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講演記録「『 可能性を信じて 』――"朋"の実践をとおして 」

第37回 関東甲信越地区肢体不自由養護学校PTA連合会総会及びPTA・好調会合同研究協議会 山梨大会
20010730
日浦 美智江


◆演題 『 可能性を信じて 』――"朋"の実践をとおして
記念講演 講師 : 社会福祉法人 訪問の家 理事長 日浦美智江先生
 2001年7月30日(月)  
 第37回 関東甲信越地区肢体不自由養護学校PTA連合会
 総会及びPTA・好調会合同研究協議会 山梨大会より

 おはようございます。ただいまご紹介いただきました日浦美智江と申します。
 昨日の懇親会、それから先ほどの分科会報告、ということで参加させていただいて、分科会の日中の報告の方に参加できなかったのが残念だったんですけれども、昨日の夜のみなさんのご様子、それから今朝車椅子の小さいお子さん方、それから若いお母さんの方の姿を拝見させていただきながら、「ああ私たちもこうやってよく町の研修に、ってあちこち出掛けたなあ」って非常に懐かしい思いがいたしました。
 そうやって小さい車椅子・バギーとか乗っていたみんなが、30歳を越え、『朋 (とも)』で、『径 (みち)』で、それからもうひとつ施設がございます『集 (つどい)』といいます、集まるという字を書くんですけれども。そこも今、7年目に入っております。そこでのみんなの顔もだぶって浮かんでおりました。

 私たちは、今から30年前に横浜市の中村小学校という、一般学校の中の一特殊学級として誕生いたしました。訪問学級でありました。そしてその後、「さあこの次は何がいるんだろうか?何が欲しいのかしら?」って言いながら、みんなとお母さん方と、私の話はお母さんばっかり出て、お父さんが出てこないって文句を言われます。私は「お父さんはお母さんの後ろで、お母さんの活動を止めないという形で参加して」ってよく言います。というのはお父さんたちはお仕事をお持ちになっています。そして、もうひとつの条件は、「お母さん方が楽しんでPTA活動、学校活動、地域活動をして下さい」って言うんですね。お家に帰って来て友達とのいざこざとか愚痴ばっかり言っていると、お父さんは、「もうそんな活動はやめろ」ってきっと言うに違いないから。お母さん達に「絶対お父さんの前で愚痴を言うのはやめようよ。それから電話でね、カチャカチャするのもやめようよ」何人か笑ってらっしゃるから心当たりがおありになるんだと思いますけど・・・・。それがお父さんを協力者にするいちばんいいこと。「なんでそんなにおまえ楽しんでいるんだよ」「じゃあ、あなたちょっと一回バザーに来てみない?」って言うとお父さんが来て下さる。そんな形で「お父さんを引っ張り出そうよ」っていうことでやって来ましたので、ついついお母さんていう言葉が出てくるんです。
 ただただ、一本道です。本当に一本道をただ、30年歩いてきた、横浜市340万という大都市。その中の、本当に一番南の端なんですけどね、『朋』という施設が、そこへ向かって、そしてそこで16年。とにかくみんなで歩いてきた。そしてこの道を選んできたって言いますか、その一本道。そのご報告をさせていただきたいと思います。
 先ほどご紹介にありましたけど、訪問学級という名前が出ました。
 ここでは、3年間訪問教育をいたしておりまして、今思うとその先生は40歳ぐらいだったですね、一教諭です。その先生がこうやって訪問教育を続けながら、この子供たちは本当に学校に出る力がないのだろうか?それとも学校側にその体制が整っていないのだろうか? というクエスチョンマークを持たれたんですね。
 もし、本当に子どもたちが学校へ出てくる力があるのに、この子たちは、今の学校の中では受け入れるのが難しいから学校教育は無理だよって言ってたとしたら、それは大変な間違いで大変おごった事をやっている。とにかく本人にまず力があるなら、そのチャンスを作ってあげなくてはいけないんじゃないか。
 これはずうっと、私の中にもその考え方が残っております。あなたは障害がこうだから、あなたはこういう方だからこういう生き方をする。もし私が、「日浦さんは背が150センチ位で、それから女性でこうだから、あなたはこういう道ですよ」ってもし人からね、そういう風に言われたら、「いやそうじゃない。私は私で生き方は私で決めたい」って言うと思うんですね。ですから、その障害はどうであろうとチャンスはみんな平等に与えられていいんじゃないか。
 それで一生懸命、教育委員会を口説いて、そして、ひとつの小学校の一角にプレハブ教室を建てたんですね。そして、ひとつの教室にジュータンを敷いて、それまで就学猶予免除だったり、訪問教育だったりした方たちに「学校に来てよ」っていう呼びかけをしたんです。親たちが戸惑われました。
 「この子、読み書きそろばん何もできないのに学校へ来いって言われたんだけど、先生たち何するの?」 それから、「やっと、うちの子も桜の花が咲く時に、学校の門をくぐれたんですってね」って10歳になったお子さんを連れてらしたお母さん、お父さんもいらっしゃいました。教員の方も戸惑うばかりで、まず、丸や三角、その弁別学習などと、いろんな教材を用意したんですけれども、お子さんたちは、その教材に見向きもしない。
 いったい教育って何だ? というところにぶち当たります。そんな、みんなが戸惑いの中で出発した訪問学級。いろんな事がある中で、子どもたちは、ほんとに楽しそうに学校に通ってきました。ひとつは、まず、生活にリズムが付いた。これはとっても大きかったと思います。それから一人の人としてしっかりと、とらえてくれる教員・教師との出会いっていうものも大きかったと思います。それからもうひとつ、あるお母さんがおっしゃいました。「今日一日、この子と何をしよう? と考えて開ける雨戸のなんと重かったことか。さあ学校だよ、ぐずぐずなんてしてられないよ。ご飯食べて、さあ着替えて、顔を洗って。そう思って開ける雨戸のなんと軽くて嬉しいものか」っていうことを知ったのです。
 学校が始まって、みなさんてんでんばらばらに生きていらした人が一同に30人集まったんですね。当時、最初の夏休みの後だったと思います。
 先ほど古川先生(文部科学省初等中等教育局特別支援教育課調査官)が40日の夏休みのお話をしていました。私は、これをいちばん教育に言いたかったんで嬉しかったです。今、余談ですけど、この40日の夏休みを地域で子供たちに過ごしてもらいたい。私たちの福祉施設の一時契約に申し込みが殺到いたします。福祉施設では、プールだとか、バーベキューだとかいろんなプログラムを組んで、地域の養護学校の子どもたちの受け入れをしていますね。学校の先生、ぜひぜひそこに入ってきて下さい。一緒にやりましょう!ってほんとに私は言いたい思いがいっぱいあったもんですから、先ほど、40日の夏休み。ほんとにここを一緒にやることで地域と学校がつながって欲しいって切実に思いました。これはちょっと余談でした。
 訪問学級で、とにかくそうやって集まってきたんですけれども、最初の夏休みの長い休みが明けたその日のことだったと思います。私たちのその訪問学級は、もうひとつユニークなことに、母親学校というのを持っていたんですね。これは、その先生の発想です。その先生は、障害が重ければ重いほど、その主たる養護者であるお母さん。このお母さんと教師が二人三脚になる。お母さん方が学校教育の意味・意義をどうとらえ、そして、ご自分のお子さんの人格をどうとらえるか。その事で障害のある子どもたちの教育の成果は大きく変わってくる。ですから、お母さん方に学習もしていただきたい。そして、お母さんが方と教師が二人三脚になって初めて、教育の成果が上がるということをおっしゃったんですね。それも面白いことにその母親学級を担当する人間は福祉関係の人間。ソーシャルワーカーを、と大変ユニークです。それで教育委員会にソーシャルワーカーを要請し、そのソーシャルワーカーが私だったわけですけれども。学校教育にはソーシャルワーカーという位置づけはないですね。ですから、私は教育委員会の、指導二課と当時言っていたんですけれども、特殊教育を担当とする課に所属いたしました。そこから出向という形でその学級に来ることになった、そんな形を取りました。
 ここでも私はひとついい勉強をいたしました。
 そこに人がいない、制度がない、そうじゃない。それが必要だったら何らかの知恵を出す。制度がない、何がないというのはひとつは言い訳。言い訳には非常に都合のいい言葉 なんですね。そこで人間本当に必要ならば知恵を出していけばいいんだなということも‥‥‥。
 私共の『朋』という施設は、知的障害者通所更正施設です。重度重複重症心身障害児者の通所施設というのは法律にありません。ですから作れません。でもみんな知的障害を持っているということで、知的障害者の更正施設で認可の申請をいたしました。いろんなところで、先ほど運用という言葉が出てましたけれども、本当に必要ならなんとかその運用というところで知恵を出して行くってことも必要だなっと思うのは、その母親学級にソーシャルワーカーを入れる。この大きな体験です。
 その母親学級に夏休み明けにみんなが集まったとき、あるお母さんが、「ほんとに夏休み長かったね。毎日リズムが付いて娘が喜んで学校に出る‥‥ところがある日ストンと夏休み。娘にはそれが理解できない。だから学校へ行きたいとぐずる、泣く、そんな毎日。ほんとに辛かった。暑さもある。いろんな事をやってみたけれど娘のご機嫌はあまり良くない。あるとき二晩続けて寝ないで怒って、もう仕方なく車に娘を乗せてあちこち走り回った。(横浜は坂なんです。海の、港町ですね) 気が付いたら海にいた。このままアクセル踏んじゃえばラクになるなってその時思った。でも、その時浮かんだのがみんなの顔だったんだ。そこでそんなことやったら弱虫って言われるだろうな。そう思って私戻ってきたのよ」ってそのお母さんが言ったんですね。私もみなさんと出会って半年も経ってないそんな時です。黙ってました。シーンとなって、そしたら誰かが、「海はやめなさい、あれは水ぶくれになるから」そしたら誰かが、「じゃあ電車は?」「あれは汚いよね」「じゃあ雪山は?」「あれ捜索大変なのよ」「じゃあガス栓は??」「爆発するよ」「車の排気ガスは?」「あれさー鼻の穴が真っ黒けになるよ」いくつ死に方が出たでしょうかね。ほんとにいっぱい出ました。そしてまた、シーンとなりました。そしたら、あるお母さんが、「いい死に方ってないじゃん。生きようよみんな」って言ったんですね。「そうだ、この子がいたからこれだけの人生しか送れない。そうじゃない、この子がいたからこそ、これだけの人生を送って来れたそういう人生作ろう!」その時私も思いました。私の中にあるほんとに原点って言いましょうか。そこから、『朋』への道が、水が流れ出したなあと思います。
 そのお母さんたち、60を越えてきました。30代前半だったお母さんたちがこの間、「ねえねえ、日浦さん」って私を呼び止めて。「なあに?」って言ったら、あるお母さんが、「ねえ私たちの人生って中身濃いよね」って。「ほんとね中身濃いいね」ってそう言いながら、あの時のあの風景を思い出しました。
 ひとつは、子どもたちにリズムが付いた。そして、一人の人としてという関わりを持つ人が存在した。それから、私は命を引っぱるのは【明日を楽しみにする心】【医療】この2つが必要だと思います。子供たちは明日を楽しみにするっていう生活得た。それからお母さん方は学校へ連れて来ることで、子どもたちの健康っていう所をしっかり見つめるようになり、情報もたくさん入ってまいりました。仲間からいろんな情報を得る。「こういうもの食べないんだよ」「じゃあこういう調理をしてみたらどお?」「やっと座れるんだけど、何秒ももたないんだ」「ここに、こういう支えをしてみたらどお?」とかいろんなみんなで知恵を出し合いました。
 ある時、お母さんの一人が電車の中でおんぶをしてバス拠点まで来ました。その当時はスクールバスが家までではなく、バス拠点までしか行かなかったんですね。そこまで電車で通ってたんです。アテトーゼタイプのお子さんってほら、手をパッと伸ばして、つかんじゃうじゃないですか、横にいる人を。それで電車の中で女の人のハンドバッグの中に手を入れちゃったんですね。そしたら、いきなり「ドロボー」って言われて「離しなさい」って言うと余計にしっかり握っちゃう。もうどうしようもなく、お母さんは汗が出てきちゃう。そんな話を「ほんとにやんなっちゃう」って言ってくると、みんなで、「よーし、今度こそその人を見たらにらみつけてやれ」とか、「蹴飛ばしてやれ」とか、そうやってみんなで言い合うんですね。そんないろんな話が、ここでなら何でも言える。という場は、ほんとにいい場なんだと思います。
 そういう中で訪問学級は動き出したんですけれども、学校は卒業があるんですね。
 先ほど、進路のお話が出ていました。ほんとにそうなんです‥‥その先どうする‥‥。あるお母さんが、「悲しいとか辛いじゃない、恐怖だ」という言葉を使われたんですね。その時、私はあの最初のお母さんたちの、夏休み明けのあの風景を見ました。みんなバラバラになっちゃいけない、みんな一緒に生きていかなきゃいけない。これが切れる。これともうひとつ、教育って何だったんだろう? って思ったんです。
 私が冗談に先生たちに言ったことがあるんですね。「先生たち、もし、みんなそれぞれ家族に返っていくしか道がないんだったら、そろそろ更年期を迎えるお母さん。たぶん情緒不安定になると思う。そのお母さんにどう対処したらいいかを子供たちに教えてやってくれ」って、言ったら怒られちゃったんですけど。でも、半分本気でそれを言いました。
 教育、これはいつか、人間は他人の中で生きる‥‥そのための生きる力をつける‥‥それが教育であると私は思います。いま、福祉の世界でも"地域"という言葉が、キーワードになっているんですね。"地域生活"「私は、日浦はただいま地域生活をしております」なんて言いません。みなさんも言わないと思う。なぜこれ地域、地域と言っているの?
 福祉の世界でいえば、今まで入所施設というのがあったんですね。そして障害の人たちがそこで大事に保護されて、みなさんのその障害のことをよく理解する人たちと暮らすのが幸せだという生活がずっと組まれてきた。
 1960年、70年、スウェーデン・デンマーク、いちばん最初に「それって本当に我が子の幸せなんだろうか?」って問題提起したのはスウェーデンの親の方たちだと聞いています。そうやって保護されてある決まったエリアだけで生きる‥‥本当に幸せなのかしら?
 ディ・インスティテューション、脱施設化ですね。その問題提起をスウェーデンの親の方がなさった。続いてデンマークの厚生大臣にあたる方だと聞きましたバンク・ミケルセンさんがノーマライゼーションという言葉を言われたんですね。障害のある人たちを普通の人にする、ノーマルにするということではなくて、私たちの生活、普通の生活の中にみんな一緒に生活をしていく。そういう生活を組み立てていくことが本当に障害がある人たちの幸せではないか。共に生きるということですね。
 そして続いてスウェーデンのニーリエさんという学者の方が、ノーマライゼーションを8つの理念として整理なさったんですね。いくつかあります。人格人権は擁護されているか? 男の人と女の人がちゃんと一緒に生活しているか? とか。いろいろありますけど、大変わかりやすいものに、24時間私たちと同じリズムを持っているかどうか? 私たちは、朝起きて、食事をして、活動の場に出て行きます。帰って来ます。安らぎます。そして明日のエネルギーを蓄えるということで睡眠をとります。そして次の日そのエネルギーを使う。社会の中でみんなと、いろんな人とも出会える。その中でそのエネルギーを使っている。それをやっていますか? それから一年か、春夏秋冬そういう空気を、行事を、町のにぎわいをみんな体験していますか? 今、横浜は海が大にぎわいです。この間ドーンと花火が上がりました。
 今まで重度重複と呼ばれる方たちとずっと一緒だった私は、先日、大変怖い体験をいたしました。『サポートセンター径』というのが3年前にできたんですけども、それは区域が対象の受け入れなんです。私共の区は12万人で横浜には18区あるんですね。横浜市は今、そのひとつひとつの区に、区を対象にサポートセンターを作っていっているんです。ひとつずつ作っている。そこに相談機能とショートステイそれから一時ケア、日中活動デイケアこの3つを入れるということです。その区の障害の人たちですから、多様な障害の人たちが集まります。私もそこの去年一年間は所長をやったんですけど。なにしろ、自閉症の人もいます。交通事故で脊髄損傷になった方もいらっしゃいます。筋ジストロフィーの方もいらっしゃいます。行動傷害の人もいる。それから重症の人もいる。
 朝10時10分にひとりの男性が消えました。2時間経っても見つからない。3時間経っても見つからない。彼は風のように私どもの『サポートセンター径』を出て行っちゃったんですね。『朋』も『サポートセンター径』もそれからその横に付いてるお年寄りのデイセンターも持ってるんですけれど、職員全部が手分けをして16組くらい、ふたり組になって、みんなで探して歩きましたがどこにもいません。しばらくして目撃者が出ました。小学生が「赤い短パンをはいた人が坂を下りて行ったよ」と。その坂の方向がわかったので、これは鎌倉方面だということでまたみんなで走ったんですけれども‥‥なんと彼は、茅ヶ崎の海にいました。私共の所から茅ヶ崎の海まで電車でいくつ駅があるか。真っ赤に日焼けして、洋服全部脱いで海にいた。本人はニコニコしてました。迎えに行った職員が「楽しそうだったよ」って。彼は保護された警察署の中でニコニコ言っていたそうです。ほんとにみんな地域で生きるというときに、楽しいことばっかりじゃないですね。リスクがありますね。そのリスクも抱えてどう生きるかっていうことだと思うんですね。そしてその時に裸んぼになってた彼に、茅ヶ崎市の福祉課の人たちが洋服を整えて下さり、いろいろ彼にお水を飲ませて下さったりとても親切にして下さった。それから、茅ヶ崎の海の、そのいらした女性の方が「あっ、きっと心配なさってる」とすぐ通報して下さった。逆に私共の近くの人たちはいつも障害の人に会っているもんですから、彼がひとりで行動しているっていう、それが奇異に映らなかったんですね。ああこういうこともあるのかと思ったんですけどね。
 地域という時には、その地域の人たちが、みんなをどうとらえるか、この問題が大きなテーマになってくると思います。今、私もほんとに重い障害の人たちとただ一本道を歩いてきた。そこにまだまだいっぱい考えなくちゃいけない問題、そして整えなきゃいけないことがたくさんあると改めて感じております。
 先ほど分科会の報告の中に、"介助的自立"とお母さんがおっしゃったんでしょうか? その自立には"出会いと体験"とおっしゃって、小学校時代からその体験をどんどん増やしていると‥‥ほんとうにそうだと思います。"出会いと体験"これが私はほんとに大事なことだと思います。【人は、見えないものは思わない】とのデンマークのことわざがあるそうですけど、人は会って初めて心が動きます。ですから、『朋』。ここではほんとにその出会いと体験をどう作っていくか、ということをずっとやってきました。私はよく思うんですけども、重い障害と言われた時にどうしても重度という言葉がついてくるんですね。その人の地域生活。軽度の方は就労だとか社会との接触はいろいろ考えられる。重い方たちはどうなるんだろうとよく私どもは聞かれるんです。重い障害の方たちの特性としてひとつは、ほんとにあのコミュニケーションがとりにくいんですね。とれないんじゃなくて、わかりにくいんですね。表現が弱いということがひとつ。それから健康面もしっかり見てあげなくちゃいけないということですね。それから全介助ということになるとまわりの方、特にご家族の心身の負担が大きい。そういう面があるかと思います。
 心身の負担が大きいというところは、一時ケアとかショートステイ、ヘルパー派遣でお手伝いできます。これは今、私共のほうでは、お年寄りじゃなくて障害の人を専門にケアするヘルパーさんの育成をする事業を開始いたしました。特別に1、2級をお持ちになっている方に、私共の講座を受けていただいて、実習をしていただいて、そして、障害のあるお子さん、もうお子さんじゃないです、私共の大きい人ですけれど、障害のある方のご家族のところにヘルパーさんに行ってもらう。それから一時ケアでお受けする、ショートステイをお受けする。緊急一時保護もあるというところで、親御さんにリフレッシュということも含めてのケアを実施する。
 健康っていう面では、私共のところでは、ナースが4人スタッフとして入っております。通所のところですね。それから2階に診療所も作っております。そういうところで医療との関係っていうのがドッキングしているんですね。
 それともうひとつこれが大事。これは、その人をどうとらえるかということだと思うんですけども。
 こんな体験をいたしました。もうほんとに寝た状態で小さい小さい方でした。男性なんですね。私は彼とは中村小学校の時に出会っております。表情がほんとに無くって、ちょうど、お人形さんみたいに色の白い可愛いお子さんで、天井を向いてまっすぐ寝ている。ただ音には敏感で、時々音が鳴ると手をバーンとあげる。それで少し発作的な状態になりまた戻る。でもそれは気にしていると人の中に出れないから、お母さんはそれはもう気にしないで、「この子のそれが常態(常の態)だと思って学校へ連れてきました」とおっしゃってました。本当に表情が見えにくくていつもお人形さんのようでした。一度、しっかり彼の笑顔が見たいと思っていたんですね。
 卒業して私共の所へ来ました。少し大きくなって、ちょうど若侍みたいなりりしい顔で「大人になってきたね」という感じでやってきたんですけれども。ある日、グループの中で彼が熱を出したんですね。これはちょっとみんなのグループの中にいるのは本人の体によくないから静養室に行くということで、医務室に連れて行った。そうしましたら、彼がね「ウン、ウン、ウン」と声を出して、クスンクスン、という感じで泣き顔をするんですね。ほんとにイヤな顔をするんです。明らかに不快。だんだんと泣き顔になって。「どこか痛いんだよ。お腹かなあ? 背中かなあ?」熱が出てますからね。看護婦さんも来ました。「これは、病院に連れてった方がいいんじゃない? どっか痛いんじゃない?」こういうのってほんとに困るんですね。口では言ってくれないっていうのが。でも、顔色はそんなに悪くないんですよ。呼吸も大丈夫。脈も大丈夫。そして一人の職員が「ここにきたのがイヤなんじゃない? 元の所へ戻ろうよ。みんなのところに居たいんだよ」って言いました。エッ、でもやってみよう。私たちの中では、それだけの認知する力があるかどうかは分からなかった。連れて行きました。やっと泣き止みました。とっても穏やかな顔になりました。
 これは無理だろう。あれはこの人ダメだ。私たちの想像力の中にその人を閉じこめてはいけない。これを彼が教えてくれました。
 どんなに重たくても、みんな一人ずつ≪思いの壺≫っていうのを持っている、って私は言うんですけど。例えばこういう≪思いの壺≫がありますね。(机上のコップを手に持つ)。私たちは、これちゃっちゃいなと思うんですよ。すぐいっぱいになってね。怒っちゃったり、泣いちゃったり、笑っちゃったりという表現が出てくる。これがいっぱいになった時、私は表現が出てくると思っているんですけど。みんなはきっと大きいんですね。この≪思いの壺≫が。なかなかいっぱいにならない。入れ続けなければ表現として出てこない。長い長い小学校、中学校の教育の中で、どんどん、どんどん色々なものが彼の中に入って、その時に。熱を出したあの時に、溢れちゃったんですね。
 今度は、逆に表現がなくなってしまう人がいます。変成疾患の場合。それは、表現がなくなったからって、この≪思いの壺≫が消えちゃったんじゃない。この中にはまだ詰まっている。でも表現として溢れなくなっただけで、この中にあるものはしっかり見てあげなければならない。つまり、引っ張り出してあげるという事が、大事なんじゃないかなって思います。
 そうやりながら、人と人とのつながり。それを作り、社会とのつながりを作り、地域とのつながりを作る。そして、みんなの本当の意味での地域生活のセーフティーネットである社会の価値観を変える。というところへ、つながっていかなくっちゃいけないんじゃないかと思っています。

* 以下、スライドをおってのお話です。
 写真の内容は( )内

(中村小学校)
 この小さなほんとにあの木造の校舎からの一角に訪問学級ができました。

(子供たち)
 こんな小さいみんなが学校へやって来たんですけど、今思うとチューブ栄養の人は一人もいないんですね。今は中村養護学校になっております。校長先生も今日参加なさっているようですが、今の中村養護学校は、もっともっとみなさん厳しい常態になっていらっしゃいます。

(教室の様子)
 中村小学校の一角にありましたから、こうやってみんな休み時間に、ワッと遊びに来るんですね。学習発表会だとか運動会だとかみんな一緒にやります。今もこういうミニ養護学校が4つ横浜にはあって、同じように、小学校とつながっていますので、おそらくこういう交流は、日常茶飯に見れているんじゃないかと思います。私共の時も、いつもこうやってみんなが遊びに来て、最初はびっくりするんですけどね。子どもたちは、一年生でいろんな質問をします。「何でお話しできないの?」「何でよだれが出てるの?」「何で歩けないの?」でも、それにひとつひとつ答えていくと、そんなもの吹っ飛んじゃうんですね。みんな名前を言いながら、「みっちゃん来てますか」「よし子さんいますか」って遊びに来てくれます。

(母親学級)
 これが母親学級の風景です。なんかこれたぶん写真撮るんでみんなで本を広げてるんだと思いますよ。いつもこんな真面目なことやってたわけじゃないですから。

(卒業式)
 卒業がきました 

(販売風景)
 こんなことやって、お金集めたんですね。貴重な写真が出て来たんでスライドにしたんですけども。みんなで露天商人の人のねえ、お手伝いするんですよ。そうすると一日に、5万円とか6万円とかいただけるんですね。ほんとみんなで一生懸命お金を貯めました。最初の5人の卒業生が出たときに、小さなプレハブを建てたんですね。

(プレハブ)
 これです。『訪問の家』と言います。ここで、7年間みんなおりました。

(掃除の様子)
 これ『訪問の家』を建てたときですね。この時に、350〜360万だったと思いますね。みんなで貯めたお金を使ったんですけれども、お母さんたち、お父さんたちみんなで、垣根を作ったり、自分たちでできる棚を作ったりしたんがら、「この床一枚、窓の桟一枚、愛しいね」って言ったのを覚えています。

(民家の門)
 その次に、チューブ栄養の人の卒業生が出たんですね。それで私はこの時、学校を辞めました。そして、このちっちゃな家を借りてその卒業生たちと、この家に行ったんですね。
 この家が『朋』。今の施設の名前です。

(家の中のこどもたちの様子)
 こんなちっちゃな家。6畳と4畳半という。でもあったところはとてもいい所でこの近くは、外人墓地があったり、港の見える公園があったりするんですけども。坂の中腹で、車椅子で坂を下りたり上がったりは、大変な苦労をいたしました。
 このときにひとりの青年がいましてね。このちっちゃな家で私たちが、「さあ、今日は終わり」と言いますと、歓声をあげるんですね。「ヤッター、やっと解き放たれた」と。こん中に入れられるとたまんないですよね。それを私は偉そうに「みなさんの青春の場だ」とか言ってたんですね。何がこれが青春だ。冗談じゃないよ。彼はよくふすまを蹴飛ばしました。でも今とってもその彼に感謝しているんですね。
 彼は私と出会ったときは首もすわらない、ま、今もすわっていません。ちっちゃなちっちゃな男の子で、私は赤ちゃんのように大事に抱いた記憶があります。その彼がここの部屋で「ヤダよー」ってふすまを蹴ってくれて。そして今、彼がグループホームで生活しているんですね。想像力の中に閉じこめてはいけない。それをほんとに彼は私に教えてくれたんですけれども、その彼のおかげで私は力が出ました。
 これではいけない。ほんとの意味でみんなが伸び伸びできる場が欲しい。広い場所が欲しい。そして重い障害のある方たちだってほんとにみんな同じように、自己実現、自分で精一杯生きる時間が欲しいんだよ。その場所を、チャンスをやっぱり作っていかなければ困るんだということ。
 それからもう一つ、おそらく思春期、それを過ぎていくと、どんどん体力的にも衰えていく人が出てくるだろう。医療的にも厳しい問題が出てくるであろう。そのためには、ナースが欲しい。だから医療職がこの中に入れる、そんな形のものが欲しい。それからほんとに横浜市の障害福祉課に日参いたしました。私が顔を出すと部長が新聞で顔を隠しておりました。ほんとにしつこい女だと嫌がられたと思います。でも私にそれだけ行ってくれと言ったのは、彼のふすまを蹴飛ばすあの力だったんだと思います。

(建設予定地)
  そして、ここをどうか? って言われたんですね。富士山の見えるとても素敵な住宅街の高台でした。

(地元説明会)
 地元から反対が出ました。文化施設ならいざ知らず、高級住宅街に障害者施設は似合わない。そういう申し入れ書が市長宛に出ました。新聞にも取り上げられました。文化施設って何だろう?って思いました。文化の根元は命です。生きるということ生きるということです。その命、生きるということをほんとに大事にする障害のある人たちに言ったらエライことになっちゃうので、専門誌に私の思いを書かせていただいた記憶があります。反応があるとみなさんこう集まっていらっしゃるように、こういう集会を持たなくちゃいけないんですね。体育館に、ちょうどみなさんのように300何人かが集まって、そして、左側が自治会の方ですね。マイクを持ってしゃべっているのが私だと思います。設立代表者という事で出て地元の方たちの質疑応答に応じました。
 ほんとにいろんな質問が出ましたけど、いちばん最後に、いちばん後ろから若い女の方が手を挙げられたんですね。「日浦さんに質問いたします」と名指しだった。ほんとに心臓がのどの所から飛び上がりました。「施設ができたら散歩に出ますか? 出ませんか?」というご質問でした。どっちを言ったほうが得か、コンピューターですね。右と左と。その方のほうを見て「出たいと思います」と答えました。そうしましたら、その方が、「どんどん出て来て下さい。そして、お友達になりましょう」とおっしゃった。緊張してなかったら泣いていたと思います。こういう方がこの地にいらっしゃる。この人を信じてみんなを連れて来たいってほんとにその時思いました。
 この話を先日、今の自治会長さんにしましたらね、その自治会長さんが、「それは、日浦さん天使じゃないか」って言われたんです。ほんとにほんとにそうかもねって今、思います。その夜の言葉が最後に出たという事もあったかと思います。
その二ヶ月後にゴーサインが出ました。

(朋・完成の外観全景)
 「まるで夢みたい。夢ならさめないで」ってお母さんの一人が挨拶なさいましたけど、私もほんとにそう思いました。

(通所風景・車から抱きかかえている様子)
 ほとんどの人が歩けませんので、こうやって朋とボランティアさんと、それからおもに家族の車で通所して来ます。今、48名おります。

(ホールの様子)
 これがホールです。真ん中にホールを造りました。そして放射線状に活動する部屋ができております。最初の年は車椅子ばっかりでした。今はストレッチャーの人が増えています。

(朝の会・注入しながら参加している方の様子)
 今は、チョーブ栄養の方が16人、気管切開のの方も3名、胃ろうの方もいらっっしゃいますし、下咽頭チューブをつけた方もたくさんいらっしゃいます。でも、病気ではありません。熱も出ていません。お腹もこわしていません。こうやって水分補給をしながら朝の会に参加いたします。5つのグループに分かれて活動を始めます。

(買い物)
 地域のスーパーマーケットには、しょっちゅう買い物に行きますので、町の方たちはチューブ栄養の方はもう、どういうんですかね、見慣れた光景っていうんですか「今日は何買いに来たの?」なんて声をかけて下さいます。

(プール)
 これは市民プールに行ったときです。さすがに今は、全員区民プールは無理になりました。最初の頃は、園庭は駐車場に使いましたので、近くの公園が園庭。そして、区民プールがひとりひとりというプログラムに展開されております。

(パチンコ)

(夏の夜)
 これは夏に夜を楽しみます。夜ライブハウスに行ったりいろんなところに夜の楽しみがありますので、出掛けていきます。これは横須賀に行ったときですね。夜景を見に行ったとき。厳しい方も看護婦さんが一緒に行くという形で出掛けていきます。

(カラオケ)
 これはカラオケですね。

(湘南海岸)
 これは湘南海岸。90年ですからもうずいぶん前の写真なんですけど、私が「ハイレグの女性にあってこい」と言いましたら、ほんとに。これ職員いないんですよ。これ全然知らない人です。「きれいに写真撮るから入って」ってみんなに入ってもらってるんですよ。ほんとのナンパしてきたって言っておりました。

(夏祭り・スライド4枚)
・ 夏祭り、私共は1時からにして(通所の開始時間をずらす)地域との交流に入ります。
・ これはボランティアさん。地域の人とビールを飲んでますけど。
・ 彼は、はっぴを着てストレッチャーに乗って、ヨーヨー、ラムネの所にいて、そしてまわりの人が「あれにするか? これにするか? 」って声を掛けてくれるところです。
・ 気管切開の人が出て、やはりお祭りに全員が行くって事ができなくなりました。そうしましたらご近所のおみこしを担ぐおじさんたちが、お祭りの気分をとにかく味わえよ、っていうことで、朋をコースにして下さった。で、ワッショイワッショイとお祭りの気分を出して下さる。これは毎年です。

(地域の運動会・スライド4枚)
・ これは地域の運動会です。運動会に13自治会があるんですけれども、そこに入ります。全部参加したら、運動会終わらないので、1つ、特別に借り物競走に出させていただくんですけど、見て下さい。ヨーイドンってしても職員まだしゃべってますからね。
・ こんな様子ですから、これビリですよ。私がどんなにヤキモキすることか。『朋』らしくひとりひとりを大事に!! これうちの理念です。だから、とても大事なんですけど、時と場合があるでしょって、私は時々思うんですけど、相変わらずこのテンポです。そうしましたらね、ある自治会長さんが私の肩をたたいて、「ヤキモキしてんでしょう」っておっしゃって。「私の言い方が悪くって」っていうと、「このみんなのテンポ、ぼくらが慣れないと、一緒に生きていけないよ」ってニヤって笑われたんですね。「どんどん出て来なさいよ」って、一本とられたなと思います。
・ これは綱引きです。みんはできません。ですから職員が、これ対抗試合なんですね。で、出ます。私は横で、「勝ったらお寿司だよ」って叫んでるんですけれども、最近何を叫んでも負けるようになりました。職員が言うには、「僕らも歳をとったんだよ。」ということだそうです。
・ そしてみんなは、一番にぎやかに応援いたします。最近嬉しいことに、中学生、小学生が、朋コールをしてくれます。「朋がんばれー」って言ってくれます。もちろんこの運動会の役員は『朋』も出ます。職員が必ず役員会に出てそして地域の人の一人として、この運営を手伝います。

(小学校との交流・スライド4枚)
・ 小学校との交流です。もう、みんな16年ですから、車椅子は上手に押してくれます。
・ こんな光景もよく見かけられます。
・ これはある時です。彼は声がでます。「あー」って声が出るんですね。そしてある時、彼が声で挨拶をすることにいたしました。彼が「やりたい」と力を入れましたんで、職員と前の日に組んでおきまして、彼が「あー」と言うと「おはようございます。今日はお招きありがとうございます」というふうにして、お話をしました。
 このあとです。女の先生からお手紙をいただきました。その先生が、私はどうも1年1回の交流会、大人のやらせのようですっきりしなかった。小学生がなんか『朋』のみんなに何かやってあげている感じがして‥‥。ところがこの集会で、藤井さんっていいます。藤井さんが「あー」という声で挨拶をした。それを1年生から6年生まで、じっと聞いている。私は間違っていました。私たち教員が口で上手に子供たちに伝えられない【一生懸命生きること、自分の力に挑戦すること】それを藤井さんは「あー」という声で、見事に子供たちに伝えてくれていました。これからどんどん子供たちにいろんな事を教えてください。というお手紙をいただきました。
・ それから本当によくやってまいります。この間の夏休み、みんなで来て、和紙染めをやっているうちに用意したスイカを食べて、にぎやかに帰っていきました。何かあると、とんできます。この間も「公園で写真撮ってあげるよって言ったけど、あのおじさん絶対おかしいよ」って私たちの所へ言ってきました。「何で学校に行かないで、私たちの所へ来たんだろうね」ってみんなで言ったんですけども。ほんとに飛びこんで来てくれます。みんな仲良しです。卒業式には私共の作品を持ってみんながお祝いに来ます。
 そして、教員の人たちと私たち職員と1年1回。マイカップを持ってケーキを食べながら話し合いを、懇談会をいたします。これがとても楽しいです。今時の小学生事情そして私たちはなんで今こういうことに力を入れているか。という事をお互いにお話合いをいたします。そして私共の職員のお子さんに障害があるお子さんが生まれて、この地域で住んでるんですけど1年生のひとつのクラスを決めていただいて、そこに彼はいつでも行けるようになっています。この間彼が入院したときは、今はもう3年生なんですけど、その3年生のみんながお見舞いということでいっぱい寄せ書きを持ってきてくれたりしております。

(園芸・スライド9枚)
・ 園芸班です。
・ 園芸班も私たちはコミュニティにアタックするっていうんですか? アクセスという言葉を使うんですけれども、コミュニティアクセスプログラムと言います。これは、市民菜園。園芸班が参加いたします。
・ 最初は市民の方たち驚いていらっしゃるんですけれども、そのうちに「今日は里芋だよ。」とか「今日はジャガイモだからね。一緒にやろう」っていうふうに声を掛けて下さって、そしていろんな収穫物をもらって帰ってきます。
・ 彼もやはりこうやって気管切開になったんですけども、とても植物っていうのに興味を持っておりました。だんだん、だんだん目の動きもなくなっていったんですけれども、植物が好きだったということで彼は、稲を植える担当をしていたんですね。稲作担当主任という名刺を持っております。
・ その彼が、もうほんとにこういう形で座る事も出来なくなって、「どうしよう?」って言ったんです。彼は農家の方に稲をいただきに行って、脱穀をしてもらうという役をやっていたんですね。けれども彼の役割は最後までやろうということで‥‥。それをずっと続けました。
・ 看護婦さんがついて行ってます。
・ 稲をいただくご夫婦です。毎年、「じゃあ、来年も元気に取りにおいで。いちばんいいの、のけとくよ」って言って下さいます。
・ そして最初のお米が採れたときにみんなでこうやって集まって、このご夫婦もお赤飯を持ってお孫さんを連れていらっしゃるんですね。こういう関係がなかったらきっと福祉施設とは縁がなかったと思います。たけしさんと言います。たけしさんとこのお二人、ほんとに言い関係をずっと作っていっていただきました。
・ 彼は26歳で亡くなったんですけれど、お通夜にはご夫婦に来ていただいて、ほんとにいい、いろんな思い出を共に語りました。

(ボランティアの男の子・スライド4枚)
・ 彼です。中学生です。彼はボランティアでやってきました。それで、彼が部屋に入ったとたんに、彼女がとてもいい笑顔を見せたようなんですね。ニコッと笑ったんです。彼はちょっと、ネックレスして、イヤリングして、茶髪という少年でして。その彼がちょっと肩を振りながら「ボランティアしていい?」って入ってきて、そして、その部屋にいたそのゆうこさん。ニコって笑ったんですね。その笑顔を見て、彼が言いました。「人間は形じゃないんだよ。心を見なくちゃいけないんだよ。僕はここでなら僕になれる」それから彼はほんとに毎週のようにやって参りました。
・ 卒業式、ゆうこさんが来ました。彼は初めて泣いたそうです。「ありがとう、ありがとう」と言いました。
・ 彼のこれは赤い車です。この一週間後に壊れました。何かあると、とんできます。そして「ゆうこさん乗ってみて」ってゆうこさんも乗って嬉しそうです。チューブ栄養ですから彼女は。もう、ほんとに体が固くなってきて、厳しい障害なんですけどね。
・ そしてこれ、二人が六本木を歩いているとこです。デートをしています。こうやりながら彼は何とか高校を卒業して、今、専門学校です。ある時彼は私に言いました。「今、ちょっとゆうこさんに会えない僕なんだ。もうすぐたったらゆうこさんに会いにくるよ」それで卒業した卒業式。「卒業したよ。ゆうこさん」ってやって来ました。彼がほんとに度をはずさなかった。それはもしかしたら、学校の先生? 親? ではないかなって思います。ゆうこさんだったんじゃないかな? って思います。みんなはしゃべれない。でも、人の心をしっかりと動かすことができる。そう思います。

(企業との関わり・スライド3枚)
・ そして企業とも交流いたします。
・ 私共がいる栄区というところにファンケルという大きな会社があるんですけれども、ここと毎年食事会という事で交流をいたします。そうやりながら実は4年前、ここが特例子会社を作ってくださったんですね。そして今、20名の知的障害の人が就職しております。
 社長はおっしゃいます。「みんなとの交流の中で、会社全体が優しくなった。人を大事にする会社になった。ですから、みんなでこういう人たちを就職っていうことで受け入れようと、すんなり決まった」って。みんなは働けません。でも大きな働きをするっていうふう思います。
・その何人かは、パンを焼くことをやっています。とても楽しんでパンを焼いています。みなさんが買いにきて下さって「ありがとう」って言う時、その時が一番みんなの嬉しそうな顔ですね。やはり人が人に認められて、そしてそこにエネルギーが生まれるって、彼らの顔を見て思います。

(グループホーム・スライド7枚)
・ その活動が、親の方の病気、そして親の方に養護・介護する力がなくなったとき途方に暮れて、どこかまた違う所で生活しなければいけなくなる。とても悔しいね、って思いました。それで思い切ってグループホームを考えました。
・全介助の人たちです。
・彼女のお父さんが78歳になったんですね、彼女自身が40、えーと年を言うと怒られますね。40ちょっとです。緊張が強いんですけども、言葉が出ます。「おいしいよ」とか「ありがとう」とかいう言葉を言ってきてくれます。お父さんが先日「もう僕も78になった。お母さんもだんだん身体がきつくなってきた。土・日帰ってくるっていうのもだんだん受け入れていくのもきつい。心配だなぁ」っておっしゃったら、彼女がじっとお父さんの顔を見て、このグループホーム『きゃんばす』っていうんですね、「きゃんばすがあるよ、お先にどうぞ」って。お父さんは「嬉しいんだか、悲しいんだか」っておっしゃいました。
・彼女も椅子から降りたら座ることができません。
・この彼がふすまを蹴飛ばしていた彼です。
・その彼がですね、彼はイエス・ノーを足で、イエスの時振ります。ノーの時は振らない、ということで選択してやっていきます。これちょっと見てください。舟木一夫って書いてあるんですよ。なんで舟木一夫のチャリティーに行きたかったのか未だにわからない。ディナーショーに行きたいなどと言ったんです。誰かって、五木ひろしとか言うならわかるんだけど、舟木一夫に行きたい。年がわかるじゃないってみんなに言われたんですけど。もちろん彼はもう36、7歳なんですよね。絶対靴も靴下もはかない人です。っていうのはイエス・ノーを足でやるもんですからイヤなんですね。洋服も着るのは嫌い、なるべく着ていたくない。そしてジッとしているのはなお嫌い。パンを焼いている時に、しょっしゅう戦列から外れるのが彼です。さっきのお先にどうぞの彼女がいつも、幼友だちですから彼がスーっと逃げようとするとたけしっていうんです。「たけちゃん!」って言うとまたスーと戻ってくるんです。その彼がなんとディナーショーではですね、靴をちゃんと履いて2時間しっかり席に着いていたということです。ここでも思いますね。彼らがどんな力を見せてくれるか、ある場面だけで感じてその人を見てはいけない。
・そしてまたひとつのグループでは缶回収リサイクルグループに入っております。この中の人たちも今、グループホームで生活を始めました。

(診療所・スライド2枚)
・ それを支えている診療所が二階にあります。ある時、あるお母さんが「朋は最後までつき合ってくださいますか? 」とおっしゃいました。「ハイッ」と私は言いました。「勿論です」と言った後、私はドクターではないという事を思いました。先ほど古川先生がおっしゃいました、命です。命をいじめてはいけない。そのためにやはり科学的にその身体の状態をきちっと診てくださるドクターにいて欲しい。それまで嘱託医だった先生を口説いて二階に診療所を作りました。常時ドクターがいるという体制を作りましたけれども、診療所は診療所で独立しております。何かの時にはお願いするけど、下の活動とは離れております。
・時々先生が、様子を見に下に降りてくださったり、熱が出ると診療所の方に行きます。医療がイニシアティブを取るのでなく、福祉と医療がほんとにパートナー。そしてお互いの専門性を尊重するということで、どれだけみんなの活動範囲が広がってきたことかと思います。「こういう事をしたい」するとドクターがおっしゃいます。「この人はこういう状態の時ならOKだよ。それから看護婦さんがついて行きなさい。それならいいです」
 それから、さらにどうしてもって私たちが願うプログラムがあります。そういう時は、先生が「何分ならOK。そして私がついて行ったらいいから、じゃあついて行きましょう」こういうパートナー、どれほど有り難いことか。
でも、そういうパートナーをつくっていくには、医療職と福祉職がそれぞれにそれぞれの分野をしっかりもって関わることが大事です。先生がダメだからもうこの計画を止めます。というと私は怒ります。それなら出さない方がいい。ちゃんとそこも考えて誰かがダメだったらどうやったらそれが出来るか考える。それほど大事なプログラムなら出してきなさいって言います。そういうチームワークです。

(ボランティアさん)
・ そしてボランティアさんです。年間に延べですけれど2800人位のボランティアさんが入ってくださいます。
・いろいろな活動に参加してくださいます。それでほんとに外出やいろんなことができるんだと思います。今、開所の時からずっと手伝っていただき、継続して関わって下さっている方が30数名いらっしゃいます。「みんな歳とったね」ってお互いに言います。
 親の方たちとも毎年一回、おしるこ会をやったりバザーで一緒に協力したり、とても仲良くやっています。私は今年からこのボランティアさんの方、何人かにオンブズマンになって私共の施設に入っていただく、ということをいたしました。というのは、ほんとにみんなの事を分かって下さっていて、『朋』を何よりも大事にして下さる。それに、『訪問の家』の活動の時にも信頼し、そして、育てよう大事に、と思って下さっている方たちだからです。

(職員たち)
・ それから職員ですね。ほんとにみんなのためなら火の中、水の中じゃないですけど、いろいんな事を考える。私は施設長になっていちばんに思ったのは、ダメって言うことだけはやめよう。この計画がこの人たちが本気で一生懸命、みんなのことを考えてした計画なら絶対ノーって言わないでいよう。まあ何回かありましたね、心臓がドキドキするようなことが。でも、結果的に私は「やってごらんなさい」って言ってきたこと。それで大きなミスは一度もないんですね。若者は若者同士突拍子もないことを考えてくれますけど、それは私たち歳をとった人間が、こうなったらこういう手を打とう、ということを考えながらやらせてあげる。青春っていうのはチャレンジだと思うんですね。チャレンジを止めてはいけない。ただ命に関わること、これはナースとのチームを組みます。それから判断しますけれども、ほんとにいろんな事を、いろんな体験を今も作っていっています。

(行政・横浜市長 来園)
・ そして行政。これは横浜市長です。たまたま4年前に『サポートセンター径』の開所式にいらした時に、私の応接室にいらっしゃいました。そしてみんなに会ってお母さん達にも会いました。その時にお母さん方がやはりこの子を置いてと思うときに、まだいっぱい安心できないものがある。という事を市長に言いました。俗に親亡き後という事ですけど。私は親亡き後では遅いと言います。親あるうちに見届ける。それが大事だと思っていますけど、そのお話をいたしました。そうしましたら市長が、「ここまでがんばってきた親の方たち、その親の方たちを泣かすようなことを横浜市はしてはいけない。しっかり行政が考えます」と言って下さったんですね。何人かのお母さんは涙が出ました。
 そして今年なんです。先日なんです。市長名で『後見的支援の必要な人たちの地域生活の施策』これを条例化を目指して考えるように委員会を作りなさいと福祉局に言われたんです。そして福祉局で今、8人の委員を作りました。これ私たち通称、『安心条例』と呼んでいるんですけれども、安心条例策定に向かって動き出しております。
 行政が、制度がない何がないと言わない。『朋』を横浜市は作ろうって言った時に、更正施設で足りないものは横浜市が出すと言ってくれて、補助金をつけてくれました。今、措置費より補助金の方が多い状態です。そして大事にしてくれます。私は横浜はランドマークタワー、国際サッカー、大変派手な都市だと思いますけど、その一角でほんとに一番弱い命をしっかり守ってくださってること。やはり行政の力というものは大変大きいと思います。

(家族の方・お母さんたち)
・ そして家族の方たち、先ほども言いました。まだ社会がほんとの意味で障害がある人たちの地域生活を理解しているとは言えない。どうして私たちが普通に生きたいか、親がやはり一番に社会に伝えていかなくちゃいけない。その活動をするという事で、お金じゃないんだよ、バザー、それから夏祭り、いろんな活動をもういい加減にエンジンを、少しパワーを落としたらどうかと言うんですけれども、そうじゃないですね。あと残り時間がない。と、たぶん私も含めてお母さんたちは思っているんだと思います。そんなお母さんたちです。
・たけしさんが生きていた時。さきほどの彼ですね。稲の。いちばん輝いていたというお母さんです。
・この誇り高いお母さんの顔。私は参ったと思います。
・歩けなくても、しゃべれなくても、動けなくてもこの子に育ってほしい。ずっとそういって生きてきたお母さん。私は親と子の原点それをこのお母さんたち、この家族の方たちに見せていただいています。何かができるということではない。あなたにここにいて欲しい。それがいちばん大事な思いだと思います。

(子どもたち)
・ そして本人たちです。ほんとにみな見事にハードルを跳んできました。大丈夫、大丈夫だよって。

* 以上でスライドは終わり
 20世紀は、できる事はいいことだ。それで進んできた世紀だと思います。戦争と科学の世紀。その価値観。知と情というものが人間にはあると思いますけれども、その知ということが優位で、そして泣いたり笑ったり、それはその下にあるもののように、私たちは生きてきたように思います。でも障害がある人たち、障害のある人たちはこころで生きています。それにいろんな事で助けていただかなきゃいけない。いろんな形で手を借りなくちゃいけない。そこに手を借りるというところで、人との繋がりができます。
 時間と命を預けられた人間。その人間はどうしようもなくその人と向き合えます。
 そして、向き合う中で心をのぞき込みます。人が向き合うという事がどれほど大事なことか。そして人と人との関係が、ほんとうに私たちの生きる根幹にあるんだ。ということを、私は障害のある人たちが私たちに大きな問題提起として出していると思います。
 そのことを社会のみんなに伝えていきたい。それがほんとうに私たち訪問の家という法人の、大きな役割だと、今まで信じて歩いてきています。
 最後に「葉っぱのフレディ」という絵本があるのをご存じですか?
 森繁久彌さんが朗読をなさっているということですけれど、絵本があります。とても絵本が好きなんですけれども。葉っぱが散っていきます、青い葉っぱ、それがだんだん茶色の葉っぱになって、そして散っていくんですね。みんな散っていく。フレディは青い葉っぱ。その時フレディが「ぼくもここからいなくなるの?」って聞くんですね。そしたら兄貴分のダニエルっていう葉っぱがこう言うんです。 ちょっと読んでみますね。
 「ぼくたちは葉っぱに生まれて、葉っぱの仕事をぜんぶやった。太陽や月から光をもらい、雨や風にはげまされて、木のためにもひとのためにもりっぱに役割を果たしたのさ。だから引っ越すのだよ。」それから、「ぼくらは、春から冬までの間、ほんとうによく働いたし、よく遊んだね。まわりには月や太陽や星がいた。雨や風もいた。人間に木陰を作ったり、秋には鮮やかに紅葉してみんなの目を楽しませたりもしたよね。それはどんなに、楽しかったことだろう。それはどんなに、幸せだったことだろう。」
 みんなこの世に生まれました。どんなに楽しかったことだろう。どんなに幸せだったことだろう。みんながそういう一生を送りたい。それは私たちひとりひとりがみんなから、ある意味ではあなたたち私たち次第だよ。って宿題をいただいているような気がします。
 親と子。子どもは親を選べません。「ほんとに親と子で良かったね 」って。
 「あなたの親でよかった 」「あなたが親でよかった 」「あなたが子どもでよかった 」そして、「生まれてよかった 」そういう一生をみんなで作りたいと思っております。
 長い間ありがとうございます。

2001.9.17 二葉高等養護学校PTAの皆さんによる講演報告書より


*作成:
UP: 20091107
全文掲載  ◇障害児と学校  ◇難病/神経難病/特定疾患
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