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「低能」概念の発生と「低能児」施設――明治・大正期における

――明治・大正期における――
寺本 晃久 200106 『年報社会学論集』第14号,pp15-26


The Discovery of the 'Teino' and the Development of Institutions for them in the Meiji and Taisho eras

TERAMTO Akihisa

Modern social work or social welfare is specialized along various lines. The object of specialization has been historically and socially constructed for each "field" in response to differing perspectives on the object.
 This paper discusses developments in the concept of Intellectual disabilities and the rise of institutions for the disabled in the Meiji and Taisho eras. First, those deemed to be 'idiots' were eliminated from public schools. Second, those with 'Teino' was identified in public schools, and the concept for them was developed by observation and study in special schools for such children.

1.はじめに

 近代を特徴づけるトピックのひとつとして、「専門化」があげられる。「社会福祉」あるいは「社会事業」は近代において発達し組織化・制度化された専門分野である。そして「社会福祉史」や「社会事業史」といった歴史学もまた、福祉や社会事業のあり様を編年的に記述し、社会福祉や社会事業を統一的なイメージのもとに描き出す。社会福祉は、それを必要とする人々が存在する限りにおいて、彼らに与えられる。(1)
 たとえば吉田(1974)などの一連の作業は、古代から現代までの社会事業の歴史を統一的な枠組みにおいて把握しようとするものであった。吉田によれば、社会事業の構造とは次の3点、すなわち、対象、主体、処遇技術である(吉田1974:9)。そして、この構造をさらに細かく説明すると、次のような図式となる。「(1)対象=社会問題→生活不安→生活者→個々の福祉ニード、(2)主体=政策・実践、(3)方法=運動・組織サービス」(吉田1995:17)。社会事業は、主として社会的・政治的変化や混乱と、それに伴うさまざまな「社会問題」が起こるときに求められる。「社会問題」から「生活不安」が生まれ、それをかかえる個々の「生活者」がそれぞれの「福祉ニード」をもつようになる(これが社会事業の「対象」となる)。「福祉ニード」を満たす「主体」は、「政策」や「実践」を通じて社会的・組織的に作り出される。しかし、「主体」が「対象」の「福祉ニード」を満たすための「方法」(処遇技術)が必要となる。そして、「この構成要素は、(1)の生活不安や、それを背負う人間から出発し、(3)に至るのが通常」であり(ibid:17)、しかしその時代や社会状況・政治体制などによって対象、主体、方法はそれぞれ異なる。たとえば近代(社会事業の近代)においては、資本主義社会の進展に伴って大量の労働者層が発生し、新たな階層分化により貧困層=社会事業の対象が増大した(吉田1974:10)。対象の変化・増大にしたがって、主体や方法も変化していく。その近代化の指標のひとつとして「専門化」を指摘している(ibid:321)。
 しかしこうした社会福祉・社会事業のひとつの対象たる「知的障害」は、当初から「知的障害」として認識されていたのではない。そもそもカテゴリーとして認識されないか、あるいはしばしば「不具廃疾」「不良」「浮浪者」などといった他のカテゴリーとともに存在しうずもれていたか、また認識されていたとしてもその内実は非常に曖昧なものであったと考えられる。これまでの「歴史」においては、「知的障害」という性質があらかじめ存在してきたという前提のもとに、しかし過去にはそれを十分に認識する手段がなかったという見方がなされる。また過去には福祉や教育が未整備だったが、徐々に発展してきた、個々人の障害や状況に応じたしくみがつくられてきたという歴史が語られる。
 しかし、人のある性質に注目し、それを特に身体における異常=差異として位置づけることが、つまり障害(impairment)である。何に注目し、何を障害とするのかは社会的・歴史的な規定である。たとえば非科学的であったから不十分で曖昧な認識でしかなかったのではなく、単にそのようなものとして、認識されないことも含めて障害が認識されていた。一方、この国では明治から大正にかけて(特に1890年代〜1910年代)、「知的障害」を対象とする事業が整備されはじめる。「知的障害」の認識は、むしろその認識を可能にした「場」の発生から、あるいは発生との関係において、起こってきた。この時代において、その端緒を特徴的に見ることができる。さしあたって、ここでいう「場」とは具体的には、公教育、「白痴」や「低能」に対する特殊教育施設である。本稿では、「知的障害」概念の認識の勃興/変遷/多様化を素描するとともに、認識を可能にした「場」と、そこでの障害概念の形成過程、およびその位置づけの変容について考察する。(2)

2.混在・不認知 :養育院・白痴学校

 1867(慶応2)年、福沢諭吉がヨーロッパの政治経済について記述する中で、唖院・盲院・癲院・痴児院についてもすでに紹介されている(福澤1867)。しかし、当時の日本には障害者施設はまだ存在していなかった。
 けれども、貧困者を対象とした救護施設の中に、精神的に障害をもった者を見いだすことができる。1872(明治5)年、「乞食」「浮浪者」を収容するために設立された東京市養育院には、その初期から障害をもつ人々が含まれていた。翌年6月、「不具者」で生活困窮者も養育院に収容された。そして同年、入院資格を定め、「一、病者は病宅に置き、廃疾者盲人風癲人等各室を異にして、各室に看護人を付し、療養を尽くさしむ……」と規定した(東京都養育院1974:37)。また1875(明8)年に、「癲狂者」(精神病者)を5名収容したことがわかっている(ibid:35)。しかし、「白痴」などの知的障害に属する者が入所規定に明文化されるのはさらに後、1886(明19)年に養育院規則が改正され、その第四条・入院資格において「単身白痴ニシテ頼るへき所なきもの」が規定され、ここで初めて「白痴」という言葉が登場する(ibid:64)。
 このころ、知的障害は時折「白痴」という名称としては表れるものの、「瘋癲白痴」といった言葉に表されるように他の身体(肉体)的・精神的障害などとともに目立った区別なく扱われており、その障害の具体的な記述はなされなかった。具体的な記述が最初に見られるのは、国内ではなくむしろ海外においてであった。
 1885(明18)年、内村鑑三が渡米した際に、ペンシルベニア州立白痴学校で7ヶ月間看護を行った。これが、日本の人が初めて障害者施設に触れた経験であった。だが、その際の体験記では「白痴」が日本の読者には目新しい言葉として描かれている。「然れども白痴其物が余の読者最多数の解せざる所ならんと信ず、白痴とは吾人の通常「馬鹿」と称するもの、欧州に於ける古来の定則に依れば単数二十以上を算へ得ざるものを以て白痴となすと云へり…(中略)…普通智能を有せざる人…生来の愚人…人間の廃物…是れ白痴なり」(内村1894→1933:88)。そして、施設で出会った数人の「白痴児」について記述している。たとえば、クラーレンス某は唖で16歳にしてその知能は5歳の小児に及ばないが、しかし感覚は鋭敏である。あるいはオスカー某は、食べ物を咀嚼せずに飲み込むが、すぐに嘔吐し、その直後隣で食べている人の物を食べてしまう。また女性の衣服から留め針を盗んできてそれを手の甲に刺して血が出てくるのを見て楽しむのが唯一の道楽なので、かれの看護人は常に注意して見ているが、彼は看護人の見ていないうちにすばやく白痴の女子で最も軟弱なものから盗んでしまう、などである。
 後にいくつかに分化される諸形態が混在しているもののある一定の障害や経済状態に基づいて人々が集められた施設の中で、徐々に知的障害が認識されつつあったが、しかし一方で知的障害を名指す言葉(「白痴」)はいまだ一般的になじまない言葉としてあった。その具体的な記述は、すでに障害者のみを収容していた海外の施設において行われ、あるいは海外の文献の翻訳・紹介の中で表層的に言及されるにとどまっており、この国にはそうした記述が可能となる「場」が形成されていなかったのである。

3.「白痴」:欠格条項・滝乃川学園

 この国における知的障害の認識は、第一に、教育において一般化されるようになる。しかし、1972(明5)年の学制発布から1879(明12)年の教育令および翌年の同令改正のころまで、知的障害はほとんど問題として表れていない。就学不可能の事由として、すでに1877(明10)年、埼玉県で「白痴」が報告されるなどの事例は存在するものの、同様の事例はごく限られたものでしかなかった(石島1979)。
 ところが、就学率の上昇とともに、知的障害が問題化され、知的障害に関する規定がつくられてゆく。1886(明19)年の小学校令で就学義務が規定され、ついで1890(明23)年に公教育が無料化されて以後、急速に就学率がのびた。1887(明20)年には45.0%だったものが、1900(明33)年には81.5%にまで向上した。それ以前には、そもそも就学すること自体が十分に達成されておらず、就学率を増やすことが目標とされる中では、障害の有無や、能力を理由にした就学猶予・免除は問題にならなかったのである。しかし、就学義務化や就学率の向上にしたがって、逆に就学しない理由として「瘋癲白痴」が多く報告されるようになった。そして1900(明33)年の小学校令改正において、就学猶予事由として「病弱又は発育不完全」、免除事由として「瘋癲白痴又は不具廃疾」が初めて規定された。このころにはすでに高水準で就学率が達成されており、今度はそこで公教育に組み入れられる者とそうでない者とを区別する必要が生まれてきたのである。
 教育という行いの中で、「知的障害」が認識され、その内実がいかなるものであるとしても、ともかくある障害がそこから排除されたとき、二方向へと向かうこととなった。ひとつは、公教育とは別の特別な試みであり、他方は公教育へと組み入れる(あるいはその境界における)試みである。
 第一に、公教育とは別の試みとして、障害者を集団で住まわせて教育を行う施設がつくられていった。その端緒が石井亮一の設立した「滝乃川学園」で、日本で初めてつくられた知的障害児施設として知られる。ところが滝乃川学園は当初から知的障害児を対象としたのではなく、孤児教育・孤女教育を目的として始まった。
 石井は1891(明24)年に立教女学校の附属として孤児を養育する東京救育院を設立したが、その直後の10月28日に濃尾地震が起こり、その被災孤児十数名を収容した。その後、孤児の中でもより悲惨な環境に置かれていた孤女の救済と職業教育を目的として、同年12月に共同設立者の四方之善の下谷西黒門町宅に「孤女学院」を設立した。翌年4月に北豊島郡滝野川村に施設を建設し、本格的に孤女教育を始める。(津曲1978)
 しかし、孤女学院における教育の中で、通常の教育方法では教育の困難な子供(「白痴児」)がいることが認識された。石井は当時のことを次のように話している。
 「尾濃地方震災の時余が預かりし孤児の内に、数へ年十四歳の白痴女児あり五本の指を数ふること能はず、箸二本と二本にて四本なることを解せず、高等小学をも卒業すべき年齢にして智識は幼き小児に若かず、未だ学校に登りしことなし、或る教師小学校の普通の教授法を以て二三年間懇切に教ゆるけれども、些も進歩せず、一日試みに「売語ありとて買語を出す勿れ」という一句を五十度教へたりしが、終に徒労なりきとぞ」(菊池1983:13、原文は石井(1900)。1900(明33)年10月27日、社会学会研究会における講演記録))。
 そこで「白痴児」に対する特別の教育を開発する必要性が高まった。1896年(明29)に石井はアメリカに留学し、ミネソタ州ファーリーボールドの白痴学校やニュージャージー州のヴァインランド訓練学校などを視察した。そして翌年、孤女学院を「滝乃川学園」に改称し、初めて「白痴児」を対象として募集した。
 だが、それでも「白痴児」は多くは集まらなかった。5年後の1902年当時でも白痴教育部入所者15名に対し、孤女50余名であった。この時期の石井の実践はごく限られたものであったし、むしろ孤児を対象とした慈善救済事業のうちに「白痴」が認識されはじめた段階であった。少なくとも1900年代初頭になるまでは孤女教育が中心に置かれ、「白痴」児を募集対象にしてから白川学園の設立されるまでの十数年間、他に知的障害のための施設がつくられることはなかった。
 この頃までに教育の欠格条項として「白痴」が規定されてきていたものの、その内実が具体的に規定されていたわけではなく、教育関係者などによる個別的な判断によって概念の異なる曖昧なものであった。
 石井は1904(明37)年に『白痴児其研究及教育』を著す(石井1904)。諸外国の学説を紹介しつつ、「白痴」の徴候や教育について具体的に述べられた初めての書物であった。そこで「白痴」を、知能に関する障害としてだけではなく、肉体的な原因に由来する障害として、描きだした。彼は、「白痴とは精神未だ発育せず、脳髄の或時期に於る不完全、若くは疾患により、普通の能力を得ることも、又社会生存上の義務を果すことも、能はざるまでに、其発育を障碍せられたる人を云ふ」とし、その障害は先天性のものと後天性のものとがあり、また「白痴」は教育による発達可能性があるために他の精神病(瘋癲)とは区別されるのだと述べた(ibid:3)。
 「白痴」は原因に基づいていくつかに分類される。すなわち生来の白痴、小頭性白痴、水頭性白痴、急癇性白痴、癲癇性白痴、外傷性白痴、ソ衡性白痴、脳硬化性白痴、梅毒性白痴、クレチニズム、覺官欠乏に基く白痴、である。中でも原因の多くは脳神経系の異常に求められる(脳の貧血竝に充血 脳肥大、脳萎縮、脳軟化、脳硬化、脳水腫、脳髄穿開、脳の腫瘍、動脈肥厚、血栓、脳膜炎、脊髄の疾患、など)。「白痴」の特徴として、まず肉体面については身長・体重が普通児に比べて劣る(発育異常)(ibid:9-10)。そして運動機能の異常、感覚の障害(皮膚感覺(触覺・温覺・痛覺)、筋肉・関節・腱感覺、視覺、聴覺、臭覺と味覺)をあげた。
 精神面の特徴として、記憶力・注意力の欠如、活動の頑迷さ、愛情深さ、言語障害などをあげた。だが、精神面における障害も、「脳脊髄竝に其諸膜」における「種々なる榮養障礎、発育制止、将又過去に於る病症の痕跡」の「必然の結果」であって、身体的な障害によって発生するとした(ibid:26)。
 したがって、「白痴」の教育においても、発音の訓練や感覚の刺激など、主に身体面の(筋肉や感覚の)機能向上を中心においた。たとえば海綿について理解させるために、海綿をもたせて水を含ませてガラスなどを洗うことにより「其軽きことと、柔軟なることとを実験せしめ」、また「水を満せる大皿中に投じて、軽きが故に浮かぶことと、顔に触れしめて、柔軟なるが故に快きものなることを教」えるなど、実際にさまざまな物に触れさせることによって感覚を刺激し発達させることを紹介している(ibid:184)。
 滝乃川学園の白痴児教育施設への転換は、この『白痴児其研究及教育』刊行の前後より現実化していく。まず1903(明36)年頃、孤女の募集を中止する。そして1906(明39)年に滝野川村から北豊島郡巣鴨村へ移転、それまでの倍の広さの土地に、病室なども備えた設備を有していた。1908(明41)年に日課・行事・献立・職員編成など学園の概要を記した『学園のまとゐ』がまとめられた。この資料によればこのころには予備科(学齢期前)、小学部、中学部、実業部といった体制が整っており、規則的な日課がつくられ、運動会やクリスマスといった季節ごとの行事が行われていたことがわかる。『学園のまとゐ』は学園が作成し学園の概要を示した最初の資料だが、菊池(1983)によれば、それは「白痴教育施設滝乃川学園の指導体制がやっと、確立してきた」ことを意味している(菊池1983:21)。
 この巣鴨移転の頃を境にして、「白痴児」の占める割合は逆転していったと考えられる。そして当初の目的であった孤女教育は、保母養成部として、そこで養成した孤女に白痴児の世話をさせることを視野におき、徐々に縮小される形で、しかし残されていく(1918年になっても、白痴者54名の他に、保母養成部10名が在籍していた)。
 こうして、公教育に結果として組み入れられなかった層のうちに「白痴」という対象を見出し、複数の「白痴児」を生活・教育させる「場」において、それまで曖昧な概念であった対象を主に肉体的・生理的な意味において分析・記述し、そして対象に関する処遇をある程度確立したとき、初めて「白痴」を対象とした事業へと転換した。当初から障害児のための教育や施設が存在したのではなく、公教育に準じた通常の教育の中で、対象となる「白痴」を絶えず形成していったところから、逆に障害児のための施設が形成されていった。さらに対象に関する認識は書籍や講演などを通じて対象化され、施設の外に対しても波及していった。(3)

4.「低能」「劣等」 :特殊学級

 就学免除によって公教育から「白痴」が排除されていくと同時に、「白痴」ほどには障害が重度ではなく必ずしも物理的・肉体的な障害が現れないために就学猶予・免除にはならないものの、しかし学業成績の劣る「劣等児」「低能児」の教育問題にむしろ注目が集まった。こうした児童のために、普通学校の中に特殊学級がつくられるようになる。1890(明23)年、長野県松本尋常小学校において「落第生学級」がいち早く設置された。ついで1896(明29)年には、長野(後町)尋常小学校で「晩熟生学級」が設置された。これが知的障害児を対象とする実質的な特殊学級として位置づけられている(長野県特殊教育百年記念事業会編1979:28)。1907年(明40)には、文部省訓令「師範学校規定制度の要旨及施行上注意」において「盲人・唖人・心身の発育不完全な児童」のための特別学級設置がすすめられた。これをきっかけに、各地の師範学校で「劣等児」の特別学級が設けられていった(大井1975)。また、明治30〜40年代、各地で「低能児」「劣等児」のための教育の試みや研究が行われるようになった。
 「低能児」の問題化に伴い、現場の教師の要請に応える実践的な教授法が求められ、大村(1900)、織田・白土(1906)、乙竹(1908)といった「低能児」教育に関わる著作が相次いで発刊された。
 このように「劣等」「低能」が問題となった背景には、このころの就学率の急激な増加がある。1900年に80%を超えた就学率は、2年後にはさらに90%を超え、1909年からは98%前後で横這いになる。就学率の向上に伴って、学業成績の優劣が顕在化した。その中で通常の教授のスタイルに適応しない子供の存在が改めて「発見」されたのである。
 後に「白川学園」を設立した脇田良吉は、1899(明32)年当時を振り返ってこう書いている。「最初の動機は明治三十二年に京都の某小学校で成績不良児の特別教育をなしたのが始めであるが当時は成績不良児は余り干渉せざる方得策ならんとの考であつた。……而して此の成績不良児は学年の進むにつれて多少の変化をしたものもあつたけれども多くは不結果であつた。故に成績不良児を無干渉でおくは余り無責任であるといふ事に想到して明治三十七年より放課後に特別教授を試むる事にした。」(脇田1912:101)
 しかし、こうした実践は必ずしも当初から障害としての「低能」に注目したものではなかった。脇田がつづけて「然るに集まる児童には成績不良児といふもあつた又中間児もあり白痴もあつたのである」と述べているように、いくつかのカテゴリーに分類される者たちが一括に捉えられていた。しかもそれは障害というよりむしろ、教室の他の児童との比較で単に学力において成績の劣っているだけで、このころの特殊学級はこの「成績不良児」を対象としていた(大井1975)。松本尋常小学校の落第生学級は、一般の生徒を含めて学力別の学級編成をした結果として、その最も学力の低い生徒を集めたものであり、必ずしも障害に注目したものではなかった(長野県特殊教育百年記念事業会編1979:26)。
 しかしその「成績不良児」への対処法や原因を追求する過程で、次第に身体に固着した障害(impairment)としての「知的障害」が注目されていくことになる。成績不良の原因を、身体と精神、あるいは生得・遺伝的な要因と後天・環境的な要因の、それぞれ二側面から探るようになる。怠惰や家庭環境によりたまたま成績が低いだけの者と、生来的・身体的に能力が低い者とを区別することによって、生来的・身体的に原因がないのであれば教育による改善が可能だと考えられたのである。(岩内1907、鈴木1908)
 またこの頃、「学校衛生」や「教育病理学」という形で、学校の中に医学が導入された(4)。1898年、勅令により全国の公立学校に学校医が設置され、児童の身体検査などを行わせた。そして1900(明33)年、文部省に学校衛生課が設置され、学校医の職務規程が定められた。学校医制度は、その学校のすべての児童の身体や疾病の状況を調べ、伝染病その他に関する学校の衛生環境の向上と、児童の健康増進を目的としていた。しかし、それが全国的に実施されると、身体の状況に関する資料が蓄積されるようになり、平均的な児童の身体イメージがつくりあげられた。学校衛生課課長の三島通良の作成した児童の身体についてのスケールは障害児の調査において用いられ、その平均から劣る者=障害として認識された(三島1902)。
 障害を取り出す視点の変化は、後町尋常小学校の晩熟生学級に関する記述の変化にも現れている。学級設置から間もない1900(明33)年の記述では、学級の設置について「学力劣等生のみを集めて別に学級を編成し…」と、単に学業成績の優劣を問題にしているが(長野県特殊教育百年記念事業会編1979:84)、1907(明40)年の記述では、学級の対象を「低能者」とし「所謂低能者なる者は健全なる普通児童と白痴者との中間に位する者」と、より対象者が分節化・明確化されている(ibid:88)。しかし、同時に「低能者と普通児童を識別するは明瞭なる診域あるに非ず。低能者と白痴者との間にも亦確然たる区画を設くる能はざるべし」と、その分節化はいまだ曖昧でもあった(ibid:88)。
 公教育におけるこうした一連の取り組みの中で、健常と「白痴」の間にも一定の幅をもって知的障害者が存在することが認識されるようになった。これは、教育者や医学者にとってそれまで考えられていたよりも障害者が多く存在しているということであり、しかもそれは容易に鑑別することができず、原因や対応の方法が捉えにくい中間的な層が多く存在するということであった。ここからさらに公教育と離れて「低能児」を対象とする施設が生まれる。

5.施設化 :白川学園

 1890年代中頃〜1900年代初頭にかけて、滝乃川学園にみられるように公教育とは別の場へ向かう指向と、公教育へ組み入れる指向とがほぼ同時にあった。前者においては、肉体的に個体内部における障害に注目した「白痴」が公教育から排除されていったことと重なる。他方、後者において、必ずしも外見や肉体的に明かな障害が把握されにくいために一旦は公教育に組み入れられた「劣等」「低能」といった中間的な層は、しかし公教育に組み入れられる中で逆にその存在が認識され、さらにその肉体的・精神的な特徴について分析の目が向けられるようになっていった。
 そこで、前述のように滝乃川学園がさきがけて「白痴児」への教育を行っていたが、むしろ障害者施設がつくられるようになるのは、中間層における障害の認識とそれに伴う障害者数の増大の後であった。1905(明38)年、脇田良吉が京都・淳風小学校で「春風倶楽部」を組織し低能児教育を始め、1909(明42)年には「白川学園」を設立した(5)。1911(明44)年に川田貞治郎が「日本心育園」そして1919(大8)年に「大島藤倉学園」を設立した。岩崎佐一は1916(大5)年、大阪に「桃花塾」を開いた。
 こうした学級や施設は、滝乃川学園とは異なり、当初から「低能児」を対象としていた。だが、設立者たち自身にとっても、必ずしもその認識や教育方法が当初から明らかにされてはいなかった。脇田は「確定した定義の下せないのが低能児の低能児たる処ではありはしないか」(脇田1912:34)と述べている。川田は「低能児の研究、低能児と云うもののこれが慥に低能児であると断言して参ることが六つ敷いと思われます」と日誌の中で書き残している(1912(明45)年7月24日日誌(川田1989-3:95))。
 しかし彼らは自らのつくりだした施設において、観察や教育的実験を行う中で、「障害」を記述しその内実を明らかにしていった。
 脇田は、白川学園において数名の児童と寝食を共にし、「低能児」についての詳細な分析と記述を『低能児教育の実際的研究』で行った(脇田1912)。著作のほとんどの部分で、4名の入所児童について、その生活のようすや教育実践を詳細に記述している。(「太郎」168ページ、「次郎」181ページ、「花子」81ページ、「梅子」37ページを割いている)
 たとえば、「太郎」は「盗癖ある不良児」で、養父「村木氏」より盗癖の矯正を依頼された。太郎はすでに16歳になっており、脇田は特殊教育をほどこすには遅すぎると躊躇したものの、1910(明43)年1月4日から通園し1日5時間の授業を受けさせた。すると脇田は「遅鈍怠惰大食過眠乱雑」と概括し、1月10日から白川学園に入園させることにした。
 太郎は、1月5日に早くも教室の唱歌集を持ち帰ったことを始め、しばらく学園や入園者の物を盗んだ(1月7回・9品、2月9回・9品、3月3回・3品)(ibid:201)。また村木氏の家で盗んだ金5円で買い求めた物を調べたところ、毛筆3個、鉛筆1個、小絵本15冊、手帳1冊など、その他は食物であった。それを見て太郎の知能を「六七歳位」と判断している(ibid:114)。
 脇田は、頻繁に起こる窃盗の記録をつけるうちに、次第に太郎の窃盗の特徴を見出すようになる。「其一は窃盗するために窃盗するもの其二は何か他に欲望があつて其欲望を満すためにするのとの二種あるやうに思はれる」(ibid:194)。太郎の在園中21回の窃盗のうち、4、5回は新聞紙を盗んだように「無意味の窃盗」であった。それは「採集といふ方が適當であるやうに思はれ」た(ibid:195)。また、「手が長い」、「舌が長い」、「眼球の働き方が却々劇しくて俗にいふ盗人目」である、「手掌に闘争家特有の筋」、「頭部に異常」があるつまり「解剖的に脳発育が不完全」、といった肉体的な特徴も見出した(ibid:196)。
 また、盗癖だけでなく、感覚や感情などいくつかの面で異常を見いだした。たとえば大食。「随意にさしておけば却々四碗では足らない五碗でも六碗でも食べ」た(ibid:206)。感覚の異常も見られた。「視覚などは千里眼を有して」おり、「盗人目といつて人に知られぬやうに横見する事が恐ろしい程鋭敏であつた」(ibid:222)。また「味覚はどちらかといへば鈍な方であつた」。感情面では、「喜怒哀楽の情圓満を缺いてゐて喜びも怒りも哀しみも楽しみも瞬間に變化するといふ風であつて善であるとか悪であるとかいふやうな道徳的感情は少しも発達してゐなかつた」(ibid:225)。
 記憶力や注意力についても問題があった。漢字の書き取りをさせても同じ文字を何回も書くなど「記憶は甚だ鈍」く(ibid:223)、脇田らがいくらしかっても目の前に食物があるとすぐに取ろうとしたように「注意は病的であつた」(ibid:224)。「甚だ判断は幼稚であつた。故に遊戯をしても常に次郎の模倣ばかりをして居るやうな状態」で、「意志は一言にしていへば甚だ薄弱で志かも衝動的であつた」(ibid:224-5)。
 生活習慣はしばしば「無精」であった。たとえばたびたび「朝寝」をした。そして「毎朝食事前までに自分の室の掃き掃除と拭き掃除をする事になつて」いたが5月30日の記録では「五日間は拭き掃除をしなかつた」(ibid:162)。あるいは翌1月頃には「寝衣の下にシャツを着る、室の掃除をしない、顔を洗はない、歯をみがかない、寝所を片附けない、自分で出来る洗濯をしない、足で門の戸をあける」(ibid:178)。
 盗癖を矯正するために脇田が行ったのは、まず「人のものと我物との区別を知らしたこと」であった。窃盗は悪であることを教え、欲しい物があれば盗む前に学園で与えたり、貸借の作法を指導した。また、欲望そのものを発生させないようにした。たとえば、窃盗の欲望をもつ余裕を与えないこと、つまり「空費する時間を與へ」ず、さらに「無銭にて市中を散歩」し、忍耐になれさせた(ibid:212)。仮に窃盗を侵した場合は、「窃盗の事実を確かめ相当の罰を直ちに加へた」。
 だが、脇田は盗癖に対する直接的な指導・対応だけに注意したわけではなく、むしろ身体・肉体の状況の改変と、生活習慣を改変することとを同時に行った。
 まず、食事や睡眠の量と時間を定め規則的な生活習慣を身につけることによって、身体状況の改善を図った。睡眠については「睡眠を十分にしてやる事」(ibid:235)を心がけ、夜8時には就寝、朝6時に起床させた。食事については「食物は大食をさせないといふ事が必要である」。間食や買い食いあるいは就寝前に菓子などを与える家庭があるが、それは「訓練上有害なばかりでない生理的まで悪しき影響を及ぼす」(ibid:236)。そのために「漸次減少さす方針」を取った。食事の時間も、朝食は午前7時、昼食は12時、牛乳菓子を午後2時、夕食を5時とし、8時の就寝までには消化されるようにした。食事の内容についても配慮し、「一日に一回は必ず鮮魚を與へ其他は野菜物汁物といふ風に各種の滋養を取」らせた(ibid:206)。
 また、入浴についても配慮した。「此の入浴の効果は精神を爽快にするのと血液の循環をよくする等の効果がある」(ibid:237)ため、夏は毎日、それ以外の時期は週2回入浴させた。あるいは運動を奨励した。「大に運動を奨励して入園後六十日間といふものは、全く太郎のために全力をそそぎ放課後の如きは太郎と共に散歩した」。運動は、「所謂小人間居して不善をなす」(ibid:206)、つまり暇にしていると窃盗や悪戯をしてしまうことを防ぐためにも必要なことであった。
 このような習慣や身体への関与によって、たとえば「血色や身体の肉附がよく」なった。また「胃が壮健」になり、「放屁がなくなつた」、「大便の数が減じた」、といったように肉体的に健康・壮健になり、その結果「疲労しないやうになつた」。感覚も変化した。視覚は鋭敏であったが、次第に目つきは鋭くなくなり、味覚も「醤油のからいのも鹽のからいのも分つたと見えて餘り暴なことをやらないやうになつた」(ibid:222)というように鈍かったものが鋭くなっていった。ここで、単に鈍重な部分を鋭敏にしようとしたのではなく、「適度な」ものに矯正しようとした。4月以降は盗癖もなくなり、記憶力など知的能力も次第に発達していく。
 学園で脇田らが対象とした「低能児(中間児)」は、彼の独自の分類によれば、「白痴盲唖病児又は悖徳児の如く」肉体的・精神的に明らかに障害があると認められる「変態児」(「白痴」もここに含まれる)ではないものの、「心身の発達普通児に劣」る「中間状態にある児童」であった。そして、さらに中間児を、能力遅鈍性、精神異常性、身体虚弱性、機関障碍性、心性不良児、の5つに分類した。
 明かな物理的・肉体的障害を認められない「低能児」は、主に生活習慣や道徳心、感情や知能における差異を有する者として描かれる。そこで彼らに対する「治療」は、規則的な生活習慣と生活の作法を教えることによって行われた。「白痴」と同様に感覚器の障害も見出され、治療のひとつの目標は身体の健康を保つことだったが、しかし「白痴」の治療のようにすべての鈍い感覚に強い刺激を加えるのではない。脇田らの関与は、無軌道な欲望・自由を矯正し、欲望そのものをなくしていくことも含めて、欲望を制御し、最終的に欲望を当人によってコントロールさせることを目指した。そこでの身体への関与は、低能児の身体を低能児自身の意志によってコントロールするための身体の健康および適度な感覚の維持を目的とする範囲において、なされる。
 こうして、脇田は自ら経営する施設において「低能児(中間児)」の教育を実践し、その記録をつけ、またそれをもとに独自の理論を形作っていった。「低能児」については様々な論者が述べていたものの、鈴木治太郎の研究以外の研究は多くが海外の概括的な紹介であり、「低能児」の生活実態が具体的に詳細に記述されたのは、このときが初めてであった。また脇田独自の、欧米の紹介によらない教育理論を作ろうとした点で、石井との相違を見ることができる。彼は石井から学んだが、石井とは幾分異なる考え方を導き出していった。
 だが、彼は教育日誌において何を書きつけたのか。第一に、彼は「低能児(中間児)」の生態を個別に記述・記録したが、しかし記述に先立って記述される対象はあらかじめ措定されていた。白川学園は当初から「低能児(中間児)」を対象とした。滝乃川学園が当初は女子教育を主としていたこととは対照的に、そこではすでに「低能児(中間児)」という抽象的・前提的な認識が存在していたのである。
 第二に、こうした前提的な認識の上で、彼は「低能児(中間児)」をさらに詳しく「記述」することによって、逆に記述される対象を、つまり「低能児(中間児)」という「存在」をより具象的な実体として形成していった。しかし個別の記述は多様であった。だが、それらを総称して「低能児(中間児)」と認識することによって多様性を回収し、その内実を習慣や性格や感覚や身体状況などにおける逸脱−しかも感覚などが単に劣悪なのではなく、生活習慣や性格と関係する範囲における、「適度」さからの逸脱−として表現した。
 また、白川学園という「場」が、その「記述」を可能にした。施設という区切られた空間で、生活と教育のすべてを集中的・継続的に行う中で、ひとりの人物による系統的な記述=記録を行うことが可能となったのである。記録の蓄積において、生活習慣や身体状況の変化を1日前、1週間前、1年前など過去の記録と比較することができ、処遇方針をその都度考え、改めることが可能となる。さらに、日々変化する児童の性質を、しかしある統一性のもとに把握することができる。
 そしてこうした「場」とそこでなされる「記録(の蓄積)」から専門性が発生する。専門性とは、「低能児(中間児)」の生態に関する知識の蓄積、処遇や教育の実践の蓄積がその中心的な根拠をなす。それだけでなく脇田の実践−記録は、知識を蓄積すると同時に、日々、「低能児(中間児)」の内実=知識を形成していく営みでもあった。

6.おわりに :対象と「場」の分化

 まとめよう。当初「白痴」認識は、外見から判断される身体障害や他の精神障害に付随して漠然と現れ、公教育の普及とともに問題化し、そこから排除されていった。滝野川学園での実践と、学園内での「白痴」の位置の変化において、物理的・肉体的な差異を見出したところに「白痴」認識が確立していった。
 こうして公教育から「白痴」が排除されていったが、他方、明かな外見や生理的な差異を認められないものの通常の児童より学業成績の劣る「低能」児が問題化された。そこで公教育と別に「低能」児を収容・教育しようとした白川学園での実践の中で、「低能」は著しい肉体的・物理的差異によらない、知能や性格や習慣などにおける障害として記述・認識されていった。
 まず、児童を差異化する学校が前提にあった。そこからさらに「白痴」や「低能」の認識が明確化していく際、それぞれの分類に対応した施設が同時に分化・存在し、そこでの分析・記述とその蓄積が重要な役割を果たした。認識を生み出す「場」が成立し、そこから認識が生み出されることによってまた新たな「場」が形成され、さらにまた認識が生み出されていくことで、次第に「障害」の概念が確立していった。さらに、概念が確立していくことで、それを受け入れる「場」が専門分化していき、そこからまた概念が詳細になっていった。
 冒頭の吉田の概念枠組にしたがうならば、「対象」から「主体」をへて「方法」へとつながるというよりも、それらは同時に成立したか、あるいは「主体」や「方法」との関係において、その前提とされる「対象」が成立してきた。このことは、「場」に先立って「障害」が存在し、教育や福祉の充実にしたがって障害(児)者が適切に教育・保護されるようになってきたということを意味しない。
 ところで、「障害」をなにがしかの「障害」として認識・分節化する「場」には、学校や施設といった具体的な空間としての「場」とともに、そこへ投げかけられる教育や医療や心理学といった抽象的な知識や関係性の水準としての「場」の存在を無視することはできない。この意味における「場」が、前者の「場」との関係において成立しまたそこに対してさまざまな視線を投げかけることによって、「障害」が認識されてきたと考えられる。この分析については、別稿を期したい。


(1)1970年代以降の専門家批判は、そのまま近代の専門化社会に関する検討の作業でもあった。Freidson(1970=1992)、Illich(1976=1979)など。
(2)先に寺本(2000)を書いた。そこでは、本稿で扱った時代とほぼ同時期における「知的障害」に対する認識の変遷のみを主題とし、認識を成立させた社会的背景について充分に言及することができなかった。本稿は、その点を補うものとしてある。
(3)1908年の内務省感化救済事業講習会をはじめとして、「白痴」とその教育について講演活動が活発になる。1906〜1907年埼玉県教育会、1908年7月19日より盛岡教育会にて10回の講演、同8月25日から文部省の委嘱による全国教育家講習会などがあった(菊池1983:20)。
(4)このころの学校衛生・教育病理学については杉浦・田中(1977)に詳しい。
(5)白川学園設立の経緯その他について山田(1985)。

※本稿では歴史的概念として「白痴」「低能」を用いる。これらは今日では使用されないことをご注意願いたい。

文献
Friedson, Eliot 1970 Professional Dominance :The Social Structure of medical Care, Atherton Press.進藤雄三・宝月誠(訳)『医療と専門家支配』恒星社厚生閣1992.
福沢諭吉 1867→1926 『西洋事情初編巻之一』『福沢全集』1:299-340,国民図書.
Illich, Ivan 1976 Limits to medicine medical Nemesis: The Expropriation of Health,CR: I.I. 金子嗣郎(訳)『脱病院化社会――医療の限界』晶文社1979.
石井亮一 1900 「白痴教育に就て」『基督教週報』2(10-11).
――――― 1904 「白痴児其研究及教育」『増補石井亮一全集1巻』大空社pp1-169.
石島晴子 1979 「わが国における「就学猶予・免除規定」の成立に関する一考察」『精神薄弱問題史研究紀要』24:13-37.
岩内誠一 1907 「劣等児童につきての調査(1-3)」『児童研究』10(1):10-20、10(2):11-23、10(3):18-25.
川田仁子編 1989 『川田貞治郎・教育的治療学全集』1-6,文化出版局.
菊池義昭 1983 「1900年代から1920年代の滝乃川学園史研究」『精神薄弱者施設史研究』2:8-36.
三島通良 1902 『日本健体小児ノ発育論』大日本図書.
長野県特殊教育百年記念事業会編1979 『長野県特殊教育史』信濃教育会出版部.
織田勝馬・白土千秋 1906 『小学児童劣等生救済の原理及び方法』弘道館.
大井清吉 1975 「戦前の師範学校における劣等児あるいは精神薄弱児を対象とする特別学級の設置と廃止の状況について」『精神薄弱問題史研究紀要』17:3-15.
大村仁太郎 1900 『児童矯弊論』精華書院.
乙竹岩造 1908 『低能児教育法』目黒書店.
杉浦守邦・田中克彦 1977 「大正期の特殊教育の勃興と学校衛生思想」,『精神薄弱問題史研究紀要』20:3-31.
鈴木治太郎 1908 「学業成績不良学童の原因調査及ひ之れに対する教育治療意見」『神経学雑誌』6(11):624-653.
寺本晃久 2000 「「知的障害」概念の変遷」『現代社会理論研究』10:195-207.
東京都養育院 1974 『養育院百年史』東京都.
津曲裕次 1978 「初期滝乃川学園の歴史」『精神薄弱問題史研究紀要』23:4-15.
内村鑑三 1894 「流鼠録」『国民之友』233→1933『内村鑑三全集 第2巻』岩波書店pp84-103.
脇田良吉 1912 『低能児教育の実際的研究』厳松堂書店.
――――― 1932 『異常児教育三十年』日乃丸会.
山田明1978 「大正末期、昭和初期に於ける精神薄弱者施設経営の特質」『精神薄弱問題史研究紀要』23:15-33.
――――― 1985 「白川学園創設期の脇田良吉と低能児教育実践の特質」『日本児童問題文献選集31』日本図書センター.
吉田久一 1974 『改訂 日本社会事業の歴史』勁草書房.
――――― 1995 『日本社会福祉理論史』勁草書房.

(東京都立大学大学院博士課程)


UP:2001 REV:20081126
寺本 晃久  ◇Archives
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