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「障害者・動物・排除」
障害学研究会関西部会第13回研究会

20011223 於:茨木市福祉会館.


■障害学研究会関西部会第13回研究会

日時:12月23日(日) 午後2時〜5時
会場:茨木市福祉文化会館 203号室

司会:横須賀俊司氏

報告「障害者・動物・排除」
三島 亜紀子 氏(大阪市立大学大学院後期博士課程)

★以下、配布レジュメ+報告による補足(【 】内)

障害者・動物・排除
三島 亜紀子(大阪市立大学大学院後期博士課程)

【社会福祉学会の発表で非常に悪評だった。弱者と動物を並べることの「危うさ」とは?】

『動物福祉国家論(仮)』の構成【研究全体の構想。今回の発表はIの最初のみ】
1 動物と弱者
・障害者
・子ども …虐待
・女性 …心理学、医学、社会運動の担い手
・貧困者 …犯罪
2 苦痛と福祉国家

1 はじめに

・障害者をdisabled peopleではなく、person with disabilityと表記する人々がいる。障害者はそれまで人間として扱われてこなかったことを暗示?
・ヴォルフ・ヴォルフェンスベルガー(Wolfensberger, Wolf)
「障害者≒動物」【として位置づけられてきた】
 私的な領域・公式の文脈・学問分野
・「ろう文化宣言」(木村他〔1995=1996〕)
 従来の意味付けへのアンチテーゼ
【「手話は恐らく類人猿を距ること遠からざる時代の貨財であったであらう。さる原始的なものを取って現時人間に学ばせようとするは、アナクロニズムも亦甚だしいものといはねばならない」(川本〔1936〕)】

 こうした身体上の非―正常な部分へ貼示された、否定的な言説に重点をおきたい。具体的には、障害者は動物に近いものと位置づけられ、伝統的な学問に裏付けられたことを確認する。そして、こうした「動物≒障害者」という思考は近代社会のなかに機能し、福祉の対象者としての障害者がそれによって不利益を被ってきたことを指摘したい。

2 法律にみる排除

口述による遺言と唖者
・1999年、公正証書による遺言作成にかかわる民法第969条の改正【成年後見法に伴う】
・異議申立書が法務局に提出されてからの進展は「意外に」(田中邦夫)早かった。
 口述を必須要件とする考え方はいつ入ってきたんだろう?

遺言における口述主義の移入と明治初期の日本
・明治11年民法草案
 フランス民法典における遺言方式の強い影響下にあった。
・『ボアソナード氏寄稿 民法草案 権利獲得方法之部』(明治19(1886)年)以前
 明治11年民法草案では条項に含まれた「生存中ノ贈遺及ヒ遺嘱ノ贈遺」は削除
 しかし、口授は必要不可欠という
・近代化の過程〜社会的了承を超越したところで発話の優位性が公的に裏書きされる

 言葉を発さない者たちの存在を無効とし、排除する制度が整備されていったという事実である。同時に、社会的了承を超越したところで、発話の優位性が公的に裏書きされていく。そしてこのことは、近代化の過程と無関係ではないだろう。逆に、次に述べる発話の特権性が効力をもつ世界に立つとき、こうした口述主義の導入によってはじめて日本に人間か存立が可能になったといえるのかもしれない。

発話の特権性

わたしはものをよういわぬ幼児(enfance)ではなく、もう口のきける少年であった。
わたしは、このことを記憶している(Augustinus〔1971〕)。

ディルクセン・バウマンin Disability Studies Reader(Davis, eds.〔1997〕)
ろう者の存在や彼らの共有する文化は、それ自体が「脱構築」であり、パロールの特権性を無意味化し、ひいては西洋形而上学への本質的なアンチテーゼを体現するという図式が可能となる.
 →ルソーを脱構築の模範的な実践と位置づけるデリダ
 (Derrida〔1967=1972-1976〕)を論拠

発話する人間と発話しない動物【の間に境界線がある】
・声音によるコミュニケーションの在/不在=人間/動物の判断材料。
・重複化【境界線の引き方が多数ある】/不鮮明化【人間-動物という序列があってその中に位置づけられる】
 ルソー、メトリ/メトリが「唖者」は人間に「近い」と譲歩するとき
 ダーウィン『人間及び動物の表情』(Darwin〔1872=1938〕)
【同書の目的は、第一に、人間を含めた動物の表情や身振りが生得的で「遺伝」することを確認し、第二に、動物間や民族間における表情などの比較を通して進化論を立証することであった(Darwin〔1872=1938〕、斉藤〔1993〕)。先天性の盲聾者である、ローラ・ブリッジマンという少女が幾度も言及されたのは、表情やジェスチャーが生得的であることを証明するがためであった。これは第一の作業を遂行するためのものであるが、必然的にもう一つの目的にある進化論的序列のなかのどこに位置づけられるかが問われることとなる。盲聾の少女が子どもや精神病患者、動物と並んで検証されたことを鑑みると、人間の場所から幾分離れた進化の線上に位置づけられたことは否めない。というのも「特定の表情や身振がどれほどまでに一定の精神状態を真実に表現するかを確かめるため」(Darwin〔1872=1938〕)、彼(それ)らの表情や身振りはより原始に近い形で表出されるという仮定から検証されたからである。】


3 「動物」の教育可能性

神との対話と人間の証明
・人間の領域を浸食する動物という存在
 人間側に「動物的な」ろうあ者を引っ張りあげることを目指した、
・教育 〜二つの異なる層
 宗教的な層/「科学」的な層
・宗教的な層
 ベイントン 19世紀半ばまで、ろう=キリスト教的コミュニティからの孤立  発話が不在の祈りは神との断絶を意味した。
【ロシュ=アンブロワーズ・シカール(Sicard, R. A. C.)の後継者であり、聴覚障害をもつ聾教育者であったジャン・マシュー(Massiew, Jan)は、『自伝』(1800)のなかで次のように懐述している。
「子どもの頃、父は私に朝と夜、身振り手振りでお祈りするようしつけました。膝まづき、掌を握り合わせ、普通の人が神に祈るときにそうするように唇を動かすまねをしました。今でこそ私は、天と地を創造された神が在ますことを知っています。しかし、子どもの頃の私は、神ではなく、空を崇めていたのです。神は見えませんでしたが、空は見ることができたのです」(Massiew〔1984=2000〕)】

・シカール、ポール=ロワイヤルのジャンセニスト
 ろう=動物・自動機械
【「我々は、このただ生きているだけの自動機械に新しい存在を与え、彼と他の人々との間に何らかのコミュニケーションの輪を確固として作り出さなくてはならない 。この獣をなだめ、この野蛮人を人間らしくしなければならない」(Sicard〔1984=2000〕)】
・病原菌のごとくろう者の思考を汚染する書記言語(ハイニッケ)←→レペ
 近代国家のなかで力をもつにいたる。【筑波にある聾学校の校長室にハイニッケの大きなレリーフが飾ってあった】

 教育による「奇跡」の価値を高めようとすればするほど、発語の訓練を受ける前の状態の「悲惨さ」や「動物性=非人間性」が強調されるという悪循環が成立する 。

口話主義と身体器官
・純粋口話法による教育の普及 …1880年「世界聾教育者会議」ミラノ
・1933年の鳩山一郎文部大臣による口話の支持表明
・「科学」的な層
(1)「医学」的見地、(2) 国民教育という意図、そして(3)「(社会)科学」的歴史観        ろう文化宣言 ←科学的でないというが・・・
(1)
・肉体の鍛練に加えて、病気の予防こそが「口話法採用の一大理由」(川本〔1940〕)
・医学的視点/精神と肉体をつなぐ発音(身体器官の振動をともなう)

国語という義務 (2)

・ろう文化宣言… 手話は一つの言語と訴えた
 手話は一つの言語とされたからこそ駆逐されたといったほうが正しい。
 手話は国語に符合することのない非国語として認識されたため、厳重な取り締まりの対象とされたのだ。
【「夙にせめて式日唱歌だけでも、生徒に教へて、之を歌はせたいと念願して居つたが、漸く数年前より之を行ふに至つた時、保護者の中には、子供が愈ゝ一人前の日本人になれるといつて、感涙して喜んだ者があつた」(川本〔1954〕)】
・口話式のみが国粋的というわけではない。 【川本が悪玉で藤本が善玉というほど単純ではない】
【「その言語形式の如何に係はらず、彼人生の意志過程に於て、「真」を創造したる内容を有つた何らかの形式のものを言語と肯定することは、最も妥当的なことである。それ は、聾唖者の場合、手真似をして現れたものでなければならない」(藤本〔1935b〕)】
進化という強制 (3)
・ヴント『民族心理学要論』(Wundt〔1912〕)
藤本敏文(ヴントを批判) ←(対峙)→ 川本(ヴントを論拠)

 ヴント博士の謂ふ原始的手真似、原人的、未開人的手真似と同一視する一大誤謬を完全に打破せねばならぬ(藤本〔1941〕)
 ヴントの民族心理学で、指摘して居る身振表情なるものは、凡て、野性的な、無教養な、従って国語と乖離した手真似を謂ふのであつて、所謂原始的な手真似である(藤本〔1943〕)。

4 「動物」の性

障害者と性【動物に近く位置づけられる障害者を人間の側につなぎ留めるために性的なるものを抹消する】
・障害者全般の「障害者=動物」にもどる 
・障害者が性的主体として成立しなかった理由

ヴォルフェンスベルガー
(1)「人間的な意味での結婚」ができない為、(2) 優生学的伝統、(3) 不適格な親になることへの恐れ、(4) 既存の結婚概念による拘束、(5)宗教−神学的な反対(Wolfensberger〔1972=1982〕)

立岩真也
(1) 優生(学)的に問題があるとされること、(2) 性という領域が私(秘)的なものであることにかかわること、(3) 性的な「行為」「関係」の定義の困難性、(4) 単に好かれないという場合、(5) 性的暴力の被害者となることが多いこと

ミルトン・ダイアモンド(Diamond, Milton)
(1) 医師などの専門家… 治療やリハビリテーションなどにプライオリティを置く
(2) ボランティア団体が寄付金を募る場合… 清純なイメージ
(3) 親… いつまでも子どもであり、家族のもとにあっては性的に未熟

・障害者の性の顕在化
障害者を神聖化し、彼らの性をタブーとする力が衰弱したとすべきなのだろうか?
しかし、ある伝統的な着想が存在する。
・掛け声の困難性【ex. オランダのSARサービス】
人間としてのニーズ、権利、市民権、バリアフリーの一環…
 
 性的な主体となった障害者をはじめて人間とする発想を、単にパフォーマンスとして利用するなら、ろう児が唱歌を歌えば「一人前の日本人」とする文脈と同様の欺瞞性を感じとることができる。このパフォーマンスは、近代的セクシュアリティを擁立してきたその同じ位相で展開されるために、非常に説得力に富むものではある。しかしそれは、障害者運動のなかで明示してきた論理と併存するものではないように思える。

障害学における性
・トム・シェークスピア(Shakespeare, Tom)ら【マイケル・オリバーを名指しで批判】
 "The Sexual Politics of Disability: untold desires"〔1996〕
 障害者のセクシュアリティ経験に関する「ナラティヴ」を豊富にする試み
 障害者運動・障害学においても、障害者の性は語られなかった

・無性(asexual)の存在、障害者【ex. 障害者用トイレは男性用と女性用の真ん中にある】
 こうした想定は再び障害者の生活に立ち戻ったときに、強制力として働くことになる。  こうして、性は「逸脱行為」として把握される。
  ←(対峙)→フロイトの精神分析学【子どもの性欲を与件とする】
【フロイトの野蛮性 
・全ての文明人に内なる野生を設定する。
  性的行為とは動物性を増進させる営み。
・動物に近似する障害者
野生の増進を「予防」するために、性から隔離される。
障害者の性に関わるテーマの徹底的な無視。
また、「フロイトは性的本能を遺伝的相関性から切り離す」(Foucault〔1976=1986〕)側面とも重ねて考えていきたい】


●15:05-15:15 休憩

●質疑応答
(A)日本ではろう文化を研究している学者はいるか?
:『現代思想』の特別号に執筆している人たち、木村晴美さんなど。1970-80年代にも、ろう文化とはとくに言っていないが、野生児研究の中からろう教育研究をやっている人がいる。
(B)社会言語学研究の中でも、手話が言語であるという説明がある。ろう史の学会もある。研究を仕事にしている人は少ないけれど。
(A)世界的にはろう文化研究者はどのくらいいる?
:何をもって「ろう文化研究」とするのかが難しい。ハーラン・レイン『アヴェロンの野生児研究』など。
(C)ろう者・ろう教育の研究は19世紀からあるが、その中から、教育する方が間違っているという考え方が出てきたのは20世紀。それがどこからか、その区別はあいまい。
(A)手話文化からの切り口でみても、ろう文化からの観点と同じ?
:他の文献として、レイン編『聾の経験』、金澤貴之『ろう教育の脱構築』もある。
(D)人間らしくない生活=動物的ととらえてよいか?
:貧困者は非人間的=動物的と捉えられた痕跡がある(福祉国家へ至る過程で)。人間的でないことを動物的とした、これまでの思考回路に問題意識をもった。
(D)その回路を取り上げるのに伴う反発を覚悟であえて問題提起する理由は?
:功利主義者の役割が社会福祉でも重要視されているが、功利主義者は動物への配慮を貧困者と同時に配慮している。今後の論文で取り扱う。
(D)動物の痛みにまで配慮する社会が望ましいということ?
:そういう主張をする予定はない。たとえばミルの危害原則では動物も苦痛を回避されるべき対象と設定されている……
(E)功利主義と自由主義とは文脈が異なる。
(B)動物福祉とパーソン論は延長線上にある?線引きの仕方として通底する?
:苦痛をキーワードにしてみたい。ウォルフェンスベルガーは「障害者は動物のように寒さや痛みを感じないとみなされたため、人々は過酷な状況を障害者に強いても、無関心を装うことができた」と指摘している。賀川豊彦は「貧民はよく刺青をするが、痛みがともなうのにかかわらず流行しているのは感覚がないから」、「布団がなくても眠れる貧民は感覚が鈍く動物に近いから」と述べた。福祉の対象者と苦痛への耐性(あるいは苦痛への鈍感さ)はよく言及されたが、その辺りでつないでいけるかなと。
(C)ジャンセニストとは?
(E)小学館ランダムハウス英和辞典によると「ジャンセニズム:Cornelis Jansen および彼の信奉者の教理体系,またその教会改革運動;アウグスチヌスの恩寵(おんちょう)論によってイエズス会を批判したため,迫害を受けた.」「ポール=ロワイヤル:Paris 郊外の女子修道院;17世紀にジャンセニスム(Jansenism)の中心となった.」「ジャンセン(ヤンセン)(1585-1638):オランダのローマカトリック神学者;ジャンセニズム(Jansenism)の首唱者.」
(C)書記言語とは?
:レジュメの文脈では、文字さえも介在させてはいけないということ。
(C)「科学的な層」は政治的な層と読み替えればよくわかる。
:確かに。
(C)(1) バウマンのところだが、話せないから人間じゃないといったときの「話せない」は発話(パロール)ではなくて言語(ラング)。とすると発話(パロール)とは何か?たとえば手話はパロールではない?赤ん坊のミルクを欲しがって泣くのもパロール?
 (2) 文明対自然という話?自然を文明化するのが教育だとすると、ここで三島さんがあえて動物を引き合いに出しても、新しい観点が出てきたようには思えない。
:(1)バウマンは、デリダの『グラマトロジーについて』を検証しているので、ここでは、デリダの論に依拠している。デリダの言うことを引き合いに出しているろう研究って何だろうと思った。(2)なるほど。今後の課題としたい。
(B)三島さんの話は、どこかで動物解放論と通底する?
:人間中心主義と読み替えられるのに気をつけなければ。
(A)この発表での人間の位置づけは何か?
:それに「こうです」と答えにくいが、これまでの人間と動物の境界線引きの批判を通じて展望を開きたい。明確な答はない。
(B)人間はどう位置づけられてきたか、という研究?位置づけては駄目なのでは?
:その通り。
(A)発表内容からは、動物が人間より劣ったものだと私は感じた。
(D)「である」という発表ではなく、そう受け取られる危険も承知していて、歴史的に調べることによってわかることがある、という研究では?
(F)人間の土俵から降りて動物と対話した人間はいなかったか?
(G)ラングによって表象可能な動物でない動物と対話した人間は?
:たとえば野生児。フランス語の野生児の表記をみるとも、対話できないものに位置づけられてしまう。ターザン?
(C)野生のエルザなど、動物学者。三島さんの発表では動物はメタファーだが、ほんとうの動物に興味はない?動物愛護運動の研究など。自然とか野蛮はメタファーにしかならないが、動物はメタファーにも実体として捉えられる。
:例えば、他の章で、児童虐待防止と動物虐待防止の関連を論じる予定。
(C)フランスの研究とイギリスの研究を分けた方がいい。動物メタファー関連では精神障害者があるが、これはフランス。イギリスでは未開(アフリカ)と文明(イギリス)の対立。イギリスでは貧困者はアフリカ人がメタファー。英仏で、時間的にも背景もずれている。
(E)(1) 動物を差別すること(種差別)への批判の反動として、動物へのロマン主義的称揚もある。そうすると障害者は人間以上の存在にされるが、そういうのはなかったか?障害者ははじめから人間以下とされて、その表現として、やはり人間以下とされる動物を利用しただけ?
(2) 種差別を回避しても、能力差別になる。パーソン論的な動物解放論では、障害新生児、植物状態の人、脳死状態の人などは、理性と自己意識のある障害者よりも下の存在とされる。シンガーに対する障害者の嫌悪感は、人権とか人間というカテゴライズを変えてしまい、障害者運動が分断されるところにある。
:純粋な障害者像が描かれる場合、動物メタファーは使わない。
(C)純な障害者像を描く場合に動物のメタファーを使うとすれば「ペット」ということになるのでは?いずれにしろ「メタファー」というものは「両義的」なものであり、必ずポジティブな意味とネガティブな意味の両方が含まれる。たとえば「自然」であればルソーのように、「野生」であればレヴィストロースのように、その非文化・非文明的側面を称揚して、そこにポジティブな意味もこめられている。しかし三島さんの発表での「動物」というメタファーにはポジティブな意味がなく、「自然」や「野生」というメタファーに比べると意味内容が乏しい。
(B)動物という表象はネガティブな意味で用いられることが多いが、ターザンのようにポジティブに用いられることもある。
(A)ヒンズー教の牛のように神聖なものもある。ここで動物の概念を明らかにした方がいい。
(B)ここでは近代西洋の動物概念では。
:福祉領域におけるメタファーがネガティヴなものしかなかったのはたしか。もうすこし調べてみたい。
(2) については、パーソン論のやばい点をどう乗り越えていくか、取り組むべき問題として設定している。福祉国家登場の時期における功利主義の役割と重ね合わせながら。
(H)シェイクスピアは「障害者運動・障害学においても、障害者の性は語られてこなかった」と書いているのは、イギリスのこと?日本では語られてきたはず。
:イギリスのこと。日本ではある場面では以前から語られていた?
(I)日本では『ラブ』が最初。『そよ風のように街に出よう』の特集、1980年代の最初。少し間が空いて『私は女』。また空いて、小山内さんたち。「さようならCP」でも男性障害者が風俗について語っている。「障害者が性を語り始めた」というのはウソ。
:そういう状態を「タブーが解けた」といってよいか?
(C)障害者のセクシュアリティ流行りは気になっている。何で今かというと、一つは反差別のポリティックスになっているから。障害者のセックスを認められるか、と。学生とかの食いつきがいいのはセクシュアリティと選択的妊娠中絶。「差別していない」といっているのを、私の中にも差別があると気付く。1970年代には食い付きがよかった労働問題など、社会経済的差別のほうがむしろ訴えにくくなっているという逆転現象。もう一つは女性障害者の台頭とパラレル。例外的な人に限られていたのが普通の女性障害者でも語れるようになった。
(I)『ラブ』の頃は男性が主流。
(C)『ラブ』でもインパクトがあるのは女性障害者の語り。
(I)最近は再び男性が語っている。
(C)教材として人権侵害の例として『ラブ』は使いにくくなっている。新しい語りが求められている。
(B)セックス強迫に障害者も巻き込まれている。
(C)それは感じる。セックスが人権の主要な部分になっている。
(B)男性障害者の語りはセックスワークと組で語られることが多い。
(A)T市で、通学バスの中で、知的障害者の女の子が先生にレイプされた事件があったが、校長がもみ消した。しかし地元の人から抗議があって、大阪府障害者福祉審議会で取り上げられた。セックスがあたりまえになることは被害者も生み出す。


(以上)
●参加者17名(うち介助者1名)



UP:20090717
全文掲載   ◇障害学研究会関西部会 2001   ◇障害学 2001
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