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名づけ

――ことばの不可能性を越えて――
森田 真弓 2002/03
大阪女子大学文学研究科社会人間学・修士論文より



目次

はじめに

1. ことば/意味
1―1. 齟齬
1―2. 他者
1―3. コミュニケーションの場における、関係の非対称性
1―4. ことばの意味/生の形

2. 名づけ
2―1. 知らないということ、知るということ
2―2. 経験の歴史性
2―2―1. 障害者解放運動
2―2―2. 経験の歴史性
2―3. 名づけ―ことばの不可能性を越えて―
2―3―1. 経験の地平―相対主義を超えて―
2―3―2. 経験を名づける
2―3―3. 名づけ―ことばの不可能性を越えて―

結語


「名づけ―ことばの不可能性を越えて―」1)

「…固有名詞の論理においては、まず無名の対象があり、そこに外から名前をはり
つけるのではなく、「名づけ」が存在そのものに息を吹込むのである。したがって、
名前を変えることは、たんに対象の外的なレッテルをつけかえることではなく、対象
そのものを根底から変身させることを意味するのである。」2)

0. はじめに

私たちが人間についての様々な問いを深めてゆこうとするとき、決して避けて通れ
ないのが私についての問いであり、私以外のものについての問いである。それらは西
洋哲学において、昔から考えつづけられてきた。今日なお、この私以外のものについ
ての問い、いわゆる「他者」についての問題は、現代思想の中心的テーマの一つであ
る3)。しかしそのような論壇の場から隔たれた実生活の場で、他者問題の核心に迫
り、他者問題を社会に認知させようとの実践運動を行なってきたのが、1970年代以降
における日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会を中心とした障害者解放
運動であった(以後本稿では「青い芝の会」と記す)。この障害者解放運動の問題提
起が、障害者の存在に気づかぬ健全者が負うべき他者問題であり、健全者の高みから
障害者問題を語ってきた健全者のポジショナリティの問題であることを暴いた運動で
あったことは、現代思想の場においてもすでに伝えられてきた4)。(私たちは一般
に健全者とは言わず、健常者ということばを使っている。しかし彼/女らは障害があ
るか/ないかというものの考え方によってではなく、ことばが人の心の内面に立ち入
ることによって己の良心に問いかけ、そこに健全者と対置された障害者という他なる
者の存在を浮き彫りにするために健全者ということばを使ったのだ。彼/女らは、健
全な身体を望む心をもつ人のことを健全者と呼んだ。それはたとえ脳性マヒ者であっ
ても、である。)ここでは「青い芝の会」による「他者」の問題提起を、もう少し細
かな別の視点で検証し、「他者」問題が「ことば」の問題とどのように関わっている
のかを考えてみたい。同時に、「ことばの不可能性」5)について指摘がなされてい
る現代思想において、その不可能性を包摂しつつ、その不可能性を越えた実例とし
て、「青い芝の会」が行なった「名づけ」の行為を検証し、「ことばの可能性」がも
つ意味を、確認しておきたい。

1.ことば/意味

1−1.齟齬

私たちが日常的に用いることばは、日本語を理解している人々にとって「共通の意
味」をもっていると、暗黙のうちに前提されている。日常的な会話では、ことばが重
層的な意味や多様なニュアンスをもっているということは気づかれても、意味の成立
基盤としての背景や、受け取り手の経験にもとづく大きな意味断絶までは、なかなか
気づきにくい。せいぜい、意味の違いは文脈の違いにおいて生じてくると考えるにと
どまっている。
しかしことばは、つねに共通の意味、しかも価値中立的な意味をもっているにすぎ
ないというわけではない。たとえば友人の幼子を預かっていて、「お母さんはもうじ
きにかえってくるよ」となぐさめたつもりが、忘れかけていた母親のことを思い出さ
せ、泣きじゃくらせてしまうことがある。その子にとって「お母さん」とは、片時も
離れて暮らすことのできないかけがえの無い唯一存在(世界)なのであり、世間一般
のお母さんや「OOちゃんのお母さん」(存在者)のことではない。私たちはしばし
ばそのことを、ことばを話す相手との関係において気づかされるのである。
同様に私はかつて「コスト」ということばで過ちを犯したことがある。それは遺伝
子診断や脳死・臓器移植など、先端医療の問題を語り合う市民フォーラムでの出来事
だった。

私が出席した「出生前診断」についての分科会で、「「出生前診断による選択的中
絶を否定すれば、社会的費用のかかる障害者が生まれることになり、社会的にコスト
(費用)がかかり、税金を支払っている大多数の人々にとっては不平等な事態だ」と
いう議論についてどう思いますか?」という生命倫理学者から発表者(障害者運動に
関わる障害児を持つ親と、技術主導型の現代医療に批判的な医療ジャーナリスト)へ
の質問が出た。それに対して二名の発表者は、社会的コストの議論に対して批判的な
意見を述べ、続いて一般参加者も発表者に添う発言を続けた。私もそのつもりで意見
を述べた。質問者に対して「先生は実際に、その社会的費用について調べられたので
しょうか?先生がいわゆる経済的コストを検証なさった上で議論を交わそうとなさる
のならともかく、大学の学者という発言に社会的責任を負う権威者が、そのコストを
検証しないまま、様々な場面で先の質問をすることは、あたかも障害者への社会的コ
スト(障害者のみにより多くの社会的コストがかけられていること)が検証された現
実の問題であるかのように理解され、コスト論が一人歩きしてしまう可能性がありま
す」と質問者に批判的な意見を述べた。ところがその場で憤慨されたのは、生命倫理
学者ではなく、体に障害をもつ司会者であった。「コスト、コストって、それ以上も
う言わないで。私はそんなことばをもう聞きたくもない」6)。

当初私は、自分の主旨が誤解されているのではないかと危惧した。しかし同時に、障
害をもつその人からの訴えに、私は何のことばも発せられないでいた。分科会が終わ
り、シンポジウムとなり、その司会者が分科会報告をされた。「当分科会ではコスト
についての議論が始まり、私は大変不愉快であった」。会場からは大きな拍手が沸き
上がった。この体験の後しばらくたっても、私は司会者との間に誤解があったのだと
考えていた。私が用いたコストということばを、司会者は私の意図とは裏腹に「この
社会の尺度たりえるものだ」という意味で用いたと勘違いされたのだろう、と思って
いた。加えて私はその司会者の「コストということばは聞きたくない」という訴えの
深さに気づかずにいた。

そのことの意味を真につきつけられたのは、次の文に出会ったときである。

「「言語ゲーム」ということばは、言語を話すということが、ある活動の一部分、
あるいは、ある生活形式の一部分であるということを、はっきりさせるのでなくては
ならない」7)。

私は「コスト」ということばを、たんに一つの日常用語だと考えていた。また、「コ
ストとはしかじかだ」という、「しかじか」があってはじめてその意味が明確に規定
されると考えていた。「コスト」ということばにひっかかりを感じながら生活せずに
はおれない体験を、私はもったたことがなかった。「コスト」ということばに、こと
ばそれ自体に内在する暴力性があろうなどとは考えもおよばなかった。それは私がこ
れまでに、私の生の形(歴史的・社会的・政治的・経済的…に、コストがかかるから
と、生をおびやかされることなくこれまで生きたこと)を生きてきたことに由来して
いた。つまりこのとき私が発した「コスト」ということばは、私の生の形から出てき
たことばだったのだ。その「コスト」ということばは、司会者が発する「コスト」と
いうことばとは意味が異なっていた。
しかし改めて考えてみると、「コスト」ということばの裏には、「コストは高いより
も安い方がよい」という暗黙の了解がこの社会には存在する。私たちはふつう、コス
ト(費用)の量によってこと(もの)の良し悪しを判断し、それを自明のこととして
いる。私たちはそういった合理主義的な経済社会に生きているのであり、この社会に
生きる多数の者(私と同じ生の形を生きる者)が、「コストは高いよりも安い方がよ
い」ということをほとんどど無意識のうちに内面化してしまっている。そして「コス
トは安いほうがよい」という暗黙の了解があることばを、私は無自覚に、ましてや暴
力的な意味をもつなどとは思いもおよばず用いていたのであった。
ではその司会者が、これまで「コスト」ということばから受けとってきた意味とは、
どのようなものであったと想像できるのだろうか。

「コストは高いよりも安いほうがよい」という考え方は一般的な考え方である。しか
しこの一般的な意識はそれにとどまらず、1970年代の地方行政で、「不幸な子どもの
生まれない運動」という、あからさまに差別的な「母子衛生施策」が実施されてい
た。例えば兵庫県衛生部は「不幸な子どもの生まれない対策室」を設置し、「社会の
負担の軽減」という意味においても、1972年にこの施策を実施した。その運動とは
「不幸な子どもが生まれないために」兵庫県が選択的中絶を「目的」とした胎児診断
(出生前診断、羊水検査のこと)の費用を負担したり、その「思想」を広報したりす
るものである。
また「社会の負担の軽減」とは、例えば次のようなことを指す。「不幸な条件を持っ
て生まれた人々は、本人は勿論家族の苦悩、そして社会の負担は、はかり知れない。
母子衛生は生まれたもののみを対象とするのではなく、国家社会の負担を減らし、個
人の責任にあらざる不幸を除くために、異常児の生まれない対策もやるべきである。
「不幸な子どもの生まれない施策」を推進する所以である」兵庫県衛生部長須川豊
(1962年)8)。

この問題については、改めて第二章で考察してゆくが、これはたんに行政の問題では
なく、国家の、そして個々人の問題でもあることを、「青い芝の会」を始めとする障
害者解放運動(いわゆる「健全者に対する異質な他者としての障害者の解放運動」―
これは「青い芝の会」を始め障害者解放運動を実践してきた人々が重んじる、基本的
な精神である―)を闘った人々が明らかにしてきたことなのだ。(周知のとおり日本
では1996年に「優生政策の批判的な総括を欠いたまま」優生保護法は母体保護法に改
正された)9)。

司会者をはじめ、市民フォーラムを企画した人々の中には、この1970年代の社会
に大きなインパクトを与えた障害者解放運動に関わってきた人々が多く参加されてい
る。そのような障害者解放運動の実践者にとっては、「社会的費用は自由―条件の平
等―のために不可欠なものであり、いやそれどころか社会性を営む全ての人間にとっ
て、社会的費用は不可欠なものであり、社会的費用をたんに量の問題として捉えるの
ではなく、質の問題として捉える必要がある」と考えていたのではないか。むしろ、
「コスト」を語る視座とはまったく別の視座が必要ではないか、ということであろ
う。いわば、視座の転換、パースペクティヴの転換が必要だというわけである。あか
らさまにあびせられる「コストがかかるから困る」といった言説はもちろんのこと、
「コストは高いよりも安いほうがよい」という内面化された概念が暴力となって、自
らの生をおびやかしかねない。顧みると、司会者が「コスト」という概念の暴力に、
これまでいかに対峙してきたかと想像することは難くないのである。

私が「コスト」ということばに内在されている暴力性を、認識できていなかったと
いうことは以上の通りである。しかも私が繰り返したもう一つの過ちは、「コスト」
ということばの暴力性に無自覚なまま、立場を異にした司会者に「共感」できると誤
認し、理解者として振る舞っていた点である。つまり私は「自らの発話の位置を顧み
ることなく、自文化中心主義に無自覚なまま」障害者差別的な言説を再生産していた
のである10)。

1―2.他者

その出来事を顧みるまでの私は、「効率性、生産性を良し」とし「非効率性、非生
産性を悪し」とする意味システムを前提とし、「コストは高いよりも安いほうがよ
い」ことが自明であるような社会に属してきた。それまで「コスト」ということばを
そのような意味に使うことで、コミュニケーションに支障をきたすことはなかった。
また私は「コスト」ということばによって自らの生をおびやかされることもなかっ
た。他方、立場を異にした司会者にとって「コスト」ということばは、自らの生をお
びやかしかねないことばであった。そのときの司会者の叫びは、正に私たちが共有す
る意味システムを前提としない思考ゆえであった。ここではじめて私は、私たちが共
有する意味システムが決して自明的なものではないことに気づいた。(ウィトゲン
シュタインの指摘とはそのようなものであろう。)そのとき私は司会者の叫びを聴い
た。そして司会者の叫びが私に届いたとき、私たちが共有する意味システムを前提と
する思考の外で、はじめて私が司会者に「出会った」と言えよう11)。司会者の叫
びを聴いた私は、はじめて自分が共有する意味システムの外側に向かい、そのことに
よって他者に出会ったのである。この出来事に出会うまで、私が「コスト」というこ
とばを話していた相手は、私と同じ意味システムを共有するものたちであった。その
ものたちは決して他者として現われてはこなかったのだ。

同じ意味システムを共有するものたちにおいては、コミュニケーションの相手は、
他者として現れては来ない。他者として現れてくるのは別の意味システムをもつもの
である。しかもこの場合思考の外で出会った私と他者は、たんに異なる二者なのでは
なく、二者は(無自覚であっても、もっと言えば無自覚ゆえに)「おびやかすもの」
と「痛みに耐えつつおびやかされるもの」という、非対称な関係をもつ。たんに異な
る二者があるのではなく、決して置き換えられることのない「おびやかすもの」と
「おびやかされるもの」の関係がそこには存在するのだ。この置き換え不可能性こそ
が非対称の特質のひとつなのである。それは決して多なるもののうちの二者(置き換
え可能な二者)ではない。次節以降、その関係の非対称性12)について考えてみた
い。

1−3.コミュニケーションの場における、関係の非対称性

「コスト」ということばをめぐって、前節では異なった意味システムをもつ二者の
非対称な関係が、「おびやかすもの」と「おびやかされるのも」であることを述べ
た。けれどはからずも第三節のタイトルで「場」ということばを用いたように、コ
ミュニケーションの「場」においてこそ、二者間の「空間的布置」―ポジショナリ
ティ―13)、つまり二者間の位置関係が鮮明に浮き彫りにされる。「コスト」とい
うことばを何の違和感もなく私が使用し、それがそのまま誰かに受け入れられる場合
において、私とその人はいつでも置き換え可能であり、その人はそのことばをいつで
も(私に)使用できる。私とその人との間に、鮮明に分かたれる位置関係は存在しな
い14)。私はその人の立場にもなりうるし、その人は私の立場にもなりうる。しか
し私と司会者の間では、そうはいかない。自らの生をおびやかしてきた「コスト」と
いうことばを、私が用いたと同じように、あたかもそんな暴力は存在しないかのよう
に語る私に向かって、司会者が「コスト」ということばを使用することはありえな
い。同時にこのことが浮き彫りにされたのは、「コスト」ということばを私が使い、
予測に反して司会者に糾弾されたときだった。つまりはからずも私と司会者の「空間
的布置」―ポジショナリティ―が明らかにされるのは、意図せず私が他者に出会った
ときなのである15)。それは決して「自らの生がおびやかされるもの」が他者に出
会うときではない。

1−4.ことばの意味/生の形

これまで二者の関係性について考えてきたが、ここで二者の関係性を浮き彫りにし
た「ことば」について考えてみたい。
私はこの出来事をきっかけに、もっと言えば「言語を話すということは、ある活動
の一部分、あるいは、ある生活形式の一部分である」という一文をあの出来事に照ら
し合わせて以来、ことばの意味とはいかなるものであるのかを、考えることとなっ
た。私の生きてきた形、すなわち資本主義国家日本の、大阪に生まれ大阪に育ち、中
産階級の子どもとして高度経済成長とともに成長し、様々な競争世界で生きた私に
とって、「コスト」ということばは「効率性や生産性を良しとする」意味システムを
前提とすることばでしかなかった。いやむしろそんなことすら考えてはいなかった。
私が「コスト」ということばを使うに当たり、その意味システムにまでさかのぼって
考えなかったのは、そこに意味システムがあることを知る必要も考える必要もなく生
きてこられたからである。その意味システムが自明であるとすら感じなかった。あた
りまえにそのことばを使えるほど(何の疑問ももたずにそのことばを使えるほど)、
私にとってその意味システムがあまりに自明的であったからだ。おそらく司会者らを
はじめとして、障害者解放運動を実践してきた人たちが市民との対話を持とうとシン
ポジウムが企画されたひとつには、その「自明性」をあばくことにあったのであろ
う。対話を通して生じる齟齬が、何に由来しているのか、それを考えるための対話で
あったのではないか。あのシンポジウムにおいて、大声で叫ばねばならなかった司会
者の生の形とはいかなるものであるのかという、ふだん私たちが忘れている、知ろう
ともしないその現実が暴かれるコミュニケーションの「場」であったのではないか。

「「それだからあなたは、何が正しく、何が誤っているかを決定するのは、人間の
一致だと言っているのだな。」―正しかったり、誤ったりするのは、人間の言ってい
ることだ。そして、言語において人間は一致するのだ。それは意見の一致ではなく、
生活形式の一致なのである。」16)

「コスト」というまさにそのことばにおいて、私は司会者とは一致しなかった。そ
れは意見が一致しなかったのではなく、私と司会者の生の形が一致しなかったのであ
る。ことばの意味とは、誰がどのような生を営んできたかという営みの上に形づくら
れるのであって、いわばその営みの形の数だけことばの意味が生じるのである。対話
をするということは、共に日本語を話すというある連続性の内に、けれど生の形の違
いによる小さなき裂が、ときに埋め難い断絶が、明らかにされる。ことばを発すると
いうことは、ときにそれは私が何者でありどのような生を営んできたのかを、容赦無
く私に突きつけてくる。と同時に、私の生の形は、そこでまたひとつ揺すぶられ、歪
み…、かたちを変える…のである17)。


2.名づけ

2−1.知らないということ、知るということ

数年前、障害者の医療問題についての聞き取り18)を行なうため、青い芝の会の
方々の介助を行なったことがある。私にとって青い芝の会の人々と一緒に時を共有す
るはじめての体験であった。
聞き取りを続ける中で、一人の女性障害者は、かつて施設に入ることと引き換え
に、女性障害者の生理中の介護負担を減らすためにとの理由で、一方的に生殖機能を
うばわれなければならなかった過去について、憤りをもって訴えられたことがある。
社会の一員として生まれ育ち、地域に生きるということについて疑う余地もなかった
私は、家族を慮って家族から離れ、施設で生きることを選ぶために奪われなければな
らなかった、ある障害者の大きな代償について知る由も無かった。またそういった事
態が長年続いた背景に、旧優生保護法第二章「優生手術」19)の存在があったが、
そのような法律についても私は全くの無知であった。

ある存在を知らないということは、知らないで生きてゆけることであり、それは単
に「知らなくても生きてゆくことができた」と「生きてゆく上で知らなければならな
かった」という二つの体験上の表層的な違いとしては語りきれない。実はそこには
「知らざるをえない」/「知らなくともよい」という経験における構造的断絶が存在
する。私はその経験における構造的断絶に無頓着でありすぎる。「知らなくても生き
てゆくことができた」ことと「生きてゆく上で知らなければならなかった」ことは、
はからずもひとつの世界に対置されたポジショナリティを浮き彫りにする。「知らな
くても生きてゆける」私は、実は「生きてゆく上で知らなければならなかった」人々
の体験の上にのっかって生きてきたのだ。そして私は、「知らざるをえない」側と
「知らなくともよい」側の経験を生む歴史についてもまた、無知なのである。

2―2.経験の歴史性

2―2―1 障害者解放運動

「青い芝の上を心身共に新たな気持ちで歩み続けたい」との願いから『あゆみ』と名
づけられた会報が発行されたのは、昭和40年11月1日(1965年)のことであった2
0)。神奈川で親睦団体として日本脳性マヒ者協会青い芝の会が発足して6年以上が
経過していた。障害児があるいは軽度障害者がまれに社会で注目をあびることがあっ
ても、それは一過性のことであり、障害者の存在はすぐに人々の心から忘れ去られて
いった。社会に無視され続ける何万人もの重度障害者の成人を中心に、彼/女らの存
在をこの社会に「啓蒙する目的」と、「仲間の親睦、社会的知識を深めるため」に、
「青い芝の会」の会員によって『あゆみ』が刊行された21)。「青い芝の会」の基
礎をつくった小山正義や、1968年に「青い芝の会」に参加し、1971年横塚晃一と映画
「さよならCP」に参加する横田弘は、かつて大仏空(おさらぎあきら)と共に身体
障害者コロニー「マハラバ村」(茨城県)で共同生活を営み独自の思想的実践を行っ
ていた。このことによって徐々に『あゆみ』の思想的色彩も彼/女らを中心として展
開してゆく。(その他に、矢田竜司や、マハラバ村の中心的存在でもあった「青い芝
の会」茨城支部の成田登江ら約三十名の人々がマハラバ村で共同生活を送っていた。
横田はマハラバ村参加の前、1959年に「青い芝の会」本部に入会している)。
横塚は『あゆみ』第9号(1970年)で「障害者運動とは障害者問題を通して「人間と
は何か」に迫ることつまり人類の歴史に参加することに他ならない」と述べている2
2)。

当初「青い芝の会」は横浜市立大学付属病院内に売店を経営したいという訴えを申請
することなど、官公庁へも働きかけを行ってはきたが、その運動がラディカルになる
のは、1970年横浜で起きた、重度障害児殺しの母親を支援する「減刑運動」がきっか
けであった。この事件の二年前には、重症心身障害児を持つ医師である父親が、自ら
の子どもを安楽殺人した。その無罪判決に対し、疑問をなげかけた文章が『あゆみ』
に掲載されたのは、1969年中村敏昭によるものである。その中で中村は無罪判決を喜
ぶ重症児を持つ母親らの声が判決を無罪に導いたのか、それとも政治不在の国家を裁
く判決なのかと疑問を呈している23)。会員の中でのこうした疑問が投げかけられ
た最中、1970年に横浜の母親による重症児殺人事件が起き、地元の地域社会を中心と
して、またやがて父母の会も加わって、母親への減刑運動が始まった。「青い芝の
会」による独自の運動が始動されるのは、この減刑運動に対する反対運動からであっ
た。

『あゆみ』第10号(1970年)の「CP児殺し減刑問題/殺される立場から!/我々
の存在を如何に受け止めるか」という特集号では、「青い芝の会」による意見書を掲
載するとともに、会員の疑問が集約された(CPとはCerebral Palsyの頭文字で、脳
性マヒと訳される)。「重症児を殺した母親にたいしては、世間は同情しその罪を軽
くしようとする運動をはじめるが、その消された重症児の生命については、世間は何
らかえりみようとはしない」。「障害児・者を一人の人権ある人間として見ていない
社会的風潮が、その障害児と母親をこの悲劇に追い込んだ…」24)。「減刑運動は
一般常識となっている。我々の立場はその常識に挑戦する形となる」25)。「障害
者の子どもが殺されるたびに社会で減刑運動がおこることが問題だ」26)。「「差
別以前の何かがある」…これをひと口に障害者(児)に対する差別といってよいのか
どうか、そう簡単には片づけられないものがあるように思う。これを説明するのに私
は適当な言葉を知らないが、差別意識というようななまやさしいもので片づけられな
い何かを感じたのである」27)。「「奥ににそむもの」、「(「自分は罪に問われ
てもいい、妹が一分でも先に死んでくれるのを望む…。若いお母様の気持ちがわか
る」という減刑反対運動を批判する発言を受けて―森田―)貴女は「罪に問われて
も」。とおっしゃる。ゴリッパな事だ。しかし、私はその言葉の陰に重度障害者を殺
しても罪に問われることはないのだ、あるいは、殺してもかまわないのだ、と言う確
信が有るのをみのがすわけにはいかない。…若い母親にムチを打ったのは一体だれな
んだ。…事件が起きてから減刑運動なんか始める。そして、それがあたかも良いこと
であるかの如くふるまう。なぜその前に母子が安らかな生活をおくれるような暖かい
理解がなされなかったのか。私達が問題としているのは、そうした社会の恐ろしいエ
ゴなのだ」28)。

翌『あゆみ』第11号(1970年)では、「青い芝の会」と「重症児を守る会」(い
わゆる重症児親の会)との話し合いをめぐっての小特集が組まれた。守る会から出た
ことば、「追いつめられる」に対して横塚は次のように分析する。「社会(重症児を
持つ家庭を精神的村八分にする)も親自身も障害児は本来有るべき姿ではないと思い
込まされており、医者だ、施設だと走り回った末に「それらが全て閉ざされていると
したら」絶望的になり、心中・殺害というところまで「追い込まれる」のである。こ
の働かざるもの人に非ずという既成の価値観、この棍棒によって「電車の踏みきりぎ
わまで…」おいつめられるのではあるまいか」。そして「「新しい価値観」を具象化
していく施設(?)を自らの力によりつくり出す方向で運動をすすめて戴きたい」と
結ぶのである29)。その号の表紙には、「青い芝の会」が障害者の解放を実現する
ために、自己とは何かを徹底的に追求し、健全者社会の痛烈な批判を行い、「青い芝
の会」が自立するための主張が掲載された。(その主張は後に「青い芝の会」の基本
主張である「行動網領」と名づけられる。下記参照)。それは彼/女らが「脳性マヒ
者」としての自己を自覚し、自己の存在を自認するすることによって、「自分が今の
社会にとって異質な「他者」でしかないということを、自分に対して確認すると同時
に、他人に対して確認させることから始め」る主張であり、思想的実践なのである3
0)。「私たちの強烈な「CP者エゴイズム」と「健全者エゴイズム」の激突の中か
ら自己確立を計ることこそ、私たちが解放へと近づける唯一の道であろう」と横田弘
が述べるとおり、この社会における脳性マヒ者と健全者の決定的な違いの主張31)
から、「青い芝の会」は脳性マヒ者としての自己の主張を展開するのである32)。

「われらかく行動する」33) (1970年10月25日)

一、 われらは自らが脳性マヒ者であることを自覚する。
一、 われらは強烈な自己主張を行う。
一、 われらは愛と正義を否定する。
一、 われらは問題解決の道を選ばない。

無論「青い芝の会」の主張がこれに限られるわけではないし、「青い芝の会」の主張
が決して一枚岩なのでもない。本稿はテーマである「青い芝の会」の名づけを論じる
あまり、ともすれば彼/女らの思想が揺るぎのない一枚岩の思想であるかの印象を与
えてしまうかもしれない。しかし実際に『あゆみ』では、思想的問題の追及よりも日
常の問題をもっととりあげてほしいという声が寄せられていたり、障害者の就労問題
で議論が対立したりしている。また『ころび草―脳性麻痺者のある共同生活の生成と
崩壊―』(1975年)では横田によってコロニー内での差別問題や女性の問題やあるい
は女性差別の問題が認識されている。ただそれらの声は、初期に「青い芝の会」の思
想として声高に叫ばれはしなかった(残念ながら本稿では「青い芝の会」神奈川県連
合会に関する出版物しか研究しえなかったため、茨城支部の成田の実践活動を知る手
だてはない。それを断った上で、たとえば「青い芝の会」神奈川県連合会婦人部初の
要請書が県の交渉に提出されたのは、1976年8月11日のことである)。

『あゆみ』第11号で、行動網領は次のように解説される34)。

第一のテーゼ;「われらは、現代社会にあって「本来在ってはならない存在」とされ
つつある自らの位置を確認し、そこに一切の運動の原点をおかねばならないと信じ、
且、行動する」。
第二のテーゼ;「われらがCP者である事を自覚したとき、そこに起きるのは自らを
守ろうとする意志である。われらは強烈な自己主張こそそれを成しうる唯一の路であ
ると信じ、且、行動する」。
第三のテーゼ;「われらは愛と正義の持つエゴイズムを鋭く告発し、それを否定する
ことによって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且、行動す
る」。
第四のテーゼ;「われらは安易に問題の解決を図ろうとすることがいかに危険な妥協
への出発であるか、身をもって知ってきた35)。われらは、次々と問題提起を行う
ことのみ我等の行いうる運動であると信じ、且、行動する」。

同時に、マハラバ村の介護者であり思想的師である健全者の大仏空の強靭な肉体と精
神を「怨み」、「絶望」し、「恐怖」を抱き、マハラバ村を離れた横田は、この第一
のテーゼは次のような「生身の体で獲得した」概念であることを述べる。「…脳性マ
ヒ者が生き抜く為に必要なことはこの世の仕組み一切に絶望し、その絶望の中から何
かを見出していくこと、これこそ最も必要な概念なのである」。「絶望して、絶望し
て、絶望しぬいた後であげる叫び、それこそが限りない命への賛歌であり、生きてい
ることの証しなのではないだろうか」と36)。またこの第一のテーゼは、横田らが
マハラバ村で共同生活を行っていたときの、マハラバ村「五戒」の一つである「一、
自殺すること(但し、未遂で終わること)」と同じ理念であることを、後述している
37)。

また第一のテーゼおよび第二のテーゼについて、横塚の静かなことばが重みを放つ。
横塚は横田の文章(「奥にひそむもの」前掲書『あゆみ』第10号)が「自分の障害の
上にあぐらをかき、ふんぞり返っている。その態度に腹がたつ」といった友に対して
次のように応答する。「横田氏が歩くことのできない重度障害者であることは紛れも
ない事実です。その事実に基づいて、彼は殺された重症児の中に自分と同じものをみ
つけ、自己主張をしたように私には読みとれます。それがどうしていけないのでしょ
う。…(世間的には―森田―)哀れな格好をしていれば納得するのです。逆に障害者
が胸を張れば腹が立つのです。貴君も紛れもないCPです。その貴君が腹を立てた理
由は、障害者は哀れな存在でなければならないという世間の固定観念を無意識のうち
に受け入れて、自分だけは哀れな存在となりたくない為に世間一般の側につこうとし
て、CPであることを忘れようと必死になっていたところへ、横田氏の胸をはった文
章が現れたからではないでしょうか。…自分の立場が主張できない者にどうして他人
の立場が解り、他人の苦労を察することができるでしょうか」38)。「私達障害者
の間でどうしたら理解して貰えるとか、そんなこと言ったら理解して貰えなくなると
かいう言葉をよく聞くのですが、これ程主体性のない生き方があるでしょうか。だい
たいこの世において四六時中理解してもらおうと思いながら生きている人がいるで
しょうか。小説家にしろ彫刻家あるいは絵かきにしろそれぞれの分野で自分の世界を
つくっております。それは理解してもらうというよりもその作品をもって己を世に問
う、あるいは強烈な自己主張をたたきつけるということではないでしょうか。私達脳
性マヒ者には、他の人にない独自のものがあることに気づかなければなりません。そ
して、その独自な考え方なりものの見方なりを集積してそこに私達の世界をつくり世
に問うことができたならば、これこそ本当の自己主張ではないでしょうか」39)。

あるいは第一のテーゼや第三のテーゼについて、大仏空は次のように述べる。「人間
はおのれの罪悪性(矛盾)に目をつむり気づかず気づこうとせず未来を語る。おのれ
の地獄を見きわめない正義ほどの罪悪はない。…二本足で歩き口でシャベリ手を使い
ながら人はCPに同情する。二本足で歩き口でシャベルことがCPをつくり出す根本
的原因なのに、そのことに目をつむり気づこうともせず、同情とか協力などと言う、
かくされた優越感の自己満足を反省もなしに“否”むしろよいことと称してやってい
る、これを過失的責任とよぶべきだろうか」40)。また「青い芝の会」大阪の長谷
川良夫は次のように述べる。「…「愛」とは、社会の秩序や正義を、国民を統制する
抽象的な言葉によって、結局は障害者やアウトサイダー的存在をはじきだす現実に対
する皮肉に満ちた表現」である、と41)。しかも「家族からの抑圧(「団欒の中に
入ることを望みながらそれを拒絶される悲しさ、これは脳性マヒ者なら誰でも持って
いる体験だ」―森田―)を「愛情」と受け止めさせられていた脳性マヒ者」にとっ
て、家族の「愛」や「正義」を問わずして「自己の解放」は為し得ないはずである4
2)。

さらに「問題解決の道を選ばない」のは、そもそも「問題解決」などありえない、
「問題解決」の道をゆかないのだ、と彼/女らは述べる。「多くの矛盾が同時に同列
並行的に解決するなどということはありえないのだ、すくなくとも人間のやること
は、一つの矛盾を解決するために二つの矛盾を生み出すかも知れない…」43)。
「我々がこのように、或いは特集号で掲げたような種々の問題提起をした場合、未だ
討議もされないうちに「じゃあどうすればいいのか」という言葉が返ってきます。…
「じゃあどうすればいいのか」という言葉は、真にどうすべきかということではな
く、我々の問題提起をはぐらかし、圧殺することが目的だからです。私はあの時、
我々の目的の第一は問題提起であると言いました。それは自己の立場をふんまえた現
状分析であり、社会と人間との分析であると思います。或いは最底辺からの、人間
各々の持つエゴイズムの暴露であり、人間的、社会的罪の告発ともいえるでしょう」
44)。なおこの第一から第四のテーゼの解説は、『あゆみ』基調報告に詳しく記さ
れている45)。

そしてその後彼らの運動は、1972年4月の第六十八国会に上程された「優生保護法改
正案」への反対運動へとさらに発展してゆく。「聞け!!地底の住人の叫びを!」で
始まる『あゆみ』第16号(1972年)では、この現代社会において「本来あってはなら
ない存在」とされる脳性マヒ者として、「優生保護法改正案」に断固反対する運動を
展開してゆく。彼らが最も強く反対したのは、改正案のいわゆる「胎児条項」に関す
るものであった。
「優生保護法の一部を改正する法律案要綱」で以下のように改正の要点が示されたも
のを、いわゆる「胎児条項」という。「「胎児が重度の精神又は身体の障害が原因と
なる疾病または欠陥を有しているおそれが著しいと認められるもの」という事由を人
工妊娠中絶の適応事由として加えること」(第十四条四項)46)。

横塚は「優生保護法と私」という論文で、優生保護法の論理とナチスドイツの優生思
想を交差させる見解を以下のように論じる。「…この抹殺する論理とその論理を法律
によって正当化する優生保護法改正案は、かってナチスドイツがユダヤ人大量虐殺と
ともに、誇り高きゲルマン民族の強化という大義名分のもとに(劣悪な子孫をなくす
ため)数十万の身障者、精薄者を殺したことと基本的にどこが違うのでしょうか」。
そして多くの人々は「権力の側つまり「不良な子」ときめつけ切り捨て抹殺する側に
無意識のうちに立っているから、或いは少なくとも自分は消される側ではないと思っ
ているから」人々は国家権力の行為に口をつぐのではないか、と47)。
横田もまた次のように訴える。「かつてナチス・ドイツが制定した「遺伝病的子孫増
殖防止に関する法律」成立のきっかけとなったのは、最重度で盲目のわが子の安楽死
をヒットラーに嘆願した父親の行動であり、わが国で障害者を社会から隔離しはじめ
た1965年の社会開発懇談会の巨大コロニー建設の答申を作る基となったのは、重度の
障害者を娘にもった作家、水上勉氏が当時の首相に宛てた一通の手紙であったこと
を、私たち脳性マヒ者はしっかりと確認しています。私達が街を歩くとき、周囲から
向けられる「目」、奇怪な、異なった生物でも見るような、不快そのものの、それこ
そ障害者を抑圧し、抹殺しようとする社会の在り方を助ける以外の何ものでもありは
しないのです。…障害者は「優生」「保護」の名のもとに長い間抑圧、抹殺の歴史を
繰り返されつづけています。…私達がいつも背後に感じている、あの異物を見る
「目」が消えない限り、脳性マヒ者の真の福祉はあり得ないのです。私達は、現在お
かれている「劣性」の立場を確認し、「優生」とは「劣性」とは一体何かということ
を世に問い続ける運動をこれからも繰り返して行くでしょう」48)。
同様に「不良な子孫」という思いは、「障害者」の親たちにさえ(あるいは親たちで
あるがゆえになお)断ち切れないということを、独自の視点で横田は描写し、親の愛
や常識を盾に、障害者の結婚、妊娠に反対する親(健全者)の「障害者」へのSEX
観について、次のように思考を深め健全者を批判する。「…私たちを「不良な子孫」
という規定から解放し得る段階に来たとしても、ただそれだけで「障害者」のSEX
が解放されるとは思えない。…親にしてみれば「障害者」が存在すること自体、自己
のSEX行為の結果であり、「障害者」を生んだ行為それ自体恥ずべき行為だった、
という日常的な想いが強いのである。従って、その恥ずべき原因である「障害者」が
もう一人の「障害者」とSEX行為を行うことは相関的に「恥」の数値が倍加される
結果となるのだ。親とすればこれは自分が「常識」の中に生きようとする限り許され
ないことだろう」と49)。

1973年4月22日、「青い芝の会」によって「優生保護法改悪反対集会」が集われた。
会の内部の意識変革を行い、行動宣言を行ってきた「青い芝の会」が、それに加えて
どのように他団体と交渉をもち、どのように内部、外部との討論を積み上げてきたの
かが「青い芝の会」の行動の記録に明示されている。
当日参加した「侵略=差別とたたかうアジア婦人会議」は「優生保護法改正(改
悪)」を次のように捉えている。「そして今回の改悪点の中の胎児が重度の精神又は
身体の原因となる疾病又は欠陥を有しているおそれが著しいと認められる場合にのみ
限って中絶を許可すると言うことは、いわゆる先天的に障害を持ったものはごく少数
であることを見るならば、国家独占資本の人間に対する価値観を女に押し付け、いわ
ゆる障害者の生まれる事をあたかも「悪」の様にそして恐ろしい事の様に法の強制力
によって人々に教え込む事、つまり女の身体を通して差別意識の拡大を図ろうとする
もの、その他の何ものでもないのではないでしょうか」50)。この女性団体が主張
する「差別をする」こととは、決して私が主体的に行う行為ではなく、国家が教育と
いう名の下に、女の身体を通して差別意識を拡大すること、である。こういう主張を
「青い芝の会」が認められないのは当然のことである。
「優生保護法改悪」反対運動をきっかけに、「青い芝の会」を中心とした障害者団体
と女性団体、あるいは労働者団体との間で議論が分かれ、激しい討論が積み重ねられ
た。この集会までに「青い芝の会」と議論を重ねた「川崎婦人の会」は、4月22日の
集会で次のように述べる。「まず、優生イデオロギー攻撃について語る場合、私たち
はまず自らが優生イデオロギーに侵され、被害者を差別抑圧して来たことをまずもっ
て自己批判しなければならないと思います。…五体満足な子どもを生みたいと思って
きた私達、私達はまず自らの内なる優生イデオロギーと対決することから始めなけれ
ばならないと思います。…この頃(昨年八月)(1972年8月―森田―)の川崎婦人会
議の問題の取り上げかたは、優生保護法改悪粉砕であり、優生保護法そのものの優生
イデオロギーと真っ向から対決すると言う視点に不充分だったのです。従って、川崎
駅頭でまいたビラは「青い芝」から、「健全者として今迄障害者を差別抑圧してきた
自己を反省する視点に欠けている」と指摘されたのでした」51)。

5月19日には「青い芝の会」は「青い芝の会」他支部や他団体と合同で厚生省(現厚
生労働省)で抗議の交渉を行った。また当時の政府・社会労働委員の各委員に「優生
保護法改正案」に対する見解を求めたり、いわゆる「胎児条項」についての質問状を
送付するなど、活発な反対運動を精力的に展開した。5月23日衆議院社会労働委員会
は、いわゆる「胎児条項」とされる第十四条四項を削除修正した後上程し、その後本
会議は「優生保護法改正法案」を廃案とした。承知のとおり「優生保護法」は世界各
国からの非難を受け、「優生」という文言を取り外し、現在では「母体保護法」に改
正されているが、現実には医療技術の産業化により、産科医療の一貫として、「個人
の自己決定」に基づく胎児診断はより一般的に行われるようになった(医療・産業・
行政・個人のねじれた結びつきにより、一見倫理的に問題のないように見せかけなが
ら、より巧妙に「内なる優生思想」が浸透し始めたといえる)52)。

しかしながら「青い芝の会」が果たした役割は、当時の法案を廃案にしただけではな
く、今日に至るまで社会、政治、学問に極めて大きい影響を与えた。

2―2―2. 経験の歴史性

ことばの意味が生の形から生じるように、出来事の意味もまた生の形(歴史的・社会
的・政治的・経済的…形)から生じる。ただ目の前の出来事を理解する私は、しかし
私の経験の歴史性からまぬがれない。私が生きてきた、私が体験してきた、私が理解
してきた様々な出来事(理解したとは言い難い、現在の記憶にさえ留まっていないも
のもあるだろう)を、縒り合わせるように解釈してきた私(私自身の歴史性)によっ
て、いまこの目の前の出来事を理解する。しかも「人間の自己理解は、たいていは、
「被解釈性」の中を動いている」、「つまり、自分の属している時代や社会の通念、
あるいは歴史性に伝承された通説の中を動いている」といわれるように、私の経験は
その意味でも、すでにある歴史性から逃れられない53)。私の経験さえ、すでにあ
る一定の世界観の上にのっかっているのだ54)。

そうであるならば、「重度障害児殺しの親の減刑運動」に携わった人たちの生の形
や、経験の歴史性は、「減刑運動」反対運動に携わった人たちの生の形や経験の歴史
性とは既にその時点で異なっているのである。
では第一章で考察したようにことばの使用すら異なった人々が、第二章で考察したよ
うに経験の歴史性さえ異なり生の形が異なった人々は、一体何を拠り所にして対話を
成立させるのというのか。何を拠り所にして理解をなすというのか。
しかしこれまでに紹介したとおり「青い芝の会」が社会に大きな影響を与えたという
ことは、「青い芝の会」が、そのことばの、その生の形の不一致を越えて健全者と対
話を為し得たということである。次節以降、その彼/女らの実践を読みとってゆきた
い。

2−3.名づけ―ことばの不可能性を越えて―55)

2―3―1. 経験の地平―相対主義を超えて―

「足」

私のまわりに集まっている大勢の人々
あなた方は、足を持っている
あなた方は、あなた方は、私が、あなた方は私が歩くことを禁ずることによってのみ
その足は確保されているのだ
大勢の人々よ
たくさんの足たちよ
あなた方、あなた方は何をもって、私が歩くことを禁ずるのか

横田弘、映画「さよならCP」(1971年)のワンシーンで、横田が新宿の歩行者天国
で行った「横田弘詩の朗読会」の中の詩。横断歩道を膝立ちで立って渡って、やっと
渡り終えて「ああ恐かった」と言う、その横田が、道路に座り込み、自分の周りを白
いチョークで囲み、「横田弘・詩」の空間を占拠することからこの「朗読会」は始
まった56)。

横田の、「障害者差別」を受けた彼の経験は、経験の歴史性を除いてみても、決して
彼独りで体験しえたものではない。(厳密な意味での物理的な現象を指すのではな
く)差別する者がいて、はじめて差別される者がある(存在する)。あるいは差別す
る世界があって、はじめて差別される者が生ずる。差別された者の差別の経験とは、
差別された者の経験であったとしても、それはたった独りでは成立しえない経験なの
だ。私たちが「経験する」ということは、この社会、この世界で経験するのだから。
例えば差別された者にとっては、その体験の只中に差別する者の存在がある。自分の
存在を脅かす者としての、差別するものの存在が、はっきりと自分の行く手を阻む。
しかしながら差別する者にとってみれば、差別されるものの存在は殆ど浮かび上がっ
てはこない。差別する者にとって、進みたい方向に進むことはたやすいことである。
差別する者は、差別される者が自分の行く手を阻むと感じることは殆どない。この一
見矛盾した、非対称な関係の中で「経験」は生み出されてゆく。差別の「経験」と
は、同時に差別する者の「経験」のことであり、差別される者の「経験」なのである
が、自覚される「経験」は、差別される者だけに、その総体が浮かび上がり、差別す
る者の「経験」の記憶は、対置された差別される者の「経験」が自分の行く手を阻む
存在として浮かび上がることはまれなのである。

「私はふと面白い事に気が付いた。それは、こちらが差し出すビラを黙ってポケット
につっ込んだり、「御苦労さん」。といいながら受け取る人よりも、烈しく私とビラ
を拒否する者たちに強い共感を覚えたのだ。それは、なぜか。烈しく私を拒否するこ
とで、彼はより深く私と係わり合う事になるのではないだろうか。或いは、私との係
わり合いを感じたればこそ彼は烈しく拒否したのかも知れない。私もまた拒否された
という形で(だからこそ)我々の存在というナイフをつきつけることが出来たのでは
あるまいか」57)。

経験の地平とは、このようなものであって、「差別の経験」とは、差別される者だけ
で、あるいは差別するものだけで、単独に成立するものではない。「差別の経験」と
は、差別される者と差別する者との総体であり、差別された人の経験と差別する人の
経験とは、表裏一体なのである。それは経験の地平におけるポジショナリティの問題
であり、経験の地平それ自体が、ポジションの鋭い断絶を内包している。

しかし一般に、私が他者の経験について「理解できる」と述べることの多くは、同じ
経験の地平における対置された体験を指すのではなく、同じような、けれど全く別の
経験の、たとえば「女性差別」を受けたことなど、自らの体験を想起することによっ
て、他者の体験―たとえば「障害者差別」―を想像することなどである。これでは
「障害者差別」を受けた人の経験の地平に立つとは言えない58)。
ポジショナリティの問題において同じ経験の地平に立つとは、決して自らの体験に寄
りかかることではない。同じ経験の地平に立つとは、自分の体験に寄りかかることな
く、彼/女と同じ経験に相対することであり、生の経験の地平における自―他の鋭い
対立(自―他のき裂)を自覚し、他者の体験を想起することなのである。たとえば私
が「障害者差別」の地平に立つとは、私が「障害者差別」を行う/「障害者差別」を
受ける体験を想起する(あるいは知る)こと、つまり「障害者差別」を行う/「障害
者差別」を受ける体験を想起する(知る)ことによってなのである。

経験の地平に立ち、自らの位置を知ることからしか、他者との経験の理解は始まら
ない。私がその経験の地平に立ち、き裂の彼方の他者性を自覚することによって、は
じめて他者との経験の理解へと踏み出せる。私は他者の体験を、そのままのありよう
で共有できはしないのだから。他者の経験を理解するということは、他者との経験の
地平に立つということ、経験の地平という連続性の上の、ポジションの断絶を自覚す
ることによるしかないのだ。私が「障害者差別」の地平に立つこと、それは私が彼/
女に行ってきたことが「障害者差別」であることを知らなかった、つまり「障害者差
別」を彼/女に行ってきたことに気づきもしなかった、すなわち「障害者差別」を彼
/女に行ってきた、その経験の地平に立つことなのである。

2―3―2. 経験を名づける

「ひとはたんにそれ自体としての事物に名前をつけるのではなく、その事物と人間と
のかかわりを不可分のまとまりとして、それに名前をつけるのである」59)。

「障害者差別」を行った者が、「障害者差別」を行っていることについて気
づきもしないでいられる社会であることが、何より「障害者差別」を生みだす源泉と
なっている。不条理で不当な差別を受け続けてきた者にとっては、「この不条理は何
ゆえなのか」という果てしない苦悶、葛藤があった。そしてその経験に基づく葛藤
は、前述のとおり(第2章第2節1及び第2節2)深い思想を生む。

「青い芝の会」が「差別以前の何か」、「奥にひそむもの」、の正体を見出すために
健全者集団(例えば「川崎婦人会議」)を糾弾し、交流を持ち、討論を重ねる中で発
見したものこそ、健全者の心に宿る「内なる優生イデオロギー」の存在であった。
このことばがはじめて『あゆみ』に登場するのは、「四月二十二日優生保護法改悪反
対集会」(1973年)での、「川崎婦人会議」の発表の中60)であるが、前述のとお
り(第2章第2節1)、健全者の「差別以前の心の内なる意識」を追訴し続けたの
は、まぎれもなく「青い芝の会」であった。「障害児殺し(子殺し)の親の減刑運
動」に対する反対運動や、「優生保護法」改悪反対運動の中で受けた差別の経験は、
「青い芝の会」によって健全者に告発された。この意味でもその経験を名づけたの
は、まぎれもなく「青い芝の会」であったのだ。

当時女性団体が主張した「産む産まないは女の権利」61)という、個人の自己決定
に基づく中絶の「権利」について「青い芝の会」が批判したことの根底には、次のよ
うな「内なる優生思想」の、人間の生との切り離し難さをあばこうとしたことがあっ
たのではないか。
胎児検査(出生前検査、主に羊水検査のこと)によって障害児を身ごもったことがわ
かったときの、女性の中絶の自己決定に対しての批判というよりも(あるいはそれ以
上に)、そういった行為を中絶の「自己決定(権)」と女が主張することにより、障
害者の存在を否定しようとする親(女)の、心の内なる優生思想によって、親(女)
の「子殺し(中絶という名の障害児殺し)」が隠匿されてしまうことを「青い芝の
会」は糾弾したのではあるまいか62)。

「自己決定」ということばがかもしだす、「自己決定」とは<何か>という意味の翳
で見えにくくされている、「心の内なる優生思想」とは<誰か>ということを、「青
い芝の会」は立ち現わしたのではないか。
この論述は次のように否定されるだろうか。そこで訴えられたのは、<何か>という
問題よりも、「女」<誰か>の「権利」である、と。しかしもう少し厳密に考察する
ならば、当時訴えられていたのは「国家」に対する、「女一般」の「権利」(「個
人」一般の「権利」)であったのではないか。当日の集会での女性団体(あるいは労
働者団体)の発言を見る限り、そこで告発されたのは、国家権力に対する女一般の権
利(あるいは労働者一般の権利)であり、それは<誰か>の問題ではなく<何か>の
問題であった。ここで問われたのは、存在の問題ではなく、認識の問題であったの
だ。
他方「青い芝の会」が女性団体に訴えたのは、「<この私>」の内にある、「心の内
なる優生思想」であった。「青い芝の会」が健全者の「差別以前の心の内なる意識」
を「内なる優生思想」と名づけたとき、それは「青い芝の会」が「この心の内なる優
生思想」とは「誰なのか」を問うたのである。

「…あるもの<こと>を固有名で呼ぶとき、われわれはそれは「誰か」と問うている
のであり、一般名で呼ぶとき、それは「何であるか」を問うているのである」6
3)。

別の言い方をすれば次のようなことである。「自己決定」ということばは、名詞形で
あるがゆえに解りづらい点があるが、「自己決定」は主に人が自分自身に対して下す
「決定」のことを指す。つまり誰かが「自己決定」をするというわけだ。このことば
から浮かび上がってくるものは一体何であろう。自己決定する/自己決定しない、自
己決定できる/自己決定できない、(ある人間―胎児―に関わる問題について)自己
決定する(側の人間)/(ある人間―胎児―に関わる問題について)自己決定される
(側の人間―胎児―)…。いやこの表記は正確ではない。本人は「自己決定」してい
ると思われることがらでも、本当はまわりの態度に動かされている場合もあろう。
「自己決定する/自己決定しない」…は、本来「自己決定する〜自己決定しない」
(連続性)…と表記すべきだろう。
その上で、「自己決定できない」ということは、「自己決定できる」ことのできなさ
であり、「自己決定できる」ということは、「自己決定できない」ことのなさであろ
う。「自己決定できる人」ということばから、「自己決定できる人」と「自己決定で
きない人」は同時に現前することはできない。「自己決定できる人」が現前すれば、
「自己決定できない人」が非現前し、「自己決定できない人」が現前すれは、「自己
決定できる人」が非現前されるからである。しかし「自己決定できる人」ということ
ばが内包しているのは、非現前化された「自己決定できない人」ということになる。
ところが改めて考えるならば、「自己決定できる」主体と「自己決定できることのな
い」主体は、自―他という、互いに置き換え不可能な主体の関係であり、それは
「図」と「地」のような置き換え可能な関係ではない。(「地」に知覚が集中すれ
ば、「図」は背地として後退するような関係、という意味において、置き換え可能で
あるということ。)
「個人の自己決定(権)」という近代のコトバの、「洗練」された言語の同質化と平
準化64)によって、近代人固有の共通な知識を得たかわりに、忘却され、隠された
「真理<アレーテイア>」(「隠蔽すること<ランタネイン>」ないし「忘却<レー
テー>」という語に否定ないし打ち消しを意味する接頭語「<ア>」を付け加えた、
「隠れなさ」のこと)65)とは、あるいは、権力がもつ「優生」「保護」という権
力のコトバの、隠された「真理<アレーテイア>」とは、実は「心の内なる優生思
想」という人間の生とは切り離し難いことがらであるということを、自らの生存権を
かけて生の闘いを生きる「青い芝の会」が、経験にもとづきそれを名づけることに
よって、「隠蔽や忘却の状態から取り出して」あらわにしたのだ66)。

「聞け!!!地底の住人の叫びを!」(1973年)では、「青い芝の会」によって健全者
が次のように告発されている。「われらは、現代社会にあって「本来あってはならな
い存在」とされるCP者として次の事を宣言する。…(この中略個所では国家権力が
告発される―森田―)われらはここに、そうした抹殺の論理に基づく、人間の尊厳を
無視した優生保護法改正案に断固反対すると共に、障害者が生まれる事を恐れ、とも
すれば障害者の存在を否定しようとする「親」に代表される「健全者」のエゴイズム
こそ国家権力の策動を助挙する以外のなにものでもない事を指摘し、これを告発、追
求して行く事をここに宣言する」67)。


「翔る矢」68)

そこには
いまも時おり
ぬめぬめ光る土まんじゅうが盛られ
夏草のしげみのあちこちに
小さい単色(ものくろむ)の塔婆が
ひそかに 建つ
まるで申し合わせたように
プラスチックのミニカーを傍らに

かって
そこには
執えることのできない畏れと
絶望的なためらいがあった
数えきれないほどの号泣があった
だから
透明な死児達は
だまって 橋の向こうの微笑みにむかい
草々も
ざわめきを鎮め
それを見守った

いま
ひそやかに陽の翳りが始まろうとするなかで
わたしは
足踏を消され
当たり前のことのようにためらいをプラスチック・ミニカーに変えられてしまった
哀れな死児達の告発の詩(うた)を
しっかりと執えなければならない

涯からの
重い雷鳴をはばむのは
私だけが放てる
火矢 なのだ

(子捨塚伝説に寄る)


健全者が考えようとも、まして気づこうともしない「障害者差別」を生むものの正体
を明らかにしたのは、「青い芝の会」が、数限りなく受け続けてきた「この私」の
「あの差別の経験」を「内なる優生思想」69)と名づけたことから始まった。ここ
にはじめて「差別以前の何か」、「奥にひそむもの」というものごとの存在を「青い
芝の会」は明らかにした。「青い芝の会」がそれを「内なる優生思想」と名づけたと
き、この社会に新たな視点、新たな世界観を開いた70)。名づけることは、同一の
「経験の地平」における二つの主体、つまり「名づける主体」と「名づけられる主
体」の関係を変容させ、彼/女らのあの経験に新しい関係を浮かび上げ、視座を転換
した71)。名づけは、「対象そのものを根底から変身させること」72)であり、
名づけは、存在の発見であり(「個人の自己決定という形で作動する優生学」がこの
私の心に宿っているということの発見)、名づけることは、ものごとの在り方に根拠
を与え、そしてそれを社会に立ち現わすことなのだ。しかもそのものごとは、たんに
現在の問題ではなく、歴史性を負った問題であるということも同時に明らかにするの
である。ことばそれ自体の「歴史性」を負って73)。

「青い芝の会」の名づけが世界観を変容させることができたのは、彼/女らの名づ
けが、決して健全者社会と交えることのなかった脳性マヒ者であるが故の、「この
私」という彼/女らの生きた経験から生まれたものであるからだ。それは経験から剥
離した名づけではない74)。また科学的認識のように「存在の外側から尺度をあて
はめ、存在を対象と属性に分解する」ような経験から剥離された名づけ(「レッテル
貼り」)でもない。経験から剥離した、「名づける主体」と「名づけられる主体」の
関係の不均衡な名づけの行為を、社会学の分野では「ラベリング」と語られているこ
とがこれにあてはめられる。しかしそれは決して単独性75)としての「この私」の
経験から生み出された名づけではない76)。

経験を名づけることは、ものごとの在り方に新たな根拠を与え、それを社会に立ち
現わすことなのである。また「この私」という「唯一性」(「単独性」)77)を備
え、自らの生存権をかけて障害者解放運動を行ってきた、生・存在としての「青い芝
の会」の名づけの行為は、「この私」に対する他者(「名づけられる主体」、つまり
「この私」に対する非対称な主体)が何者であるのかを明らかにするのである。「名
づける主体」と「名づけられる主体」のポジショナリティの関係を明らかにしながら
78)。

2―3―3 名づけ―ことばの不可能性を越えて―


「「本来あってはならない存在」として社会から無視されてきた」と訴え、自らの
生存権をかけて障害者解放運動を行い、他者問題(健全者問題)を社会に認知させよ
うとの実践運動を行ってきた「青い芝の会」の人々にとっては、この社会におけるこ
とばの不可能性を、誰よりも強く感じていたに違いない(強調は森田)。そのような
彼/女らであるからこそ、ことばの不可能性を包摂しつつも、厳しく冷たい健全者社
会の反応や対応に対し、自らをも突き詰めて、闘争的に訴え続けた。会報で、会合
で、意見書で、ときに限界を越え、思想を深める中で、新たな世界観を開いてきた。
「青い芝の会」が経験を名づけの実践として、ことばの不可能性を越えた実例とし
て、彼/女らの「行動網領」があり、「健全者」ということばがあり、「内なる優生
思想」ということばが存在するのだ。(「内なる優生思想」ということばは、すでに
一般名詞と化し、倫理学などでは術語としてしばしば用いられる。)もし私が、生の
形の違いを越えて、ことばの不可能性を越えて彼/女らとの理解の可能性があるとし
たら、対置された自らの位置から、私と彼/女らとが共に立つ経験の地平にあらため
て立ち返り、関係性が刻みつけられ、名づけ開かれた新たな世界の名前79)を、自
分自身のものとして心の底に深沈させて、ゆっくりとつぶやいてみること。と同時に
新たに開かれた世界に私も生きること、ではないか80)。


結語

生・存在の闘いを生きる「青い芝の会」を中心とした障害者解放運動の実践者らによ
る名づけの行為は、私たちがこれまで自明的だと思われてきたコミュニケーション空
間の、鋭いき裂あるいは断絶を明らかにし、他者の存在を明るみにした。またこの社
会に新たな視座の転換図り、新たな世界観を生みだした。
ことばは権力によって「表象機能」と「対象領域」を限りなく拡大してきたが、それ
と同時に、「権力あるいは力」に抗する力によって名づけられたことばは、拡大して
きたことばが隠蔽し、忘却したことがらをあらわにした。「青い芝の会」は、ことば
の「暴露」のはたらきを、障害者解放運動の只中で体現したのである。それは「主観
(共同主観的な主観―森田―)から出発した近代哲学」とは異なり、「私と他者との
差異(非対称性)」をうきぼりにした、「単独性」という意味での「この私」がつくり
だした哲学でもある81)。

障害者解放運動、それは力と力がぶつかりあう、生・障害者の自由への政治参加に他
ならない82)。


引用・参考文献一覧

(注:会報『あゆみ』に掲載された個々の筆者及び論文名は、本文脚注に記した。)

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  *本HP上の文章には注は掲載されていません。


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