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世界の差別禁止法について

池原毅和(弁護士)
記録:瀬山紀子 2001年6月30日 障害学研究会・関東



 昨年の10月に、ワシントンDCでADA法ができて10年目ということで、DREDF(Disability Rights, Education & defence Fund)が企画・主催し、世界の障害者の権利擁護活動をしている人を集めて、差別禁止法国際会議が開かれ、各国の状況が発表された。その中でもっとも驚いたのは、現在、実は世界では40数カ国で、すでに障害者差別禁止に関する法律ができているということだった。語弊のある言い方になるかもしれないが、いわゆる「発展途上国」とされる産業的・文化的に、日本よりも発展途上にあるとされるアフリカ諸国とか、あるいはアジア諸国でも、すでにADA法のような法律をもっていて、障害のある人に対する差別禁止に関しては、日本はかなり遅れている国の一つだということがよく分かった。

 はじめに、近代市民法と社会福祉法がそもそも人間をどのようにみているかを考えてみたい。法律と言うのは条文を読むと技術的なことが書いてあり、根底にある人間像がなかなか見えない。しかし、どの法律もその前提には特定の人間像、社会像がある。
 そこで近代市民社会における「市民」とはどういうものかを考える必要がある。そこでの「市民」とは、健常な壮年期、働き盛り、納税可能な成年のグループを想定している。社会は、人間一般を対象にしているように見えて、例外的に排除するカテゴリー、女性は別、お金のない人は別、あるいは障害のない人は別と、暗黙のうちに言っている。
 人間とは何かという根底的な考えには、近代市民社会がうまれたときに中心だった、「健常なブルジョワジー」、つまり「働くことのできる男性」があった。
 つまり近代市民法は、雛型の人間を造りあげ、そこには一般市民法を適用し、そこからこぼれおちる人は、社会福祉法で対処する、という構造をしている。そうして、排除された人には、博愛慈善をもって、手当する、という考え方をしている。
 近代市民法対象の雛形としての市民は、近代市民社会のメインストリームに組み込まれ、自由競争の中で、自分の能力と責任を発揮しながらいける。一方社会福祉法は、博愛慈善のレーンにのせられ、そこで恩恵を受けて生きている。この2つのレーンは、かなり厳格に区別され、それによって社会を二重構造にしてしまっている。その上で、差別禁止法・障害者権利法を考えたときに、それは従来存在している社会福祉立法と果たして両立しうるのかという深刻な疑問がでてくる。
 その問題は、「Social Welfare Model=社会福祉モデル」と「Civil Rights Model=市民権モデル」という2つの類型で考えられる。Civil Rights Modelとは、ADA法などを典型とする、障害のある人たちも、社会参加をする能力があるとみて差別を禁止し、統合化していく考え方を指している。
 前提として、「Social Welfare Model」は、医学モデルを前提にする。社会と個人との関係を切り離し、障害は、その人に内在した医学的な欠損だとみる。それに対し、Civil Rights Modelは社会との関係を見ている。障害のある人が社会に参加できないのは、障害の必然的な結果ではない、それは私達の社会が障害のある人のニーズを満たすシステムを作らなかったからだ、と考える。したがって、障害とは客観的に固定したものではない。社会のあり方が変われば、障害のあり方も変わる。
 Civil Rights Modelは従来の2車線形式(自由競争レーン、社会福祉・恩恵レーン)を、Parallel Track、並行して走る、1本に統合化してしまう。自由競争か、恩恵かではなく、基本的には自由競争レーンに統合化していく。その前提として、障害のある人の社会参加を阻む差別を排除して行けば統合化がはかられるとする。
 Social Welfare Modelでは、障害のある人に対する恩恵が充実すればするほど、それらを受けるために、障害を装う人が出てくる。障害がないのに障害があるようにいってみたり、重くないのに、重いことを装ったり。それを防ぐために、一層、厳密な分離判定システムができる。まちがって恩恵の受けることのないように医学的に判定して、だから、この程度であるという、障害種別、障害認定がすごく厳密化していく。社会福祉制度を発展させるほど、「Truly Disabled」であること判定するためにたいへんなエネルギーを使う
ことになる。したがって、医学的判断が決定的に重視される。しかし、こういうシステムを作っておくと、障害のない人のメインストリームは脅かされない。あくまでも、車線を2つ作って、自由競争レーンに乗れない人を選び出して、ある種の排除と分離というシステムをつくる。そのため、いわば、障害のない人の側は、自由競争レーンを純粋化していき、自分たちの世界を囲い込んでいく。
 これに対して、Civil Rights Modelモデルは、社会のなかに2つのレーンを作らず、障害のある人、ない人を分離しない。統合化して障害者と障害を持たない人が、接触する機会を増やすと障害者への偏見が軽減されていく、ということもすでに報告されている。このモデルで行けば、障害の有無についてこだわり、障害判定への法的、行政的介入などを行うなどのムダなエネルギーの消費や、膨大な組織の形成も必要ない。
 Civil Rights Modelは、インクルージョンをはかる。Social Welfare Modelでは排除されてきたひとを、もう一度再統合することを目指すのがCivil Rights Model。Social Welfare Modelでは、分離とラベリングの政策により、障害に対するステレオタイプを形成する。それに対してCivil Rights Modelのほうは、職場環境、社会環境の改善で就労が可能になる。それを、ぎりぎりまで追求する。
 Social Welfare Modelは、能力の欠如の強調を必要とする。障害のある人は恩典により、障害があることで、自分にはできない、ということをアピールしなければならない。障害年金を受けるにしても、一定程度以上の障害があると、申告して、はじめてサービスを受けられるから、その前提でできないと、自分から、できないという否定的な自己イメージをわざわざ公にしなければならないというところに、制度的な問題が隠されているとこれまでにも指摘されている。

 次に、法定雇用率と、機会均等化について。法定雇用率の制度は、もう廃止してしまい、ADA法の雇用機会均等をすれば、すべてうまくいくのか。日本でいえば、おそらく憲法の13条(「幸福追求権」)や14条(「法の下の平等」)は、どちらかというと、Civil Rights Modelを支持する条文。13条の「幸福追求権」は、最近では、解釈上、自己決定権や人格的自立権が含まれる。14条の「法のもとの平等」は、機会均等を前提にするので、Civil Rights Modelを指し示す。25条は、伝統的に社会福祉の重要性を強調している。権利法、差別禁止法ができれば、最後には法定雇用率や障害者の特別な所得保障などがいっさいいらなくなるのか、それともそれらを一定程度残すことが必要なのか。そのことに関して、私は、中途半端だが、当面は両方を使うべきだと考えている。
 アメリカでもそうだが、ADA法を前提にして裁判をするとしても、時間とお金がかかる。それに、裁判に負けるというリスクも抱える。また、現在の人間科学の水準からすると、社会システムの変更だけによっては、就労のチャンスをえられない人もいると考えられる。そうすると、法定雇用率とか、ある程度社会福祉的な底支えは必要だろう。機会均等原則だけで行くのは、少なくともまだ無理なのではないか。

 現在までに策定されてきた障害者差別禁止法には、4つのタイプがある。憲法による規定、刑事法での規定、民事法に差別禁止の事項をつくる(ADA法)、最後に社会福祉法で差別された人を救済するという4つのアプローチがそれにあたる。
 まず、憲法によるアプローチには2つの効果がある。1つは障害のある人の差別を禁止することが、国家の基本的な価値であると明記すること。この国で障害のある人を差別しない、障害のある人を統合化していく、それが国家の基本的な価値なんだ、とすることは大変意味がある。2番目の効果は、最高法規としての憲法に差別禁止を書き込むことで、憲法以下の国内条規など、全てのものを是正できるという利点。例えば憲法14条の中に、「障害のある人の差別を禁止する」というのが入れば、欠格条項を1つ1つ拾い上げなくても、障害のある人に資格を与えないとだめだぞ、といえるようになる。
 ただ、メリットはあるが、限界も2つほどある。1つは、一般的には憲法には、障害とは何であるか、差別とは何であるか、という基本的な法概念がおかれない場合があること。ニュージーランドの憲法にはそういう規定があるそうだが、通常、憲法はそういう細かい規定は行わない。14条には、人種・性別・社会的身分、門地によって差別されない、と書いてあって、その中に「障害」という事場を入れるのは意味があるものですが、それぞれ「では障害とは何か」というのは解釈にゆだねられるとは、最終的には裁判所になりますが、あいまいな概念だと、「裁判規範」になりにくい。裁判所がこれは、憲法違反だというか、というと、なかなかそうはいかない。たとえばこの差別禁止事項で一番多いのは、労働問題で、女性に対して結婚したら退職するようにとか、昇給が遅いとか、それが差別だと言えそうで、案外、結論はクリアでない。この前、判決がでましたが、「女性は結婚したら休みがちになるんじゃないか」とか「お産をすれば、休みがちになるのではないか?」といって、雇い主側が区別しても不合理な差別とはいえないとなってしまう。案外、差別ということばがはっきりしているようであいまいなところがある。それは、我が国の25条について、もそうですが、それぞれ「では障害とは何か」というのは、解釈にゆだねられる。
 さらに、日本では裁判所の役割はあまり大きくないのが実際のところ。あまり多くは期待できない。憲法に規定をおいた、2番目の限界は、憲法では私人間の差別問題に適用しにくいということがある。たとえば、どこかのお店に車椅子で入ろうとして、1階が駐車場、2階がレストランで、スロープがないので上がれないとすると、そういう場合、憲法を直接適用するのは難しい。基本的には国民と国民の間に直接適用にならないのがこれまでの一般的解釈。役所の人が、障害のある人を差別すればはっきりしますが、地方自治体などにも適用しにくい。
 次に、刑事法によるアプローチですが、刑事法のアプローチは、3つぐらいメリットがあり、その一つは、差別の違法性を明らかにすること。それから、非人間的処遇に制裁を加えるということ。たとえば、知的障害のある人を雇っている社長が、暴力を知的障害者に暴力を振るったり、女の子をレイプしたとかの事件がおきたときに、積極的な制裁を加える。あるいは、もっと軽いレベルでいえば障害者に差別的な発言したり、侮蔑的言動をした場合、人間にとって心、人格が傷つけられるが、今の法律では、それをいちいちどうこうとはなかなか言えない。法律的に違法だ、損害賠償だ、とはなかなか言えないが、もし、それが刑事法で処罰されるなら、障害者に差別的言動をとったことに制裁を加えられる。
 それと関連で、3番目にお金では償えない、人間性に対する審判行為に対応した処置を行うことができる。たとえば侮辱的な言葉をいわれたり、言動をとられて民事裁判をおこしても、損害賠償は5万では程度。大阪の弁護士事務所の岡田さんが、JR訴訟というのをやっていて、職員が、車椅子の人に、ホームまで連れていってあげるときにやっかいだなという、侮蔑的言動をはいたことがあった。それに対し、裁判では、10万とか、15万、それぐらいの損害賠償を認めました。認めてくれたことはよかったが、本当に受けた心の傷からいって、15万でいいのか、という思いがあった。むしろ、この場合、あなたの行った行為は犯罪なんだよ、罰金なんだぞということを認知させていくことが重要。
 一方刑事法にも限界があり、いちばん大きい問題点は、一般市民の無配慮、無関心に刑罰を科せられないという問題がそれ。多くの国民は意地悪してやろうとか、思っている人もいないとはいえないけど、大多数は意地悪はしないが、配慮がなかったり関心がなかったりするために、結果として、ひどいことになっているということ。そういうときに、刑法、刑事法は適用できない。意図的に行われた意地悪や嫌がらせでないと処罰できないとすることに限界がある。結果として、実際に処罰されたケースは、あまり多くない。これは訓示規定化している。「こうしてはいけないのだよ」と法律には書かれても現実の処罰規定はない。我が国の実状は、刑法には、侮辱罪、名誉毀損罪などあるが、現実の事例は非常に少ない。だから、たぶん、障害のある人への差別行為は、刑法においたときに、名誉毀損罪などと似たような規定になり、実際上はあまり使われてない。
 最後に民法によるアプローチですが、ADAと同じやりかたで、いくつもの効果があり、今、国際的に最も推奨されており、私人間の差別行為を直接対象にできるところに利点があります。もっと大事だと思うのは事後的な損害賠償というやり方だけではなく、採用、解雇、配転のときなどに、例えば、「採用拒否は無効」とか、「解雇は、無効にせよ」とかいったこれからの状態に対する差別行為に対して差別行為を是正させることができる。というと、採用しろ、ということになるし、解雇が無効であるということに。そういうことで、差別行為を是正させられます。ただ、この方向にも限界、問題点がある。
 どういう問題があるかというと、特に日本はそうですが、ADA法の言葉では、「合理的配慮」「差別」ということばは定義規定をおいてもまだ曖昧な部分が残る。そうすると、それは、裁判所の解釈で埋め合わせることになり、裁判所が問題にどのくらい積極性をもつかで、左右される。裁判所が、自分から新しい解釈、法規範をうみだすという役割意識をもっていないと効果がない。日本とアメリカの裁判所は違っていて、アメリカでは、特に差別分野では1960年くらいに、MUST TO DO判決という判決のスタイルがとられるようになった。裁判所は、通常、損害賠償を払うことを命じるとか、こういうことをしないことは違法だといったことは言うことはできた。しかし、アメリカの最高裁はこの方法を採用しましたが、日本はこの判決をしたことはありません。そういう裁判所の消極性や法律を作っていくという姿勢がないと、今、もし、アメリカのADA法が日本に入ってきても、どのくらいうまくいくか、それには不安が残ります。
 2番目に書いてありますが、日本の裁判所は古典的な司法の立場を守っている。裁判所の法創造機能は回避している。判例の積み重ねによって具体化する事に限界がある。3番目に、アメリカは「懲罰的賠償制度」といって、差別などに対して、何億・何十億という損害賠償を認めることがあって、現実に発生している損害は大きくなくても、懲罰、こらしめとして、高い懲罰が出ることがある。日本の場合は懲罰的な損害賠償という考えはなく、現実の発生した損害だけを補う、現実賠償、という考えをとっている。そうすると、損害賠償の額は、そんなに大きくならない。先ほどのJR訴訟でも違法なことをしていても損害賠償は15万くらいに。そうすると、払う側にしてみるとたいしたことはなくなる。
 法律が、今後どのように進化していくかは不明確なところがあって、人間諸科学の技術水準との関係もある。差別禁止法は人間諸科学の発達によっていかなる人もこの社会から排除されず、継続的に改善をすすめることが社会の責任だ、ということを前提にしている。差別禁止法はいつも社会に統合化していく自己発展的な人間としての技術の向上促進を前提にしなくてはいけないし、それを求めなくてはいけない。そういう内的な発展の原動力を与えているのは、日本でいえば憲法第13条、第14条の「差別してはいけない」、とか人格的に尊厳を持つべきであるという、その理念。今後、そのような理念を念頭においた上で、どう差別を禁止していくことができるのかを考えていくことが必要だと思う。

(報告、終了 質疑応答に続く)

以下、質疑応答に関して。
なお、この記録1-2は、研究会での要約筆記をもとに作成しました。(瀬山


Q/日本では「差別禁止法」は、まだない、とのことだが、1966年まで、身体障害者福祉法に「差別禁止条項」があったが、廃止されたという記述を本で読んだ。その点についての何らかの情報を持っていれば知りたい。
池原/初めて聞いて驚いた。知っている人が他にいれば発言してほしい。
会場から/障害者の差別はしてはならないとありました。なぜ変わったのか、調べたが、障害者の支援を国、地方公共団体の義務とするという条項に変わったので、それで充分だ、というのがお役人の考え方だったのではないか。
池原/「差別」という言葉でイメージするものが人によって違って、「嘲りや嘲笑は差別だ」と認識しても、「補助器具なしでは、障害のない人と同じだけの仕事量をこなせないという人を雇わないのは差別ではないのではないか」と、法律を作った人は考えていたのでしょう。だから、むしろそれらは、医療施策、福祉施策などの別の方法で補うとか、作業所を作ったり、所得保障すればいいとか、考えていたのではないでしょうか。今後も、「差別」については定義と当てはめが難しくなるかもしれない。

Q/今後日本での差別禁止法の制定の可能性について議論する前提として、これまでアメリカをはじめとしてすでに40数カ国がなんらかの禁止法を策定しているとのことだが、それらの国で現在までにでてきている課題や困難を含めた現状について説明してほしい。
池原/具体的なことについては、あまり詳しく聞いていないが、「発展途上国」においても、ADA法に類似したものがかなり整備されてきている。想像だが、それらの国は、かつての宗主国であったイギリスの障害者差別禁止法を元にして法律を作ったりしているのではないか。しかし逆に、社会資源は必ずしも充実してないので、同じ禁止法があっても、イギリス本国と、かつての植民地、「発展途上国」の差別の状態は、おそらく違いがあるのではないかと、想像している。あまり具体事例は報告されていない。法律ができれば、それで、すべてが解決できるというほど単純なものではないと思う。
 アメリカについては、あまり細かい判決例の分析までは個人的には至っていない。そのため、私自身は、どういう不都合な問題があるかは、あまりよくわからない。私は精神障害の人に深く関わっており、その方たちにADA法はどう適応されてるかを考えてみると、大ざっぱにいってあまり効果的でないと考えられる。どういうのが合理的配慮であり、どのような配慮が必要かということがわからなかったり、曖昧であったりする。また、障害のある人を雇わず、解雇したからといって差別にはあたらないとされる場合もある。個々の障害との関係でどのような合理的配慮をするかという点は、不確実なところがいくつも残っており、必ずしもすべてが適用できていないという状況なのではないか。

Q/知的障害者の場合もADA法がうまく機能していないということが言えるか?
池原/ADAが出来上がった時点では、ジョブコーチがいるとか、アシスタントが一緒についていくとかして、通常雇用の場所で知的障害の方が仕事ができていると聞いた。実際にアメリカに行った時に、スーパーマーケットで知的障害の方が手伝ってもらいながら、働いているのをみたりしたので、わりとうまく機能しているのではないかと感じている。ただ、ADA法ができて10年で、アメリカ全土で知的障害の人の何パーセントが一般雇用に吸収されていったのかは、検証してみる意味があると思う。

Q/「人間諸科学」の発達に期待するという記述があるが、これは医学をさしているのか、工学を指しているのか。
池原/人間諸科学ということの意味することは何か、ということだが、これは、あまり具体的なイメージをもたず、人間の諸科学全てというイメージ。もちろん医学も一つの部門として入ると思う。工学、心理学、社会学といったあらゆるものを駆使して、人間の本来持っている能力を発揮できる、そういう科学の発達が必要だと思っている。そのために、国はもっと予算を費やすべきだろうし、個々の企業も、もっと具体的努力が必要。
 障害は個人に内在しているものと、社会との関係。今は難しくても、いずれは可能になるという人が一人ずつ増えていく、そういう発展的なモデルを差別禁止法がそのなかに持っていなければいけないと思う。その技術を開発する為にお金を使う。それは、社会の全体的な負担でやらなければならないのではないか。
 国際的な条約化については、確かに障害者に対する差別禁止条約ができていない。他の分野では、子どもの権利とかそういうものができている。ワシントンの会議でも、国際的な障害者差別禁止に関する条約についてはかなり真剣に議論された。比較的現実的な案としては、グローバルな条約を作る前に、地域ごとの条約を作って行くという案があった。ヨーロッパでの条約とか、北アメリカとか。日本はどこにも入りにくいが、環太平洋、およびアジアといった地域を想定できる。そういった地域ごとに先進的な取り組みをして底上げをしていくことが今後の課題だと考える。
 アジアの情勢の中では、インドが比較的すすんだ差別禁止の法律を作っている。中国は天安門事件以来「人権」について世界的に非難をうけているので、障害のある人の人権に関して先進的な取り組みをしているということを世界に示したい、という国策がある。しかし、アジア諸国の動きは十分ではなく、環太平洋、つまりオーストラリアとニュージーランドをまきこんで、場合によると、カナダ、アメリカの西海岸をまきこむようにして、それらの地域に適用される条約を形成する。それが第一ステップになるのでないか。
 「障害」ということばで差別禁止規定をしなくても、例えば条約や憲法の中で、身体的条件(年齢なども含めた)で括るのも一つの案。ただ、その場合、精神や知的障害も考えて、障害のある人に対する差別という項目をどういう表現で入れるのか、というのは考えていかなければならない。

Q/世界人権宣言には、広義の意味で、身体的な特徴による差別を禁止するという条文は入っていなかったのか。
池原/世界人権宣言が策定された時代には、障害者に対する差別の認識がなかったと思う。

Q/ADA法10年ということで10年後の評価がそろそろでてきていいのかなと思うが。それらの研究はあるのか。
会場から/ADAの効果ということでは、情報面や物理的な面でのアクセスの向上には、非常にインパクトがある、というふうに考えられている。また、今のブッシュ大統領になってからだが、知的障害者、精神障害者のサービスを地域で統合して進めなければ、ADA法違反であると、実際にそのような政策に移すということをブッシュ大統領はしている。ただ、実際の雇用、就労について、ADA型の権利モデルが、どれだけ効果があるのかというのは、わたしも非常に疑問に思っている。米国の議論を見ていても、ADAの処遇のところで、万々歳という議論を見かけたことはない。NHKのある番組で、米国での雇用がADAで3倍になっているという数字を出していて、障害学の英語のメーリングリストで問い合わせてみたところ、「そうだそうだ」という米国人はひとりもいなかった。そういう情報を出したのは、日本のNHKだけでしょうと。
 セイフティネットと権利アプローチ、社会福祉アプローチの話になるが、社会福祉アプローチがあくまで前提であって、それに付け加える形で権利アプローチもあるのじゃないかと個人的には思っている。
 イギリスは、障害者差別禁止法を導入した時点で、雇用率をなくした。またアメリカでは、当初から、雇用率的なアプローチは差別的だという議論があり、雇用率導入をする議論にはたぶんいかないと思われる。日本の場合は、杉野昭博氏が雇用率のアプローチと、権利擁護、差別禁止のアプローチは両立できると、書かれている。私も、日本の場合は、雇用率をベースにして発展する形で、差別禁止アプローチをどれだけすすめるかが、課題だと思う。そのモデルの純粋性ということで言えば、イギリスやアメリカが雇用率をなくしているように、障害に着目しないで、みんな一緒という形もありうるとは思うが。日本で具体的に差別禁止法を考えるときには、あくまで、雇用率をベースにして、それをさらに発展させる形しかないのではないのか、と、考えている。

Q/社会福祉モデルとCivil Rights Model(公民権モデル)の別を考える時に、「途上国」であるか、「先進国」であるかを一つの軸にして考えることもできると思う。ただ、「途上国」が、「途上国」であるのは、日本が「先進国」という状態にあるからであって、こちらの世界の責任も忘れていけないと思うが。いわゆるセイフティネットといわれる、サービスや社会資源が欠けているようなところで、権利モデル、権利アプローチが入っていくというのが、どれだけ意味があるのか、考えさせられる。この前も、ウガンダのろう者がきて、我々の憲法のなかにも手話の権利が保障されている。でも、実質的な、手話を含めたサービスはほとんどないということを言っていた。ただ、先進国と違い、逆に途上国の環境であればあるほど、障害の有無によって、生きるか死ぬかに直結する危険性はたぶん高いだろう。
 Civil Rights Modelを追求していくことは、インペアメントは存在しない、と考えるところまでいきつくのか。これは、もしかすると、ユニバーサルデザインという考えのなかで、インペアメントという、特定の身体条件を否定的に考えるということが無くなっていくということとも関係しているのか。
池原/Civil Rights Modelというか、差別禁止法的なアプローチをして、いきつくところまでいきついたときに、インペアメントがなくなるか、という問題。これは、結論から言うと、よくわからない。ただ、もともと、おそらく歴史的な発展では、まずインペアメントが発見されて、そう思っていたが、それは実のところハンディキャップだったと認識されるようになったと。
 差別禁止アプローチにより、社会的な問題が解消できたら、もしかしたら、生物学的な違いというインペアメントは残るかもしれないけど、それは、社会では何の意味もないことになるのかもしれない。要するに左利きか右利きかという違いしかなくて。そのときには、インペアメントは、存在しても社会的に意味がない区別になるという気がする。そういう状態がおそらく理想的な差別禁止法の発展状態だと思う。ただ、現実的に言うと、人間諸科学が発展して、まったく社会的にインペアメントという区別が意味がなくなるかというと、むずかしいし、それは理想状態なのだと思う。
 技術的に可能だとしても、インペアメントをもっている人に莫大な予算を投入しないと結局、意味がなくならない。やっぱりなかなか最終的にその意味がなくなっていく、社会的にはその区別が意味のないものであるというところまでいくのはかなり大変。もしかすると、関連性があるかは議論が必要ですが、法定雇用率論と、Social Welfare Model、Civil Righits Modelのある程度の混在は最後まで残っていくのかもしれない、という気もします。

Q/昨日たまたま、医療保険の話を聞いたからひっかかったのだが、昨日説明を聞いていたら、健康保険のしくみがだいたい4パターンある。国が全部契約して、医者がみる、というイギリスのパターンからはじまって、だいたい、EU諸国と日本は社会的な保険、全員がほぼ、健康保険に参加する形になっている。アメリカの場合は、無保険者、健康保険に関わりのない人間が人口の4割。そうすると、ADAで、雇用が保証され具体的に、雇用される人と雇用した会社が健康保険をまかなう。でなければ、自分でお金を払って、医療会社の保険を買う。ADA法で権利保障で職場に入った人は健康保険の対象になるが、あとは救済処置としての社会保障費、というか見捨てるわけには行かないというので、つぎ込むお金はあるかもしれないが、そのあいまの部分でもれてしまうのではないか、と思う。議論を、突き詰めた形で問題にするより、具体的なレベルで医療の必要な人が医療にアクセスできるような、財政的な、個々人の話をしたい。健康保険で裏付けがあって医療をうけられるのか、そういうアプローチは。少なくとも今日の話では聞こえなかった。具体的な話があれば教えてほしい。
Q/Social Welfare ModelとCivil Rights Modelの相関関係を話してほしい。
池原/二つのモデルの相関関係ということで言うと、二つの考え方がある。1つは障害のある人にサブカテゴリーを作る、つまり重篤な障害がある人と、そうでない人という二つのカテゴリーによって適応するモデルを変えるという方法。つまり、合理的な配慮を施しても、自由競争市場に入れない人たちにはSocial Welfare Modelをあてがう。これは結局、排除と差別の構造を設定することになる、という問題がある。
 もう1つは、Social Welfare ModelとCivil Rights Modelの2つ立てておいて、どちらかを自由に選択するという考え方。自分は競争市場に入りたければそうしなさい、Social Welfare Modelがよければそうしなさい、と。でも、そうすると、逆に非障害者のマジョリティーから、なんで、障害をもつ人だけが選択肢があるのか、という声があがるだろうと。結果的には、どちらも、なかなか難しいということを示唆している。
 重篤な障害のある人、今の人間諸科学では、どうしても移動、アクセスについては工夫してもかなり特殊な形質でないと困難だという、ユニバーサルデザインではカバーしきれない領域がもしのこるとしたら、(保険適用のない、医療保障をうけられない、アメリカの何千万人に当てはまるかもしれないが)、まったく個人的な印象だが、そこにもサブ・ユニバーサルモデルみたいなものがほしいと考える。変ないいかただが。障害のある人だけでなく、同じ状況になった人は、原因でなく、その状況に応じた手当をしていく。女性とか子供といった分け方でなく、ある一定の状況であれば同等の支援を与える。その程度の配慮は必要な気がする。あまりいい案ではないが。

会場から/分かる。ニーズに応えるということだと思う。インペアメントのカテゴリーに対してでなく、車椅子のひとが病院にいこうとすると、スペシャル・トランスポーテーションが必要。しかし山奥で公共交通がないところに住んでいて、6キロメートルまで歩ける人が病院にいこうとしても、10キロさきにしかなければ、その人にも必要。逆に都心にいても、車椅子のひとはそれが必要ない。これは、インペアメントの区別でなくて、その人のニーズの区別だと思う。そういう区別を、もう一度、社会保障というか、社会のシステムのなかで再定義しないといけないと、私は、考えている。ユニバーサルデザインは、特定の身体状況を否定的に考えるのではないか、というのは、正しい理解ではないと考える。特にインペアメントに着目するのではなく、つまり、ニーズの出所ではなく、ニーズそのものをどう解決するかに注目するのがユニバーサルデザインという考え方。障害学でいうところのディサビリティを、スペシャルな形で解決してきたのでいいんだろうか。そうでなく、もっと普遍的な解決方法のなかに、スペシャルな解決方法を埋め込んでいけないだろうかと考えていこうと。
 ただ、スペシャル・ニーズはどうしても残るというのは確かにそう。ユニバーサルデザインがすべて解消するなんて、ぜんぜん思っていない。たとえば95%をカバーしても、5%残る。ただ、その5%に対応するなんらかのものが、日本中で1メーカーしか作ってないとしても、それが情報として非常に入手しやすく、それをメールなどでぽんと入手できれば、つまり、マーケットの中に放り込んでしまえば、著しい不利益は受けない。そういうふうなマーケットを作れないかということを考えていきたい。そこで「5%が排除される」という言い方でなく、製品としては対応しないといけないが、マーケットとしては、著しい差別的な状況がおきないようなシステムがあればいい。すべてのマーケットをカバーするユニバーサル的な発想も可能なのではないかと。そういうことを考えてるのがユニバーサルデザイン。ニーズをいかに大事にするかに発想の転換ができないだろうか。
会場から/「ユニバーサルデザイン」の話で、いろんな考え方がわかったが、基本的には、コストがかかるもの。先ほど出た「発展途上国」の問題でも、法律はあるが中身が、財政基盤がないという話だった。立法の理由が、イギリスが作ったものを真似したと。難しいのが予算の問題。政府が予算がないからお金を払えない。今、スペシャルトランスポーテーションの話があったが、作りたくてもお金がない、車がない、という状況をどのように考えるか。
会場から/アメリカではADAによって雇用率が改善されたということは私も聞いていない。現在も7割の障害者は仕事がないということが現実だろう。では翻って日本は世界の雇用率のなかではわりと一生懸命やっていると思うが、日本の障害者の雇用率はまさっているのか。つまり、雇用率のやりかたがアメリカのやりかたに勝る、という証明があるのか。アメリカを支持しているわけではないが、かといってアメリカがだめだから雇用率のほうがいいといえる根拠があるのか。
Q/障害学でいう社会モデルと医療モデルと、差別禁止法を整理する上で今回使われているSocial Welfare ModelとCivil Rights Modelというのは、似ていると思う。この2つのモデルの関連がどうなっているかを知りたい。
会場から/消費生活アドバイザーとして、消費者というきりくちで、障害のあるないに関係なく、仕事をしている。消費者の定義は「法人」以外の生きている人間がすべて「消費者」であって、その消費者の権利は1962年にケネディー大統領が4つあげたように、知る権利、安全である権利、意見を述べる権利、選ぶ権利となっている。世界の消費者運動はここを基本にして始まった。
 日本では、たとえば、家庭用品の品質表示法という法律があるが、見えない人という視点はない。見える人にとってはどうかというと、高齢者にとっては小さいし、商品によって、「洗濯20回に耐えられる」とかと決められていても、すぐ消えてしまったり小さかったりしたら、それは、表示があるとはいえない。そのほかに、契約の中で約款というのがあるが、約款も私は個人的に、テープにして欲しいと言っているのだが、見えない人にとってはないのに等しい。あっても、あれだけ細かい約款を現実に読むか。企業側の論理にのっとった難しい言葉はほとんどの人は読まないと思う。ユニバーサルデザイン的な考えだが、すべての人がわかるようにすべきではないか、と考える。法律的に言ってどうなのだろうか。
池原/法律というのは、おそらく、平均的な日本人を想定して作られている。この平均的というのがまやかしで、なにを平均的というのかさっぱりわからないのだが。いきつくところは法律を作った人が、結局、不特定多数に当てはめようとするので、不特定多数の基本イメージをどうとらえているか、というところにいってしまうと思う。ただ、法律で争う場合の争い方としては、一人一人の消費者に届く情報というのが、説得力がある。裁判所がその必要性を認めないのはおかしい、と何回も言っていくことは大事だと思う。

会場から/憲法13条の「個人の尊重」は、個人が自立的に存在することを尊重されないといけないのと同時に、適性に処遇されなければならない、あるいは、処遇を求める権利を持っている、ということだと解釈するなら、適性処遇請求権というのが、一つの日本型の差別禁止法、もしくは適性処遇法とでもいうべきものが、構想されていくと思う。
会場から/権利主張はどうなのかということを、もう1回見直さないといけないと思う。現実の日本で考えたら、自分は権利主体だよという自覚をもたないままにいる人に、その人が権利主体であるということを伝える必要はあると思う。どういうふうに伝えるのかは、よく判らないところはある。今、そういうレベルでの権利主張の裏付けになるような意味で、差別禁止法であったり、適性処遇法であったり、それは、表現は違いえても、慈善対象でない権利主体なんですよということを言っている。それを実現していくためには、ある意味、啓発するような取り組みが、法律という形か違う形になるのかは分からないが、必要だと思う。日本で障害者が権利主張をしたときに、周囲がすんなり受け止めるかどうかはわからない。当事者が権利主張し、周囲が受け止めていくという、土壌づくりをするステージなのではないか、そういうふうに見ている。
会場から/確かに障害者が権利主体である、ということに関しては国民的コンセンサスはまだかな、と思う。いわゆる高齢社会の到来が障害者を多数派に組み込んでいく、一つの要因としてはいい機会ではないか。障害者だけであれば少数派だが、いろいろな面で不便を抱える人はたくさんいる。より、問題を一般化していく事が可能だと考える。
池原/憲法第25条の位置づけについて。残念ながら障害のある人について第25条をどのように活かしていくのか、という議論は、憲法学者の中でもなされていない。終戦、敗戦後昭和20年以降の25条の使い方は、要するに、貧困の中で食べていけない人に、どのように食べ物を与えるかという、あまりにも貧しい所得状態の人に対しどのようにお金を与えていくか、という物理的な生活支援に焦点があった。例えば昭和30年の終わりころから争われていた、朝日訴訟という生活保護の訴訟でも、ようするに、お金をいくらあげたらよいのかという、議論になってしまう。そういう延長線上で考えてしまうと、たとえば知的障害児の親が死んでしまったら施設でお世話をする、とか、重度の身体障害者には特殊な施設を作り世話をすればとよい、とか、障害年金の額をあげていけばいいではないか、ということになってしまうと思う。しかし、13条的な自己決定、人格的自立という観点で考えると、どこに住むのか、どういう生活をしたいのか、どうやって収入を得たいのか、ということがその人の生き方にすごく関わってくる。単にお金があればよい、住む所があればよい、という問題ではない。
 そうすると、これからは、その物理的経済的糧を得るという25条的な権利の実現の仕方に重点が置かれるようになる。わたしはこういうかたちで所得を得たいとか、私はこういう内容のサービスを受けたいとか、25条によって提供される福祉的支援とかサービスが、コンシューマコントロールされる。使う側が選択できる。それで初めて文化的な生活といえる。そういう意味で25条を解釈し直さないと。それは、必ずしもよいとは限らないが、措置から契約へといこととも関連していると考える。

会場から/本日の目的は国際的な障害者差別禁止法の現状を検討することを通して日本における障害者差別の制定可能性を考えるだと思うが。そう考えたときに3つの側面がある。1つは、どういう中身の法律か。もう一つは、どういう種類の法律なのか。3つめは、実際にそれをどう作るのか。
 1つめのどんな中身か、というのは非常に複雑な要素があるので十分に議論する必要があると思うので、ここで簡単に聞きたいのは、どうやって作って行くか、について。まず、種類について。憲法、民法、刑法の功罪をふまえて、池原さん自身は、どの種類の法律でやるのが日本では有効とお考えか。
 もう1つは、実際に作る事を考えると、法制局、内閣府とも話したが、まず政府提出は無理で、議員立法だろうという見解をいっているが、実際に議員立法を考えたときに、どういう戦略をたてられるか、それについても、意見を伺いたい。
池原/難しい質問で、それにすぱっと答えられたら苦労しないのだが(笑)。一つは、現実に迫ってるのがADA法に近い形で、民事法のなかに、日本の労働基準法とか、男女雇用機会均等法のような、社会立法があり、そういう類型の広い意味での「民事法」、社会法的類型としての法律として、中身は、ADA法に近いようなものができていくことが、当面必要なのではないかと考える。もちろん、憲法、刑法でも、できればいいが、現状では、へたに憲法に手をつけるとなると、関係ないところまで手をつけられなくもない。その意味でも、何とも言えないが、民事法でいえば、公明党で案がでたり、方向的には、絶対ダメという人はいないのではないか。
 近いところでは秋、11月に奈良で日弁連の人権大会の3つのテーマのうちの一つが、障害のある人の差別禁止法の制定にむけたもの。おそらく、障害者差別禁止法に関する日弁連の案が提出される。今、日弁連が、各国の差別禁止法を参考に案をつくっている。それが、弾みになればいいが。また、来秋、DPI世界会議が札幌であり、日本が国際的な立場で、法改正をすべきだとアピールをする必要があると思う。
 あとは、もし議員立法でやるなら、こういう皆さんの会とか、障害者が、議員と密接に接触をもちながら、具体的な提案を国会議員に流し込むことが必要かと思う。やはり、来秋のDPI世界大会を一つの軸に、3年ぐらいの間に、一つの成果を上げられないかな、と考えている。

(以上です。)


UP:200107
障害者の権利  ◇ADA=The Americans with Disabilities Act(障害をもつアメリカ人法)  ◇DPI日本会議  ◇障害学研究会  ◇障害学研究会・関東  ◇差別  ◇全文掲載

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