障害」を社会が障害者に与える不利益として把握することで、「障害」を社会的な問題へと転化させた。これは実践的な「障害」についての理解をめぐるパラダイム転換とも呼ぶべき画期的な変化であり(6)、「障害」に関する社会学的なアプローチを要請する変化でもあった。
 この「社会モデル」による「障害」の把握の仕方は必ずしも一様であるわけではないのだが(7)、基本的には「障害」をインペアメント(機能上の欠陥)の側面とディスアビリティ(能力上の制約)の側面とに区別し、「障害」を専らディスアビリティの問題として焦点化する。例えば、イギリスのUPIAS(Union of the Physically Impaired Against Segregation)では次のような定義を行っている(8)。

インペアメント:手足の一部または全部の欠損、身体に欠陥のある手足、器官または機構を持っていること
ディスアビリティ:身体的なインペアメントを持つ人のことを全くまたはほとんど考慮せず、したがって社会活動の主流から彼らを排除している今日の社会組織によって生み出された不利益または活動の制約

これは「社会モデル」に基づく「障害」の1つの典型的な捉え方を示したものである。インペアメントとディスアビリティとの因果的な関連性を切断した上で、少なくとも障害者にとって問題なのはディスアビリティであるとする。このように戦略的にインペアメントを問題系の外部にくくり出すことで、「障害」をまさに社会が解決すべき問題として捉える障害者解放の理論的基礎を準備したのである。
 これに関して、この定義ではインペアメントが純粋に生理学的なものとされているが、インペアメントはそれを浮かび上がらせる社会との関連において初めて現出するのであり、アプリオリに存在するものではないという批判もなされた(9)。この批判は、「障害」を社会的に構築されたものとして把握する立場を徹底していくならば、必然的な帰結を示している。つまり、インペアメントもそれをインペアメントとして措定する社会の枠組みの中で現出するという意味でディスアビリティとの関連において生じるのであり、それに先行して、あるいはそれと独立しては存在し得ないとされるのである。しかし、この「障害」の把握の論理的帰結は、ディスアビリティを解消するという社会的目標の達成がそのままインペアメントの解消をも結果することを指示する。これは「障害」を無化することを目標とするものであるが、しかしそれは「障害」を持つ当事者の実感に応えるものではない。

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 つまり、外科手術をすることも場合によっては大事には違いないけれども、それ以上にどうやったら障害者が社会の中で障害をもったままで生きていけるのかを考えることの方が大事だということになってきたのです。僕自身、現在ではその考えが正しいと思います。(二日市[2001:180])

これは直接には、「医療モデル」からの脱却という文脈の中で語られた言葉であるが、「障害を持ったままで生きていける」ことの重要性が指摘されている点に注目されたい。「障害」を徹底的に社会化してその解消を目指す立場からは、「障害のない状態で生きていける」ことが目標となるはずである。しかし、ここでは「障害」はそれ自体否定されるべきものではなく、むしろ「障害」を個人の生の条件として前提した上でそれに適合的な社会のあり方を問う認識が示されている。少なくとも日常生活において「障害」はこのような意味合いで理解されていることが多い。また、自らが障害者でもある障害学研究者モリスは、次のように言う。

 しかしながら、ディスアビリティの社会モデルには、我々の身体的差異、身体的制約は完全に社会によってもたらされているとし、我々の身体の経験を否定する傾向がある。環境的障壁と社会的態度が確かに我々のディスアビリティの経験の核心部分にあり、我々に不利益をもたらしているが、それに尽きると訴えるのは、身体的・知的制約、病気、死の恐れに関する自分の体験を否定することである。(Morris [1991:10])

障害者の経験の中に占める身体的制約としての「障害」の意味は決して小さなものではなく、それは必ずしも社会の変革によって解消されるものではないことが指摘されている。そうした「自分の体験」は否定されるべきものではないのであり、「障害」に含まれるこの両義的な性格を「社会モデル」は十分に把握しきれないということである。
 このように、「障害」の概念には多様な要素が混在しており、そのことが「障害」をめぐる諸言説に独特の多義性を与えている。「障害」をめぐる議論の多くが論点を鮮明にし得ていないように見えるのは、この多義性に起因しているように思われる。とりわけ、インペアメントに関する部分では、それがときに否定的なものとして捉えられ、それを浮かび上がらせる社会的価値が問題化される一方で、それ自体は否定すべきものではなく受容していくことが可能であるという見方が存在する、という両義性を読み取ることができる。このインペアメントの有する両義性を把握するために、障害者にとってインペアメントがどのように経験されるのかを確認してみよう。
 右手の指が欠損した娘を持つ野辺明子は、娘が「障害」を経験していく過程を記述している(野辺明子[2000])。娘は2歳のとき、「ママはこっちのお手手もこっちもある、まいちゃんこっちのお手手ない・・・」と母親に告げる。自分の手の形に気づき、それが家族のものと違うことを認識した最初の経験である。その後、自分で工夫すれば不自由なことは何もない、と言ってごく自然に自らの身体を受け入れていった彼女だったが、中学2年の美術の授業を境に、彼女はときおり自分の手を隠すようになる。そのときのことを彼女はこう作文に綴っている。

 私は右手をモデルにすることはいけないことでも、恥ずかしいことでもないと思ってい
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ます。それなのにその時はどうしても自分の気持とは反対に、恥ずかしいと思い、右手を出せませんでした。(中略)私が苦労しながら左手を見てはその手でまた鉛筆を持ち、左手をデッサンしていると、クラスの男子が、野辺、どうするんだろうね、あいつ恥ずかしくて出来ねえんじゃねえのと言って笑ったのが聞こえました。私は涙が出るほど体が熱くなりました。でもどうにか自分の気持を押さえました。考えてみるとこういう笑いや視線はその時ばかりではありません。いろいろなところでこういう気持ちを味わってきました。(10)

それまであたりまえであった自分の右手は、周囲の人の「笑いや視線」によって羞恥の対象となったのである。これを受けて、野辺明子は次のように述べている。

 人は違う形をした手足をなじられたり、いじめられたりすることがなければ、子どもたちはないことを恥じる必要もなく、実に平和に自己を受容して生きることができる。「ある」「ない」の認識それ自体には何の差別も生じないが、「ないのはおかしい」あるいは「みんなと違うのは変だ」といった価値判断がそこに入り込んでくると、今まで自由に生きてきた子どもがたちまちにして「障害児」にされていく。(野辺明子[2000:119-120])

この事例を踏まえて、本稿ではインペアメントの位相を、その発生過程に着目して区別したい。まず、個人の身体に着目する限り、そこには純粋に生理学的に同定が可能な身体的な機能や形態がある。それぞれの個人の身体には一定の機能・形態があり、それはその個人の生の条件となる。例えば、指がない、といった状態がこれに当たる。もちろん個体に注目する限り指が「ない」という認識すら伴わないのであるが、ここでは便宜上そのように記述しておく。指がない、という機能・形態を持った身体を与えられた「障害者」は、その身体に応じて、生を営むことになるのである。
 さらに、この特定の機能・形態に関連して差異の認識が生まれる。他者との接触を通じて、複数の個人の有する身体上の機能・形態を比較することによって、互いの差異が認知されることになる。当然のことながら機能・形態に関わる差異や特徴は、個人に内在するのではなく、他者との比較を通じて関係として成立するのである。指がない手を持っていることが、他の人と異なっていることを認識し、それが人の目を引く特徴(多くの場合それはマイナーな特徴として現れる)であることを意識したことで、その機能・形態は差異として把握されるのである。
 ここで認知された差異に対して社会が与える特定の否定的なサンクションによって、「障害」は立ち現れることになる。これは社会においてインペアメントが問題化する水準であり、比較によって浮かび上がった差異に劣等性や異常性を付与する社会的場面において成立する。社会はある種の価値を含むことなしには存立し得ず、その価値に照らして正常なもの、望ましいものからの逸脱と見なされた差異は否定的に価値付けられる。中でもその否定的な価値付与が強力で固定化しており、相互作用場面の中で常に焦点化されるような種類の特定の差異は、「障害者」を特別な存在として認知させるように機能することになる。そうして浮かび上がってくるのがこの水準のインペアメントである。これをスティグマとしてのインペアメントと呼ぶことにしよう(11)。指がない、という差異に

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関して、生の条件として自然に受け入れていた状態から、それを羞恥の対照として捉える他者の眼差しに触れることで、それは否定性を示す差異となる。指がない、という差異を指がある身体との比較において劣ったものとして捉えられ、正常な身体からの逸脱として否定的な意味を与えられる状況において、社会的に価値付けられたその差異はスティグマを他者に対して表示するシンボルとして機能する。つまり、スティグマとしてのインペアメントは否定的な社会的情報を表示する機能を含むがゆえに、それを他者に見られること自体が羞恥となるような差異として経験されるのである。
 その結果、機能・形態に関わる差異はもはや単なる差異ではなくなる。それは「障害」として社会的に認知される差異であり、社会の否定的な価値付与につながる差異である。障害者はそれがスティグマとして社会的に認知されることを知っており、そのような性格を有する差異は他と区別される特殊な意味を持つことになる。これを差異としてのインペアメントと呼ぼう。指がない、という身体的特徴は、「障害」として意識されるようになるのである(12)。
 これらのインペアメントの位相と相互に関連する形でディスアビリティは理解される。その中には、差異としてのインペアメントに関連して、それを考慮しない、あるいは対象外に置くことによって生じるディスアビリティと、スティグマとしてのインペアメントに関連して、それを理由に障害者を意識的・無意識的に排除することによって生じるディスアビリティとが含まれる(13)。これは、社会活動に関わる能力上の制約を表す概念であるから、初めから社会的価値に基定された概念である。つまり、社会活動に関して社会に流通している価値とインペアメントとの関係において、ディスアビリティは生じるのである。
 以上のように「障害」の位相を分析的に区別すると、「障害」をめぐる多義的な理解が、「障害」のどの側面に力点を置くのかという問題に由来していることが見えてくる。もちろんそれぞれの位相は相互に関連し合っており、「障害」の理解の中にそれらが混在していることが一般的である。しかし、それぞれの位相において「障害」の意味付けのされ方が異なってくるのも事実だし、「障害」の理解においてどの側面に力点を置くのかということが、障害者のアイデンティティと「障害」との関係のあり方にも反映することになる。そうであるならば、「障害」のそれぞれの位相について、その意味付けやアイデンティティとの関連のあり方を検討することは有用であるように思われる。以下ではその作業を行ってみることにしたい。

3 「障害」の否定

 障害者がアイデンティティを肯定的に形成・維持しようとする過程の中で、「障害」はどのように関連するのだろうか。一般に「障害」は否定的なものとされることが多いのだから、その「障害」を持っている障害者のアイデンティティに対しては否定的な影響を及ぼすのが普通である。この場合、障害者は自らのアイデンティティを肯定的なものにするために、その否定的な影響を緩和しようとする。そのための戦略としては、次の3つが考えられる。すなわち、「障害」を軽視してその否定的な影響を減少させるか、否定的に意味付けられる「障害」を否定し克服しようとするか、「障害」を肯定的に意味付け直すか、のいずれかである。「障害の軽視」は、「障害」を自らのアイデンティティの中でとるに足りないものと認識してそれ以外

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の部分が「本当の自分」であると考えること、また「障害」以外の部分で肯定的なアイデンティティを確立して「障害」の占める位置を相対的に低下させること等が含まれる。また、「障害の否定」は、アイデンティティに否定的に作用する「障害」そのものを消去し、あるいは軽減しようとする態度である。「障害の肯定」とは、「障害」を自らのアイデンティティの一部として積極的に受け入れた上で、その価値を肯定的なものに反転させていこうとすることである。本稿では、「障害」そのものに対する意味付けのあり方に注目する立場から後二者について、順に考察することにする。
 まず、「障害の否定」という戦略は、「障害」のスティグマとしてのインペアメントやディスアビリティの位相が主題化されたときに採用される傾向がある。スティグマとしてのインペアメントに関しては、それに伴う被差別体験が否定的な感情を誘発し、アイデンティティを損傷することにつながるのだから、それは消去すべき対象となる。そこで障害者は、スティグマのシンボルとして機能する身体的な差異を消去するか、あるいは身体的な差異をスティグマ視する社会的価値を改変することで、スティグマとしてのインペアメントを克服しようとするのである。また、ディスアビリティに関しては、社会的に要求される活動が「できない」という経験が、障害者のアイデンティティを損傷する。したがって、「できない」とされていたことが「できる」ようになるための努力をしたり、「できない」状況を作り出してきた社会的障壁を除去することで、ディスアビリティを解消しようとすることになる。つまり、いずれにおいても「障害」の消去の戦略には個人的側面と社会的側面が含まれることになる。
 このことを踏まえると、相反する障害観を前提としている「医療モデル」と「社会モデル」の双方において「障害の否定」という戦略が共有されていることが分かる。「医療モデル」は「障害」のスティグマとしてのインペアメントの側面に照準して、「障害」は常に治療の対象であり、リハビリテーションによって不断に機能回復の努力が要請されるものであるとする。これはスティグマとしてのインペアメントを「障害」と捉え、治療やリハビリテーションという手段を用いて個人の身体に介入し、身体的な差異を解消することによって、それを消去しようとする志向性を示している。一方の「社会モデル」においては、「障害」があることが問題になるのは、個人にインペアメントがあるからではなく、社会的にディスアビリティが生み出されているためなのであり、そのような社会のあり方が問題であるとされる。ここで社会のあり方、すなわち「できなくさせる社会」(disabling society)が問題とされるのは、「できないこと」が端的に望ましくないという意味で否定的である(14)ことに根拠を持つ。このように「障害」を否定的に意味付けるという限りにおいて、「医療モデル」と「社会モデル」は同じ地平を共有しているのである。つまり、スティグマとしてのインペアメントもディスアビリティも、それが特定の身体的差異と社会的価値との関係の問題として成立している、という共通点を有するから、いずれも「障害の否定」の戦略は個人的側面と社会的側面を持つことになるが、その中で、「医療モデル」はスティグマとしてのインペアメントに関して、個人的側面に照準して身体的な差異を消去することで「障害」を克服しようとし、「社会モデル」はディスアビリティに関して、社会的側面に照準して社会的価値の改変を求めることで「障害」を克服しようとするのである。その結果、「医療モデル」

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は個人に「障害」の消去の責任を帰属させるのに対し、「社会モデル」がそれを社会に帰責する、というコントラストが生じるのである。この「障害」の帰責は、「障害」を消去するための努力を誰に要求するのかという問題であるとともに、「障害」を消去しきれない場合(通常完全には消去しきれないわけだが)に、否定性を付与される主体を名指す効果を有する。
 このことは、障害者のアイデンティティ問題に焦点を当てる本稿の課題にとって非常に重要な点である。「障害」を否定的に捉えること自体は同じでも、それを自らに帰属させるのでなければアイデンティティに対する否定的な影響は減少する(15)。それは、不慮の事故や理不尽な仕打ちによって陥った自らの望ましくない状況が、自らのアイデンティティにとってそれほど負の影響を及ぼさないのと同様である。
 以上で確認したような「障害の否定」という戦略は、「障害」を持つ当事者の運動の中にも共有されている。例えば、障害者の自立生活運動(16)においては、自立概念の転換に伴う「障害」の脱スティグマ化と、社会がもたらすディスアビリティの解消を目指す制度的アドボカシーとが平行的に推進されている。従来身辺自立に高い価値を認め、障害者にもそのような意味で「自立的」であるための個人的な努力を要求してきた自立観を相対化することで、彼らは「障害」に貼りつけられたスティグマを払拭しようとしてきた。それと同時に、彼らの社会参加を拒み、「自立」を困難にしてきた社会的障壁を解体することも、運動の重要な柱となっている。障害者の権利擁護の活動に関わってきた長瀬は次のように言う。

 障害者の文化を認めるという価値観の変化なしで社会環境の変革を進めることは困難だし、ともすれば逆に障害者への偏見を強めてしまう。障害と共に生きる価値を認めることは、社会環境の変革に魂を入れる作業である。障害による差異を祝福として受け止められる社会を目指すことである。この両面からの取り組みを進めることは障害自体への見方をも変えるだろう。(長瀬[1996])

価値観の変革(スティグマの消去)と社会環境の変革(ディスアビリティの解消)とは、障害者問題を解決する両輪として認識されている。スティグマとしてのインペアメントを消去するために、社会的価値の改変が必要であるとされるのである。そして社会的価値が改変され「障害とともに生きることの価値を認め」られたとき、「障害」はもはや否定的なもの、すなわちスティグマとしてのインペアメントではなく、祝福されるべき差異として立ち現れることになる。これは、ディスアビリティの解消によって促進されるとともに、その実現に「魂を入れる」ことなのである。
 このような「障害の否定」という戦略は、「ろう文化運動」の中にも確認することができる。「ろう文化」(deaf culture)(17)は、障害者にとっての「障害」の意味付けについての解釈枠組み(18)として近年注目されている「障害の文化」(disablity studies)(19)が広く流通するきっかけとなったものである。聴覚障害者による「ろう文化」は、ろう者は障害者ではなく言語的・文化的な少数者であると宣言し、聴覚障害者の間で広く支持されている。この「ろう文化」は障害者が自らの生のあり方を文化として意味付けた先駆的な例として「障害の文化」を語る論者に取り上げられる一方で、彼らが自らを「障害者ではない」と規定することに関して様々な批判の対象ともなっている(20)。ただ、その中

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に含まれる論理は、上述のような「障害の否定」という態度と同型のものを含んでいる。スティグマとしてのインペアメントとして否定性を付与する社会的価値を改変することで、ろうという差異に付与された否定性を反転させようとしたのが「ろう文化」である。その際、「少数民族」という解釈枠組みを調達し得たことは、彼らにとって幸運であったと言える。通常、「障害」を否定しスティグマとしてのインペアメントとして現出させる社会的価値は強力であり、簡単に相対化することはできない。そこで「障害」を脱スティグマ化しようとする人々は、そこで主題化される差異を新たに肯定的に価値付け直すための言語的資源にアクセスしようとする。ろう者の場合、手話という固有言語の存在を認めさせることによって、一般に社会に流通している「少数民族」という解釈枠組みを利用し得たということなのである。つまり、「障害」の脱スティグマ化という戦略において、「ろう文化」は種々の障害者運動と共通の立場を採るのだが、それを可能にする言語的資源へのアクセスの容易さの点で優位であったということなのである。

4 「障害」の肯定の可能性

 以上で確認したように、「障害の否定」は特に運動のレベルで一定の有効性を示してきた。ただし、「障害」のスティグマとしてのインペアメントとディスアビリティの位相に着目することからは、「障害」を肯定的に捉えることはできない。正確に言えば、この水準における「障害」は否定的である限りにおいて「障害」なのであって、その否定性を払拭し得たとき「障害」は消去されているのである。これに対して、差異としてのインペアメントの位相においては、「障害」は状況に依存して否定的にも肯定的にもなり得ることが考えられる。確かに「障害」を否定的に意味付ける社会的圧力の下で、「障害」のこの位相についても否定的にならざるを得ない場面は多い。しかし、そうではあっても差異としてのインペアメントは、それがない場合の生き方とは別様の生き方を提供するものなのであり、それを肯定的に意味付ける契機は存在し得ると言えるだろう。
 このことを理解するために、障害者にとって差異としてのインペアメントがどのようなものとして経験され得るのかを見てみよう。ここでも、右手に四肢欠損の「障害」を持つ女性の事例について考えてみる(21)。彼女は幼少期の大火傷によって指を欠損して以来、外出時には母親が編んでくれた手袋で手を隠すようになる。彼女にとって「障害」は初めから否定的なものであった。そしてこの手袋をめぐって、彼女は2つのジレンマに苦しむことになる。第一のジレンマは、手の異質性を隠すための手袋が、逆に周囲に対して彼女を「異物」として目立たせてしまうというものである。手袋を外すことも着けることも、彼女の異質性を際立たせる効果を持つため、彼女には周囲の目から身を守るための選択の余地はなかった。第二のジレンマは、手袋によって手を守ろうとすることが、同時にその手を隠す必要のあるものとして否定することになる、というものである。

 実際世間の目から守らなければならないと考えたとき、そこのところで母親はみつこさんの右手を世間にそのままさらすことはできないネガティブなものとして拒絶してしまったことにならないでしょうか。世間の目から娘の右手を守り保護することが、同時にその右手を拒絶し断罪することになってしまう。

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それは先のそれよりも さらに深刻なジレンマです。(浜田[1997])

彼女の右手は守りつつ否定しなければならないものになっているのである。ここにおいて、彼女の「障害」はスティグマとしてのインペアメントとして立ち現れる。それは否定的な社会的情報を表示する差異として経験されることになる。さらにここで、手袋によって娘を守ろうとした母親が、奇しくも最も早くインペアメントをスティグマ化する社会的価値を体現する主体となる、という皮肉な結果を生んでいる。こうして重要な他者による否定的な価値付与の中で社会化された彼女は、そのような「世間の目」を内在化するようになる。そして彼女の右手は、彼女自身の内面化した社会的価値によって「異物」として否定的に解釈されるようになる。このように、「障害」をスティグマとして捉える社会的価値を内在化し、それによって自らの「障害」を意味付けるようになった障害者にとって、当該の身体的な差異や特徴はスティグマとしてのインペアメントとして社会的に否定性が付与されるものであると同時に、それと同じ仕方で自己自身によって否定される対象となるのである。
 結局その後彼女は大学に入るまで手袋を外すことはなかった。何度か外そうと思ったことはあったが、その羞恥を受け止める勇気が持てなかったからである。社会福祉系の大学に進学した彼女は、あるとき手袋を外して授業に出ることを決意する。その決断を促したのは、「障害」というラベルが公認されやすい大学の環境であったという。こうして彼女は、羞恥を引きずりつつも手袋をめぐるジレンマから解放され、自らの「障害」をありのままに受け入れていく第一歩を踏み出したのである。この段階で、差異としてのインペアメントに対する彼女自身の否定的な価値付与はかなり緩和されているものと考えられる。他者に見られることに怯え、深刻なジレンマ情況にもかかわらず隠し続けてきた右手を露出することは、少なくともそれが自らにとって必ずしも否定的なものではなくなっている、という変化の結果だったのではなかろうか。またそれに際して、「障害」のラベルを公認される、すなわち差異としてのインペアメントをスティグマ化せずに承認される、という環境が果たした役割は小さくないであろう。
 大学を卒業した後、彼女は知的障害者の通所授産施設で指導員として勤務する。そこで彼女は入所者から「きたない手やねえ」、「わあ、ちっちゃくてかわいい手」などといった遠慮のない、しかし自然な感想を耳にする。必ずしも肯定的なものばかりではないこうした反応は、彼女にとっては「ありのままに受け入れられる」経験であった。このとき彼女がそのように感じた背景には、既に差異としてのインペアメントに対する自らによる否定的な意味付けがかなり緩和されていたということもあるだろうが、それと同時に入所者とのコミュニケーションが以前の好奇に満ちた「世間の目」とは質的に異なったものであったことが重要であるように思われる。彼女の手について彼らが口にする感想は、それが否定的なものであった場合でも、それをスティグマとして固定化し排除の対象とするようなものではなく、むしろそうした身体のあり方を含めた彼女をそのまま承認してくれるものとして感じられていたのではないだろうか。このような経験を通して徐々に自らの右手をありのままに受け入れることができるようになった彼女は、結婚、出産を経て次のように語ったという。

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 今でももちろん知らない人と出会ったりするときには緊張します。でも右手を異物のように感じたあの感覚はもうありません。(浜田[1997])

ここでは、差異としてのインペアメントを自ら否定的に意味付けていた当時の感覚が払拭されたことが語られている。身体的差異を「異物」として捉えていた「あの感覚」はなく、したがって以前内在化していた社会的価値による「障害」の意味付与から自由になったものと考えられる。当然他者との接触の中で、その「障害」がスティグマとして扱われる可能性は常にあるのであり、そのことは自覚されている。だからこそ、そうした他者との接触には「緊張」が伴う(22)。しかし、ここで語られているのは、そうしたスティグマを生み出す社会的価値を否定しようということではなく、社会的にはスティグマとして扱われ得るその差異に対して別様の意味を与え、受け入れようとする態度である。これは、差異としてのインペアメントを、必ずしも否定的には捉えないという意味で、肯定する可能性を示しているものと考えられる。その差異が社会的にスティグマとして捉えられる「障害」であったとしても、そのような解釈枠組みを共有する必然性はないのであり、「障害」を持って生きる経験の中で、差異としてのインペアメントが他者との特定の関係性において肯定される場合があるのである。このことは、差異をスティグマとして捉える社会的価値を問題にして、その差異が「障害」であることそのものを否認することとは区別される態度である(23)。「障害」がスティグマとして捉えられる状況において、そこで問題にされる身体的差異が「障害」ではなく単なる差異であることを他者に認めさせようとする態度と、自己理解のあり方の中で別様の解釈を与えようとする営為とは別の水準にあるものである。運動の主張として前者が強調されることは自然なことであるが、障害者の日常生活の中で後者が重要な意味を持っていることも確かであろう。「障害の肯定」はこのような文脈で目指され、それを可能にする他者との関係性が模索されているものと考えられるのではなかろうか。
 このように「障害の肯定」は、他者との特定の関係性の中で不確実な形で成立するようなものである。しかし、差異としてのインペアメントの位相に関する限り、その「障害の肯定」が成立する可能性はあると言えるのではないか。差異としてのインペアメントの位相では、スティグマとしてのインペアメントやディスアビリティの位相とは別の「障害」に対する意味付けが可能であり、それは「障害」が必ずしも否定的なものではないことを意味するのである。

5 まとめ

 本稿で検討してきたように、「障害」とは幾つかの位相を含む複合的な概念であり、「障害」をめぐる議論においてはそれらの位相を必要に応じて区別することが重要である。従来「障害」をめぐって種々の立場が矛盾や対立を含んで存在してきたのは、この分析的な区別が十分になされていなかったことに主要な原因を求めることができるように思われる。「障害」の肯定と否定、あるいは肯定と克服は本来障害者がアイデンティティを肯定的に形成・維持していく過程の中で並存し得る態度であると理解されるべきである。「障害」が肯定されるべきものか克服されるべきものかといった問いは、本稿の区別に従えば、「障害」のどの位相に関して問題にするのかという問いに回収される。スティグ

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マとしてのインペアメントやディスアビリティに照準すればそれはまさに克服すべき対象である。一方、差異としてのインペアメントに照準すると、「障害」は生の特定の条件を形作るのであって、その価値的な評価は本来多様であり得る。それを肯定して受け入れる生き方も、それを否定して改変しようとする生き方も、障害者のアイデンティティを肯定的に形成していく過程の1つのバリエーションであり得る。スティグマとしてのインペアメントやディスアビリティを克服されるべきものであると考えつつ、しかしそうではあっても現実に存在するそれらの否定的な価値付与の中で、差異としてのインペアメントを肯定的に捉える別様の解釈枠組みを具体的な関係性の中で模索することは、十分にあり得ることなのである。
 とはいえ、「障害」を否定的に意味付ける社会的価値が存在する状況において、差異としてのインペアメントを肯定する生き方を追求することには困難が伴う。そこには差異としてのインペアメントの位相に、「障害」をスティグマとして捉える社会的価値が影響を及ぼし、それと同型の自己否定へと引き寄せられる契機が常に存在する。そして、これは他者による承認とアイデンティティのあり方をめぐる問題(24)をも惹起する。この点についての本稿の検討は素描に留まっており、今後さらに研究を要する課題である。




(1) 本稿で主題とする「障害」は、基本的に身体的な障害のことである。知的障害・精神障害については、その中に含まれる位相を把握するに当たって、より詳細で科学的な分析が必要であるように思われる。
(2) ベッカーは、他の特性に比べて圧倒的に重視されて取り出される特性を、「首位的な地位特性」として概念化している(Becker[1963=1978])。「障害」はまさにこの「首位的な地位特性」として機能していると考えられる。
(3) 障害者のアイデンティティ管理の戦略と「障害」との関連については、石川[1992、1999]で詳しく論じられている。
(4) 日本においては、1970年前後に開始された「障害」を持つ当事者の運動の中で「医療モデル」への批判が盛んになされた。それはまず施設に入所していた障害者による告発という形で提起され、「脱施設」というスローガンを生むことになる。この時期の運動の展開については立岩[1990]、また病院や生活施設における待遇の実態を記述したものとして安積[1990]、樋口[1998]等がある。
(5) 障害学の先駆的かつ代表的な論考としてオリバー(Oliver[1986])、フィンケルシュタイン(Finkelstein[1981])等がある。なお、日本に障害学が紹介されたのはごく最近のことであるが、「障害」を持つ当事者の運動において「障害学的」な問題意識は共有されており、ある意味ではその先を見ていたとも言えるだろう。
(6) 「障害」の捉え方の変化は、福祉施策のあり方にも大きな影響を与えた。身辺自立や職業的自活に高い価値を置き、障害者の機能回復訓練を重視してきた障害者福祉から、社会的資源の積極的な活用を前提とした自立生活の理念を採り入れた障害者福祉への転換は、その一例であると言える。この障害者福祉の基本的理念の転換については、定藤[1993]を参照。
(7) 例えば1980年にWHOが発表した「国際障害分類」(ICIDH、International Classification of Impairment,Disability and Handicap)では、「障害」をインペアメント(機能障害)、ディスアビリティ(能力障害)、ハンディキャップ(社会的不利)の

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3つの側面を有するものとして把握している。また、2001年にその「国際障害分類」を改定する形で発表されたICF(International Classification of Functioning, Disability and Health)でも、基本的にこの3つの側面の区別を前提にした上で、相互の関係性についてより詳細で包括的な定義をしている。ただし、イギリスの障害学においてはインペアメントとディスアビリティの2つの側面を区別する「障害」の把握が一般的であり、本稿でもその分析概念を採用する。
(8) このUPIASの規定の歴史的意義やそれに対する批判については、佐藤[1992]が詳しく紹介している。
(9) インペアメントの社会的構築性を指摘したものとして、ヒューズ・パターソン[Hughes and Paterson:1997]等がある。
(10)この文章(野辺麻衣子[1985])は、野辺明子[2000]の中に引用されているものである。
(11)ゴッフマンはスティグマについての研究(Goffman[1963a=1970])の中で、人々の持つステレオタイプと乖離した望ましくない属性のうち、それを持つことによって十全な人間として扱われなくなるようなものをスティグマとして記述している。本稿でのこの語の使用は、基本的にこれに準拠したものである。
(12)この段階で身体的な機能や形態そのものがインペアメントとして浮かび上がってくることも考えられる。当事者の経験の中には、他者との差異のみならず個人の機能・形態が「障害」と感じられるような場合もある。この位相をインペアメントとして理解すべきかどうかについてはひとまず判断を留保しておくが、本稿の論点とは直接関連しないと考えるので、ここではその位相を区別することはしない。
(13)夏目は、前者をディスエイブルメント、後者をディスエイブリズムとして区別し、それぞれに関して解体のための異なるポリティクスが必要であることを指摘している(夏目[2000])。
(14)立岩は、「できないこと」の否定性の相対化を、「できること」/「できないこと」、「善いこと」/「善くないこと」の組み合わせを論理的に精査することによって試みている(立岩[2001])。しかし、そこでの議論は、ある種の活動(生産活動等)が「できること」の価値についての相対化に留まっており、「できること」の価値一般を相対化することには成功していない。本稿では、「できること」の価値自体は端的に認めた上で、特定の能力を重要視するような価値体系や、特定の差異を不利に扱うような価値のあり方を主題化することにしたい。
(15)否定性を自らの外部に帰責することの正当性が調達される場合にも、再度自己否定へと向かう契機がないわけではない。「障害」の原因を社会に帰属させることができても、その結果である不利益が生じるのは常に障害者の身においてなのであり、そのように否定性を引き寄せてしまう自らの身体に再び負の意味付けをしてしまう、ということは十分にあり得ることである。ここではあくまでも、否定性を社会に帰属させる枠組みが、障害者のアイデンティティにもたらす負の影響を相対的に緩和させる、ということについて言及しているに過ぎない。
(16)障害者の自立生活運動とは、地域社会の中で「自己決定」を行いながら生活を営むことを目指す、全身性障害者の運動と実践のことである。日本におけるこの運動に関する著作には、安積他[1995]、定藤他[1993]、全国自立生活センター協議会[2001]等がある。
(17)日本においては「ろう文化宣言」(木村・市田[1995])がその大きな役割を担った。ここで、彼らが日本手話を第一言語とする文化的マイノリティであることが主張された。
(18)歴史的には、「障害」を意味付ける様々な枠組み

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が存在している。例えば、古代や中世において「障害」を「穢れ」として宗教的理解の中に包摂する捉え方があった(大津留[2000])。また、「障害」をかけがえのない個性であるとする理解も広く普及している。
(19)この概念については、「障害文化」、「障害者文化」等の類似の表現がなされることがあるが、少なくとも障害学の文脈で語られる限り、それらは互換可能であると考えられるので、本稿では「障害の文化」という用語を使用することにする。なお、「障害の文化」の系譜を整理したものとして、松波[2001]がある。
(20)ろう者が自らを「障害者ではない」と規定するとき、そこで前提とされている「障害」は病理学的な身体的欠陥として捉えられており、それは「医療モデル」への批判を通じて障害者運動が否定してきた障害観ではなかったか、という批判がある。また、その主張が他の障害者に対して有する排他性も問題とされている。
(21)本節で扱う事例は、浜田の著作(浜田[1997])の中で紹介されているものである。
(22)スティグマを持つ人が社会の中で直面する様々な否定的経験と、それらを回避するために採られる戦略については、ゴッフマン(Goffman[1963a= 1970])を参照。また、薄井はゴッフマンの一連の論考(Goffman[1963b=1980]、[1967= 1986])を援用して、社会的位置をめぐって状況への参加者がせめぎあう「共在」の場の構造について分析し、自己イメージの防衛のために他者の社会的位置を貶めようとするような場面について記述している。
(23)前節で言及した「障害の否定」は、運動の中で戦略的に主張されることが多いのだが、具体的な実践の場面においては「障害の肯定」という側面を混在させているのが普通である。その意味で、ここでの区別はその主張の力点に関する分析的な区別である。
(24)「障害」に対する意味付けと承認のあり方とは密接に関連しており、他者による否定的な承認は、障害者の自己理解に強く影響することになる。テイラーは、歪められた承認が深刻なアイデンティティ問題を引き起こすことを指摘している(Taylor[1994=1996])。


文献

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(ほしか りょうじ、東京大学大学院、hoshi@m5.people.or.jp)


Meaning of "disability" and identity of people with disabilities

Between positivity and negativity of "disability"

HOSHIKA, Ryoji
University of Tokyo
hoshi@m5.people.or.jp

   What is "disability" for people with disabilities? It is important for people with disabilities how their attitudes should be toward "disability" that tend to influence their identity negatively. And their attitudes are tumbling between positivity and negativity,sometimes they regard it as a paradox or a conflict. In this paper,we aim to grasp how relates "disability" to identity of people with disabilities,through articulating classes of "disaility" appropriately. As a result,it becomes clear that in fact various attitudes can be taken at the same time which have seemed to include a conflict.

……以上……


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安積純子 1995「〈私〉へ:30年について」安積他編『〈増補改訂版〉生の技法:家と施設を出て暮らす障害者の社会学』藤原書店:19-56.
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―――― 1998「一九七〇年」『現代思想』vol.26-2:216-33.(→『弱くある自由へ』
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横塚晃一 1981『母よ!殺すな』すずさわ書店.
全国自立生活センター協議会 2001『自立生活運動と障害文化:当事者からの福祉論』現代書館.

REV: 20160125
星加 良司  ◇『ソシオロゴス』  ◇全文掲載  ◇全文掲載(著者名50音順)
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