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「即席的研究製造方法即解」

障害学研究会関西部会第15回研究会 於:茨木市立男女共生センター・ローズWAM
2002/07/13


障害学研究会関西部会第15回研究会

●日時:7月13日(土) 午後2時 〜 5時
●会場:茨木市立男女共生センター・ローズWAM
●テーマ:即席的研究製造方法即解
●報告者:立岩真也(立命館大学)
[事前資料は http://www.arsvi.com/0w/ts02/2002077.htm を参照]

●報告(14:10-15:20)
【記録速記バージョン】
 障害学はどういうことをしたら面白いか。
 まだやられていないけれど、やったほうがいい仕事がたくさんある。集中講義などで訪れた大学で、教員相手に「こういうことを学生にやらせれば?」と勧めてきたことを、改めてまとめて話してみる。
 対象をみつけて分析することが難しいというが、障害学については、主題について論じられている歴史がある。したがって、何が論じられてきたかを、まず記述する。
 主題についての対立・ためらい等々があるところへいく。自分で考える前に、考えた人々のことを調べる、考えられたことについて考える。
 
・「(障害を)なおす」
 ドーマン法など、いつから流行って、やった人はどうなったか。なおす側の業界には、調べて記録する人はいない。失敗は記録したがらない。したがって、医療・福祉には、連綿たる失敗の歴史がある。それが忘れられていくのはこまる。
 
・公害と障害
 反原発運動で「奇形児を生まないために」とのスローガンに対する批判。水俣などでも

・精神障害
 「触法精神障害者」=保安処分の問題。論じられたのは今回が初めてではない。1980年に起こったことは何か。思想になったものではなく、日本で行われたこと、語られたこと。
 
・当事者運動と反精神医学
 「病者集団」「ごかい」と、最近の「べてるの家」との違いはなにか?

・労働
 障害者の労働について、面白い論文を読んだことがない。障害者が働くということはどういうことなのか、についても、長い議論の歴史がある。何が語られてきたのか?
 一般就労を目指す動き、作業所の建設運営、それ以外の模索・実践。共同連、わっぱん
 『生の技法』では扱えなかったが、それ以降調べられていない
 
・自立生活運動の現在
『生の技法』で調べた以降のこと。調べたかったが、調べられていない

・知的障害をめぐる動き
 ピープルファースト、寺本晃久さん
 何かが始まるときにそれを追える、というのは特権的。1回きりのこと。何がどこで起こったか、ということの記録でもよい。今のうちに記録しておかなければ。
 DPI(障害者インターナショナル)の誕生(長瀬さん訳)。修士論文だった。その状況を内部から描いた
 
・全障連がやってきたこと
 どういう動きをたどったのか。単純なモノグラフでよい。
 
・教育
 障害児教育の歴史。特殊教育の研究者たちがまとめたものはあるが、バイアスがある。普通学級へ、という就学運動。そのときの/その後の議論。学校というものをどう考えるか、につながる。が、とりあえず、何が起こったのか、人々が何を考えたか、調べてまとめておく必要。かんたんに論文が書ける?
 
・そのときに断絶が起こっている。
 たとえば論文「1970年」に書いたこと。この頃から、障害をめぐって考える、ということが起こった。現在につながっている。
 社会運動として負けたことが、黙して語らず、酒飲まないと語れない、というふうになっている。酒飲まないでも語って欲しい。
 横田弘さん。去年30周年で会った。今までやってきたことをまとめたがっている。
 単なる昔話でない。運動は記録まで手が回らない。でも、実際にやっている人々こそが、当座しのぎではいけないと考えている。基本的にどう考えたらいいのか、求めている。研究者がそこに関与できる余地があり、状況としてもそうなっている。
 研究者を使う、という動きになってきている。うまく使ったのは、自立生活センター協議会。
 考える前に書け。何を考えたらいいか分からない、と悩むのではなく、調べてみれば考えたいことがでてくる。論点が出てくる。単なるモノグラフだけでいい。
 載せられる媒体:いまのところ確実なところはない。一つ一つのテーマを50枚でまとめられるはずがない。50枚を何本か書く。主題によっては長く書く必要がある。
 今、そういう聞き取り調査は、自分ではできていない。羨望。
 今ようやく書こうと思っているのは、神経難病(ALS)の経験。『現代思想』8月号から出る。闘病記・機関誌もたくさん出ている。インタビューはこれから。50枚×10回=500枚くらいになるが、彼らはそれだけの生を生きている。


【立岩さん本人によるメイリングリスト掲載バージョン】
1)まえおき
 まだやられておらず、やったほうがいい仕事がたくさんある。なのに社会学などでは、主題を見つけられないという人がいたりして不思議。いくらでもあるではないかと思うのだが。
 また、対象をみつけて分析することが難しいというが、障害については、すでに様々な主題について論じられてきたその歴史がある。したがって、何が論じられてきたかを、まず記述するという手がある。自分の頭を使う前に(使うのが面倒だったら)、人々が何を考えてきたのかを知ること。その方が楽。
 そして、摩擦や対立や行き詰まりやあるところをみること。なにもない(ように見える)ところから何かを見出すのはなかなかたいへん。技がいる。それに対して、相手の側にすでに喧嘩が起こっており、さらにそれには解説がついていたりするのだから、それを記述する方が、やはり楽、でたいていおもしろい。
 そして楽、というだけでなく、やはりそういう部分が大切なのだと思う。そしてそういう争い、疑念、…が生じた一つの画期が私は1970年前後だと思っていて、そこからの歴史、現在の歴史を記述する必要があると思っている。
 では、具体的にどんなおもろいことがあり、調べたり考えたりするとおもしろいことがあるのか。それを、これからただたんに列挙していくことにする。
* こんなようなことは
2000/11/01 「たぶんこれからおもしろくなる」『創文』426(2000-11):1-5
http://www.arsvi.com/0w/ts02/2000033.htm
*2001/07/30「なおすことについて」野口裕二大村英昭編『臨床社会学の実践』,有斐閣 pp.171-196
http://www.arsvi.com/0b/010730ny.htm
などにも書いています。「即席的研究製造方法即解」http://www.arsvi.com/0w/ts02/2002077.htm
にもいくつか引用がありますので、どうぞ。

2)なおすこと、なおることについて。
 例えば反原発運動と障害者運動との間に摩擦、齟齬が生じことがあったのだが、それはなんだったのか。
 「早期発見」・「早期治療」に対する批判というものがなされたことがあったのだが、それはいったいなにに文句を言ったのか。
 そうした批判の言説の位置、の少し手前に、さまざまな療法を体験してきた(させられてきた)人たちの体験を記録すること。TV放映や書籍の出版がきっかけで、いままたドーマン法が話題になったりしているのだが、こうした様々の療法がどのようにはやり、あるいはすたれ、あるいは存続してきたのか。なおす業界の人たちは失敗を記録しない。それが研究業績になったりすることはない。だからその外側の人が記録することになる。

*このことは、1)にもあげましたが
2001/07/30「なおすことについて」野口裕二・大村英昭編『臨床社会学の実践』,有斐閣 pp.171-196
http://www.arsvi.com/0b/010730ny.htm
にも書きました。「即席的研究製造方法即解」http://www.arsvi.com/0w/ts02/2002077.htm
にもいくつか引用があります。
 また、それは、ようやく校正ということになってめでたい明石書店刊の障害学本第2弾に掲載されるはすの「ないにこしたことはない、か・1」(昨年の関東部会での報告をほとんどなおさず、載せてもらうことになります)の主題でもありますが、そこでは「なおすことについて」と同様、事実をきちんと追っているのではなく、ほぼ、思弁に終始しています。ただ、関連ファイルが
http://www.arsvi.com/0ds/0.htm
にありますのでご覧ください。
 また、一部で話題になったらしい番組・本については、私は案内をいただいたものの、行きませんでしたが、
◇2002/07/22の読書会の報告
http://members.tripod.co.jp/saihikarunogo/lunavideosanda0722.html
◇2002/06/13三田市立図書館で開いた読書会の報告
http://members.tripod.co.jp/saihikarunogo/lunavideosanda0613.html
を知らせていただいています(「全文掲載」からもリンクされています)。
 そして、研究会当日、瀬山紀子さんから紹介していただいていた、古井徹さん(理学療法士&神戸大学大学院医学系研究科博士後期課程在学中)がいらしていて、ほんの少しだけお話をうかがうことができたのですが、彼はいま、過去の治療がどのような(負の)効果を与えたのか、与えているのかを研究していて、それを博士論文にまとめているのだそうです。とても重要なお仕事ではないかと思います。

3)精神障害、について
 「触法精神障害者」のことがここ数年、また議論され、法律を作ろうという人たちがいて、反対の運動がある。これはもちろんはじめてのことではないわけで、私自身がすこし覚えているところでも1980年代のはじめにも保安処分の制度を作ろうとする動きとそれに対する反対の運動があった。それが何であったのか、これもまたあまり記録されていないと思う。
 そして何を言うか。例えば、精神障害者、あるいは知的障害者は、他の人たちと同じくらいには危険でない、あるいはむしろ平均を下回るのだということを言ってきた。様々に誤解がある限りにおいてこうした言明は今でも有効ではある。しかし、そのような言い方で全部言っていけるかといえば、そうではないようにも思う。とすると何を言うのか。こんなことを考えるうえでも、何が言われてきたか、何を言ってきたかを知ること。
cf.
http://www.arsvi.com/0ds/m.htm
http://www.arsvi.com/0ds/m2002.htm
etc.
 身体障害であれば、例えば横塚晃一http://www.arsvi.com/0w/yktkkuic.htmといった人のことは、それなりに記憶されるようになった?のだが、(ついでに→こないだ横田弘さんと対談というのをやりましたhttp://www.arsvi.com/0w/ykthrs.htm といっても、もっぱら私が根掘り葉堀り聞き出すというものでしたが。彼はいくつか対談してそれをどっかから出したいとのこと。同じく青い芝の会・神奈川県連合会の小山正義さんも記録を出したいという意向があるとメイルに書いてらっしゃいました。当の人たちにおいて、語ろうとする用意が相当にあるということだろうと思います。)例えば、吉田おさみという人http://www.arsvi.com/0w/ysdosm.htm の言ったこともまた、考えられてよいはずなのだと思う。(彼の本、もうみな絶版になっているんじゃないかと研究会では言いましたが、山田さんから教えてもらったところでは&このMLにも書いておられたように([6833]) 19831201『「精神障害者」の解放と連帯』(新泉社,246p. 1500円)はまだ入手可能です。)
 個人だけでなく組織についても同じことが言える。「全国精神障害者家族会連合会(全家連)」http://www.arsvi.com/0d/zkr.htmといった立派な組織であれば、いろいろと出版物などあったりするのでしょうが(それでもこの組織を主題にした研究というのがあるのか?)「全国「精神病」者集団」http://www.arsvi.com/0d/zss.htmというような組織?となると(知ってよいほどには)知らない。これももったいない。

(以下、しゃべらなかったことも記します。)
前便に記した、吉田おさみの本入手して、20年ぶりぐらいに読んだのですが(以前は図書館て借りて読んだ)、おもしろいです。すこしだけですが引用しておきました。
http://www.arsvi.com/0w/ysdosm.htm
例えば、それと、ここのところ2回にわたって書評を書いた「べてるの家」の
http://www.arsvi.com/0d/beteru.htm
乗り、との異同、連続と非連続、について考えることもおもしろいと思う。それは一つに、「病気」「障害」をどう捉えるかということにも関わり「病因論」とも関わってくる。このことについては、ニキさんが翻訳・紹介されている本や書かれている文章にもすこし言及させていただきつつ、
・2002/04/01「生存の争い──医療の現代史のために・2」
 『現代思想』30-04(2002-04):150-170
・2002/06/01「生存の争い──医療の現代史のために・3」
 『現代思想』30-7(2002-6):41-56 資料は
http://www.arsvi.com/0w/ts02/2002021.htm
に考えたことを書いたので、よろしかったらどうぞ。
また、運動論、組織論として考えるべきこともあるだろう。

 昨年、とあるところである大学院生の相談を受けた。沖縄にフィールドワークにいってみたのだが、なかなか…、という。どういうきっかけで?と聞くと、F・ガタリ他『精神の管理社会をどう超えるか?』(松籟社、2000年、290p.、2800円)を読んで、という。
(そのときにはこの本を読んでなくて、後で注文して読んだ。山本真理さんが[jsds:6853]で紹介されていた「すべての些細な事柄」というドキュメンタリー映画の舞台にもなったラボルド精神病院のことが主には書いてある本で、おもしろい本です。ここに「沖縄/精神医療と文化」という題の高江洲義英へのインタビューが収録されている。ところで上記の「べてるの家」で作られているビデオは「ベリー・オーディナリー・ピープル」というのだが、なにやら、「すべての些細な事柄 La moindre des choses」という題も、それに通じるものがあるようにも思う……どちらも見てません。)
さてそのことはそれとして、いろいろと話していくと、(そういうことを調べようという人にとっては)基礎知識として知っておいてよいのでは思えることを知らされていないようだった。考えてみれば、情報源がなかなかないから(つかんでしまえば芋づる式にぞろぞろ出てくるのだが)そういうものかもしれない。それを論文にするかどうかは別として、やはり知っておいてよいのではなかろうかと、あるいは修士論文ということであれば、沖縄の精神医療の特質なんていう難しい主題に(なかなかそちらに行って調べることも難しい中で)取り組む以前に、知っておいてよい&調べれば調べられる近年の歴史をとりあえずまとめても立派な論文になるのではないかというようなことを言ったと思う(上記の本にも三脇康生「精神医療の再政治化のために」という、この主題に関係する文章が実は収録されている)。

4)労働
 労働についても、理論的な考察もふくめ、やってよいことがたくさんある。これは運動にとっても困難な主題だった。いわゆる「自立生活運動」においても前面には出てこない(ところに意味があったというところもあるのだが)。そして私(たち)にとっても。(まだ論じることができないと『生の技法』に記した。)
 とにかく職に就かせるのだという職業リハビリテーションの流れがある。そして、実質的には日中を過ごす(その間、親が一息つける)場所としての「作業所」作りの運動。
 それに対して、またそれとともに、
 「労働の場からの撤退という路線があった。働けなくてかまわない、「ただ飯食い」を肯定しようというのである〔安積 1990,pp.28-29〕。と同時に、障害者にしつらえられた場を否定し「一般就労」を主張する運動があり、さらに「協働」を掲げ自らが働く場を作ろうとする運動があった。問題の複雑さを示すこうした多面性を記述しつつ[…]その上で考えていく必要がある。」
 これはさきの研究会のための資料?
http://www.arsvi.com/0w/ts02/2002077.htm
でも引用した、2001/12/25 「できない・と・はたらけない──障害者の労働と雇用の基本問題」『季刊社会保障研究』37-3:208-217(国立社会保障・人口問題研究所)
http://www.arsvi.com/0w/ts02/2001043.htm
の一部です。
 じつは、上記では最後に記した流れを作ってきた「共同連」
http://www.arsvi.com/0w/0d/kdr.htm
の関係者?が中心になって、調査研究をやろうということになっていて、始まっています。代表は熊本学園大学の花田さんで、私は、またしても、名前だけ載ってますがなにもできていません。興味のある方がいたら連絡ください。先方に伝えます。会合は名古屋あたりでやることが多いのかな。
 「しばらく消費が論じられてきた。それはそれでよいとして、これからすくなくとも数十年、労働や国家や分配といった古色蒼然としたものについて考えることが大切なことになる。」と2002/10/00「労働の分配が正解な理由」『グラフィケーション』123 特集:働くことの意味
http://www.arsvi.com/0w/ts02/2002041.htm
にも書きました。そのとおりに思っています。
 第3・4便にも関わりますが、「べてるの家」が社会学的に?おもしろいのもそういうことに関わっていると思っています。
http://www.arsvi.com/0w/ts02/2001000.htm



●質疑応答(15:40-17:00)[「:」以下は立岩さんの回答]
(A)一つは、1970年あたりが区切りという実感は自分にもある。社会運動から社会福祉へ逃げ込んだ形になっていたりする。ただ、それ以後、同じような体験をした人たちが加わっていない。そういう異分野からの参入が絶えた後で、学校で教育を受けた人たちが担い手になってきていて、考え方も変わってきている。そのあたりを追っかけて欲しい。
 二つめは、就学闘争以前のことを思った。就学猶予でも学校へ行っていなかったわけではないはず。そこから障害者学級に繰り出された。そういう体験者の証言がなかなか聞こえてこないので、追っかけて欲しい。
:一つめに付け足すとすると、バックグラウンドのギャップを埋めきれないとしても、福祉業界でこれから働く人に、こういうことがあったぞと知らせる、ということでもある。二つめの話は、昭和30年代に囲い込みが起こった。その始まりは戦後で、それほど昔ではない。経験者が生きているので、押さえられる。
(B)頭を使う前に書けというが、そもそも立岩さんが障害者業界を研究対象にしようとした動機は?
:自分のことでいえば、いわゆる障害者問題からひっかかったわけではなくて、いわゆる能力主義をどう考えるか、変えられるか、というテーマの関連で結びついた。この社会はそんなにいい社会じゃない、と思うとき、その社会の構成原理とか価値をどう考えられるか、変わる可能性があるか、ということを考えてきている。生活史として特別な出来事があったわけではない。ただ、大学に入った79年は、養護学校義務化の年だし、保安処分反対の動きもあって、そういうことが身の回りにあって関わったこととかもある。
(C)大著『私的所有論』を頂きながら、いつも読破できずに途中で挫折する。それは、先ほどの言にあるように、「考える前に書かれている」から?、というか、・・・「編集されていないから?」、いや、「従来のアカデミズムの流儀とは違った編集方針をとってチャレンジされている」から?
 当事者性のない研究者が、どうして障害者運動に、関心を持って研究的に関わるかということでは、ポリオ会の仲間と喋ると、「研究者による搾取(メシの種にしてる)」について警戒し、嫌悪する声をよく聞かされるが・・・。フェアな関係づくりには多くの課題があると感じている。研究者の権力性、研究自体のもつ「知の権力作用」については?(「知は力なり、時に暴力なり」ってね。)
:編集作業・校正はかなりしている。『私的所有論』は圧縮し過ぎているのかも。でも思った通りに書いているといわれてしまうのはなんでだろ?
 研究者がどういう動機で何をするか、ということについては、何でもいい、というスタンスをとりたい。それが結果として、調査対象になる人たちに「これは何だ」と思われることもあるのだろう。しかし、そういうことについて日常的に深刻に考えることはしていない。医療・看護や社会福祉の業界の論文は、加害的である前に無内容なものが少なくない。それだったらこういうことを書けば?というのが今日の話。
 ただ、運動やっている人たちと相反することを書くことはある。それは仕方ないし、自分ではそういうしかない。でも、多くの研究者は、そこまで行く仕事をしていない。業界の中から出てこない。
(C)業界の頑張り屋さんたちは、よくも悪くも、ある種の使命感(今日よりもましな明日を!)でやっているが、「社会を読み解くターゲット」として、外野から接近するだけなら、諸々の権力構造に加担せずにすむ、ということ?
:業界論文は使命感で書かれるわけではなくて、業績を作らなければならないからただ書いている論文がある、というのが一つ。使命感から書かれていても、それがどこに発し、どこに行くのか、ということ自体を吟味すべき。
 外野でいることについては、それでもゲームに関わっている。それで言いやすいのなら、言えばいいじゃないか。そのあとどうなるかは、また考える。中にいる人も、外野的な視点をほしがっている。そういう人たちと協同/役割分担がある。中で働いているから言えないけど、語られるべきと思っていることを、外野が代わりに語る、ということもある。中にいる人も、中にいながら外から見る、ということは不可能ではない。
(B)立岩さんは当事者が主体となって運営する自立生活センターにかかわっていたのだと思うが、知的障害者を支援している施設等、当事者でない人たちが中心となって運営している所では、まず当事者よりも支援者・運営者の言い分を聞くことになる。すると当事者と乖離する。当事者と研究者の位置関係、立岩さんじゃなく院生が入ったときに現場の扱いは違うのでは?
:アクセスすることの難しさに直面しては、様々な手練手管を使って、やれることをやるしかない。たとえば医療、病院。中に入れるところはいいところで、悪いところは入れてくれない。医療社会学で、ゴフマンのような、実証研究に足る研究はない。しかしALSなどでは、患者の回顧録などで病院名などが実名で公刊されているから、実名で引用できる。ソーシャルワーカーと仲良くなるとか、いろいろなやり方がある。接近できるところに接近するしかない。痴呆性老人のフィールドワークで、ぼけることがぼけ老人にとってどうなのか、ということをやっている研究者もいる。それ以前にはいないので面白い。ただ、今日話したことは、フィールドに行く前にできること。
(D)当事者とその家族を支援する実践をしていれば、病院とつながっていくから、何も言えなくなってしまうのでは?院内ソーシャルワーカーからも相談されて、ソーシャルワーカーと同じように守秘義務を負わされて、何も書けなくなってしまう。どう支援するのかで、どん詰まりになっている。
:一般的な答えはない。ただ、当人をとりあえず支援するか、書き手として冷たくするか、どっちか。ただ、固有名を書けなくても、書けることもある。守秘義務がかからないケースから記述する方法もある。
 本人達にフィードバックがない場合など問題。自分にとって役に立たない研究は拒否すれば良い。断られても仕方がない。研究者をうまい具合に利用すればよい。当事者にプラスになるとわかれば、入れるようになる。障害者運動はそう。調査される側もしたたかになる必要がある。下働きさせれば?
(E)研究というものをどういうものと考えているか?
:ある種の実践的関心はある。面白いこともある。ものを調べたり、書いたりすることの楽しさはある。苦しいところもあるが。対象から受ける楽しさ、障害者運動から受け取ったものは、自分自身が生きている上で解放的・肯定的なものであった。
(F)社会福祉業界では、必要性すら認識されていない。障害学とか立岩さんの研究と、社会福祉学との間に、接点はあるか?
:あると思う。業界も変わってきている。今の状態に満足していない人も多い。何をどういう方法で調べなければならないか考えている。業績作りだけでやっているわけではないが、何をしていいかわからない人たちに、内部や外部から提起していくことに意味がある。業界も外部に求めている。内部の人たちと一緒にできることもある。


*出席33人、手話通訳者2人

*作成:
UP: 20090710
全文掲載  ◇障害学研究会関西部会  ◇障害学研究会関西部会・2002
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