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障害と道徳

―身体環境への配慮―

2001年度 修士論文
千葉大学文学研究科 人文科学専攻 (価値分析論)
田中紗織 00BM1028
2001年12月提出

last update: 20160125


もくじ

はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3

第1章  身体環境をめぐる規範と言葉
1.1  規範の問題 カンギレムの議論を中心に・・・・・・・・・・・・・5
1.2  言葉の問題 ニーチェとヴィトゲンシュタイン・・・・・・・・・・8

第2章 平等のために
2.1  平等論者の仕事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
2.2  ロールズの舞台装置をめぐって・・・・・・・・・・・・・・・・・13
2.3  センは誰を(何を)救おうとしていたのか?・・・・・・・・・・・24

第3章 「障害」の置き換えから見えること
3.1  個性への置き換え・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26
3.2 文化への置き換え・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
3-2-1 公的な配慮のあり方・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
3-2-2 未来を語るということ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30
3-2-3 「ろう文化宣言」をめぐる問題のひとつの解決・・・・・・・・・・34

第4章  所有・自由・機会  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・41
4.1  ロールズ以降の平等主義的正義論・・・・・・・・・・・・・・・・42
4.2 自由(能力)の所有と機会の均等・・・・・・・・・・・・・・・・・・43
4.3 「障害」のための「有利さへのアクセスの平等」と「潜在能力の平等」・48

第5章 身体環境の規範
5.1 知的な能力を測定するということ・・・・・・・・・・・・・・・・・56
5.2〈身体環境〉の実質的意味と課題・・・・・・・・・・・・・・・・・・59

最後に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・64
参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・66




はじめに

 これまで、「障害」をめぐる様々な問題は、医学、文化人類学、社会学、倫理学、福祉学と様々な分野から記述が試みられてきた。しかし、「障害」を(医学的/社会的に)規定する規範の側面と、「障害者」として規定されながら日常生活を送る人々の価値の側面との両方に目を配っている記述はかなり少ない。
 例をあげるなら、「障害」に対する倫理学的記述は、「障害者」として規定される人々を含んだ、社会のあらゆる人々に妥当する平等で、公正な規範は如何に構築されうるかという側面が強調されるあまり、わが国における障害者福祉政策の知見が欠落していて、実際どのような制度の下で「障害者」の生活が保障されているのか、そこにどんな問題があるのかについての言及はまったく見られない。現実的な問題に配慮せず、「ささえあい」が大事であるというような安易なヒューマニズムに傾倒しがちな日本の倫理学者の記述は、現実的な規範づくりに何の貢献もなしえないであろう。また、福祉学のなかでの「障害」についての記述は、「障害」の規定や法律の歴史的経緯と、現在の障害者を現在の法律の範囲内でどう処遇していくかについての方法論についてのものが多い。社会的に保障されるべき人々の特定と、優先性、経済的な効率とのバランス、優遇措置に対する保障する側の人々への正当化の問題などの視点は、経済学と倫理学に下駄を預けたままであり、実際に公的福祉の受給者の生活と密接な関連をもつ福祉学からの見解は、人間にどう向き合うかについての、向き合う側の技術論に偏りがちである。
 また、「障害者」として規定される人々の価値的側面については、「障害は個性である」とか「障害は文化である」といったような言明に注目して、その言明の真の意味を探る必要があると考えられる。生物医学的/社会的な「障害」の規定は、治療の対象として捉えられるか、物理的環境の整備への配慮という形になるか、あるいは福祉制度による保障の対象者として処遇されるかのどれかであり、そういった形での配慮のためだけに「障害者」としてラベリングされることを人びとが受容していくには、誇りある生活を送る上であまりに大きなリスクになってしまうことも理解しなければならない。
 「障害」という負の価値付けをすることで、その負の価値の程度に見合った配慮をしていくことが、平等で公正な社会のための福祉自由主義(リベラリズム)的発想である。本論では基本的にはこうした福祉自由主義(リバラリズム)的発想のもつ偏重性を否定しながら、すべての人に「あたりまえのこと」と感じられるような平等論を模索することを目的とする。そのためには、これまでの倫理学的、福祉的発想に限界があることを認め、新しい規範を構築していく可能性を探る必要があるだろう。「障害者」としての規定が、誇りあるあたりまえの生にとって「障害」になるということは、同情や哀れみのような周囲の見方が、身体環境に適した唯一の配慮ではないということを物語っている。異なる〈身体環境〉に配慮するということは、一つの〈身体環境〉に慣れてしまった者が想像するだけでは難しい。また安易なヒューマニズムは問題の所在をぼかしてしまうという点で百害あって一利なしである。〈身体環境〉が違うものどうしが一つの場を共有するためには、情報の受容の仕方や〈身体環境〉がもたらす新たな価値構造などに対する適切な知識が必要であり、また、技術的サポートや物理的・人的環境の整備が実現されていなければならない。そのような場のための新しい規範づくりが急務であると考えられる。本論は、この新しい規範づくりがなぜ必要か、そしてそうした新しい規範とはどういったものなのかについての考察である。




第1章 身体環境をめぐる規範と言葉

 1-1規範の問題
 
 十二歳になるある盲目の少年は、視覚の諸次元を次のように非常にうまく定義して見せる。「そこに見ている人たちはある未知の意味によって私と関係しているのですが、この意味は私を遠くからすっかり包み込み、わたしにまとわりつき、私をつらぬき、起床から就寝にいたるまで私をいわばその支配下におくのです」1
 
 目が見えるとか、耳が聞こえるとか、自由にからだを動かすことができるといったような身体の状態は、多くの人々の身体に共通する。多くの人々に共通する身体の状態は、多くの人々の日常的なことばづかいや生活形式をかたちづくる基盤となる。多くの人々が、自分たちが従っていることばづかいや生活形式のルールは自分たちの身体的な状態に依存しているということに自覚する必要もないくらいに、それが自明のものとされるときに、この十二歳の盲目の少年の言葉は、新鮮な響きをもって聞こえるのかもしれない。そして、この少年の言葉の新鮮さがまだ多くの人々の意識の中に留まるうちは「普通は」とか「一般的には」という前置きをつけておいてから、「人間というものは」という語りが始められることになるのであろう。
 私は、この「身体の状態が従ってきた生活形式などのルール」を〈身体環境の規範〉という言葉を使いながら、本論を進めていこうと考えている。〈身体環境〉2とは自分の体がこれまでどのような状態で身体外部の環境を認識したり、身体外部の環境に対して働きかけたりしてきたか、そのプロセスに光を当てるものである、とここで定義しておこう。また、〈規範〉という言葉を私が選んだのは、主にカンギレム(Georges Canguilhem1904-)の考え方に深い魅力を感じたからである。このカンギレムの着想は、本論全体を通して、私が依拠しているところのものでもあるので、以下で紹介することにしよう。
 フランスの哲学者カンギレムは、その著書『正常と病理』のなかで、19世紀の科学、なかでも医学の領域に焦点を当て、形式化・数式化に基づく実証主義的思考法が、実は日常的な規範概念に由来していることを明示した。「何がノーマル(規範的・標準的)か?」という問いに対する答えが、自分が共感できる程度の範囲に限界づけられる傾向が、医学という自然科学の領域でも顕在化しうるのである。カンギレムが始めに注目したのは、正常と病理を量的な連続性として捉える考え方である。脈拍や血糖値の正常値として一定の範囲内の数値が決められていることはこういった考え方の一つである。規範的・標準的なものとそこから逸脱したものを特定化しようという目的のために、量的連続性として数値化できる尺度を手段として用いるということは、その量的な違いを正常と病理の質的違いに結びつけることができるという前提があるからである。もともとは病人が発する様々な訴えから医学は始まっている。病人の身体的苦痛や、以前の生活ができなくなったことに対する不快感を医学的に位置づけるためには、ノーマルな状態がどういったものか実証する必要があった。ノーマルな状態とはその根底に「ある営みを滞りなく行えることをよしとする、特定の生活のあり方に即した規範」3をもっているために、その規範に則って、質的違いを量的違いに還元するという方法が生理学のなかで採用されてきたのである。カンギレムはこのようにして、科学史のなかで採用されてきた実証主義の根底にある生命の規範概念を明示し、「生命の規範は科学的に規定されるものではない」4とし、また、「人は正の価値も負の価値もない変種や差異だけしか客観的に記述することができない」5と結論付けた。そして「病理的なものとは生物学的規範の欠如ではなく、別の規範である」6として、正常と病理がそれぞれの規範をもつという新しい視点を持ち込んだのである。
 カンギレムの議論の中核となる「正常」と「病理」という概念は医学に携わる人々によって価値的な規範のもとに生み出されたものである、と改めて考え直すことがなければ、正常/病理あるいは正常/異常という客観的な事実が価値的な見方以前に、この世の中にあらかじめ存在していたかのように思われる。なぜなら、そういうことばづかいは、今日医学関係者以外の多くの人によっても共有されているからである。多くの人に共有されたことばづかいの中での概念は、それはあくまで価値的な規範概念の中にあるにも関わらず、事実として、また自然科学的な対象として存在しているとされるのである。
 価値的な概念を、事実として存在しているかのようにして、それを計算できるようにしようと考えた人たちが哲学史上に功利主義(utilitarianism)という、後にさまざまな論争を巻き起こす考え方を打ち出したことがあった。ベンサム(Jeremy Bentham 1748-1832)やミル(John Stuart Mill 1806-1873)は、人々の倫理的な行為を最も多くの人が最も大きな利益を得て(「最大多数の最大幸福」)いるかどうかという判断基準の下に評価しようとした。この考え方によると、一人の人間がいくつかの倫理的な行為の選択を迫られているとき、その他の人々の快楽や選好(好みや希望)を足し算していって、その総和が最大になるような行為を選択することが最も倫理的に正しいことになる。功利主義によると、援助交際をしている女子高生が「誰にも迷惑かけてないじゃないの!私は間違ったことをしていないわ」と主張しているとき、女子高生の両親がその事実を知ってがっかりしたり、失望したりしている場合には、その主張は道徳的に正当とされないことになる。しかし、両親やまわりの人がまったくその事実に対して無関心であるか、(あまり現実的ではないが)もろ手を挙げて喜んでいる場合には、前の場合と比べるといくらかその主張は正当とされることになる。
 このような功利主義的な考え方は、問題も多く、批判も哲学史上数多くなされてきた。しかし、カンギレムが拒否した正常/病理、正常/異常という概念の二分法的理解は、いくらそれが価値的な規範概念だといっても、血圧や血糖値などの正常値を定めるのに実際に使われているし、検査で異常を示す数値が見られたら、それらを正常値に戻すために、決められた量の薬が投与されることになる。これは、今日のわれわれの日常的な感覚として決しておかしな話ではない。幸福が計測可能だと考えた功利主義者たちは、その後多くの批判にさらされることになるのに、正常や異常が計測可能だと考えた生理学者たちは医学的な功績を称えられることになるのである。功利主義者のミルを批判したムーア(George Edward Moore 1873-1958)は、その後の哲学的議論において脚光を浴びることも多いのだが、それに比べて、生理学者のベルナール(Claude Bernard1813-1878)7を批判したカンギレムはあまり広く知られていない。8これは、「正常」や「病理」という価値的な概念が計測可能であるかのようなことばづかいと、実際にそのような計測によって、健康を取り戻すことができるという経験則の世界にわれわれが生きているからであるあろう。また、カンギレムが「正常」と「病理」を量的な差異ではなく、生命の規範の差異として捉えたことに対するわかりにくさは、私が定義した〈身体環境の規範〉そのもののわかりにくさにも通じているであろう。このわかりにくさの原因となっているのは、われわれの日常のことばづかいや経験則などによる規範の方が、〈身体環境〉や〈生命の規範〉などといったものよりもより強烈な支配力をもっているからではないだろうか。では、いったいこのことばづかいや経験則などの規範とはいかなるものなのか次節で検討していくことにしよう。


1-2 言葉の問題

 始めに、二人の哲学者が「言い尽くせなさ」という同じ一つの感覚について書いた文章を比べてみたい。
 
 嘆息。−私は、この洞察をば、その去りゆく途中にひっとらえ、それが二度と私から飛び去らぬように繋ぎとめるためとて、とり急いで思いつくままの拙い言葉を口走った。ところがそれは、これらの無味乾燥な言葉に触れて死んでしまい、言葉に引っ懸かってぶらさがりゆらゆらゆれている。−それを眺めると、どうして私が、この鳥を捕まえたときに、あんなにも幸福をおぼえたのか、もうほとほとわからなくなる。
 
 ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche 1844-1900)9

 凡庸な物書きは、あら削りで不正確な表現を正確な表現に、あまりにもすばやく置きかえてしまわないよう、用心すべきである。置きかえることによって、最初のひらめきが殺されてしまうからである。そのひらめきは、柄は小さくても、生きた草花ではあったのだ。ところが、正確さをえようとして、その草花は枯れてしまい、まったくなんの価値もなくなってしまう。いまやそれは肥だめのなかに投げこまれかねないわけだ。草花のままであったなら、いくらみすぼらしく小さなものであっても、何かの役には立っていたのに。
 
ヴィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein 1889-1951)10

 この二人にとって、「言い尽くせなさ」は共に大きな関心事であったのだが、これを二人は全く違う仕方で考えたことで、哲学史上に全く異なる功績を残したのである。
 ヴィトゲンシュタインは、言葉の網の目を「ゲーム」であるとしてこれを説明している。さまざまなゲーム(囲碁、将棋、トランプ、スポーツ)はそれぞれ全く違うルールをもっているにもかかわらず、「ゲーム」としての共通の特徴も多く見られる。これは、一つの家族の中で、父と妹の鼻は似ていて、妹と姉の目は似ていて、姉と母の顔の輪郭は似ていてというような微妙な類似性の重なり合いが「家族」として理解できることと同じであるとして、ヴィトゲンシュタインはこのことを「家族的類似性」11と呼んだ。つまりヴィトゲンシュタインは「ゲーム」は一つの家族であって、言葉のゲーム(「言語ゲーム」)はどこまでいってもこの「家族的類似性」の中にあり、その外に出ることはできないと考えたのである。「何がまだゲームの内であり、何がもうゲームに入らないか。きみにその境界線が引けるか。無理だ」12と彼は言う。つまり、「言い尽くせなさ」は言語ゲームという言葉の網の目で捉えられるものであり、このような言葉の規範性を離れた言葉は言うことができないだけではなく、言うべきでないとさえ彼は考えていたのである。先に引用した彼の文章は、言葉を発する前にあったかのような「ひらめき」はもう既に言葉の「家族的類似性」の内部にあり、それを別の言葉で言い換えたりしては価値が半減してしまう、ということを言っているのである。つまりヴィトゲンシュタインにとって、最初の「ひらめき」はもう既に言葉であり、これを最初の形のままにしておけるかどうかが肝心なことであったのだ。
 しかし、ニーチェは違っていた。言葉の手前にあった(であろう)ものの方にニーチェは圧倒的な重きを置いたのである。だからこそ、ニーチェは、歴史的・宗教的な潮流の末端にある道徳そのものを相対化するような視点をもつことができたのである。ニーチェ自身、病の齎す肉体的な痛みに苦しみ、最期には精神的な衰退を経験した本人であった。ニーチェは自分自身を「短気者・病人・狂人」になぞらえて既存の道徳の虚構を暴こうとしていた。13しかし、ニーチェは既存の道徳の相対化をおこなう自分自身は「健康そのもの」であるという認識を捨てることはなかった。つまり、多くの人々によって通用されている「健康な」道徳規範の中のことばづかいを、ニーチェはまったく信用していなかったのである。ニーチェは、病の内にある自分の〈身体環境〉がまったく他人とは相容れないものであることそのものが、自分自身の力で新しい言葉を創造していく源であると考えていたのではないだろうか。ニーチェはこう言う。「君の肉体にとってすら健康とは何を意味すべきかを、決定するのには、君の目標、君の視界、君の力量、君の衝動、君の錯誤とくに君の魂の理想や幻想が、極め手となるのだ。それゆえに数限りない肉体の健康がある。そして、われわれが「人間の平等」というドグマを忘れれば忘れるほど、それだけますますわれわれの医師たちは正常の養生とか病状の正常な経過とかいう概念もろともに正常の健康という概念もなくしてしまうに違いない。そうなってこそはじめて、魂の健康と病気について熟考し各人の固有の徳をそれぞれの健康の道につかせる時が恵まれるだろう。もちろんその道は、ある者にとって健康と思えるものでも、他の者には健康の反対と思われるかもしれないが。」14
 ニーチェの話す言葉は、その内容は新鮮な響きをもつものの、言葉そのものはヴィトゲンシュタインのいう「言語ゲーム」の内部に位置している。「短気者・病人・狂人」という言葉にニーチェが自分を照らし合わせることができたのも、ドイツ語を話す一つの言語共同体のなかで言葉を習得していたからである。そういう意味では、いくら「言い尽くせなさ」に重きをおいたところで、誰も言葉の持つ支配力から逃れることはできない。
 言葉のもつ支配力の根底に多数の人間の〈身体環境〉の隔たりのなさがあるとすれば、別の〈身体環境〉を生きる者はその言葉の支配力(言葉の規範性)に対して身をもって抵抗することが可能になるかもしれない。しかしこれは本当に可能なのだろうか。これまで、「障害者」として多くの人々がその可能性に懸けてきたかに思える。(これについては、第3章で詳しく述べる。)このような「障害者」を生きる現実と、「人間の平等」という「ドグマ」の内部にある倫理学的議論にみられる「障害」の記述は、もはや修復しえないような齟齬をきたしている。学者のような理論を立てる者は、一つの論理的な枠組みのなかで世界を捉え、記述していく。哲学史上に名を連ねてきた平等論者たちや、その流れを汲む現代の平等論者たちの責任は大きい。なぜならそのような平等論者たちはそれぞれの平等論の構築するときに、「障害」について記述してきたからである。これらの記述について、次章、第2章で検討していくことにしよう。




第2章 平等のために

2-1 平等論者の仕事

 ニーチェは「人間の平等」を「ドグマ」であると言ったが、社会が一つの国家という単位で貨幣と商品を流通させるスタイルを採用してきた以上、富んだ者と貧しい者の格差が広がることは社会問題として解決されるべき課題となるのは当然であり、その解決に向けて哲学や倫理学の分野で平等論が連綿と繋がれてきたのも不思議なことではない。社会正義によって実現されるべき平等がいかなる論立てになって人々の前に現われれば、多くの人を不平等から救えるのか、哲学者たちは論理的推論を働かせながら説得的な記述に努めてきた。ことのスケールが大きいだけに、平等論の構築には多くの人々を納得させるような理論上の工夫を凝らす必要があった。また、哲学史上の議論のなかで決定的な批判を受けてしまったような論理的な落とし穴に落ちてしまわないように気をつける必要があったし、その時代の現実問題ときちんと対応しているかどうかも重要なポイントであった。平等を実現するという目的が明確に設定されているからには、それぞれの平等論が目的を達成するための適切な手段になっていなければならなかったのである。このような手段としての平等論は、人々が普通に従っている道徳規範にあらかじめそなわっているように思わせる必要があったし、また、なぜそのような道徳的な行為を選択しなければならないか−Why be moral?−と切り返されたときの答えも用意しておかなければならなかった。このため、平等論者たちは仮想的な物語を創る、劇作家のような仕事をする必要があった。それさえ成功すれば、多くの人を納得させることができるからである。現代のある種の平等論者たちは、登場する想定上の「個人」や「統治者」や「国家」といったものを描く舞台装置を、抽象度の高いものにし、それぞれの関係についても「契約」、「権利」、あるいは「自由」といった抽象度の高い概念のうちのどれか(あるいは全部)を必ず使っている。登場人物がみんな能面を着けたように抽象的に描かれていることには、二つのねらいがあった。一つは、経済状況や社会的地位や生まれや性別などに関係なく、どんな人でも自由に「個人」に感情移入できるように、空間的な制約を除去するため。二つ目は、国家によって統治されている現在に生きているわれわれが、現在の国家による介入や恩恵(累進課税・教育・福祉など)を受けているのはなぜか、国家が成立する直前にまで溯ってその正当性を考えることができるように、時間的な制約を除去するため。これら二つのねらいを同時に脚本に盛り込んだ平等論者たちは、実はある政治的立場の擁護者であった。自由主義(リベラリズムliberalism15)である。リベラリストliberalistの平等論と対置しているのが共同体主義者(コミュニタリアンcommunitarians)のそれである。コミュニタリアンは、国家などの共同体の「伝統」を脚本に盛り込むというリベラリストとは別のねらいがあるために、特にリベラリストの一つ目のねらいを阻止しようとする。「個人」は何らかの属性をもってこそ「個人」として生きていけるのだと考えるコミュニタリアンから見れば、リベラリストが描く自由で自律的な「個人」は現実離れしている。このため、コミュニタリアンが描く舞台は、リベラリストのものより具体的に創られている。「伝統」というメッセージを観客に伝えるためには、登場人物たちが何らかの文化や宗教などの根っこをもっていることを伝える必要があるからだ。
 リベラリストとコミュニタリアンのそれぞれの舞台で私が本論で注目するのは、「障害者」がどう描かれているか、という問題である。脚本家が哲学者だからといって、あまり期待するのはいけない。政治的背景だけで浮かび上がる「障害者」は、「社会的弱者」の一つのモデルでしかないからだ。ここにも、平等を「ドグマ」と言ったニーチェの言葉は効いてくるのであるが、舞台を観る前の蘊蓄は咎められるべきものなので、まずは、リベラルな平等論者たちの舞台をめぐる論争から、次節でみていくことにしよう。


2-2 ロールズの舞台装置をめぐって

 ロールズ(John Rawls, 1921-)が描く社会は、よく秩序だっており、基本的な社会組織とその制度が一つの形にまとめられている社会である。その社会における個人は、自由で平等で責任ある道徳的人格であり、「社会的基本財(social primary goods)」なるものを有している。それはいったいどんな善いもの(goods)なのかというと、権利、自由、機会、収入や富、自尊心の社会的な基盤などである。このような善いもの(財)を携えた個人から構成されるよく秩序だった理想的社会は、以下のような正義の二原理を実現する社会である。
 
 【第1原理】各人は、基本的自由に対する平等の権利をもつべきである。その基本的自
 由は、他の人々の同様な自由と両立しうる限りにおいて、最大限広範囲に
 わたる自由でなければならない。
【第2原理】社会的・経済的不平等は、次の二条件を満たすものでなければならない。
 (一)それらの不平等が最も不遇な立場にある人の期待便益を最大化すること
 (二)公正な機会の均等という条件のもとで、すべての人に開かれている職務や
    地位に付随するものでしかないこと16

 正義原理のうちの一つにある、最も恵まれない人にとっての最大に期待される便益を測る指標として「社会的基本財」は使われる。また、個人はそれぞれ自由な人格であり、特定の関心を持ち続けることに必然的に縛られたりはしない。17個人は自分の自由を優先させるために、生きていく上での最終的な目標を自由に変更したり修正したりすることができるのである。18
 ロールズが代表作である『正義論』の4年後に出した「A Kantian Conception of Equality」19という論文の中に興味ぶかい記述がある。

 私はまた、全ての人々が正常な範囲内にある身体的ニーズと精神的能力をもっていると想定しているために、特別なヘルスケアの問題やthe mentally defectiveをどのように扱うかについての問題は生じない。正義論をこえたところへ我々をつれていくような困難な問題を早まって導入することに加えて、これらの困難なケースについて考えることは、しばしばそうした人の運命が同情と不安を引き起こすような、我々とかけ離れた人々について我々に考えさせようとすることで、我々の道徳的知覚(moral perception)を混乱させてしまう。しかるに正義についての第一の問題が関与しているのは次のような人々である。正常な道をたどる社会における十分に活動的な参加者であり、生まれてから死ぬまでに直接的あるいは間接的に結びついているような人々との関係に正義の問題が関与しているのである。

 ロールズは、正義の問題が関与しているのは、「正常な道をたどる社会における十分に活動的な参加者であり、生まれてから死ぬまでに直接的あるいは間接的に結びついているような人々」なのだと考えた。「生まれてから死ぬまでに直接的あるいは間接的に結びついているような人々」として、「特別なヘルスケア」が必要な人やthe mentally defectiveを捉えることができなかったロールズの健康観は、そのままロールズ的な「道徳的価値の中心」に位置づくことになり、そういった規範に基づいた健康な主体(規範的主体)から見える世界として、すべての価値構造が分析されることになる。「特別なヘルスケア」が必要な人やthe mentally defectiveは、ロールズ的道徳と平等の埒外におかれたわけである。一つの健康観に基づかない人々の存在は「道徳的知覚の混乱」をもたらすのである。一つの健康観とはその健康観をもつ人にとっては「あたりまえ」なのであり、「あたりまえ」だからこそ、それがある種の健康観だとしては相対化されえない。ある種の健康観だといってしまえば、道徳そのものも相対化されることになり、それは、ある一般的な構造をふまえて道徳について何かを主張する者にとっては、好ましくない事態なのである。健康であることは「あたりまえ」のことであり、その健康がどんな概念なのか、どんな規範に基づいているのかについてはいちいち考察するに及ばないことなのである。
 財の配分的正義(社会の財を個人に平等に配分するための正義)を実現するために、経済学者であり倫理学者でもあるセン(Amartya Kumar Sen 1933-)は、ロールズのいう「社会的基本財の平等」だけではこぼれ落ちる人々に注目して次のように述べている。

 ロールズの格差原理によると、彼が身体障害者だからという理由でより多くの所得を提供することも、より少ない所得をあてがうこともない。身体障害者が効用の面で不利な位置にあることは、格差原理にとって重要性をもっていない。これは過酷なことのように見えるかもしれないし、私は実際にそうだと思う。ロールズはこの点を正当化しようとして、「[身体障害者をどのように扱うべきかという]難しい事例はそうした人の運命が憐憫と不安をよび起こすわれわれとは隔たった人々のことを考えざるをえなくすることによって、われわれの道徳的知覚(our moral perception)を混乱させることになりうる」と書いている。それはロールズのいう通りかもしれない。が、難しい事例は現実に存在しているのだから、身体上の疾病、特別な治療のニーズや心身の欠陥といった事柄が、道徳的に重要な意義を有していないなどと見なしたり、間違いを恐れるあまりにそれらを考慮の外におくことは、必ず逆の意味で過ちを生じさせるに違いなかろう。

 ロールズが「社会的基本財」を指標として、理想的な平等社会を構築しようとしたのに対し、センは「基本的潜在能力(basic capabilities)」という新しい視点をもう一つの指標として提出する。「基本的潜在能力」とは「人がある基本的な事柄をなしうるということ」であるとして、センはまたその内容について次のように述べている。

 身障者の例では、身体を動かして移動する能力が関連しているのも一つだが、その他にもたとえば、栄養補給の必要量を摂取する能力、衣服を身にまとい雨風をしのぐための手段を入手する資力、さらに共同体の社会生活に参加する機能といった能力を含めることができる。21

 ロールズとセンの違いは、平等を適用させる範囲の違いである。ロールズがそれは自分が共感できるようなノーマルな範囲であるとしたのに対し、センは人間の多様性に注目し、それぞれの多様性の中で人がなしうる機能が平等に分配され、選択できる自由の幅が等しくなるようにするのが真の正義であるとして、ロールズのノーマルな範囲を拡張したのである。つまり、センは、なしうる潜在能力を平等にすべき指標として構成したことで、社会全体が平等の適用範囲になり、社会のすべての人々が社会正義の下に公正に扱われることが望ましいことと結論付けたのである。
 ロールズは国家によって公正な分配がなされているかどうか判断するために、基本財という指標をつくりだしたのであるが、ロールズが障害者の問題を後回しにしたことで、公正な分配を享受できる人々と、享受できない人々を生み出してしまった。ロールズの場合、公正さに限界があることで境界を生じさせているのだが、その限界づけは意図的なものではない。感情的な混乱を招くような対象として「そうした人の運命が不安や憐憫を引き起こす」ような人々をロールズは実際に見ていた。そして、そのような人々とロールズとでは明らかに距離があった。その間の境界によってロールズの考える道徳的な規範が及ぶ範囲が仕切られていたのである。境界の向こうにいる人々に対しては、ロールズはとりあえず留保した。この留保が正常/異常といったような二分法的な理解のもとになっている可能性は捨てきれないし、ロールズは一つの「われわれ」の健康観に縛られていたことも確かである。しかし、そのような健康観にもとづく道徳的な規範には外部があることをロールズは認めていた。センは、このロールズの見ていた外部を内部に取り込んだことによって、一国家が負う福祉的役割をさらに拡大させてみたのである。その際にセンは人々の自由に強調点をおき、それがどこまで達成されているかどうかに注目することで不平等を撤廃しようと考えた。センが、人々の自由を達成するための潜在能力を一元的な基準として用いることに対して、
 1「パターナリズム」
 2「潜在能力は政治的に扱うべき対象として適切でない可能性がある」
 3「強健主義」
といったような様々な問題が指摘されている。これらの問題について、以下で説明していくことにしよう。

1 センの考え方を現実のものにするためには、社会資源が公正に財配分されるように、(国家や地方自治体などの)共同体の一人一人の栄養状態や身体的な自由を数値化し、管理していく必要がある。センの理念は、福祉は「ささえあいが大事」と考える日本の倫理学者にはかなりの共感をよんでいるのであるが、彼らは自分の〈身体環境〉が国家によって経済的に管理されることが、(もっともニーチェが敏感であったような)管理する者とされる者との圧倒的な力関係の格差を生じさせてしまう可能性について、無自覚であるといえよう。ロールズ的「われわれ」の外側に置かれていた「障害者」がセンによって共同体の内部に積極的に組み込まれた後、セン的「われわれ」は、「われわれ」意識と国家という主体が何の矛盾もなく結びついてしまうとき、より公正な社会正義の主体として、権力の保持者として振舞うのである。その振る舞いは、「優しさ」とか「ささえあい」という言葉や、あるいは、「共生」や「平等」という言葉によって覆われてしまうため、問題はより無自覚に隠されたものになってしまう。この問題が、センに対して度々なされる批判の一つである、「パターナリズム」に陥る危険性が高いというものである。

2 また、センの理論では、国家は、不自由な者にはより適切な自由に到達するための措置をとらなければならない。センは、その適切な自由は文化によって違うものであるとしたものの、かなりのところまで数値化できて、他と比較できるものだと考えていた。22この自由度の値が低い者には、どれだけ自由が制限されているかを測定し、その測定値に基づいて財配分がなされるというしくみをセンは考えた。この時に、適切な自由というものが一つの人間の具体的な形態を指しているとしたら、そしてそれが政治的手段で達成されるべき形態であるとしたら、問題が生じてしまう。コースゴード(1993)は、このような人間本性と政治を貫く本質主義を体現している人物として、古典的功利主義者やアリストテレス主義者23、マルクス主義者を上げている。さらに、コースゴードによると、彼らはノン・リベラルであり、「善き生(good life)についての確かな概念を、[あらかじめ]設立されたもので、国家の強制力の行使を正当化しうるものであるとみなしている」24ために、リベラルな社会ではもはや彼らの主張は受け入れられないとしている。このため、もしセンが潜在能力を本質主義的に設定しているのなら、センの潜在能力は、政治的に扱うべき対象として適切でないということになる。

3 よき生(well-being)25や生活の質(quality of life)とは、どういうことなのか、また、何を平等にしたら、そこへ到達できるのかという問題(「Equality of what?」)をセンは一経済学者として真面目に考えていた。恵まれた立場(advantage)とは人と財との間の関係であるはずなのに、ロールズの社会的基本財の平等だけだと「物神崇拝」26的である上に「障害者」はなおざりにされてしまう。人々がみんな同じようであれば、平等の指標は基本財で充分かもしれないが、実際のところ、それぞれの健康状態や労働条件や気質といったものは多様であるために、一律の基本財だけでは平等は達成できない。27また、ミルに端を発する効用主義(welfarism)28の言う効用(utility)の平等だと単に人々が主観的にどれだけ満足しているかにしか目を向けられないために、例えば食べ物を食べてどれだけ栄養を採ることができたかではなく、「ああ、満腹」とか「なんて美味しいのだろう」という精神的反応を平等の指標と考えてしまう。これでは実質的な平等が達成されるとは考えられない。そこでセンが考え出したのが、基本的潜在能力の平等であった。人々が自由で自律的に選択して、それを積極的にすることができるためには、それが可能になるように環境を整備しなければならない。そういった人々の自由に注目することで、基本財でも効用でもカバーすることができなかった不平等に目を向けて対処することができる。
 センはこのように考えたのであるが、センの考えでは個々人ができないことを公の力でできるようにすることが道徳的に正しい行為だということになり、いくら「できること」が基本的なものであるとしても、それができない者は、何とかして「できるようになること」へいつも急かされているようで落ち着かない感じがするだろう。この問題に注目したのがコーエン(Cohen)であった。センが「よき生の中心的な特徴は価値ある機能を達成する能力である」とするのをコーエンは「強健主義(athleticism)」であると形容し、「それは善き生の自由と能動性の立場を高く評価し過ぎている」と説明している。29コーエンの示す例を挙げると、赤ちゃんはケーパビリティのようなものを考えなくても、回りの大人たちによって適切に保護されることですくすく育っていく。センは積極的自由と消極的自由の両方の意味で「自由」という言葉を使用しているので30、ケーパビリティという言葉の中に人間が「財から直接得られるような状態」と、「基本的なことを為しうること」とを含めてしまっている。このため、平等のための指標としてケーパビリティは適切ではないとコーエンは結論づける。31人間に内在する価値として自由を強く打ちだすことは、逆にいうと自由でなければ人間ではないと言っていることと同じことになるからである。

2-3 センは誰を(何を)救おうとしているのか?

 3のコーエンのセン批判に対するセン自身の応答があるのだが、このなかで、奇妙な箇所があるので引いておこう。

 自由の能動的な行使は人間の生活の質やよき生の達成のために当然価値あるものであろう。明らかにこの考察は、赤ちゃんのケース(あるいは知的障害者[原語ではmentally disabled]のケース)には直接関連性を持たないであろう。そのような人々は、分別ある選択の自由を行使する立場にはいない。32

何かこれはおかしくないだろうか。センには、ロールズが「障害者」の問題を後回しにしたことに対して疑問をもち、そこから持論を展開してきたという経緯がある。ロールズが「the mentally defective」という言葉で指していた人々をセンはどんな人々だと思っていたのだろうか。もしそれが、センの言う「mentally disabled」と同じ人々を指しているとしたら、センは、自分が不平等から救おうとした人々を、さらに自分の理論の外側に位置づけてしまうことになってしまう。センの主張のなかで擁護される人々として登場するのはいつも「身体障害者」33であることに注目したい。しかし、前節でも引用したセンがロールズを批判した箇所では、「難しい事例は現実に存在しているのだから、身体上の疾病34、特別な治療のニーズや心身の欠陥[原語では、disability, or special health need, or physical or mental defect,]といった事柄が、道徳的に重要な意義を有していないなどと見なしたり、間違いを恐れるあまりにそれらを考慮の外におくことは、必ず逆の意味で過ちを生じさせるに違いなかろう」とセンは述べており、「physical defect」と「mental defect」は区別されている。では、なぜセンは「mentally disabled」を自身の理論に積極的に組み込もうとしなかったのだろうか。この問いの答えを見つけるために、もう少しセンの理論を詳しく見ていくことにしよう。
 センが何を平等にしたら、人間のよき生は実現できるのかという問題を「何の平等か」という論文で発表したのは1980年であった。35そのとき初めてセンは平等の指標としてケーパビリティを打ち出したのであるが、その当時、ケーパビリティは具体的な様々な機能とはっきり区別されていなかった。そのため、なにかを為遂げられた結果生じる成果が平等の指標として捉えられることになり、これでは、センが注目した人間の「自由」が成果のための手段でしかなくなってしまう。例えば、ある人が食事をするという機能を達成することで、栄養を摂取するという成果が得られるとする。その時、食事をするという機能がその人のケーパビリティとまったく同一のものであるとしたら、その人が「よし、食べよう」という意志をもって食べている状態と、その人が病気で意志とは無関係に点滴で栄養を採っている状態とは、区別されなくなる。食事をするという機能の達成が、栄養を採るという成果を生むためには、人の自由などはまったく補助的な役割しか担っていないことになる。しかし、センは人の自由そのものに独自の価値を内在させようとしていた。そうしなければ、ロールズ的な基本財とミル的な効用を批判し、ケーパビリティという指標を打ち出したことが、単なる両者の折衷案の提出でしかなくなるからだ。センはコーエンへの応答のなかで、「コーエンのミッドフェアの分析でさえ、私は、選択を含んだことばづかいの中にミッドフェアを理解するために考慮されなければならなかったような余地を考えるべきであったと思う」36と述べている。「選択を含んだことばづかい」というのは、センの挙げる例を使って説明すると以下のようになる。断食をしている金持ちと飢えている貧乏人の状況は、ともに、食べ物の不足(財の不足)から空腹に耐えている(効用の低減)という一連の図式で描けることになる。しかし、「xをすることとxを選んですることとが区別されている」37としたら、断食は選択する自由があったが、飢えは選択する自由はなかったと言うことができる。このようにしてセンは、もう一度、自由を前面に打ち出した「洗練されたやり方」38で機能を特徴付けたのである。

 我々は単に「よき生の達成」を調べるだけでなく、「よき生の自由」を調べることに関心をもつであろう。一人の人間の生きる自由や善くある自由は人格の評価と同様、ある社会的評価の対象である。我々が現在議論されるであろう観点(よき生の達成は機能の達成にだけ依存しているという観点)をとるべきだとしても、人間の「よき生の自由」は、ケーパビリティ・セットの異なるn個の機能の集合からなる様々な可能なよき生を享受するための自由を表しているのである。39

 このようにしてセンは、要素的な機能とその集合からなるケーパビリティ・セットという形で、機能とケーパビリティの二つを区別することで、人間の「自由」を救おうとしていたのである。
 このことにはまだまだ理論上の問題点も多く、セン自身もそれは認めている。40しかし、私が本節で注目したいのはそういった問題よりも、センが「自由」を救おうとしたために、もう一度理論の外側に位置づけられることになった人々についてである。これでは、ロールズが「the mental defective」という言葉で指した人々を困難な事例としてロールズの正義論の枠から退けたのと何ら変わりはなくなる。仮にセンが人間のよき生にとって「自由」こそがその本質的な価値であると考えていたならば、前節で紹介した、センに向けられた3つの批判は、すべてこのアリストテレス的な本質主義がもつ限界を突いているといえるだろう。そもそもその本質的な価値である「自由」を内在しないような人間は、センの道徳言語からいとも簡単に排斥されてしまうのである。それにもかかわらず、センの主張をこれからの社会福祉に応用することは可能であると、岩崎晋也は考えている。

〔自由を行使する資格について〕改めて考えなければならないのは以下の点である。第一にセンが自由という要素を重視したのは、個々人の福祉(well-being)の構成要素として重要であると考えたからであり、その重要性は、選択する能力に制限のある児童や障害者であっても変わりはないという点である。そして第二に、仮に選択する能力に制限がないとしても、その選択行為や結果に対する責任を完全に個人の単独事項と見なすことはできないのではないかという点である。たとえば、尊厳死、堕胎、臓器提供といった問題について、現代社会は個人の単独事項として全面的な自由を認めていない。…(中略)…もし選択を単に個々人の単独行為と見るのではなく、決定の過程に関わる他者の存在性を前提とした、相互関係性の中の行為として捉え直すことができれば、その結果に対する帰責性の問題も、そこに応じて再考されなければならないだろう。こうした検討を通して、センの提起した「潜在能力」アプローチをさらに深化させ、児童・障害者・老人も含めて多様な環境・個体条件にある個を、同一のアプローチで理解することが可能になれば、社会福祉における自由・平等・公正といった問題を検討する際に、有力な視点−人間観になりうると考える。41

 岩崎のいう「多様な環境・個体条件にある個を、同一のアプローチで理解すること」とは、つまり、センの潜在能力という物差しをどんな〈身体環境〉にある個人にも同様にあてて見るということである。そしてその結果はじきだされた数値によって、公正な財の分配をしようというのがセンの考えであった。その再配分された財で個々人は生活をするである。例えば日本でセンの考え通りの福祉制度が確立したとしよう。何らかの先天的な「障害」のために、基本的な潜在能力に欠けると判断された者は、(本当にセンの思い描くままの社会であれば)福祉事務所の担当者に「いやいや、自由といっても個々人のよき生の一つの構成要素にすぎないのですから、自由を人間の本質的な価値であるなんて誰も考えませんよ」と言われながら、自分の自由の欠如の度合いに見合った手当を受け取るのことになるのである。はたしてそうした福祉受給者は、自分の自由の欠如(と公的に見なされた要素)を自分の人格の一部であると考え、それは些細なことであると考えるだろうか。社会のほとんどすべての人が自由であることはすばらしいことだという言葉づかいをしている中で、本当に心からこの担当者の言葉を信じることができるのだろうか。私にはとてもそうは思えない。そもそも現実の社会でこの担当者のような言葉が発せられるとも思えない。現代のリベラルな平等論者の一人である、ネーゲル(Nagel)はこの点について次のように述べている。

生まれつきの特徴に対して社会的不利益を系統的に付与することの心理学的帰結は、次のようなものである。つまり、そうした特徴の所有者もそれ以外の人々も、その特徴が本質的かつ重要な特性であって、その所有者に与えられる評価を減少させるものである、と見なし始めるということである。42

 自由はよき生の単なる構成要素であると本気でセンが考えていたとして、自由であるための能力や才能を現にたくさんもっている者が、それをもつに値するとは限らないということができたとする。しかし、そうだとしても、自由であるための基本的潜在能力が欠如しているとみなされた者は、その欠如部分を補償されるに値すると社会的合意によってみなされなければならないのである。つまり、自由を与える側の最初の論理がいかなるものであれ、それが制度の中に組み込まれてしまえば、自由を受け取る側も与える側も、自由の欠如を人格の重要な本質規定として考えざるをえなくなるのである。センの平等論が子どもや知的障害者にまで拡張可能だと言うことは簡単である。しかし、それは本質主義を受け入れなければ不可能なことなのである。

 2-3 言い尽くしがたい存在の始まり

 平等主義者による普遍化の手続きによって排斥される人々は、一体誰に向かってどのような言葉を語るのだろうか。普遍化された道徳言語という一つの言語ゲームからはじき出された者が立ち戻る場所いったいどこにあるのだろうか。病が隠喩として語られる現象を社会的な現象として記述したソンタグは「社会的・道徳的に間違っていると感じられることを表す隠喩として最も幅広い可能性を有するのは、さまざまの原因をもつ(つまり、神秘的)と考えられる病気である」43と述べている。では「障害」はどうか。普遍化された道徳言語からある種の「障害」が排斥されるということは(病についてソンタグのいうように)道徳的な悪と同一視されることとは限らない。それは、ロールズやセンに見てきたように、普遍化された道徳言語の限界であり、言い尽くしがたい存在の始まりなのである。
 このときニーチェなら、自らの存在に、正の価値を見出すために、自らの〈身体環境〉そのものに内在するものとしての正の価値を創造するために、それと対照的な価値を絶対悪として貶めるであろう。普遍化された道徳言語のなかでは、そこでの中心的な価値から最も遠いところに、排斥されるべき〈身体環境〉が位置しているのである。ニーチェなら、自らの〈身体環境の規範〉に正の価値を生み出すために、価値の転倒を図り、この普遍化された道徳言語のなかの中心的な価値を貶めるという荒業をやってのけるだろう。しかし、ヴィトゲンシュタインならどうだろうか。言語ゲームから出ることはできない存在者として自らを位置づけるやり方は、実はある種、馴染み深いやり方でもある。様々な「障害」をもつ人々の多くは、自分の「障害」が日常と切り離しがたく繋がっていながら、他者からの非日常的な視線にさらされることを経験する。この日常感覚のずれを同じ道徳言語の内部で語れるようにするためには、「障害」という言葉を様々な言葉に置き換えながら、既存の道徳言語に組み込む必要がある。
 次章では、これらのことについてもう少し詳しくみていくことにしよう。




第3章 「障害」の置き換えから見えること

3-1 個性への置き換え

 社会的レベルで語られる(この意味で当事者とは幾分距離がある)障害論をめぐって、「障害=個性」という考え方に対して、教育学者である茂木俊彦は批判的見解を示している。個性という概念について、茂木は次のように述べている。

個性という概念は社会構造を含めた他者による肯定的価値としての承認といった他者規定が与えられて(それが「自己」規定と合致する場合も含まれるが)はじめて成立する。(中略)これに対して「障害」はそれをもつ人の生活の殆どすべての時と場面で種々の形態と程度において行動等を制約する条件となる(負の影響を及ぼす)属性であり、その制約は意識の上でいかに軽く位置づけてみたところで軽減したり解消したりする者ではない。障害者はそれゆえにこそ健常者にはない特別なニーズをもつのであり、その充足の方策の提供を社会に向かって要求する権利を持つのである。44

 「障害=個性」という考え方は、他者の属性を「障害」として捉えるとどうしても距離ができ、身構えてしまうが、だれにでもある「個性」としてそれを捉えることで、互いに平等であるという観念が導き出せるというものであろう。しかしこの考え方を障害者に対する政策のなかで語ることは(実際この考え方は、総理府が出版している『平成7年度版・障害者白書』のなかで使われている)、障害者の保証されるべき種々の権利を侵害し、障害者に対する政策には税金を投与する必要はないという政治的な側面があるとして、茂木は懸念しているのである。「障害」が「障害」である以上、それは負の価値の属性である。そしてそれが負の価値の属性である以上、それを補償するべき手だてが必要であり、その手当を要求するような権利を障害者はもっているのだ、というのが茂木の考え方である。
 これと同じような議論は障害児に対する教育の中でもしばしばなされることがある。石川憲彦は医師という立場から、茂木とは対照的に、発達保障という考え方がもつ危険性について述べている。
 「障害児」に対する教育には、大雑把に言って二通りの考え方がある。普通学校での共育論と、特殊学校での発達保障論である。普通学校での公教育は適応主義的な教育であるとして、子どもの発達を保障するべく療育という、教育と医学的な考え方に基づいたやり方でやっていきましょうというのが、発達保障論の考え方である。その療育に基づいた発達保障論が、普通教育にも反映されるべきものだとして導入されるとき、子どもの生活さえも、医学的な観念を盾に管理する可能性が出てくる。その発達保障による管理は、適応主義的な教育による管理よりもさらに厳しいものであるのに、「なぜか障害児に対して語られると美しくさえ聞こえてしまう」45と石川は言う。さらに、文字どおり、まず一緒に教育することを主張してきた共育論(反発達論)が発達保障論に対して弱い部分というのは、「適応主義的な教育の中に共育を見出せないが故に、共育以外の専門分野の可能性に共育の論理を見出そうとするところから生じている」46のであるという。
 これらは政治的な背景で、「障害」が個性として置き換えられて考えられることの功罪であり、教育者や医師は常にこういった語り方の政治性に敏感であろうとするのは、人間に対する直接的な実行力をもつ者として当然の姿勢であろう。しかし、もう少し日常的な場面に移して、「障害」の個性への置き換えを見ることも可能である。
 前章の2-3で私は、「普遍化された道徳言語からある種の「障害」が排斥されるということは(病についてソンタグのいうように)道徳的な悪と同一視されることではない。それは、ロールズやセンに見てきたように、普遍化された道徳言語の限界であり、言い尽くしがたい存在の始まりなのである。」と述べた。この手持ちのボキャブラリーでは言い尽くしがたい存在者に対峙した者の身構えは、その相手の存在者にとっては簡単に察知できるものであるとしたら、その「彼」に「私の障害は個性として考えてもらって結構です」と語らせているのは、この「私」の身構え以外の何であろうか。もし「彼」がこのように語らなかった(あるいは知的障害のために語れなかった)として、「私」の方で「障害は個性である」という観念が頭にあったとしたら、どれだけ「私」の身構えは楽になるだろうか。身構えてしまったら、自然と他者と必要以上の距離ができてしまう。しかし、その「彼」が「私」にとって負の価値の属性(例えば自由の欠如)を担っているとしたら、この距離は差別的な距離と取られかねない。この距離をごまかすには、沈黙するか、または、自己のうちに何らかの立場を表明しつつ関係を繋げるしかない。我々は成長するにつれ、他者に対してそれぞれの顔をもつようになってきた。例えば女性として、妻として、母としてなどといった顔である。それぞれの顔はその場で向きあう他者に対して、担うべき役割でもある。しかし、圧倒的に異質な他者に対しては、どんな顔をしていいのだろうか。何とかその不自然な顔をごまかすためには、先に頭で適切な対応の仕方を理解しておかなければならない。茂木は「障害=個性」論に対して、観念さえ変わればすべての問題は解決するかのように説いていて、まったく意義もなく有害であるとさえ述べていた。47しかし、観念の変換がどうして必要とされたのかについて考えてみると、異質な他者に対しても身構えずに自然な顔をしたいという人々の欲求があるからではないだろうか。人々は、正義論や平等論の限界について既に知っているのである。言い尽くしがたい存在者としての異質な他者に既に会っているし、その時の自分の不自然な顔も知っているのである。(ロールズがこれを道徳的知覚の混乱と呼んだように。)この身構えをごまかすために、政治的手段を行使することに対する欺瞞は、確かに存在する。しかし、「われわれ」の道徳言語のなかで、言い尽くしがたい存在者である異質な他者をなおも語ろうとするなら、「彼らには彼らの世界観があり価値があるのです」といって相対主義に徹することは不可能である。「障害」が「個性」と置き換えられて考えられることの功罪は、すでに「われわれ」の道徳言語のなかで語りうる話のなかで存在しているし、そうでしかありえなだろう。
 現にあることばづかいのなかで、「障害」が価値中立的な「個性」として捉えられるということは、ロールズの「道徳的知覚の混乱」が起こらないことを未然に防ぐための「われわれ」の策といえるのかもしれない。


3-2  文化への置き換え

3-2-1 公的な配慮のあり方

 前節では、「障害」が「個性」に置き換えられて考えられることそのものが一つの「われわれ」の道徳言語の内側の話であることを見てきた。では、「障害」が文化に置き換えられる考え方はどうか。「障害」を文化として捉えると、相対主義に陥らないような価値の多元化が実現できるのだろうか。「障害」を文化として捉える考え方を紹介する前に、ヘルスケアや社会的サービスに関する、文化的な要因への配慮についてHoward Tarnoffの報告48をみていくことにしよう。Tarnoffは文化を、人類学者であるMargaret Meadに従って、次のように定義している。

文化とは、その社会の構成員となる子どもたちや移民の大人たち全体に同じ伝統を伝える人々の振る舞いから学び取られた身体からの抽象物である。この定義は、「文化」という言葉が歴史的に適用されてきたような、技術や科学、宗教や哲学だけでなく、テクノロジーや政治的実践のシステムや小さな個人的な日常の習慣までもを含む。49

 Tarnoffによると、アメリカで一年間に医師を訪れる割合を一人当たり見積もると、平均して白人で5.6回、黒人で3.7回、東洋人は1.0回になるという。このため、白人のマジョリティ集団に比べて、民族的なマイノリティに、心身の病気の治療を受けていない人の率が高くなるという。また、ヘルスケアだけでなく、社会サービスについてもその受給率は民族間で隔たりがある。例えば、中国系移民に対するインタビューで、コミュニティセンターでの高齢者向けのランチサービス(料金はボランタリィな寄付金でいいというもの)について尋ねると、ほとんど利用されていないことがわかった。また、彼らのうち(平均して66歳の高齢者45人/36人が女性で9人が男性)の90%は家族に何らかの問題があることを肯定したにもかかわらず、たった8%の人が、自分や家族のうちの誰か一人に問題が生じた場合に、社会サービスの専門家の助けを求めると答えた。彼らの問題のほとんどは、子どもの結婚や親子関係にまつわるものであった。このことは様々な社会サービスのうち、彼らの本当の「ニーズ」は家族のカウンセリングであるとTarnoffは結論づけている。やはりまた、彼らのうちの5%しか、西洋医学の治療を受けたことがある人はいなかった。また、85%の人が医療制度に否定的感情を抱いており、その理由は次のようなものであった。

1. 言葉の問題
2. 病院のスタッフによる差別を感じる
3.(漢方のような)東洋医学の治療を好む
4. 医療の手続きは難しく、形式が複雑である。

 中国系の移民とは対照的な移民として、ロシア系移民へのインタビュー結果を見てみると、ロシア系移民(平均62.5歳の高齢者39人/27人が女性で12人が男性)のうち、90%の人が医療ケア制度に肯定的で、67%の人が社会サービスに肯定的であった。中国系移民とは対照的に、ロシア系移民は英語を使用することにためらいがないことを示していた。
 また、一般的なアジア人のやり方とは違って、アメリカ文化では、個人は自ら決定し、自ら主張をするように教えるのが普通であるため、家族と、友達や先生との間の二つの社会のバイ・カルチュラルな世界を生きる子どもたちは、アイデンティティの形成にコンフリクトを背負いながらそれを発展させていくことが予想されていた。
 これらの要因から、Tarnoffは、アメリカのソーシャル・ワーカーは、バイリンガルと同様にバイ・カルチュラルなアプローチを発展させていく必要があると結論づけている。またTarnoffは、日本の被差別部落の居住者たちのうち、日本の平均三倍の人が病気に罹っていることを挙げ、これらの調査が、アメリカと日本という多民族と単一民族のなかでの民族的なマイノリティ集団の比較を含んでいることを示している。
 このように、Tarnoffは民族的マイノリティに対するヘルスケアの問題に関して実証的に報告している。Tarnoffの報告は、ヘルスケアという人間に普遍的なニーズが公共的な政策のなかで位置づけられていく過程で、政策立案者などが前提とする人間像が文化的な影響を多分に受けたものであることを立証している。このアメリカ社会で前提とされる一般的な人間像にそぐわない人々は、現場でソーシャル・ワークに携わる人々らによって、民族的マイノリティとして認知され、歴史的・文化的な背景や、新天地に適応する新世代と伝統を受け継いでいきたい旧世代との関係に配慮されることになる。

3-2-2 未来を語るということ

 「障害」が文化として捉えられれば、本当にTarnoffの報告に示されたような配慮が社会的に行き届くことが可能になるだろうか。
 Tarnoffの報告は、そもそも公的な立場からの適切な配慮とは如何なるものかを問うものであって、中国系移民が自ら権利主張を行っているわけではなかった。マイノリティの側からの権利主張には、多くの場合、論理的なジレンマを抱えこんでいることが多く、そのジレンマを抱えこんだままでは、個々のニーズを適切に公的配慮によって満たすことはできないのである。そのジレンマとは、公的な優先的保護政策を残しながら、既存の価値基準からの完全な脱却を同時に主張することから生じる。ある種のフェミニズムや黒人解放運動などにも同様の構造のゆがみがみられるのだが、ここでは、「障害」を文化と置き換える考え方として、「ろう文化宣言」を取り上げることにする。1995年に現代思想の紙面上で日本語の記述によってなされた「ろう文化宣言」では、「ろう者=耳の聞こえない者、つまり障害者という病理的視点からろう者=日本手話を日常言語として用いる人、つまり言語的少数者という社会的視点への転換」が謳われた。「ろう文化宣言」の宣言者は木村氏(ろう者)と市田氏(聴者)の二人の連名になっており、宣言の中では、音声言語社会の内部で適応可能な口話法などの教育が、手話言語社会にとっては一種の同化政策として捉えられている。50この「ろう文化宣言」のジレンマは、「ろう者」のニーズが「聴覚障害者」のニーズとみなされることで公的に配慮されている実状にもかかわらず(その配慮が最善のものであるかという問題は残るが)、「障害」という既存の価値基準にもとづく「障害者」としての社会的視点からの脱却を主張していることで生じている。51「ろう者」のニーズは「聴覚障害者」としてのものではなく、「言語的少数民族」としてのものであると言うことで、テレビの手話ニュースの手話表現を中途失聴者や難聴者向けの日本語に近い手話表現とは別なものにすべきであると宣言で主張されている。しかし、そもそもかつて日本で、言語的少数者のためのニュースがNHKで放送されたことがあったであろうか。在日朝鮮人、アイヌ人などは、言語学的にそのネイティブの言語構造が日本語とは異なるという科学的な根拠を理由に、特別なプログラムを用意されたことがあっただろうか。日本で言語的少数者としての権利主張をすることは、残念ながら、「障害者」としての権利主張よりも社会への影響力は低くなってしまうのである。これでは、ますますジレンマから脱け出すことはできない。「障害者」としての社会的な見方は「障害者であること」が自らの本質規定とされているようで、このような社会的な見方が、だれもがもっていてしかるべき自尊心を奪ってしまうという現実は問題として直視されなければならない。しかし、既存の価値基準から脱却すればするほど、公的に満たされるべきニーズは見えにくくなってしまうのである。この見えにくくなってしまうニーズを国家による強制力を使って顕在化しようとすると、また話は複雑になる。ある種のフェミニズムは、女性差別を撤廃する法律を国家によって制定されることをよしとしているが、これでは、自らが避けようとしたパターナリズムの枠組みをもう一度使わなければならないことになってしまう。なぜ、このようなジレンマは生じてしまうのか、以下で、「本質主義」と「構成主義」52の対立を使って説明し、そのジレンマを解消すべき枠組みとして、「本質主義を避けた後の倫理学」を提示することにする。

 第2章で、アリストテレス主義者やマルクス主義者は本質主義であるとして、コースゴードはこのような本質主義はリベラルな社会ではもはや受け入れられないとしていた。では、本質主義とはどのようなものであったのか。それは人間本性や人間のよき生があらかじめただ一つの形に定めることができるとする立場である。そのような定立が正当化できさえすれば、パターナリズムも正当化できることになる。これに対し、フェミニズムの運動や黒人解放運動に見られるように、そのような定立が社会的な差別を引き起こす原因となったこと証明するために、そもそもその定立が社会的な構成物であったことを社会に知らしめる構成主義とういう立場がある。構成主義は社会学の方法論として、社会運動の足懸かりとなる機能を果たしているといえる。では、本質主義を退けた後の倫理学はどのような方法論をとるのであろうか。それは、より善い社会的構成は如何なるものかを問う、という方法論である。このため理論の展開の流れは本質主義と同じであるが、構成主義とは逆である。これらの理論的流れを「平等」という概念に注目しながら見ていこう。
 構成主義の場合、

1.  今現在、不平等は存在している。
2.  その不平等は社会的構成によって生み出されている。
3.  社会的構成を取り払えば、不平等は存在しなくなる。

という理論的流れになっている。
これに対し本質主義は、

1.  人間本性の定立
2.  人間本性に基づく人間のよき生の実現のために国家は平等に国民を導かなければならない。
3.  国家の介入の正当化(1へもどる)

という理論的流れである。
 構成主義は、最初の時間軸を不平等という社会問題が生じている現在に設定し、そこから不平等を生じさせた構成過程を溯って検証するという形式をとっているため、構成過程の検証によって不平等の原因として発見された既存の価値基準は、脱却されるべきものとして検証者(多くは社会学者)によって認識される。ところが、この脱却されるべき価値基準のオルタナティブとして新しい価値基準を提出することは、構成主義の枠組みの中では不可能なのである。そのためには、構成主義が最も避けねばならない本質主義の理論的流れを継承しなければならなくなるからである。つまり例えば、不平等を撤廃する法律の制定を国家がすべきだと主張することは、パターナリズムを容認しなければできなくなり、構成主義者(既存の社会的構成を脱却しようとする者)が未来を語ろうとすればするほどジレンマに陥ってしまうことになるのである。構成主義者にできることは、不平等に至っている現在から過去へ溯っての記述だけなのである。この限界を超えることができるのは、本質主義を避け、構成主義の成果を取り込みながら、より善い構成について考えていける倫理学でしかない。
 本質主義を退けた倫理学の方法論は如何なるものかというと、

1. 個人の責任と個人の責任の範囲外との境界を適切に引く
2. 個人の責任ではない事柄によって生じる不平等をなるべく平等にするために国家が適切に介入する
3. 国家の介入の正当化(1の線引きが適切であることの証明)

 という理論的流れになる。第2章で見たロールズの舞台装置によって描かれた社会は、よく秩序だっており、基本的な社会組織とその制度が一つの形にまとめられている社会であった。これがロールズにとって、より善い社会的構成は如何なるものかという問いに対する一つの答えだったのである。このロールズの答えですら、不十分な点は指摘できる。ロールズが暗黙のうちに採用している既存の価値基準だけでは、平等が達成できない人々が現実に存在するからである。53しかし、だからといって最善の社会的構成をめざすことそのものが否定される必要はない。現実に不平等な扱いを被っている人がいるなら、その社会の構成は最善のものではないと言えばいいからである。未来に向かって最善のオルタナティブを提出し続けることができるのは、倫理学でしかない。では、「ろう文化宣言」によって明示された問題を解決するための、必要な視点と考えられるのは如何なるものかを次節で述べることにする。

3-2-3 「ろう文化宣言」をめぐる問題解決のための一つの視点

 田中克彦はその著書『言葉と国家』54のなかで、ドイツの言語学者であるヴァイスゲルバーの「母語」についての思想を紹介している。『言葉と国家』は、ろう文化宣言の思想的な裏付けとして見ることが可能であると考えられるので、少しこのヴァイスゲルバーの母語思想についてみていくことにしよう。
 田中(1981)によると、ヴァイスゲルバーは1938年の「母語はゲルマン語であるか、それともロマンス語であるか」という論文の中で、教養人によって受け継がれてきた書き言葉であるラテン語やラテン語を下敷きにしてできたロマンス語世界よりも(スペイン語、ポルトガル語、フランス語、プロヴァンズ語、イタリア語、ルーマニア語など)よりも、ドイツ語などのゲルマン語世界のほうが先立っていることを力説した。551938年という年は、ヒトラーによってドイツ語を母語とするオーストリアが併合され、ドイツ語を母語とするズデーデン地方がチェコスロバキアから奪われた年でもあった。56このため、ヴァイスゲルバーの説は多くの研究者たちにユダヤ人の迫害を正当化するかのように受け取られ、とても歓迎できるような説ではなかった。57田中はこれについて次のように述べている。

 「母語」はたしかに、その単なる語感によるだけでなく、その内容そのものが、現存する国家の境界線すら無視してしまう危険な政治的圧力を秘めている。母語とそれを共有する言語共同体との関係のみが、人間の集団形成にとって根源的であり自然であると、それは主張しているのだから。それは国家主義に対して破壊的な力を発揮する、国家を乗り越えるところの民族主義の思想である。58

 さらに、日本のような多くの人によって単一言語民族と信じられている国では、「母語」と「母国語」が区別されないことから、田中は次のようにも述べている。

 母国語とは、母国のことば、すなわち国語に母のイメージを乗せた煽情的でいかがわしい造語である。母語は、いかなる政治的環境からも切り離し、ただひたすらに、ことばの伝え手である母と受け手である子供との関係でとらえたところに、この語の存在意義がある。母語にとって、それがある国家に属しているか否かは関係がないのに、母国語すなわち母語のことばは、政治以前の関係である母ではなく国家にむすびついている。59

 単一言語民族と信じられている日本であっても、アイヌ人やオロッコ人などの言語的少数民族は存在する。このような人々の言葉は「決して日本語の方言ではないし、ましてや外国語でもない」。ヴァンスゲルバーによる「母語」の思想が民族主義的な政治性を秘めていたにもかかわらず、田中は次のように言い切る。

その話す個人とことばとの関係を示すには、どうしても母語がもっともふさわしいのである。母語は、国家という言語外の政治的権力からも、文化という民族のプレステージからも自由である。そして何よりも、国家、民族、言語、この三つの項目のつながりを断ち切って、言語を純粋に個人との関係でとらえる視点を提供してくれるのである。60

 では、手話の場合はどうか。「ろう文化宣言」では、第一言語として日本手話を獲得した者が聴力に関係なくろう者として規定されている。この日本手話の「日本」は、日本語の影響下にあるという意味ではなく、日本という地域を指しているだけであって、日本手話そのものは独自の文法体系をもっており、ASL(アメリカ手話)の言語学的研究に続いて、日本手話の言語学的研究も少しずつ進んでいる。先に紹介したヴァンスゲルバーの「母語」思想は、民族主義的な政治性を秘めていたのであったが、この「ろう文化宣言」は音声言語からの抑圧からろう者を解放するという政治的なねらいがあったといえよう。アイヌ人やオロッコ人、在日朝鮮人など、日本国籍をもちながら日本語とは異なることばを受け継いできた人々は、大人たちが意識的に子供に語りかけていかない限り、やがてはその「母語」が「母語」として成り立たくなっていくことを経験している。しかし、ろう者の場合は、音声言語と手話言語という言語のモダリティの違いに注目する必要があり、これらの言語的少数者と完全にパラレルな関係にはない。もちろん、私は、カルチュラル・スタデイーズなどの社会学的方法論によって、ろう者と聴者の関係を文化論的に見ていく研究の成果を否定しているわけではない61。私は今、「母語」という表現が日本手話に関して適切に使えないにもかかわらず、あえて「われわれにとって日本手話が「母語」である」という言明がなされるときに、その背景にある典型的な民族解放の文脈を指摘しているのである。こうした文脈があるからこそ、社会学的文化論的研究が可能になっているともいえる。しかし、多くのろう者は聞こえる両親のもとで生まれ育っていることから、母から手話言語を第一言語として獲得することができたろう者は稀であり、「母語」という考え方を一律に適応させることはできない。第一言語獲得期は学童期にまで延長するという説もあり、聾学校での手話言語の獲得が第一言語としてなされることも考えられる。しかし、その場合ですら、手話言語は多くは友人や先輩たちの間で獲得されることになり、やはり「母語」という表現を適切に使うことはできない。つまり、これまでわずかながら認識されてきた日本の言語的少数者の場合には「母語」という鍵となる表現を使うことで、まさに言語的少数者として、そして文化的な伝統を守る主体として言語学者や文化人類学者や社会学者などによって認識されることを可能にしてきたのである。それでもアメリカのような多言語多民族国家においては、多くの少数民族たちがそうしてきたように、ろう者たちが自らをデフ・カルチャーの継承者として位置づけ、そうした文化的基盤によって誇りをもって生きていくやり方が社会的に認知されつつある。このアメリカ社会でのろう者たちの解放運動は、日本のろう者たちにも多大な影響を与えており、その延長線上に日本の「ろう文化宣言」が位置づくといえる。しかし、アメリカ社会でさえ、3-2-2でみたヘルスケアの公共政策において、ろう者の疾病率とその文化的な要因が調査されたことはないだろう。(そのような調査が公共政策の一部としてなされたら、ろう者の文化が「障害」とは徹底的に切り離されて社会に認識されていることが実証できるのではないだろうか。)
 私が積極的な主張としてここで提出したいのは次のようなことである。「ろう者のやり方」を〈身体環境の規範〉と言ってみてはどうだろうか。3-2-2で述べたようにMargaret Meadが文化を「その社会の構成員となる子どもたちや移民の大人たち全体に同じ伝統を伝える人々の振る舞いから学び取られた身体からの抽象物」と定義しており、この定義でなら文化として「ろう者のやり方」を捉えきれないこともない。しかし、文化や民族という言葉が社会運動や革命、闘争、戦争などにおいて使われる場合に注目してみると、二つの政治的な力をそのねらいとしてあげることができる。一つはマジョリティによって抑圧されてきた文化や民族がマイノリティとしての権利を勝ち取るという力であり、もう一つはアイデンティティの基盤を文化や民族に据えることで、その他の文化や民族との差異を強調し、アイデンティティという実存が文化と等価となっているために、たいていの場合は自文化の方が優越していることを立証する力である。62二つ目の力がその効力を発揮することで、現実の社会での民族の共存が非常に困難なものになってしまう。自由や正義といった倫理学ではおなじみの言葉ですら、民族間の闘争という文脈で語られると、とたんに空虚なものになってしまう。文化をアイデンティティの基盤としてうちだすことは、このようなリスクをも同時に背負うことなのである。
 自由至上主義的なアメリカの社会では、文化がアイデンティティの基盤になっているかどうかとは独立に、それぞれの個人が自由で自律的な選択者であることが前提となっている。63国家の福祉的役割は、個人の自由を制限しない範囲での最小限の機能を果たすことだけしか期待されていないというのが(これについては次章で述べるが)新自由主義(リバタリアニズムlibertarianism)の考え方であるが、この考え方はアメリカ社会ではかなりの影響力をもっている。アメリカのろう者たちが、デフ・カルチャーを共有した共同体の存在を強く打ち出したことも、このような政治思想の流れと無縁ではないだろう。デフ・コミュニティという共同体が国家のなかのマイノリティであるとしても、共同体のなかの個人が自律していることを社会に示していけば、人々がアメリカの数ある少数民族集団の一つに、デフ・コミュニティを数え入れることが可能になる。そうすれば、どんなにリバタリアン的な政治思想が台頭してきても、国家の福祉的役割に頼ることなく、マイノリティとしての権利を主張することができるのである。
 このような政治性とは独立に、田中(1981)が「母語」の考察で述べたような「国家、民族、言語、この三つの項目のつながりを断ち切って、言語を純粋に個人との関係でとらえる視点」をもてるとしたら64、それは、〈身体環境の規範〉という考え方が可能にしてくれるのではないだろうか。そもそも、手話言語が言語として受け継がれてきた背景には、耳が聞こえないという〈身体環境〉をもった人の存在が不可欠であった。もちろん、コーダ(ろう者のもとに生まれ育った聞こえる人…Children Of Deaf Adultsの略)と呼ばれる人のなかには、ろう者と同じような手話言語を使うことができる人もいる。しかし、それでもやはり聞こえる人が巧みに手話を操れるようになるには、聞こえないという手話言語の獲得に有利な〈身体環境〉のもち主の存在が不可欠であったであろう。聞こえない人の身体の振る舞いに手話言語というあるコミュニティの中の公共的な言語が、音声言語に先立ってプラスされたとき、はじめてろう者らしさが見えてくるのである。聞こえる人の身体の振る舞いが最初にあったわけではない。その身体の振る舞いが一つのルールとして捉えられるとしたら、聞こえる人の〈身体環境の規範〉と、聞こえない人の〈身体環境の規範〉とのあいだの違いはやはりれっきとしたものであろう。第一章で私は〈身体環境〉と〈身体環境の規範〉を次のように定義した。

「身体の状態が従ってきた生活形式などのルール」を〈身体環境の規範〉と言うことにする。〈身体環境〉とは自分の体がこれまでどのような状態で身体外部の環境を認識したり、身体外部の環境に対して働きかけたりしてきたか、そのプロセスに光を当てるものである65

 アイデンティティの基盤としての文化という考え方はその当事者にとっては非常に重要な意義をもつことを私は否定するつもりはない66。しかし、そういった「文化」という言葉を含んだ文脈に合わせて自らの主張をする際に、その文化以外の人との摩擦を引き起こすというリスクは避けられない。多言語多民族国家67アメリカの政治的背景としてリバタリアン的政治思想が浸透しつつあるのに対し、単一言語単一民族(と信じられている)日本の政治的背景は未だ混沌としている。その日本で民族解放の文脈によって権利主張をすることは、必ずしもアメリカと同じような成果を生むとは限らない。混沌こそが日本の文化だといえなくもない。しかし、そうした文化的土壌での民族解放運動とは独立に、この「聞こえない」という〈身体環境〉がもたらす〈規範性〉に注目することも可能ではないだろうか。そしてその異なる〈規範性〉を異なる〈規範性〉をもつ者どうしが互いに理解しあうことで、「文化の共存」とは違うレベルの「〈身体環境〉の共存」を可能にする方法を探すことも可能なのではないだろうか。68私は、このような視点をもとにこれからの手話研究が進むことを期待している。69
 
 最後にスピノザ(Baruch de Spinoza 1632-1677)の『エティカ』からの一説を引いて、この章を閉じることにしよう。

人間の身体が多くの仕方で刺激されうるようにするもの、あるいは身体が外的な物体にまでさまざまな仕方で刺激を及ぼすようにさせるもの、それは人間にとって有益である。また、人間自身の状態が多くの仕方で刺激され、同時に他の物体に刺激を及ぼすのにふさわしくなればなるほど、それだけ有益さは増す。また反対に、身体をこれにふさわしくない状態に置くものは、それだけ有害である。70




第4章  所有・自由・機会

 現代の平等論者は、日本やアメリカなどを代表とする資本主義経済体制のなかで、人々がよりよい生を享受していくには、何を平等の指標として構成すればよいのか頭を悩ませてきた。リベラルな平等論者であるロールズやセンの平等論は第2章で見てきたとおりである。現代のそのようなリベラルな思想の流れのなかで、注目すべき構図としては、国家からの干渉を最小限にして人々の自由をこれまで以上に尊重しようという新自由主義(リバタリアニズム)libertarianism71が台頭してきたことに対して、社会主義にシンパシーを抱く平等論者達は脅威を感じていることがあげられる。この新自由主義の台頭という思想的な潮流は、決して学問的な議論の中だけに留まるものではない。日本でも最近、医療費の患者の一部負担額引き上げについての紙面で、慢性病の患者は怠惰な生活で病気になったのだから自己責任で負担をすべきであるという主旨の投稿が載り、これを慢性病への無理解であるとした反響が多く寄せられた。72自由主義の想定する個人のモデルは、自由な選択ができる自律的な主体なのであるが、そのような主体の選択に関しては自己の責任であるとされる。自己責任の領域と自己責任の範囲外の領域(国家によって保障されるべき領域)のどこに境界線を引くのかは、様々な平等論者たちにとって困難な課題であるが、新自由主義者(リバタリアン)たちは、自由を至上し、個人への国家の介入を最小限にとどめようとするために、この自己責任の領域を拡大していこうと主張する。つまり、新自由主義者たちは、抽象的概念である「自由」ということと、具体的に財をもつという「所有」ということを同じ使用法で捉えることで(財の再配分を主張するリベラルとは違って)、経済的自由を積極的に主張するのである。このような使用法のもとでは、「自由」とは人間がもちうるあらゆるもののうち、より根源的なものであるというふうに考えられ、社会主義的平等論者たちは、基本的には財の社会的な共同性を主張するため、新自由主義者やリベラルの論法に見られる「私的所有」と「個人の自由」との安易な結合に敏感にならざるをえないのである。本章ではそのような社会主義的平等論者が感じている脅威が如何なるものなのかを中心に見ていき、その後、社会主義平等論者が訴える「機会の均等」と自由主義平等論者が訴える「自由の平等」が「障害」の問題に対してどのような違いとなってくるのかを見ていくことにしよう。


4-1  ロールズ以降の平等主義的正義論

 第2章で少し紹介したロールズの正義論が、1971年に発表されたことは、正義にもとづく平等というものが如何なる形をとったものであるべきかという議論が、様々な政治的立場をとる学者の間で盛んになる契機となった。このことは、この分野に関心を示している多くの学者が認めるところである。市場社会主義という新しい形の社会主義の枠組みを提出しているローマー(Roemer)は、このようなロールズに端を発する平等論の構築に着手している社会主義哲学者としてコーエン(Cohen)やアーンソン(Arneson)を挙げ、また、社会主義にそこまでは共鳴していない哲学者や政治哲学者として、ロールズやドゥオーキン(Dworkin)、セン、バリー(Barry)、ネーゲル(Nagel)などを挙げている。その上で、ローマ―は次のように述べている。

これらの学者は、正義のために必要な平等性の種類やそれらの間に容認されるべき相反関係の性質を研究している。こうした作業は、社会主義運動によってではなく、一九七一年における、ジョン・ロールズの著作『正義論』によって始動された。この著作は、きわめて多数の社会科学者たちにつぎのことを納得させる功績をたてた。すなわち、平等主義は、人々が好みにしたがって受け入れたり受け入れなかったりする、単なる「価値判断」にとどまらないのであって、むしろどのような社会制度が正しいのかについて、理性的で正直な人ならだれでも承認せざるを得ない見解をなしている、ということである。そうした発想が教室で検討され、さらに民衆的な文化や政策立案にも入り込んでゆくにつれ、それらの学者をつうじ、やがてさらに何百人もの人びとが影響を受けることとなろう。73

 このように、ロールズの『正義論』以降、自由主義左派の哲学者たちと社会主義哲学者たちのあいだで、現代の平等論が活発に議論されてきたことがわかる。また、それぞれの立場からの主張に対して、経済的自由を尊重する新自由主義者や、文化や伝統を重んじるコミュニタリアンらが積極的に口を挟んでくることから、「平等論」と一口にいっても、様々な思惑のなかでうごめいてきたこともわかる。このような平等論の全体像をくまなく見ていくことは私の今の力量では不可能に近いので、次節からは、そのなかでも、「自由であるための能力」と「所有」をめぐる問題に注目して見ていくことにする。


4-2 自由(能力)の所有と機会の均等

 道徳の規範性について考察している大庭は、リベラリズムと経済思想における自由主義との関連性を指摘している。74つまり、「専ら生を所有し、用益し、そこから幸福を絞りだし、味わいつくす所有主体」75でありうるような、「自己所有」が可能な個人像は、そのまま経済思想における自由主義の「私有財の自由な交換=レッセフェール」が許されるような私有権や財産権をもった個人像と重なるのである。76政治思想としてのリベラルと経済思想としての自由主義の融合を理解するには、大庭の指摘のとおり、歴史的偶然によってではなく、

 「自己所有」という、その規範的な人間観において一体だったから77

という理由付けによるだけで十分であるように思われる。現に、ロールズの社会的基本財もパレート最適78のための指標というふうに言い換えることも可能であるし79、社会的基本財だけでは不十分だとしたセンの基本的潜在能力も、それまでの厚生経済学がもち得なかった新しい経済学上の指標でもあった。国家による公平な分配(分配の正義)を実現するために、平等にすべき指標をもった個人のモデルを設定するという作業は、まさしく経済学と政治学と倫理学の融合なしではなしえない作業であった。しかし、社会的基本財をもつ主体としてロールズはすべての人間を含めることはできなかったし、センでさえも限界があったことは第2章で見てきたとおりである。つまり、それらの根底で規範として働いていた「自己所有」という人間観そのものに、限界があることは確かである。自己を所有できない人間は、等価交換という市場原理的な発想が適応できない存在として認識され、もっぱら、市場原理主義的な発想が適応できる存在としての「われわれ」の側の倫理観が問われるだけになる。これでは「平等」とは名ばかりのものになってしまう。財をもつ者ともたざる者との格差は広がり、もつ者の間での競争は激化する、このような市場での状況のなかで、「自由」そのものが人びとがもつべき対象として捉えられてしまえば、「自由であるための能力」をもつ者ともたざる者との格差は同じように広がり、もつ者の間での競争も同じように激化するだろう。センは、ロールズが社会的基本財の中に自由を含めたことに対して、「物神崇拝的」として揶揄したが、センの潜在能力も個人の能力が経済学的に数量比較ができる指標として考えられていたのだから、この点はあまりかわらないといえるだろう。政治的立場としてはコミュニタリアンであると思われるウォルツァーは、財の独占という主張のもつイデオロギーについて次のように述べている。

優越した財を独占しようとする主張が――公共的な目的のために起こるとき――イデオロギーを構成する。イデオロギーの標準的形態は、正当化される所有と、人格的特性のあるセットとを哲学的な原理を仲介として結びつけることである。・・・(中略)・・・能力主義すなわち才能ある者に開かれている職業という考えは、才能があると主張するものの原理である。彼らはほとんどの場合、教育の独占者である。自分の貨幣を危険にさらす覚悟ができている――あるいは、できていると公言する――者の原理は、自由交換である。彼らは動産の独占者である。これらの集団は――そして自らの原理と所有によって同様の特徴をもつほかの集団は――相互に競い合い、最高位を求めて闘う。80

 ウォルツァーのいうように、能力が財と同じように個人の所有物として捉えられるとすると、センに見られるリベラルなイデオロギーとは次のようなものになる。まず、ウォルツァーのいうところの「正当化される所有」とは能力であると同時に(センが固執した)能力を発揮できるような自由にまで拡張されたものであり、また、「人格的特性のあるセット」とは人間存在そのものということである。そしてこの二つが「哲学的な原理を仲介として結びつけ」られたものがリベラルなイデオロギーになるということである。社会主義にシンパシーを抱く哲学者である竹内章郎は、この、能力の私的所有と人間存在との結合が、教育現場で子どもの能力の発達を全面的に目指す立場と、人間存在の平等性から能力発達志向から人間を解放させようという立場に二極分解していることついて、次のように述べている。

日常意識的に言って、能力の全面発達を志向する価値意識は能力の発達による人格の豊饒化を意図し、この点と相即して能力不全や能力が「劣る」ことに対する忌避の意識や能力〔差〕と人間存在との無媒介的結合―「である」という関係規定―を自明視する意識を育てざるをえず、能力〔差〕による〈人間存在の平等性〉の否定を内包せざるをえないだろう。他方、〈平等な人間存在〉が能力〔差〕を占有する・「もつ」にすぎないとして能力差〔差〕を捉えようとする価値意識は、確かに人間諸個人の了解における〈人間存在の平等性〉を強く志向することになるが、たんなる抽象的ヒューマニズムほどではないにしても、能力の発達・陶冶に関しては消極的立論を提示するにすぎないであろう。平等論を主題としている本稿では後者を軸にした上で前者に接近するという方法を示唆しているが、現在までの「人間社会」における現実的問題・事実問題としては、能力〔差〕に関するこの両者は、二律背反的価値意識・二律背反的知として存在していると言わざるをえない。81

 この「二律背反的価値意識」の対立は、そのまま第3章第1節で論じた「障害=個性」論をめぐる発達保障論と反発達論との議論にあてはまるものであり、障害児教育学者である福島智も竹内のこの指摘に示唆を受けたことを述べている。82また、竹内は「能力主義的秩序や〈能力〔差〕による差別〉を廃棄するためには〈人間存在の平等性〉が現実的に(抽象的ヒューマニズムとしてではなく)主張されなければならないという観点から、さしあたりは〈人間存在の平等性〉と能力〔差〕とを占有・「をもつ」という関係において捉えるべきだ」83としながらも、「なるほどこうした主張は、ブルジョア的な財産の私的所有権論が諸個人の肉体や精神に対する私的自由へと展開したことを転用したにすぎず、したがって近代的な私的所有の論理を人間諸個人自身の了解のレベルにまで拡張し、これを拡張したにすぎないかもしれない」84と述べている。その上で、能力の共同所有・共同性を主張したいと考える竹内は次のようにも述べる。

もとより、筆者は〈能力〔差〕をもつ平等な人間存在〉という了解を「永遠の真理」として主張するものではない。むしろ損傷や能力不全としての「障害」を含めて文字通りすべての人の能力〔差〕が個性として尊重され承認され、すべての人がその多様性においてそのまま平等な共同存在者たりうる社会であるならば、〈人間存在の平等性〉と能力〔差〕とは「である」という無媒介的結合において捉えられるべきである。しかしそうした社会―それは社会主義的メリトクラシーをも廃棄した文字通りの共産主義社会であろうが―であれば、〈人間存在の平等性〉を言う必要もないのであって、逆にそうした社会が実現されていない限りは、つまり能力主義的秩序が存在する限りは、〈人間存在の平等性〉は現実的社会内在的に主張されねばならず、そのためには、上述の「をもつ」という関係規定が必要だと思われるのである。現代では、こうした点をふまえたうえで「平等の観念は絶対に真理などではない」という発言も捉え返されるべきであろう。85

 このように、自由そのものや、自由であるための能力が私的所有として捉えられることに対して、社会主義的哲学者たちは、それがそのまま財の私的所有による独占の構造を焼き写したものとして見えるために、そういったリベラルなイデオロギーに敏感にならざるをえないのである。86しかし、竹内もいうように、現実の我々の社会では「能力主義的秩序」が実際に存在しており、社会構造はそのような秩序によって成り立っているのである。したがって、「〈人間存在の平等性〉」という概念もその限りにおいてしか、実質的な意味をもちえない。この事実は社会主義的哲学者たちの苦悩を深めているのである。しかしまた、社会主義的哲学者たちは「所有」と「自由」とのリベラルなイデオロギーによる結合に対し、「機会の均等」という条件を望ましい社会構造の脚本のなかに盛り込むことで、いわば「自由の独占」を食い止めようとしている。

機会の均等には権利の行使ができない人々への特別な補償や補助金が必要とされている。最も一般的にいえば、機会の均等のためには、人びとが自ら統御できない諸要因に起因する不利な「障害」については補償が与えられる必要がある。かりに人びとが自由意志を働かせることがなく、すべての行為は個人の統御の及ばない諸要因に起因するのだとすれば、幸福への機会均等は幸福の均等へと堕する。しかし、大部分の社会主義者もその他の人々も、意志を発揮する領域はあるものだと信じており、それゆえにまた「社会主義者が望むもの」のリストのどこにも機会という箇条を挿入しておくことが大切なのである。87

 この、ローマーの主張との類似性が、センの提出した潜在能力という指標を「強健主義」と評したコーエンの主張にも見られる。コーエンは「機会の均等」を「有利さへのアクセスの平等(equality of access to advantage)」という言葉で表し、次のように述べている。

有利さへのアクセスの平等は、以下のような考えに動機づけられている。すなわち、個々の行為者のうちに純粋な選択(あるいは多少の潜在能力というもの)が異なっている状態であることを除外するなら、有利さが異なるということは不正であるということなのだが、しかし〔だからといって〕そのような見方が平等にするのは純粋な選択そのもの(あるいは潜在能力)であると主張しているわけではない。有利さへのアクセスの平等を動機づける考えとは、実際に純粋な選択のようなものが存在していることすら含意しない。その代わりに、その考えは、もしも(例えば「厳格な決定論」が真理であるとして)そのようなもの〔純粋な選択〕が存在しないならば、そのときはすべての異なる有利さは不正義であるということを含意しているのである。純粋な選択は幻想であるという可能性に私の考えが寛容であることは、センとの違いを明らかにしている。私の考えでは、センは平等主義者的な規範の正しい連結において自由の不可避性を誇張している。例えすべての人がまったく何をする必要もなく、その人が必要なすべてのものをもっているときには、深刻な不平等は生じない。そのような状態はやり方によっては悲惨なものであるかもしれない。しかし、それは平等主義的正義の水準によって批判できることではないのである。88

 社会主義的哲学者であるコーエンが、「有利さへのアクセス」という平等指標を打ち出すことは、有利さに格差があることは不正義であるということを示すことでもあった。このため、財が平等に分配されるためには、財から直接得られる効用(コーエンはこれを「ミッドフェア」という)に注目しながら、有利さに格差が生じないように、「有利さへのアクセス」を平等にすれば、自由を考慮にいれなくても十分だとコーエンは考えたのである。例えば、センのいう「マラリアから自由な生活」は、潜在能力のようなものを考えなくとも、害虫の駆除や予防接種などの財を平等に分配すれば実現する。このように、コーエンは人間の「純粋な選択」の可能性とは独立に、「ミッドフェア」に注目しつつ、「有利さへのアクセス」の平等による機会の均等を実現することが、国家が目指すべき平等であると考えたのである。


4-3 「障害」のための「有利さへのアクセスの平等」と「潜在能力の平等」

 前節までの議論は、政治的文脈を背景とした議論であり、本論での目的である、こういった倫理学的議論と「障害」との関係についての議論はしてこなかった。しかし、ひとたび現実場面に視線を移せば、福祉施設で生活している利用者のQOLの向上を目指そうという動きは、「障害」に関わっている現場の関係者の間でかなり活発に議論されており、具体的にどのような方法をとれば利用者のQOLが向上したといえるのか、試行錯誤が続いている。そういった試行錯誤のなかでも、前節の内容との関連が如実に見られる事例として、愛知県心身障害者コロニーの発達障害研究所における実践内容を取り上げてみることにしよう。実践内容を見ていく前に、この研究所の「障害」に対する基本的な姿勢を押さえておくことが必要である。この研究所の治療学部における研究概要の中では次のような記述が見られる。

自立への原点は機能や形態の障害を可能な限り取り除く努力にあることを忘れてはならない。多くの場合、障害を完全に克服することは困難である。それゆえ、リハビリテーションとともに自立を支える環境整備という両側面が必要とされる。治療学部では、時代の変遷に伴う障害の質的な変化と社会とのかかわりに常に目をむけ、医療と健康を支える課題に取り組んでいる。89

 以上の記述から、この研究所では、リハビリテーションと環境整備によって「障害」をできるだけ除去し、自立を支えようという考え方に基づいて研究が進められていることがわかる。では、このような考え方によって実現される自立とはどのようなものなのか、実践の一つである「重症身体障害児(者)を対象とした日常生活における自己決定支援ソフトウェアの開発」を見ていくことにしよう。以下はこのプロジェクトによって作られたソフトウェアに関する図とプロジェクトの概要である。


図1.「コロニーの売店」買い物用画面


図2.「コロニーの売店」購入品リスト


図3.開発したソフトの試用風景


本プロジェクトでは、重度の身体障害児(者)のQOLの向上の取り組みの一環として、日常生活における自己決定を支援するために、パソコン用の服装選択ソフトウェア「わたしのワードローブ」は、パソコン画面に表示された個人の衣類などの画像データから、着たいものを選択するソフトである。また、「コロニーの売店」は、日常的に買い物に行く店(こばと学園の入園者ではコロニー生協売店)をパソコン画面に再現し、購入希望商品を前もって選択するソフトである(図1)。「コロニーの売店」には、選択した商品の合計金額や小遣いの残金等を表示する機能を持たせて(図2)、小遣いの自己管理がシミュレーションできるようにした。いずれのソフトでも、「障害」が最重度の場合でも使用できるように、キーボードを使用しないで一つのスイッチ操作だけで使用できるようにした。

 この概要から、このプロジェクトでは、自己決定することが施設利用者のQOLの重要な構成要素として捉えられていることがわかる。そのこと自体は特に新奇なことではないが、注目すべきなのは、このような情報技術が使われるにあたっての最優先された目的である。つまり、実際に最重度の身体障害とされる利用者が店に行って、商品を眺めたり、好きなものを選んだり、店の人と会話したりする機会よりも、自己決定と自己管理の方が優先されているのである。
 「障害者」に機会を均等に分配することと、平等な自由(潜在能力)を分配することでは、後者の方がより平等主義的で大きな政府を必要とする(つまり所得を再分配し、福祉にお金をかけなければならない)と思われがちである。しかし、「障害者」が公的扶助の増額を待たずとも、技術によってより低いコストで自由を手に入れることができる、という発想をもとにこういった現場で実践されているのである。前節の内容に引きつけて考えてみると、この施設の利用者が人の手を借りながらも買い物に行くことができるということが、買い物したことによって得られる効用(満足感など)は高まり、それができないことより有利だとする。そうすると、コーエンが主張したような「有利さへのアクセスの平等」よりも、センの主張したような自ら選択することができる自由、つまり「潜在能力の平等」の方が、この実践では優先されていることになる。しかし、本当に、この実践によって、子どもたちの選択肢は広がり、より自由に個々人が選べるようになるのだろうか。センは、赤ちゃんや知的障害者を分別ある選択ができる者として認めていなかったことから、子どもも分別ある選択ができる者ではない、とすることで、この施設での実践が子どもたちの自由を増大させたということはできないかもしれない。しかし、もし仮に、子どもが分別ある選択ができる者、つまり(それを哲学の分野では馴染みのある言葉でいうと)「理性的存在者」であるとしたら、リベラルな考え方からすると、この施設の実践が子どもたちの自由を増大させたといえることになる。しかし、それでも私は、本当にそうだろうかと問いたい。外的な要因によって左右されることなく自らの自由意志によって分別ある選択を行うことができるというのが「理性的存在者」である。また、その「理性的存在者」は自らの力で選択する能力をもつ(所有している)という言い方ができる。私は社会主義平等論者と同様、人間の自由意志を否定するつもりはない。しかし、その自由意志を働かせることは、人間が自らの力で選択する能力をあらかじめもっている(潜在的能力の所有)しており、その能力を発揮することで可能になる、というふうにはどうしても考えられないのである。その理由を示すために、次のような想定をしてみよう。先の研究所で開発されたソフトウェアによって施設で買い物学習という授業が行われ、その授業に出席している子どもたち(子どもは理性的存在者であるという仮定である)で部屋の中で買い物を楽しむということがその授業の目指すべき目標として掲げられる。ところが、一人の子どもだけはどうしても実際にスーパーに買い物に行ってみたいと言って先生(先生は自由主義者であるという仮定である)の言うことを聞かない。仮にこの子どもの名前をたかし君としよう。そのとき先生の目には、たかし君はたかし君のもっている自らの意志で分別ある選択する能力を発揮しているのだというふうに映るだろうか。そうは映らないだろう。その授業の目標は部屋の中で買い物を楽しむということであり、その先生が掲げた、みんなが目指すべき目標に従うことができないたかし君は、自らの意志で分別ある選択をする能力を欠如していると先生は考えるし、先生の目標に賛成している友達もそのように考えるだろう。つまり、「理性的存在者ならだれでもあらかじめもっているような自らの意志で分別ある選択をする能力」というのは、そのとき何がより善い選択であると多くの人に考えられているかに依存するのである。90たかし君は部屋で買い物することと、実際にスーパーに行って買い物することを比べて、後者の方が自分にとって望ましい選択だと考えていて、理性的判断を下していたとする。それでも、たかし君が自分にとって望ましい選択ができる自由(個人の自由)を行使することは、他の先生や友達にとって望ましい選択ができる自由(公共的自由)を優先するために、諦めてもらうしかないのである。91リベラルな先生はこのような二つの理由付けを用意することで、たかし君の自由を制限することができるのである。このことは「自由意志を働かせることは、人間が自らの力で選択する能力をあらかじめもっている(潜在的能力を所有)しており、その能力を発揮することで可能になる」という考え方は、限られた条件の中でしか成立し得ないことを示している。しかし、もしもたかし君が「知的障害児」であるとして、理性的存在者にそなわっている標準的な選択能力を欠如しているとしたら・・・?その答えを、センは用意していない。リベラリストが答えるであろうような回答については第5章で考えることにしよう。
 では、ここでは引き続き、先の施設で実践されたプロジェクトの評価とその後について見てみよう。


開発したソフトウェアを、こばと学園入園者を対象にして試用・評価したところ(図3)、衣類の選択ソフトでは、画面上で選択結果を確認できるため、服装の決定が適切かつスムーズに行われることが明らかとなった。また、お買い物ソフトでは、商品棚を見ているように買い物ができるため、実際に商店でショッピングをするような楽しさが作り出された。なお、開発したソフトウェアは、衣類画像編集ソフト等とともにCD-Rに記録して、使用を希望する施設、学校、個人等に配布するようにした。

 この実践によって、「実際に商店でショッピングするような楽しさが作り出された」のであり、このソフトの臨場感あふれる映像は、自己決定を支援するための手段となっているのがよくわかる。
 このような書き方をすると、自由や自己決定が優先される発想そのものを、まったくありえないものとして私が最初から非難していたかのように思われるかもしれない。しかしこのような発想法は「障害児教育」の現場では極めてありがちな発想法であり、実際私もそのような発想しかできなかった。私事で恐縮だが、私自身の経験を一つの事例として取り上げたい。
 私が学部時代に養護学校で教育実習をしたときの話である。私の担当した授業は生活単元学習というもので、そのときの課題はまさに買い物学習であった。私は、日ごろ学校と隣接された施設を往復している知的「障害」のある中学部の生徒達を担当していた。生徒達が買い物に行く前の授業を私は任されたため、100円玉や10円玉などの硬貨大の丸い溝をダンボールの板の上にくりぬき、そこに硬貨をはめ込んで、それぞれいくらなのかパズルのようにして理解できるような教材を作った(今の言葉でいえば知育教材である)。その教材を使って硬貨を選んで買い物する練習をし、そのあと計算機でその日使ったお金の計算をする練習をして、私の担当した授業は終わった。この最後の授業は、教育実習の評価授業でもあったので、その養護学校の多くの先生達が私の授業を参観していて、私の作った教材や全体的な授業の方針に対する評判はなかなか良かった。しかし、私が在籍していた大学の担当教官にはかなり評判が悪かったのである。その担当教官が言っていたのは、「買い物に行く前に一人で出来るようにあれこれ練習しなくても、何度も買い物に行けばいいじゃないか」ということだったと記憶している。そのとき私が何と答えたのかはもう覚えていないが、今思えば、その授業を計画したとき私は、生徒達が自分で好きなものを選んだり、自分でお金を管理したりする能力を授業で身につけさせようと考えていたのであり、私自身もそのような能力によって一人で買い物ができるようになったのだと考えていたのである。まさにこの発想は、さまざまな機能を発揮できるような潜在能力(能力)を平等にすることで個々人の自由が保障されると考えたセンの発想と同じではないか。また、先の自立支援ソフトウェアの発想は私のダンボールの教材と同じではないか。さらにいうなら、個々人の能力を伸ばすことが最優先されることに敏感に反応していた私の担当教官の考え方は、センの発想を「強健主義」と評したコーエンの考え方と同じだったのかもしれない。
 では一体どうすればよいのか?自由であるための能力を伸ばすことが優先され、基本的な能力の欠如した者にはそれを補償することで平等性を保とうとするセンのようなリベラルな平等論を否定するとしたら、そのかわりとして一体どんな形の平等論が提出できるのだろうか。私が3-2-2で指摘したように、リベラルなイデオロギーによって構成された常識を脱却するだけでは、倫理学とはいえない。より善い社会的構成とはいかなるものであるべきかについての知見を示さなければ、それは倫理学的考察とはいえないのである。では、私が最初に定義したような〈身体環境〉に人びとが配慮すべきだということがどのような平等論のなかで位置づけられるのか、そしてその新しい平等論はどのように正当化することができるのか、次章で検討することにしよう。




第5章  身体環境への配慮

5-1  知的な能力を測定するということ

 私が第1章で論じたのは、ベルナール的な量的連続性による正常/異常の捉えられ方を否定した、カンギレムの考え方についてであった。少しだけ復習すると、カンギレムは「病理的なものとは生物学的規範の欠如ではなく、別の規範である」として、正常と病理がそれぞれの規範をもつという新しい視点を持ち込んだのであった。92このことから私は、正常/異常に量的連続性があるというベルナール流の考え方を退け、正常/異常は規範レベルで異なるのだというカンギレムの考え方を採用した。その後、「身体の状態が従ってきた生活形式などのルール」を〈身体環境の規範〉という言葉で表し、「〈身体環境〉とは自分の体がこれまでどのような状態で身体外部の環境を認識したり、身体外部の環境に対して働きかけたりしてきたか、そのプロセスに光を当てるものである」と定義した。93実は、もうこの段階で私は、量的に還元できるような能力というものが事実それ自体として人間の内にあるという捉え方を退けていたのである。本節では、第2章のセンに議論の枠組みの外に置かれた知的障害児(者)に対する日本の政策を中心に、知的な能力を測定することの目的について考え、知的な能力が低いとされた者に対する社会的な特別な配慮がどのように正当化できるのか検討していこうと思う。
 よく知られているように、知的な能力の科学的な数値として、心理学者が行う知能検査によって知能指数が検出されることがある。なぜこのような知能というものが数値として検出されることになったか、平等論の視点から答えるとするなら、数値の低い者に特別な扱いをするためである。知能指数(IQ)とは{{精神年齢}×{生活年齢}×100}で表される。日本では、知能指数を調べる知能検査の結果、知的障害と診断された者は、特別な教育的配慮94と、福祉的な保障の対象として捉えられることになる。知的障害児(者)には福祉的な保障を受けられる証明書として、療育手帳というものが都道府県知事の決定によって福祉事務所で交付される。その手帳を提示すればさまざまな援助措置が社会的にとられるのである。95つまり、社会的な優遇措置や教育的な配慮が特別に必要な者を特定するための一つの科学的根拠としての知能指数96が用いられるのであって、ただ知的な能力の序列をつけることそのもののために知能検査が行われているのではないのである。さらにまた、知能指数が知的障害を特定する一つの目安となっていることに対して、知的障害児教育が専門の菅田洋一郎は次のように述べている。
  
実際には、単純な知能障害だけをもつ者はしだいに減少し、さまざまな行動障害を併せもつ者が増大しつつあり、また既成の知能検査の実施がこのような子どもに対してむずかしいことなどから、以上のような分類〔注96を参照〕が困難な場合がしばしば認められる。とはいえ、分類をめぐる理論や実践にかかわる問題は分類につきもののことであり、ある個人がいずれの段階や類型に明確に落ち着くことはむしろ少ない。したがって分類にあたっては、レッテル貼りになることなく便宜的なものとして弾力的に考えられるべきであろう。さらに教育的分類にあたっては、知能機能や適応行動以外に、生育歴、既往歴、教育歴、知覚、言語、情動、身体発達、運動機能、などの諸点を考慮し、今後の教育的処置を指示できるような総合的・臨床的教育学的視点が必要とされる。97
 このことからもわかるように、知的な能力を知能検査によって測定するということは、特別な教育的配慮(あるいは福祉的保障)が必要な者に適切な措置をとれるようにするための一つの目安を設けることに過ぎないのである。
 それゆえ、「量的に還元できるような能力というものが事実それ自体として人間の内にあるという捉え方」をしなくても、知的な能力(知能)の測定を機会均等の保障の手段としてのみ使うことは正当化できるのである。ではその正当化の手続きを正当化その1として以下で示してみよう。
 
 正当化その1 
大多数の人間の〈身体環境〉に適した標準的な義務教育機関が標準的な社会構造のなかに設置されている場合に、その標準的な社会は、異なる〈身体環境〉である者に対し、他の大多数の者と比べて平等な機会均等を保障することができない。したがって社会は、その異なる〈身体環境〉である者が現に不利益を被っていること、あるいはその者がこれから不利益を被ることが明らかな場合には、その者の〈身体環境の規範〉を理解する一つの手掛かりを得るために科学的手段を用いることができ、その結果得られた科学的知見やその他の要因に基づいて、異なる〈身体環境〉である者に対して適切な配慮をしなければならないのである。

上記の「科学的手段」のなかに知能検査をすることを含めると、知能検査はこれによってのみ正当化できることになる。しかし、この正当化の手続きは「量的に還元できるような能力というものが事実それ自体として人間の内にあるという捉え方」を採用したならば、まったく違った形になってしまう。以下に正当化その2としてそれを示し、正当化その1との違いを明らかにしたい。

 正当化その2
大多数の人間のもつ能力に見合った標準的な義務教育機関が標準的な社会構造のなかに設置されている場合、その社会は、そのような標準的な能力に欠ける者に対して、平等な自由を保障することができない。したがって社会は、その標準的な能力に欠ける者が基本的自由を制限されていること、あるいはこれからその者が基本的自由を制限されることが明らかな場合には、その者のあらゆる能力の欠如の度合いを科学的手段によって測定することができ、その知見に基づいて、標準的な能力の欠如の度合いに見合った程度の適切な補償をしなければならないのである。
上記の「標準的な能力」のなかに知的な能力を含めると、知能検査はこれによって正当化することができる。この正当化その2は、センの基本的潜在能力のなかに知的能力を含め、セン的な平等論のなかに知的障害児(者)を位置づけなおすとこのようになることを示したものである。またこれは、個々人が自己の責任において自由に選択できる能力を平等にもつ(所有する)社会が実現されるための平等論のなかに位置づいている。私は4-2でこのような平等論が市場原理と「自己所有」という名のもとに結合していることを示した。したがって、正当化その2を否定することは、市場原理そのものを否定しなければ実質的な意味をもたない可能性がある。なぜなら、現に多くの社会では市場における貨幣と商品の等価交換によって経済を成立させているのだから、自己と他者の所有する財(ここに能力も含まれるものとしてリベラリストは考える)が明確に区別されなければ、その社会での公正な財の分配が実現されていることにはならない。では、このような市場による経済体制を現に採用している社会で正当化その1はどのような実質的な意味をもつことが可能なのだろうか。次節で検討することにしよう。

5-2 〈身体環境〉の実質的意味と課題

倫理学的議論において、その議論に参加する者の間で社会を語ることができるくらいに、それぞれの主張者が社会の構造を小さく凝縮して提示することがよくある。第2章で紹介したような平等論も、そのような凝縮した形であるために、日常的な会話やその他の学問的領域で話される場合よりも、個人と国家の間の距離がどうしても短くなってしまう。普通なら、その間にもっともっと個々人にとって意味のある問題が山積しているにもかかわらず、倫理学的議論においては、そういった問題をいちいち取り上げることを省略して、すぐに「その主張はどう正当化できるのか」といった質問が飛び交うのある。正当化というのは、個人が自分の個人的な問題関心にだけ基づいて主張しているのではなく、社会のすべての人が納得できるようなごくまっとうな主張をしているのだ、ということを示すための手続きであり、そうした手続きを踏まなければ、それはその人の好み(選好)として片付けられてしまうのである。つまり、倫理学的議論において何らかの主張をしてその理由を尋ねられたとき、「私がそうしたいからです」と答えるよりも、「私の主張は次のような正当性をもつと考えられるからです、つまり・・・」と答えるほうが説得力をもつのだ。
 私が前節で示した「正当化その1」について、後者の回答法によって適確に答えることよりも、どちらかというと「私がそのような社会であってほしいからです」と答えるほうがしっくりくる。しかし、そこはぐっとこらえて、前者の回答法によって言えることを以下に示すことにしよう。
 まず、「障害」を〈身体環境の規範〉という考え方によって捉えることで、それが量的に還元できないことから、異なることは劣ることと違うという視点を確保することができる。また、「文化」という言葉では捉えきれないような特異な身体性に注目することができる。そして、社会の中で特異な〈身体環境〉である者が、その特異性ゆえに不利益を被ることがないような社会的構成をつくる必要があり、そのような社会的構成のために「正当化その1」によって正当化された新しい平等論は役に立つと思われる。また、既存の経済体制のなかでこのような新しい平等論はどのように位置づけられるのかという問いに対する答えはこうである。つまり、既存の社会保障システムによる「障害者」の生活の保障の理由付けが能力主義的秩序を前提としたリベラルな平等論者による理由付けから、〈身体環境〉という新しい視点と「機会の均等」という社会主義的平等論者による視点を融合した理由付けに変換されることで、今後「障害者」そのものの名称も変換される可能性が生じると思われる。また、どんなに特異な〈身体環境〉にある者も、「機会の均等」が達成された社会では自らの〈身体環境〉ゆえの不利益を被ることはなくなり、自らの〈身体環境〉に誇りをもつことができると考えられる。既存の社会保障システムが新しい理由付けと新しい平等論を採用することよって、今後の方向性が上記のような社会の実現に向けられることが予想される。
 
 もちろん、こんなに単純にうまくいくとは私自身考えていない。例えば、健常/障害の量的連続性を拒否することは、公正な財配分のために経済的不利益以外のハンディキャップを数値化することを拒否することにつながる。〈身体環境の規範〉が異なるということは量的に異なるということではないからだ。このことは、障害に対する社会的評価を過酷にするかもしれない。しかし、明らかに規範レベルで〈身体環境〉が異なることが実証できれば、そのために被るであろう社会的不利益は予想することが可能である。その予想された社会的不利益を是正するために何をすべきかということは、平等論の枠組みではもはや語るべきことではないと私は考える。例えばそういった場合に、標準的な社会の人々の〈身体環境〉に合わせる(いわゆるリハビリテーション的発想をとる)べきだということも実際可能かもしれないが、それについては、平等論を採用するような倫理学的立場から一元的に言える問題ではない。そのような問題に関与するのではなく、あくまで、個人に身についた〈身体環境の規範〉というものを(例えそれが標準的ではないとしても)尊重しながら、そういった個人が不利益を被らないような社会を実現すべきだということは、ひとつの平等論のなかで言うことが可能だと私は考えている。
 また、これまで私は第2章や第4章を中心に、《個人が自己の責任において自由に選択できる能力》が事実それ自体としてあるという考え方のもつ偏重性とその限界を示してきた。その偏重性と限界を強調するためにも、「正当化その1」によって正当化された新しい平等論は機能しうるのではないかと考えている。以下に、なぜ私が「私がそのような社会であってほしいからです」と考えるのかについて、あくまで非公式な見解を述べてみよう。

「障害」の問題について、抽象的議論が今よりもっと少ないときから社会学的に議論を進めてきた立岩真也は、「自己決定」することについて次のように述べている。

自己決定することの大切さだけを言うと、自己決定しないことの気持ちよさを無視してしまう。また、自己決定の限界だけを言っていると、「では私達にまかせなさい」といった言説にからめとられてしまう。両方からの距離をともに言っておくことは大切なことだと考える。ある人の自己決定はその人が在ることの一部であるから尊重されなくてはならず、またその人が人生を楽しみ、自分の身を守るために必要なものでもある。同時に、それはあくまでも在ることの一部であるから、何よりもその人が在ることよりも、大切なものではない。

 センが強調したような《個人が自己の責任において自由に選択できる能力をもつ》ということが「その人が在る」ということと同一視されることの偏重性は、《》の中に「文化」やある種の「共同体」という言葉を入れて考えるコミュニタリアン的な論法のもつ偏重性と同じ種類のものある。そのような偏重性によって、センのような平等論者が想定する社会の構成員のなかには、現実にはごく限られた種類の人たちだけしか含まれていないことがわかった。もしも、センという平等論者の想定する社会構造を受け入れてしまうなら、私が《個人が自己の責任において自由に選択できる能力》(本当にそんなものがあるとしたら)といったものを失ってしまえば(正当化その2を拒否した以上)、私は私自身がその社会の中で意味のある言葉で語られることがなくなることを受け入れなければならない。そしてもしも私が、そういった能力が欠如しているとリベラルな社会に見なされることが確実であるような、そんな子どもを授かったとしたら、私はその子どもをその社会のなかで意味のある言葉で守ることはできない。もしもそんな友達がいたら、もしもそんな家族だったら、と思えば思うほど、私はそのような社会を受け入れることはできない。98私自身がどう考えていようと、リベラルな社会の人々は、現在の私を分別ある選択ができる者(理性的存在者)とみなすだろう。そして、リベラリストはそのような理性的存在者なら、リベラルな社会に同意するだろうと考えるだろう。それにもかかわらず、私はそのような社会に同意しないと言っているのである。そして、どんな〈身体環境〉であれ「その人が在る」ということの不可侵性を確保できる社会であってほしいと考えているのである。これは、何も現在の経済体制そのものを根本的に改革すべきだと言っているのではない。社会保障の枠組みも(社会保険と公的扶助の比率そのものも含めて)現在の経済体制のなかで作られる以外に方法はない。しかし、一切の社会保障システムに対する理由付けが、あまりにも量的に還元可能な能力主義的秩序を当然の前提としたものであったり、「自由であること」が社会的共通善として捉えられたりすることを私は懸念しているのである。自由主義左派は、センのような新しいタイプの平等論者を迎えいれたことで、「自由であること」から自由でなくなりつつあるのだといえる。前節の私の「正当化その1」によって正当化される新しい平等論は、そのような傾向が世界的に広がることを是正するための極論として、そして、現在の社会保障システムに対する一つの理由付けとして機能することが可能ではないだろうか。しかし、私のやり方には、まだまだ問題が多いことも事実である。例えば、文化の違いによって社会的不利益を受けている者と〈身体環境〉の差異によって社会的不利益を受けている者について、収入のレベルが同じだった場合、どちらの不利益を是正することを社会的に優先すべきなのかについて、私は答えていない。また、後天的な〈身体環境〉の差異によって不自由を強いられている人(後天的に「障害者」になった人)と老齢によってそうなった人との区別についても私は触れていない。これらの考察については、今後の検討課題としたい。




おわりに

 本論を執筆することで、自分の政治的立場が見えてくるのではないかと、私は少し期待していた。倫理学的議論において、あらゆる政治的立場との自分の主張の関連性を示すことは、相手に対するほとんど「誠意」に近いものがあるからだ。しかし、私の主張そのものは、コミュニタリアン的「文化」のなかにも、(リベラルとリバタリアンを含む)自由主義的「自由」のなかにも、社会主義的な「共同性」のなかにも完全には位置づけられないということがわかった。現代、このようなあらゆる政治的立場の擁護者が「平等論」を提唱しているのであるが、なかでも私は、センの平等論に対しては、かなりの紙面を割いて抵抗を示してきた。様々な平等論の中でも、そしてこれまでの倫理学者や哲学者の理論と比べても、センの平等論はかなりの勢いであらゆる分野への応用が検討されている99。1998年にセンがノーベル経済学賞を受賞したことは、その勢いと無関係ではないだろう。高校倫理の教科書には、新課程からロールズとセンにつての記述が一部の教科書で掲載されることになるらしい。能力主義的秩序による不平等の是正が、必ずしも能力主義的秩序に歯止めをかけるとは限らないし、むしろ拍車をかけることもありうる。しかし、時代の潮流のなかでセンの平等論が受け入れられつつあることは事実である。この事実が、私にとっては強烈なインパクトをもっていたがために、自分の未熟さは承知の上で、対抗策を練ることに専念してしまった。議論の粗雑さはかなり目立つと思われる。
 しかし、2年という限られた時間で、倫理学的議論として本論が一つのまとまった形として提出できたのは、ひとえに、私をいつでも倫理学的(あるいは哲学的)議論の巻き添えにしてくれた級友たちと、私の遅遅たる発言に耳を傾け、適切なアドバイスをして下さった先生方の御蔭である。その議論漬けの生活は、外国語の学習方法に似た成果をあげたのではないかと思われる。また、千葉大学で毎月開催されている情報倫理学会という席で2度も発表の機会を与えていただいたことで、貴重なご意見を多数拝聴した。この学会での議論の内容についてはホームページで公開されてはいるものの、残念ながら記録に残されていない、会終了後から日付が変わるまでの議論(参加者全員が眠気とアルコールに挑みながらのものなのであまりクリアな議論ではない)の方が、私としては興味深かった。それに付き合わされた遠方からのゲストの先生方には、この場でお詫びを申し上げるとともに、感謝しています。懲りずにまた来てください。
 また、本論では、社会学的方法論があまり役に立たないのではないかと思われるような記述があるが、「障害」の問題に関して学問的に抽象的議論として扱っている分野としての社会学的業績は、私に現実的な問題の所在を見る視点を与えてくれた。その上で倫理学的議論がさらにレベルの異なる視点をもたなければならなかったことをご理解いただきたい。
 最後に、お名前を挙げることはしないが、障害児教育と社会福祉が専門だった私に、千葉大で議論の足腰を鍛えることを薦めてくださった先生、快く受験勉強に付き合って下さった先生、有難うございます。
 私は千葉大学にもうしばらくお世話になることになるが、もし、本論に関心をもっていただけた方がいらっしゃれば、そういった方々との学問分野を越えた議論ができることを期待して、本論を終えることにする。





1 メルロ・ポンティ(1967)『知覚の現象学2』p.33
2 清水(1997)は、「医学的QOL評価の対象となるもの−医学的に見られた人間自身を〈身体環境〉と呼ぶことにする。ただし、ここでは、精神ないし情緒のあり方も、状態として、また本人が生きる環境としてみる限りは〈身体環境〉に含まれる」としているが、この定義では医学的に見られた〈身体環境〉が〈規範〉に従っているというふうに外部の人間が捉えるかどうかは、はっきりしていない。
3 品川(1994)p. 296
4 カンギレム(1987)p. 207
5 カンギレム(1987)p. .208
6 カンギレム(1987)p. 124
7 ミルとベルナールの科学的真理についての考え方を比べてみると興味ぶかい。「一言でつくせば、科学の最大真理は、実験的研究の末梢の細部にその根をおろしているのであって、いわばこれらの末梢の細部は、その中で真理が生長するところの土壌である」とベルナールが述べていれば、ミルは「ある科学の第一諸原理として究極的にうけいれられる諸真理は、まさしく、その科学と関連する基本概念についてなされた形而上学的分析の最終結果なのである。そして、科学にたいするそれらの真理の関係は、建物にたいする土台のそれではなく、樹木にたいする根のそれであって、ほりだされることも日光にさらされることも決してないとしても、その役目を同様によく果たすのである」と述べている。ベルナールが考える科学的認識から隠された真理を、ミルは根っこを掘り起こすようにして形而上学的に分析することができ、その結果が道徳の最終目的であると考えたのである。二人は実験科学と道徳の価値分析という全く別の仕事をしながらも、逆説的に似ていたのかもしれない。(ベルナール(1938)p.34、ミル(1976)p.117、ベルナールの業績については田崎(1976)を参照。)
8 カンギレム(1987)p.42-69、また、ベルナールとカンギレムの主張の対立は科学哲学の領域では「機械論」と「生気論」の対立として捉えられている。詳しくは本多(1979)を参照。

9 ニーチェ(1993)、p.313
10 ヴィトゲンシュタイン(1981)、p.207
11尼ヶ崎彬(1990)、より引用。原典は ウィトゲンシュタイン(1976)、六八節、71
12 前掲書、六九節、72
13 ニーチェ(1970)202節p.156-157
14 ニーチェ(1993)120節、p.214
15 20世紀以降のアメリカでは、元来の意味から離れた福祉国家的・社会民主主義的な意味で使われるようになっている。日本ではアメリカ以上にこのリベラリズムという用語法は普及しており、マルクス主義者や社会主義者でさえもこの中に含まれることがある〔森村(2001)p.17 〕。しかし、本論では社会主義やマルクス主義とは区別される福祉自由主義をリベラリズムと呼ぶことにする。
16 正義の二原理の訳語は、以下のものである。川本(1997)p.133-134
17 このような個人の描き方は根無し草であるとして、コミュニタリアンは批判している。サンデル(1992)、マッキンタイア(1993)
18 ロールズ(1971)
19 Rawls (1975)
20 セン(1989)、p.249
[]の訳語は訳者によるもので、「身体障害者をどのように扱うべきかという」というふうに補足されているのは、センの文脈を補足したもので、ロールズの原典にある「the mentally defective」を訳したものではないと考えられる。ほかにロールズのこの個所の邦訳としては、「精神障害者」というものがある。竹内(1999)p.194
21 前掲書、p.253
22 セン(1989)p.255
23 「よきひとたらんがためには、うるわしき育成や習慣づけを与えられること、そしてそれに基づいてよき営みのうちに生きてゆき、みずからすすんでする行為たると、然らざるとを問わず、あしき行為はおよそこれをなさないでゆくようにすることが必要であるとするならば、こういったことの実現のためには、ひとびとの生活が何らかの知性によって律せられ、強健を有するただしい指令によって律せられるのでなくてはならぬ。」アリストテレス(1973)p.186
24 Korsgaad(1993)p.55-56 本論文の訳は田中による。
25 well-beingは「福祉」と訳されることが多いのだが、福祉政策などを連想させるため、本論では「よき生」という訳語で統一している。「個人のwell-beingは、その人の生活の質、いわば「生活の良さ」としてみることができる」セン(1999)p.59
26 「基本財は、財にかかずらうという物神崇拝の欠陥を背負っており、そのリストが権利、自由、機会、所得、富、自尊の社会的基礎まで含んだ広範な内容を記載していようとも、それらの財が人に対して何をしてくれるのかということではなくあくまで善きもの(good things)にしか目を向けていない。」セン(1989)p.253-254
27 前掲書、pp.249-245を参照。
28「 効用主義とは、ある事態の善さがその状態における諸効用から見た善さによって、余すところなく判定されうる、と見なす見解である。この立場は、諸効用の善さがそれら総計値によって計られなければならないという条件をさらに付け加えてはい、ないので功利主義よりも要求度が低いといえる」前掲書、p.235
29 Cohen (1993), p.17
30 積極的自由とは「〜を為しうる自由」であり、消極的自由とは「〜の自由、〜を避ける自由」である。消極的自由の例として、センはマラリアから自由な生活を挙げている。
31 ibid. pp. 22,25
32 Sen (1993), p.44
33 センはこれを「cripple」と表現しているのだが、現在この言葉には差別的な意味合いが多く含まれることから、本文中では日本語で表記することにする。
34 「disability」がなぜ身体上の疾病と訳されているのかも疑問だが、ここは翻訳の問題よりセン自身の問題にだけ焦点を絞ることにする。
35 センは「Equality of what?」を1979年にスタンフォード大学のタナー講義で発表しているが、論文の形で公刊されたのは1980年である。タナー講義とは、オバート・C・タナー(ユタ大学哲学教授で宝石製造会社の社長を兼務)の基金によってケンブリッチ大学などに設置された紹聘講座である。川本(1997)p.204-205を参照。
36 Sen (1993), p.44 この論文の訳語はすべて田中による。また、「ミッドフェア」とはコーエンの造語であり、人間の自由とは独立に財から直接得られる効用を意味している。詳しくは本論p.48を参照。
37 ibid, p.39
38 ibid, p.40
39 ibid, p.39
40 例えばコーエンは、センの強調する人間の「純粋な選択」の可能性とは独立に、「有利さへのアクセス」を実現することが国家が目指すべき平等だと考えたのである。Cohen (1993) p.28
41 岩崎(1998)pp.63-64
42 ネーゲル(1989)p.161
43 ソンタグ(1992)p.92
44 茂木(1998)p.26-27 これについて津田(2000)は注の5で「「障害/健常」二元論は、「特別なニーズ」とは異なる次元の、社会的構築物なのである。したがって、“障害があるから「特別なニーズへの権利」を認める”という常識にこそ挑戦すべきであり、「障害/健常」二元論の超克による「障害者」の解放と、「特別なニーズへの権利」の保障とが両立する理論構築が重要である」と述べているが、私は本論でこのような構成主義はとらない。その理由については、3-2-2を参照されたい。
45 石川(1988)、p.156
46 前掲書、p.152-154
47 茂木(1998)、p.26
48 Tarnoff (1985)
49 ibid. p.41
50 木村・市田(2000a)p.10-11
51木村・市田(2000b)は、「「障害者が病理的視点と決めつけて、自らはそこから脱却しようとしている」といった批判」(p.397)にする答えとして、次のようにろう者の定義が変更されている。「ろう者とは日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、耳の聞こえない言語的少数者である」。この定義から「耳の聞こえない」ということを『障害』としながらも、「私たちは「ろう者」が「障害者」として他の人々ととともに人くくりにされること―それが特に有効であったとしても―によってもたらされる弊害を問題にしているから、「ろう者は(言語的少数者であると同時に)耳が聞こえない『障害者』である」とは決して言わないのである」(p.399)として、『障害者』いう社会的な見方そのものを強く拒否していることがわかる。
52 千田(2001)は、社会学の領域で、バーガーとルックマンのconstructionが構成と訳されているのに対し、スペクターとキツセのconstructionが構築と訳されているの次のように説明している。前者がミクロなレベル、つまり「専門家である知識人によって生産されてきた知識を対象とするのではなく、日常生活を営む普通の人々にとって、知識がどのような意味をもつのかという問題に焦点を当てた」(p.20)のに対し、後者はマクロな意味生成過程のレベルつまり、「研究者の役割を社会問題の構築過程を記述するのに限定した」(p.21)としている。私自身のここでの構成主義の定義は、権利主張をする行為者に焦点を当てていることから、前者に依拠していると言えなくもないが、構成と構築をそこまで厳密に区別しているつもりはなく、哲学や倫理学の文脈ではまだ構成主義と言った方が話が通じやすいために、この訳語を使っているだけである。
53 例えばまた、オーキン(1994)は、ロールズの正義論の「第2部における制度の議論は暗黙の内に多くの点で、正義にかなった制度を形成する当事者は(多分に伝統的な)家族の(男性の)長であり、したがってまた、家庭内部での正義にかなった分配の問題には関わらないという仮定に基づいている」(p.157)と指摘している。
54 田中克彦(1981)
55 前掲書、p.38
56 前掲書、p.39
57 前掲書、p.39
58 前掲書、p.40
59 前掲書、p.41
60 前掲書、p.44
61 この分野の先進的な論文として澁谷(2000)があげられる。
62 コノリー(1998)を参照。
63 文化がアイデンティティの基盤であることを一般的な基準にするかどうかは、コミュニタリアンとリベラルの間で意見は分かれている。コミュニタリアンはそうすべきだと考えているが、リベラルは、必ずしもすべての者にとって文化やある種の共同体がアイデンティティの基盤としてあるべきだとは考えない。では、「リベラルな共同体」とは如何なるものなのかについては、ドゥオーキン(1994)を参照。
64母語ではそもそも民族主義と直結してしまう可能性が秘められているのであったが。
65 本論、p.5
66 リベラルならこういった文化間摩擦の問題に対して「寛容」を呼びかけるだろうが、この「リベラルな寛容」とはそもそも多数派の論理であると大庭(1994)は指摘している。「多数派によって貶価され否定される価値を奉じ、それゆえに不利益・迫害をこうむってきた少数派にとっては、「異なる価値を尊重する」ということは、多数派の価値を尊重することに他ならず、彼らによる迫害を尊重する(!)に他ならない。かかる少数派にとっては、論理的に言って「寛容」が出る幕はない」pp.140-141
67 必ずしも言語と民族は一対一対応ではないということはよくいわれることである。
68 例えばシムコム話者/日本語話者/日本手話話者と、中途失聴者/難聴者/ろう者は必ずしも一対一対応ではないが、一対一対応では語れないからこそ、それぞれの生育環境によって身についた〈身体環境〉を互いに尊重しあうことが必要なのではないだろうか。
69 といっても、多分誰もすぐにはやってくれそうもないので、私がやります。
70 下村寅太郎(1969)、p.302
71 この立場の代表格と考えられるのがノージック(1992)である。
72 朝日新聞朝刊、10月18日、10月25日2
73 レーマー(1997)p.40
74 大庭(1994)
75 前掲書、p.147
76 前掲書、p.145参照。
77 前掲書、p.144-155
78 「パレート最適の状態とは、ほかの個人の満足を減じることなしには、もはやいかなる個人の満足をも増加させえないような状態をさす・・・いま各個人の判断体系が通常の消費者理論で考えられているように、彼自身の保有する財にかんする無差別曲線の型をとっていると仮定すると、パレート最適の状態は、他の財を減少させることなしにはいかなる財をも増加させえないという意味での生産量極大の状態に等しく、しかもその状態が完全競争によって達成されるということが証明できる。」経済学辞典(1965)p.1102
79 つまり、富とそのほかの自由、機会、権利、自尊心の社会的基盤を並置したロールズの社会的基本財は、すべて勘定できるものであると言い換えることも可能である。
80 ウォルツァー(1999)p32.
81 竹内(1987)p.513-514、なお引用中の傍点(、、、)はすべて竹内氏による。
82 福島(1997)p.306-308
83 竹内(1987)p.513-514
84 前掲書、p.514
85 竹内(1987)p.516
86 また、ローマーによって社会主義哲学者の一人と数えられていたバリーは、次のように述べ、自由主義と社会主義の整合の可能性を示している。「わたくしのみるところでは、ロールズの『正義論』の重要性は次のような自由主義の言明にある。そなわち、その言説は、生産手段、配分および交換における私的所有権を学説の不可分な部分とせず、むしろ付随的な事柄とすることにより、その決定的な特徴をきわだたせており、さらに、適切に解釈し、一定の実際的な仮定をおけば、平等主義的含意をともないうる分配理論を導きいれているのである。社会主義が公的所有や平等性を同一視されてよいなら、このような自由主義の形態は社会主義と整合しうるのである」Barry(1973)p.166、なお訳語はローマー(1997)p.182の伊藤訳に従った。
87ローマー(1997)p.24
88 Cohen (1993)p.28 この訳は田中によるもので、本文中の〔〕内の記述も田中が補ったものである。
89 愛知県立心身障害者コロニー(1997)
90 センは次のように述べてこのことを認めている。「いうまでもなく相対的重要度〔=他者との関係の中で捉えかえされた価値〕の理念は、当該社会の本性に従って条件づけられている。基本的潜在能力の平等という観念はきわめて一般的なものだが、それを適用するにあたっては、どうしても(特に異なった潜在能力を比較考量するような場合に)文化に従属する形であらわれざるをえない」セン(1989)p.255なお訳語はセン(1989)の邦訳に従い、〔〕内の訳語の補いはこの訳者によるものである。
91 センと同じくリベラルな平等論者であるネーゲルは「私には、数をまったく問題にしない理論が説得力をもつことはありえないように思われる」と述べ、説得力のある平等論のなかには、多数決によって価値の総和が最大になるような功利主義的選択の可能性が十分ありえることを示している。ネーゲル(1989)p195
92 本文p.5
93 本文p.5
94 小学校入学前の子どもに対する教育委員会の就学指導の一環として、健康診断が行われており、そこで何らかの「障害」が認められた場合、学校保健法により教育委員会が適切な措置をとることが義務付けられている。学校保健法・第五条には「市町村の教育委員会は、前条の健康診断の結果に基づき、治療を勧告し、保健上必要な助言を行い、及び学校教育法代二十二条第一項に規定する義務の猶予若しくは免除又は盲学校、聾学校若しくは養護学校への就学に関し指導を行う等適切な措置をとらなければならない」とある。また、養護学校の義務制による教育機会の均等が本当に実現されているのかについての議論は、竹内(1986)を参照されたい。
95 平成9年度の知的障害者福祉法によると、療育手帳の提示による援助措置は(1)特別児童扶養手当(2)心身障害者扶養共済(3)国税、地方税の諸控除及控除減免税(4)公営住宅の優先入居(5)NHK受信料の免除(6)旅客機鉄道株式会社等の旅客機運賃の割引がある。
96 学校教育法施行令第二十二条三で、知的障害者は「1.精神発育の遅滞の程度が中度以上のもの 2.精神発育の遅滞の程度が軽度のもののうち、社会的適応性が特に乏しいもの」とされており、文部省の通達「教育上特別な取扱いを要する児童・生徒の教育措置について」(文初特第309号)では、知的障害の重度はIQ25ないし20以下、中度はIQ20ないし25から50程度、軽度はIQ50から75となっている。
97 菅田(1993)p.85、なお精神遅滞、精神薄弱という名称は現在法令上「知的障害」と統一されているので本文中ではすべて「知的障害」という名称を使っている。
98 もし、センの平等論を拡張することで、子どもや「知的障害児」もそのような平等論の恩恵を受けることが可能な社会が実現したとしても、私はそのような社会を受け入れることはできない。
99 現在日本でセンの理論に注目している論文として手に入るのは、富澤(1999)、種村(2000)、岩崎(1998)(1997a)(1997b)などがある。




参考文献・第1章
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ノージック(1992)、『アナーキー・国家・ユートピア:国家の正当性とその限界』、嶋津格訳、木鐸社
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Th.ネーゲル(1989)、『コウモリであることはどのようなことか』、永井均訳、勁草書房

第5章 
菅田洋一郎(1993)、「精神遅滞児(者)の特性と指導」、岩部元雄編『現代心身障害学入門』、福村出版
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REV: 20160125
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