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「杉野昭博『障害の文化 〜盲人文化を中心として』」

松波めぐみ 2001/06/09

last update: 20160125


■杉野昭博「障害の文化 〜盲人文化を中心として」(文責・松波めぐみ)

 リバティセミナー「障害学の現在」 第2回 (20010609)
 『障害の文化 〜盲人文化を中心として』 杉野昭博(関西大学)
 文責・松波めぐみ

 私は二十年ぐらい盲人の職業について、文化人類学と社会福祉学の観点から研究して
きた。盲人の職業組織、職業文化には長い伝統がある。「障害学」という切り口から何
が見えるのか。今日は私にとって障害学とは何かという、個人的な見方をお話したい。

1.「障害学」とは何か?

1-1 「失われた25年?」〜「バリアフリー」「ノーマライゼーション」の内実
 今、日本で障害学に興味を持っている研究者に共通する問題意識として、80年代以降
「バリアフリー」「ノーマライゼーション」といった言葉の普及や、「福祉が向上した
」と言われることに対する疑問が挙げられるだろう。「以前よりは改善されたが、まだ
不十分」ということなのか、それとも、何かが抜け落ちているのか。70年代に主張され
たことが解決されているのか、忘れ去られているのではないか。そういった問題意識を
持っている人は、確かにいた。例えば、
 →花田1991「ADA法やぶにらみ」:ADAは能力主義ではないのか。
  堀1994「障害児教育のパラダイム転換」:ノーマライゼーションの同化的側面は進
んでいるが、異化的側面は進んでいない。

1-2 1970年代の再検討〜「青い芝」の思想
 次の(1)(2)は、私が横塚晃一氏の著書「母よ殺すな」で大事だと思う点。
(1)合理化・画一化を進める健常者社会の体制下では「障害者」は「不合理な存在」
「あってはならない存在」として徹底して疎外・排除される。
  (80年代以降、「統合」は進んだ部分と排除された部分がある。それが何か、まだ
私たちにもわかっていない。)
(2)そうした「障害者」が「社会参加」するためには、健全者に少しでも近づきたい
という「健全者幻想」を捨てて、障害者独自の「固有の価値」を主張しなければならな
い。
 (この「健全者幻想」について、健全者の一人として、私は気になる。横塚氏は障
害者に対して「健全者幻想を捨てよ」と言った。では健常者に対する「健全者幻想を捨
てよ」は? これは研究されてこなかった。)

1-3 「障害学(Disability Studies)」と「青い芝」の相同性
 90年代に入って、障害学は英米で徐々に行われるようになってきた。マイケル・オリ
バーは脊椎損傷の車椅子使用者、最初に「障害学」で教授になった人。私は1989〜92年
、ロンドン大学で盲人福祉の歴史について研究していたが、オリバーの本は、障害のこ
とを勉強するなら必読文献だと言われていた。イギリスの障害学の本を読んでみると、
日本の70年代の思想とよく似ていると感じた。cf.立岩真也1998「一九七〇年」

(1)M・オリバーの「障害の社会モデル」
 資本主義労働市場における「労働者」と「労働不能者」との峻別の可能性
 →社会的カテゴリーとしての「障害者」の発生
(2)J・モリスの「障害のアイデンティティ」
 健常者のもつ偏見的障害観から自由に、障害者自身が自らの障害を見つめて語る。そ
れこそが、「尊厳死」願望や、「選択的妊娠中絶」に対する最も有効な防止に。
(つまり、「健全=幸せ、障害=不幸」という偏見と闘うことだ。これは「障害をもっ
たら死んだほうがマシ」といった考えを和らげるのに有効。日本で横塚晃一氏や牧口一
二氏らが言っていたことと一緒ではないか。)
※日本で積み残されていた「70年代的課題」が90年代に英米で「障害学(Disability 
Studies)」という名の下に探求されはじめた。日本では、「70年代的課題」=「青い
芝」の思想が提起した問題にこだわり続けているために、80年以降におけるノーマライ
ゼーションやバリア・フリーなどの「障害者福祉の向上」に素直には納得できない人々
がいた。そうした人々が「障害学」という旗印をきっかけに集まった。

2.「障害文化」論

 私は1997年の論文(文化人類学)で初めて、「障害の文化」という言葉を使った。
2-1.「障害の文化」の3つの位相
(1)支配文化:「健常者幻想」 〜健常者の価値観が障害者に内面化されたもの
→同化戦略
  例:盲学校勤務の時の自分の経験。新任の女性教師が来た時に「その先生、美人?
」と聞く先天盲の子ども。社会化の中で「美人」が意味を持つことを学習している。
(2)対抗文化:「青い芝」の主張→異化戦略、価値転倒
  健常者のマネをしようとすると、どんどんしんどくなる。やめよう。
(3)固有文化:「支配文化」とは別個に成立した障害者に固有の文化
  (健常者からの影響がないわけではないが、少ない。コミュニティから誕生)
   手話・車椅子スポーツ・点字・盲人スポーツ・盲人組織の長い歴史、・・
 (この三つでは、対抗文化と固有文化に希望がありそう。しかし限界がある。)

2-2.「対抗文化」の限界
(1)「支配文化」との機能連関から周縁価値による中心価値の活性化
つまり「逆らう」ことによって、逆に支配文化の機能を強めてしまう。子どもは親に逆
らうが、それによって親は変わらない。取りこまれてしまったりする。
(2)「下位文化」として支配文化に吸収される。
(3)支配文化の逆照射 〜「幻想」としてのオリエンタリズム
健常者の「障害者は私たちと違うから、何かいいものを持っているのでは?」とい
う思い入れやあこがれが投影される。典型:「知的障害児は心がきれい」。こうしたも
のへの反抗の例として、金満里1998「瞬間のかたち」(参考テキスト)

2-3.「固有文化」の限界 
  障害者の「必然」や「実用性」から生み出されたから、対抗文化よりも基礎がしっ
かりしている(エスニック・マイノリティのように)。しかし。
(1)マジョリティ文化によって吸収淘汰
(2)「保護区」においてしか存続できない→「文化的隔離」主義
  例:「太陽の家」(九州・別府)

2-4.健常者と障害者との「文化葛藤/文化闘争」
 (これは、健常者の職場で働く盲人の話を聞いて着想した。「職場ではみんな親切だ
、しかしモノの置き場がくるくる変わるので不便。しかし他の人に言えない。悪気があ
るわけじゃないから。」と。また、よく「障害者にとって暮らしやすい町は健常者にと
っても暮らしやすい」などと言われるが、本当だろうかと思っていた。)
  階段 vs スロープ、雑然とした街路 vs 盲人歩行
  雑然とした職場 vs 整頓された机(盲学校の職員室。晴眼教師と盲人教師)、
  ビジュアル化 vs デジタル化

 ・晴眼者の慣習行動(=プラティーク)と盲人の慣習行動との対立
 ・健常者の無意識な慣習行動=プラティーク(何気なくやっていること)が、障害者
を差異化・差別化することがある。(これは「差別」という枠組みでは見えにくい。)
階段は障害者差別のために作られたものではないが。歩道橋に階段とスロープがあれば
、健常者は階段を使うことが多いだろう。そのほうが便利だからだ。健常者のプラティ
ークが障害者をやりにくくする典型が、コンピュータ。ビジュアル化し、画像が増えて
いくにつれ、盲人が音声で読みだせることが減っていく。
 ・「バリア・フリー」や「ユニバーサル・デザイン」等のインターフェイス戦略は、
健常者と障害者との間の文化葛藤を技術的に制御しようとするものだが、これらの文化
葛藤が常に変化し更新されるものだという力動的側面が忘却されがちである。

3.「健全者幻想」と「文化闘争」 〜ブルデュー「文化階級」理論の援用

3-1.「健全者文明」のハビトゥスとプラティーク
「健全者」としての人生モデル(ハビトゥス)
   進学校→一流大学→一流職種・エリート職種→美人の妻と聡明な子ども
   (女性なら、エリートの夫を持つ専業主婦かキャリアウーマン)
「健全者」(もてる男・女)としてのプラティーク
   努力、明朗、社交、エンターテイン、多趣味、流行、英会話・・・
   (女性なら、ダイエット?)
  プラティークとは、ハビトゥスによって生み出される慣習的な行動。
   知らず知らずのうちに、どれかのハビトゥスを身につけている。
  「私は明るくもないし社交的じゃない」と思う健常者は、どうする?

3-2. 「文化的正統性」をめぐる「文化闘争」
・同化的戦略(卓越化・プチブル・上昇志向・成り上がり)
   統合教育・大学進学・伝統的盲人運動・パラリンピック・「ろう文化宣言」?
  (統合教育において、勉強ができる障害者は普通校から大学へ。中流の人が上流を
目指して努力する=優雅なクラシック音楽を聞く のと似ている。
 伝統的盲人運動とは、例えば点字による投票を認めさせる運動。これは点字を一般の
字と同じように認めてほしいという意味で「同化的戦略」。
 ろう文化運動も、「異化」的と捉えられているが、ブルデュー的には同化的。)

・異化的戦略(庶民階級・異議申し立て・価値転倒)
   対抗文化・青い芝・自立生活運動
(どっちみち同じことはできない。違うことをしよう。「あちらはクラシックを
聞いているが、うちはロックを聴こう。例:生活保護で暮らすのをいとわない自立生活
運動)

 いずれの戦略も「支配文化」の乗り越え/転倒という面では失敗に終わる。
   「同化」→「健全者(上流階級)」は、「さらなる卓越化戦略」により「障害者
(プチブル)」を差異化し続ける。
   オリンピック→パラリンピック→エックスゲーム/筋肉番付→・・・
「異化」→申し立て側に挙証責任→永遠に続く「自己主張」

(健常者の間で流行るものは、よりエンターテイメントに近づいている。パラリン
ピックが注目を浴びるのは、オリンピックの地位が相対的に低下したからではないか。
そしてオリンピックのようなものは実は障害者にとって真似がしやすいが、「筋肉番付
」のようなエンターテイメントは、障害者が勝負しにくいものである。
 「異化」戦略では、常に異議を申し立てていかないといけない。「ブラック・イズ・
ビューティフル」。しかしそもそも、クラシックがロックより優れているということに
根拠はない。恣意的な正当性。蜃気楼のようなものに過ぎない。)

 そもそも「根拠のない恣意的な正統性」に対して同化もできないし異議申し立てもで
きない。→「生まれながらの上品さ」を「成金」が乗り越えたり「非行少年」が転倒さ
せたりできない。→「生まれながらの健全さ」を「障害者」が乗り越えたり転倒させた
りできない。
 しかし、ブルデュー「文化階級」理論の視角から見たとき、「健常者」も「障害者」
も同じ位相に断つことになる。なぜなら「生まれながらの健全者」など「上流貴族」と
同様に圧倒的少数であり、大半の「健常者」も「障害者」と同様の「不全感」をもち卓
越化ゲームに没頭するか、そのゲームのルールの不公正さに対して異議申し立てをする
かのいずれかであるからである。→障害者と健常者との奇妙な「共闘関係」?
 (どちらも、理想からはずれている、というコンプレックスを共有しているのではな
いか。そのあたりに今、私は興味がある。日本で最初にこのことに気づいたのが、「ア
イデンティティ・ゲーム」を書いた石川准さんだろう。「脅迫的な能力証明」、そこか
らどうやって抜け出せるか。)

3-3. 70年代から何が変わったのか? 〜ひとつの見取り図

(1)「健全者」理念の縮小 →健常者と障害者における「疎外感」の共有 →安易な
「同じ」論
いちばん変わったのは健常者なのではないか?と思う。70年代は、「健常者」の
枠が大きかった。「なれないもの(健常者)に幻想をもっても仕方ない、差異化してこ
そ解放される」(横塚)という思想が説得力をもった。
 しかし現代では、中心的な健常者の価値(健常者の中の健常者、人生モデル)に同化
していこうとして、健常者もガンバル。健常者は、実際に無理でも、がんばったらもて
る、美人になれると思ってしまい、幻想に向かって努力する。障害者にとって、「健常
者」の枠は昔ほど強固ではない。ダイエットにはげむ健常者と、「敷居が低くなった健
常者」をめざす障害者は似ている。「完璧ではない」を共有していることからの、安易
な共感。
(2)「障害者」以上に疎外感をもつ「準健常者」の増加 →障害児者へのいじめ・暴

たとえば、 滋賀県での事件(普通高校に進学した中途障害の生徒が、元同級生によ
びだされ、リンチにあって死亡した事件)。完璧になれない「準健常者」の「ねたむ心
」によるいじめ。
(3)共有される「疎外感」と共有されない「生/生活」〜「心」の共感と「暮らし」
の排除
 障害者が悩みを語ると、「あ、私にも、あるある」という健常者が多い。わかった気
になる危険。しかし、生活と「生」は共有されないままである。

・現代の健常者による障害者差別意識は、かつての軽度障害者(プチブル)による銃土
砂(庶民階級)差別に類似しているのでは? 〜自らの「疎外感」の投影
・「障害者の出世」を許せない庶民意識 〜「庶民階級」における「順応」の強制

4.「生成し自己修正する構造」としてのハビトゥス〜差異化ゲームの彼方

(1)ブルデュー「文化階級」論は、「宿命論」でも「主体論」でもない。
 ・プラティーク(慣習行動)はハビトゥス(構造)を書き換える。
 ・しかし、そのプラティーク(実践)は「主体的/意識的実践」ではなく「無意識な
もの」
(2)肩肘をはらない自然な出会いやコミュニケーションを通じて「共存/共生のプラ
ティーク」を生成していくことが「健全者文明」というハビトゥスを更新していく。
(慣習行動は慣習から生まれるが、その慣習を変えていくダイナミズムを持つ。)

(3)ただし、「共存/共生のプラティーク」は健常者・障害者にとって、けっして、
互いに「楽」でも「自然」でもない。むしろ「窮屈」なもの。
(4)両者のプラティーク間のコンフリクトを乗り越えて生成されるのが「共存/共生
のプラティーク」であり、ホントの「共生社会」であり、それはテクノロジーによって
(つまり健常者のプラティークを一切制限しないで)棚ボタ的にもたらされるものでは
ない。

(5)この意味では、「障害者との共生」は「変革」を前提としている。しかしその変
革は70年代的な「体制(マクロ)変革」ではなく、個々の障害者と健常者との「局所
的(ミクロ)闘争=共生」によって行われる。
かんたんに言うと、障害者と健常者の矛盾のない行動のためにはコンフリクトが避け
られない。
(6)こうした「局所的闘争=共生」の経験による局所的ハビトゥスの更新を、いかに
して普遍的・階級的ハビトゥスの更新へとつなげていくか? 
  例:「障害児者をもつ家族」の経験をいかに社会全体へ広げていくか?
  それぞれの家族の中のコンフリクトの蓄積は、新しいハビトゥスを作ってきている
のではないか。それを研究者はあまり見てこなかった(要田洋江の研究等を除き)。そ
ういうものをまず記録していくことが、さしあたり大事ではないか。


参考テキスト(当日は抜粋部分とともに配布):
◎レジメの1.に対応
花田春兆1991「ADA法やぶにらみ」(八代・富安編『ADAの衝撃』 学苑社)
堀正嗣1994『障害児教育のパラダイム転換』 柘植書房→明石書店
横塚晃一1981『母よ,殺すな』 すずさわ書店
杉野昭博2000「リハビリテーション再考」『社会政策研究』vol.1 東信堂
杉野昭博?(近刊予定)「イギリスの障害学」 石川・倉本・長瀬編『障害学の主張』
明石書店
立岩真也1998「一九七〇年」 『現代思想』vol.26-2 (※『弱くある自由へ』にも)
倉本智明1999「異形のパラドックス」 石川・長瀬編『障害学への招待』 明石書店
◎レジメの2.に対応
杉野昭博1997「『障害の文化』と『共生』の課題」 青木保ほか編『岩波講座文化人類
学第8巻 異文化との共存』 岩波書店
金満里1998「瞬間のかたち」 『現代思想』vol.26-2
石川准1999「あとがき」 石川・長瀬編『障害学への招待』 明石書店
◎レジメの3.に対応
石井洋二郎1993『差異と欲望 −ブルデュー「ディスタンクシオン」を読む』 藤原書

石川准2000「平等派でも差異派でもなく」 倉本・長瀬編『障害学を語る』 エンパワ
メント研究所
長瀬修1999「障害学に向けて」 石川・長瀬編『障害学への招待』 明石書店
◎レジメの4.に対応
石井洋二郎 前掲
石川准1999 前掲
倉本智明2000「あとがき」 倉本・長瀬編『障害学を語る』 エンパワメント研究所


……以上……


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