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米国の公民権運動とCIL運動

21世紀に望む.人権:教育:医療:福祉を繋げる
2001・2・28〜3・10ロサンゼルス・サンフラシスコ視察旅行記

中山善人



はじめに

  1956年日本において障害者団体として生まれた日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会はこれまで日本の障害者運動のリーダー的な存在を果してきました。私は、1998年まで日本の障害者運動を行なってきた全国青い芝の会に所属し、会長として活動を行なってきました。全国青い芝の会は、この間すべての障害者の生存権を確立を行なうことを目的にしてきました。日本では、1996年までドイツの国民優性法に基ずいた敗戦後日本の法律として優性保護法があり、その法の中に『不良な子孫の出生防止』は、すべての障害者を抹殺してきました。私たちは、この法律があるために撤廃を求めてきました。1995年の中国で開催された世界人口会議で、日本の仲間が問題提起をおこない、世界各国から日本政府は批判され、一部改正をおこないました。また、障害者が地域で生活していく活動をおこない、健常者の障害者に対する差別的価値観を変えていくことも目指してきました。さらには、教育において障害者と健常者とを振り分けていく79年養護学校義務化に反対し、すべての障害児を地域の学校へ(共生共育の思想)を広げてきました。医療においても、1997年日本政府は脳死臓器移植を強硬に施行し、人権のある医療を求めて活動をおこなってきています。1998年から久留米市において、障害者の就労のワンステップとして、共同作業所を開設し、1999年障害者の生活支援センターの中で、ピアカウンセリングの活動を中心に運営委員会の事務局委員を務めてきています。2000年公的介護サービスを作っていくために、ホームヘルプ、デイケア事業研究会を設立し事務局長として活動をおこなっています。今回、米国を訪れ障害者の自立運動が、どう展開されているか、アメリカ障害者法が、どのように作られ、生かされているのか、体を通して何かを掴み、日本へもっていきたいと考えています。 ホームヘルパー、学生ボランティア、久留米大学研究助手、計7名で研修旅行を企画しました。

ロサンゼルスへ

  2001,2/28,11:40自宅出発杉山、渋田、杉本、中山、タクシーで西鉄久留米に向かう。12:10、西鉄久留米駅集合、通訳をしてくれる開さんと初めて会えた。介護でいく深掘さん、ちょっと遅れて来ました。でも、12:30の福岡空港行のバスには間に合う事が出きました。バスに乗るの、私が先に乗り込み奥の方にしかなく、いつも頭にくるが、なぜ、先に乗った人が奥へ詰めないのか、杉本、開さんは前の方に座れるよう私は杉山さんに頼みました。空港には、城戸さんと落ち合い13:20,カウンターに直行し、搭乗手続きを行ないました。福岡から関西空港へ行く時には、あまりアメリカへ行く事を感じられなかった。福岡空港・関西空港でも障害者は最初に乗り最後に降りるという事は、いつものように不自然に感じられます。
  15:45,関空に到着、関空からロサンゼルス行きの飛行機の時間がなく、税関や円からドルへの両替えをするだけで終わってしまいました。いつも、空港の職員の過剰なサービスに対して頭にきます。
  飛行機の中で、4年前にイタリアへ行った時、味わった狭い空間で10時間耐える事がしんどく感じられました。この前はマットを忘れていたけれど、今回は、マットを轢ていたが、昨日のお尻のキズがやはり痛くて隣の人に腕が当たりそうでしんどく感じられました。杉山さんに何度も夜中に体の姿勢を変えてくれと言いました。杉山さんは眠そうな顔をして、姿勢を変えてくれました。朝、9時前に目が覚めました。意外と朝飯がうまく食べられました。ロサンゼルス空港に予定どおり28日の午前10時着きました。
  日本の人が多く、日本の空港みたいな感じがしました。けれど、アメリカの空港職員と顔を合わせて、やはりロサンゼルスに着いたんだなあと感じました。ホテルに向かうためにシャトルバスを待つのに空港の外へ出ました。あいにくの雨でもう少し暖かいと思っていました、寒くてたまりませんでした。シャトルバスの運転手が車イス三台乗せるのに手伝ってくれました。体の大きい人が抱えてくれました。ロスの宿泊の先であるカワナホテルに到着し、少し休み明日からの予定を確認をしました。
1日、14:〜インディペンデントセンター
2日、ユニバーサルスタジオ、16時:〜ロサンゼルスCIL
3日、ティズニーランド
4日19時サンフランシスコに移動
5日、13:30〜日系高齢者のディサービスセンター(きもち会)
6日14時〜バークレCIL
  確認後、皆さん昼御飯を食べていなかったので外で食べる事なりましたが、渋田さん、深掘さんが部屋へ戻って来なかったからなかなか食べにいけませんでした。ちょっと声をかけてくれたら助かると思いました。近くバーガーキングに入る事になりました。
  店は広くて、テーブルの中心に小さく車イスのマークがついていました。他のテーブルと違いは固定したイスがついていないか、ついているかだけであり、お店にはクレジットカードのシールと並べて車イスマークがつけてあり、トイレも同じように普通のトイレに手すり、広いスペースがとってあるだけであります。日本みたいに特別な物ではなく、お金もかかっていません。これこそ平等の精神だと感じられました。
  夕方、リトル東京に行き1日目から日本の製品に出会うとは思っていませんでした。

知的障害者支援インディベントセンター

  3/1 朝8時に起きようと思っていました。9時30分出かける準備をしてインディベントセンターへ行こうとしましたが、結局、朝、昼飯を食べずにホテルを12時前に出ましたインディベントセンターに行く事にしました。その途中車イスの人がファーストフーズで食事をしていたりそこから帰ったりするのを見かけました。また、道でも何人かの車イスの人達に出会いました。バスに車イスが2台しか乗ることができないということで分かれて乗ることにしました。私は、リフトバスに乗るのは始めてです。リフトはスムーズに動き、車イスを固定するのも簡単です。日本では、車イスをロープで括りつけ、さらに固定しなけれなりません。シートベルトもありましたが、乗務員は何も言わずに走り出しました。それだけに障害者が使っていると思われます。大ざっぱで良いと感じられました。
  日本においては少数の者が使うために決まりが決まりとして守られる思想が貫かれています。乗車時間が長かったので眠ってしまいました。途中からお客さんが増えてぃたのでびっくりしました。日本では、郊外にいけばいくほどお客は少なくなっていく。ベイトベンというバス停で降りるとインディペントセンターは住宅街にあり、センター所長であるジュディーさんが出迎えてくれました。
  ジュディーさんはやさしい人柄と見えました。このセンターでは、18才未満の知的障害児・学習障害児を地域で生活を行なっていくために、個人の状況にそった生活・就労プログラムを立てているということです。また、知的障害者に対してディサービスと作業所機能をいっしょにしたものと感じられました。同調できるところは、若い親を育ていくことであると言うわれ差別的な感性が固まっていないことによって自然な発想で共存する社会が出来ていく事だと強調されていました。
  センターの帰りにおなかが空いたから皆でセブンイレブンに寄ってカフェオレを一気に飲んしまっためにサンタモニカで急にお腹が痛くなり、トイレに駆け込んだけれど、間に合わずにみんなと分かれホテルに戻ることになりました。
  バスが故障してほかのお客は降りてしまいました。リフトが動かないために車イスのまま抱えられて降りました。バス停に戻り、バスは二台来たけれども、乗ることができずに三台目に乗る事ができました。ホテルの近くで迷い、約3時間かかってホテルに帰って来ました。1時間後皆さんも帰って来ました。

ウエストサイドCIL・ソーシャルワーカが果たす物

  3/2 今日もまたまた時間がずれてしまい、昨日のようには遅れてはなく、今日は行く予定でウエストサイドCILへ、開さんにアポイントを取ってもらっていましたが、アポイントが取れずに、半分あきらめてダウンダウンの市場で朝飯と買い物しました。アポイントが取れ16時に約束になりました。
  市場にはいろんな物が豊富にあり、何を食べようか迷いましたが、昨日のお腹の調子もあり、バン・コーヒーをたべることにしました。甘いパンを買ってしまいました。(あまり好みではありません)前回のイタリアのコーヒーと比べ薄くでも、胃にももたれにくい、ロサンゼルスの街並み写真を撮りながら探検しました。
  バスでウエストサイドCILへ向かいました。開さんと受け付けの人と打ち合わせをしてもらいました。その後、セレナさんはセンターのソーシャルワーカーを行なっているということです。セレナさんがセンターの各分野の説明をしてくれました。
  ピァカウンセリング・情報監理・個人支援サポート・テクノロジーサポート室ソ−スシャルワーカーがスーパーバイザーの役割を果しています。ソ−シャルワーカーがピァカウセラー・スーパーバイザーを育成しています。
  また、ソ−シャルワーカーがピァカウンセラーのカウンセリングも行なっています。全分野にわたりプログラムの作成と指導に当たっています。ソーシャルワーカーの位置として、心理学を学び、福祉・法律・教育全分野の情報を収集し個人にサーポートを行なっています。クラアントとのコミニーケーションを大切にすることが必要とされます。日本ではソーシャルワーカはあいまいな立場であり、専門的な知識も必要とされていません。精神病院並びに大きな病院等しか存在していません。
  アメリカではNPO団体(障害者団体)にはかならずソーシャルワーカーを置いていると聞きました。どいう立場でNPO団体にソーシャルワーカの位置づいているのかがわかりませんでした。このことからみても日本の教育・福祉行政の不十分さがみうけられます。
  もう一点は障害者のなかで障害の種類・程度分けられ分斷され、連携が行なう事ができなかったことです。ト−タル的な支援センタ−づくりが困難になっていると思われます。ソシャルワーカーがピァカウンセラーたちにカウンセリングを行なっていることもサポート体制に影響をあたえていると思われます

ディズ−ニランド・レジャーに参加

  3/3 今日もまた寝坊し、時間ぎりぎりにホテルを出ました。ディズ−ニランドに行こうとしました。シャトルバスに荷物・全員乗りましたが、急にバスが止まり始め何が起きたのかが、わからずに聞いてみると一台車イスが無くなっていることがわかりました。ホテル周辺を2回ほど回り車イスを探したけれど見つからず、バスは高速を走り出しました。途中バス会社に寄って開さんの車イスが無いと分かりました。バスの運転手が警察やタクシー会社へ無線で連絡し手配しましたが、見つかりませんでした。
  バス会社が代わりの車イスを用意してくれました。会社の注意不足であるとことはまちがいないことですが、これが日本であればどうなることになるでしょう。僕は当然会社が責任を回避をしていくと思われます。やはり会社の責任として取ることであるという意見もありますが、しかし、車イスという事で社会的差別観があるからこそ、会社の責任を逃れるでしょう。
  ディズニーランドのことですが、あまり遊園地は、苦手で小さい時から行った事も少なく、日本の遊園地では障害者が乗り物に乗る事は一方的に危険であると決めつけて拒否されます。私は遊園地は得意ではありません。
  ディズニーランドに入ってすぐに脳性マヒの子に出会い、その後も車イスの障害者や老人ベビーカーもたくさんで楽しんでいました。ジェットコースターみたいな物に乗ろうとしました。例のごとくことく断われると思っていました。乗れる事は乗れましたが。足がつかえてきちっと機具にセット出来なかったから途中で他の客を降ろし、少し走り危ないと言う事で降りることになりました。ほかに車イスのまま乗れる物もたくさんありました。みんなで遊べる雰囲気をつくっていると思われました。

サンフラシスコへ

  3/4 今日は、ロサンゼルスからサンフラシスコへの移動日であり、昨日の開さんの車イスは依然としてわからないままです。開さんと城戸さんはロサゼルス警察に被害届けを出しに行きました。
  ホテルのチェックアウトが12時までと分かり、あわててみんなにも12時30分にはホテルを出るように伝え、杉山さんと私は昼飯を食べに再び市場へ行きました。 今日は日曜日のためにお客さんが多くて、食べるものが見えなくて困り、何にを食べようと迷い、一番安いものにようと思い、字が読めないこととどんな料理がわからず隣の人聞いて注文をしました。テーブルがなくて困っていました。そこは家族の席でした。空きのテーブルがありましたが席につこうとすると親は何かいやがっているように思えましたが、子どもは「イエス」といってくれました。テーブルを分けようとしましたが、結局いっしょに食べる事になりました。野菜サラダの中に肉が入った物とパンを焼いたような物を食べましたが、舌に合いませんでした。
  次のサンフラシスコに行くと寒いと思い、ジャンバーみたいな上着を買おうと思い衣料品店に入ってパーカーフリスと、こわれていたからベルトも買いました。つぎにかつてからの念願のテンガロンハットも買ってしまいました。近くの刃物屋さんに入って実家におみやげを買い甥子に時計3個も買いました。まあまあの予算で終わりました。
  また「ごろりんハウス」の人達が何か楽器が弾けないものか考え、ハ−モニカ・マラカス二個並んだ洋風タイコを見ていましたが、どうも価格が合わなく買うことが出来ませんでした。
  時間になり、ホテルにもどり空港に行くシャトルバスを待つのは私達だけかと思っていました。他にも2名乗っていました。雨の中を空港へ向かいました。降りる時にすごく美人のお客さんからスカーフと帽子をいただきました。(女優さんかもしれないねと皆で話しました。)
  シャトルバスが国際線のターミナルに降ろされ、待ち合わせ時間に城戸さん開さんは現れません。電話があり、どうも国内線のターミナルと間違えたらしく、反対側と分りあわてて移動しました。だんだん時間がせまり、ようやくフロントへ着く事ができました。やっとサンフラシスコへ行く飛行機に乗る事が出来ました。 (今夜はロスでホームレスそれで良いと思っていました。)夜遅くサンフラシスコのホテルに着きました。疲れているのに部屋のことでフロントとの折衝もしなければなりませんでした。連日アクシデントが続き、まだ五日間あるのに何が起きるか分りません。

ディサービスセンター「気持」・民族差別の闘いの中から

  3/5「気持」 という高齢者のディサービスセンターにホテルから歩いて30分かかり行きました。「気持」は日系の人たちが71年に設立しました。アメリカの文化・言葉の違いで日系の人への差別があり、高齢者の支援サービスがなかったからNPOの元で日系の高齢者ディザービス事業を行なっています。「気持会」日系高齢者の生き方や生き様への思い、仲間の思いからセンターの名称が「気持」とつけられました。
  今、問題は住宅問題であるといわれました。ここ数年間、サンフランシスコ市ではパソコン関連企業の日系の人が20倍になり、高い家賃で高齢者の住居の問題が深刻になっています。更に、65歳以上もしくは中途障害者には医療保険が適用され、居宅介護サービスを受けることができるということです。
  若い人が仕事をもっていてて税金を多く払い、その一部を障害者や高齢者への居宅サービスの資金とし使われる。日本の介護保険制度と異なる部分もあるが、年令で全ての人が支払うのではなく、やはり、収入に応じて徴集していく事によってサービスの充実が図れると言われています。「気持」はNPOであり、政府や州からの助成金もあるが企業から支援金で事業が行なわれています。
  日本は医療法人・社会福祉法人が介護保険費・措置費の中で運営していますが、「気持」は、まったくの単独のディサービスの機関として位置付けられています。更には、人材確保としてボランティアで構成されています。これから、ボランティアを育成していくためにはコーディネイターの役目が重要とされるでしょう。日本においてもこのシステムが必要とされるでしょう。しかし、ボランティアというのは時間、金が裕福な人が行なうのがボランティアとされてきました。特別な人が行なうという概念があると言えます。今の日本では町内会の草取り行事としてしか受け止められていません。ボランティアという意識は無いと言えます。
  「共存する社会」を目指すためには人と人との存在を認め合う事が必要であると考えます。それには他国の文化・思想・民族性が入っていくことだと言えます。3つの分野の内1分野でも欠如すれば「共存する社会」はできないと言えます。日本ではいまだに外国の人たちが住むことが「珍しいもの」である印象と、「何をするか分らない」いう偏見と差別が根強くあります。
  日本の多くの老人は、郊外に住んでいて居宅サービスが受けにくく、介護というものは家族が行なうべきであるという考えが残っています。都市では介護サービスの事業社が乱立しているために需要と供給のバランスが成立していません。
  これを解消するためには郊外に居宅介護サービス展開し、日本人の家族観に対する価値観を変革していかなければなりません。要するに制度事業意識の改革と言えます。介護保険法障害者福祉法が先に作られても活用されません。学校教育・社会教育がこれらの意識変革を行なおうとしているのか?障害者の生活についても同じことが言えます。
  「気持」の帰りに深掘さんが「何でお母さんはボランティアしているのか」有料ボランティアは仕事ではないか等を話してくれました。有料介護ボランティアを仕事として位置づける必要があると考えます。また、仲間が困っている時、互いの人格や性格を認め、相手の人が出来ないところをフォローしていくことが必要だと考えます。
  介護に関わる事によって相手の生き様や生き方を学び「共に学び共に育つ」という私達と一緒に思想を作り出して来ている事やお母さんが深掘さんと同じ年代に関わってくれた話をしました。「お父さんより長いのですか。びっくりしていました。」という話になりました。

バークレCIL・CIL運動とADA法

  3/6 今日バークレのCILへ。その前にドルのお金が無くなり、円からドル円安の両替所に行く途中公園や駅の階段、カフェテラスでホームレスの車イスの人がさりげなくくつろいでいる光景は印象的に感じました。両替えはできずにホテルに再び戻り、バークレに向かいました。
  バークレの街はとてもきれいな街並でカルフォルニア大学バ−クレ校の中を通り、昼飯を大学で食べました。
  CILの建物は街のメインストリートにあり、ちょっとした倉庫みたいでありましたが、中の機能は立派でした。
  ジェラルドさんが出迎えてくれました。バークレーCILのセンター所長(ディプティディレクター)であり、弱視の障害者で黒人の大きい体でした。非常にやさしい人でした。
  彼が、説明とこちら側の質問することに中心的に答えてくれました。CILの設立からの活動の歴史・事業について説明してくれました。
  まずは、障害者学生についてのカウンセリング。週1回学校をまわり、自立生活していくためのカウンセリングをやっています。障害に応じた教育にかかる費用については、学校が設備を整えていきます。
  コンピュータや聴覚障害に対してのワイヤレス補聴器、あるいは車イスなどの機具を学校の責任の上で整えていく、これは州の教育委員会の予算で組み込まれていて、そのアメリカの法律の中において、きちっと特殊教育の教材費として法的に認められています。たとえば学校が設備を整える事が出来なかったとしたら、法として罰せられます。
  また、ピァカウンセリングには障害者同士のピァカウンセリングとグループカウンセリング、そして障害者当事者と家族とのカウンセリングがあると聞きました。日本では、障害者同士のピァカウンセリングとしか位置付けられていないが、家族としてどうしていいのかというところもあるし、相談機関としての義務も果すこともピァカウンセラーの役目でもあり、当然ながら当事者、家族のピァカウンセリングも必要だと感じられます。現在の日本でのケアマネージャーとピァカウンセラーをいっしょにしたものだと思います。当事者の社会資源の利用や主体性を引き伸ばすことであり、全面的にピァカウンセラーがでる行為ではなくピァカウンセラーが、『こういう情報もあります』『ああいう情報もあります』という中立的なコーディネイトをしていくものであると考えます。久留米での支援センターのピァカウンセラーの位置とはかけ離れたものであります。支援センターのコーディネイタ−は、こちらでいうソーシャルワーカー的な存在であります。もちろんライセンスも取得しておかねばなりません。コーディネイタ−という役目がピァカウンセラーであります。ピァカウンセラーはこれまでの生活でいかしてきたものを提供していくものあります。さらには、行政の福祉情報や団体報報を集約し、利用者に提供し、利用者が選択するものであります。
  CILの歴史についての1971年以前には、障害別の団体がありました。、1991年アメリカ障害者法をつくるために、ワシントンの議事堂前で21日間の座り込みにアメリカ全土から障害者団体が結集し、アメリカ障害者法(ADA法)を政府に作らせました。そのために、現在では障害の程度・種類を超えて、CILを作っていきました。 しかしながら、日本では逆のパターンをつくって行きました。79年養護学校義務化阻止は、各団体を乗り越えて隔離と分離教育に反対し、共生共育をと訴えていきました。しかしながら、互いの運動の理論の違いで分散化していきました。それついては、私にも責任があるといえます。全国青い芝の会の三役を務め一人一人のニーズに答えきれず理論で組織を維持してきた結果です。
  あと2年に迫った障害者法の施行は、各団体にとってネックであります。それにともない日本政府は、地方分権の名のもとで、自治体へ責任を回避しようとしています。同時に行なわれることであります。それは厳しいものであると言えます。また詳しいことはビデオテープの掘り起こしで確認しよう。
  夕方、サンフランシスコへ帰って来て、ファーストフードの店にはいりました。食事を注文し代金を2人分払ったのに、1人分しか払っていないという事件が起きました。それは、車いすと1人分だけの食事を先に持っていき、1人分をカウンターに置いていたということと、同じメニューが2つ重なったということで、1つの食事を他の人が無断でもっていったのであろう?こちらは2人分の食事代を払っていたが、その場では、払っていないということになってしまいました。2人の学生が片言の英語で抗議したが、どうにもなりませんでした。さらには、ホテルにもどると、手紙があり電気量の請求であり、10$近くの金額を請求されていました。これは約束も説明も聞いていないことであり、明日フロントとの交渉にあたるつもりです。

地域社会と障害者のビジネス

  3/7 今日は、何も予定は組まれいないけれど、とりあえず、お金が底をつき、円からドルに両替えにいったところ開さんと合い、友人と昼飯を食べる約束をしているからどうですかと誘われ同行する約束をしました。
  ひとみもお金を持っていないのでホテルへもどってお金を渡し、開さんとの待ち合わせの場所にいったけれど、なかなか見つけることが出来ませんでした。ようやく合うことが出来ました。
  開さんの友人のホセさんは、NPOの団体に配分する助成金を企業から提供をしてもらえるための情報収集する仕事をしています。ホセさんは以前はCILにいて今の仕事を行なっていると聞きました。ホセさんは自分の家を持ち、介護の人もいて、介護の人は昼間は別な仕事をしていると言うわれていました。ホセさんは企業の人らしく正々堂々と見え、親しみやすく頭のきれそうな人だと感じました。最後に写真を撮り別れました。(私もこういう仕事がやれたら?)
  ホセさんの仕事場は、サンフラシスコのオフィス街で高いビルが立ち並んだ(東京の新宿みたいな)所でした。
  杉山さん城戸さん開さんとピア39まで歩いて行きました。ピア39では、水族館に入りアーチ形の水槽に杉山さんははしゃいでいました。また、ゴ−ルデンゲ−トブリッジ・アルカトラス島は昔は犯罪者がおくられた島であったそうです。
  ダウンダウンに戻るためこちらの電車に乗りました。
  こちらの電車だから自動でリフトでもつかうのかなあと思っていました。運転手が鉄板を取り出しホームに渡し、車イスを乗せるのに時間がかかり、日本ではお客がうるさく怒るのです。時間の価値観が違うのではないかと感じました。
  ショッピングセンタ−前で降りました。
  ごろりんハウスのメンバー・甥に土産を買い杉山さんも仕事場の人に土産を買いました。お腹が空きサンドイッチ店に入り、昨日事にならないように気をつけてわりかし良い店を選び食べました。
  ホテルに帰って来ました。
  「みなさん話がある」という事で話が伝わっていなかった事もありまして、今回の旅行の準備不足やスケジュールがぎりぎりになるまで分らなかった事や単なる旅行ではなく、帰って資料を作るためにカメラ等を持って来たことを説明して行きました。これまでの障害者運動の歴史、障害者に対する差別の背景等を語って行きました。また、障害を自覚し、障害者が出来る事があれば行なう事が社会参加に繋がると考えます。


UP:20041215
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