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聴覚障害児教育は誰のためにあるのか?

――心理臨床的観点から聴覚障害児教育へのアプローチの可能性を探る――

東京福祉大学 中野聡子
20000727
障害学研究会関東部会

last update: 20160125


◆当日資料

1.心の専門家−臨床心理士からみた聴覚障害児教育

Topic1.

 週刊誌「週間女性」に載せられた記事「音のない世界から届け!私の大きな歌声」
をどう読むか?

Topic2-1.

 心理的ケアを必要とする「成人した」聴覚障害者とその家族に対する心理療法(カ
ウンセリング)やコンサルテーションに取り組んできた心理臨床家河崎佳子氏が見た
ものは…
 →心理臨床分野からの心理的ケアを必要とするような聴覚障害者たちに共通
  すること
 ・聴覚口話法による教育を受けてきているケースが多い
 ・上記の教育において、親は(聴者である場合)手話ができないケースがほとんど

河崎氏の疑問:私たちの人格形成にとって何より重要な「人とかかわれる能力」の発
達は、必要なことだけを伝えるという、いわば道具的コミュニケーションの獲得だけ
では 成り立たない。親子ともども、かかわり合えることの喜びの体験なくして、子
どもは、人と人は伝え合い、わかりあえるということを実感し、豊かな対人関係を発
達させていくための基礎を作ることはできない。そして、子どもは、この基礎を土台
として言語学習への意欲を高く持ち、効果的な言語学習へとつながっていくはずなの
であるが が、聴覚口話法による指導では、「言語獲得」と「(親子双方の)コミュ
ニケーションによる情緒的体験・安定」という2つの不可欠なもののうち、後者が犠
牲にされ、親は「親」ではなく「ことばの訓練士」と化しているケースも見られる。
心理的ケアを必要とする聴覚障害者たちの育ちの過程にこうした共通項が見られるこ
とがわかってきていながらも、こうした聴覚口話法はそのまま存続されており、「こ
ころの障害予備軍」が潜在的に多くいることに対する危惧。

                        (河崎佳子(1999)を参照)

Topic2-2.

 河崎氏がニューヨーク・レキシントンろう学校にあるレキシントンメンタルヘルス
センターで知ったこと
 (2002年7月13/14日第11回聴障者精神保健研究集会記念講演より)
 ※「口話のレキシントン」が「手話にも柔軟なレキシントン」へ変化していった過
程において、メンタルヘルスチームの果たした役割
 1980年代のレキシントンにおいてメンタルヘルスチームが抱えた大きな問題
 口話で育てられた子どもは思春期に大混乱を生じさせるケースが多い。しかしなが
ら、家族療法をこころみても、母親の主張は「うちの子に手話は要らない。子どもの
言うことはお互いきちんと受けとめられている」。子どもの気持ちとの完全なすれ違
い。

2.現在の日本の聴覚障害児教育システムでは…

 体系的なシステムとして発達早期の教育よりメンタルヘルスの専門家が聴覚障害児
教育の専門家と連携を持って発達支援にあたることはない。
 実質的には、教育相談の担当者である教員、学校のクラス担任、民間施設でいえば
担当の指導者が「両親へのサポート」として行っているのが現状。
 そうした時、どのような現象が生じるのだろうか。

教育相談および幼稚部教育段階で聴覚口話法を行っている機関を想定して…
(これらの早期教育機関における理想の目標はインテグレーションの道へ進むことで
あるのを意識しつつ)

 聴覚障害児教育の専門家が「教育」と「相談」の1人2役をこなしている
            ↓
 その機関で採用されている指導法の範囲内においてのみ相談に応じるということに
なる
            ↓
 もし、その指導の効果を上げるのに多少の困難が出てきて、これ以上進めることは
情緒面での問題につながっていく前兆を感知したとしても指導法を変えるということ
はできない
            ↓
あえて変えるとすれば、「別機関に行ってください」となる

        指導者兼相談者
            │
        ┌―――┴――――――――――――――――┐
        │                    │

指導を受ける機関を変えなかった場合         別機関に移っていった場合

→親はますますあせり「ことばの訓練の鬼と         ↑
     化し常軌を逸した学習が展開」          │
       ┼                     │
同一機関に残っている親同士のライバル心を         │
たきつけるのに格好の材料  ―――――――――――――――┘

指導者:「努力せずラクな方に流れていった母親失格者」
親:  「あの親子は『負け組』」
       │
       │
       ↓

情緒的安定の必要性に関する主張 河崎論文等
それ自体としては、説得性のある論理。
 →確かに「それが大事だ」ということはわかる
 しかしながら、彼らにとって、音声言語獲得の必要性と天秤にかけた時、それを犠
牲にしてまでも優先される価値である、という説得性はない。
 そのような(両者を天秤にかけて一方が他方よりも優先性を持つかどうかについて
説明していくような)論理構成にはなっていない。なっていない以上、両者の価値の
判断は、
読み手にゆだねられる。その時、「情緒的安定」は、確かに大切だけれども、「音声
言語獲得のためには」やむをえず犠牲にせざるをえない対象とされる。

 →「泣く泣く安らぎの場を手放すこと」がまた、よりいっそう、聴覚口話法への信
念へつながっていく。
 →「泣く泣く…」がそのまま「費やしたコスト」に加算される

・「費やしたコストの大きさ」対「得られた利益」

…得られた利益がどんなに小さくても、その比較について別の尺度を持ち出して計る
ことができない。なぜか? コストの大きさ故に、コストの否定は自己の全否定につ
ながる。

・別の尺度を持ち出す、とは?

…仮に別の指導法を用いていたら、より少ないコストで大きな利益が得られたかもし
れない、ということ。

・「必ず、何らかの利益がある」というカラクリ。…「失敗作」はありえない。
たとえ一般社会で全く通じない程度の口話の能力であったとしても…
 「もしこの方法を用いなければ、そこまでの口話の能力すら身に付かなかったは
ず」
 「発音が聞き取りにくいものであっても、日本語獲得のためには役にたったのだ」
                                     
等々
             金澤(1999)の「口話法の擁護システム」を参照)

・費やしたコストへの自己肯定

 「親としての存在」よりも「自己としての存在」の肯定を口走るに至るのは、もう
やり直しがきかないという物理的事実が大きく横たわっている。
 …故に、インテグレーションにおいて子どもに異変が起きた時のサインをつかみ
とる
 目と時期を曇らせていく

3.どんなに軽?中度の難聴であっても、学力的に問題なくインテグレートしても、
やはり手話が必要だという主張が受け入れられない理由

 手話に比較的理解があり、これからはろう教員養成課程にも手話ができて、手話の
研究ができる大学教官が絶対必要だと言う専門家でさえ「なんでも、手話をやればい
いってもんじゃない!」となる。

               聴者の親・専門家            

                             情緒的安定

     音声言語獲得


            インテグレートした聴覚障害児

   

     音声言語獲得

                              情緒的安定

 軽−中度の難聴児なら、残存聴力によって音声日本語を獲得することについてはそ
んなに大きな負担をかけるものではない。しかしながら、音声言語の獲得と聴児たち
とのコミュニケーション成立は別問題である。どこにいても、中途半端にしか聞こえ
ておらず、不安感や焦燥感を伴う精神的緊張状態が長時間・長期間にわたって続くこ
とになる。このストレスの大きさは聴力の程度とは全く比例していない。そして、精
神的にくつろげる「ホーム」が寝る時と自分1人になる時以外に全くないことによる
ストレスの大きさがどれほどのものか、ほとんど全く認識されていないことに、聴覚
障害児教育における心理臨床的視点が取り込まれていないことの象徴をみる思いであ
る。

 その上、インテグレーションした聴覚障害児が、そのストレスを逃す方法として、
「1人の環境を多く作る」行為に出ると、「協調性がない」「何事にも消極的」「友
人とのつきあいが悪い」「自己中心的」といったような問題行動とされて、もっと
「外」に出るようにと促すケースも多い。その結果、さらに精神的疲労が増し、悪循
環に陥ることになる。

4.最後に

・こうした現象は、聴覚障害児教育特有のものなのか?
 聴覚口話法のみで子どもを育て上げた親のことば:
 「聴覚障害は他の障害と違って、努力すれば努力しただけ『軽減』=(音声言語獲得
という『成功』のことを指す)することができる障害だ」という意見もある。

・聴覚障害児教育固有のものと共通のものは?
Ex1.知的障害養護学校   文化的体験としての学習(教科教育)vs職業訓練
Ex2.一般の子ども     学習塾通い vs 友達との遊びの時間
→障害児教育に共通するもの
 本来ならば、人間性を豊かに育てるのにあてはめる時間
    →障害に対するアプローチに否応なしに使用されることによって生じる「犠
牲」「努力」
    →「美談」として受けとめられる。

引用・参考文献

金澤貴之(1999)「聾教育における「障害」の構築」.石川准・長瀬修編著『障
害学への招待』p185−218.明石書店.
河崎佳子(1999)「聴こえる親と聴こえない子――聴覚障害青年との心理面接から」
村瀬嘉代子編『聴覚障害者の心理臨床』P121?145.日本評論社.
中野聡子(2001)「インテグレーションのリアリティ」.金澤貴之編著『聾教育
の脱構築』p321−340.明石書店.

 

◆20020801  [jsds:6861] 障害学研究会(関東部会) 7/27記録

土屋葉です.

前回の研究会(関東部会)の記録を以下に記します(少し長文で
す).とても参加者が多く,活発な意見交換がなされました.
記録は,要約筆記のログを参照にして作成,報告者の中野さんに確
認,加筆修正を加えていただきました.また最後に,前置きとして
話された内容のレジュメを,中野さんの承諾を得て添付していま
す.

以下,記録です.
--------------------
障害学研究会関東部会第25回研究会(2002/07/27)
中野聡子「聴覚障害児教育は誰のためにあるのか?:心理臨床的観
点から聴覚障害児教育へのアプローチの可能性を探る」
司会:森
(レジュメはjsds[6846]参照)

ろう教育について10余年研究をしてきたが,この10年の間というの
はろう教育のあり方を考えなければならない,聴覚障害者本人の声
を聞かなければいけないという方向に向かっていった時期だったと
思う.私も「聴覚障害者の話を聞きたい」という依頼を受けて,い
ろいろな場で話をしてきた.しかし,ろう教育は変わったのかとい
うと,基本的なところでの変化はないように感じられる.
なぜ変わらないのか?まず,聴者の立場で当事者の経験や気持ちを
聞いてあげたという自己満足,ろう者の話を聞いているんだという
自己アピールで終わっていること.もうひとつは,自分たちがそこ
まで育てた結果として,ろう者は意見が言えるようになったんだと
いう,教育の賞賛というかたちになっていることがある.「私たち
のやり方は間違っていなかったんだ」という自己確認.手話が必要
だと主張するろう者に対して,聴覚口話法を使ってがんばっていま
す,という聴覚障害者をさがしてきて話をさせる.ニーズがあるか
ら,私たちはここで聴覚障害児教育をつづけてきた,というもの.

 これでは,経験を話すことの意味がない.私自身が聞こえない立
場だからわかるんですよ,という当事者の立場での力説も効果がな
いことになる.そういった中,『聾教育の脱教育』という本のなかで
インテグレーションについて執筆することになり,ある当事者の事
例というだけではすまされないものを書く必要性を感じた.自分の
今までの半生について,深く分析しなければならなくなった.親や
先生,環境に関しても,感謝する気持ちは当然ある.しかし,自分
自身も,そういった周囲の人たちをも,否定しなければならないこ
とも起きてきた.それをしなければ分析ができなかった.その結
果,自己崩壊という状況を起こしていた.そういう時期に,この研
究会で「インテグレーションのリアリティ」について話してほしい
と依頼されたが,研究者の立場と個人の立場を切り離しては説明で
きないので,自分自身も傷つけられると思う,と話してお断りし
た.
この本を出した後に,まだ分析が浅かったという面に気づいた.人
間はだれでも,自分の生きてきたことを自己肯定する,それがある
から生きていけるという事実.それはろう教育の関係者,専門家と
しての場合も親の場合も同じであることに気づいた.言うまでもな
く,専門家と親の違いは,自分の子供に対する愛情の深さである.
しかし,その親でさえ,子どもよりも自己肯定を取るという現象を
いくつも目にしたのである.
一つ例を挙げる.聴覚口話法にしろ,どの方法にしろ,親は自分の
子どものためを思ってそれを行っていると誰もが信じている.私も
信じていた.しかし本を出した後に,親が子供を愛する故に行って
いるのではないということが,目につきはじめた.最近手話がブー
ムであるが,自分の子どもを聴覚口話法で育てた親の中にとって,
それは困ったこと,ゆゆしきことであるという意見を言う人がい
る.そもそも社会に入ったら手話は通じないから,聴覚口話法しか
ない,これをすべきだという親の考え方があったと思う.ところが
手話に対する理解が増え,勉強する人が増えれば嬉しいはずなの
に,「困るんだ」というのである.ここで注目したいことはこのよ
うな発言をする親は,子育てが終わり,子どもを一人立ちさせた親
であるという事実である.これは,もうこどもへの愛情ではなく,
ただ,自分がやってきたことを否定されたくない,自分のやってき
たことを肯定したいという気持ちがあるということになってしま
う.これでは誰のための障害児教育か疑問.親をここまで変える聴
覚障害児教育とは一体何なのかを,今日は「親」の心理という観点
から話したい.

[レジュメの内容の報告]

質疑応答
司会:用語について質問があれば.
*:健聴者と通訳されていたが,健聴者なのか聴者と使ったのか?
中野:通訳の行き違い.聴者という言葉を使った.理由は2つ.社
会的な背景として,「健康」の「健」ということばは障害者に対す
る差別的意味を含んでいるのではないかということで,最近は「聴
者」という用語が用いられることが多くなってきている.もう1つ
は私自身の考え方で,ろう文化の立場と対比的にとらえて.聴者が
いてろう者がいる.対等の立場で「聴者」という言い方をしてい
る.
*:参考文献に挙がっている河崎さんは手話ができるのか?聴覚障
害者関係の知識を持っているのか?
中野:聴覚障害者のカウンセリングをするときには,言葉がなけれ
ば治療はできないということで,手話を覚えられたそうだ.私と話
をしても,ろう者的な手話とは言わないが,日本のなかで,手話が
できる臨床心理士は彼女くらい.

−休憩−

*:レジュメの3頁目に「「費やしたコストの大きさ」対「得られ
た利益」」とあるが,誰にとってのコストで誰にとっての利益なの
か.
中野:聴覚障害児をもった親としての話として受け止めてほしい.
この関係についてはいろいろな立場でもいえると思う.何らかの得
られるものがなければならない.自分のやってきたことを,擁護す
るシステムということ.
*:子どもが聴者が多い社会に入っていく時に,親としての利益と
いうのは何か.
中野:自分がやってきた苦労を,褒められるということ.自己肯定
につながるものとしてこう表現した.他の子と比べた場合に自分の
子どもの方が優れていればそれは成功だというようなプライドがあ
る.
*:自己満足というような意味?
中野:そういうことになると思う.

*:今日の話は胸に響いてくるすばらしい話だった.難聴が軽度,
中度,重度にかかわらず,安心してコミュニケーションできる,手
話の大切さというのが,最終的な中野さんの考えだと思う.今度ど
ういうとりくみをするかということだが,ろう学校における手話の
使用の拡大・充実ということ.ろう者教員をもっと増やしていくと
いうこと.他方で普通の学校に入っている多くの子どもたちに対す
る手話の教育,日常的に手話を使ってコミュニケーションする時間
を確保していくこと.それぞれの手話教育をどのように充実させて
いくか?
中野:インテグレーションしている子どもに手話が必要だといった
場合,「習っても使う場がない」という言葉が返ってくる.親も言
うが,子ども本人もそのように言う.そういう親には,私はこのよ
うに言う.「使う場がなければ覚えないのは当然.でも,おかあさ
ん,あなたが,おとうさんと,まず家のなかで手話を使ってコミュ
ニケーションすれば,場ができるのではありませんか」.親自身
が,子どもが手話を習いたがらないということを半分困ったように
言いながらも半分安堵しているようなところがある.次に子どもど
うしの関係で手話を使う場所をつくるということ.大きな問題に
なっているのは親の気持ち.手話は猿みたいだ,手話は使わない
で,聴者のように聴覚口話法でしゃべれる子どもに育てたいと思っ
ている親にとっては,手話を使うと,インテグレーション(=手話
を使わないで,聴覚口話法でコミュニケーションができる)の意味
がなくなってしまう.もうひとつ「ろう学校に行った親は負け組」
という意識がある.きちんと教育をしなかったために,ろう学校を
選ぶことになってしまったというような.このようなことにこだわ
らなければ,インテかろう学校かといった二者択一の選択肢とはま
た異なる新しい教育環境形態が生まれるのではないかと考えてい
る.

*:どの場にいても,手話が使える環境をつくっていくことが重要
なのはわかった.その前提として,ろう学校とインテグレーション
の関係についてどのように考えるか?教育制度の改革をすすめるう
えで,あくまでろう学校主導で要求するのがいいのか,インテグ
レーションとろう学校という二つの選択肢を用意してそれぞれが手
話を使う環境を整えるのがよいのか,それとも徐々にインテグレー
ションしながらそこに手話をつけるのがよいのか.
中野:難しい問題.どこで手話を使うかということを考える必要が
ある.大きくなって,手話を習い始めたという難聴の人もいる.ろ
う学校で手話を身につけてきた子たちとは,使う手話がぜんぜん違
う.私としては,周囲の環境に影響されないで,自然発生的にろう
の子供どうしのなかで,普通に手話が生まれる環境ができればよい
と思う.ということでろう学校かインテグレーションという問題は
なくなると思う.

*:先ほど,親の自己満足と自己肯定は同じか?という質問があっ
た.少し違いがあると思う.自己肯定は積極的に価値付けを行うこ
と.価値の取り戻しというような言い方.石川准さんの『人はなぜ
認められたいのか』という本のなかで,石川さんは障害者本人の話
を出している.子供が高校生くらいになって,やっぱり手話が必要
ですよね,といわれても,「いまさら手話なんて」という気持ちが
ある.だったら,エネルギーのある時に言ってほしかった,とい
う.手話のために同じような労力を使うということは考えられな
い」という話を聞いたことがある.手話をまた覚えようとする人は
ごく一部で,手話を覚えるくらいだったら,今での自分の価値の作
り直しをする.「今までの自分でよかったんだ」という説明をす
る.これは自己満足とも違うと思う.その意味で自己肯定という言
い方の方が聞いていてしっくりした.
中野:私もあいまいだったが今の言葉で補足されたように思う.

*:親の立場としてよくわかった.今日の話の問題は,親と教育自
体にあるのではないかと思う.親であれば,告知を受けた時や,医
者の「残念だ」という最初の言葉にすべて問題が戻っていく.そこ
から始まっているから,ゆがんだ親や,鬼のような親ができてしま
う.親に正しい情報として入れてくれれば,その場で手話を勉強し
ただろうし,ろう者のところに連れていって,自分では教えられな
い手話を自然に獲得していく環境をつくったと思う.方法が間違っ
ていたのであって,子供がかわいい親たちは,すばらしいパワーを
正しい子育てに注ぐと思う.ろう者が母語(手話)を学ぶのは,私
たちの音声と同じように対等なのだと思う.最初の医者とろう学校
の対応を変えていく必要があると思う.
中野:「正しい情報」という言葉にひっかかった.「正しい」とい
うのは何が正しいのか?価値観は同じではない.人工内耳が正しい
と思う人にとっては子どもに手術をさせないという親が信じられな
い.「それは親の勤めじゃないのか」という人もいる.いろいろな
情報を公平に話さなければならないという人もいるが,社会のなか
の比率というのは,聞こえる人が多いために,あらゆる情報を公平
に出すということができない構図があることにきづいているいる人
は少ない

*:先ほどの質問に関連して.あるシンポジウムで,難聴学級に
通っている子どもたちはろう学校があることも知らない.ろう学校
と選べるようにしてほしいという要求を出した.しかし,後でろう
学校の先生が,「交流はしている」と言っていた.これからも進め
ていけば少しは道が開けるかなと思う.
中野:難聴学級の存在,役目は何か.私はいろいろ疑問に思ってい
ることがある.河崎先生との話でずれを感じたことがある.普通に
同じ障害をもつ同士で集まること,励まし合うことが大切だとよく
言われるが,難聴者同士だからといって,通じやすいということは
ない.やはりコミュニケーションが大変だねということがわかるく
らい.臨床心理士の話では,同じ障害を持つ人同士だと心理的サ
ポートができるというが,難聴者は違うのではないか.誰に対して
もコミュニケーションが大変だから目を合わせることをしない.お
互いに聞こえにくい同士であっても,そういったひとつでも大変な
苦労をなくすために,壁を作ってしまう.臨床心理士はそのあたり
はあまり理解できていないかも.

*:母子関係を密に取れなくなって,心の問題を起こしてしまうと
いうことたが,具体的には?たとえば「自己中心的」,「協調性が
ない」というのは,対人関係スキルのように思えるが.
中野:対人関係としておきる問題と,情緒的不安定なこととだぶっ
ていることがある.線引きするのは難しい.東京都の難聴学級の子
どもに,不登校,家庭内暴力などの問題を抱える子どもが1人か2
人は必ずいる.聴児に比べると数が非常に多い.心の問題は非常に
大きいと思っている.表面化しないのは,親がインテグレーション
できたということで目標達成とし,その後の子どものサインをつか
み取れていないということ.

*:障害者にとっての心理的な適応をどのように考えるか?
中野:不適応が起きるということに関しては,問題のある行動が起
きた時に,ちゃんとその理由をつかむことが必要.難聴でインテグ
レーションしている子どもたちを理解するための,先生向けのマ
ニュアルが3冊ほどある.対処の仕方などが書いてあるが,それを
読んで思うのは,なぜ心理的に適応できないのか,その事実や原因
の説明が,インテグレーション児の立場に立って読むと全くの的は
ずれ.これができていないために,子どもが感じているストレス
に,さらにもっとストレスをかけかねないような対処方法が書かれ
ていて,これでは悪循環.

*:問題は対人関係能力の低さにあると思う.聴覚障害だけに限ら
ない.障害をもつ人は,社会に出ると人間関係をうまく築いていけ
ない人が多い.
中野:それについては,レジュメに最後にみなさんと討論したい事
項として,聴覚障害児教育特有の現象かどうかという問題につなが
ると思う.私としては,聴覚障害児の対人関係問題というのは,聴
覚障害という障害特有のものによるところが大きいと考えている.
人間関係作りに必要なのは,言うまでもなく,ことばである.それ
も,ことばを獲得しているかどうかということではなく,対人関係
の中で,ことばをどう繰るかということだと思う.聴覚障害の場合
は,そのことばの問題が大きい.しかし,聴覚障害児教育では,対
人関係としてのことばの問題以前に,学習言語として,(音声)言
語をどう獲得させるかということにとどまっている.まずは,こと
ばが何の障害もなく通じ合える場がないと.これがまず対人関係を
よい対人関係を築いていくために必要な土台なのでは.インテグ
レーション児で,学校の中で孤立していると,言葉が通じる場がな
い.土台がなくてことばの操り方を考えろと言われても,それをつ
くるための道具がない.自分がわからない時に確認してコミュニ
ケーションを構築するスキル,コミュニケーションをより良い状況
にステップアップするスキル,それができないとよい対人関係は作
れない.対人関係の問題は,聴覚障害の問題でいうと,言葉,コ
ミュニケーションが通じないことを特別に考えなければならない.
その意味で障害者一般の共通としての対人関係問題とは,少し違う
のではないかと思っている.
                              
                      (以上)

--------------------------------
前置きとして話した内容のレジュメ
(通訳者および司会者のみに配布)

 今日はできるだけ「当事者主義」の枠を使わずに話題提供をした
いと思います。
 『聾教育の脱構築』が出版されたのを受けて、長瀬氏より昨年
12月頃「聴覚障害児のインテグレーションのリアリティ」につい
て話題提供のお誘いをいただいたのですが、お引き受けできません
でした。
 ろう教育を大学の学部よりずっと専攻してきて、様々な関連集
会・研究会・学会にも参加して学んできましたが、ちょうどこの時
期というのは、「聴覚障害者本人の『声』をもっと受けとめなけれ
ば」という方向に向かっていった時期でもありました。私も請われ
るままに、あちこちで自分の体験談を話していました。けれど、そ
の回数を重ねるに従って、「本人の声をきいて、それでろう教育は
どう変わったのか?」と立ち止まり、疑問に感じるようになりまし
た。
「本人の声を聞こう」ということになって、請われて話したろう者
の人数が決して少なかったわけではありません。「本人に体験談を
きこう」というのは、今でも、ろう学校などでよく行われています
よね。
 「では、なぜろう教育は変わらないのか?」それを考えた時、ま
ずは、第一段階として、ろう教育関係者にとっては、「ちゃんと当
事者の声をきいたぞ」という自己満足、または、多少ろう教育のあ
り方に批判的なことを言われたとしても、「自分たちの育て方・教
育のあり方がまちがっていなかったからこそ、こうして、今、成人
した聴覚障害者が立派に自分の意見を言えるようにまで成長できた
んだ」という自己肯定の再認識する道具として使用されていたよう

感じます。
 次段階として、当事者たちの話というのが、そんなに簡単に受け
流せるようなものではなく、重い課題として受け入れざるを得なく
なってきた時、ろう教育関係者は、そういった主張とは正反対のこ
とを言ってくれる当事者探しに躍起になり、これまでのやり方を肯
定してくれる当事者の声を聞いて、「個に合わせた教育がある」と
いうレトリックに変わっていきました。つまり、これまでのやり方
を必要とするニーズがあることを確認することによって自己肯定を
することが必要だったものと思われます。
 こうした流れの中に身を置きつつ、インテグレーションの問題を
話そうとするならば、単なる体験談ではいけない、そして「当事者
だからこそわかるんだ」という論法では通用しないという構造を強
く意識して『聾教育の脱構築』の原稿に向かわねばならなくなりま
した。
 その結果、自分の半生は一事例ではなく、その中に見られる聴覚
障害インテグレーション児の共通事項、要因、構造、レトリックの
発見を目指して、とことん自分自身の中にあったもの、自分の周囲
の環境にあったもの、本当ならば眠らせておきたかったもの、気づ
きたくなかったものも掘り起こして深く追求し、分析していかねば
ならないという状況に追い込まれるようになりました。
そして、それを行うことは、自分の半生を、私を育ててくれた関係
者も含めて、部分的には完全否定する必要のある作業でもあり、そ
れを強行して行った結果、初稿を書き終えたあたりには、ある意
味、自己崩壊を起こしていました。校正のゲラを読み直す作業です
ら辛くてたまらなくなり、本が完成しても、自分の
インテの章だけは、とばし読みするほどでした。
 そんな中、ここの研究会で話題提供のお誘いを受け、私は、その
時の心情を包み隠さず長瀬氏に語った。「参加者の前に立ったら、
泣いてばかりで何も話せなくなると思います。自分もまた研究者で
あり専門家の1人として、自分を分析していったわけですが、専門
家としての自分と、ナマの自分を完全に切り離すことなどできよう
もないんですよね…」と。長瀬氏も、「研究とは、自己をそこまで
傷つけてまでやることを強制されるものではありませんね、わかり
ました」と言ってくださいました。
 今回お引き受けしようと思ったのは、あれから半年という時間が
たったということもありますが、『聾教育の脱構築』を執筆・出版
した折には、まだツメが甘くて、私自身気づいていなかったことを
つい最近知ったからです。
 これが、どこまでがろう教育特有の問題で、どこからが障害児教
育、ひいては一般の「教育」というものに共通していると言えるこ
となのかは、まだ自分の中で整理しきれていないので、ろう教育と
いうカテゴリーの中でお話しますが、その点については、参加者の
皆様からご指摘をいただけたらと思っています。
 話題提供の結論が先になってしまいますが、私にとっての新しい
気づきとは、
「人間とは誰しもが自分の行ってきたこと、生きてきたことに自己
肯定することによってまた生きていける」という事実が、ろう教育
の聴覚口話法をくぐりぬけてきた関係者の中で、親もまたそうで
あったということです。
 教育においては、基本的に3つの立場があります。子ども・親
(保護者)・教師(専門家)です。本の中では、子どもの目から見
えた印象そのままに、「親や専門家」「親や教師」「親も専門家
も」と漠然とひっくるめて書いていましたが、専門家や教師と、親
の立場の間には、完全に違う線引きがありますね。それは言うまで
もなく「我が子に対する愛情の深さ」です。
 たとえ、どんな指導法を用いたとしても、それがどんなに常軌を
逸したものであっても、「我が子を愛しているからこそ」である
と、誰もが思うし、私自身もそれを信じて疑わなかった面がありま
した。
 しかし、本を出版してから後になって、そういった「常識」が完
全に壊れている展開を次々と目にすることが起こりました。
 プライバシーの問題に触れることもありますので、1つだけその
例を話したいと思います。ある時、たまたま目にした、子どもを口
話法で育て上げたある親の、こんな発言がありました。「近頃、世
の中が、手話、手話ってブームになって健聴者も手話を習い出す
し、ゆゆしきことだ」といったものでした。
 そもそも、なぜ手話ではなく聴覚口話法を選択したのだったんで
しょうか。
 手話にまつわる誤解も当然存在していましたが、手話を選択しな
い大きな理由の1つとして、「社会の中で手話で通じる人は少ない
から」だったはずです。(これは今でも言われることですが…。)
ならば、なぜ、手話人口の増加がゆゆしきことになってしまうので
しょうか。完全に本末転倒状態になっています。
ここで大切なポイントは、この親の子どもは、もう成人し、親元か
らも離れている、ということです。すなわち、この親にとっては、
何故の聴覚口話法選択だったのかといった理由など、完全に頭から
消え去り、ただ、自分が、寝る時間をも削って、泣く子どもに鬼と
なってまでも、口話の訓練をしたという行為の代償として、日本
は、手話が使えない社会である状況が続いていてくれないと困るわ
けです。自分が子どもに対してなしてきたことの肯定と、聴覚障害
者に対する社会の理解の深まりを天秤にかけ、前者をとったという
ことです。
我が子が、その聴覚障害者でありながらも。
 この構図の中のどこに、「己を捨ててまでも我が子のため」と
いった親としての心情があるでしょうか。全くないのではないで
しょうか。この親は、この時、完全に「親」という立場を忘れてい
るとも言えます。
 は、この親の子どもではありませんが、背筋に寒気が走る思いで
した。聴覚障害児教育を仕事として行っている人々であれば、まだ
理解ができます。しかし、子の幸せを望むはずの親が、子の幸せよ
りも、自己肯定、自己擁護をとっているとは!
 おそらく、このことに私が大きなショックを受けるのは、子ども
もまた、親と共に苦労して、さまざまなものを犠牲にしつつも、聴
覚口話で勉強に取り組んできた上に建てられているきずなが、ふつ
うの子育てによる親子関係より、
より密着性の高いものである故、裏切られた思いが強くなるからだ
と考えられます。
 「親」をここまでに変える聴覚障害児教育とは、一体何なので
しょうか。
それを今回の研究会の中で分析してみたいと考えた次第です。
                         (以上)


REV: 20160125
障害学  ◇聴覚障害・ろう(聾)  ◇全文掲載
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