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与知から作動へ

山崎 祐子(ご近所留学の会)

last update: 20160125


『鳳仙花』第16号(創刊10周年記念号)2001年8月15日発行より転載

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 いつでも、どこでも、当事者にも第三者にもなる時代に生きて、だれもが文化社会の創造に参加しよう、か。

 "とびこえない、ここから、ここで""いつでも、どこでも、だれでもできる"『ご近所留学』と言えるかどうかを確かめるために、友人と二人三脚で「集いと笑い」「学びと対話」というステップを踏んできました。
 隣人に先生を見つけることをテーマにして、集いの場に参加し、必ず自分の思いや気付きを話すなどの実践を行いました。他者と集うことで、いまある自分を知り、自分をも隣人をもまるごと受け入れる作法が心地好いことを知りました。隣人との関係において、互いに受け答えできるリアルさが嬉しかったのです。食や笑いを共にすることで、「場」を共有することの楽しさと、共有された場でそれぞれのひとが輝くことを知りました。信頼は自分から築いていくものであるとわかりました。わたしたちは生身の人間関係を経験したのです。
 「集いと笑い」の中で、あれ?えっ?と気付いたり、感じたことは一人ひとり違いまし た。それを友人と語り合ううちに、自分の身のうちに「問い」を持ちました。その「問い」こそ、わたしのものでした。自分の「問い」を友人に語ることで共通の問題意識とし、その「答え」をとりだすために、対話したり学んだり、『知』を使ったのが「学びと対話」です。
 いくつもの「問い」を解くために、学びの方法も手段も手探りでした。図書館で借りた本や新聞・雑誌などを通して語りかける、学者の言葉や言い回し、考え方や捉え方にわたしは呼ばれました。そのような「知」からの声は、学びの方向を照らし、わたしたちの歩みの支えとなり、 希望までも投げかけられたようでした。『学び』を寄る辺にしたことで、自分自身と隣人と対話・対峙する自信が持てるようになりました。
 他者と集い、隣人と対話・対峙することができるようになったわたしは、社会と対話・対峙することを考えています。
「集いと笑い」「学びと対話」は、社会で生きるために使えるのでしょうか。いま一歩、社会へ踏み出そうかと戸惑う、そんなわたしの背中を、「集いと笑い」「学びと対話」で培った、人への信頼、学びへの信頼が押しているのです。
 さて、現在の生の出来事は、いやおうなく、飛び込んできます。
 生の出来事の中で、友人は自分の子の不登校という「当事者」の辛さを経験していました。もがき、苦しみながら、どうすればいいのか手だてを探しました。結局、辛さを知らされた「第三者」の助けによって穴ぼこから引っ張りだしてもらった、当事者だけではなにもできないことが分かったと言います。穴ぼこから抜け出て、周りを見回してみれば、当事者は第三者の助けを知らず、第三者は口出しをしてはいけないという立場にある、これに気がつきました。友人は、「当事者よ、レスキュー隊(第三者)は外で待っています」これを、どうにかして当事者に分かってもらいたいと、今度は第三者として、苦境に陥った隣人への関わりをつづけています。この友人の行動を知らされたわたしは、レスキュー隊になるべく突き動かされていました。
 そんなわたしにも、自分ではどうすることもできない「当事者」の苦境が待っていました。介護保険制度導入により、障害で寝たきりの高齢の姑がいる我が家は、それまで受けていたホームヘルプ(在宅介護)サービスが減ってしまいました。生活の現状維持すら約束のないこの制度の導入に、まさか、今どき、こんなことってあるのかと本当に信じられませんでした。わたしは介護保険制度という、「制度における当事者」になりました。友人の経験から、当事者の無力を予め知らされていたわたしは、
「弱者でもない、負でもない、お手上げ、お音上げです。だれでもいい、当事者だから助けて」
と、無力な当事者だけれども、当事者の作法として助けを求めました。隣人へ苦境を知らせ、新聞への投書、有識者へお願いをしながら、当事者は自分以外の第三者で構成される社会を信頼するしかない、「付託(プータク)」の言葉の重さを実感しました。隣人の励ましや支えを受け、木も森も全てを見せようとする新聞や雑誌の情報から、「制度における当事者」である自分の辛さの様々な根拠を教えてもらったおかげで、音を上げていたわたしが、当事者という場で踏ん張ることができました。第三者のおかげで、希望が見えたのです。
 こうして、じゃどうする?と生の出来事に対峙したところ、わたしたちは当事者か第三者のどちらかに位置することになりました。生の出来事は、人を、無力にならざるを得ない部分を持たされる「当事者」と、その当事者の無力な部分に力を注ぐことができる部分を持っている「第三者」を生み出します。ところが現実は、当事者の有り様ばかりに捕われて、第三者にも気付かず、ないものとされていました。第三者はある、とその存在と形を確認したわたしたちは、ならば、当事者にも第三者にも作法が必要ではないかという「問い」を持ちました。
 その「問い」の答えとして、当事者の作法を、当事者の知らせる(与知)、第三者の作法を、第三者のやる(作動)ではないかと考えています。当事者が第三者に知らせる(与知)ことで、第三者は自分の場に気づくのです。自分の場を知った第三者はやること(作動)が導き出されます。これよって、当事者と第三者の対話・対峙が可能となり、だれもが公民力を持って、社会に参加(協働)できるのです。それには、当事者は無力であり、第三者はそれを助けるのが当然という、社会における意見の一致が必要であると考えています。当事者だけに苦痛を押し付けておくことの居心地の悪さは、だれもが知っているはずです。
 時代がコーナーを曲がったいま、生の出来事が目の前に現れたら、どうするのか。社会制度という道具も、知という道具もある、この時代。これまでと同じことをくり返すのか、それとも、新しいかたちと手だてを待つのか。
 わたしは、やってみたい。社会をつくる新しいかたちのひとつとして、当事者とは何か、第三者とは何か、またその作法は何かを考え実践することで、文化社会の創造に参加していきたい。
(東京・三十代)

……以上……
REV: 20160125
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