HOME > 全文掲載 >

(障害は)「ないにこしたことはない、か」考

つるた まさひで 2001 『すくらむ』(大田福祉工場労働組合)2001年3月号・4月号


 また、かの編集長から、どさくさで原稿依頼を受けてしまった。なんでもいいから2ページとのこと。適当にハードディスクに入ってるのを引用して、お茶を濁そうかと思っていた。
ただ、前回のがあまりに評判が悪いので、今度は少し努力なんぞしてみようかと思いはじめた。何を書こうか考え、1月の障害学研究会のテーマだった「ないにこしたことはない・か」というのを思いついた。
思いついたが、これは重い。重過ぎる、また適当に引用をつなげて逃げようかとも思いはじめている。ま、とにかく、言い訳を続けてもしょうがないので書き始める。
この(障害は)「ないにこしたことはない、か」というのをテーマにした立岩さんの文章は、今年、発売されるはず(原稿が間に合って、そろえば、ということらしい)の『障害学の主張』(明石書店)に収録されることになっている。この草稿をもとに立岩さんの障害学研究会での発表があった。1月のこの会は大雪の土曜日にあり、人が集まるのかな?と思っていたら、予想に反していつもの研究会の倍くらいの人が集まった。(立岩人気おそるべし??)
以下にぼくが書くものは「ないにこしたことはない、か」というテーマについてのトータルな記述ではない。(つまり、重要なことで欠落してる部分は多いという言い訳)。立岩さんの発表を聞き、そのレジュメとして配られた草稿を読んで印象に残ったことを書くだけ、ということを初めにことわらせてもらう。
まず、この「問い」そのものについて考えることからはじめる。そして、これを読んでいるあなたにも問いかけたい。(以下、かなり大き目のゴシックで)
「障害はないにこしたことはないと思いますか」
以下を読みはじめる前に、少し考えてみてください。
(若干の空白行が欲しい)


圧倒的に多くの人が「障害はないにこしたことはない」と思っているようだ。「健常」者については間違いなく、そうだろう。「障害者」本人にとってはどうか?そんなに単純ではないらしい。単純に「ないにこしたことはない」と思ってる人も少なくない。とりわけ、大人になってからの中途障害の人に多い。しかし、このように問われること自体への反発もある、と思う。
「ないにこしたことはない、か1」というタイトルのこの草稿の最初に、立岩さんは概括的に以下のように書いている。
(以下の括弧内は本文より少し大き目のゴシック)
「障害がないのはよいことかを考えてみる。本人にとっては必ずしもそう言えないこと、他方、周囲にとってはない方がよいものであること、簡単に「ない方がよい」と言うのは、このことを覆い隠してしまうことを述べる。」

以下、この主題にそって、ぼくが考えたことを書いてみたい。
「1、はじめに」以降の構成

2、この主題をたてることについて。

3、ところで「障害」って

4、「薬があったらのむだろ」

5、ひとまわりして出てきたありきたりの結論
(「3」以降はぼくの気が変わらず、編集者の許可が出れば、次号で掲載の予定となっています。)

2、この主題を立てることについて
この「ないにこしたことはない・か」というのは、かなり鬱陶しい問いだ。漢字で書くとイメージが少しずれる。とにかく、「うっとーしぃ」。っていうのは、「障害」は障害者にとって、なくならないものだから。なくならないものについて、そんなことを聞いてどうなる、ということだ。
それは障害者にとって自分の属性の一部としてあり、それを抱え、折り合いをつけながら生きていくしかない。そこには、一人ひとりの自由な選択は存在しない。そんな状況があるのだから、「ないにこしたことはない、か」という問いに対する答えとして、「なに言ってんだ、このやろう」というのは、しごく妥当で、まっとうな答えだと思う。
さっきも書いたように、、障害者ではないとされている人(含む自分)の中には「ないにこしたことはない」という感覚は根強くある。常に意識することはなくても、何かにつけて出てくる。それが無前提にそう思われている状況には揺さ振りをかける必要がある。出来れば、軽い揺さ振りではなく、両肩をつかんで前後に50cmくらい激しくゆするくらいのゆさぶりが必要だろう。ま、冗談はともかく、「ないにこしたことはない」と無前提に考えられている現実にどのように具体的な「?」を投げかけられるかというのが重要なんだと思う。で、ぼくも今回の立岩さんの話を聞き、レジュメとして配布された草稿を読んで、けっこう揺さぶられたひとりだ。というのは、とりもなおさず、「ないにこしたことはない」という感覚をかなり身につけていたからだと思う。ただ、ぼくの場合は激しく揺さぶられたというより、じわーっと責められて、気がついたら前とは別の場所に立たされていたというような感じだった。
「ないにこしたことはない、か」という、この問いを立てることについて、立岩さんがどう言っているかについては発売されるはずの本を読んでもらいたい。草稿に書かれている彼の問題設定やその背景についての説明、また、これにかかわる言説は障害者運動の歴史に促していながらとても深い。発売されたら、ぜひ読んで欲しい。ぼくも草稿がどのように変わっているかが楽しみだ。

3、ところで「障害」って
立岩さんはタイトルでは注意深く「障害は」という部分を伏せ字にしている。書かれたり、言われたりしていることは確かに障害についてなのだが。これはちょっとずるい(笑)。
多数派の人が動くような形でからだが動かなかったり、そのように見えなかったり、そのように聞こえなかったりすることが「障害」なのか。それとも、そういう人が排除される社会が「障害」を作るのか。
ここで、扱っているのは前者だ。正確には後者の視点で前者を見たときにどうなのかということだろう。
その上で、立岩さんが言及していた「車いすを使わなくてもすむようになる薬があったら飲むだろ」というシンガーの言い方、そして、とりあえずの結論と言えるかどうかという内容について、続けて書きたい。

(つづく)

<つづきを掲載するにあたって>
これから公刊されるものの草稿をもとに、それに触発されて何か書くなんていうのは、やっぱり掟破りだと思いはじめたが、小さな組合の新聞という、とても小さなメディアだということを言い訳にして続けてみようと思う。

4、「薬があったらのむだろ」
この草稿と発表で、ピーター・シンガーという人が紹介されている。生命倫理学の論者のひとりで、けっこう有名な倫理学者らしい。彼の言ってることを引用する。正確には引用の引用(立岩草稿から)。(以下の引用は本文より少し小さ目のゴシックで)
 「仮に車椅子の障害者たちが、副作用なしに両足が完全になおる奇跡の薬をいきなり与えられたとするならば、障害を背負った生活が障害のない生活よりも結局のところ劣っているということをあえて認めない人は、彼らのうちにどのくらいいるだろうか。障害者たち自身が、障害を克服し除去するために手に入る医学的援助を求めることは、障害のない生活を望むことは単なる偏見ではないということを示している。」(Singer[1993:139]、訳は土屋貴志[1994a:139])

 「歩けること、見えること、聞こえること、痛みや不快感が比較的少ないこと、効率的にコミュニケーションできること――こうしたことはみな、事実上どんな社会状況においても、純粋に良いことgenuine benefitsである。こう言ったとしても、これらの能力を欠く人々がその障害を克服したり、驚くほど豊かで多彩な生活を送ることもあるということを否定することにはならない。いずれにせよ、克服すること自体が勝利といえるほど深刻な障害に、私たち自身や私たちの子供が直面しないように望んだとしても、障害者に対する偏見を示していることには全然ならない。」(Singer[1993:54]、土屋[1994a:139])
まず、ぼくはこの言説に打ちのめされたことを正直に書いておこう。
「やっぱり、ぼくも薬飲んじゃうだろう。それって、障害の否定だな」と思ったわけだ。
障害学研究会直後の障害学のメーリングリストで、ぼくはこれについて、まったくまとまらない以下のようなことを書いている。
==以下引用==(引用部分はもっと小さ目の書体)

(略)
「薬があったら飲むだろ」という、ある意味でのつきつけに正直ぼくはたじろいでいた。もしかしたら、今でもたじろいでいる。100万の言葉を動員しても、この一言で終わりになってしまうんじゃないかという思い。
(略)
逆に言えば、確かに薬で治る場合は、薬にアクセスできる人は薬を飲んでいるから、たとえば、ハンセン病がもたらす障害などは日本では新たに発生しない。もうすでに飲んでしまっているので、そういう意味で「薬はない」ということになるのかもしれない。
(略)
自分にひきつけて考える。薬があれば、多少のリスクがあったとしても飲む方を選択するだろう。
その行為はやはり、障害を否定的にとらえているに他ならない。 確かに、出来ないことで見えてくることはあるだろうし、「出来るのは自分」でなくてもいい。「引き算で現れる空間」もあるだろ。
それでも薬があれば飲む。
しかし、薬はない。
あるものはあるのだから、やはり「なににこしたことはない・か」という問いそのものを問うことが必要になってくるのではないか。
一度はそれを問うことが必要かもしれない。
しかし、戻っていくのは「ある」「なくならない」という現実から出発することじゃないか。
この社会で、否定的にとらえられる障害・そして障害者が置かれている現実を社会モデルで捉え直すときに見えてくる矛盾に自覚的になること、そこから、「薬があれば飲むだ」ろなんていう、ほとんどいいがかりのような問題の立て方を蹴飛ばすことじゃないのか。
==引用ここまで==

これを読むとわかるように、シンガーの言説にぼくは動揺し、混乱した。そして、この言説だけではなく、はじめに立岩さんが立てた「ないにこしたことはない、か」という問いそのものを蹴飛ばすという結論に、その段階では傾きかけていた。
そんな風に感じさせるこのシンガーの言説はかなり力強く、手強い。世の中の人が思ってることをそのまま補強する。「副作用のない薬があれば、ほとんどの人は飲むのだから車いすの生活が劣っていることは明白だ」という主張のわかりやすさだ。
しかし、車椅子を含めた自分を、あるいは見えない聞こえないという自分のありようを、トータルな自分としてとらえて、「変えない」というふうに言っている人が少数だけど存在する。たしかにほとんどの人が薬を飲むかもしれないが、どうして、ピーター・シンガーとかいう見も知らない人に言われなきゃいけないんだ、と書いてみて、もう一度、引用文を読み返してみた。
最初の引用文は、「ほとんどの人が薬を飲むのだから、それは障害を背負った生活は劣っていると認めたことであり、障害のない暮らしを望むことは偏見ではないことを示す」という内容だ。確かに「望むことが偏見だ」とはぼくも言えない。しかし、「望まない自由」がこのように抑圧されている社会で、「望むことは偏見ではない」と声高に言うことが、どのような力学をもたらすかは明らかだ。望まない少数の声はかき消され続け、障害者の暮らしは劣っているという偏見は助長され続ける。
二つ目の引用に書かれているこれ《歩けること、見えること、聞こえること、痛みや不快感が比較的少ないこと、効率的にコミュニケーションできること――こうしたことはみな、事実上どんな社会状況においても、純粋に良いことgenuine benefitsである。こう言ったとしても、これらの能力を欠く人々がその障害を克服したり、驚くほど豊かで多彩な生活を送ることもあるということを否定することにはならない。》についても、もう一回考えてみる。本当に「純粋に良いこと」なのか。今の社会を生きていく上でここにあげてあることが便利なのは間違いない。少なくとも、不当な差別にみまわれることはないのだから。ここで、シンガーが言っていることを裏返すと、障害者は「純粋に良いこと」を失った、あるいは初めから持っていない人々ということになる。「よい」ことがないとすれば、それは「劣っている」ことだろう。障害を背負った生活を、背負わない生活より劣っていると考えている人はたくさんいる。それは障害をもたない人だけではない。そう考える人に障害を背負った生活は確かに劣っているかもしれない。しかし、そうは考えない人をぼくは知っている。そういう人にとって、障害のないことは「純粋によいこと」とは言えない。
もう一度、引用文に戻る。「純粋に良いこと」にはわざわざ英文がつけてある。"genuine benefits"。翻訳に少し自信がなかったのかもしれない。これに「まぎれのない利益」あるいは「まぎれもなく得なこと」という日本語をあてることも出来るだろう。そうすると、たとえば、差別されないということは「純粋に良いこと」とは言えないが、「まぎれもなく得なこと」ということは出来るかもしれない。しかし、「ろう文化宣言」などの主張を見ると、聞こえないことは、マイノリティの文化だと主張してあり、「まぎれのない不利益」という規定があてはまらないこともありそうだ。(「ろう文化宣言などの主張」というのはわかりにくい表現でしょう。でも、今回は説明を飛ばします。しかし、とても興味深い主張なので、興味のある方は調べてみてください。)

5、ひとまわりして出てきたありきたりの結論
あんまり脈絡のない思いつきをダラダラ書いてきて、結論に向かうわけだが、この結論を書くべきかどうか迷っている。「なーんだ」で終わってしまいそうだから。
でもまあ、とりあえず書いてみよう。
結論その1
「『ないにこしたことはない』と思ってる人にはないにこしたことはない。」
そのことが大きな問題だとは思わない。しかし、「なくてはならない大切な自分の一部」だと思っている人もいる。そういう人が「ないにこしたことはない」とされる社会で生き難さを強要されている。これはよくない。
その2
「『ないにこしたことはない』と強調し過ぎることがそう思わない人の生き難さを強要するのであれば、それはやめたほうがいい。」
個人的には障害があるからこそ見えてくるものの豊かさを大切にする人は素敵だと思うし、好きだ。(ぼくが好きだからといって、どうしたということはないんだけど。)そういう思いを大切にしたいし、結論1のつまらなさをくいつがえす人がたくさんいるといいな、と思う。
さて、ここまで、読んでくれてありがとう。「ないにこしたことはないか」という問いから、読んでくれたあなたに喚起できるものがひとつでもあったらうれしい。ぼくは、ここからいろんなことを考えることが出来てよかったと思っている。そんな機会を提供してくれた立岩さんと障害学研究会(東京)に感謝。

<一回目に書いたのでけど、ここで取り上げた立岩真也さんの「ないにこしたことはない、か 1」は今年の暮れまでには明石書店から発売される予定の「障害学の主張」(仮題)に収録するための文章の草稿。ぼくが二回にわたって書いたのは、それをレジュメにした障害学研究会(東京)での発表に触発されての感想。>


……以上……

cf. ◇立岩真也 2001/01/27 「ないにこしたことはない、か?・1」
 障害学研究会関東部会第13回研究会 配付資料

UP:2001 REV:20081116
つるた まさひで  ◇Archives
TOP HOME (http://www.arsvi.com)