「ICIDH‐2との対話」
三村 洋明 2001
last update: 20160125
ICIDH‐2との対話
三村 洋明 2001
ICIDH‐2については、これまで何度か論じてきました。でもその際元にしていたのは、ICIDH-2についてコメントした邦文、更にその中で引用された図とかでした。語学力の貧困の故です。今回、翻訳本(日本語版)を手にして、全体の正確な輪郭をやっとつかむことができました。英文も辞書を引きつつ部分的に参照してもう一度対話を試みます。尚、日本語版は WHO発行・WHO国際分類日本協力センター訳「ICIDH-2:生活機能と障害の国際分類 ベータ2案」WHO国際障害分類日本協力センター発行,2000(ベータ2案フルバージョン1999.6の翻訳)で、英文は「ICIDH-2 PREFINAL DRAFT 」(October 2000)、版が違うようです。かつ、最終的には、「2001年の5月のWHO総会(世界保健会議)に上程され、正式決定される予定である。」(「日本語訳へのまえがき」)とあります。ただ、過程をみているとほとんど変わらないだろう、変わりようがないと思えます。
(イ)概略図と本文との相違
翻訳本を読んでも批判点の概要は変わっていませんでした。ただ、尤も要約した図(翻訳本では「図1 ICIDH-2の次元間の相互作用に関する現在の理解」、英文では「図2」になっています)自体が、本文の内容を正確に表現していないということがありました。
この図は、一段目に「健康状態(変調・疾病)」があり、二段目に左から「心身機能・構造」「活動」「参加」の各「要素」が書かれています。三段目には「環境因子」「個人因子」の要素があります。で、一段目「健康状態(変調・疾病)から二段目の各要素(「心身機能・構造」「活動」「参加」)に相互関係を表す双方向の矢印がついていて、二段目の「心身機能・構造」と「活動」の間に双方向の矢印があり、「活動」と「参加」の間に双方向の矢印があります。かつ、二段目から三段目に矢印が複雑についています。具体的に書くと、二段目の「心身機能・構造」と「活動」の間にある双方向の矢印の真中と「活動」と「参加」の間にある双方向の矢印の真中から矢印が出ていて、それが途中で一緒になり、それから二つに分かれて、一つが「環境因子」、もう一つが「個人因子」に届いています。この矢印は双方向になっているので、「環境因子」と「個人因子」それぞれから出た矢印が途中で一緒になって、それから二つに分かれて、「心身機能・構造」と「活動」の間にある双方向の矢印の真中と「活動」と「参加」の間にある双方向の矢印の真中に届いてもいます。
この図を元に、わたしはかって「まず第1は、前の規定は、障害を規定すると目的がはっきりしていたのですが、この規定は、そもそも何を規定しようとするのか、はっきりしないということがあります。いわば障害者の生活情況というようなことでしかなく、何を問題にしているのかが不明です。/ 第2に、「健康状態」「心身機能・構造」という情況概念と「活動」「参加」という実践概念がごっちゃになっているという指摘ができます。もとの規定の方がもっとすっきりしています。敢えて、実践概念をいれるとしたら、情況概念は情況概念として整理し、「活動」は「活動制限」、「参加」は「排除−バリア」というように置き換え、実践概念は別な形で入れ込むべきです。」(一部校正)という批判をしていました。
本書では「心身機能・構造」に対しては「機能障害(構造障害を含む)」、「活動」に関しては「活動制限」、「参加」に対しては「参加制約」と対で論じています。これを図にちゃんと織り込むべきですし、若しどちらか一方だけしか書けないとしたら、むしろこの「機能障害(構造障害を含む)」「活動制限」「参加制約」の方を表に出すべきです。それに関しては、そもそも出版物のタイトルの名称変更、「国際障害分類」が「生活機能と障害の国際分類」と変わったこととの関係を押さえねばなりません。「日本語訳へのまえがき」には、「人間の生活に関わることのすべてを対象とするものとなっている」(EP)とあり、本文「序章」に「診断に生活機能を付け加えることによって、人々の健康状況に広範かつ意義ある像が提供され、これは意思決定の目的に用いることもできる。」(4P)とあります。けれど、ICIDHにあった、障害規定での深化においてあいまいになり、まさに障害(の種別)分類に収束して行っています。
(ロ)「標準」という言葉について
この文書を読んでいて一番気になったのは、「標準」という言葉です。
「機能障害(構造障害を含む)は、身体とその機能の医学的・生物学的状態に関する、一般に受け入れられている。一般人口の標準からの変異を表すものである。」(日本語版「序章」12P)その箇所が出発点的なところで、ここからやたら、「標準」と言う言葉が使われているのです。
日本の障害者運動の中で、「標準なるものを設定し、その標準なるものから外れると規定する、それこそが障害者差別だ」と語られていました。今回この分類が障害者団体の協力の下に作られたということですが、この問題に関して障害者団体の方から意見はだされなかったのでしょうか? それとも出されたけれども斥けられたのでしょうか?
(ハ)「パラダイム」について
もうひとつ、今回の改定の作業に関して、ICIDHが医学的決定論的になっていて、それを超えるための改定作業だとの話がありました。ですが、今回の文書を読んでいるとそのような主旨が文書の中で書かれていません。それどころか、「ICIDH-2は、これらの2つの両極端のモデル(「医学モデル」と「社会モデル」)の統合に基づいている。」(括弧内引用者の説明、22P)というような記述が出てきます。何処で、そのようにねじ曲げられたのでしょうか? そもそもそのような要求を出していたのは障害者サイドだけで、その意見を取り入れようとポーズをとっただけの話でしょうか?
ところで、この「5-2 医学モデルと社会モデル」の項の注の中で、「パラダイム」という言葉がでてきます。「ここでの「モデル」という用語は、既出の節でのこの用語の使用法とは異なり、概念またはパラダイムのことを意味する」(22p)です。わざわざ「パラダイム」という語を使っているのです。当然、「パラダイム」という語が現在的にどのように使われているのかを承知した上で使っていると思ったのです。
どのように使われているのかというのは、「パラダイム転換」という言葉がかなり煩雑に使われ、当然このことを意識して「パラダイム」という語を使っている可能性を考えたのです。ただ、「ICIDH-2の目的を一言でいうと、人間の健康の重要な要素としての生活機能と障害の状態を記述するための、統一的かつ標準的な言語と枠組みを提供することである。」(2P)の「枠組み」は英文ではframeworkとなっていて、paradigmではありません。そのようなところでのとらえ返しがそもそも無かったのかもしれません。
ところで、障害者問題におけるパラダイム転換とは何かといえば、「障害を障害者が持っている属性としてとらえることから、「障害とは社会が「障害者」と規定する人たちに作った障壁である」というような提起をしたこと」ではないでしょうか? パラダイム転換とは哲学・科学を貫いて起きた・起きている「考え方の枠組みの転換」と言われ、その内容としては、要素還元的な実体主義から関係主義とでもいえるようなことへの転換です。要素が集まって関係を作っているのではなく、関係性があってその関係性の中で、関係性の網の網の目として項がある、関係性を抜きにして項が先にあるわけではない、その項を自存視したのが実体主義で、そのような実体主義を批判する転換が起きてきています。障害問題で言えば、まさに、実体主義的な世界観が医学モデルで、関係の第一次性をとるのが社会モデルと言われる事で、その間でパラダイム転換がなされたといえることです。
ところで、パラダイム転換がなされた後、二つのパラダイムは合論理的に並存しえるのでしょうか? もちろん日常的意識として、並存していくわけですが、学的な厳密な議論・規定をするときに並存可能なのでしょうか? 「ICIDH-2は、これらの2つの両極端のモデルの統合に基づいている。」ということは、いわば天体学における天動説と地動説の並存とでもいうべきことと同じようにわたしにはとらえられるのです。
「付属資料4」で、「障害とは、健康に関連した人と環境の相互作用による多次元の現象である。」「利用者(ユーザー)はICIDH-2は決して人の分類ではないということに留意する必要がある。それは、個々の健康状態と環境的影響に関連したひとの健康属性の分類である。」(247P)と展開しています。これも、まだ人と環境を二項対立的におく古いパラダイムの枠内にあるとはいえ、ここからでも、「活動制限とは、活動の遂行において個人がもつ困難のことである」「参加制約とは、生活(人生)状況への関与の仕方または程度において、個人がもつ問題のことである。」(9P)ということと整合性を持ち合わせているとは思えません。相互作用という考えから、なぜ「個人がもつ」という主張が出てくるのでしょうか? おそらく、この文書が一人によって書かれたものではなく、議論の中で論理的一貫性をもつには至らず。異なる世界観−パラダイムが並存してしまったのでしょうが、・・。
結局この文書全体を通して、古いパラダイムにとらわれてしまっています。各概念の細かい分析になると、まさに要素還元主義的な分析になっているし、全体の枠組みも「相互関係」ということを継ぎ足しつつも、結局要素還元主義的な分析に留まっていると言わざるをえません。
結局、医学モデルに収束してしまっているのです。
(ニ)「環境因子」と「個人因子」の二分法と「因子」概念について
さて、もうひとつは、「環境因子」−「個人因子」と言う概念の導入問題です。
これは、障害者問題を他の問題と結び付けて考えよう、社会的関係の中でとらえ返そうとしていることで、そういう意味では評価できることです。ただ、「因子」というような要素還元主義的なとらえ方と二項対立的な出し方はおかしいと思います。
二項対立的に置いた事への批判は以前書いた文を引用します。
「第3として、個人と環境を二項対立的に置いたこと自体の問題があります。この新しい規定は、そもそも生物学的決定論の批判からおきたのですが、障害を社会的関係性から切り離された実体化された個人に内自有化された属性とおいたところで、個人・実体―障害・属性として現れています。環境と言う言葉自体、社会と区別された環境、すなわち自然ということを頭に入れて使っていることと推測できますが、社会と区別された純粋な自然というものを置くこと自体がおかしいと指摘できます。このような置き方自体が生物学的決定論を生み出す事になります。だから「環境」などというあいまいな言葉を使わないで、「個人」と「社会」というように置くと、そもそも二項対立的に置くこと自体がむずかしくなります。個人ということは、社会という網の目・結節点といえることで、社会―網から切り離されたところで個人−網の目が存在することではなく、それを切り離したところで、実体主義が生まれます。障害自体も、社会的関係性の中で障害として現れることで、関係性と切り離されたところで障害というものがあるわけではありません。まさに、社会的関係を自然的関係ととらえそこなった物象化といえることで、生物学的決定論批判はそのような観点からなされるべきです。」
さて、もうひとつ押さえておかねばならないのは「個人因子」と言われている事の内容が何故「個人因子」として出せるのかということです。内容として出されている「人種」「性別(ジェンダー)」は、他の被差別事項に関わる問題です。他の内容も差別に関わってくることがあり、社会的関係性の問題です。この項の最初に書いたように、他の差別の問題も含めて考えていこうという事は評価できても、これを「個人因子」としてとらえる事自体がどう考えてもおかしいことだと思うのですが・・。このような「因子」と言われることが、障害分類と同じように、また一つの分析のテーマになるようなことではないでしょうか? それをなぜ「個人因子」にしてしまうのでしょうか?
(ホ)WHOが分析主体になったことの問題性
「何故医学的決定論の枠組みから脱しえなかったのか?」を考えるとき、「ICIDH-2は、健康の諸側面に関して、WHOが開発した「分類ファミリー」に属している。」「ICD-10(国際疾病分類10版)とICIDH-2は補完的であり、利用者にはこの2つのWHO国際分類ファミリーメンバーをなるべく一緒に利用することを奨めたい。」(3P)と「ファミリー」としてリンクさせようとしたことを押さえざるをえません(もちろん、単に切り離せばよいということではなく、「病気」概念の障害者サイドからのとらえ返しも必要なのですが、・・・)。そもそも障害者問題に関しては、障害の発生の予防とリハビリというところから出発し、その枠組みを脱しえていないWHOが主催したという事に規定されてしまっています。また、あれもこれもという目的をもたせようとしたことが間違いだったと言えます。
障害規定は、障害者のおかれている被差別の情況を如何に変えていくのかという、国連で言えば、人権に関わるところの担当で、障害者を中心にしたプロジェクトで進めるべきです。あえて、WHOでやるとしたら、全面的に障害者団体への委託としてしか、医学的決定論の枠組みを脱する事は出来なかっただろうと言いえます。
(ト)その他の不備−差別形態論について
最後に、もう一つだけ書き置きます。社会モデルも織り込もうという意志の上での話です。「活動」「参加」という概念を出してきているのですが、「参加」ということだけでは、障害者問題−障害者の置かれている情況を押さええません。わたしは差別の型を排除型と抑圧型と大きく二つに分け、「努力して障害を克服しなさい」というようなことでの努力を強いることや努力の非対称性も差別だと指摘してきました。ICIDH-2の分類でも「参加」−「参加制限」という対概念では、「社会モデル」としての障害ということを押さえきれなくなります。ここのところは、「参加・対等な関係」−「参加の制限(排除)と抑圧」と言うような記述になるはずです。
(チ)まとめ
ICIDH-2は、色んな方向性を内包したもので、特に社会性により注目しているということにはわたしも共鳴できるのですが、結局ICIDHがもった障害規定というところを深化するというところでは、医学モデルと社会モデルとの関係を押さええず、結局医学モデルに収束してしまっていると言わざるをえません。
障害規定は、障害者サイドからなしていくことです。そのようなこととして、わずかなりともその一翼を担うこととして、ICIDH-2との対話を試みてみました。批判をもらう中で、更に深化しえればと願っています。
……以上……