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「浮遊する自己決定――臓器移植法改正によせて」
(Drifting Self-Determination−for revision of the organ transplant law in Japan)

岡田 篤志 2001 20000909脱稿
『哲学』関西大学哲学会編 20:109-136.


 欧米諸国で確立された患者の自己決定尊重の原則が、我が国の医療界にも導入され始めている。医師による非人道的な人体実験、独断的な治療や医療過誤に対抗する患者の自己決定原則は、我が国においても積極的に主張されてしかるべきである。しかし同時に、自己決定原則の持つ独特の理解され難さ、危うさについても十分留意されなければならない。本稿は、脳死移植の立法化と改正に関する議論における自己決定原則の行方を追跡し、脳死移植においてあるべき自己決定原則のすがたを探ることを目的とする。

一、町野B案と森岡反論

 現行の「臓器の移植に関する法律」(平成九年七月十六日、法律一〇四号)は、施行三年後を目途として必要な措置を講じることを附則している(附則二条)。施行三年後は二〇〇〇年に当たる。昨年二月に高知で法施行後初の脳死状態の方からの臓器摘出と移植(以下「脳死移植」とする)が行われて以来、すでに八例の脳死移植を数えている。だが、周知のとおり移植待機者の多くの希望は叶えられておらず、また小児に関しては、依然として高額の費用を要する海外での移植に頼っている現状である。そこで当然、現行法の改正に向けての検討が具体化し、議論も盛んになってくることが予想される。この件に関して、早期に提案されているのが、町野朔氏の改正案である。町野氏は、厚生科学研究の「臓器移植の法的事項」を担当する分担研究者であり、すでに昨年の四月に、「脳死をもって一律的に人の死とし、本人の提供意思が不明の場合は、家族の承諾をもって臓器提供を可能とする」という研究班としての最初の「中間報告書」を提出している。さらに氏は同年の十一月には「『小児臓器移植』に向けての法改正―二つの方向―」1という前報告書と同趣旨の私案の改正案を発表している2。この町野氏の改正案と、それに対していち早く反応した森岡正博氏の反論、「子どもにもドナーカードによるイエス、ノーの意思表示の道を」3が現時点で注目に値するものであろう。まずはその両者を紹介し検討する。
 改正案における町野氏の主眼は、小児の脳死移植を可能にすることである。現行法に従えば、脳死状態からの臓器摘出は本人による提供意思をまず第一条件とし、またガイドライン4によって、提供意思の有効年齢が十五歳以上と見なされているゆえに、現状では小児の脳死移植は不可能であるからである5。
 そこで町野氏は、小児の脳死移植を可能にするために、二通りの改正の方向が考えられるとする。

 A案―小児・年少者からの臓器の摘出を可能にするために、誰か(親権者)が彼(彼女)に代わって臓器提供を承諾する意思を表示することを認める特則を設けるという方法である。
 B案―死者本人の臓器提供に承諾する意思表示がなければ許されないとする現行法の立場を修正することによって、子どもにも大人にも平等に移植医療を可能とする方向をとることである。

 一見、二案併記のようであるが、町野氏自身の本心からすればそうではない。特則を加えるかたちのA案に関して町野氏は、本人の提供意思をもって始まる現行法の枠組みを大きく変えることなく小児の脳死移植を可能にすることができ、現実性が高いと評価されるだろうことを予測しつつも、これが「大きな問題」を孕んでいることを指摘する。町野氏によれば、特則を加えるべき現行法自体が本人の提供意思を第一条件としている以上、A案は親権者が小児に代わって小児本人の意思を代行する(忖度)というかたちを取ることになるはずである。だが、それでは脳死状態での臓器提供に関する小児自身の理解と承諾がそもそも困難であるがゆえに、このような代行判断は「擬制」であることになる。また、本人の意思が不明の場合は「遺族」の承諾でよいとする「旧中山案」(旧法案一九九四年四月を示すと思われる)と比較して、どうして小児に対する「親権者であった者」のみが特権的に本人に代わる提供承諾をすることができるのかは疑問であるとする。したがって、町野氏は特則型のA案をその場しのぎの便宜的なものでしかないと評価する。
 町野氏の本命はB案である。B案は、現行法の提供意思を規定する第六条条文を修正することによって、本人がドナーカードによって提供の諾否を表示していない場合にも、「遺族」の書面による承諾によって臓器の提供を可能にするものである。第六条は以下のように修正される。(強調部分が現行法第六条に対して追加・修正されている部分である。)

 第六条一、―医師は、死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき、若しくは遺族がいないとき、又は死亡した者が当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示したときには、移植術に使用されるための臓器を、死体([脳死体]を含む。以下同じ。)から摘出することができる。

 文言上僅かな追加と修正であるが、現行法の根本性格が改変されていることがわかる。つまり、@脳死移植の可能性が本人の任意の提供意思をもってのみ開始されることから、本人の意思が不明な場合でも家族の承諾によって可能となる点、また、A提供意思が表明されている場合にのみ脳死を「人の死」とする現行法の立場から、脳死状態にある身体はすでに「死体」であるとする「脳死一律人の死」の立場へと変更されている。
 町野氏はこれで小児の提供意思の資格や年齢制限を問わなくとも、「子どもにも大人にも平等に移植医療を可能とする方向をとる」ことができると考える。
 町野氏も触れているように、この町野B案は、一九九四年四月に国会に提出された最初の法案(旧法案)6と同じものである。旧法案は、本人の提供意思と不明な場合の家族の承諾という二つの提供意思を持ち、また脳死状態の身体を「脳死体」と明記していた。現行法が、旧法案に対して、それぞれこの二点に関して二度の大きな修正を加えることによって成立したものであることは周知のとおりである。したがって、B案を推す町野氏の発想は現行法成立の過程で加えられた二度の修正を白紙に戻して、もう一度原案に帰れということになる。確かにB案自体は、旧法案も同様に、世界的に見れば決して過激なものでもなく、むしろ「拡大意思表示方式」として標準的なものであると言えよう7。また、国内での小児の脳死移植を可能にし、成人に関しても一人でも多くの移植待機者の希望を叶えるという、二つの目的に照らせば町野B案は妥当なものであるのかもしれない。
 しかし、町野氏はB案を以て二度の修正を白紙に戻すことの正当性に関して、何ら説得力のある論理を提示していない。それどころか、旧法案に加えられた修正の意義を根本的に見誤っているのではないかという疑問を感じざるを得ない。これでは鶴田博之氏が次のように言うことを否定できないだろう。「移植推進派としてはずいぶん妥協したと思われる現行法が成立したのは、どんな条件であってもとにかく一例でも既成事実を作ってしまって、後戻りのできない状況から法を次第に都合良く変えて行く、という計算があってのことだろう」8。
 町野氏はB案に関して懸念される「最大の思想的問題」として、「死者の自己決定権」を挙げている。現行法は、脳死状態での臓器摘出を承諾することの本人による明示的な提供意思を第一条件として脳死移植が可能である一方、B案は脳死状態にある者(町野B案によれば「死者」)の提供意思の存否が不明である場合でも、家族の承諾によって摘出可能だからであり、この意味で、現行法が保障している本人による臓器提供の諾否に関する自己決定を蔑ろにすることになりかねないからである9。
 そこで町野氏は、意思の不明、つまり本人の自己決定の不在の場合の取り扱いに関して、法がいかなる「人間像」を前提にしているのかが問題であるとする。町野氏によれば、現行法が意思不明の場合に臓器の摘出を行わないのは、「本人が生前に死後に自分の臓器を提供することを申し出ていない以上、彼はそれを提供せず墓の中に持っていくつもりなのだ」というような人間像、「自分が承諾していないのに、死後に臓器を摘出されるのは嫌だという認識を持つ」ような人間像を現行法が前提にしており、それがゆえに、現行法は本人の自己決定を尊重して、意思不明の場合は摘出を不可能としたのである10。一方、人間はそもそも「連帯的存在」であって、意思不明の場合でも、本来は臓器を提供したいはずである。それがゆえに意思不明の場合でも、むしろ臓器を摘出することこそが、本人の自己決定に適っているということになる。
 「我々が、およそ人間は連帯的存在であることを前提にするなら、次のようにいうことになろう。―たとえ死後に臓器を提供する意思を現実に表示していなくとも、我々はそのように行動する本性を有している存在である。いいかえるならば、我々は、死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである。もちろん、反対の意思を表示することによって、自分はそのようなものではないことを示していたときには、その意思は尊重されなければならない。しかしそうでない以上、臓器を摘出することは本人の自己決定に沿うものである」。
 この発想ほど物議を醸すものはないであろう。ここには自己決定の理念についての根本的な誤認が存するのではないだろうか。われわれが何らかの「連帯的存在」であることは確かだとしても、他人の一方的な決定が本人の自己決定に沿うとはどういうことであろうか。しかも問題になっているのは、問題の尽きない脳死移植に関しての決定である。単に摘出に賛成・反対の二元論には収まりきらない様々な意見と思いがあるはずである。摘出を承諾しない者は何も「摘出されるのは嫌だ」という単純な好悪からでもないし、「墓場に臓器を持って」行きたいといういわば吝嗇からでもない。それにもかかわらず町野氏は、一方で町野氏自身の意図に反する自己決定を単なる好悪や人格性に矮小化し、他方、自分の意図に適う自己決定を、町野氏自身ではない脳死状態にある当人の「自己決定に沿う」とし、自己決定の「自己」(あるいは他の者からの視点では「他者」)を抹消してしまっている。これは自己決定概念の根本的な誤認であり、略奪にも等しいのではないだろうか11。さらに、提供意思が不明な場合は家族の承諾に任されるわけであるが、その家族の承諾にしても、提供するのが「連帯的存在」として当然の行為であり、提供しない者は吝嗇だというなら、勢い提供承諾へと圧力をかけることになる。議論を先取りして言うならば、そもそも各自の自己決定を尊重することは、自己の決定を他者に尊重させるという自己の主張だけではなく、他者の存在そのものを尊重することの社会的合意に基礎を持っているのではないだろうか。例えばこの場合、脳死のような重篤な状態に陥った患者を、本人の意思に従って臓器の摘出をするにせよしないにせよ、大事にしてほしい、あるいは脳死が人の死であるとするなら、その遺体に対して敬意を持ってほしいという脳死者を囲む人々や社会の思いがその根になっているのではないだろうか。そうだとするなら、家族に承諾を強要することによって、自己決定を支えるこれらの関係性すら破壊されかねないのである。
 この町野氏の提案に対して、森岡正博氏はいち早く反論(「子どもにもドナーカードによるイエス、ノーの意思表示の道を」)を加えた。森岡氏の批判は町野B案の二つの特徴に合わせて主に二点ある。@町野氏が、本人の意思が不明の場合でも家族の承諾で摘出可能とする点。A十五歳以下の小児でも親権者の承諾で摘出可能とする点である。
 まず一点目であるが、現在の脳死移植とは、脳死者本人の「善意」、「暖かい善意」(森岡前掲論文二〇〇−一頁)を活かすために開始されており、それこそが脳死移植が正当化される唯一の原則であるとする。そしてこの原則はいかに臓器が不足しているとしても崩してはならないものである。また、本人の意思が不明な場合でも、その中には脳死状態での臓器摘出を承諾しないだろう人も多く含まれている以上、それにもかかわらず家族の承諾があるからとはいえ、臓器を摘出するのは「人間の尊厳」(同二〇三頁)に対する冒涜であるとする。したがって、森岡氏は町野B案に対して断固反対の立場をとる。
 次いで、小児の場合は親権者の承諾によって摘出可能とする点に関しても、森岡氏は、@「子どもの生命は子ども自身のものであって、親のものではない」こと、A「十五歳未満の子どもであっても、自分の死に方と死体の処理のされ方について意思表示する能力は備わっている」という二つの理由によって反対する。小児に関しても本人の意思を最重視するという観点は、十五歳以上の場合よりも特別な重要性が存すると森岡氏は考える。この点は森岡氏の意見の中でもおそらく最も問題喚起力のある部分であろう。
 「自分の生命に関する子ども本人の意思表示というものを、われわれがどこまで尊重できるのかが問われているのである。これは、大人がどこまで本気で、子ども自身の声を聴くことができるのか、という挑戦でもあるのだ」(同二〇四頁)。
 つまり、小児の提供に関する意思を尊重するとするならば、当然、有効な意思が可能なのは何歳であるのかというある種の資格論が課題となるが、森岡氏の論点は、直接的にそのようなものではなく、それ以前に重要なのは、小児自身の生命、死のあり方に関する自己決定を含む小児の存在そのものに対する尊重が問われているのだ、ということである。保護と教育の下にありつつも、決して親や社会の従属物ではなく、自律性を獲得しつつ成長していく子供の存在の、「他者」としての尊重が問題なのである。
 しかし、小児の提供に関する意思を尊重するとするならば、実際に何歳からの意思を有効なものと見なすべきかという現実的な問題が生じる。この点に関して森岡氏は十二歳という目安を設けているようであるが、いずれにしても十五歳を数歳下る児童にも提供意思を自覚的に表示することが可能であるとしている。もちろんその前提として、正確な脳死移植に関する知識の教示と、さらに「死の(に関する)教育」がなされることが必要であるとしている。両者とも成人にすら欠けている現状があり、この点に関する取り組みは、イメージ・コマーシャルや部分的な報道だけではなく、脳死移植に関する正確で真摯な情報提供のあり方の課題を明示することになろう。
 だが、森岡氏の意見では、残念ながら乳児・幼児の年齢での脳死移植は断念しなければならなくなる。今回の法改正のおそらく最大の焦点が、この乳児・幼児を含む小児の脳死移植を可能にすることにある以上、多くの賛成を得られないであろうが、森岡氏の提起した小児の提供意思の重視の視点、子供の命、子供の存在そのものの重みを見据えた視点は、今後の改正論議に深さと慎重さを与えるであろう。
 森岡氏の視点は十分に評価されてしかるべきである。しかし、他方で問題を孕んでいることも見逃せないだろう。問題は自己決定に関してである。
 先ほどの鶴田氏は、結局、森岡氏の結論が「法の改変には反対だが、そのかわりに脳死判定と臓器摘出の対象を、現行の十五歳以上から十二歳以上に下げよ」ということにしかならないとし、これでは「推進者にとって勿怪の幸い」になることを懸念している。鶴田氏によれば、森岡氏がこのような結論に至るのは森岡氏の議論の根底に自己決定の原理が存するからである。
 「森岡氏が町野報告に反対する一方でこのような極論に陥るのは、議論の根底に『生命はその人自身のものである』という原則と、それに由来する『自己決定』の原理を置くからである。生死の選択決定は本人にのみ可能とした上で、子どもに正当な権利を保障するとなれば、形式論理としては氏のような主張になるのも、ある意味でもっともである」12。
 だが、森岡氏は、小児に対して鶴田氏が言うような「生命はその人自身のものである」という「自己所有権」から由来するハードな自己決定概念を想定しているわけではない。
 「私の主張のポイントは、生と死について意見表明能力のある子どもの意見はきちんと聴くべきだということである。遺言の場合と同じ意味での『処分権』を、脳死移植の場面で子どもに与えよと主張しているわけではけっしてない。ましてや、子どもに『死に関する自己決定権』を与えよというものではない」(森岡同上二〇五頁)。
 しかし、そうであるとはいえ森岡氏にしても、提供意思が不明の場合でも「遺族」の承諾によって摘出可能であるとした町野B案に対して、本人による提供意思の優先を掲げて対抗せざるを得ない。つまり臓器提供への何らかの自己決定をである。しかもその意思が「暖かい善意」と言い換えられているのである。問題はこの点である。森岡氏は、脳死移植が正当化されるのはこの本人の「暖かい善意」を活かすことを原則としてのみであり、この原則は他の諸事情にもまして優先されるべきものだとしていた13。臓器提供の意思が「暖かい善意」であり、それが尊いものであることは間違いはない。しかし、脳死移植という微妙な問題を考える場合、この「善意」という言葉の使用にも若干の慎重を要するのではないだろうか。それというのも、脳死状態での臓器の提供意思が「善意」であるのなら、何らかの理由で提供の意思を表示しない者や脳死からの臓器摘出に批判的である者達は、「善意なき者」たち、さらには、人の尊い「善意を阻害する悪意ある者」たちということになりかねないのであり、そうなれば「臓器を墓場に持っていく」という町野氏の表現同様に、提供意思の存否を人格性に矮小化し、脳死移植を神聖化、絶対視することにもなりかねないからである。つまり、森岡氏の言う「善意」も町野氏の「連帯的存在」論に強い親和性を持っており、森岡氏の立論は町野氏流の自己決定の簒奪に絡め取られる危険性が生じてくることも懸念されるのである。
 私見によれば、そもそも「善意」という言葉は、臓器移植を巡る論議の過程の文脈から見るならば、推進派であれ慎重派であれ、議論に関わった各界の者達が自己決定概念を翻弄しあるいはそれに翻弄されながら、自己決定概念にゆがみを加えていった過程で現れてきたものであるように思われる。したがって、「善意」なる言葉の用法の背景には、脳死移植合法化の論議過程において、自己決定概念にゆがみが加えられていった経緯が存していると考えられるのではないだろうか。
 それにしても、町野B案に見られるように、どうしていとも簡単に自己決定は抹消されてしまうのであろうか。推進派は一時、自己決定概念によって脳死移植再開を突破しようとしていたはずである。ところが、このたびは一転して自己決定が放棄されかねないのである。このような奇妙な事態はいかにして可能になるのであろうか。ここで、移植法案成立に関わる議論過程における自己決定概念を巡る評価、所作を顧みる必要があるだろう。




1平成十一年度「臓器移植法に関する公開シンポジゥム」於国際研究交流会館・国際会議場二〇〇〇年二月十八日。原稿は森岡正博氏が運営するサイト「生命学ホームページ(Life Studies Homepage)」http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/index.htmからダウンロードしたものを使用するため頁数は記入されていない。なお、森岡氏のサイトは、森岡氏と協力者によって脳死移植法改正議論のための有用な資料が集められている。
2本稿執筆中、八月二三日に町野氏の「研究班」が正式な報告書を提出した。本人の意思表示が不明の場合、「遺族」の承諾だけで臓器摘出を可能にするのが妥当とするもので、後述する町野氏私案Bに当たる。
3『論座』二〇〇〇年三・四月号二〇〇−九頁。上記の森岡氏のサイトにも掲載されている。
4「『臓器の移植に関する法律』の運用に関する指針」健医発第一三二九号平成九年一〇月八日、ガイドライン第一「書面による意思表示ができる年齢等に関する事項、臓器の移植に関する法律における臓器提供に係る意思表示の有効性について、年齢等により画一的に判断することは難しいと考えるが、民法上の遺言可能年齢等を参考として、法の運用に当たっては十五歳以上の者の意思を有効なものとして取り扱うこと」。
5そもそも現在の脳死判定自体が六歳未満を判定除外としている。この点の見直しも進められている。今年三月に出された厚生省「小児における脳死判定基準に関する研究班」(班長・竹内一夫氏)の報告によれば、六歳以上では六時間以上となっている判定間隔を二四時間以上に延長し、生後十二週未満の新生児は判定から除外する方向である。
6「臓器の移植に関する法律案」第十二九回国会提出、森井忠良衆議院議員外一四名提出−「旧法案」)。
7現行法は「承諾意思表示方式」Contracting Inであり、本人の意思が不明の場合は家族の承諾でも可能とするのは「拡大承諾意思表示方式」、本人に拒否の意思表示がなければ摘出可能だとするものが「反対意思表示方式」Contracting Outと呼ばれている。
8鶴田博之「『臓器移植法見直し』をめぐる危ない状況」『いのちジャーナル』さいろ社、二〇〇〇年六・七月号、十一頁。
9現行法でもたとえ本人の提供意思があっても、家族の拒否を認めている以上、完全に本人の自己決定を尊重していないのではないか、という指摘に関しては後述する。
10平野龍一氏にも同様の発想がある。「周知のように、フランスやイタリアでは、Contracting Outという制度がとられている。とにく臓器を提供しないという意思を(書面で)表示していないときは、臓器を摘出していいという制度である。これは遺体は公共のものなので、本人の意思は関係がないからだともいわれている。しかし、反対の意思表示は認められているところからみると、人はその本性上、他人のために奉仕するとを喜びとするものだという人間観にもとづくようにおもわれる。もちろん人は少数者である権利もあるから、提供したくない人は提供しなくともいい。しかしそれは例外なので、前もってその旨を表示しておけ、ということになる。わが国では、死後に臓器を提供するのは特別の善行であり、一般の人は自分の臓器はすぐに焼かれる場合でも他人には提供したくないと思っているものだという前提になっているのであろう。提供の意思を明示していないのにその臓器を摘出するのは、その人の潜在的な善意を実現するものではなく、その人の人権を侵害するものだというのであろう。そこに人間観の違いがあるように思われる」(「三方一両損的解決―ソフト・ランディングのための暫定的措置」『ジュリスト』No.1121,一九九七年十月号、三七−八頁)。
11町野氏の持論としては、以前から、脳死移植立法に関して自己決定を用いるのには否定的である。町野氏は脳死を人の死とする脳死説を採り、脳死を人の死としないで致死的な臓器摘出を違法性阻却等によって正当化する立場には反対である。人の死は法律的にも「客観的」であるべきで、個人の自己決定によって左右されるものではないとするからである。例えば、町野氏「脳死者からの臓器の摘出」『法学教室』No.153,一九九三年六月を参照。したがって、町野氏がここで「自己決定」の概念を用いているのは、ある種、イロニックな意味が込められているとも考えられる。
12鶴田前掲論文、九頁、また続編「歪められた自己決定」『いのちジャーナル』二〇〇〇年八・十月号、八−十三頁も参照。
13森岡氏は別のところでも「本人の善意」を強調している。「……移植はなぜ必要なのか、なぜ移植をするのか、と言ったときに、移植というのは脳死になった本人の善意をいかすものであるから、それをみんなで保証していこうということだったと思うのです。ですから本人の意志がある時にのみ、脳死の人から臓器摘出をするということを原則にしているという非常に筋の通った法律なのです。」(「子どもの意見表明権と臓器移植法の思想―日本から発信すべき二つの論点」二〇〇〇年七月二日シンポジゥム「いのちと死を見つめる」於上智大学カトリックセンター)。ところで、森岡氏は、臓器移植の提供意思に関して三段階の進展を見ている。@家族へ渡った遺体の処分権に基づいた家族だけの承諾、A家族の承諾と本人の提供意思、B本人意思の最優先。この意味で、我が国の「臓器移植法」は世界的に先進的なものであると評価する。森岡氏が「善意」を強調するのは、以上のような発想も背景にある。また、脳死移植を美麗な言葉で飾ることの危険をいち早く指摘したのも森岡氏であることも付言しておく(『生命観を問いなおす』ちくま新書一九九四年、一四三頁以降参照)。

二、臓器移植法の成立過程における自己決定

 この種の課題に関して、すでに小松美彦氏が示唆に富む分析を行っている14。まず、これを瞥見する。
 最初に「自己決定」という言葉が登場するのは、一九八六年に発足した日本医師会「生命倫理懇談会」の最終報告、「脳死および臓器移植についての最終報告」(一九八八年)である15。当報告書は、脳死判定を実施することおよび脳死を人の死とすることには社会的合意が必要であるとしつつも、依然合意は得られていないことを認める。そこで、そのような現状においても脳死からの臓器摘出を可能にするために要請されたのが自己決定権である。
 「現状では、脳の死による死の判定がまだ一般的に公認されたとはいえない。しかし、脳の死による死の判定を是認しない人には、それをとらないことを認め、是認する人には、脳の死による死の判定を認めるとすれば、それでさしつかえないものと考えてよいであろう。このことはまた、自分のことは自分できめるとともに、他人のきめたことは不都合のないかぎり尊重するという、一種の自己決定権にも通じる考え方であるといえよう」(中山『資料に見る』九三頁)16。
 小松氏は、この報告書は自己決定権を以て根本的な発想の転換を行ったものであるとする。つまり、前提であるはずの社会的合意も立法も必要とせずとも、本人の自己決定さえあれば、脳死移植は可能であるという論理の構築がそれである。
 「『生命倫理懇談会』は『最終報告』の公表をもって、〃自己決定があれば十分であって、立法も社会的合意も不要だ〃ということを社会的合意とせんと企図したのである」(小松一三一頁)17。
 小松氏によれば、さらにこの論理は、以外にも脳死臨調(「脳死臨時調査会」一九九〇年発足)の少数派に継承されていく。脳死臨調少数派は、多数派が脳死は医学的に人の死であり、人の死であることの社会的合意も成立しているとして、脳死を人の死とするのに対して、脳死を人の死とすることの思想的根拠の不在や社会的合意はいまだないと判断する。しかし、もし脳死状態に陥った患者が、「臓器を贈りたいという意思を強く持っていたならば、その意思を拒む理由を捜すのは困難であろう」18とし、患者の自己決定を以て脳死状態からの臓器の摘出を可能とする方途を認めている。さらにその後、この自己決定を軸とする立場は法案準備段階では主流にはならなかったが、脳死を人の死とせずに、本人の自己決定によって臓器摘出を可能とする金田・猪熊案、さらには提供意思がある場合にのみ人の死とする関根修正案へと貫流し、中山案に土壇場で最終的な修正を加えることによって、現在の臓器移植法が成立した、と小松氏は跡づける。
 このようにして、本人の自己決定によって脳死移植を再開する論理は、「生命倫理懇談会」から「脳死臨調少数派」へ、さらには国会内での論議へとつながり、社会的合意の存否にかかわらず、本人の意思によって摘出可能とした現行法に結実した。小松氏はこのように分析することによって指摘するのは、自己決定を切り札にすることによって社会的合意要件を無用として脳死移植を推進したことだけではなくて、この種の死を巡る問題を個人の自己決定に委ねることの制度化が成立したことでもあるという、いわば自己決定に関する二重の制度化である。
 「正に『臓器移植法』の可決成立とは、脳死・臓器移植を個人の問題へと還元するという社会的枠組みを制度化するとともに、その制度化の必須要件であったはずの社会的合意を制度化自体によって同時に形成されたとすることでもあったのである」(小松前掲論文一三七頁)。
 脳死移植を個人の自己決定に放任するだけではなく、この種の問題を個人に委ねるという制度の形成でもあるという洞察は傾聴に値する。小松氏はこれを自己決定を巡る「見えざる罠」と呼び得るだろうとしている。今後われわれの社会が、安楽死・尊厳死問題をはじめ、人工生殖、出生前診断、遺伝子診断という最先端医療技術の押し寄せる波に対して何らかのかたちで対応を迫られることは必至であるが、このような課題に関して、小松氏が指摘する自己決定の二重の制度化の視点は念頭に置いておかなければならないだろう。
 しかし、小松氏の分析は、自己決定の概念に関してあまりにも否定的であるように思われる。おそらく小松氏は、現代社会において死あるいは「いのち」について自己決定を言うことの陥穽の深刻さを見据えて、徹底的な批判の視座を据え置くために、自己決定の概念に対して敢えて終始否定的な扱いをしているのかもしれない。確かにそのような戦略的な意図もあるだろう。だが、移植法成立過程で主張された同じ自己決定概念にしても、その質と位置づけに関して決して一様ではないはずである。特に「生命倫理懇談会」のものと「日弁連意見書」、さらには金田・猪熊案における自己決定概念には質的区別を置かないといけないだろう。移植法成立過程で主張された自己決定概念に決して意義がないわけではない。しかし、そこには混乱やゆがみ、あるいは「副作用」とでも言うべき捩れた事情が存しているように思われる。もし町野B案に対抗するとするならば、実際には森岡氏のように何らかの自己決定概念に頼らなければならない。だが、自己決定の主張が依然として翻弄の歴史に棹さすかたちでなされるのであれば、自己決定の真価と本質は活かされないままであろう。そこで、臓器移植法成立の過程で主張された自己決定概念の歴史を、小松氏とは別様に辿り直す必要がある。以下でそれを試みる。



14小松美彦「『自己決定権』の道行き―『死の義務』の登場」(上)、『思想』二〇〇〇年二月号、十二六−十五七頁)。
15中山研一『資料に見る脳死・臓器移植問題』日本評論社一九九二年、八六−九九頁所収。
16報告書作成のリーダー的存在である加藤一郎氏の「脳死の社会的承認について」『ジュリスト』No.845,一九八五年十月には次のようにある、「……これは、患者の自己決定権とも関連のあることである。医療について患者の自己決定権を尊重すべきことが承認されつつあるが、脳死についても、とりあえず自己決定権の中に含めて、個人の意思を尊重するというのが、現状において脳死の判定を推進する一つの方法だと思われる。……このような患者本人の意思を尊重することに対しては、他人が違法だとか不当だとかいって文句をつける必要はないはずである。現在、脳死判定による臓器移植をした筑波大学の医師に対して、心臓死より前に臓器を摘出したから殺人罪だとする告発がされているが、臓器の提供を望む人とそれに応じて臓器移植をした医師に他人が文句をつけるのは、おかしいことだと思われる。
 こうしてみると、いわゆる社会的合意が必要だとしても、それは、脳死一般についての社会的合意ではなくて、脳死の判定によって死後の臓器提供を望む人に対して、脳死の判定をすることについての、社会的合意ということになる。それは、結局、臓器提供者の意思を尊重するかどうか、また、自分がかりに反対であっても他人がすることを認めるかどうかという、寛容の問題だということができよう」。
17報告書発表の直後からすでに同種の批判はあった。例えば澤登俊雄氏によれば、「……同報告は、あるときには患者の自己決定権を強調し、またあるときはそれを事実上否定する結果に終わっている。以上から明らかなように、最終報告の真の狙いは、脳死説の公認を妨げている社会的合意論を無力化するため、患者の自己決定権とそれによる死の概念の相対化を主張し、『まだ社会的合意の得られていない』脳の死による人の死の認定を、現時点で実施に移すことを可能にすることである」。(澤登俊雄「脳死問題の考え方―医学と法律学との間」『法律時評』一九八八年四月号)。また、小田直樹氏によれば、「最終報告は、国民レベルでは『自分がかりに反対であっても他人がすることを認める……寛容』についての「合意」だけを問題とし、『死亡概念』に対する『合意』は個々の患者の問題にしてしまう方向を示す(加藤一郎「脳死の社会的承認について」『ジュリスト』No.845,四一頁)。しかし、後述のように、『社会的合意』論の基礎が『死亡概念』決定問題自体の社会性にあるとすれば、社会レベルでの論争が尽くされていない段階で個人レベルでの問題解決を持ち出すべきではなかろう」(「死亡の概念について(一)」『広島法学』十三巻一号一九八九年七月)。他に中山研一「脳死と臓器移植をめぐる問題の再論(一)(二)」『警察研究』第五十九巻第六、七号一九八七年。加藤一郎・唄孝一対談「対談.脳死問題と日本医師会生命倫理懇談会最終報告書」『法律時報』六〇巻三号一九八八年などがある。
18臨時脳死及び臓器移植調査会答申「脳死及び臓器移植に関する重要事項について」中山『資料に見る』一三三頁。

三、翻弄される自己決定

 小松氏の指摘するように、脳死移植の法制化の論議で自己決定概念が全面に現れてくるのは、日本医師会生命倫理懇談会「脳死および臓器移植についての最終報告」(一九八八年)である。
 まず、自己決定概念が登場する文脈から見ておこう。報告書は、脳死は「人間の生物学的な死」であるが、それを以て「社会における人間の死」とするには、「文化的・社会的伝統の中で、自ら定まるものであろう」とし、一見、社会的合意を必要としているかのようであるが、後述するように、この「社会的合意」に全く重きを置いておらず、脳死を人の死とすることは前提にしていると言ってよい。したがって、脳死判定で脳死と認められれば、人の死を意味する。そこで、「脳の死による死の判定」をすること自体に、判断能力のあった時点での本人や家族の承諾が必要かどうかを問題にする。報告書はこの点に関して、死の判定は医師によって「客観的に」なされるのが「本来」であるが、脳死を人の死とすることに十分納得しない人が少なくない現状では、患者や家族に「同意を得て行うのが適当である」とする。そこでこの「同意」に関して、自己決定概念が登場する。再度引用すれば、
 「現状では、脳の死による死の判定がまだ一般的に公認されたとはいえない。しかし、脳の死による死の判定を是認しない人には、それをとらないことを認め、是認する人には、脳の死による死の判定を認めるとすれば、それでさしつかえないものと考えてよいであろう。このことはまた、自分のことは自分できめるとともに、他人のきめたことは不都合のないかぎり尊重するという、一種の自己決定権にも通じる考え方であるといえよう」(中山『資料に見る』九三頁)。
 文脈に注意が必要である。脳死判定の実施には、「本来」なら同意は必要ないが、脳死を人の死をすることに納得しない人が少なくない現状では、やむを得ず同意を得るのが適当であるとし、本来ならば必要のないこの同意に関して自己決定権が言われるのである。ここで報告書が自己決定概念に与えている位置が分かる。それは二次的なものであって、本来なら必要のないものであり、移行措置として暫定的に要請されているに過ぎない。ということは、もし日本医師会による「教育的ないし啓蒙的活動」(同九八頁)が功を奏して、脳死を人の死とすることが広く納得されるようになれば、自己決定は廃棄されるのであろうか。現行法から町野B案への移行を彷彿とさせるものである。しかもこうして二次的に用いられている自己決定概念が、「死の自己決定権」なのである。それは医療関係において主張されている自己決定権の中でも最もデリケートなものであり、多くの議論が必要なものであるはずである。また死の自己決定権の場合、それを肯定するためには、植物状態患者、「寝たきり」患者に対する治療やケアの拡充ないし緩和・終末期ケアやペインコントロール等の充実など、医療の環境改善が先決課題である。それがなければ死を自己決定させるという最悪も招きかねない。それにもかかわらず、そのような自己決定権を、しかも二次的に用いているのである。報告書が自己決定概念に関して驚くほど貧しい評価しか持ち得ていないことが分かる。
 さらにその直後にも、患者本人の意思と家族の意思との関係如何に関して言及されている中でも「自己決定権」が用いられている。
 「近頃、患者の自己決定権ということがいわれる。医療に関する決定については、患者本人の意思が第一次的であり、家族の意思は、患者が未成年者あるいは未成熟者か、または意思表示が不能な場合に、その代人として第二次的に問題とされるわけである。
 しかし、脳の死による死の判定の場合には、前述のように、患者本人または家族の同意を要件とするものではなく、社会的な礼節上、その意思を尊重してその同意を得て行うのが適当であるということである。したがって、本人の意思か家族の意思かを厳密に論じることは、ここでは必ずしも必要ではない。そして、その場にいるのは家族であるから、通常は家族の同意を求めることになる」(同九三−四頁)。
 引用冒頭の「近頃、患者の自己決定権ということがいわれる」というくだりが本来意味すべきなのは、まずは患者の権利擁護として主張される医療者に対する患者の自己決定権であるはずである。特に脳死移植が「見えない死」を待って始まる医療であり、術後管理に困難が予想される医療であるがゆえに、医療側の独断、専断が最も排除されるべきはずである。医師会として銘記すべきなのはまずこの点である。そもそも自己決定権は、単独化した個々人の任意の選択を保障するといったように没関係なものではなく、まずは支配、圧力が行使されている関係の方向性に注目して保障されるべきものと捉えなければならないだろう。「患者の自己決定権」が差し向けられているのは、医師側の態度改善へである。それにもかかわらず、医師に対する患者の自己決定権に関する記述は全くなく、もっぱら本人とその家族の関係に終始している。しかも、その本人と家族の意思の関係すら、自己決定権が付随的に考えられている以上、論じる必要もないということである。
 また、報告書が社会的合意を不要として自己決定によって脳死移植の解禁を狙ったものであるという批判は、小松氏だけではなく以前から多くの論者によって指摘されていたことである(註17参照)。確かにその社会的合意の扱いに関しても、注目すべきものがある。
 「概して時期尚早論者の説く社会的合意論は、国民の大多数の納得が必要だという心情を表しているに過ぎず、何をもって社会的合意とするか、またどうすれば社会的合意の成立が確認されるかについて、具体的な要件や手続きを明示していない。そのような社会的合意論は問題を徒らに曖昧のまま先送りすることにしかならないであろう。
 社会的合意を成立させ、確認する最も明確な方法は、国会による立法である。それは多数決原理によって国民全体の意思となり、反対の者をも拘束することになる」(同九七頁)。
 おそらく社会的合意を求める「心情」には、現在の医療者の態度では脳死移植というデリケートな医療を任すことはできない、とする人々の不信に応答しなければならないという医師会の一部の者の良心があったはずである。しかし、報告書はこの「心情」を切り捨て、社会的合意が必要であるならば、国会内で多数を掌握して立法化すればよいと考える。そうすれば反対派を「拘束」できる、と。自らに向けられている不信に応えることなく、反対派を立法によって拘束することこそ社会的合意の形成だといわんばかりである。また他方で、報告書は、「脳の死による死の判定」について、社会的承認を得ているとみなす19。しかし、それは、脳死を人の死とすることの承認ではなく、そのように承認する人を認めることの承認である。「個々の患者またはその家族」が了承すれば、それに他人が異議を唱えることはできないはずだ、ということである。
 社会的合意の意味を誤認し、医療者の根本的な態度変更を含めた医療における環境改善の課題に目を向けることなく、不信感を与える態度、環境を温存したまま、脳死を人の死とすることを個々の患者、家族の承諾へと終極させる。懇談会報告書が自己決定を用いているのはこのような立論においてである。「孤立化支配型の自己決定概念」20とでも言うべきであろうか。そして「善意」なる言葉が登場するのも、このように自己決定概念に対する誤認が甚だしい報告書の最後においてである。
 残念ながら、脳死移植の合法化に関する初期の論議の中で自己決定概念が用いられたのは以上の次第である。その後の法制化への動きは、一九九二年に脳死臨調の最終報告が出され、一九九四年四月にはいよいよ法案が国会に提出されることになる。当初の法案は、脳死を一律人の死とし、本人の提供意思が不明の場合は、家族の承諾によって臓器の摘出を可をするものであった。
 そこで次に、自己決定概念に関する評価の変遷過程で取り上げなければならないのは、旧法案の提出を受けて、その翌年に日弁連が発表した「『臓器の移植に関する法律案』に対する意見書」(一九九五年三月)21である。当意見書は、脳死を人の死とすることなく、本人の提供意思があり、かつ家族が拒まない場合にのみ臓器の摘出を可とするものであり、脳死臨調少数派や民間の研究会「生命倫理研究会・脳死と臓器移植問題研究チーム」(石原明氏、立花隆氏ほか)の提案(一九九一年)、その後の金田・猪熊案と同じ系譜に属すものである。しかし、特に意見書で注目すべきは、この種の文書としては最も多く自己決定概念を用いているにもかかわらず、それらはすべて医療者の態度変更、医療環境の改善に向けて方向づけられている「患者の権利としての自己決定権」としてである22。したがって、自己決定概念の捉え方は先に見た懇談会報告書とは対極に位置するものである。
 意見書はまず、脳死を人の死とすることの社会的合意が不在であること、脳死を人の死とした場合に、例えば「ドナー本人の意思を無視した臓器摘出、脳死判定後に臓器摘出と無関係に行われる医療の停止、脳死体の医学実験、医療資源としての利用」(町野『資料』六八頁)など深刻な人権侵害が生じることを指摘し、脳死を人の死とは見なさないとする。さらに、本人の意思の家族による「忖度」を許すなら、脳死を人の死とすることを認めない者や躊躇している者から臓器摘出が強制される可能性があること、また、法案は家族への承諾意思確認に主治医の関与を認めており、家族自身にも不当な圧力が加わるおそれもあることを理由に、本人の明確な提供意思がある場合のみ、摘出可能であるとする。だが、意見書の最大の強調点は、脳死移植を再開するためには、その条件として、患者の権利が保障されるように医療環境の改善がなされていなければならないとしている点である。
 「……日弁連は本法案に反対である。最近、臓器移植をめぐり、脳死判定前に臓器保存のための処置が行われたなどとして各地の弁護士会に人権救済申立てが行われる例が相次いでおり、医療に対する不信はいまだに払拭されていない。患者の権利が十分に保障されるよう医療の現状を改善することなど、検討を要する問題が多々存する」(同七一頁)。
 では、自己決定概念の扱いに関してはどうであろうか。冒頭の「日弁連の基本的立場」とされている四項目目には「摘出・移植を実施する医療施設は、日常診療においてもカルテの閲覧謄写権、患者の自己決定権など、患者の権利が十分に尊重されている施設でなければならない」(同六七頁)とし、自己決定概念を登場させている。意見書が自己決定概念を用いるのは、この文脈である。まず本文においては、法案にはレシピエントの自己決定権の保障が欠如していることを指摘している。
 「臓器移植医療において、臓器提供を受けるレシピエントは、移植による生存や社会生活復帰の可能性や程度、移植術の具体的危険性、術後の様々な負担、移植術を行わなかった場合の予後などが十分に説明され、理解した上で移植を受けるかどうかを自ら決定する手続き(インフォームド・コンセント)が保障されなければならない。しかるに法案は、単に医師の努力義務を課しているに過ぎず、レシピエントの自己決定権は全く保障されていない」(同七一頁)。レシピエント側の自己決定の保障は見逃されがちであるが、意見書はこの点に注意を向けている。それは推進する医師に「患者さんがお望みであるから」という口実を与えるものとしてではなく、むしろ決定の条件としての医療環境の整備を拓くことに向けられた患者の自己決定権の意味においてである。意見書はさらに、先に日弁連が採択した「患者の権利の確立に関する宣言」(一九九二年第三五回日弁連人権擁護大会採択)とその「提案理由」を再録し、いわゆる「インフォームド・コンセント」の原則を中心として、カルテの閲覧・謄写権、患者の権利擁護システムを含む患者の権利法制定やガイドラインの作成の必要を訴えているが、拡充されるべきこのような患者の権利の基底に自己決定権を据えている23。つまり意見書は、自己決定概念を、相次ぐ人権救済申立ての止まない医療界の現状に対抗し、患者の諸権利を確保し医療環境の改善を要求するためのキーワードとして位置づけていると言えよう。意見書における自己決定概念の使用はこの意味に限定されており、脳死状態での臓器提供の自己決定あるいは脳死を以て自らの死とすることの自己決定に関してではない。意見書が自己決定概念を以て専心するのは、提供と死の自己決定以前に、まず患者が真正な意味での自己決定ができる医療環境の実現である。もちろん意見書が、脳死を人の死とはせずに、脳死状態での臓器摘出を許容する以上、提供の自己決定、さらには提供しつつ「死ぬこと」の自己決定の可能性を開いていることは否定できない。だが、注意しなければならないのは、両者は同一ではない。「提供の自己決定」と「環境改善を拓く自己決定」には差異があるはずである。この差異が抹消されてしまえば、脳死移植の議論において自己決定概念はその本来の意義を失い、かえって逆の効果を産む危険がある。しかし、残念ながらこの差異を見えなくする方向に働いたのが金田・猪熊案である。
 周知のように金田・猪熊案は、脳死を一律人の死とする中山案への対案として、@脳死を人の死とせずに、A本人の事前の提供意思がある場合に脳死状態からの臓器摘出を可とするものであった。まず、脳死を人の死とはしないという点について、金田誠一氏の法案趣旨説明によれば24、脳死を人の死とする合意がない、看取る者の感覚から死とは実感できない、治療停止への不審、脳死者の利用など人権侵害が危惧される、法律的混乱を招く、などが理由とされている。この点、先の日弁連意見書とほぼ同じ発想である。金田氏によれば、そもそも脳死移植は、イギリスやドイツのように医学界自身が自らの努力で国民の信頼を得ている場合には、法律を必要とせずとも可能であり、また人の死に関して「トップダウンで国家が普遍的な定義を押しつけるのは間違い」である。それにもかかわらず、国内で法律が必要なのは、和田移植事件等に由来する医学界への不信とカルテの開示すら行っていない日本の医学界の特殊性に起因する。「本来であれば、移植学会を中心とする専門家の方々は、法制定による解決を求める前に、自己責任においてこうした本質的な問題に正面から取り組んでいただきたかったと思います」。金田氏も日弁連意見書と同様に、医学界の体質への疑問、医療の民主的環境づくりの遅れを指摘する。だが、金田氏はこの点において自己決定概念を用いてはいない。
 では、脳死を人の死としないで、死を招くことになる臓器摘出はいかにして可能であるのか。そこで要請されるのが、本人による提供の自己決定権である。
 「本法律案は、医師が移植のために脳死状態の人の身体から臓器を摘出してよいかという医師の視点からでなく、脳死状態になった自己の身体から臓器を提供してよいか、その臓器提供により死期を早めることになってもその権利行使は許容されるかというドナー、提供者本人の自己決定権の視点からとらえます。そして、そのような権利の行使、つまり提供行為には医師の摘出行為が不可欠であり、その権利行使に関与する医師の行為を許容してよいかという形で医師の摘出行為の是非が問われることになると考えます」(同)。
 猪熊重二氏の説明では、「ドナーが自己決定に基づいて、脳死状態に陥ったら、その正当な要件のもとの脳死判定を受けて回復の見込みがないということをみずから納得したときには、私にもし世の中に役に立つことがあればということの本人の自己決定を尊重し、またレシピエントの臓器をいただいてもっと生きたいという、両方の命を、特にドナーの自己の生命の尊厳に対する自己決定を尊重しようということでこういうことを考えました……」25。
 法案は、脳死移植という医師の医療行為を直接正当化するのではなく、まずドナーの臓器提供が患者自身の自己決定の尊重というかたちで正当化されている。主導権はドナー側に移行し、医療側の専断を排除するかたちになっている。脳死状態からの臓器提供は死を招く以上、医師の摘出行為の違法性を阻却する法的工夫の必要もあった。しかし、ここで重要なのは、自己決定概念の跳ね返りが生じていることである。つまり、自己決定概念が、当初主張されていた「環境改善を拓く自己決定」から「提供の自己決定」へと反転しているのである。法案の発想それ自体は日弁連意見書ないし脳死臨調少数派と同じものであるが、自己決定概念のこのような移動がある点、ここには重大な転換が生じていると言わなければならない。確かに法律案として提出されたものである以上、死に至る提供行為に十分な法的根拠が必要とされた。そこで用いられたのが、本人の提供への自己決定権である26。しかも、生者が心臓などの臓器を提供するという特殊な自己決定の内容に対しても、重大なコーズがなければならない。それゆえに、臓器提供の行為を殊更ヒューマニスティックなものと位置づけなければならなくなる。ここがまさに、生きたままの臓器提供を「キリスト教の愛の行為」ないし「仏教の菩薩行」に模した脳死臨調少数派の発想と、自己決定概念が合流する地点である27。
 ところで一方、中山案はその原型にあたる「臓器移植法案の骨子(脳死及び臓器移植に関する各党協議会検討素案)」(一九九三年五月)28の段階から次のような四項目を基本理念として掲げていた。
一、臓器の提供に関する本人の意思は、尊重されなければならないこと。
二、移植術に使用されるための臓器の提供は、任意にされたものでなければならないこと。
三、臓器の移植は、移植術に使用される臓器が人道的精神に基づいて提供されるものであることにかんがみ、移植術による臓器の機能の回復又は付与が必要とされる者に対して適切に行わなければならないこと。
四、移植術を必要とする者に係る移植術を受ける機会は、公平に与えられるよう配慮されなければならないこと。
 本人の「提供に関する本人の意思」の尊重が先頭に立ち、二番目にその意思が任意であることが言われている。順序に何らかの意味があるとするなら、素案は医師会懇談会の発想を継承していると考えられる。というのも、素案は、懇談会報告書と同様に脳死は人の死であることを前提とし、また、提供意思の尊重を、その意思の任意性を確保することの課題よりも優先しており、このことは、社会的合意の不在にもかかわらず本人の提供意思を自己決定権によって不可侵とみなす懇談会の意図と重なるからである。ところが、対案であるはずの金田・猪熊案はこの素案の基本的理念の項目順序を全くそのまま踏襲しているのである。金田・猪熊案が、脳死臨調少数派や日弁連意見書の精神を引き継ぎ、提供の自己決定の尊重に先立って、その前提として、医療環境の現状へと対抗しつつその改善へと向けられる患者の自己決定権を重視するのであるならば、当然この基本理念の項目順序も組み替えるべきであったはずである。それにもかかわらず、当案がこれをそっくり採録しているのは、先に指摘したように、自己決定概念を「環境改善を拓く自己決定」から「提供の自己決定」へと移動させてしまったことに由来するのではないだろうか。
 このようにして、社会的合意の不成立や医療環境の不備を懸念して非脳死説・心臓死説の立場から法的工夫によって臓器摘出の余地を模索する慎重派の帰結は、脳死説を前提し社会的合意、看取る者の感情を重視しない推進派と、自己決定を軸として合流することになる。現行法が、この両者の妥協であるか、それとも小松氏の言うように自己決定に関して新たな段階にあるものなのかは別としても、この合流点に位置するものであると言えよう。
 このような経緯を経て、提供の自己決定は「善意」と類義語となり、自己決定は専ら「提供」の選択肢に傾倒していく。自己決定概念と「善意」とは本来、全く別物であるにもかかわらずにである。脳死移植において「善意」なる言葉を用いることの胡散臭さ、また自己決定概念を素朴に楯にすることの危うさは、以上のような事情に由来するのではないだろうか。そして、おそらくこのような経緯の延長線に現れてくるのが、本人の意思が不明な場合でも、臓器を摘出することは「本人の自己決定に沿う」とする町野氏の「連帯的存在」論のような発想ではないだろうか。脳死を一律人の死とすることが、既成事実化とイメージ・コマーシャルの誘導によって下意識に定着していく一方で、自己決定概念と「善意」とのゆがんだ一体化によって、「善意」が強要され、皮肉にも自己決定概念が抹消されるという迷路が敷かれているのである。



19その根拠として報告書は、「保健医療サービスに関する世論調査」(総理府一九八七年)を持ち出す。「『脳死を死と認めてよいか』について、『認めてよい』が二三・七%、『認めない』が二四・六%であるが、『本人の意思や家族の意思に任せるのがよい』が三六・七%あるので、これと『認めてよい』を合わせれば六○・四%となる。したがって、脳死を認めることについては、すでにかなりのところまで社会的合意ができていると考えてもよいと思われる」。ここに数字の曲解が一目瞭然である。「本人の意思や家族の意思に任せるのがよい」と「認めてよい」が合算されることはないはずである。
20中山研一氏は「個体化方式」という言葉を用いている。「……報告書が患者側の意思による解決に固執するのは、上述の批判にもあったように、現状では脳死説を一律に適用することが因難であり、反対がなお少なくない現状の下で、実際に脳死による死の判定を部分的にでも実現するためには、是認する人には脳死による死の判定を認め是認しない人には認めないという個別化方式によって処理する以外に方法がなく、しかもそれは患者の自主性の尊重にもかなうという大義名分を持ちうると判断されたからにほかならない」(「脳死と臓器移植をめぐる問題の再論」(二)『警察研究』第五十九巻第七号、十五頁。
21町野朔編『資料・生命倫理と法T脳死と臓器移植(第三版)』信山社一九九八年六六−七七頁所収。
22脳死臨調少数派意見もこの意味で二ヶ所「自己決定権」を用いている。「摘出・移植を行う施設が、先端、実験医療のみならず、日常の診療においても、患者の権利、なかんずく自己決定権を尊重する制度を設けていなくてはならない。ここに自己決定権を尊重する制度としては、インフォームド・コンセントのガイドライン、診療録などの閲覧・謄写制度などがある。この点は、医に対する信頼の回復のために、必要不可欠である」(中山『資料に見る』一三四頁)。
23さらにこの自己決定権は、「生命に対する固有の権利、到達可能な最高水準の身体・精神の健康を享受する権利」、「幸福追及権(憲法一三条)、国際人権B規約六条、A規約十二条など」に基づけられるとしている。
24一四〇回衆議院厚生委員会十一号、一九九七年四月二日。
25一四〇回参議院臓器の移植に関する特別委員会〇三号一九九七年五月二十六日。
26心臓死説からの違法性阻却による臓器摘出の正当化において、自己決定権を中心に置く発想はすでに法学者達によって模索されていた。酒井安行「生体からの摘出は絶対にできないか」『法学セミナー』Vol37.No.9 453号一九九二年九号、川口浩一「脳死と臓器移植についての一つの提案」『奈良法学会雑誌』二巻二号1989年、大谷実『刑法講義総論』成文堂一九九四年、第四版補訂版三〇九頁、丸山英二「脳死臨調中間意見に関する若干の感想」『ジュリスト』987号一九九一年一〇月二一頁など。中山『脳死移植立法あり方』成文堂1995年、第六章九九−十二七頁と石原明『医療と法と生命倫理』日本評論社一九九七年二八五−九頁に諸説の紹介、検討がある。
27前註で挙げた模索の中にもすでにこのような傾向は存在していた。例えば、「本人が、受容者の救命に役立てるという愛他的な目的のために、自らの身体から移植用臓器が摘出されることを希望する意思を表明していた場合に、それに応じてなされる臓器摘出行為は、患者の希望をかなえるという点で患者の人格・尊厳を重んじる行為」である(丸山前掲論文二一頁)。
28中山前掲『脳死移植立法のあり方』所収。

四、自己決定概念の捉え直しに向けて

 脳死移植の法整備に関する議論において、自己決定概念には以上のように相反する複雑な意味が彫りつけられている。しかし、そうだとしても、脳死を一律人の死とし、本人の意思不明の場合は家族の承諾で足りる、とする町野B案の方向への法改変に反対しようとするならば、何らかのかたちで自己決定概念に依拠せざるを得ないだろう。だが、上述したような経緯によってゆがみを孕んでいる自己決定に頼ることの危うさも十分に自覚しておかなければならない。それでは、脳死移植において、自己決定を尊重すべきであるとする理念のあり方をどのように考えればよいのだろうか。
 自己決定の尊重が、当事者自身の決定を最優先することを意味するとしても、自己決定という事態を孤立化、実体化して捉えてしまうならば、それは「生命線」を絶たれ本来の意義を失うことになろう29。脳死状態での臓器提供の意思に関しての自己決定の場合、それが決定を囲む諸関係から遮断されて純粋に一個人の決断に還元されるならば、自己の死のリアリティーが欠如している中で、善意か無関心かの単純な選択になってしまい、強引な推進に容易に籠絡されてしまうだろう。また他方で、本人の自己決定に徹するならば、家族の承諾や拒否は不要であるといった意見も散見される30。これも自己決定を孤立化して捉えている例であろう。自己決定を正当に尊重するためには、自己決定の「生命線」とでも言われるべき諸関係に注目し、それを孤立化させないことが出発点となるだろう。この意味で、自己決定は「自己」の問題ではなく、むしろ「関係」の問題であるとも言えよう31。しかもこの場合、自己決定の持つ関係性は、二重の意味で理解される必要があると思われる。まず挙げられるのは、決定がなされる環境としての関係性である。自己決定がなされるのは最終的には一個人においてであるとしても、その決定は当然、それを取り囲む環境を関数としてなされているはずである。自己決定が、ある種の強迫、誘導、詐欺によってではなく、真正なものとして成り立つためには、環境としての関係性に注目し、その改善が継続的になされなければならない。例えば先に見た日弁連意見書が自己決定概念によって強調するのは、この意味での関係性への注目であった。脳死移植の場合、患者中心の医療に向けての医療環境の根本的な改善という医療一般の課題を初めとして、徹底した救急救命、移植必要性の確実な診断と厳密な脳死判定、法・ガイドラインの適切な運用、操作の意図を排した真摯な情報提供、厳格な検証作業と情報公開等が挙げられるだろう。
 だが、本稿が強調したいのは、自己決定に内属するもう一つの関係性、自己決定を尊重することの理念が持つ根本的な意義から由来する関係性である。それは自己決定の環境が整備されなければならないといった上述したような主張や懸念が形作っている社会全体に広がる雰囲気に関係している。自己決定を尊重することの根拠は、哲学史に顧みれば、そうすることが最も個々人の幸福につながり、社会全体の快楽の量も増大するからであるとか、人間が理性に従って自らの行動を制御できる存在であることに由来する尊厳性が要求するものであるとされていた。しかし、われわれの素朴な感覚に即して言うならば、われわれが個々人の決定や意向が尊重されるべきだと考える場合、そこには、功利主義的配慮や人間の「道徳性」といったものについての意識はなく、むしろ、個々人がその存在そのものから尊重されること、個々人それぞれの生活や人生や思いが、その人の存在そのものから大切にされることを願う気持ちがあるとは言えないだろうか。つまり、自己決定を尊重することの理念は、その根拠に、「他者」と共に生きることについてのわれわれ相互の了解が存するのではないだろうか32。そうだとするならば、個々人においてなされる自己決定は、われわれが相互に相手を大切にしようという社会の支えによって常に裏打ちされていることになるだろう。しかし、だからといって、このことが、個人の自己決定は社会のパターナリズムによって干渉されなければならないということを意味するのではない。自己決定を関係性から捉えてその意義を再構成することは、個人の自己決定に周囲の者や社会の意向を「対立させる」ことではない。そうではなく、自己決定が真正なものとして成り立ち、決定した個人がその決定によって真に満足できるような環境を形成しかつ監視するという意味において、個人の自己決定を「下支えする」sup-port関係性を開示し、確保することである。
 したがって、脳死を一律人の死とし、本人の意思不明の場合にも家族の承諾によって臓器摘出を可とすることに対抗して、本人の自己決定を優先するとしても、決して自己決定を孤立化させることなく、それを支える社会的関係性によって常に裏打ちしていく必要があるだろう。そのためにも、現行法が条件としている家族による同意は欠かすことはできない。それは本人だけではなく、家族の者にも家族自身の身に等しい脳死者の身体に対する自己決定権が存在するという観点から、本人と家族の二つの自己決定権33を認めるというよりも、自らによってはもはや自身を守るすべのない患者本人の提供への自己決定―「善意」―が真に活かされるために、脳死移植医療を監視し見守るためにも家族の拒否権が認められなければならないという理由からである。そして、もし児童以下の小児からの臓器摘出があり得るとするならば、その場合に決定を委ねられる親権者の自己決定(筆者修正)が、それを囲む社会的関係性によって幾重にも下支えされ、真正なものとして成立する場合においてのみであろう。

2000.09.09脱稿




29医療において患者・クライアント個人の決定が最優先されることがいち早く是認されはじめたのはアメリカ合衆国においてであるが、その際、司法判断は自己決定の権利を患者のプライヴァシー権に基づけていた。人工妊娠中絶に関する州の規制が女性個人のプライヴァシー権を侵害するとしたルー対ウェイド判決や、カレン裁判を初めとする一連の延命停止の措置を求める訴訟で、いわゆる患者の「死ぬ権利」が認められたのも、患者本人のプライヴァシーの権利が根拠とされていた。だが、生殖や生死の操作に関する決定権を個人のプライヴァシー権とすることは、問題が「公」から隔絶された「私」の領域に閉じこめられることによって、社会が十分な環境整備や支援を怠るという事態が懸念されてきた(高井裕之「関係性志向の権利論・序説―アメリカにおける堕胎規制問題を手がかりに―」(一)〜(三)『民商法学』九九巻三号〜五号一九八八年、Catharine A.Mackinnon,:Feminism Unmodified-discourses on life and law-,Harvard University Press, 1987,キャサリン・A・マッキノン、『フェミニズムと表現の自由』奥田暁子他訳、明石書店一九九三年、参照)。
30例えば註10で挙げた平野氏やバイオエシックスの紹介者の一人である木村利人氏の読売新聞紙面での見解(「臓器提供の『意思』尊重期待 (論点) 」読売新聞一九九七年十月十五日朝刊)、さらに意外にも、法施行後の第一例目となった高知赤十字病院の主治医である西山謹吾医師が、厚生省第二四回臓器移植専門委員会で同種の意見を述べている(厚生省第二四回臓器移植専門委員会議事録二〇〇〇年二月八日)。
31江原由美子「『自己決定』をめぐるジレンマについて」『現代思想』一九九九年一月号。
32自己決定の原則を根本から再考するためには別稿を待ちたい。この種の課題に関する重要な研究として以下のものが挙げられる。立岩真也『私的所有論』勁草書房、一九九七年。江原由美子編『生殖技術とジェンダー・フェミニズムの主張 3』勁草書房、一九九六年。最首悟『星子が居る』世織書房、一九八八年。土屋貴志「『本人のため』の『自己決定』」京都新聞一九九八年十一月六日朝刊「思想の進行形・生命操作(7)」。高井裕之前掲論文。竹内章郎「死ぬ権利を相互承認し得るほど人類は進歩していない」第四回日本臨床死生学会/第一七回日本医学哲学・倫理学会合同大会一九九八年十月。Milton Mayeroff:On Caring,Haper & Row,1971(ミルトン・メイヤロフ『ケアの本質』田村真・向野宜之訳、ゆみる出版、一九九八年)。Maria Mies & Vandana Shiva:Ecofeminism,Halifax,1993(抄訳「自己決定―ユートピアからの終焉?」後藤浩子訳『現代思想』一九九八年五月号)、など。
33石原前掲書一九三−二〇一頁二九五−六頁、平林勝政「臓器移植の比較法的研究―各国立法の小括と〃承諾〃権の一考察」『比較法研究』四六号一二五頁、参照。


UP: 20080516 
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