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自立と自己決定

―障害者の自立生活運動における「自己決定」の排他性―

星加 良司
2001/09/15
『ソシオロゴス』25:160-175

last update: 20160125


 障害者福祉の領域で自立概念の転換は重要な意味を持っている。従来自立が困難であるとされてきた人々が、「自己決定」を要件とする新たな自立概念の導入によって、生活の主体者として位置付けられるようになった。しかし現在「自己決定」の排他性が問題とされている。本稿では、私的所有権に立脚した従来の自己決定概念と、障害者の自立生活運動の中で主張されてきた自己決定概念において、この排他性がどのようなものとして捉えられるのかを分析する。そしてこれを通じて、障害者の自立生活運動における「自己決定」の排他性が、どのような水準で問題にされねばならないのかを明らかにする。


1 はじめに
 障害者の自立生活運動に関して、「自己決定」ということが言われてきた(1)。従来身辺自立と職業的自活に高い価値を置く伝統的な自立観の下で「自立」が困難であるとされ(2)、価値の低い存在と見なされてきた人々が、「自己決定」を行うことこそが「自立」であると主張し、そのような生活を営むことを可能とすることで、自らの生を肯定的に意味付けようとしてきた実践が、障害者の自立生活であった。この運動に関わる従来の研究は「自己決定」に着目し、この自立概念の転換が障害者の生活状況の改善に果たした役割を、正当に評価してきたものと考えられる(3)。
 しかし現在、この「自己決定」が問にふされている。それは様々な形の懐疑や懸念として表明されている。次の障害者の言明はその一例である。

 「「自立」には2つの側面があって、その人自身がどうしたいかということがちゃんと実現され保障される、という側面も大切なわけですが、もう1つの側面として、「自立」って社会的なものであって、どんな人でもその他の周りの人との関係の中でそこに居ることに意味があるということ、そういうことが認め合えるということが「自立」じゃないか、と僕は思っています。以前の運動では「障害者」が施設に隔離されて、まさに自由を奪われ切り捨てられてきた。そういうことのアンチとして、介助者は「障害者」の手足になればいいんだ、ということでやってきた。だから手足になる介助者さえ付けば後は勝手にやってくださいということだった。」[小佐野:1998:79-80]

介助者を「手足」と見る「自己決定」の主張には一定の意義があったとしても、同時に「自立」にとって重要な「もう1つの側面」である「周りの人との関係」が看過されてはならない、とされる。以前の運動が「自己決定」を主張してきたとき、それは介助者を単に「手足」として手段化することであったのに対し、今日的な運動においてはそこで忘れられていた他者との関係がクローズアップされてきているのである。逆に言えば、介助者を「手足」と捉える「自己決定」観には他者との関係のあり方を問う契機が存在しない、という認識が示されているのである。ここには、「自己決定」の主張が排他性へと引き寄せられる傾向があるのではないか、という懸念がうかがわれる。
 ここで言う排他性とは、「自己決定」において他者性(4)を消去しようとする傾向のことである。この傾向は様々な局面に現れるものと考えられる(5)が、本稿では特に次の2つの水準で現れる排他性について考察する(6)。すなわち、決定の対象に関わる水準と決定という行為の遂行に関わる水準においてである(7)。決定の対象の水準では、そこに他者の能力を参入させる場合に現れる他者の他者性が問題となる。他者を自己決定の対象として手段化することで、その他者性を消去する傾向が生じるとされる。また、決定という行為の遂行に関しては、他者は決定に参与しないものとされる。決定に際して、他者は他者性を持って介入する存在であってはならないとされるのである。
 本稿ではまず、障害者の自立生活運動において「自立」や「自己決定」がどのような意義を持ってきたのかを確認することで、「自己決定」において他者性が有する意義を把握する(2節)。これによって、翻って「自己決定」の排他性がなぜ問題にされねばならないのかが明らかになるであろう。次いで、排他性が生じる2つの水準において、それぞれ何が問題とされているのかを見ることで、従来の自己決定論が障害者の自立生活運動において主張される「自己決定」を適切に捉えられないものであることを述べる(3・4節)。そして、障害者にとって他者性が両義的なものとして経験されるがゆえに「自己決定」の主張もときに排他的な性格を有することになるが、他方でその他者性が肯定的な契機となり得ることを確認する(5節)。これらを通じて、障害者の自律生活運動において主張される「自己決定」を、排他性を回避する可能性を持つ理念として把握し直すことができるであろう。

2 運動における「自立」と「自己決定」の意味
 障害者の自立生活運動の中で「自己決定」は、自立概念の転換の鈎として重要な意味を持っている。そこでまず、障害者の自立生活運動において自立概念の転換が持つ意味について確認しておこう。それは、運動の背景を理解することによって明らかになってくる。
 障害者の自立生活運動は自らを否定的に捉える社会的枠組みからの脱却という動機によって支えられてきた。従来障害者の生活の場であった家庭や施設においては、障害者は親や施設職員との閉鎖的な相互作用の中で生活が管理され、「弱者」としての役割に固定され、一人前の人間としての扱いを受けずに過ごしてきた(8)。また、社会の「医療モデル」の中で、障害を負った存在は「不完全な」ものでしかあり得ず、少しでも健常者に近づくために、専門的サービスに服することが要求され続けてきた(9)。こうした歴史的経験に根ざして発展してきた日本の自立生活運動は、自らに対してなされる否定的な価値付与に自覚的である。社会が障害者を扱うその仕方が否定的なものであり、そのイメージが自己理解のあり方を強く制約してきたということは、運動の中での共通の了解事項となっている。
 この社会からの否定的な取扱いは、障害者の「自己否定」(10)を媒介してさらに増幅されるメカニズムを持っている。日常的に介助を要する重度の障害者にとって、親や施設職員といった他者は、自らの生活の存立に不可欠な存在であり、彼らから与えられる否定的な解釈枠組みは障害者のアイデンティティに決定的な影響を与える。生活全般に関与し、しかも非対称的な関係性が成立しているこうした「重要な他者」の言動は、障害者の自己理解のあり方を強く規定するのである。常に「重要な他者」から「弱者」・「不完全な存在」として扱われ、その中で社会化されざるを得なかった障害者は、自分自身に否定的な価値を付与するようになる。その結果否定的なアイデンティティを確立すると、自分の人生を価値あるものにする意欲を発展させることなく、だれにも認められている自己の幸福追及をも断念するような生き方を選択してしまいがちである。このように障害者が自らライフ・チャンスと自己の可能性を閉ざしてしまうことによって、親や施設職員を含む他者によって与えられる「否定性」はさらに増幅し、障害者は人生全般にわたって、その否定的な解釈枠組みから自己を解放することが容易ではなくなる。障害者は自らの行為や生き方を積極的に意味付けるための資源を奪われているために、自己を否定する解釈枠組みによって自己のアイデンティティを確立することを余儀なくされるのである。
 障害者の自立生活運動を強く動機付けたのは、自らに内面化したこの「否定性」の自覚であった。彼らは、従来の生活の場である家庭や施設の中で、この「自己否定」のメカニズムが構造的に作動してしまいがちであることを実感として認識し、それを逃れる方途を求めて、自立生活を始めたのである。その意味で、この運動が目標とするものは当初から一貫して、この「否定性」を払拭する生き方を探ることであった。そのための戦略として、彼らは自立概念の転換を図ったのである。身辺自立、職業的自活を第一義的なものとする伝統的な自立観の下で「弱者」・「不完全な存在」としてしか見なされず、否定的な価値を付与されてきた彼らが、「自立」可能な存在として自らを提示するために新たな自立概念を導入することで、その否定的な価値付与を転換しようとしたのである。その「自立」観は、地域の中で、自らの意志と責任において自らの生活を営むことを「自立」と見る捉え方であった。その中で重要なキーワードとして用いられたのが「自己決定」の尊重ということであった[定藤:1993]。
 つまり、障害者の自立生活運動において「自己決定」は、親や施設職員といった従来の介助者との抑圧的な関係性を脱して新たな他者との関係性を築いていく際の、中心的なテーマだったのである(11)。従来の介助関係において親や施設職員といった介助者は、障害者にとって圧倒的な他者性を持った存在として経験されていた。それは、自らの制御が全く及ばない相手であり、また自らの人生から価値を奪う主体として認識されたのである。そこで自立生活を志向した障害者は、「脱家族」・「脱施設」を唱えて、そうした他者との抑圧的な関係性を否定したのである。そして彼らは「自己決定」をキーワードに、新たな他者との関係性を模索することになる。ここで特徴的なのは、彼らが他者との関係そのものを否定したわけでも、他者に他者性があることを否定しようとしたわけでもなかったということである。もちろん、「否定性」を払拭するという文脈の中で論理的にはそのような可能性もあったわけだし、実際に一部の運動の流れにそのような考え方がなかったわけではない(12)。しかし、現在最も影響力を持って受け入れられているのは、あくまでも他者との関係を保った上で、新たな関係性を構築していく試みである。次のような当事者の言葉からは、そのことがうかがわれよう。

 「正直に言って、慣れないうちは毎日、個性の全く異なる人たちと接することに、とまどいを感じたり苦痛だったりしたこともないとは言えない。
 しかしながら、今となっては私にとって、こうした様々な人たちといろいろな話をすることが、自分自身の人間的な成長にも大きく影響することを実感し、逆に楽しみの1つになっている。」[杉井:1997]

他者との関係を保つ中で、当初は「とまどい」や「苦痛」とも感じられた介助者の他者性は、現在では寧ろ肯定的に捉えられるようになっている。ときとして自らに否定的に作用する他者の他者性が、特定の関係性の中では肯定的なものとなり、そのような状態が目指されている。障害者の自立生活運動においては、介助者という他者の存在は生活の存立を支える前提条件として必要とされており、さらにその他者を「手足」として手段化してしまうことも肯定されなかった。その中で肯定的な生を追求するためには他者との関係において他者性を持った他者との関係性のあり方が問題となったのであり、介助者の他者性を肯定的に意味付けられるような関係性のあり方が模索されていると考えられる。
 こうした文脈の中で「自己決定」の排他性は問題とされる。生活がすべて「自己決定」の領域で覆われているわけではないにしても、日常生活の多くの部分に関わる介助者との関係において「自己決定」のあり方は重要な位置を占めており、「自己決定」に他者性を消去する契機が含まれているとすれば、それは他者性を持った他者との関係の構築を阻害する要素となる。その意味で「自己決定」の排他性は問題にされるのである。自立生活を志向する障害者にとって他者性を持った他者の存在のあり方が問題だったのであり、それは「自己決定」の理念が他者性を持った他者とどのような関係にあるかという問題でもあったのである。
 このことを確認した上で、次節からは「自己決定」の排他性がどのような意味で問題となるのかを、従来の自己決定論の観点と、運動における「自己決定」の主張の観点から、考察していくことにしたい。

3 決定の対象の問題
 まず第一に、決定の対象に関して他者性を消去しようとする傾向について考察することにしよう。例えば次のような当事者の言明は、この点についての実感を表現したものと考えられる。

 「ヘルパーさんはお手伝いさんでもなく、友達でもありません。私の手なのです。(中略)そんな生活スタイルの中で、ヘルパーさんが口をはさむことは私にとっては許せなかったのです。(中略)私のとった行動が、わがままだったのでしょうか。冷た過ぎますか。答えはまだ出ないのです。」[小山内:1997:2]

ここには、自らの「生活スタイル」の中で介助者はそれを実現する手段であるべきだという主張と、そのように言いきってしまうことへの躊躇が並存している。「私の手」である介助者は私の思うように動くべきなのであり、そのようにしないことは不当なことであるのだが、そう考えてしまう自分が「わがまま」だったり「冷た過ぎ」たりするのかもしれない、と感じられているのである。
 このように意識されている「自己決定」の対象に関わる排他性は、なぜ生じるのだろうか。この排他性を帰結する論理を把握するために、まず従来の自己決定論において自己決定がどのように捉えられているのか(13)を確認しておこう。立岩によれば、自己決定は私的所有と深く結びついた概念として理解される。決定の対象となるのは自己の行為の結果として所有が認められたものであり、その処分に関して独占的な自由が与えられるとされるのである[立岩:1997]。ここでは、潜在的に決定可能な対象は初期分配(その人がもともと持っているもの)と、それを用いてなされた労働の結果得られた生産物によって画定されるのであり、実際の決定の対象となるのは、さらに個人の能力の及ぶ範囲に依存している。つまり、「自分のもの」とされたもののうち、自分で使えるものだけが、自己決定の対象とされるのである。この場合、初期分配と能力に恵まれた者は非常に多くのものを決定の対象とすることができ、他者の潜在的な決定の対象のうちその他者の決定の及ばない範囲について、それを「自分のもの」とすることも可能なのである。この決定の対象の範囲が正当に変更され得るのは、他者との自発的な合意が存在する場合のみである(14)。
 ただし現実には、この原理からは各人の決定し得る範囲に大きな較差が生じ、生存そのものが脅かされるような人も出てくるから、そのような決定が著しく制約される人に対しては、他者の能力の一部を決定の対象に強制的に参入させることも認められている。福祉国家の行う政治的な再分配は、この機能を果たしている。しかしこの場合にも、対象に関する独占的な処分権という考え方は維持される。基本的に「自分のもの」に関する決定は自由に行うことができるとされる。自己決定が制約されるのは、それが他者の迷惑になる場合である(15)。
 この論理に導かれたものとして「自己決定」の主張を理解すると、確かにこれは排他性を帯びた概念となる。自らの行為や決定の結果産出されたものは自らに帰属し、その利用についての自由は独占的に所有されるという、私的所有とその処分権に立脚した自己決定の観念からは、決定においてその対象をすべて手段として見なし自由に利用することは可能であり、正当である。自己決定に属する事柄はまさしく「自分だけのこと」であり、他者の決定に属する事柄ではあり得ない。他者はあくまでも自己決定の外部に在るものなのである。自己決定の対象に他者の能力が参入される場合でも、それはあまりにも制約されている決定の対象を、最低限の生活を保障するという補完的な原理に基づいて拡大するためのものであり、他者は決定の内容を実現する手段としてのみ意味を持つのである。このとき参入された他者の能力はその他者に帰属するものではなくなり、自己に帰属するものとされる。ここには、自分にとって制御不可能な他者性は存在しない。重度障害者の自立生活において他者による介助が必要とされる場合でも、それが対象に対する独占的な自由を意味する自己決定の論理に包摂される限りにおいては、他者は単に「手足」として存在することになり、「自己決定」を実現する手段となるのである。
 この問題は、自己決定において正当に認められる決定の対象をどのようなものとして理解するかに関連して生じている。例えば立岩[1997]の議論では、自己決定の対象とされるのは「自分のこと」であるが、それは「自分のもの」として把握されることになる。「自分のこと」に関する決定とは、身体の自己所有という観念にまで遡れば結局「自分のもの」に対する処分権として理解できるものであり、決定の対象は所有の対象のことだとされるのである。
 しかし、障害者の自立生活運動において「自分のこと」をそのように理解する必然性はない。寧ろ、運動の実践的主張に即して把握し直すことが必要であろう。運動において「自分のこと」が指示する領域は、日常生活において通常人々がさほど制約を受けずに行っている基本的な行動の範囲である。

 「例えば、着替えにしても、車いすとベッドやトイレの間の移動にしても、自力ではできない。そのような、言わば日常生活の基本的な部分にさえも、他者による手助けを必要としているわけである。」[杉井:1997]

食事や排泄などの生理的な営み、洗顔や衣服の着脱といった習慣的な行動が、この範囲に含まれる。こうした領域における行為について、通常の状態では他者の干渉を拒絶することも正当に認められるが、重度障害者にとってこれは自明のことではない。そうした領域の行為をどのように遂行するのかということを「自分のこと」として設定しているのである。
 このことを踏まえると、障害者の自立生活運動の中で主張される「自己決定」は、私的所有とその処分権に基づいた従来の自己決定論とはやや異なる位相にあるものと理解されるべきであろう。ここで主張される「自己決定」の理念は、私的所有権と処分権という観念に依拠しているわけではない。「自分のこと」は自らの行為や決定の結果産出されたもののことではなくて、生活上の基本的な行為の領域を指示しているのである。決定の対象となる領域はもはや私的所有と個人が制御できる事柄の範囲によって定まるわけではないのである。
 こうして確保された「自分のこと」の領域は、その内部における独占的な決定権を付与するものではない。なぜなら、複数の個人にとっての「自分のこと」の領域は必然的に重なり合うことになるからである。私にとっての「自分のこと」は必ずしも私だけにとって「自分のこと」なのではなく、他の人にとっての「自分のこと」と交わることになるのである。私的所有とその処分権に立脚した従来の自己決定論においては、少なくとも原理的には各人の決定の対象となる領域は厳格に峻別されており、しかもその領域は一義的に確定することができた。各人の自己決定の領域は互いに重なることなく、調和的に確定され得た。しかし、「自分のこと」を日常生活の基本的な行為の領域と捉えた場合には、他者と居合わせる場面、複数の個人の行為が相互に影響を与え合う場面において、複数の「自分のこと」が重なり合い、せめぎ合うことになる。
 この事情は、一般に妥当することであるが、日常的に他者の介助を要する重度障害者の場合にはより明確な形で現れる。食事であれ移動であれ、障害者にとっての「自分のこと」を決定する際に、そこに関与する他者にとっての「自分のこと」の領域に踏み込まざるを得ない。より正確に言うならば、障害者にとっての「自分のこと」と介助者にとっての「自分のこと」が重なる所に、障害者の「自己決定」が実現されるのである。当然決定に関する独占的な自由も存在しなくなる。すなわち、他者を手段化してその他者性を奪うことはできなくなるのである。ここに他者性が現れる可能性が生じる。この他者性はまさに自ら制御し得ないものとして経験されることになるが、その可能性は「自己決定」の主張によって消去されるようなものではなく、逆に「自己決定」が一般的に主張されることで必然的に現れるものなのである。
 このように、障害者の自立生活運動の中で語られる「自己決定」は、少なくとも他者性を内部に含みこむ、その意味では不安定な主張として存在している。ゆえに、この水準において私的所有とその処分権に立脚した従来の自己決定論が内包していた排他性に必ずしも導かれるものではないことになる。つまり、決定の対象に関する独占的な自由という論理のもとで他者を手段化することで、「自己決定」から他者性を消去しようとするわけではないのである。他者は決定の対象とされるものとしてではなく、相互に重なり合う決定の対象を有する他者として他者性を持って現れるのであり、完全に手段化し得るものではなくなる。他者性を消去することは、もはや正当ではないのである。
 ただし、だからと言って、「自己決定」が排他的な性格を帯びる契機が完全に解消しているわけではない。「自分のこと」の領域が重なり合うということは、当然私の「自己決定」が必ずしも貫徹し得ないことを意味するが、このことは障害者の生活がパターナリスティックな介入を受ける可能性に開かれているということでもある。自立生活を志向する障害者が否定しようとした「他者による管理」に引き寄せられる危険を内包しているために、重なり合う「自分のこと」の領域において、私にとっての「自分のこと」を主張するとき、他者の介入を拒絶しようとする傾向が生まれることもあるであろう。この問題は決定という行為の遂行という水準の排他性として考察できる。

4 決定に対する介入の問題
 ここで主題化されるのが、決定に関して複数の行為者が「自分のこと」を持っているために、相互に排除し合う傾向が生まれるという問題である。これは当事者にとって「自分で」決めるとはどういうことかという問題として現れる。「自分のこと」が他者による介入の可能性に開かれている以上、「自己決定」において他者を自己の決定とどう関連付けていくのかが問題となるのである。例えばある障害者は、「「自己決定」ばかりやっていると、しまいに自己中心になるのではないかと思うのですが、どこが違うのでしょうか。(16)」と述べる。ここで語られるのは、「自分で」ばかり決定を行っていくことに対して、「自己中心」という否定的な生活のあり方に引き寄せられるのではないかという躊躇を覚える当事者の実感である。確かに「自分のこと」ではあるのだが、それを「自分だけで」決めること、また決めてよいとされることに対する若干の戸惑いのようなものがある。
 また、介助者の側からは次のようにも捉えられている。

 「これは介助者からその自由な判断力を奪うことを意味しており、一種の隷属状態に置くように見えて、介助者に強い精神的負担を課すように見えるだろう。事実このような論(というよりも依頼)に対し強く反発する介助者もいる。(中略)これはだが現実には介助者以上に障害者の側にものすごく強い意志力、忍耐力を要請するものなのだ。」[究極:1998:179]

介助者の視点から見れば、障害者が「自分で」決めることは介助者の自由を奪うものと映る反面、それは障害者自身にとって寧ろ辛いことではないかと言うのである。「自分で」ということが強調され頑に求められるとき、それは障害者にとって負担になるのではないか、ということである。
 ここに現れる第二の水準の排他性は、私的所有権的な従来の自己決定論(17)において当然の帰結であった。高橋によれば、「自己決定」の理念によって、他者に向けて自己の領分が権利として主張され、そこへの他者の干渉が拒絶されるとき、決定は囲い込みを表す語となり、「自己決定」は他者を拒絶する内閉性を感じさせる語感を帯びると言う。「自己決定」の主張は、私が「自分のもの」を宣言する相手としての他者の存在を前提とした上で、その「自分のもの」に関する支配力と他者に対する効果によって成立し得る(18)。未確定な自己の領分を他者との関係の中で確定するためには、他者の介入を排除する、ある種の作用が前提とされるのである[高橋:1998]。

 「・・・決定が私に固有の領分を確定するのは、私が他者に向けて「自己決定」なるものを権利として宣言することによってである。もちろんこの確定は不動のものではなく、その境界線は他者との関係によって変動することもあるだろう。とはいえ、そのように確定された固有の領分は、たとえ「所有物」という述語で括られるものではないにせよ、私に任された領域であって、他者の決定がそこに入り込む余地はない。(中略)私は私自身のことについて専制君主である。他人の口出しは許さない。私は私の主権者である。そして他者も同様である。」[ibid:179]

「自分で」決めるという場合、それは文字どおり「他者ではなく自分で」ということであり、他者の介入はそれを阻害するものとなる。ここでは、自ら情報を駆使して判断を行う個人という強い決定主体が前提されており、自己決定における「自分で」ということの意味があえて主題化されることはない。例えば高橋は後続の議論の中で、障害者の自己決定と介助行為の関係について、次のように言う。

 「「相手の自己決定に踏み込んで自己決定権に侵入しているという事実」は、多かれ少なかれどんな介護の場面にも現れることであろう。固より介護される側の「自己決定権」の及ぶ範囲は一定ではないにせよ、介護という行為はその「自己決定権への侵害」なくしては成立しないと言ってもよいだろう。」[ibid:]

ここで「介護」は「自己決定」を侵害するものとして把握される。本来「自分で」決めることに他者が介入する余地はなく、両者は背反する関係にある。「自分で」決めることを主張することは、そのまま他者の介入を拒絶することと同義なのである。
 では、障害者の自立生活運動において、「自分で」決めることはどのような意味を持っていたのだろうか。それは必ずしも他者の介入を一切排除して成立するものではないと考えられる。例えば次のような当事者の言葉は、「自分で」決めるということが、寧ろ他者との関係の中から生まれてくることをうかがわせる。

 「自分がしてほしいことが相手に伝わるかどうかの不安もあります。(中略)介助者とのセンスの相性もあり、人に会う機会が多い出かける日は手慣れた介助者にしています。(19)」

「自分のしてほしいこと」を実現するためには「自分で」決めることは重要である。しかし、ここで介助者との「センスの相性」が問題となるのは、決定に他者が介在することが前提とされているからであり、その上で「自分のしてほしいこと」をどう実現するかが問われるのである。「自分で」行う決定のあり方も介助者の「センス」との関係で可変的であるために、場合によって介助者を選ぶことにもなるのである。「自分で」ということもまた他者との関係において捉えられている。また、介助者でもある小倉は、障害者と介助者との関係を次のように把握する。

 「このとき(車椅子を押しているとき、引用者註)「障害者」も「介助者」もどちらもが主体であったり客体であったりすることはなく、言わば「介助」アレンジメント複合体として、歩く方向と速度と調子が暫時的に決定されていくのである。(中略)車椅子が進む方向を決定する主体は障害者ではありながら、しかし厳密には「介助者」が介入する余地が全く無いわけではないのである。(中略)このとき「介助者」はこのアレンジメントの中で「障害者」となっており、また「障害者」は単独であったときの己を別の(もう1つの)「障害者」のあり方へと生成・変化させている、ということになるだろう。」[小倉:1998:190]

ここには、決定は単独の孤立した主体によってなされるのではなく「アレンジメント」の中で暫時的に行われるが、その中でやはり障害者が決定を行うことになる、という微妙な関係が表現されている。その関係の中では、障害者が「自分で」決定するとしても、それは単独の決定主体としての自己による決定とは異なるものとなっており、その事情は介助者にとっても同様である。つまり、「自分で」ということは、主体が相互に変容する中で確保される決定のあり方を示している、ということなのである。
 このように、「自己決定」において他者の介入が許容されるとき、そこに現れる他者は他者性を持った存在として経験されることもある。

 「障害を持っている人の場合、介助者にはっきりものを言えないというのは、こんなこと言っちゃったら気を悪くして次から来てくれないんじゃないかという恐怖があるんで、そういう恐怖心をピアカン(ピア・カウンセリングのこと、引用者註)の中で思いきり出してしまった後で、今度はアサーティヴ・トレーニング(自己主張を行うためのトレーニング、引用者註)でどういう風に頼めば相手が嫌な気にならずに率直に受け止められるかみたいなのをロール・プレイで何回かやる。」[堤:1998:98]

ここで「はっきりものが言えない」と言われているのは、障害者が決定に際して介助者にはっきり意志表示をすることに困難が伴う、ということである。障害者が「自分で」ということを確保するときには「恐怖がある」のであり、これは介助者が自分にとって制御しきれない存在として認識されていることを示している。また、「嫌な気にならずに率直に受け止められる」ような関係が目指されるということは、他者が必ずしも自己にとって調和的なものとならない可能性が自覚されているということではないか。また次のような言明もある。

 「僕は「障害者」で介助者とは空気のようなものだと思っている。あって当たり前、なかったら死んじゃう。(中略)とにかくそのときそのときで空気になったり黒子になったり、またあるときは一緒に考えたりもしなくちゃいけない。そこで精神的な苦痛も出てくるはずです。」[横山:1998:85]

「一緒に考えたりも」することの中から「自分で」の決定が生まれるのだが、それは「精神的な苦痛」の契機ともなるのである。つまり、1つの決定にともに参与する存在でありつつ、やはり両者は個別の主体であるがゆえに、コンフリクトが生じる可能性にも開かれていることになる。この可能性が自覚されることによって、他者は他者性を有する可能性を持つ存在として立ち現れてくる。
 確かに、あらゆる決定の局面において、他者性を持つ他者との関係の中で「自分で」ということが捉えられているわけではない。他者がしばしば自己を抑圧するものとして立ち現れてくることは、彼らが従来の生活の場であった家庭や施設で経験してきた現実であった。また、自立生活の実践の中でも新たな他者との関係の中でコンフリクトが生じている[岡原:1990b]。そのような現実の中で独断的に「自分で」決めることが要求されることもある。しかし、全体として現在自立生活運動が目指している方向は、他者性を持つ他者との新たな関係性を構築していくことなのである。

5 他者性の両義性
 以上の議論を踏まえて、「自己決定」において他者性が両義的に経験され得ることを確認したい。3節、4節の議論を通じて、当事者が「自己決定」を語る際にもその意味合いに揺れがあることが分かる。それは、ときに他者性を包含しない従来の自己決定論の文脈に即して排他的な性格を持つものとして語られ、また他方では他者性を含み込む理念として主張される。
 これには、自立生活を志向する障害者にとって他者性が両義的なものであり得ることが関係しているのではないか。一方で他者の他者性は、彼らが求める他者との肯定的な関係性を構築するための必要条件である。彼らは他者を完全に手段化すること、すなわち決定の対象に他者性を消去した他者を参入させることによって、「自己決定」を確保したのではない。また、決定に当たって完全に他者の関与を排除するという形で、「自己決定」を主張したわけでもない。「自己決定」の理念は他者の他者性と両立する形で提示された。そのように「自己決定」における他者の他者性を残した上で、その他者と適切な関係性を築くことが目指されたのである。従来自らに固定的に付与されていた「否定性」を払拭するために、抑圧的な関係性に代わって、新たな他者との関係性のあり方が模索されたのである。そのことが、自己に対する理解のあり方を転換することにも重要な意味を持ったのである。
しかし、他方で他者が他者性を持つことは、彼らに否定的に機能するものとしても経験される。他者が他者性を持つことは、当然他者が自己にとって抑圧的な存在として立ち現れてくる可能性を否定しない。従来家庭や施設において彼らが経験したのは、親や施設職員といった他者がその圧倒的な他者性において彼らに「否定性」を付与する存在となった、ということである。また、その抑圧的な関係を脱して自立生活を始めた場合にも、新たな他者との関係性の中で他者性が否定的なものへと転化する可能性は自覚されていたのである。他者性を持った他者との関係性のあり方は多様であり得るのであり、それが障害者に「否定性」を付与するものとなることもあるのである。他者性が持つこのような両義的な性格は、「自己決定」の主張のあり方に反映している。自立生活運動において実践的に主張されている他者性を含み込んだ「自己決定」は、他者性の肯定的な側面を自覚的に追求する中から生まれたものであり、またときにその「自己決定」が私的所有権的な従来の自己決定論の文脈で語られるのは、他者性の持つ否定的な契機が強く意識され、ともかくそうした他者との関係性のあり方を否定しようとする場面においてなのである。「自己決定」の主張のこの2つの含意は、当事者の言明に同時に存在することもある(20)。
 ここにおいて、「自己決定」の主張の持つ排他性は2つの側面を持つものとして理解できるのではないか。まず、「自己決定」が従来の自己決定論、すなわち私的所有権に立脚し孤立した決定主体を前提するような自己決定論の文脈において語られる際に生じてくる排他性である。これは、決定の対象として他者を手段化することで他者の他者性を消去する傾向であり、また決定に他者性を持った他者が介入することを拒絶する傾向として現れる。この意味で「自己決定」の主張が排他的な性格を帯びるとき、それは当事者にとっても違和感として経験される。決定の対象として他者を手段化し「手足」のように扱ってしまうことにはある種の抵抗感があり、他者の介入を排除して独断的に決定を行うことへの躊躇もある。これらは「自己決定」の主張を必ずしも肯定しきれない感覚としてある。しかし、自立生活運動の中で実践的に主張されてきた「自己決定」の理念は、こうした排他性を必ずしも帰結するものではなかった。それは他者の他者性を前提として成立し得るような理念として提示されたのである。
 ただし、この「自己決定」の理念が他者性を含みこむ不安定な主張であり、個別の関係性の中で微妙なバランスをとって成立しているものであるために、内部に含む他者性を消去しようとする、あるいは結果としてそのようになってしまうという契機は常に存在している。他者の他者性との関係の中で成立する「自己決定」は常に過程適に存在するのであり、そのバランスが崩れてしまうと忽ち排他的な性格を帯びることになる。障害者にとって他者性が否定的なものとして経験される際には、関係性のあり方を変容させてバランスを回復するという戦略を採ることは容易なことではなく、他者の他者性を消去しようとすることもあるのである。「自己決定」に私的所有権的な従来の自己決定論が影を落とすのも、このような状況においてなのである。障害者の自立生活運動において「自己決定」の排他性が問題となるのは、このような意味においてである。

6 おわりに
 「自己決定」の排他性という問題は、それが私的所有権的な従来の自己決定論の文脈の中で語られる際にその輪郭を明確にする。自立生活を志向する障害者の中でも、確かに「自己決定」が排他的な色彩を帯びて語られることがある。他者性の両義的な性格に関連して、「自己決定」の主張に私的所有権的な従来の自己決定理解が滑り込む。
 しかし、自立生活の実践の中で醸成されてきた「自己決定」の考え方は、それとは異質なものである。それは他者性に開かれた形で概念化し得る理念である。他者性を持った他者との関係のあり方は多用であって必ずしも肯定的なものばかりではないが、「自立生活プログラム」や「ピア・カウンセリング」の実践を通じてそのあり方が模索されている。具体的にどのような関係性が成立するところに彼らの目的が実現されているのかは別稿を要する課題であるが、その試みが「自己決定」の新たなあり方を提示しつつあることは確かである。
 またこのように微妙なバランスの上に立って他者性を持った他者との関係性が追求されることには、他者から与えられる承認の重要性が関連しているとも考えられる。テイラーは、我々のアイデンティティが他者による承認のあり方に決定的に依存しているとして、承認の不在や歪められた承認が抑圧の一形態となり得ることを指摘し、ヘーゲルを援用して適切な承認は相互承認の形でしか得られないと論じている[Taylor:1994=1996]。適切な承認は、他者性を持つ他者を承認し、その他者から承認を得るという相互性において獲得されるものなのではないか。他者の他者性が重要なのは、この承認の形態に関連しているのではないか。この問題については、今後も検討を進めていきたい。



(1) 本稿で研究の対象とする障害者は、基本的には日常的に介助を必要とする全身性障害者である。障害者の自立生活運動についての議論では、自己決定の内容の判別が困難な場合をどう考えるか、という課題があるが、本稿ではこの問題は主題的に扱わない。しかし、自己決定能力が相対的に低いと見なされる人々の問題を、論理的に排除するものではないと考える。
(2)  従来障害者福祉の領域で「自立」が語られるとき、それは職業的自活や身辺自立を意味する言葉であった。この意味での「自立」を目指すことが障害者に常に要求され続けることによって、障害者は「不完全な存在」としてマージナルな位置に追い遣られ、否定的な自己理解の内部に封じ込められた。
(3) 確かに註11で述べるように、自立と自己決定があまりに直裁に結び付けられてきたことは、従来の研究の限界であり欠陥であるが、この運動において新しい自立概念が主張されたことで、障害者福祉の理念に当事者の視点が導入され、障害者の自己否定のメカニズムを解除する路が開かれた、という事実に光を当てた点で、自立概念の転換への着目は重要性を持ったのである。
(4) 立岩[1997]は、「私でない、私が制御しない」という消極的な契機を持つ概念として他者性を把握している。本稿で用いられる他者性の概念は基本的にこれに依拠しているが、さらに自己との差異の可能性に着目した定義を与える。すなわち、他者性は、自ら制御できないものであり、また自己に対して非調和的となる可能性を有するという性質のこと、として把握する。ただし、立岩が他者一般、あるいは健常者にとっての他者として現れる障害者や胎児などの文脈でこの概念を使用しているのに対し、本稿では障害者にとっての他者、すなわち他者としての介助者やその他の周囲の人々に関して他者性が問題とされている。なお、本稿で用いられる他者という言葉は、単に他の人格を指し示すものであり、必ずしも他者性を持つことを含意しない。
(5) 例えば、自己決定そのものが価値の高いものとして取り出され、自己決定に基づく生き方こそが望ましいと言われることへの抵抗感が示される。これはまず、自己決定能力が相対的に低いと見なされた人々の間で自覚された。自己決定能力の保有に価値があるのだとすれば、その能力に欠ける人々は「価値の低い存在」として取り残され、否定的な自己理解を転換する可能性から排除されるのではないか、という批判がなされる。これは「自己決定」が、同じ障害者の間で一部の人々を排除して主張されるという排他性の一局面であると考えられる。この問題についての論考として、岡村[1994]、吉田[1983]などがある。
(6) 本稿では、決定という語を、当該社会の成員が通常有しているのに比して受容可能な程度の選択肢の中から選択を行うこと、という意味で用いる。つまり、利用可能な選択肢の質と量が充分に確保されている環境の下で、初めて決定が可能になると考えられるのである。重度障害者に関して決定を問題とする際には、このように決定過程を含めた広い概念として決定を把握するのが適切であると考える。このように捉えた場合、決定が個人的な行為としてではなく社会的性格をきわめて強く有することが重要である。決定と選択肢の問題に関して、選択の環境が不当なものである場合になされた決定は必ずしもそのまま認められないという問題を立岩[2000]、また選択肢を保障することが逆に決定のあり方を制約してしまう可能性について寺本[2000]が論じている。
(7) 日常的に介助を要する障害者にとって、他者の能力を含む決定の対象の問題と決定主体の問題とは、密接に関連し合っている。そのため、現実になされる「自己決定」についてこの2つの水準を明確に区別できるわけではない。しかし、本稿では記述の便宜上、この2つの水準を分析的に区別する。
(8) 障害者が家庭における親との相互作用の中で常に否定的な取り扱いを受けてきたことについて、岡原[1990a]、要田[1996]などが実証的な研究を行っている。また施設における職員との抑圧的な関係性については、障害者の立場から安積[1990]などが記している。
(9) 高度に専門化された医療の体系の中で、障害者は常に医療サービスの対象として位置付けられ、障害が当事者の個人的な問題として扱われるとともに、その主体性が無視される構造が存在した。樋口の著作[樋口:1998]では、入所者の立場からその問題性が指摘されている。北欧やイギリスの自立生活運動においても、この点が告発された。
(10) この「自己否定」については、横塚[1981]が「内なる健全者幻想」として問題化し克服すべき最大の敵と考えていたものである。また、社会の解釈枠組みが「否定性」を生み出していく過程についてはベッカーの論考[Becker:1963=78]、人間が意味を解釈しつつさらに意味を付与しながら生きていく存在であることについてはブルーマーの論考[Blumer:1969=91]を参照。
(11) ここで注意しておきたいのは、「自己決定」に基づく「自立」という考え方は、「否定性」を払拭するという運動の目標において当面辿り着いた手段として意義を持つのであり、それ自体が目的化したテーマなのではない、ということである。その点で、この分野の従来の研究においては過度な単純化がなされてきたように思われる。実際には、自分の生活のあり方を自分で決めることはできても、それだけで自らの存在を肯定的に意味付けることができるわけではない。しかし従来の社会福祉学の研究においては、自分の生き方を「自己決定」することが「自立」であり、それによって障害者が肯定的な生を送ることが可能になるという素朴な想定が語られてきた。仮に自己決定権が承認され、そのような生き方が可能になったとしても、自己の存在を否定的に捉え、それに低い価値しか認められない認識枠組を温存させたままであれば、その「自己決定」は彼らを解放するものとはなり得ない。むしろ、相対的に「価値の高い」健常者社会の決定による保護の代わりに、相対的に「価値の低い」自らの決定による自立を選択させられることが、精神的な苦痛を伴うことになるかもしれない。これでは新たな「自立」の理念は、その目的に反して障害者の「否定性」を強化するものとして機能してしまう。「自立=自己決定」という単純な図式は、結果としてこうした問題を不可視化させてしまうことになるのである。
(12) 脳性麻痺者の親睦を目的に発足した「青い芝の会」は、1970年代にはラディカルな運動方針を打ち出し障害者運動を思想面でリードした。その中で、介助者である健常者を単なる障害者の手足と見なす考え方が生まれる。これは本稿の議論からすると、他者の他者性を消去することで否定的な関係性を変革しようとした戦略ということになる。また、他者への依存をできるだけ少なくすることによって障害者の自立性を高めようとする考え方も存在した。これは、自己に対して否定的なものとなり得る他者との関係そのものを極小化する戦略である。この時期の運動の論理の展開については立岩[1990]を参照。
(13) 一般に自己決定がどのように捉えられているかということには、近代的な思想の体系が、それを補強する、あるいは正当化するものとして機能している。ここでの議論はその思想的背景の論理に着目したものである。
(14) リバータリアニズムの論者は自発的な合意によらない再分配を、不当なものとして退ける議論を行っている。例えばバーネット[Barnet:1998=2000]を参照。
(15) 日本で自己決定の問題を初めて扱ったとされる山田[1987]の議論では、自己決定の制約をMillの「危害原理(HarmPrinciple)に依拠して説明している。社会福祉の領域で自己決定が議論されるときにも、ほぼこの見解が採用されている。ミル[Mill:1859=1971]の議論を参照。
(16) これは、土屋貴志の講演の際に、質疑の中で発言された内容である。月川・香山編[1997]を参照。
(17) ここでは、従来の自己決定論が含む孤立した単独の決定主体という前提を問題にしているが、そうした決定主体の捉え方は私的所有とその処分権に立脚した自己決定論の前提でもあり、ここでは混乱を避けるために一貫して私的所有権的な自己決定論として論及する。
(18) ここでも「自分のこと」は「自分のもの」として読みかえられ、決定の対象は所有の対象として理解されている。
(19) これは、わかこま自立生活情報室[2000]に収録されたインタビュー記事からの引用である。
(20) 「自己決定」が、それを主張する人にとってもときに否定的に捉えられるという「矛盾」を、立岩は「他者の受容」を第一の原理として立てることによって解決しようとする[立岩:1997、2000]。しかし、本稿ではこの問題を自立生活運動における「自己決定」を把握し直すことで理解しようとしているのである。


引用文献
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小倉虫太郎 1998「私は、如何にして「介助者」となったか?」『現代思想』vol.26-2
岡原正幸 1990a「制度としての愛情:脱家族とは」安積他編『生の技法:家と施設を出て暮らす障害者の社会学』藤原書店
−−−− 1990b「コンフリクトへの自由:介助関係の模索」安積他編『生の技法:家と施設を出て暮らす障害者の社会学』藤原書店
岡村達雄 1994「自己決定権とは何か:法と現実の間で考える」『ノーマライゼーション研究』8-14
小山内美智子 1997「迷いは心を成長させる」『いちご通信』vol.118.
小佐野彰 1998「『障害者』にとって『自立』とは何か?」『現代思想』vol.26-2.
定藤丈弘 1993「障害者福祉の基本的思想としての自立生活理念」定藤他編『自立生活の思想と展望:福祉のまちづくりと新しい地域福祉の創造を目指して』ミネルヴァ書房
定藤丈弘・岡本英一・北野誠一 編 1993『自立生活の思想と展望:福祉のまちづくりと新しい地域福祉の創造をめざして』ミネルヴァ書房
杉井和男 1997「自立生活ことはじめ」『リハビリテーション』
高橋義人 1998「決定・自己・侵犯」『現代思想』vol.26-7.
立岩真也 1990「はやく・ゆっくり:自立生活運動の生成と展開」・安積他編『生の技法:家と施設を出て暮らす障害者の社会学』藤原書店
−−−− 1997『私的所有論』勁草書房
−−−− 2000『弱くある自由へ』青土社
Taylor, Charles 1994 Multiculturalism: Examining the Politics of Recognition. Princeton University Press=1996佐々木毅・辻康夫・向山恭一訳『マルチカルチュラリズム』岩波書店
寺本晃久 2000「自己決定の前提となるもの:カリフォルニア州の発達障害者制度にみる」『家族研究年報』24
月川至・香山よしの編 1997『支え支えられる社会へ:ゆうゆう知的障害者ガイドヘルプから見えてきたもの』たびだち地域センターゆうゆう
堤愛子 1998「ピア・カウンセリングって何?」『現代思想』vol.26-2
山田卓夫 1987『私事と自己決定』日本評論社
横塚晃一 1981『母よ! 殺すな 増補版』すずさわ書店
横山晃久 1998「「介助」をどう位置付けるのか」『現代思想』vol.26-2
吉田おさみ 1983『「精神障害者」の解放と連帯』新泉社
要田洋江 1996「障害者と家族をめぐる差別と共生の視覚:「家族の愛」の再検討」栗原編『日本社会の差別構想 講座差別の社会学2』弘文堂
わかこま自立生活情報室 2000『シルクロード』vol.20.

Independence and Self-decision
Exclusivness of "self-decision" in independent living movement ofpeople with disabilities
Hoshika Ryoji

  The conversion of the conception of "independence" has an important sense in the world of welfare of people with disabilities. Those who had been regarded as difficult of"independence",have become main actors of their own life,using the new conception of "independence" that includes making "self-decision". But now,exclusiveness of "self-decision" has been questioned. In this paper,we analyze how this exclusiveness is grasped in views of a classical conception of self-decision based on the right of private possesion,and the new one insisted in independent living movement. By this,we reveal the level in which exclusiveness of "self-decision" in independent living movement should be a theme.

……以上……


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引用文献
安積純子 1990「<私>へ:30年について」安積他編『生の技法:家と施設を出て暮らす障害者の社会学』藤原書店
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堤愛子 1998「ピア・カウンセリングって何?」『現代思想』vol.26-2
山田卓夫 1987『私事と自己決定』日本評論社
横塚晃一 1981『母よ! 殺すな 増補版』すずさわ書店
横山晃久 1998「「介助」をどう位置付けるのか」『現代思想』vol.26-2
吉田おさみ 1983『「精神障害者」の解放と連帯』新泉社
要田洋江 1996「障害者と家族をめぐる差別と共生の視覚:「家族の愛」の再検討」栗原編『日本社会の差別構想 講座差別の社会学2』弘文堂
わかこま自立生活情報室 2000『シルクロード』vol.20.

REV: 20160125
星加 良司  ◇『ソシオロゴス』  ◇自己決定  ◇全文掲載  ◇全文掲載(著者名50音順)
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