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盲ろう者と障害学

福島智(東京大学先端科学技術研究センター)
リバティセミナー「障害学の現在」 第3回 (20010623)

記録・松波めぐみ

last update: 20160125


1.「盲ろう」という状態について
 今日は「盲ろう者と障害学」というタイトルですが、時間が限られていますので、盲ろう者のことについてはあまり詳しく触れることができないと思います。一口に盲ろう者と言いましても、実態は非常に多様で、コミュニケーションの方法などは極めて複雑です。
 「盲ろう」は、見えなくて、同時に聞こえない状態です。これは主観的には外部世界とほとんど遮断されてしまったかのような感覚を与える状態です。よく用いる例として、テレビを使った説明があります。盲の状態を考えてみますと、テレビの画面を消して、スピーカーの音だけを頼りにテレビを見ているとき、それが盲の人の感覚に近いだろうと思います。音だけを頼りにテレビを見る(聞く)というと、あまり内容が分からないのではないかと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、そうでもありません。ドラマなどはほぼストーリーが追えますし、ニュースや音楽番組などもよく分かります。ただ、ゴルフやサッカーなどのスポーツ中継は、分かりにくいといえるでしょう。
 次にろうの人は、その逆ですね。テレビのスピーカーの音を消して、画面だけを見ている状態。これはトークショーなどは分かりづらいですが、スポーツ番組などを中心に、かなり内容は把握できますし、最近は字幕も増えてきました。
 それでは盲ろうはどうか。これは、画面を消し、スピーカーの音も消した状態です。つまりテレビのスイッチを消してしまったのと全く同じ状態ですね。
 「盲ろう」という障害がもたらす困難としては、コミュニケーション、移動、情報入手という三つの領域に渡る困難がある、といわれています。このうち私の意見では、コミュニケーションに関わる困難が最も深刻なダメージを与えるのではないか、と思っています。
 今から20年前、私は盲の状態からほとんど突然、全盲ろうの状態になりました。そのとき、もっとも大変だったのが、このコミュニケーションでした。私が盲ろう者になって最もつらかったことは、他者とのコミュニケーションがきわめて困難となり、まるで、真空の宇宙空間に放り出されたような魂の孤独を味わったということです。
 その後、「指点字」というコミュニケーション手段に出会い、他者とのコミュニケーションも徐々に回復して、私は生きる力を与えられるのですが、この盲ろうになって、いったんコミュニケーションが断絶してしまった、という体験は、私に対して非常に大きな影響を与えたと思います。つまり、見えなくて、聞こえない状態でも、他者とのコミュニケーションがあれば生きていけるな、という実感を持ったということと同時に、もしかするとその逆、つまり見えて、聞こえるけれど他者とのコミュニケーションができない、という状態は、生きていくうえで非常につらく、厳しい状況なのではないか、と考えるようになりました。

2.障害をもって考えたこと
 私は生まれたときは見えて、聞こえていました。その後、9歳で失明し、18歳で失聴して盲ろう者となったわけです。それでは、こうした障害を持つ過程で、私が障害についてどのように感じ、考えてきたかをお話しします。
 9歳で失明した私は普通学校から盲学校に転校しました。普通学校にとどまりたい、かつての友達と遊べなくなるのは寂しい、という気持ちがあったことは確かです。しかし、失明したことや盲学校に転校したこと自体は、それほどショックでもなく、つらいとも思いませんでした。おそらく、目の病気の関係で休みがちとなり、それほど親しい友達もできなかった普通校よりも、失明して、盲学校に転校してからの生活のほうが、むしろ楽しかったからだろうと思います。視覚障害児になったことで、さまざまな制約や不便はありましたが、当時の私にとっては、そんなことよりも、毎日学校に通い、のびのびと過ごせることのほうがうれしかったです。盲学校では、数は少ないながら、親しい友人もでき、音楽やスポーツに熱中しました。とはいえ、中学生になったころから、私は自分の「障害」について真剣に考えるようになりました。あるとき、親しかった全盲の教師に、私がこの問題をぶつけたとき、彼はこう言ったのです。「おい、『目が見えん』とはどういうことや」と。私ははっとしました。「目が見えない」とは、もちろん、「視覚障害を持っている」ということです。しかし、では、そもそも、「目が見えない」とは一体どういうことなのでしょうか。その後、この重い問いかけが、常に私の内部に突き刺さっていたことは確かです。
 1981年の初め、18歳で失聴し、全盲ろうの状態になったとき、再びこの問いかけがよみがえってきました。つまり、「目が見えず、しかも耳が聞こえない」とはどういうことなのか。むろん、医学的な定義や法律的な基準を問題としているのではありません。また、ここでは、「見えない、聞こえない」ことで奪われてしまった具体的な体験のリストを問うているわけでもありません。私が自らに問い、答えを探していたことは、いわば、障害体験が持つ実存的な意味、すなわち、私の場合は、私の人生において、私が盲ろう者となった意味についてでした。そして、私は自らと運命に問いかけました。「障害とは何か」なぜ、私は盲ろう者になったのか「この体の底が抜けてしまったような魂の苦悩」は、私の人生にとって、何らかの意味をもっているのか……。
 あれから20年が過ぎました。今、自分にとっての障害の実存的な意味を、私が真に見いだせているかどうかは分かりません。でも、少なくとも、盲ろう者になることによって、「人生において真に価値あるものは何か」を問い続けるチャンスが与えられたことは、意味のあることだったと思います。
 また、盲ろうという障害ゆえに、他者とのコミュニケーションを奪われる苦悩を体験すると同時に、それが指点字を用いた他者とのコミュニケーション、すなわち、文字どおり他者の手によって回復したときの深い喜びを味わえたこと。そして、こうした体験を通して、他者とのコミュニケーションがいかに重要であり、人は皆、他者によって生かされている存在なのだということを、理念としてではなく、具体的な実感を伴って確信できたことは、私の人生にとって、大きな福音だったと思っています。
 このような体験をもとに、「障害」の問題へのアプローチの仕方を考えるとき、単に医学的、教育学的、あるいは、社会福祉的観点から、「障害」にどう対処すべきか、といった、いわば、“技術的なレベル”だけでとらえるのでは不十分ではないかと私は考えます。すなわち、「障害」を持つ人が「障害」にどういう意味を見いだすか、「障害」がその人の生き方や人生における「価値」の問題とどうかかわるか、といった“実存的なレベル”でのアプローチの大切さが見過ごされるべきではないと思うのです。

3.障害学のストラテジーチャート
 このように、障害を持つこと、その体験を通して社会や人生について考えることには、意味があるのではないかとずっと考えてきました。そうしたとき、障害学というものの存在を知ったのです。障害学は障害という現象を通して、社会のあり方や人間のあり方について考察し、運動を進めていく理論的・実践的な学問だといわれます。それは社会学の一種としてとらえられることが多いのですが、私は学問領域としての狭い意味での社会学としてではなく、障害という切り口で、社会や人生について考える営みすべてを障害学と呼んでよいのではないかと思っています。
 それでは、障害学が取り組むべき課題、その取り組みの方向性や枠組みといったものはどのように考えればよいでしょうか。私はここで、「障害学の戦略図」、いわば「障害学のストラテジーチャート」といったものを提案してみたいと思います。
 まず、障害学のストラテジーチャートの構造として、大きく二つのカテゴリーを考えます。第1は、障害者のために貢献すること、そして第2は、障害の有無を超えてすべての人にかかわって存在するさまざまな差別問題への取り組みに貢献することです。つまり、障害学を障害者のためだけのものとすれば発展性に欠けるのではないかということです。しかしもちろん、今まさに生きて差別に直面し、苦しんでいる障害者に貢献できなければ意味がありませんから、障害者への貢献がまず求められている、ということは確かでしょう。
 すなわち、「障害学」のストラテジーチャートには、まず、障害者をとりまく差別の構造を分析し、こうした差別的現実の改変を通して、障害者のよりよい生活、一人一人の障害者の生活の質の豊かさを目指す、という現実的で緊急性の高い課題に取り組むという第1の大きなカテゴリーが存在すると考えます。次に、それをより普遍的な、人類全体の問題として追求していく「開かれた知」としての可能性として、「新たな価値観の提示」と「現実的運動」を統合した戦略の提示を他の差別問題群に提供する、という第2の大きなカテゴリーが存在すると考えます。次に、これらのカテゴリーの中に、どのような「戦略」を実際に位置づけられるかということを考えます。ここでいう「戦略」とは、個別の課題に取り組むノウハウではなく、差別の現実に立ち向かうための戦い方の方向性やその切り口の枠組みを指しています。
 まず、二つの代表的な戦略を挙げることができると思います。第一は、「文化論戦略」であり、第二は「能力論戦略」です。これをストラテジーチャートの第1の大きなカテゴリーで考えてみますと、次のようになります。「文化論戦略」は、障害者差別との戦いにおいて、「文化」という視点を重視するということです。これは障害を一つの「文化」としてとらえることにより、障害者差別に対抗しようという戦略です。もう一つの「能力論戦略」は、障害者に対する差別を障害によって発生した「能力(差)による差別」ととらえ、その構造を分析し、根拠のなさを指摘することで、ひいては障害者差別全体に抵抗しようという戦略だといえます。
 次に、この二つの戦略をストラテジーチャートの第2のカテゴリーである「すべての人にかかわって存在する差別問題」という次元でとらえてみるとどうなるでしょうか。これら二つの戦略は第2のカテゴリーにも当てはめて考えられるのではないかと思います。
 第1のカテゴリーにおける「文化論戦略」は障害という「属性」を「文化」ととらえ直すことで、差別に抵抗しようとするものですが、これはそのまま障害以外の属性(性別、民族、高齢等)に伴って発生する他の差別問題群にも適用可能な戦略だといえます。また、障害により発生する「能力(差)」による差別への抵抗をめざす「能力論戦略」は、障害の有無を超えて、現代社会を覆う能力主義的価値意識に基づく個人の差別的序列化、という現実に抵抗する戦略としてとらえ直すこともできます。つまり、第1のカテゴリーにおける「文化論戦略」は、障害という属性を文化としてとらえ直すことで、属性差による差別の廃棄をめざすという論点を媒介に、他の差別問題群にも接続しているといえます。また、「能力論戦略」は、「障害による能力差別の廃棄」を、「能力一般の差による差別の廃棄」ととらえ直すことで、障害の有無を超えたすべての個人にかかわる能力主義的差別に抵抗する戦略として把握することができるのではないかということです。 (※末尾の「障害学のストラテジーチャート1 を参照)
 それでは、障害学の戦略、つまり、障害者の差別と戦うための理論的戦略は、この二つで十分なのでしょうか。私はこれらはそれぞれ重要な戦略ではありますが、どちらも単独では十分ではないのではないかと考えています。簡単にいうと、「文化」と「能力」という二つの側面を統合し、新たな戦略を練り上げていく努力が必要ではないかと思います。
 では、そのことを考えるに先だって、まずこれら二つの戦略の中身についてもう少し考えてみたいと思います。

4.「文化」という戦略
 まず、「文化論戦略」です。便宜上そう呼んでいるだけですが。障害を文化という視点でとらえ直すといったとき、日本でまず注目されるのは、1995年に木村晴美さんらによって表明された「ろう文化宣言」です。これはろう者を障害者としてとらえるのではなく、「日本手話」という日本語とは異なる言語を用いる「言語的マイノリティ」として位置づけようというたいへん画期的で、インパクトの強い主張です。ただ、障害を「文化」という視点でとらえ直そうという試みは、このろう文化の主張が始まりなのではなく、日本でも、たとえば70年代から始まった脳性まひの人たちの自立生活運動、「青い芝の会」の人々の運動等のなかに、すでにその種の主張のオリジンを見いだすことも可能だと思います。
 ところで、ここで「文化論」の検討にあたって、議論を整理するために、それとまぎわらしい主張である「個性論」との区別をしておきたいと思います。
 私は「障害個性論」はあまり適切な主張ではない、と考えています。確かに、障害を「一つの個性」としてとらえる、という言い方はわかりやすいですし、障害を持たない人たちにもアピールしやすいレトリックです。例えば、次のように言われたりします。「世の中には背の高い人、背の低い人、太っている人、やせている人、髪の毛が豊富な人、薄かったり白髪の多い人、などなどいろいろな人がいるわけで、目が見えないとか足が動かないというのも、こうしたさまざまな特徴の一つにすぎず、いわばその人の個性のようなものだ」と。こうした主張には私はどうも違和感を覚えます。その理由は二つあります。第一に、背が高い、髪が豊富、などの身体的特徴と、目が見えない、耳が聞こえないといった特徴とを同列に扱うことの不適切さです。確かに、どちらもその人の身体的特徴という点では同じかもしれませんし、背が低いことや太っていることをたいへん悩みにしている人もいるかもしれません。しかし、少なくとも「障害」と呼ばれる特徴によって被る社会的な差別や実生活での不利と同じ質の差別や不利を、身長や体重のばらつきといった身体的特徴がその人に与えているとはいえないでしょう。つまり、例えば、背が低いからといって普通の文字が見えないわけではありませんし、髪の毛が薄いからといって階段が上れないわけではありません。また、「あなたは太っているから医者にはなれない」などと言われることはないはずです。このように、「障害は個性だ」ということを強調すればするほど、障害によって発生する社会生活におけるハンディや差別的な取り扱いに対する問題意識が、逆にたいへん弱くなってしまうということです。
 第二に、「個性」ということばの使い方自体の問題です。「個性」というのは、その人の人となり、つまり、その人を他の人と区別するその人らしさ、さらにいえばかけがえのなさということだと思います。これは言うまでもなく単純なものではなく、非常に複雑な要素が絡みあったものですね。そうだとすれば、果たして、背が高いとかやせているとかというような身体的特徴は、「個性」なのでしょうか?  私にはどうもそうは思えません。
 こうして考えてくると、障害を「個性」ととらえるのはどうも適当でないと言わざるをえません。ではどうとらえるべきなのでしょうか。私は、障害は「属性」だと思っています。ある個人が目が見えない人であれば、その人には「目が見えない」という属性がある、ということですね。そして、「障害」は属性の一つであり、文化を形成することが可能な属性だと考えます。そして、障害という属性は、それを持つある個人の個性を形作るさまざまな要素の一つにはなるでしょうが、個性そのものではない、ということです。
 さて、では「文化」をどのようにとらえるかという問題が出てきます。倉本智明さんは文化を次の三つの要素の統合として語っておられます。第1は、「慣習化された行為・行動様式」、第2は、「ルールや価値観」、第3は「文化的生産物」の三つです。この整理に従って考えてみます。
 ある人が備えている属性にはさまざまなものがあると思いますが、すべての属性が文化につながるとは限らないでしょう。たとえば、私は日本という国に生まれ、日本語を用いて思考する、という属性をもっていますが、そこから日本人、あるいは日本語使用者、としての文化を身にまとっていると思います。つまり、日本人として慣習化された行動様式をとって、なんだか分からないけれどやたらと「よろしくお願いします」と言ったり、日本独特のルールや価値観に従って、控えめな面を見せようと、「つまらない物ですが」などと言って手みやげを渡したりします。考えてみると、「つまらない物」なら渡さなければよいのですが……あるいは、おはしや畳といった日本独特の生産物を日常的に用いたりしています。
 一方、同時に、私は足が短く胴が長い、首が短く顔が丸い、といった属性を帯びていますが、それらがなにがしかの文化を形成しているとはあまり思えません。しかし、目が見えず、耳が聞こえない、というのはどうでしょうか。この「盲ろう者である」という属性は、たとえば、触覚的なコミュニケーション手段を用いるという独自の行動様式を伴いますし、盲ろう者を含む何人かが集まったとき、必ずだれがどこにいるかということをお互いに確認し合う、というルールが生まれたりします。また、私の場合なら、「指点字」という盲ろう者のための独特の「生産物」を用いたりしていますので、やはり「文化」だといってよいのだと思います。
 このように考えてきますと、障害はそれをもつ人の属性の一つであり、同時に、類似の属性をもつ集団にある種の「文化」を生み出すような属性である、と考えられるでしょう。これを障害を持つ個人の側から考えれば、障害という属性はその人の個性を形作るさまざまな要素の一つであると同時に、個性に影響を与える「文化」を形成する属性でもある、ということでしょうか。
 さて、では障害と文化の関係をこのようにとらえたとして、この「文化論戦略」は、障害者が直面するさまざまな問題、とりわけ社会による差別的取り扱いという現実に対して、どのような力を持っているのでしょうか。 障害をある種の属性としてとらえ、さらに、その属性の集合としての文化としてとらえるなら、障害はきわめて相対化された存在としてとらえ直されます。なぜなら、障害という属性が示す独自性や異質性は、まさに文化を文化たらしめる必要条件としての独自性や異質性にほかならず、それ自体はきわめて相対的なものであり、少なくとも、必然的に差別を生み出すことにはならないからです。
 しかし、仮に障害という属性それ自体に向けられる差別には抵抗できたとしても、その属性をもった個人への差別がなくなるとはいえないでしょう。なぜなら、どのような属性、あるいはどのような文化に属する個人に対しても、「生産性」というある一つの基準によってなされる価値の序列化、すなわち「能力(差)による個人の価値の序列化」という差別的取り扱いには、無防備だと言わざるをえないからです。それどころか、ここで重要なことは、障害という属性の固有な特徴は、まさに「能力」にさまざまな意味で制約を受けているということですから、障害とは、この「能力(差)による差別」に真っ先にさらされる危険性をはらんだ属性であり、文化だということです。
 したがって、「文化論戦略」は、障害という属性そのものに向けられた差別に対しては、かなり有効な抵抗戦略にはなりえても、あらゆる文化集団を貫いて存在する差別的な価値意識、すなわち社会における「生産性」を中核とする諸能力(差)による個人の差別的処遇という問題には無力であり、同時に無自覚でもある、と言わざるをえないでしょう。それではこうした「能力(差)による差別」への抵抗としての「能力論戦略」はどのようにとらえればよいのでしょうか。

5.「能力」という戦略
 「能力論戦略」について検討するにあたり、まず、障害と能力に関して、私たちの社会でどのような言説が流布しているかについて考えてみましょう。次のような障害者に対する賞賛の表現の妥当性を考えてみてください。
 「彼女は耳が聞こえないのに、高い能力をもっている」。「あなたは目が見えないけれど、とても優れた能力に恵まれていますね」。「彼は車いすに乗っているけれど、障害を感じさせないほどばりばり仕事をする。すごい能力の持ち主だ」……こうしたたぐいの言い方を私たちは多くの場面で聞いたり、時に口にしたりするのではないかと思います。 しかし、では、「あの人は知的障害者なのに、とても高い能力を持っていますね」という言い方はどうでしょうか。私はこうした表現にあまり出会ったことがありません。「知的障害」を持つ人について言われるのは、せいぜい「あの人は知的障害者なのに、豊かな音楽的才能を持っている」といった芸術的側面か、あるいは、「あの人は知恵遅れだけれど、温かい心を持っている」などという情緒や性格に関する賞賛の表現です。これはどういうことなのでしょうか。私はここに、障害者をめぐる差別の構造を理解するうえでの重要な鍵があるような気がします。
 つまりこのことは、さきに挙げた「耳が聞こえないのに」、「目が見えないのに」、「車いすに乗っているのに」に続いて用いられる「能力」の中身が、まさに「知的能力」である、ということを示しているのではないかと思うのです。もしそうだとすれば、知的障害を持っている人は、二重の差別を受けていることになります。すなわち、一つは「障害者」であるという属性に関して、もう一つは、「能力が劣る」とされていることに関しての二重の差別を受ける、ということです。
 もちろん、例えば目が見えないという障害の場合、「見る能力」に障害を受けている、ということ自体が差別の対象になる側面もあります。例えば、目が見えないことを理由に、医師の国家資格などの資格や免許の取得を禁じたり、制限を加えるといった「欠格条項」の存在などがその例です。しかし、ここで注意しなければならないのは、この「欠格条項」に抵抗する過程で、私たちは図らずも、「知的能力」を別格に取り扱ってしまう、ということです。例えば、視覚障害にかかわる「欠格条項」の撤廃をめざしてなされる主張は、一般に次のようなものです。「目が見えなくても、コンピューターなどの機械で普通字文書の処理等におけるハンディを補え、持てる能力を遺憾なく発揮できる」、「最低限必要な補助者が配置されれば、十分に本来の能力を出すことができる」
 今挙げた例で用いられる「持てる能力」、「本来の能力」ということばで示されているものは、情報処理力や記憶力等に代表される「知的能力」なのではないでしょうか。このように、障害者をとりまく差別と戦う過程で、私たちは知的障害者とそうでない障害者を暗黙のうちに峻別し、また同じ障害を持つ者のなかでも、能力(差)による序列化をそのまま受け入れてしまっている、という構造が存在するのではないでしょうか。
 「文化論戦略」は、障害を「文化」ととらえることで、その属性ゆえに向けられる不当な差別には抵抗できますが、知的障害者など、現代社会における「生産性」にハンディのある障害者は、この戦略では差別と戦えないことになると思います。
 そこで私が「能力論戦略」とここで呼ぶような「能力(差)による差別」と戦うための理論枠組みの構築が望まれることになります。例えば、立岩真也さんはそうした議論を提出している論者の一人です。
 立岩さんはある個人Aさんが作ったもの、Aさんが制御できるものがAさんのもとにおかれなければならないという根拠はない、と述べます。逆に、Aさんが作ったものではなく、Aさんが制御できないもので、しかもAさんの生のありようや存在自体を構成しているようなもの(例えば、身体のようなもの)だけが本当にAさんのもとにおかれるべきものだと言います。
 これは能力という観点でとらえれば、能力主義的分配政策への一定の抵抗の可能性を示しています。つまり、Aさんが自らの能力を用いて作ったもの、例えば肉体の力を用いて作ったキャベツなどの生産物はAさんのものだという根拠は何もないのだと考えます。したがって、それは必ずしもAさんのもとにおかれなければならないものではなく、分配や交換、譲渡の対象となってかまわないものだと考えます。これは知的能力についても同様に考えて、知的能力を用いて生み出される生産物や行為やサービスなどの諸々の「財」がその生産者自身に与えられなければならないとは限らない、と考えるわけです。
 立岩さんは能力主義的な財の社会的分配の仕組みは、あくまでもそれを用いないと能力を発揮するものがやる気をなくして、必要な財の生産がおぼつかなくならないようにするためにだけ、まさにその目的のためにだけ存在すべきであり、それ以上でも以下でもないと言います。そして、能力主義的な「財」の分配を抑制した「冷たい市場」を構想することが可能だと考えます。
 一方、竹内章郎さんは能力を平等な人間存在と切り離して考えることを主張します。つまり、さまざまに異なる能力を持っている人々の存在をとらえる際に、それらは平等な人間存在が、「能力(差)」を、持っているにすぎない、と考えるわけです。 また、ある個人Aさんが「能力(差)」を持つと考える場合、その「能力(差)」をAさんの内部で完結したものとしてとらえること自体に反対します。つまり、「能力」とはそもそも個人内部に完結して存在するのではなく、他者や社会との共同性の中で生じ、機能する協同的な存在だと考えるわけです。この二人の論者の主張は、いずれも、個人という主体から「能力」やそれによって生み出された「財」を分離して考え、能力(差)がその個人の存在自体を規定することにブレーキをかける主張だと考えられます。
 それではこうした「能力論戦略」は障害者をとりまく差別との戦いにおいて、どれほど有効でしょうか。立岩さんや竹内さんの主張は、「障害」と「能力」との関係を突き詰めて考えるうえで、たいへん示唆に富む重要な論点を含んでいると思います。この二人の主張は、「能力」それ自体を正面から検討していますので、知的障害者についても、あるいは、むしろ知的障害者をこそ視野の中心に据えた議論だと考えられます。したがって、障害者差別と能力主義との関係を考えるうえで、これらの議論はたいへん参考になると思います。ただし、それでは現実にどうすればよいのか、という実践的な展望や社会へのインパクの観点からすると、「文化論戦略」がもつようなパワーには欠けていると言わざるをえません。
 「能力論戦略」のもう一つの弱点は、「能力」の規定を一元的にせざるをえないという問題で、議論の性質上、「能力」をいわば量的に把握してしまっているということです。つまり、ある個人の能力を、その人から分離して考えるにせよ、他者との共同性の中で把握するにせよ、その能力自体は、それを用いて社会生活に有用な「財」を生み出すという意味での「能力」としてしか把握できず、論ずることができないということです。これは「能力」に内在する「多様性」を取り扱うことが困難であることを意味しているでしょう このように見てきますと、「文化論戦略」には属性(差)による差別に抵抗し、社会に強くアピールするという長所の反面、「能力(差)」による差別に対抗できないという弱点があり、一方「能力論戦略」には、障害をめぐる差別の根元的な部分を真正面からとらえる、という点で長所はあるものの、「能力(差)」が内包する「多様性」については取り扱いが困難であり、社会へのインパクトにも欠ける、という弱点があるといえるでしょう。
 したがって、「文化論戦略」と「能力論戦略」のどちらか一方だけでは不十分であり、それら二つの戦略を統合し、新たな戦略を練り上げるという課題が私たちに突きつけられているのではないかと考えます。

6.「能力(差)文化論」という戦略と「創造的コミュニケーション」という戦術
 これまでみたように、「文化論戦略」に能力主義的差別としての個人の属性における価値の序列化の働きが浸透すれば、能力(差)による差別に「文化論戦略」は抵抗できません。一方、「能力論戦略」自体は、能力(差)による差別の廃棄という課題に、この戦略単独で立ち向かい、それを克服するパワーに欠けるといえます。
 すなわち、「文化論戦略」には明らかに限界があり、それは能力(差)による差別に論理的に抵抗できないということです。しかし、「能力論戦略」の側にも能力(差)による差別を十分に乗り越えるモメントは必ずしも含まれていないといえるでしょう。これはなぜなのでしょうか。これらの限界が生じる理由について、もう少し考えてみます。
 まず、能力主義は、「能力(差)」を最終的には「生産性」という一元的な尺度のもとに数直線上に序列化しようとする価値意識の体系であるため、それに連動して、「能力論戦略」における「能力(差)」も、一元的な性格のものにならざるをえません。
 それに対して「文化論戦略」は異なる行動様式に独自性、固有性を見いだし、それぞれに交換不可能な価値を見いだそうとする「質」の次元での価値体系だといえます。つまり、「文化論戦略」において重視されるのは「質」であるから、一見優劣は生じません。しかしその文化内部に「量」の尺度が浸透してくるわけです。仮に、他文化との間に異質性に伴う差別がないとしても、同一の文化のなかで、「生産性」という能力(差)による「量」的な差別は生じえますし、それに引きずられて、ひいては他文化間の格差による差別も起こり得ます。
 もし、「文化論戦略」に挑戦し、それを脅かすこうした能力主義的差別構造が存在するとすれば、能力主義に対して、「文化論戦略」の側から逆襲すべきではないでしょうか。たとえば、「文化論戦略」の視点に立脚し、「能力(差)も文化の一種である」、という立論を提示してはどうかと思うのです。これはもう一度「文化論戦略」に立ち返り、その視点で「能力論戦略」を練り直し、いわば「能力(差)文化論戦略」ともいうべき第3の新たな戦略を構想する試みだといえます。
 つまり、「能力(差)」には、「量的側面の差異性」と「質的側面の差異性」という二つの「再生」が含まれると考え、それぞれに文化論的な固有の価値の根拠を見いだすという発想です。これは「能力(差)」の存在を否定することではありません。主体における「能力(差)」の存在を認めつつ、その「量」によって個人に価値づけを行おうとする「能力主義的差別構造」から、価値の序列というファクターを剥奪するということです。そして、能力が内包する再生を認めつつ、同時に、それらの再生に固有の価値を認める新たな文化論的視点を導入するということでもあります。
 すなわち、第1に、「能力」の優劣、あるいは生産性の肯定を「量的差異性」として認めつつ、そこに「文化論的視点」を導入することで、個人の価値の序列化を持ち込まない、ということであり、第2に、「能力(差)」が秘める「質的な側面の差異性」、すなわち能力それ自体が抱えるさまざまな質的な相異をも「文化論的視点」でとらえなおし、そこに「異質性に価値を付着させない」という「文化論戦略」の方法論を適用する。この二つの側面、つまり「量」、「質」両方の「差異性」に関して、「能力(差)」に価値の序列を持ち込まないという論理を構築しようとする試みだといえるでしょう。 ところで、「能力論戦略」に「文化論戦略」を導入し、そこに第3の新たな戦略、「能力(差)文化論戦略」を生み出すとして、この第3の戦略はどのような性格をもつでしょうか。
 私はこの第3の「能力(差)文化論戦略」は、さきに述べた「障害学のストラテジーチャート」における各カテゴリー間、戦略間のバイパス機能を果たすものとして想定します。 すなわち、第1に、ストラテジーチャートの第1カテゴリー内部において、「文化論戦略」と「能力論戦略」をバイパスする働きをし、第2に、ストラテジーチャートの第2カテゴリーにおいて、それぞれ第1カテゴリーに対応する二つの戦略に対しても、同様の働きをすると考えます。そして、第3に、第1カテゴリー、第2カテゴリー内部でそれぞれバイパスされた、二つの戦略同士をさらにバイパスするという、いわば、「メタバイパス機能」をもつものだと考えるのです。
 そして、このバイパス機能をもつ第3の戦略である「能力(差)文化論戦略」を機能させるためには、サブストラテジー、つまり、「下位戦略」としての戦術が必要ではないかと思います。そこで私はその「下位戦略」として、「創造的コミュニケーション」という戦術を構想します。 (※末尾の「障害学のストラテジーチャート2 を参照)
 ここでいう「創造的コミュニケーション」とは、単なる意見・情報の交換に限りません。それは、相互コミュニケーションを通して、二人ないしそれ以上の複数の人々が共同で新しい意見・情報・価値観を生み出し、育てていくプロセスを含んだ営みとして想定しています。なお、ここで申し上げた「能力(差)文化論戦略」と「創造的コミュニケーション戦術」を加えて、さきに示した「障害学のストラテジーチャート」はより立体的なものとして修正する必要が出てきます。
 ところで、コミュニケーションとは何でしょうか。そして、情報とは? コミュニケーションや情報は不思議な性質を持ったものです。例えば、コミュニケーションや情報は、通常分配によって減少しません。それどころか、分配によって、あるいは共有によって、むしろ全体の総和量が増える場合もあります。また、情報やコミュニケーションは、必ずしも既存の市場原理に従っては動きません。資源の総和量が決まっており、その中で需要と供給のバランスがさまざまに変化する通常の市場原理とは異なり、情報やコミュニケーションには資源の量的限界が設定できず、需要と供給の関係も力動的で、また、生産者と消費者の役割も相対的です。
 このような性質は一方で、たとえば、「IT国家」の推奨の名の下に、国家的な情報統制やコミュニケーション監理につながるといった危険性をはらみつつ、他方で、市民レベルでの情報の発信、議論の展開、そして、新しい価値観の熟成といった営みに大きな力となる可能性を秘めています。
 さて、能力(差)に差別を持ち込まず、むしろ能力(差)を文化の視点でとらえ直そうという立場の考えも、もちろん、突然出現することはないでしょう。それは障害者を含め、さまざまな能力(差)という「異質性」をまとった人々が活発なコミュニケーションを交わすことにより、その「異質性」がゆえに発生するパワーによって徐々に形成されてゆくものではないかと思います。
 私は例えば、情報は水、コミュニケーションは水の流れのようなものとしてとらえてみてはどうかと思います。もしそうとらえるなら、小さな流れから出発しても、さまざまな流れと合流することで、やがて大きな川となり、最終的には地球全体に広がる海へとつながっていく、というイメージが浮かびます。これは、現代の高度情報化社会における情報とコミュニケーションをめぐるイメージとオーバーラップするように思えるのです。
 そして、もしコミュニケーションを水の流れだとすれば、その担い手が「異質性」を持ことで、水の流れに「高さ」の違いや「速さ」の変化といった要素がわり、それは、ちょうど滝が水力発電のタービンを回し、急流が巨岩を押し流す、といった大きな力を生み出すように、私たちの関係性をも活性化し、生きる力、差別と戦うエネルギーを与えてくれるものなのではないでしょうか。
 盲ろう者となり、他者とのコミュニケーションが断絶された経験を持つ私は、コミュニケーションという営みが秘めた無限の可能性とパワーを、体験を通して実感しました。おそらく創造的コミュニケーションを求める欲求は、障害の有無を超え、すべての人々にとっても当てはまる人間に備わった本姓であり、未来を切り開く新たな原動力となるのではないかと私は考えています。

7.展望 
 以上の考察を通して、障害学が今後取り組むべき課題と展望について、私の考えを簡単にお話しします。まず、今回私が提案しました「障害学のストラテジーチャート」を通して私が主張したかったことは、次の二つに集約されます。
 第一は、障害学の研究や実践において、今後重視しなければいけないことは、これまでのように、障害者問題に関して、「文化」という視点と、「能力」という視点にそれぞれ別個に注目するだけではなく、この両方を同時に視野に入れたアプローチが望まれ、従ってその際、能力(差)をも文化として把握する、という新たな戦略の検討が必要ではないかということです。
 第二は、その「文化」と「能力」を統合した視点で、障害学の研究・実践を展開するうえで、「創造的コミュニケーション」という取り組みが、一つの現実的な戦術として考えられるのではないかということです。
 最後に、障害者をとりまく差別の現実と戦うための実践的な観点から、今後の運動の方向性を考えてみますと、それは法制度的なアプローチと市民レベルでの個人的アプローチの両方を、同時に進めていく、という方向ではないかと思います。つまり、「障害差別禁止法」などの強制力をもった明確な「権利法」の制定をめざす政治的な働きかけを活発化しつつ、それと同時に、個人レベルでの差別への抵抗の実践が重要だろうということです。なお、この二つの次元での運動においても、いずれも貴重な戦術となるのが、すでに述べた「創造的コミュニケーション」の展開ではないかと私は考えています。

以上(以下は、図のみ)

 ◎障害学のストラテジーチャート(1)

    障害者差別との闘い   差別一般との闘い

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[ 文化論戦略 ][ 能力論戦略 ]  [ 文化論戦略 ][ 能力論戦略 ]
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 ◎障害学のストラテジーチャート(2)

    障害者差別との闘い   差別一般との闘い

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[ 文化論戦略 ][ 能力論戦略 ]  [ 文化論戦略 ][ 能力論戦略 ]
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  ↓       ↓          ↓       ↓
  [ 能力(差)文化論戦略 ]     [ 能力(差)文化論戦略 ]
  ↓ ↓   ↓       ↓  
   ↓ [ 能力(差)文化論戦略 ]      ↓
   ↓ ↓   ↓
[ 創 造 的 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 戦 略 ]

……以上……


REV: 20160125
福島智  ◇障害学  ◇リバティセミナー「障害学の現在」  ◇立岩真也  ◇竹内章郎  ◇全文掲載  ◇全文掲載(著者名50音順)

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