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「森沢典子(パレスチナ情報)」


last update: 20160125


■森沢典子(パレスチナ情報)■

◆吉田さんより

チャンスの小林一朗くんからの
パレスチナ情報です。

              ★ 転送歓迎! ★

昨晩、パレスチナから一週間前に帰ったという森沢典子さんにお会いし現地の様子を聞きました。何百枚というたくさんの写真を見せていただきながらいま起きていることを聞きました。

みなさんにお伝えしたいので、彼女からのメールを転送します。
森沢さんは塾で子どもたちにパレスチナのことを教える際、「現地のことを自分で見て話したい」という思いからポーンと現地に飛んだそうです。彼女の胆のすわり方が気持ちよかったです。そこで起きている現実とは認め難い非日常を、人々の生活に入りながらごく普通の人間としての視点で見てこられました。

ぜひ、お読みください。

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3月5日から23日までイスラエルーパレスチナに行っていました。
9月のテロ事件のあと、もうパレスチナ問題を無視できない時が来たと私の中で認識していたのですが、実際にはほとんどその事には触れずテロという言葉に人々が必要以上に敏感になる中で、テロ撲滅の名のもとに戦争そのものがどこか正当化されていく風潮に非常に危機感を覚えました。

また西欧文化や情報は普通に入ってくるのに対し、アラブやイスラムについてほとんど情報がないまま、イメージだけが先行している中で、各地の紛争やテロ事件は減る様子もなく、この先アラブやイスラム社会を理解することなしにどんな解決も共存もありえないという気持ちが強まりました。

そんな中イスラエルが、(予感はあったのですが)アメリカと同じ理由を掲げパレスチナへの侵攻に力を入れ始めました。

出来事としてのニュースは分かりますが、その実態は、日本でテレビや新聞をいくら読んでいてもつかめるものではありませんでした。
私自身、ユダヤ人のこともパレスチナ人も、彼らが朝御飯に何を食べているのかすら知らなかったのですから、この問題について自分なりに分析するための自分の言葉も経験も持ち得ませんでした。

イスラエルの主張は不透明に感じるものが多く、視点がいつも一つに留まっていたのとパレスチナ側の主張や映像が、イスラエルと同じレベルで流されることはほとんど無く不満に思っていました。

それなら自分で見てこよう。何もジャーナリストや専門家だけが現場を見るものとは決まっていません。なかなか届かない情報を指をくわえて待っているのはもうやめたっと思い,もともと行くつもりだった旅行を取りやめてパレスチナに向いました。

けれども私がパレスチナ入りした頃は、それまでで最も緊張が高まり始めた時でした。日本にいるとテロリストや紛争の話ばかりしか届かないパレスチナの人々と、直接関わって彼らの本当の姿や人々の暮らしぶりを知りたいと思っても、被害の状況など今起きていることを自分の目で見たいと思っても、何のグループにも所属していない私が自治区や難民キャンプに行くことはとても難しく思われました。

それでも諦らめきれずUNRWAや国連など公の機関を訪ね歩く一方で、市民レベルで活動しているさまざまな人を一人一人伝っていくうち、最後に行き着いたのがNGO団体であるGIPP−PNGO(パレスチナのための草の根運動の会)でした。

PNGOは活動の一環として、なるべく多くの人たちに直接現場を見てもらおうとナブロスのフランス人女性クロードとラマラのパレスチナ人女性ルナッドがヨーロッパ方面中心にインターネットで呼びかけていたのです。

それに応えてやってきたフランスのお母さん達の団体8人と、私も一緒にウエストバンクを廻ることしました。

そして地元のNGO―GIPPの協力の下,自治区のうちのナブロスと、ジェニン、トウルカレムの難民キャンプや村を訪ねました。

イスラエル側の被害状況や主張が次々と報道される一方で、
パレスチナ側の取材や中継がイスラエル兵の封鎖によって制限され
なかなか実態がつかめないことに疑問を持ち、それなら自分の目で
見てこようとここにやって来たことで私たちは共通していました。

ナブロスの知事や、ジェニン、トウルカレムの難民キャンプのリーダー達も村の人々と共に私たちの訪問を待ち構えてくれていました。

そしてイスラエル軍による占領で被害にあった場所を訪ね歩き、夫を殺された人や家を焼かれて泣いているお婆さんなど、一人一人から直接話しを聞いてまわりました。

そこで実際に私が目にしたことは、自分の目で見た後でも信じられないことばかりで人が人に対して本当にこんなことが出来るのかと、何度も自分の目や耳を疑いました。

けれども、これは現実として受け止めるしかなく、きちんと他の場所へ伝えるべき重要な出来事であるという思いがつのっていきました。

この頃もイスラエル軍は、自治区を次々に封鎖占領し、毎日のようにヘリコプターでの空爆と戦車での破壊や爆撃を繰り返していました。

占領は、いつも真夜中に始まりました。
一つの自治区や難民キャンプを、数十台、時には数百台もの戦車で取り囲み、外部からの進入も一切出来なくなります。

そして必ず行われるのが「テロリスト狩り」と称された14才から50才までの男性の連行です。連行された男性は全員目隠しと手錠をされ、服も全部脱がされて腕に番号を振られます。イスラエル軍のバスに乗せられ連れ出される映像が、最近CNNでも流されました。

トウルカレムでは、女子小学校も爆撃を受け、そこが投獄場所として
利用されていました。
トウルカレム難民キャンプのリーダーと投獄され出てきたばかりのジャマール・イッサさんの話によると、3月8日真夜中過ぎ、キャンプ
は60台の戦車と4機のヘリコプターに囲まれたそうです。

ジャマールさんは、明け方の3時半に30人のイスラエル兵に家を取り囲まれたました。

以下彼の話。

「私の捜索という名目で、イスラエル兵たちはまず両隣の家を取り壊しはじめました。6時になる頃玄関がノックされ私がドアを開けると、数人の兵が入って来て家族を一つの部屋に集めました。私たちの見ている前で家の中のものを破壊し、目の前に3時間座り込みました。その間ずっと「ここは俺達のものだ!」と怒鳴ったり叫んだり、私を殴ったりしました。

そして私は外へ連れ出されました。他にもたくさんの人が連れ出されていました。みんな目隠しと手錠をされ裸でキャンプの女子学校に連れて行かれました。しばらくするとバスが何台もやって来て私たちはフワラというナブロス付近のイスラエル領に連れて行かれ、囚われている間は腕を縛られ立たされたまま殴られたり叫ばれたりし水も食料も与えられませんでした。その日連行された男は400人にのぼり、今も100人以上が拘束されたままです。」

今回は6日で戻ってきましたが、これまでも何度も投獄され家を取り壊されています。

なのに彼は私の方からこのことを聞き出すまで、自分からは何も言っていませんでした。

この話を聞いたのは、トウルカレムの人々に招かれて町の小さなレストランで昼食を食べているときがきっかけになりました。

その時わたしは、たまたま6人のPLOのメンバーに囲まれて座っていました。彼らはとてもシャイで、礼儀正しく、冗談ばかり言っていました。そして私が日本から一人で来ていることにとても驚いたり、丸い目で日本のことをいろいろ尋ねたり、どんどん食事をすすめてもてなしてくれるのでした。

けれども私がチキンのおかわりを、もうおなかいっぱいだからと笑って断ると、周りの人がみんなでそのチキンをジャマールさんのお皿にのせて「おまえは牢獄から出てきたばかりで栄養つけなくてはならないからもっと食え食え!」と冗談を言ったりしていたので投獄の事実を知り、食後に話を聞かせて下さいと頼んだのです。

どこを訪ねても、占領の方法は同じやりかたでした。
シャロン首相は「テロ対策」と銘打って行っていますが、実際には学校や病院も爆撃を受けていました。完全に封鎖し人々を閉じ込めて、男達を連れ出して無抵抗の状況を作り出していっせいに攻撃をするのです。ですから、もちろん政府関係の建物や警察署などはめちゃくちゃに破壊されていました。そしてたくさんの人が殺されています。
武器も押収していきます。

彼が連れ出された3月8日、トウルカレムでは17人が殺され100人以上が怪我をしました。封鎖されたキャンプの入り口では、救急車の進入が戦車によって阻まれ、怪我人を運び出すことも出来ません。今月に入って国連が、救急活動の妨害に対して非難をしていましたが、実際には妨害だけではなく、救急車も爆撃を受けています。トウルカレムでは、救急車が正面から銃撃され運転手の頭が半分吹き飛び、アシスタントは入院、もう一台は戦車に直接追突され、グシャリと潰れていました。この追突の瞬間を捉えた写真をある女性がたまたま撮影し、エルサレムポストにも載りました。

ジェニンでは、救急車が戦車によって爆撃され、救急センターのデイレクターが殺されました。センターの方にその時の写真を見せてもらいましたが、頭や顔まで真っ黒に焼け焦げた姿には面影など何も残っていません。彼は、9才の女の子を救出に向う途中でした。けれども救出を待ったまま、その女の子も亡くなりました。もちろんそうなることを狙って、救急車を攻撃してくるのです。彼らの意図はテロの撲滅ではなくて、パレスチナ人の撲滅であることがだんだん分かってきました。うすうすは気づいていましたが、本当にこの現代社会で、民主主義を唱えている国が総力を尽してそんなことが出来るとは、どうしてもイメージできませんでした。

私たちは、殺されたデイレクターの家族も訪ねましたが、力なく肩を落としている年老いた彼の母親にかける言葉もみつからず、ただ手を握り、見つめあうのが精一杯でした。私は悔しくて背中が震えてしまいました。

ジェニンキャンプでもUNRWA(パレスチナ人のための国際支援団体、日本もたくさん援助している)の女子小学校を訪ねましたが、もちろん戦車によって爆撃を受け校庭も校舎も銃弾の跡で穴だらけでした。フランス人たちは、イスラエルに対して請求書を送ると言っていました。そして、一番援助している日本の政府は、抗議をしないの?と言いました。

ある女の子が、私にノートを見せてくれました。
彼女のノートは、銃弾を受けびりびりに切り裂かれていました。
そしてその裂け目の間に、まだ弾丸がくいこんだままでした。
彼らは、授業中の小学校を銃撃したのです。たくさんの子どもが殺され怪我をしています。もちろん、病院へ運ぶどころか、助け出すことも阻まれます。助け出そうとするものは容赦なく撃たれてしまうのです。この日UNRWAのジェネラルデイレクターが駆けつけてキャンプに入ろうとしましたがイスラエル兵はそれも拒みました。

このジェニンキャンプは、わずか1平方kmの土地に15000人もの難民の人々が肩をひしめきあって生活しています。皆1948年以降、イスラエルにより土地を奪われ難民となった人々です。

3月4日に占領侵攻され、同じようにたくさんの人が殺されましたが、ここでは死体をキャンプの外にある墓地に運ぶのを、イスラエル兵によって阻まれました。それで仕方なく、キャンプの中の可能な場所に埋めて人々はお墓を作りました。

ところがそのすぐ後イスラエル兵は、戦車やブルドーザーでそのお墓を掘り返し破壊していきました。私は、掘り返されてまだ間も無いそのお墓の、写真を撮る他に何も出来ませんでした。

フランス人の母親達が帰国した後、私は一人でベツレヘム、そしてガザにも行きました。ウエストバンクの状況を見て、ガザはもっと悲惨であろうことが予想できたのでどうしても行く必要がありました。

一人で行動しないように言われていたので一緒に行く人を探しましたが、見つけることが出来なかったので仕方なくあちらのNGOオフィスの住所の書かれたメモを一枚もって一人で行きました。

ガザは、エルサレムから車で一時間半程南に走ったところにあります。朝一番に乗合タクシー(セルビスと言って時間で走るのではなく、同じ方向に向かう乗客が集まり車がいっぱいになったら出発します。)に乗り込んで待っていましたが、予想通り一人のお客も来ないので、一人乗りタクシーで向いました。こんな時にガザに行く人などいる訳もありません。

ガザの入り口は、イスラエルに完全に制圧され大きなターミナルができています。まるで空港のような厳重なチェックを受け中に入らなくてはいけません。占領時でなければ外国人である私たちはチェックさえきちんと受ければたいていは自由に出入りできますが、パレスチナ人は自由に出入りができません。物資の出入りもイスラエル軍にコントロールされています。

その日ターミナルには、イスラエル兵達と私の他は誰もいませんでした。

さて、ガザの南北を走るメインロードはかつては三本ありましたが、今では一本しか使えません。後の二本は、入植者「セットラー」(植民地政策でパレスチナ自治区に不法に建てた家に住むイスラエル人達のこと)のための専用道路として、獲られてしまっています。

パレスチナ人は残りの一本の道路しか使うことが出来ないのですが、それさえ南北の中間地点カラーラが封鎖されたり、開いていてもイスラエル兵の審査を受けなくては通れません。

いわゆるチェックポイントです。

今は占領のことを取り上げられることが多いのですが、占領時でなくても実はチェックポイントによるこの封鎖こそがパレスチナ人の生活に壊滅的な打撃を与えています。

これにより観光客はもちろん人の流れも物資の流れも制限され、街は活気を失い人々の心は荒んでいきます。

生活に使う水と、病院では特に酸素や輸血用の血液が深刻に不足しています。農作物の収穫期には、収穫のために農場へ出るのを故意に阻まれ作物が腐るまでそれは続きます。ですからガザでは、世界一の人口密度にまで追いやられた狭い土地の中で農場や牧場を確保し、自給自足に近い生活を強いられています。

しかしガザ国境付近にイスラエルは公害を伴う工場を建設し、その環境汚染が深刻とも言われています。内部で収穫した食物や水が汚染されていることをみんな分かっていながらどうすることもできないと言います。

特にイスラエルのデイモナ工場による空気汚染で、ガザ南部国境付近にあるクザール村では、主に子どもとお年寄りに背中に異状を来たし、立つことができなくなる障害が多く見られると聞きました。真偽のほどは分かりませんが、私はその症状を持つ6才の女の子とお婆さんに会いました。

閉じ込められたコミュニテイと汚染のため、ガザでは障害を持った子どもの出生率がひときわ高いそうで、訪ねた家のほとんどに障害を持った子どもがいました。

クザール村で起きた3月8日の占領時、家族が三人殺されたというお宅を訪ねました。殺されたのは、ハリード・カデイアさん、カハリードさん、ムハマードさんの三人でこの夜、残された家族が全員広間の床に座り、ハリードさんのお父さんに当たるカマールさんが私にその時の話をしてくれました。

「3月8日のことでした。
真夜中過ぎのことです。パレスチナの救急車が村に入ってきました。
けれども中から出てきたのはイスラエル兵士たちでした。
そして村は70台の戦車に囲まれていました。ここは農場地帯だったので見晴らしがよくほとんどの人は村から逃げることは出来ませんでしたので、家の中に逃げ込みました。だから殺すのにたやすかったのです。彼らは5つの家を選び入ってきました。何故ならそれらの家は高台があり村が見渡せたからです。彼らは犬も連れていました。
家に入ると彼らは男達に服を脱ぐように言いました。そして腕を後ろに縛り目隠しをしました。家族を一つの部屋に入れ二人の兵士は銃を女と子どもに向けていました。戦車は村の全域を占拠していました。
そしてイスラエル兵士はモスクに入りスピーカーを使って、外に出てくるように叫びました。武器や銃を使わないとも言いました。
アラビア語で言いました。

それで人々は外へ出ました。東から37台の戦車、10台の装甲車、3台のバスが入って来ているのが見えました。次の瞬間、全てが砲撃を始めました。女、子ども、犬、豚もヤギも撃ちました。ハリードは足を撃たれました。まだ生きていたので助けようとしました。けれども私の目の前で、戦車が彼を轢いていきました。そして彼の頭や顔や胸はすべて潰れ、道には形も何も残りませんでした。彼を助けようとするものは容赦なく撃たれました。

私は泣き叫びました。
それを止めようとして走ってきた親戚も撃たれて死んでしまいました。

ムハマードは20発も撃たれましたが、まだ息はありました。
けれども誰も助けることも病院に連れて行くこともできませんでした。
何故なら村の入り口で、救急車も何も入れなかったからです。
たくさんの人が怪我をしましたが血が足りなかったのでみんな死んで
しまいました。

ただ殺されたのです。私たちは兵士でもないし何でもありません。
ただ来て殺したのです。殺して出ていったのです。捜査などありません。

言い忘れましたが、ガザ南部のソルジャーもその夜殺されました。
彼はここで何が起きたのか見に来たのです。そして足を撃たれ病院に運べず死にました。(救急活動ができないので)足を撃つだけで十分殺せるのです。

その夜18人が殺されました。たった二時間の間に。今は100人以上の人がナーサルホスピタルにいます。

どのパレスチナ人の家もみんな同じです。農場も壊していきました。」
(実際の死者は16人そのうち5人がパレスチナ警察)

殺されたハリードさんは結婚したばかりで、家には奥さんと生れて20日目の赤ちゃんが残されていました。

その小さな小さな赤ちゃんを腕に抱いて、私は怒りと無力感にうちのめされていました。

この他にも話しはたくさんあります。ありすぎて書ききれません。
もちろん関心をお持ちの方には積極的にお話ししますので声をかけて下さい。写真もありますのでお会いしてお話するのでも結構です。

デ・アル・バラという北部の地域に散布された毒物とその影響を受けているというたくさんの妊婦さんや子ども達のことも気になっています。

どの話も裏付け調査が必要なのですが、クザール村を訪ねたのは夜九時を廻った後でしたし翌日は午前中にはガラーラのチェックポイントが閉まってしまうからと、駆け足で学校と病院をまわり、皆に背中を押されるように北へ向いました。何故こんな状況なのにパレスチナで出会った人達はこんなにも暖かいのか、私を守ろうとするのか持っているものを分け与えようとするのか、何故私だけが別の世界へ逃れていけるのか虚しい気持ちいっぱいでエルサレムに戻りました。

けれども、クザール村の話があまりにひどく、さらに何処の新聞社のアーカイブを調べてもその事に触れていなかったので、すぐにパレスチナの人権団体と、その時日本で執筆中だった広河隆一さん(パレスチナ問題について35年間取材やさまざまな活動を続けてるフォトジャーナリスト、現在はパレスチナで取材中)にメールをしました。
翌朝すぐに広河さんから電話がかかって来て、これは大変なことだから、パレスチナ側だけでなくイスラエル側のジャーナリズムにも伝えた方がいいと言われ、ハアレツ・デイリーの編集者エウードさんを紹介して下さいました。エウードさんはその日すぐにテルアビブから、エルサレムまで駆けつけてくれました。私は、聞いたことをそのまま話しました。

彼はすぐに再調査のための人を送ってくれました。私も一緒に行きたかったけれど、出国前日だったので後はお任せすることにしました。

日本に戻ってから、村で殺された総数にずれがあったものの残念ながらその出来事が事実であったことを知りました。

さてパウエル長官がいよいよイスラエル入りしシャロン首相と会談しました。

ずっとイスラエルを支え、大変な軍事国家に育て上げたアメリカの国務長官が仲介に入るのですから、パレスチナの未来にとって本当に明るい選択肢をきちんと用意してくれるのかとても不安です。

シャロン首相は一部撤退を行いテロ根絶を訴えながら、その傘下で、パウエル長官がイスラエルにたどり着くまでの間に駆け込み的に攻撃の手を強め、特にジェニンキャンプで大変な殺戮を行い、今現在も続けています。外部からの進入は、取材陣でさえ一切出来ないということがどういうことか私にははっきりとわかります。ほんの一月前会って、一緒にたくさんの話をした一人一人のあたたかい眼差しが私の頭を廻っています。その人たちの身の上に今起こっていることを思うと本当に胸が張り裂けそうで、何も手につきません。あの時もジェニンキャンプは大変な打撃を受けていましたが、そんな状況の中で人々は木々をきれいに刈り込み、花の手入れをし、コーヒーを飲みながら穏やかに家族や友人達と過ごす時間を楽しんで、私たちと目が合うと「ウエルカム!」とコーヒーを差し出したり、笑いかけたりしていました。難民キャンプの子ども達が、うれしそうにニコニコ私たちの後についてくるのですがフランス人の女性がチョコレートを差し出すと、控えめな声で「ノーサンキユウ」と丁寧に断るのです。私がこれまで他の経済的に貧しい国で出会った子ども達のことを考えると、!
これは相当なことだと思いました。日本の子どもだって、差し出されたチョコレートを「結構です」と丁寧に断れるとも言えません。彼らは、何もかも失っても、誇りは失っていませんでした。それはイスラムの精神と、パレスチナの母親の教育の水準の高さによるものだとどのパレスチナ人に会っても感じた今回の新しい驚きでした。

その人たちを、今次々に殺しているのです。そして誰にも止めることができないなんて。これだけ国際社会の目が光っていながら、何故こんなことが続けられるのでしょう?どうして誰もそこへ派遣しないのでしょう?私が特使だったら、まずそこへ向うでしょう。不当な制限を解き事実を見るでしょう。特使の権限は、そのためにあるんじゃないのですか?

ジャーナリズムを含む、他のものの進入を一切阻む理由として、パレスチナ人が爆弾を抱えイスラエル兵も10数人死に、危険だからだと発表していますが、ちょっとでもジェニンの人々の立場に立てば、閉じ込められた世界の中で、救出の可能性を全て絶たれた絶望的な状況を想像できるはずです。これは本当に恐ろしい出来事です。

ただ死を、破壊を、すべての物の喪失を待つばかりの彼らの恐怖心や絶望感は、計り知れません。わたしも居たたまれない気持ちで何日も眠れずにいます。家族を殺されたり自分が無駄に殺されるのならばと、最後の抵抗の手段として爆弾を抱えてイスラエル兵の到着を待つのはむしろ当然ででしょう。ほかに何が出来るというのでしょう。今ジェニンの人々をそこまで追い込んでいるのは、他でもないイスラエルなのです。

ラマラの友人からの電話だと、死者は7〜800人に達し死体も運びだせず腐乱し始めているということです。広河さんのホームページで公開されている記事によると、未確認情報では死者は1000人に及ぶとも言われています。イスラエル兵は、ここで起こっていることを国際社会が見たら決して許さないだろうと恐れをなし死体をブルドーザーで埋め、清掃を始めているということです。ブルドーザーで!彼らはゴミではありません。けれども、ブルドーザーでの清掃行為そのものが、死体の数の多さを物語っています。ジェニンでのこれらの行為は、イスラエルに今後何年も重い十字架としてのしかかるでしょう。

テロ根絶を理由に占領地からの撤退を拒んでいるシャロン首相ですが、今の状況のもともとの原因は、イスラエル側のオスロ合意に違反する圧倒的な占領と植民地政策、そして一昨年のシャロンによるアル・アクサ神殿訪問にある事を忘れてはなりません。

アルアクサ神殿は、毎週金曜日にイスラムの人々がお参りに来るとても大切な場所です。そこにシャロン首相は警察を伴って入り込み、抗議のために立っていたパレスチナ人に発砲、翌日は金曜日でしたが、シャロンはさらにそこに軍や警察を送り込みお参りに来た人たちに無差別に発砲、パレスチナ人にとって最も神聖な場所で死傷者を出し流
血の事態を引き起こすという大変な挑発行為を行ったのです。その事に抗議して始まった民衆運動が、今回のアル・アクサ・インテイファーダです。

シャロンはその民衆蜂起を「テロ」と位置づけ、封鎖占領を繰り返してきました。また、かつてのレバノンキャンプでのパレスチナ人大虐殺を指揮した張本人もこのシャロン首相に他ならないのです。

そして現在まで圧倒的な経済力と武力で主張を押し付け、パレスチナ人の基本的な人権生きる権利、自由、生活を国を挙げて奪ってきました。物資や人の流通を不当に阻み、教育を阻み、救急活動までも阻止してきました。民主主義を掲げている国がです。どんな政治的主張があるにせよ、それが正しくても間違っていても、とにかく今すぐ占領をやめて欲しいと強く思いました。けれども大きな銃の前で、私だって何も言えなかった。暴力の前に、自由な言葉や心の行き交いをねじ伏せられるということの私の初めての体験でした。家族や自分の命、生活、家が奪われる人々の思いは計り知れません。

もちろんパレスチナ人も必死で抵抗しています。主な武器は石、銃などですが、軍を持たない彼らは自爆という武器が精一杯であり、最後の手段なのです。けれども私が見たほとんどのパレスチナ人の本当の抵抗は、爆撃されても家族が殺されても、壁の無い外から丸見えの部屋でコーヒーを入れ、翌日から仕事に戻り、もくもくと瓦礫を片付け、冗談を言って笑う。人を受け入れもてなし、花の種を植える。人としての尊厳を失わず誇り高く生き続けユーモアを忘れない、そんな精神的抵抗でした。本当にみんなよく我慢しています。そしてそれこそがイスラエル兵を焦らせヒステリックにさせているというのが、援助
に駆けつけているたくさんの、ヨーロッパ人を中心とする外国人たちとわたしの間での共通の認識でもありました。

何故国際的な協議の場やジャーナリズムでは、占領(虐殺)とテロ(一つの爆弾)を同じ天秤にかけるのでしょう?圧倒的な武力の前で、一つの抵抗も許されないというのでしょうか?もちろん市民を狙った自爆行為を、私も受け入れることはできません。


けれども外国から特使が来るとなると直前に、シャロン首相は必ず挑発行為を繰り返してきました。そして今回もパウエル長官がイスラエル入りする直前にジェニンでの大量の殺戮を行いとうとうキャンプのリーダーを殺しました。この行為は確実にパレスチナ人の抵抗運動を引き起こすでしょう。

わたしは、今起きていることは戦争ではなく、迫害と虐殺だと認識しています。

そしてもしもこれを今国際社会に止めることが出来なかったら、私たちは歴史の中でホロコーストから60年たったこの時代に、私たちの時代に、もう一度同じ過ちを今度はユダヤ人の手で犯してしまうことを許してしまうことになるのです。それは同時に、私たち自身の過ちにもなります。


さらに、テロ行為を理由にアラファト議長率いる現在のパレスチナ政府を「悪」と位置づけ排除したのち、アメリカやイスラエルにとって都合のいい政府を送り込み、都合のいい和平をどさくさに結ぶ。そんな骨抜きパレスチナ建国の懐疑心が止みません。

アメリカがとった、アフガニスタンや戦後の日本の国作りと同じシナリオを見ているようで身震いがします。素人感覚の考え過ぎだといいけれど。

それとも追いつめるだけ追いつめて、パレスチナの人々に、明日のパンのためのあきらめに近い和平を強いるのでしょうか?

50年近く戦ってきた彼らの長い長い苦しみはこれからも続くのでしょうか?

明日(4月14日)パウエル長官とアラファト議長が会談します。


森沢典子

追伸


一緒にウエストバンクをまわったフランス人のクロードは、今もアラファト議長が軟禁されている場所で外国人30人ほどと共にイスラエル兵からの盾となり、議長と寝食を共にしています。

また私の話を聞いて、国連事務所の東間史帆さんがPNGOのような組織をずっと探していたとよろこんで下さって、二人でラマンラのオフィスに訪ねたのですが、今はさっそく日本からの視察ツアーを企画しています。

また、エルサレムに助っ人で飛んできた朝日新聞社の特派員の方たちにもPNGOの活動のことを史帆さんが伝え取材が入り、今週新聞で大きく取り上げられました。

さて、私自身ですが、今後どのような活動が可能か考えています。

再来週は母校の青山学院女子短期大学で学生さんにお話する機会をいただきました。児童文学者で恩師でもある清水真砂子さんがすぐに自分の授業を提供して下さったのです。私から話を聞くことを「贅沢なこと」と表現し、受け入れて下さったこと本当に感謝しています。

明日は、渋谷で10代〜20代の人たち中心でやっているピースウオークの中心メンバーと会います。

何かほかに方法や機会があったら、是非ご助言下さい。


森沢典子 <midi@par.odn.ne.jp>

――――――――――――――――――――――――――――――

以上、転送です。


……以上……

REV: 20160125
パレスチナ  ◇全文掲載
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