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「『障害文化』論が多文化教育に提起するもの」
大阪大学大学院人間科学研究科修士論文
大阪大学大学院人間科学研究科博士前期課程 松波めぐみ 2001
− 目 次 −
序章.はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
0−1.問題意識 <1>
0−2.本論文の執筆動機 <2>
0−3.本論文の構成 <2>
序章の注 <3>
第一章.障害学とは何か ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 6
1−1.障害学とは <6>
1−1−1 障害学の定義 <6>
1−1−2 障害学の成立 <6>
1−1−3 日本における障害学の現状 <7>
1−1−4 障害学と教育学 <7>
1−2.障害学成立の背景
1−2−1 障害者運動の質的転換 <8>
1−2−2 「ろう文化運動」のインパクト <10>
1−2−3 マイノリティの運動と新しい「学」 <10>
1−2−4 障害学が「学」である意味 <12>
1−3.障害学の制度的枠組み <12>
1−4.小括:障害学の視点と目的 <13>
1−4−1 障害学の存在意義 <13>
1−4−2 障害学の視点とは何か <14>
1−4−3 障害学の目的とは何か <14>
1章の注 <16>
第ニ章.障害学の基本概念 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 24
2−1.障害の定義をめぐって <24>
2−1−1 「障害」「障害者」の相対的な定義 <24>
2−1−2 WHOの国際障害分類(ICIDH) <24>
2−1−3 国際障害分類への批判 <24>
2−1−4 国際障害分類のその後 <25>
2−2.障害の「モデル」 <26>
2−2−1 批判の対象としての「医療モデル・個人モデル」 <26>
2−2−2 障害学の基本概念、「社会モデル」 <26>
2−2−3 「ポスト・社会モデル」 <27>
2−2−4 集団に注目する「文化モデル」 <27>
2章の注 <29>
第三章.「障害文化」論の系譜 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 32
3−1.「障害文化」論の外枠 <32>
3−1−1 「文化」とは何か <32>
3−1−2 「障害文化」とは何か <32>
3−1−3 本論で検討する対象 <32>
3−2.「障害文化」論の前提 <33>
3−2−1 ろう文化運動の意義と「障害文化」への影響 <33>
3−2−2 「障害文化」の海外事情 <35>
3−3.先駆的な議論 <35>
3−3−1 杉野昭博の「障害の文化」論 <35>
3−3−2 「障害を肯定する文化」:長瀬修の提起 <37>
3−4.「障害文化」の社会学的研究 <39>
3−4−1 「生活文化」研究の意義:ましこひでのりの提起 <39>
3−4−2 「文化」と「身体」:倉本智明の提起1 <40>
3−5.「差異派」文化運動の意義:倉本智明の提起2 <42>
3−5−1 障害(者)文化運動とは <42>
3−5−2 「平等派」と「差異派」 <42>
3−5−3 「差異派」としての青い芝、ドッグレッグス、態変 <43>
3−5−4 「差異派」の現状認識と戦略:ドッグレッグスを例に <43>
3−5−5 小括:「文化運動」としての「差異派」の意義 <44>
3−6.「生の全体性」:石川准の提起 <45>
3−6−1 「克服」と「肯定」をめぐって <45>
3−6−2 石川の「文化」観:「生の全体性」 <47>
3−6−3 小括:「『生の全体性』としての『障害の文化』」の意義 <47>
3−7 その他の「障害文化」論 <48>
3−7−1 自律生活センターの「文化」 :横須賀俊司の提起 <48>
3−7−2 二元論を超克する「障害文化」:津田英二の提起 <49>
3−7−3 たった一人の「文化」宣言:ニキ・リンコの軌跡 <51>
3−8 この章のまとめ <52>
3−8−1 系譜 <52>
3−8−2 「障害文化」の意味内容から見た分類 <53>
3章の注 <54>
第四章.「障害文化」論の意義 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 70
4−1.「障害文化」論が提起された理由 <70>
4−1−1 「障害文化」は何に対するオルタナティブか <70>
4−1−2 「障害文化」論が映し出すもの:健常者中心主義 <72>
4−2.「障害文化」論のキーワード;教育的機能に着目して <72>
4−3.多文化教育との接点 <73>
4−3−1 多文化教育の歴史的意義 <73>
4−3−2 多文化教育の目的 <74>
4−3−3 多文化教育と「障害文化」論の接点 <75>
4−4.「障害文化」論の限界と危険性 <76>
4−4−1 「アイデンティティの政治」としての「文化運動」の限界 <76>
4−4−2 「文化」を消費される危険性 <76>
4−5.「障害文化」論の教育への示唆 <77>
4−5−1 多文化教育への示唆 <77>
4−5−2 人権教育/啓発への示唆 <77>
4−6.今後の課題 <78>
4章の注 <80>
あとがき ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 86
参考文献
これより本文。
序章.はじめに
本論文は、「障害学」という新しい学問分野における議論、中でも「障害文化」論*1に注目することで、多文化教育および人権教育への示唆を得ることを目的とする。
多文化教育と「障害(者)」という取り合わせは、いささか奇異に思われるかもしれない。なぜなら、多文化教育といえば通常、「人種や民族」の多様性に焦点を当て、異なる文化を尊重し合う教育、あるいは集団間の平等をめざす教育と考えられているからだ*2。ところが、「障害者*3」への一般的な見方を転換させる「障害学」−その定義は次章に譲る−は、従来別個に存在するように思われていた「障害者」と「多文化教育」との接点を暗示する。その接点とは何か。本論では「障害文化」論を手がかりにして、両者の接点と位置関係を明らかにしたい。そうすることによって、「障害学」の提起を多文化教育に生かす展望が得られると考えるからだ。
0−1.問題意識
「障害学」という学問を知る以前に、筆者は一見バラバラな二つの問題意識を持っていた。その概略を記しておきたい。
@多文化教育における「障害」の不在 :アリバイとしての言及?
筆者が多文化教育に関心をもったのは、マイノリティの人権保障を現実化する手段として有効だと考えたからである*4。しかしある時から一つの疑問をもつようになった。それは、文献に登場する「多文化教育で扱うべき差異のリスト」には、性別・年齢・「障害」等も挙げられていながら、実際には「人種、民族」しか取り上げられないことに対する疑問である。試みに、「障害」という語に注目して多文化教育の文献を調べてみたが、「障害」がまともにとりあげられている事例を、ついぞ発見することができなかった*5。
これには理由がなくはない。歴史的に、多文化教育は(特に米国では)教育現場におけるマイノリティ生徒の学業不振という現象から、草の根的な教育運動として誕生した。その経緯からすると、尊重すべき「文化」が、まず非主流の人種や民族のことを指すことは自然であったし*6、日本で多文化教育が受容された文脈には「近年の外国人児童の急増」という認識があり*7、尚更「多文化」は「多民族(外国人)」のことと解釈されている。 しかし、それならばなぜ「扱うべき差異のリスト」に「障害」は載せられ、言及だけはされているのだろう。それは単なる「アリバイ」なのだろうか。
A誰のための啓発か 〜アリバイとしての「啓発」*8?〜
私事になるが、筆者には一人暮らしをしている,七年来の車椅子使用者の友人がいる。彼女やその周囲の障害をもつ人と過ごす時間を通して、「障害者」と呼ばれる人の人となりや生活世界も、まさしく多様であることを実感してきた。折にふれて、彼女らが社会で遭遇する困難や屈辱、差別の一端を知る機会もあった。
一方、人権NGO(非政府組織)の会員として活動していた筆者は、人権教育の世界で「障害者」のことがあまり語られないことに気づいた。語られるとしても優先順位は低い。また障害者運動と、他の人権やマイノリティに関わる運動とが「切れている」とも感じた*9。そのことをどう考えてよいのか、長い間わからなかった。
そして、行政等が行う「人権啓発」において障害者が取り上げられる事例を見聞きするたびに、疑問を感じるようになった*10。なんらかの成功を遂げた障害者や、人生の中途で障害を負い苦悩の時期を経て見事に再起した人が自身の体験を語るにせよ、障害をもつ芸術家を呼んでくるにせよ、障害児の親や福祉関係者が「我が子」あるいは「私の出会った障害者」を語るにせよ、啓発用ビデオや「障害者もの」とされる映画等を上映するにせよ、全くといっていいほど有効性を感じられなかった*11。少なくとも、障害者が日々直面する生きづらさや差別の解消に役立つとは到底思えなかった。この疑問について、障害をもつ友人と時々話しあってきた。「そんなもん(啓発)で、何か(状況が)よくなると思っている障害者なんか、おらへん。『ほら、やってますよ』って、アリバイみたいに、やってるだけなんちゃう」というのが友人の答えであり*12、筆者もそうかもしれないと思った。しかし、ならばなぜ、そのような「啓発」が繰り返されているのだろう。そして、仮にも「人権」を掲げるNGOに参加し、大学院でも人権教育を学ぼうとしていながら、明確な考えを持てない自分がもどかしかった。
0−2.本論文の執筆動機
こうした問題意識を持っていた筆者にとって、大学院進学後に出会った「障害学」という学問は、長年の言語化できなかった疑問やもどかしさに言葉を与えてくれるものだった。日本で最初に出版された「障害学」の本[石川・長瀬編1999]を読み終えた時の感動は忘れられない。長年のモヤモヤの正体に初めて近づけた気がした。それからは「障害学」の関連文献を貪るように読み、メーリングリストに加入し*13、研究会や勉強会に片端から参加するようになった*14。そこで障害当事者を含む研究者や学生らと議論や雑談を重ねてきた。ふだんのつきあいも増えた。そこでの会話は、抽象的に「人権」や「人権教育」について語るよりもはるかに面白く感じられ、発見の連続だった。そのうち、全く結びつかないように思い込んでいた「多文化教育」と「障害(者)」との接点がぼんやりと見えてきた。また、先述の二つの問題意識へのヒントも得られるような気がしてきた。
本論で行うことは、筆者が「障害学」に出会って学んできたことを、自分のフィールドである多文化教育・人権教育に反映するための基礎作業である。この作業を行う理由は、マイノリティの権利を擁護し「多文化共生」の社会を志向するはずのこれらの教育実践が、むしろ健常者の「障害者」に対するステレオタイプや、保護者的(paternalistic)な態度を強化し、彼ら・彼女らの「生きづらさ」を再生産している−と筆者には思える−ことから抜け出すために、どうしても必要なことだと筆者が感じたためである。
0−3.本論文の構成
本論文の大まかな構成は以下のとおりである。まず1章では「障害学」とは何かを、成立した背景とともに述べ、その枠組みと性格をおさえる。次に2章では、3章以降の前提となる基本概念を整理しておく。そして3章では、本論の中心課題である「障害文化」に関する議論の前提と系譜を述べ、内容の整理を行う。4章では、3章で展開した「障害文化」論の目的と意義をまとめる。その過程で多文化教育との接点を浮かび上がらせ、多文化教育・人権教育への示唆をまとめる。最後に今後の課題を述べたい。
<序章の注>
*1:本論文の標題に用いている「『障害文化』論」という語は、定着した言い方ではない。詳細は3章で述べるが、障害学(1章参照)の文脈で、「障害の文化」「障害者文化」という語を用いて論じられている議論の総称として、筆者が試みに名づけたものである。
*2:ここで示した多文化教育の意味は、最大公約数的なものである。実際、多文化教育の定義や意味内容は、(たとえ米国内だけでも)立場や文脈により全く異なり(平沢2001:60)、「研究者や実践化の数だけ定義がある」と言われるほど幅がある(中島1998:13)。
*3:《「障害者」という言葉について》
本文中で「障害者」という言葉を用いていくことになるが、そもそも「障害者」とはどういう人びとのことなのかは、自明ではない。「障害」の定義については本論2-1に譲るが、さしあたりここでは次のような「障害者」の定義を掲げておく。
障害者とは、身体(知的・精神的活動や認知に関わる事柄をも含む)上の差異に関
わって他の人びとから分かたれ『障害者』と名付けられるとともに、『障害者』と
してふるまうことを期待される人びとである。(倉本2000b:97)
定義になっていないと感じられるかもしれないが、この構築主義的(※下記参照)な障害者観は、「障害学」の論者に共有されている。少なくとも医学・解剖学等により客観的に「障害」が定義可能だという「常識」的な考え方を退けている点に注目されたい。
※構築主義:社会問題や事象が、状態として在るのではなく活動によって構築されると考える立場。本質主義(ものや集団や出来事が本来的・内在的に特定の性質を備えているという考え方)の想定を離れ、人々の言語使用に注目して探求を進める。この立場では、xとは「人々がxと名付け、xとして扱うもののことである」と定義され、主観的表象/客観的構造という二分法を退ける。(平・中河2000:9-14、石川1999a:45)
《「障害者」という表記について》
「障害」という言葉はそもそも「さしさわり、害」という否定的で差別的な意味をもっており、「障害者」という言葉も、健常者社会の否定的なまなざし反映したものと言えよう。ゆえに「障害者」を「差別語」だと考え、「『障害』者」や「障碍者」、「障がい者」という表記が用いられたり、婉曲語の「チャレンジド」(※米国等で「障害者」に対する婉曲表現として用いられた「challenged=挑戦されている者」を採り入れたもの。「いんちきくさい」「障害を恥とする世間の発想を、かえって曖昧にするもの」として好まない障害当事者が多いと[シャピロ1999:53]は報告している)が用いられることもある。しかし本論では、筆者もその一員である社会が一群の人びとに「障害者」というレッテルを貼り、差別的・保護者的なまなざしを向けていることを隠さず、「障害者」と「健常者(ふだんはそのように自覚を持つ必要もない存在)」との非対称性を表すために、あえて「障害者」という語を用いる。これは、例えば「障碍者」といった用語を用いることが、「自分は”意識の高い”健常者なのだ」というアリバイ呈示になることを避けたいうからでもある(むろん、「障碍者」等を使う人にそういう傾向があると決め付けるわけでは、全くない)。ただし、文脈によっては、「障害をもつ人」を用いることがあるが、これは婉曲のつもりではなく、そう書くほうが自分にとって自然だと感じられる場合に限っている。
日本における「障害学」の論者は、ましこ(1998)等を例外として、概ね「障害者」という語を用いている。なお、「障害者」をめぐる英語圏の混乱については[長瀬1996a,1998b]が詳しい。
*4:元々「人権教育」に関っていた筆者が「多文化教育」に興味を持ったのは、人権教育(これも定義不能なほど、人により捉え方が異なるが)においては、どうしても普遍的な「権利」「平等」概念を強調することになり、それだけでは構造化されたマイノリティの問題状況に充分取り組めないと感じたからである。
*5:「障害」という言葉が「差異のリスト」に挙げられながら全く論じられていない例は、枚挙に暇がない([江渕1985:20][元木1995:17」[朝倉1995:33][バンクス1996:19][佐久間1996:60][高橋1997:22]他)。文脈からすると言及しなくて当然と思われるものもあるが、単にリストに加えられただけのような事例も多い。
*6:いや、これを「自然」とは言えないかもしれない。人種・民族的マイノリティ生徒の学業不振が問題視されていた時、当該校区の「障害者」生徒はどこにいたのか。健常者生徒との区別が見えないほど「統合・融合」していたから問題にならなかったのか。そうではないはずである。身体的・知的能力の差異はかれらが「そこにいない」ことを正当化しうると考えられていたのか、それとも視野にも入っていなかったのか。検討の余地があろう。
*7:なお、「近年の日本の国際化」「昨今の外国人児童の急増」といった文言が冒頭に来るような「多文化教育」論には、筆者は違和感を持っている。それは日本を「単一民族、単一文化」的に捉えた上で,「元々、多文化化の進んでいた」欧米の多文化教育を、日本の「昨今の」状況へのヒントを提供するものとして(対症療法的に)期待しているからだ。そこには日本国内の元々の「多文化」状況への目配りや、力関係ゆえに少数派が社会の中で不可視化されているという認識は希薄である。(例外として[中島1998:24-25]等。)
*8:「アリバイ」とは、不遜な言葉かもしれない。「障害者問題」を真剣に考え、「啓発」に真摯に取り組んでいる人もいるに違いないのだから。しかしあえてこの言葉を用いた。なお、「アリバイ」という批判は筆者自身にも向けられうるということは自覚しておきたい。後に(1-4)述べるが、障害学はそれに関心をもつ人の「位置」を問わずにはおれない学問である。自分はなぜ、障害者という「他者」に興味を持ち、論文を書こうとまでするのか。そこに「私はこれだけ考えています」という「アリバイ」呈示は含まれていないと言えるのか、といったことだ。(「アリバイ=免罪符」が持つ現状維持の機能については[ましこ2000:150-162]から示唆を得た。)
*9:「切れている」と思った例を筆者の体験の中から挙げる。筆者は1993年頃より「国際人権NGOネットワーク」というNGOのゆるやかな連合体組織に関わっていたことがあるが、そこには「民族差別」や「子どもの権利」に取り組む団体は参加していても、障害者団体は参加していなかった。その理由を誰彼となく尋ねてみたが、みな「さあ」と首をかしげるばかりだった。「そういうことは、福祉の領域じゃないか」と言われたこともある。また、一般に「人権の歴史」という主題があれば、「水平社宣言」や「女性参政権獲得運動」は語られても、障害者(解放)運動の歴史はまず、語られない。大阪の「リバティおおさか(人権博物館)」においても、「障害をもつ人」に関する展示は、他のマイノリティの展示に比して、運動の視点が弱く(例えば筆者が本論で言及している、「青い芝の会」、自立生活運動、「ろう文化」関連の展示は皆無)、「福祉の受け手」という保護者的な「障害者」観が強いという印象を受けた。
*10:ここでは筆者の主観的な「不満」を述べるにとどめたが、この主題について真摯に、まっとうに論及したものは非常に少ないように思われる。堀(1998:161-180)ぐらいしか見つけることができなかった。ちなみに、岡原・立岩(1990:164)は障害者についての「啓蒙」の現状は、「惨憺たるもの」ではないかと述べている。
*11:むろん全部を知っているわけでも、全てについて有効性がないと考えるわけでもない。牧口一ニら、一定の影響力を持つ優れた実践者=障害当事者がいる。また自立生活センター(1章*18参照)が行うアドボカシー(権利擁護)活動として行う事例等も筆者は知っている。しかし、全体からするとごく一部と思われる。
*12:もちろん、筆者の友人の意見を「障害者の意見の典型」等と言う気は毛頭ない。
*13:本論1-1-3および1章の*10を参照。
*14:筆者が参加した研究会等は以下のとおりである;関西障害学研究会、関東障害学研究会、神戸大学障害学セミナー(発達科学部内の自主ゼミ、津田英二教官)、京都精華大学人文学部大学院山田富秋ゼミ。記して感謝します。
第一章.障害学とは何か
1−1.障害学とは
1−1−1 障害学の定義*1
障害学(Disability Studies)とは何か。2000年7月に米国の新聞が、この新しい「学」の現状を報じた記事は、次の文章で始まる*2。
『障害学とは何か』を理解するためには、何が障害学では『ない』かを考えること
が有益である。障害学はよりよい人工補綴を作ることではない。障害学はマヒを治そ
うとすることや、誕生時の"奇形"を起こす遺伝子を識別することについての研究でも
ない。
では何なのだろう。国内外で障害分野の仕事に長く携わり、オランダ留学中に英国の障害学に触れて、その内容を日本に紹介してきた長瀬修は、障害学を、「障害、障害者を社会、文化の視点から考え直し、従来の『障害者すなわち医療、リハビリテーション、社会福祉、特殊教育の対象』といった『枠』から障害、障害者を解放する試み」あるいは「障害を分析の切り口として確立する学問、思想、知の運動」と定義する(長瀬1999:11)。
現在も形成途上にあるこの学問は、必然的に学際的・分野横断的な性格を持つが、決して「障害や障害者に関わる諸々の学問の総称」ではなく、明確な方向性を持つものである。その方向性とは例えば、専門家ではなく障害当事者の経験を重視すること、健常者の身体や生に基準を置くことを自明視してきた諸価値を問い直すことである。このことは女性学(Women's Studies)が「女性に関わる諸々の学問の総称」ではなく、男性中心に構築されてきた諸学のイデオロギー性を暴き、突き崩していくものであったのと同様である。
1−1−2 障害学の成立
「障害学」という枠組みの原型は1970年代の英国に遡る。次節で見るような障害者運動の転換の中で、障害者を「治療・保護・管理」の対象と見て施設収容を推進する福祉政策や、「リハビリテーションで一生を過ごす存在」といった障害者観への異議申し立てが、障害者自身によって開始された。中でも英国の「隔離に反対する身体障害者連盟」(UPIAS)は、「障害」の身体面impairmentと社会面disability*3を分離し、社会面こそ重要だとする主張を展開した。つまり、障害者が抱える問題の原因は身体的損傷ではなく社会的障壁にあるのであり、社会環境を変えることで「障害」は取り除かれると主張したのである。この視点は後に「社会モデル」と名付けられた(2-2-2を参照)。UPIASの主張を理論化した活動家で、自らも障害者であるヴィク・フィンケルシュタインが75年に通信制のオープン大学で社会的視点から「地域社会での障害者」というコースを開講したのが、英国障害学の源流とされている(長瀬1999:15)。つまり障害の社会面disabililityの理論化が、障害学Disability Studiesの始まりであった。
障害者をめぐる問題の本質を個人から社会の側に突き返していく視点は、60年代後半以降、日本を含む世界各地で起こった障害者運動でも見られた(1-2-1参照)。この視点はやがて81年結成のDPI(障害者インターナショナル)のような国際的な運動でも共有され、さらには90年の米国のADA(障害をもつアメリカ人法)成立に見られるような各国での立法や、国連総会で93年に採択された「障害者の機会均等化に関する基準規則」にも影響する。このような運動の展開と障害学の発展とは、互いに深く結びついてきた。
障害学の制度化は80年代に米英が先鞭をつけたが(1-3参照)、この学問への関心は世界的な広がりを見せている。障害者をめぐる国際的な動きがこの十数年間で急展開したことを考えれば、開発途上国を含め、障害学の普及と発展は当面続くであろう*4。
1−1−3 日本における障害学の現状
日本においては、内容的に「障害学」に該当する研究は以前から存在し、英米の障害学に劣らない蓄積が、実はなされている*5。70年代以来の障害者解放運動とも呼応して、主流の価値−例えば「発達」観や優生思想−に根本的な疑問を提起したり、「自立生活」*6や統合教育といった実践課題を理論的に支える研究が、英米の障害学の存在が知られるはるか以前から、脈々と積み重ねられていたのである(倉本2000c)。このことは、日本において障害学が立ち上がりつつある現在、改めて見直されていると言える*7。
もっとも、「障害学」という枠組み自体が日本で顕在化してきたのは、ごく最近のことである。1995年から長瀬修が海外の「障害学」事情を『福祉労働』等の雑誌で紹介し始め、前後して95年3月には後述する「ろう文化宣言」(1-2-2、3-2-1を参照)が『現代思想』誌で発表された。その後いくつか関連する動きがあり*8、「日本でも『障害学』の立ち上げを」と望む声が徐々に高まる中、長瀬と、以前から「障害学」的な研究を行っていた社会学者の石川准(静岡県立大学)とが編著者となって、1999年春、日本における本格的な障害学の誕生を告げる論文集『障害学への招待』([石川・長瀬編1999]、以後『招待』と略す)が出版された*9。同書は数多くの書評で取り上げられる等、異例の反響を呼んだ*10。その後「障害学」を冠した研究会が関東・関西で発足した。また議論と情報交換の場として、「障害学メーリングリスト*11」がある。現在、日本における障害学はいまだ制度化をみていないが(1-3参照)、社会福祉学や社会学などの分野で、各分野に内在する問題を「障害学の視点から」(1-4-2参照)提起する動きは既に始まっている。
1−1−4 障害学と教育学
障害学の問題提起は広範な学問分野に及ぶべきものであり、教育学がその例外でありうるはずはない。なぜなら障害学は、障害者を(治療にしろ「ケア」にしろ)「働きかけの対象」として一方的に規定することや、なんらかの意図をもって障害者の「生の断片を切り取って」(石川1999a:74)表象することを批判するものであるから、それはとりもなおさず、障害者を「教育される」対象および「について教える」対象としてきた教育学に対する、根源的な提起を含んでいるはずであるからだ*12。特に、望ましい社会像や人間観に関わる営みである多文化教育や人権教育を考える上で、多くの示唆に富むものだと筆者は考える。しかし障害学は存在そのものがまだよく知られていないこともあり、その視点を教育に生かすような先行研究は非常に少ないのが現状である*13。
1−2.障害学成立の背景
一つの学問の成立の過程は単線的なものではありえず、そこに至る様々な蓄積や動きをここで網羅することはできない。しかし、あえて従来の障害研究とは一線を引く「障害学」が成立するために、特に重要であったと思われる要因を、三点に絞って述べる。これらは、英米のみならず*14日本における状況とも重なるものである。
1−2−1 障害者運動の質的転換
障害者運動の歴史の特徴
今日「障害者」とみなされるような身体を持った人は歴史を通して至るところに存在したのであり、不当な扱いを受けた人が声を上げてきた歴史も相当に古いと言えそうである。しかし障害者運動は「最後の公民権運動The Last Civil Rights Movement」と呼ばれるほど*15、他のマイノリティと比べて組織化した運動が現れにくい時代が長く続いた。移動やメディアの利用といった物理的困難は言うに及ばず、教育機会も奪われ、家族や施設の管理下に置かれていた障害者が、連帯して運動を行うには厚い壁があった。物理的な条件に加え、人びとの好奇や偏見のまなざしは今だ根強いが、ある意味でそれ以上に厄介なものとして、「善意」の人びとが障害者に寄せる同情的、保護者的な態度があった。障害を「不幸、悲劇」と考え、障害者に「治療やリハビリテーションに励む」か、「人(や国家)の世話になって、ひっそりと慎ましく暮らす」ことを期待していた点は、日本も欧米社会も変わらない*16。人種偏見や差別に敏感な「良識ある」人でも、障害者の問題を社会正義の視点から捉えるとは限らなかった。障害者は施設で劣悪な処遇を受けても人生の機会を極端に制限されても、それは障害(身体的損傷)ゆえに仕方がないことと考えられていたのである。障害者は「慈善とパターナリズムのくびき」に長くつながれていた*17。
当事者主体、社会的視点への転換
今日の「障害学」につながる動きの基点を探るならば、1960年代後半から70年代に明確な区切りを見つけることができる。この時期は米国の黒人の公民権運動や女性解放運動をはじめ様々な社会運動が生起し、影響を及ぼしあっていた。権利意識が少しずつ浸透したこの時代にようやく、障害者が「人権」の枠外に置かれていたことが気づかれ始めたのである。先に1-1-2でも述べた通り、この時期に世界各地で新しい型の障害者運動が誕生した。特筆すべきものに先述の英国のUPIAS、米国のエド・ロバーツがキャンパスで創始し、のちに全米・海外に広がった自立生活運動*18、日本の脳性マヒ者による「青い芝の会」*19、ドイツの「クリュッペル運動」*20等がある。これらの運動は成立の経緯や運動の力点は違っても、問題の所在が個人ではなく社会の側にあることを認識し、差別や同情のまなざしに抗して当事者が行動していった点では共通している。そして障害者が施設等に隔離され自由を奪われ、教育・就労の機会を極端に制限されていることが批判され、「変わるべきは社会」であることが明確に主張された。また重度障害者でも介護を得て地域で暮らしていく「自立生活」の実践が、各地で様々な形で出現した。それまでの運動が、主として医療の充実や経済的な保障、施設整備を中心とする「福祉の拡充」をめざしていたことに比べると、運動の基本理念も目標も大きな転換を遂げたのである。この時代を障害者運動の「新しい波」と呼ぶことができる(倉本1997)。
これらの運動が前時代と一線を画す点として、障害の社会的視点の確立とともに、それまで管理と保護の対象とされ、医療・福祉専門家や親に代弁されることの多かった障害者自身が、文字通り主役になったことが挙げられる。「米国の公民権運動から一つだけ学んだことがあるとすれならそれは、他人が自分の代わりに話した時は負けということだ」というエド・ロバーツの言葉(ドリンジャー2000:55)どおり、専門家に従属したままでは、自己の解放も社会変革も成し遂げられないことが了解され始めたのである。「障害者が何を必要としているかは障害者が一番よく知っている」「障害者こそ障害の専門家」という考え方は共有され、例えば自立生活運動の中で経験的知識の伝達をプログラム化する等、具体的に生かされていった。
障害種別を超えた最初の国際的な運動体となったDPIも、それまで障害者のニーズに関わる唯一の国際組織であったRI(リハビリテーション・インターナショナル)からの離脱というかたちで、81年に結成された*21(ドリンジャー2000:55-69、中西2000:288)。
障害当事者の自己認識の変容
この時代の転換はそれだけではない。障害者への偏見は歴史的社会的に構成されたものに過ぎないことが気づかれ始めたが、同時に、そうした否定的な障害観は障害者自身にも内面化されていることが自覚され始めたのである。成長する過程で(中途障害の場合は受傷後に)深刻なアイデンティティの問題に直面する障害者は多い。それは「障害」を意識から消去することが不可能なほどに、世間の否定的なまなざしがかれら・彼女らを取り囲んでいるからである。厳しい現実に抗していくために、障害者にスティグマを貼る社会への告発にとどまらず、「障害をもつ自分」のアイデンティティの問題に向き合おうとする実践が現れたのも、この時期の大切な特徴である。このことは、地域で新しい生活を始める上でも重要なことであった*22。それをやり遂げるには、「非障害者社会が障害者に対して持っている態度を自分のものにしていた」(ドリンジャー2000:25)障害者が、自らを恥じたり卑下する必要はないことをはっきりと自覚し、仲間同士支えあい力をつけていくプロセスが必要であった。米国のエド・ロバーツらは運動の過程において「自己嫌悪や差別について、私たちはよく語り合った」という(シャピロ1999:88)。こうしてスティグマの克服=社会観の変革を行うために、米国(後に日本等でも)の自立生活運動が「ピアカウンセリング」*23を積極的に取り入れていったことは、必然的とも言えよう。
なお日本の「青い芝の会」の運動においては、アイデンティティ問題への接近はより徹底したかたちで行われた。後にも触れるが(3-3-1, 3-5-3)、同会の横塚晃一は、「鏡に映る自分の姿」への嫌悪、つまり自己の内側にある「健全者へのあこがれ」を凝視し、そこからの解放を求めた(杉野1997、倉本1997, 1999a)。倉本は、同会の運動が行ったことを「主流社会への参入のために福祉や医療や教育の拡大を求めてきたそれまでの障害者運動とは、一線を画する新しい課題と戦略の提示」(倉本1997)であったとしている。
まとめ:運動の質的転換と障害学
この時期の障害者運動は質的に大きな変化を経験した。その特徴として@代弁者から「自己主張する当事者」への主役の交代、A障害を社会的障壁の問題と捉える視点の確立、B障害者のアイデンティティにまつわる問題が提起されたこと、を挙げた。これら@からBが相互に関連しあっていることは言うまでもない。これらは政策や制度、そして「障害学」の成立・発展にも影響を与えた。
1−2−2 「ろう文化運動」のインパクト
「ろう文化運動」とは何か
障害者運動の質的転換後、80年代には自立生活運動が大きく進展し、国際的にも広がった。この時期に米国で起こった新たな動きで、他の運動とはやや異なる位置にあるものに、ろう者*24による「ろう文化運動」*25がある。これは直接「障害学」の成立に影響したものではないが、「障害」への異なる見方を促す上で重要な役割を担った。「ろう文化」の意味や「ろう文化運動」の影響については3章でも述べるため、ここでは最低限の記述にとどめる。
「ろう文化運動」とは、ろう者が自らを「聴覚障害者」ではなく、「手話という言語を話す言語・文化集団(民族)」*26として位置付け、ろう者の生活様式をも含めた「ろう文化」の存在を聴者*27に向かって宣言し、その尊重を求めていった運動である。
米国のろう者たちの主張は、世界唯一のろう者の大学における88年の「ギャローデッド革命」*28等の社会的行動を通して、米国中、さらには他国のろう者に急速に広まった。日本でも95年にマニフェスト的な『ろう文化宣言』がなされている(3-2-1参照)。
この動きの背景には、ろう者のニーズや手話の言語としての性格が聴者から正しく認識されず、ろう者が望まない処遇(例えば口話教育*29)を受けていたこと、実際にろう者が日常的に諸々の不利益を被っていた事実があることは見逃せない(3-2-1参照)。
「ろう文化」のインパクトと障害学
ろう文化運動は主流社会が自明視していた「障害」観を転倒させ、「自分(たち)は何者であるか」を自らの手に取り戻す動きであったと言える*30。この動きが起こる以前は、主流(聴者)社会において「聴覚障害者=障害者の一種」として、個人単位でしか見られていなかった人びとが、「言語・文化集団」としての自己像を打ち出してきたことは、聴者社会に衝撃を与えた。中でも、家族など身近にろう者がいた人や、ろう教育に携わっている人を驚かせた。また、3章で見るように、他の障害をもつ人にとっても、自らが属する「集団」や「文化」について考える契機を提供したのである。
この運動は米国で盛んであり、手話の認知も進み*31、「障害学」の枠内でも研究されているが*32、ろう者の歴史や手話学を含む「ろう学Deaf Studies」も誕生している。これはむしろエスニック・スタディーズの一環(次の1-2-3参照)とも言える。いずれにせよ、従来の社会福祉学や「特殊教育」の枠には全く当てはまらない研究領域の必要性を、鮮やかに示したのである。
まとめよう。「ろう文化運動」とはろう者が、「手話を話す言語的少数者」としての自己像を主張し、その承認を求めた運動である。また「障害」の文化的側面といった、従来考えられてこなかった領域を切り開き、「障害学」への関心を高めたとも言えるのである。
1−2−3 マイノリティの運動と新しい「学」
「アイデンティティの政治」と障害者運動
ここでは障害者以外のマイノリティの動向が障害学の成立に与えた影響について簡単に述べる。先述の通り、障害者運動が質的転換を迎えた1960年代後半から70年代は、米国の黒人による公民権運動をはじめ、女性、民族的少数者、同性愛者といったマイノリティによる異議申し立て活動が活発化した時代であった。これらの動きを「アイデンティティの政治identity politics」と呼ぶことができる。アイデンティティの政治とは、例えば「社会構造的に差別されてきたマイノリティの地位向上、権利拡張のための運動の実践的戦略として、当該集団のアイデンティティを主張すること(戴1999:49)」と定義される*33。これは歴史的に周縁化され諸権利を制限されてきたマイノリティが、憲法等で約束されているはずの「平等」の達成を求めるとともに、スティグマを付与された自集団のイメージを肯定的なものに書き換えようとする運動でもあった。米国の黒人が謳った「ブラック・イズ・ビューティフル」という言葉に象徴される営みである。マイノリティに属する人が権利回復を求める際には、自集団の歴史的社会的な位置付けの不当さを訴えていくことが欠かせないし、無力化されている自集団の連帯をはかるためにも、「文化運動」*34的な営みが求められたのである。
このような新しい社会運動が、障害者運動に影響を与えた証拠は多い(例えばシャピロ1999:78、アッシュ2000:47-48等)。「新しい波」以降の障害者運動(特に自立生活運動)、ろう文化運動には、障害者/ろう者に向けられた否定的・同情的なまなざしを覆し、自らの存在を肯定的に捉え返そうとする方向性を明確に見出すことができる。
新しい「学」の誕生と障害学
これら少数者の社会運動は大学にも波及し、マイノリティの権利獲得や地位向上の動きに積極的に関与する大学人も多かった。この動きは当然の帰結として、既存の学問における背後仮説*35や知識体系に疑問を投げかけ、これまでとは異なる研究の枠組みが要請された。公民権運動の流れがアフリカ系アメリカ人研究等のエスニック・スタディーズを産み、女性解放運動が女性学を、ゲイ解放運動がゲイ・スタディーズを産み出したのである。
女性学を例に見てみよう。女性解放運動は初期の自由・平等といった近代自由主義思想への「片思い」の時期を経て*36、男性中心の社会や文化のあり方を疑う段階を迎える。近代理論の中に潜む性差別が告発され、正当化されていた男性中心社会の実像を解明していく仕事が試みられた。女性たちの言葉が発掘され、理論化され、それが「女性学」という新たな学問領域を開いた(大越1996:8-24)。女性学は「既存の学問の真理値を女性を対象に加えることでますます高めるのではなく、むしろ既存の学問の男性中心主義的なイデオロギー性を暴露し相対化する営み」なのである(上野1986:15-16)。
こうした新しい学問の誕生は、従来の学問的知識が「人間=白人男性」*37の身体と文化を基準としていたことを明らかにすることを意味した。この流れを受け、少数者の視点からの学問は、60年代からのエスニック・スタディーズ、70年代の女性学を皮切りに、大学でも制度化され始める(戴1999:46-47)。80年代末以降の多文化主義論争が大学でのエスニック・スタディーズの制度化をさらに推進したこともあって(辻内1994)、新しい「学」は既存の学知からの抵抗に遭いつつも、広がりと内容の深化を見せている。
これら新しい当事者の「学」の誕生と制度化が、障害学の成立に影響を与えたことは間違いない。障害学がこれらの学問と共通の基盤をもつことの実例として、米国障害・リハビリテーション研究所による「障害学」の定義を挙げておこう。
障害学とは、社会における障害者を、動的かつ社会的・心理的・経済的・政治的・
科学技術的な文脈で分析するための学際的アプローチである。障害学は、エンパワメ
ントと人びとの経験の再評価を含んでいる女性学・アフリカ系アメリカ人研究・ヒス
パニック研究・アジア系アメリカ人研究と同じような領域に位置している*38。
1−2−4 障害学が「学」である意味
本節の最後に、障害学が「学」の形をとって出現した意義を整理する。まず、障害者運動が差別や無力化と闘う中で得た経験や論理を学問の言葉に「翻訳」していく意義である。次に、障害学という枠組みの存在自体が障害当事者による研究を促す効果も期待される。従来の学問において「患者」「クライアント」「インフォーマント」でしかなかった障害者自身が障害学の発展に果たす役割は大きいと期待されている(長瀬2000:16-17、ましこ1998:24)。
さらに、学際的なネットワークとしての「学」が存在すること自体の意義も大きい(1-4-1前半を参照)。既存の学問が固有の歴史をもち、その枠内の利害から完全には逃れ得ないことを考えると、新しい領域があること自体が意味を持ちえるともいえるだろう*39。
1−3.障害学の制度的枠組み
障害学の制度化は発展途上であるが、現状を簡単に述べる*40。
「障害」の社会・経済・政治的側面に目を向ける研究は、80年代に顕著な動きを見せた。米国では先述のエド・ロバーツらの運動以降、高等教育の開放が進み、障害をもつ研究者が増加した。82年に米国ブランダイズ大学教授のアービング・ケネス・ゾラが創立者となって米国でSDS(Society for Disability Studies 全米障害学会)が成立し、障害学の発展に大きな役割を果たしてきた。同学会は「障害と慢性病の人間的・社会科学的側面に関する学際的研究の促進」を目的に掲げ、三百名前後の研究者が参加している。毎年行われるSDSの総会は研究者だけでなく政策決定者や障害学に関心を持つ障害者の参加が米国以外からもあり、活況を呈しているという*41。学会誌は「Disability Studies Quarterly」である。全米で障害学の講座を提供する大学は四十を越え、障害学で修士号を出す大学も増加中である。イリノイ大学では1997年より、続いてシラキュース大学でも博士号を提供している(岩隈1998:196、USA-TODAY2000)。
英国の障害学の特徴は、UPIASのような障害者運動と研究とが常に連動してきたことである。自身が障害をもつ研究者が、障害者の実感に基づいた理論化を行ってきた。86年には研究誌、「Disability and Society (当初はDisability, Handicap & Society)」が発刊され、当初は年3回の発行だったが、投稿論文が多いため、2000年からは年に7回の発行になった(長瀬2000:20)。これは現在英語圏で最も有力な研究誌である。特にリーズ大学が大きな「障害学」研究の拠点となっており、障害学の修士、博士課程を開くとともに、DISABILIYT-RESEARCHという国際的な英語のメーリングリストの運営、旺盛な出版活動、また障害学の国際会議の開催などを行っている(長瀬1999:21)。
日本の障害学は、1-1-3で述べたとおりまだ動き始めたばかりであり、現在のところ学会組織や研究誌は存在せず、研究会も1999年より関西・関東で定例化したところである。しかし鳥取大学、金沢大学に「障害学」を冠した講座も出現する等の動きがあり(倉本2000c:183)、今後は制度化の可能性も出てくるかもしれない*42。
1−4.小括:障害学の視点と目的
本章の最後に、障害学の存在意義、「障害学の視点」や目的とは何かについて簡単にまとめておきたい。ここまでにも述べてきた通り、障害学は発展途上の学問であり、この新しい枠組みに多様なイメージや期待が投影されることは避けられない。他の諸学問と同様、どこまでが障害学かという線を厳密に引くのは難しい。しかし学問の「コア」の部分を確認しておくのは、必要なことであろう。
1−4−1 障害学の存在意義
逆説的にこういう問いをたててみよう。「障害学は本当に必要なのか。なくてもよいのではないか」。これは実際にしばしば(筆者も)聞かれる疑問である。代表的なものに、「A.既存の障害(者)研究に批判すべきところがあるなら、その分野で行うべきだ」というものと、「B.それが何になるのか。そんな学問に関心をもつのは、障害者の中でも一握りのエリートだけだ。障害学があろうとなかろうと、普通に生活を送る障害者には何の関係もない」というものがある*43。いずれも重要な問いと考える。順に検討したい。
ネットワーク的な学問領域の意味
まずAの疑問だが、これは確かに正しい。リハビリテーションなり福祉なり、現状の何かを変えていきたいのなら、批判すべき相手と同じ土俵で問題提起することが肝要であろう。しかし「土俵」の前提そのものを疑う意見は少数派にならざるをえないから、それは困難を伴う。ところが障害学は障害者の「生」の全体に関わる非常に広い領域を対象とし、既存学問の枠を超えて「障害」についての背後仮説を疑う議論ができる場である。既存の「知」を疑う主張も歓迎される。そこで新しい視点や説得力ある論点を取り入れ、議論を深めた上でその成果を既存の学問に返していくことは十分可能であるし、現に行われている。ネットワーク的な学問の意義は、多くの障害学研究者が証言している*44。障害学は学際的な「知の運動」の拠点としての存在意義を持っていると言えよう。
日常生活と障害学
Bの疑問に移る。実際、学問と普通の生活者との間は距離がある。いわんや障害者においておや、ということであろう。そもそも高等教育を受ける障害者の比率が米国等に比べて格段に低い日本では、尚更そう感じられるのかもしれない。「読者、特に障害者である読者の障害学への参加を期待」(長瀬1999:30)しているという『招待』とて、誰でもすらすら読める本ではない。しかし障害学で論じられていることが生活者には無意味だとは言い切れない。障害者運動を母胎とし、「実践的な学問」を志す障害学は、障害者の日々の生活現実に無関心ではありえない学問である。制度の策定や運用*45、有用な道具の実用化といった実際的な問題を、障害学は決して軽視していない。その際、障害学が依拠するのはあくまでも、障害当事者(それも「援助される側」というだけに止まらない)の視点である。もちろん、障害学の研究成果が、当事者の実感に届くように還元されていくためには、今後様々な取り組みが必要であろう*46。
では、3章以降で論じる「障害文化」のような抽象的なテーマに関してはどうだろうか。 日本における障害学の代表的な論者である石川准と倉本智明(ともに視覚障害を持つ研究者)は本年6月、障害学を主題としてラジオで対談を行った*47。石川は、障害学に対し『それが一体何の役に立つのか。知的お遊びじゃないのか』というクレームがあることを紹介し、それについてどのように考えるかと尋ねた。この問いに、倉本は以下のように答えている。
僕にとっての障害学は、『自分自身が直面している現実、自分が抱え込んでいるし
んどさを言葉で説明してくれるもの。即答じゃないけど、何らかのヒントを与えてく
れるもの。自分自身が楽ぅーに、楽しく生きていくためのもの』なんです。僕の営みが、
もしかしたら、同じようなしんどさを抱えている他の障害者の人にとってヒントにな
るかもしれない。障害をもって生きることの『こだわり、しんどさ』がある限り、僕
にとっての障害学は続くでしょう。
つまり、抽象的に見える論であっても、それは「障害をもって生きる経験、実感」と不可分であることを倉本は述べているのである。
1−4−2 障害学の視点とは何か
倉本は、近著『障害学を語る』(倉本・長瀬編2000)のあとがきにおいて、これは個人の見解だと断った上で、次のように書く。
障害学は、何かひとつのモデルでもって代表されるような排他的な学問ではない。
様々な方向へとむかう複数の言説群が、ときに反発し、ときに共振しつつ、全体を構
成するゆるやかなネットワークである。そこに共通項を見出すとすれば、問題を個人
に帰すことなく、徹底して社会という文脈のなかで捉えるという姿勢、そしてまた、
研究者もまた、なんらかのかたちで問題の当事者であり、自分を棚上げにしたところ
で対象について語ることはできないという自覚などがそれに当たろう。(略)ただ単
に女性を対象としただけの研究が女性学ではないのと同様、障害−健常をめぐる既成
の知のありように疑いの目を向けない研究は、たとえそれが障害・障害者を対象とし
た研究であったとしても、決して障害学ではない。(倉本2000b:184-185)
ここに障害学の視点が凝縮されている。つまり、「個人的問題は政治(社会)的問題である」というフェミニズムのテーゼにも通じる、いかなる事象をも社会的文脈の中で捉える姿勢と、自明視されていた「障害−健常」をめぐる「知」のありようを対象化・相対化する姿勢こそが、「障害学の視点」を構成している*48。そしていかに既存の知を疑う研究であっても、たとえ障害者自身による研究であっても、「研究する側−される側(対象)」という構図は残るのであるから、倉本が言うように障害学を担う者が自己の位置に自覚的になる必要性は、いくら強調してもしすぎることはない。
1−4−3 障害学の目的とは何か
障害学は究極的に何を目的としているのか。石川准は端的に、「障害者がよりよく生きることに貢献する学問」が障害学であると定義する(石川2000a:167)。むろん「よりよく生きる」の内容は多様であり、人により、またその時々で、「よりよい生」の中身は具体的に異なる。石川は「よりよく生きる」の意味を問われ、「『よりよく生きる』ことを定義するのでなく様々な『よりよく生きる』あり方の可能性を開いていこう,現実化していこうとする実践的な学問」が障害学なのだ、と解説している*49。障害学の目的にかなった具体的な実践とは、恐らく、障害者の「生きにくさ」を構成する諸々のもの−例えば障害者への「役割期待」(3章*62)やステレオタイプ、保護者的な見方−を解体していく取り組みや、人びとの意識に浸透している「優生思想」を現実に則して明らかにしていくこと、さらには、具体的な社会資源の提供によって個々の障害者の生活機会を拡大するのに有効な研究等も含まれよう。また、公的な記録には現れない地道な障害者運動の掘り起こしも大切な仕事である。
障害学のもう一つの目的
そしてもう一つ、忘れてはならない重要な主題が残されている。それは「健常者」とはいかなる存在かを問うことである。これは筆者を含め「健常者」と呼ばれそう自認する者の課題である。「障害者のよりよい生」に貢献する、という障害学の目的を考える時、健常者は安易に「援助者」「理解者」という立場をとってはならないと思う*50。石川は講演で次のように言い切っている。
障害者としての正しい生き方が追求される一方で、健常者は無傷のままで、健常者
という立場を屈託なく享受しているのだとしたら、何が『アイデンティティの政治』
*51でしょうか。健常者は障害者という『他者』と本当には出会っていません。健常
者が見ている者は、健常者が捏造した障害者です。(略)
障害者に感情移入して共感したり、感動したり、激励したり、庇護したり、憐憫し
たり、知ったかぶりしたりする健常者に、そのような『余計なこと』をする前に、自
己のあり方を相対化し反省することを迫るような言説を紡ぎだしていくことが、障害
学には求められていると思います。(石川2000c:42)
何ということだろうか。これまで健常者は(筆者を含めて)、障害を持つ友人がいるだけで「免罪符」を得た気分になったり、今や変わり者扱いもされなくなった「ボランティア活動」に気軽に参加して、「感動」したり「考えさせられたり」することができた。その「感動」を他人に伝えることもできた。そしてもちろん、健常者は障害者に全く関わらなくても、障害者のことなど何も考えなくても、誰からも非難されずに生きていくことができる。
しかし考えてみよう。逆のことがありえるだろうか。いま述べた全てのことは障害者と健常者の非対称性に依っている。健常者が障害者を「植民地化」*52してきた歴史はかくも長い。しかし、いったん「障害学」と出会った者(例えば筆者)は、自己のあり方を省みることなしには、安易に障害者のことを語れなくなっていると気づくのである。「障害学」は−「女性学」が「男性学」を生み出したような意味で−「健常学」の始まりでもある*53。本論文もまた、そのような試みの途上にあるのかもしれない。
<1章の注>
*1:本論でいう「障害学」とは全く異なる、医学的・心理学的な見地から「障害」について書かれた著作に、「障害学」という題が使われていることがある(例:石部元雄・柳本雄次編1998「障害学入門」福村書店,大村実1988「障害学の構造」明治図書)。これらにはDisability Studiesへの言及は無く、「医学モデル」(2-2-1参照)的な内容である。これらと本論で示す「障害学」とは無関係である。
*2:新聞記事は以下、障害学という分野が「障害について一般の人が頭に描いている認識を転回させる。障害を治療すべき問題として見るのでなく、障害の社会的文化的文脈に焦点を合わせている」ことを紹介している(USA-TODAY2000)。
*3:端的に言えば「歩けない」のがimpairment、「車椅子のためのアクセスがないために建物に入れないのはdisabilityである(ダナファー2000:81)。なお、「障害」をめぐる英語の用法は複雑であり、要注意である。ここでUPIASが障害の身体面をImpairmentという語で表現しているのは一般的な用法だが、障害の社会面をdisabilityで表しているのは、英国の障害者運動ならではと言える。「障害の社会的側面(社会的不利)」には通常、handicapという語が使用される(その場合disabilityは「機能障害」)。本論2-2~2-4参照。
英国の運動においてhandicapという語が避けられるのは、この語が歴史的に差別的なニュアンスを持っているためである。一説に、障害者が帽子(cap)をひっくり返して物乞いをする(=哀れみを乞う)イメージに直結するからだ、とも言われている。handicapの否定的な語感は米国の運動でも共有されている[長瀬1996a, 1998b]。
*4:英語圏で最有力の「障害学」研究誌の購読者は50カ国に及ぶ(長瀬1999:16)。2000年11月の米国での障害学国際会議に出席した長瀬の報告によると、6つのテーマ討論会のうちの一つが「途上国の障害学」であり、DPI世界会議の議長であるジョシュア・マリンガ(ジンバブエ)ら著名な研究者・実践家が参加していたと言う。
*5:長瀬(1999:29)や倉本(2000c)が述べている通り、日本において「障害学」という枠組みが出現する以前にも、現在いうところ「障害学の視点」と重なり合う研究や実践は多数存在した。そのような蓄積の上にこそ、現在の日本における「障害学」の議論がある。もしその認識を欠いて、あたかも突如新しい枠組みが「輸入された」かのように考えるならば、苦闘の末に積み上げられた運動や研究の成果を無化し、上滑りな認識をもつことになりかねないだろう。
*6:「自立生活」とは、運動の中で獲得されてきた歴史的概念であり、「日常生活に介助が必要な重度の全身性身体障害者が、施設や親元ではなく地域で、必要な介護を得て営む生活様式」を指す。ここで言う「自立」の意味は、世間で使われる「経済的自立」や、医療・リハビリテーション用語の「ADL自立」とは異なる。これが具体的にどのような人のどのような生活であるのかは、[立岩1990a:57-70]が詳しい。日本では80年代末より、「自立生活」を組織的に支援する「自立生活センター(CIL)」が、先に整備が進んだ米国の影響も受けて(*18参照)急激に増加している。しかし日本における「自立生活」実践の歴史はそれ以前に遡る。立岩(1990b、1999:80-89)が「青い芝」(*19参照)の活動や府中センター闘争等の史実から証明したように、日本には1970年前後から独自の「自立生活」を実践する障害者解放運動が存在した。当時必ずしも「自立生活」と呼ばれたわけではなく、後の米国の運動のように整備されたものではなかったが、その主張と目指すところは明確であった(上記の他、立岩1998、市野川・立岩1998、田中1999も参照)。
*7:「障害学」という枠組みが顕在化する以前の蓄積、いわば「プレ障害学」については、今後研究・整理が進むものと思われる。日本における先駆的取り組みの例として長瀬(1999,2000)が挙げているのは[安積・立岩他1990=1995][石川1992][立岩1997]であり、これらは英米のDisability Studiesの成果と比べても高水準であることが確認されている(長瀬1999a:29)。これらは現在の障害学の共有財産だが、他にも掘り起こすべき価値のある研究は多いと倉本は指摘する。70〜80年代に障害者解放運動と深く関わりをもった山下恒男、篠原睦治、浜田寿美男らの業績や、「ノーマライゼーション研究会」の活動(堀正嗣らも参加)、社会福祉の分野で「社会モデル」への端緒を開いた定藤丈弘や北野誠一の仕事、「世間」の障害者差別の構造に取り組んだ要田洋江の仕事(要田1999)等も「障害学」と問題意識を共有する点が多いという(倉本2000c:185-186)。
*8:この時期の動きをいくつか挙げておく。従来は「障害者」とは無縁のように思われていた総合誌『現代思想』は、96年に「ろう文化」総特集、98年に「身体障害者」特集を組んだ。この頃より小規模な勉強会が筑波大学の名川勝、関西大学の杉野昭博らによって開かれた。98年には『招待』の出版準備と並行して、東京・三田で「障害学」を銘打った初の連続講座が開催された(その記録が[倉本・長瀬編2000])。また日本解放社会学会は98年3月、「障害の文化」を学会のサブテーマに採用した(3-4-1参照)。
*9:『招待』は1999年3月初版、2000年11月で既に第5刷である。
*10:『招待』への書評は、『朝日新聞』『新潟日報』『思想』『福祉労働』『週刊読書人』『ノーマライゼーション』『月刊リハビリテーション』他、20以上の新聞・雑誌等に掲載されたことが確認されている。その中でも1999年6月6日に『朝日新聞』誌上に掲載された吉見俊哉(社会学者/カルチュラルスタディーズ)の書評は、次のように非常に肯定的なものであった。
(前略)本書はこの障害学への画期的な案内書である。何よりも執筆陣が素晴らし
い。今、この領域で最も意欲的に仕事をしている尖鋭の社会学者や運動家が集められ
ている。刺激的な論文が多く、異なる考え方のなかに逆にこの領域の多様な可能性を
読み取れる。(略)これは重要な第一歩であり、こうした知的実践が日本でもより大
きな流れを形作っていくことを、心より願う(吉見1999)。
*11:石川と長瀬の共同運営による。参加資格は特にない。『招待』にも案内が載っており、立岩・長瀬らのホームページからもアクセスできる。現在のところ社会学、哲学、文化人類学、社会福祉学、教育学、言語学、文学、医学、工学、開発学など、非常に幅広い分野の研究者や学生、障害当事者、運動や福祉の関係者ら、260名以上(2000年11月現在)が参加している。筆者もその一人である。
*12:もっとも、このことを突き詰めれば、教育実践者が教育「対象者」を一方的に規定する(少なくとも対象が子どもの場合「共同参画」などではありえない)「教育学」の持つ性格そのもののアポリアに直面するかもしれない。「参加型」の様式を取り入れたり「自主性の尊重」を念頭においたところで、教育計画者と対象者との非対称性は揺るぎがないからだ。もっともその限界性の中で教育実践は行われるのであり、障害学の問いかけが無効になるわけではない。
*13:「共生の社会教育」について論じた[津田2000]ぐらいしか見当たらない(3-7-2参照)。人権教育、多文化教育はおろか、教育社会学や教育哲学等でも「障害学」に言及した研究はまだ見かけられない。聴覚障害児教育において若干の議論がある程度のようだ。
*14:厳密にいえば、米国と英国の障害学成立事情は微妙に異なるが、少なくとも障害当事者である研究者が中心であること、障害者運動と障害学とが影響しあってきたことは共通している。英国の方がその傾向は顕著だと考えられているが(長瀬1999)、アッシュ(2000)は米国も同じであったと述べている。相違点として、「ろう文化」の影響が米国では強かったのに対し、英国では「ディスアビリティ」そのものを議論する傾向が強いようである(森1999:180)。
*15:DPIの誕生と軌跡を追った『国際的障害者運動の誕生』(ドリンジャー2000、長瀬訳)の原題が、この「最後の公民権運動The Last Civil Rights Movement」である。訳者の長瀬によると、1989年に初稿が書かれたこの論文は、欧米で数多く引用されてきた。「最後の」とした理由に、19世紀にまで遡ってスウェーデン、米国、カナダ等の事例を見ても、他のあらゆる公民権運動が出現した後に、障害者のそれが顕在化したという歴史的事実が挙げられている(同:23-28)。
*16:日本では一般に「福祉が進んだ欧米、それに比べて遅れた日本」といった紋切り型の言説がよく発せられるが、それはかなりの部分「神話」である。*17も参照。相対的に進んだ制度が実現していたとしても、一般の人びとの障害者観は別物である。障害者運動の苦闘の記録(例えばシャピロ1999)はそれを雄弁に物語る。
*17:「慈善とパターナリズムのくびき」とは[ドリンジャー2000]の表現だが、シャピロも障害者運動の転換期において、「哀れみ」「慈善」との闘いがどれほど大きな部分を占めたかを記述している(シャピロ1999)。米国の障害学研究者で視覚障害を持つアッシュは、権利獲得運動の過程で『慈善はいらない、分離はいらない、隔離された作業所はいらない、哀れな身体の不自由な子どもにお金をあげるテレビのキャンペーンはいらない』と訴えた経験を語り(アッシュ2000:49)、英国の運動家ダナファー(身体障害者)は「チャリティが抑圧を生み」「障害者を悲劇の主人公、哀れみの対象としている」ことを激しく批判してきた経験を語っている(ダナファー2000:82)。
*18:米国の自立生活運動Independent Living Movement(「IL運動」等とも訳される)の大きな流れを作ったのは62年にカリフォルニア大学バークレー校に入学したエド・ロバーツである。ポリオの後遺症で「鉄の肺」をつけて病院の一室で暮らしていた彼は在学中、盛んな働きかけによって必要な介助サービスを受けるための仕組み(障害学生プログラム)を創ったが、卒業と同時にそのサービスが使えなくなる事態に直面した。そこで仲間と共に運動し、1972年に最初の自立生活センター(CIL;Center for Independent Living)がバークレーで設立された。CILは障害者自らが運営し、障害者の自立生活に必要なサービスを提供するNPOとして瞬く間に全米に広がった。その経緯は[シャピロ1999:67-114]が詳しい。
CILは障害者を「福祉の受け手」から、「必要な権利を自ら行使し、サービスを購入して受け取る主体」へと転換を果たした。CILは住宅・生活技法などの情報提供(障害当事者の経験的知識の伝達)、介助人派遣、ピアカウンセリング等のサービスおよび権利擁護(アドボカシ−)を行う。この点は日本のCILも同じである(立岩1990a、瀬山1999等)。
*19:脳性マヒ者による「青い芝の会」は50年代の設立当初は穏健な団体であったが、横塚晃一、横田弘らの加入により運動が活発化する。彼らは70年に重度障害児をもつ親による「子殺し」とそれを擁護する世間(親に対する除名嘆願運動)の差別意識を告発する運動を展開した。親に同情し、福祉政策の充実を求めることこそ善とする「世間」のまなざしの中に、彼らは「障害者はあってはならない存在」とする優生思想が潜んでいることを見抜いていた。同会は、神奈川でのバス占拠闘争など直接行動を先導し、市民や専門家の目には「過激」と映ったが、その時代の障害者に多大な影響を与えた(3-5-3、または立岩1990b, 1998、倉本1997, 1999a等を参照)。
*20:医療社会学者の市野川容孝の解説によると、「クリュッペル運動」とは、フランツ・クリストフが他の障害者の仲間と80年代初めに組織した運動である。「クリュッペル」はドイツ語で「不具」「かたわ」を意味する差別語であるが、かれらはあえて差別語で自分たちを呼んだ。この運動は国際障害者年へのスローガンである「完全参加と平等」に違和感を持ち、「既存の社会構造をそのままにして、私たち『かたわ』を順応させるだけなんじゃないか」と主張したという。(立岩・市野川1998:270-271)。
*21:それまでのRIにも障害者は参加していたが、あくまで主導権は専門家にあった。DPIの離脱は、1980年のカナダでのRI大会に参加していた障害者が、障害者「のための」組織では、自己の経験が貢献しうることが認められず、発言権もアクセスも制限され、対等な立場で参加できないと結論づけ、障害者「の」組織を作る気運を高めていったゆえの行動であった(ドリンジャー2000:55-69)。
*22:自立生活をする、ということはつまり「自分の身の周りのことを自分でできてこそ一人前」とする社会規範がある中で、それができない人間が、人手を借りて一人暮らしをすることを意味する。それを日々行う中で、家族・専門家・近所の住民など周囲との摩擦や、それに伴う障害者自身の精神的負担と葛藤は避けがたかった。それは「やる気,意気込み」だけでは乗り越えられない。ゆえに、ピアカウンセリング(*23)が大きな意味を持ったのである。
*23:ここで言うピアカウンセリングの「ピア」とは、医師やカウンセラー等の専門家を介さず、「障害を持つ立場・経験を共有している仲間」という意味である。ピアカウンセリングという語は、JIL(全国自立生活センター協議会)の定義でも狭義・広義の二通りの使用法がある。狭義には、「障害を持つ仲間同士による精神的なサポート」を指すが、広義には、この「精神的サポート」と「自立生活プログラム」(フィールドトリップやロールプレイ等を用いて、具体的に生活技法を習得できるようにトレーニングしていくこと)の双方を合わせたものとして用いられている。(岡原・立岩1990、安積・野上1999、瀬山1999、横須賀1999b、倉本1999b等を参照)。なお「ピアカウンセラー」は専門家ではなく(養成講座はある)、「自立生活」を実践し、葛藤や困難を既に経験した障害者である。
*24:「ろう者」とは、いわゆる「聴覚障害」をもつ人全体を指すのではなく、手話を第一言語とする人々を指す「文化的カテゴリー」として用いられることが多い(実際には混同して使われるので要注意)。ろう文化の推進者は、『聴覚障害者』という病理学的カテゴリーが自分たちの日常の実感とは重なり合わず、自身にとってリアリティをもつ集団的アイデンティティは、言語や習慣の違いでもって聴者と区別される『ろう者』なのだと主張した。日本語でいう「ろう」と「難聴」に近いのが"Deaf"(この大文字については*26参照)と"hearing impaired"であるが、この区別は聴力の大小(有無)に拠らない。全聾でも手話を使わない人は「ろう者」と見なされず、一方、かなり聴力があっても、手話を第一言語として自由にあやつり、ろう者らしい行動様式を身につけていれば「ろう者」と見なされるのである。この捉え方には、ろう者/難聴者の中にも幅がある(森1999、現代思想編集部編1996の各論、斎藤1997等を参照のこと)。
*25:「ろう文化運動」は英語ではDeaf Culture Movement であるが、単に Deaf Movementとも呼ばれるようだ。米国では、ギャローデッド大学における「今こそろう者の学長をDear President Now」運動(*28)の頭文字をとって、「DPN movement」と呼ぶこともある(シャピロ1999)。
*26:ろう文化運動の推進者は、自律した「言語コミュニティ」と独自文化を備えたろう者は「民族」であり、その少数言語・少数文化は尊重されるべきだという主張を展開した。そして自らを「deaf:耳が不自由な人」ではなく、他の「民族」と同様、先頭に大文字を使った「Deaf:ろう者」と表記することを聴者社会に要求し、実践した。日本の先鋭的なろう者グループ「Dプロ」(3章*13参照)の「D」は、ここから採られている。
*27:「耳が聞こえる人」のことは通常、ろう者との対比で「健聴者」という用語が使われているが、ろう者はこの「健」という言葉に「健康,普通」という響きを感じ取り、これを嫌って、ただ「聴者」と呼ぶ。ろう者と聴者は(健康−病理という関係ではなく)対等な関係なのだ、という主張である。この「聴者」という用法は障害学の論者にも広く共有されているので、本論でもこれに倣い、「聴者」という語を用いる。
*28:「ギャローデッド革命」とは、米国ワシントンにある,世界で唯一のろう者の総合大学であるギャローデッド大学において、(創立以来124年間学長は聴者のみであり、さらにまた)大学当局が聴者の学長を選出しようとしたことに対し、ろう者の学生が起こした激しい抗議行動である。「今こそろう者の学長をDear President Now!」と手話で小気味よく訴える数百人の学生たちの姿は全米で報道され、学生以外のろう者の支持も得て、史上初めてろう者の学長が就任した。「ギャローデッド抗議」とも言う。(シャピロ1999:115-158、ソロモン1996:191-162)。ギャローデッド大学については[斎藤1997]も参照。
*29:口話教育とは、読唇や発声の訓練を重ね、ろう者が聴者と「会話」できるようになることを目指すものであるが、実用に達するのは非常に困難なものである。にもかかわらず聾学校が今なお口話中心である理由を、金澤(1999)は、専門家や聴者両親を含めた「擁護システム」が働いているからではないかと提起している。
*30:こうした「取り戻し」は、一般的な「障害」観、障害の定義がいかに健常者(聴者)中心に構築されたものであったかを指摘し、「自らが何者であるか」を積極的に「名のる」営みともいえる(→3-3-1杉野)。英国のUPIASや、後にはDPIが「障害」の定義の変更に粘り強く取り組んだことも想起されよう。(2-1-3参照)
*31:手話が「複雑な文法と音韻体系をもち、音声言語と比べて遜色の無い言語である」というろう者の主張は、米国では一定受け入れられ、言語学者も参入して研究が進み、言語としての地位を確立しつつある。米国の言語学辞典はこの十数年で手話の稿を大きく改めた。日本の言語学分野における手話の認知度は高くなく、一部の研究者が興味を示すに止まっているようだ(菊地1996、ましこ1996a参照)。
*32:97年に米国で編集された障害学のアンソロジー[Davis,ed 1997]に'Deaf Culture','Deafness'関連の論文が多数含まれているのを見ても、米国障害学の中の「ろう文化」の重要な位置が窺える(森1999:159)。
*33:ここでの戴エイカ(1999)の定義では、実は「エスニックマイノリティ(のアイデンティティ)」となっていたが、本来の意味はそれに限らないものであるので、「当該集団」と書きかえた。
*34:「文化運動」には様々な定義があろうが、ここでは「安積・立岩他1990]で示された「社会文化的に共有された価値・規範を変容させる社会運動」(岡原1990:130)を採用する。岡原らは、日本における自立生活運動がまさにこれであったことを綴っている。
*35:「背後仮説background assumption」とは、社会学者のA・W・グールドナーが命名したもので、「明確に定式化されていない一連の信念」を意味する。社会理論の明示的に定式化された理論的公式の背後には、必ず人間や社会に関する一連の明示されない「背後仮説」が存在しており、それが理論の定式化に影響を及ぼしているという。個々人はこの「背後仮説」を社会化の過程で習得する。ステレオタイプや偏見を生むもとにもなる。(女性学研究会編:1981:62、森岡清美他偏1993:1481(この項長谷川公一))。
*36:近代自由主義思想の限界は、様々なマイノリティの運動が突き当たった壁である。これは3-5-2で倉本が指摘する「平等派」の限界や、戦後の「国際人権」法体系整備の歴史とも重なる。
*37:これはもちろん、「人間=健常者」や、「人間=中産階級の成人男性」、「人間=異性愛者」などに応用可能であろう。
*38:この定義は米国障害・リハビリテーション研究所(National Institute on Disability and Rehabilitation Research)の公式ウェブサイトhttp://www.ed.gov.offices/NIDRR/ から採った。
*39:例えば立岩は、福祉や教育など現場を持つ学問においては、その立場を背負ってものを語ることが不可避であることを認めた上で、「さしあたり、利害から離れて調べること、ゆっくり考えること」が、障害学ができることではないかと言う(立岩1999:79)。
*40:むろん、障害学の制度化状況はこの三国に限らない。三国しか取り上げられなかったのは、長瀬らの紹介に頼って自分で十分海外資料に当たれなかった筆者の限界である。
*41:SDS(全米障害学会)は毎年総会を開いており、長瀬は96年から3年連続で出席し、様子を報告している(長瀬1997a、1998c)。長瀬によると、参加者は自身が障害を持つ研究者や活動家が多いが、ジュディ・ヒューマンら活動家出身で現在は政府の要職についている者も参加している。研究発表の分野は多岐に渡るが、多いのは歴史、文学、政治である。むろん就労や教育も取り上げられている。
*42:制度化が仮に進んだとして、それが本来の「障害学」の発展にとって良いことかどうかは、また別の話である。制度化は否応なく、利害やしがらみを生み出すためである。
*43:この二つのほかに、「障害学などと言って、障害者だけを特別に分けて研究すること自体が間違っている。障害学という学問を認めることは、『統合』『ノーマライゼーション』『インクルージョン』という世界的潮流に反するものだ」といった疑問が聞かれることがある(筆者も経験あり)。このような疑問は、ある程度は障害学への誤解、あるいは文献も読まずに批判しているものと考えられるが、非常に象徴的だと感じた。この疑問に対する筆者の回答は、本論3・4章の中で行っているつもりである。
*44:米国で「英文学における障害者」の研究を行うG・トムソンは「私たちの多くは、自分たちにとって新鮮で興味深く挑発的だと思われたから、この仕事をしてきました。でも私たちはおのおの孤立した状態でやってきたのです。シェークスピア研究家だったら、そのためのネットワークは既に存在するでしょうけど」と、ネットワーク的な「学」の意義を語る(USA-TODAY2000)。また日本の倉本(社会福祉/社会学)は障害学を「既存の障害研究の脱構築運動を統括するセンターのようなもの」と考えたいと述べた(「障害学メーリングリスト」での発言より、本人の許可を得て引用。jsds847)。
*45:一例を挙げれば、重度障害者が地域で自立生活を送るための「介護人派遣事業」等の制度の問題(現状では、自治体によって有無や内容が大きく異なる)も障害学の大切な関心事である。
*46:「障害学」の研究成果が広く還元され、特に障害当事者の利益となるためには、筆者は、「教育」(特に社会教育)が大きな責任と可能性を持っているのではないかと考えている。(cf.市民グループ等の自主的活動も含めた「女性学」「男性学」学習の拡大)
*47:ラジオたんぱ第一放送、2000年6月4日放送分より。
*48:「障害学の視点」の例を挙げてみる。もし「障害者と歴史」という命題が与えられたとしたら、従来なら文献に描かれた(今でいうところの)障害者を取り上げたり、障害者を対象とした福祉制度がいかに発達したかを述べるのが一般的であったろう。しかし障害学の視点からは、文献の中の障害者の「描かれ方」だけでなく「描かれていなさ」を、各時代の「健常−障害」観の探索とともに、歴史社会学的に分析することが欠かせないだろう。長瀬は、障害学における歴史の見直しとは、「従来の歴史に障害者も付け加えるのでなく、従来の歴史が非障害者の視点から見た歴史であったことを顕わにすること」だと語る(長瀬1999:12)。
*49:「障害学メーリングリスト」の石川の発言より本人の許可を得て引用(jsds2544)。
*50:なぜなら、そのような立場は健常者は常に理解「する」側、援助「する」側(障害者はその逆)であることを疑わないもので、それこそが健常者中心の発想だからである。健常者はあまりに容易にその立場をとることができ、その立場が持つ特権性に気づかない。「援助する健常者」を後押しする言説は、ヒューマニズム以外にも数多ある。
*51:同じ講演の中で石川は、「アイデンティティの政治」のことを、「本来、自己の立場を忘却できる立場(=健常者)にあることの特権性、暴力性を暴き、揺さぶり、そうした非対称性を壊していく」はずのものとして語っている(石川2000b:42)。
*52:「植民地」という語は、唐突な印象を与えるかもしれない。しかしそもそも「障害学」は、障害者が専門家/健常者の支配下にあったという認識を共有する「ポストコロニアルの取り組み」である(長瀬1999:23。3-2-1、3章の*9も参照)。本論では触れられなかったが、「障害学」発展の理論的背景には、E・サイードの「オリエンタリズム」における既存の人類学・「東洋」研究批判や、「他者」表象の政治性を問う,G・スピヴァックらのポストコロニアリズム(脱植民地主義)思想の影響も見て取れる。
*53:女性解放運動/女性学が女性に対して持つ意味と男性に対して持つ意味は,(理念的には「両者の解放は同時進行だ」とは言われても)実際には異なる。女性学の知見は必然的に、「男性とは、男性性とは何か」を問う「男性学」を生み出したが、その経過や、両者(女性学と男性学)の関係は、決して単純なものではない。新しい「知の運動」としての障害学も同様である。障害学は「健常者とは、健常性とは何か」を問わずにはおれない学問である。また、こうした「学」の必然として、担い手についての議論がある。障害学の中心的な担い手の中に障害者がいることは必須であるが、障害学は「障害学の視点」を持とうとする健常者を排除してはいない(例えば本論で紹介する長瀬や杉野は健常者である)。だが「健常者」の位置や役割はいかなるものなのか、といった議論は、海外の障害学でもなされてきたし(長瀬1996d)、日本の障害学メーリングリスト上でも展開されている。今のところ「健常学」が現実化する兆しはないが、近い将来には、より鋭く「健常者性を問う」学問の必要性が意識され、独立した「健常学」が立ち上がるかもしれない。
第二章.障害学の基本概念
本章の目的は、障害学の基本概念の一部を示すことで、3章以降の議論の前提を明らかにしておくことである。
2−1.「障害」の定義をめぐって
2−1−1 「障害」「障害者」の相対的な定義
「障害」と「障害者」の定義はもとより相対的なものである。ある人が「障害者」と見なされるか否か、ある状態が「障害」と見なされるか否かは、時代や立場により全く異なる*1。序章の*3で、障害者を「身体上の差異に関わって他の人びとから分かたれ『障害者』と名付けられる(略)人びと」とする定義を示したが、これは「障害者」について歴史や文化を越えた定義を試みるとすれば他にありえないからである。さしあたり国際的な分類法(後述)があり、各国の法律上にも「障害」の規定があり、各人のそれを判定する権威は医療専門家に在るが、その内容も当然可変的である。「障害」の定義は、障害者の問題状況を社会がどう捉えているかを写す鏡でもあるから、一部の障害者運動はそこに介入し、定義に自らの見解を反映させるよう努めてきた。この過程を詳述する余裕はないが、障害学の基本概念でもあるので、簡単に記したい。定義をめぐる共通理解と論争点を知るためには、次に見る「国際障害分類」と、それを批判する勢力の主張を対比させることが有効であろう。
2−1−2 WHOの国際障害分類(ICIDH)
現在、世界で最も広く承認され各国政府の政策にも採用されているのが、世界保健機構(WHO)が医療社会学者を中心に1980年に試案として作成した「国際障害分類」(ICIDH)である。これは「障害」をインペアメント(厚生省の仮訳では「機能障害」)、ディスアビリティ(同「能力障害」)、ハンディキャップ(同「社会的不利」)の三段階で捉え、さらにその中で詳細に分類したものだ(以下、佐藤1992:48〜)。定義は以下の通りである。
インペアメント:心理的、生理的または解剖的な構造または機能のなんらかの喪失
または異常。(知的障害や心理的機能障害、内臓障害等も含んでいる。)
ディスアビリティ:人間として正常と見なされている方法や範囲で活動していく能
力の、(インペアメントに起因する)何らかの制限や欠如。
ハンディキャップ:インペアメントやディスアビリティの結果として、その個人に
生じた不利益であって、その個人にとって(年齢、性別、社会文化的因子からみて)
正常な役割を果たすことが制限されたり妨げられたりすること。*2
WHOのこれ以前の定義は、より「病理」としてのそれであったため*3、「ハンディキャップ」の採用は当時注目された。ICIDHは障害に社会的不利という側面があることを一般に認知させ、治療だけでなく社会環境の変更が必要だという認識を広めた(佐藤1992)。
2−1−3 国際障害分類への批判
しかしこれは、1章で述べた障害者運動が到達した社会的視点とは似て非なるものである。なぜなら、ICIDHの定義はよく読むとわかる通り、結局インペアメントこそがディスアビリティ・ハンディキャップの規定因となる。この立場を敷衍すると、障害者問題の解決においてはまずインペアメントの治療が第一におかれ、治療不可能でそこからこぼれ落ちた問題への対処としてリハビリテーションや教育が要請され、それでもなお漏れ落ちた問題がハンディキャップとして理解されることになる(倉本1998:32-33)。となると、これは「治療やリハビリを通じて障害者が健常者に近づくこと」こそが第一との考え方、すなわち障害学が批判してきた「医療モデル」(後述)と違わなくなる。この考え方への対抗として、先述の英国の運動体UPIASは早くも76年に次のような障害の定義を主張した。
インペアメント:手足の一部または全部の欠損、身体に欠陥のある肢体、器官、ま
たは機構をもっていること。
ディスアビリティ:身体的なインペアメントを持つ人のことを全くまたはほとんど
考慮せず、したがって、社会活動の主流からかれらを排除している今日の社会組織に
よって生み出された不利益または活動の制約。(佐藤1992:26-27、長瀬1999:15)
ここで、「ディスアビリティ」の定義がICIDHのそれと全く異なっていることに気づくだろう。障害者が経験する不利益である「ディスアビリティ」(ICIDHでは「ハンディキャップ」)の規定因はインペアメントではなく「社会」なのだと明言したのである。1-1-2で先述の通り、それを理論付けたのが英国障害学の論者たちであった。その一人で自らも障害をもつマイケル・オリバー(グリニッジ大学)は、就労・医療・福祉サービスに関わる社会政策を支えるイデオロギー分析を強調し、労働市場からの排除など障害者が被る社会的不利益には、資本制的生産関係と近代の個人主義イデオロギーと医療化が関連していると主張した(石川2000a:158-159、倉本1998:32-33)。つまり、障害者を排除して成立した社会構造こそが社会的不利を生んでいるとして、身体的要素と社会的不利との関係を「完全に」切り離してみせたのである*4。この理論が後述する「社会モデル」である(2-2-2参照)。*5。
2−1−4 国際障害分類のその後
WHOでは試案であったICIDHの見直し作業を90年より開始した。その作業に各国のリハビリテーション関係者だけでなく95年からはDPIの代表が参加する等、運動側の意見も考慮され始めた。97年にWHOは「ICIDH-2国際障害分類 第2版(ベータ1草案)」を発表した。ここでは「disability(能力障害)」は「activity(活動)」に、「handicap(社会的不利)」は「participation(参加)」にそれぞれ変更され、三つの次元の相違を明確にするとともに、「障害」の否定的語感が払拭された。ここには健康の様々な次元(生物学的・社会的)を一貫した見方で統合すべきという見方が示されている(佐藤2000、石川2000a:167)。さらに「障害者の自立生活」や「機会均等化」等の理念も採用していることは、80年の初版と比べて障害当事者運動の主張に配慮し、「障害の社会モデル」(後述)の視点を相当部分取り入れようとしたことが窺われる(杉野2000:141)*6。元々この分類は主としてリハビリテーション現場で用いられるものだが、そこに明確に社会的側面が組み込まれていることは、障害学的な視点の影響力が増した結果と見てよいであろう。
2−2 障害の「モデル」
ここまで述べてきたこととも関係するが、障害学で共有されている基本概念である障害の「モデル」について、以下にまとめておく。
2−2−1 批判の対象としての「医療モデル/個人モデル」*7
障害者の抱える問題の原因を、何より個人の身体の損傷・機能障害(インペアメント)に求めることを「医療モデル」と呼ぶ。医療モデルの特色は、損傷を取り除くか軽減することを第一義的に重要なこととして価値づけ、それを疑わないことである。この、今なお社会に根を張った価値観を「医療モデル」と名付けたのは、むろんそれを実践する側ではなく、批判する側である。これを批判する者も、むろん治療や訓練そのものを否定するわけではない。もしある人が一定期間に受ける治療が、少ないコストで当人の苦痛を軽減し、生活機会を拡大するのであれば、これを否定する理由は無いのである。しかし現実には、一般社会は障害者に対して、治療・訓練に努めることを当然の「道徳的責務」として(石川1999a:73)求め、障害者は膨大な時間と労力というコストを支払わされる。そしてその努力には終わりがない。快適さや楽しみを犠牲にしてまで治療・訓練に明け暮れても、コストに見合った結果はほとんど常に得られず、人生の貴重な時間を浪費した、という経験が、身体障害者によって繰り返し語られている*8。障害者が治療や訓練に邁進させられている限り、周囲は安心してその努力を称え、社会の側が障壁を築いていることは露出しないで済んでしまう。ここに、「医療モデル」を対象化する必要性がある*9。
2−2−2 障害学の基本概念、「社会モデル」
再三述べてきた通り、障害者問題の原因は身体の損傷ではなく社会環境にこそある、というのが「社会モデル」の考え方である。この考え方は障害学の成果として、広く共有されている。
「医療モデル/個人モデル」から「社会モデル」への発想の転換とは具体的にどのようなことなのかは、M・オリバーが作成した,英国の国勢調査局(OPCS)の調査項目を用いた以下の事例がわかりやすいであろう(長瀬1996b:46-47)。
<国勢調査局の質問>
貴方にはどんな問題がありますか。
貴方が他の人を理解できないのは聞こえの問題が原因ですか。
現住所に移ったのは貴方の健康面の問題/障害が原因ですか。
貴方の健康面の問題/障害が原因で、思いのままに外出ができませんか。
貴方の健康面の問題/障害が原因で、バスでの移動は困難ですか。
オリバー作成の「別の」質問は次の通りである。前述の質問にそれぞれ対応している。
社会にはどんな問題がありますか。
貴方が他の人を理解できないのは、他の人が貴方と意志の疎通ができないからですか。
現住所に移ったのは、住宅のどのような不備が原因ですか。
思いのままに外出するのを妨げる移動や経済面の問題がありますか。
バスの設計の不備は、貴方のような健康面の問題/障害を持っている人のバス利用
を困難にしていますか。*10
障害学の基本概念である「社会モデル」は、人びとの頭の中の「障害」観を転換させた。障害者運動は「社会モデル」の理論化によって、社会的障壁の撤去や障害者の地域での生活支援に公費を投入することを根拠づけ、立法過程や制度の運用に積極的に介入し、現実を大きく変革してきたのである。教育、雇用市場、公共施設への物理的アクセスにおいて社会が障害者を排除してきたことに注意を促し、できなくさせる社会的環境(disabling society)こそが問題の核心だと言い切ることで、実際の変革に貢献してきたのである。
2−2−3 「ポスト・社会モデル」
「社会モデル」を前面に出した主張を展開することは、例えば日本のような「バリアフリー」という語の浸透度に比してバリアに満ちた社会では、なお重要である。しかし「社会モデル」は、その提唱者も気づいていたことではあるが、問題解決の万能薬ではない。社会のバリアさえ取り除かれれば「障害」は消える、としたこの言説は、健常者社会に対する戦略(*4を再度参照)としての役割は果たしたものの、限界も指摘されるようになった。簡単に言えば「身体の経験を切り捨てる」ことへの批判である。この「ポスト・社会モデル」というべき主張についても概観しておく。
先述のフィンケルシュタインやオリバーを「障害学の第一世代」とすると、1990年代には、フェミニズムやポストモダニズムの視点を採り入れた第二世代が登場した。この立場を代表するフェミニストのジェニー・モリスは、「社会モデル」について、「障壁は確かに私たちに不利益をもたらしているが、それに尽きると訴えるのは、身体的・知的制約、死の恐れに関する自分の体験を否定することである」と述べた(Morris1996、長瀬1999:18)。モリスに対して、今の社会でそのように主張することは逆効果であるとの批判*11も起こったが、L.クローはモリスを擁護し、「社会モデル」が障害の社会構築性(序章の*3参照)を明らかにした意義は大きいが、「インペアメントを抑圧する」ことにもなったと指摘する。クローは、「社会モデル」論者が、運動の主張を弱めるからという理由で、個人にインペアメントの否定的な側面を語らないことを要求してしまったという*12(Crow1996を石川2000aが引用)。もちろんクローらが主張しているのは、「医療モデル」を復権させることではない。障害者の身体の体験を「私的な問題」として「社会モデル」から排除するのでなく、インペアメントの経験をもその内部に包摂できるように、「社会モデル」を改訂していく必要があることを提起しているのである(石川2000a:160)。*13
2−2−4 集団に注目する「文化モデル」
最後に、まだ広く共有されてはいないが、「文化モデル」という概念を紹介しておく。障害の「文化モデル」は、「社会モデル」の批判ではなく、「障害」を社会的に考える際に重要ないま一つの側面である障害者集団(コミュニティ)に注目するものである*14。
米国のGilson&Depoy(2000)は、障害を「文化」と定義することは社会的政治的定義*15を包摂していると言う。「文化」としての障害観では、「障害者」を自認する全ての人は、「経験や暗黙のルール、言葉や言説を共有する固有の集団」に属しており、「障害」概念はエスニック集団と同様に集団属性の一つであり、障害アイデンティティを共有しない他集団と区別される。Linton(1998)は、「私たち障害者は(医学・病理学的な)特徴の一覧表によってではなく、集団として強いられた社会的政治的状況によって結び合わされている」と主張する。つまり、障害者が社会的に置かれた位置によって経験や感情を共有し、そこから共通の価値や生活文化を育んでいることに注目する立場である。*16。
ここで述べられた、「文化を持つ(あるいは育む)集団・コミュニティ」としての障害者という概念については、次章で展開する「障害(の)文化」に関わる議論の中でも言及することになる。これは、「障害学」で議論されている多様なテーマ群の中の一つにすぎないが、社会にとって、および個人にとっての「障害」の意味の変容に直接関わる重要な議論である。
<2章の注>
*1:この相対性は、例えば、障害者数の国際比較といったものがあまり意味をなさないほどである。そもそも「健常者」「障害者」というカテゴリー自体が、特定の時代と社会が生み出したものでしかない(倉本2000b:97-99)と言うこともできる。また、その社会の多数派や専門家によって「○○障害者」と名付けられた者がその「名付け」を受け入れるとは限らない。その顕著な例が「ろう文化」の主張である(1-2-2, 3-2-1、1章の*24参照)。
*2:WHOの定義に従って簡単な例を挙げれば、ある人のインペアメントが「上肢の麻痺」であれば、ディスアビリティはそのために「姿勢を保持すること、物を拾い上げること、字を書くことができない」等であり、ハンディキャップはそれによって「(その人が成人男性だとすれば)社会文化的にその人にとって正常な役割とみなされている『就労』が困難」とされるわけである。
*3:76年の国連決議で81年に国際障害者年を行うことが決まったが、その決議で第一に挙げられていたのは、「障害者の社会への適応」であった。ここには「障害を設けているのは社会の側」という発想は見られない。しかし、83年から92年の国連障害者の10年を経て国際社会の認識は劇的に変化した。93年に国連総会で採択された『障害者の機会均等化に関する基準規則』においては「障害者に対する壁をなくすこと」が一番大切であることが明記され、「機会均等化」に焦点が絞られ、以前はそれと並んで三本柱を構成していた「リハビリテーション」・「予防」が後退している。このことからも、運動の展開が国際社会の「障害」認識を大きく変化させてきたことが明らかである(長瀬2000:15)。
*4:「完全に切り離す」のは、飛躍があるように見えるであろう。「身体の損傷」を全く抜きにして「障害」を考えられるのか、という疑問は、恐らく誰しもが抱くものである。しかしこの「切り離し」は戦略的なものだ。「社会モデル」は、少なくとも障害者に対する社会的施策の研究から、問題を個人に還元するアプローチを排除する。こうすることによってオリバーらは問題の争点を明確にし、個人的文脈で語られる傾向の強かった障害を、「社会が(具体的な法改正や財源確保を伴って)解決すべき問題」として、政治の俎上にのぼらせることに成功したのである(倉本1998:33、2000b:114-115)。
この「切り離し」について、立岩は次のように述べている。「障害学は認識論であるより『実践的』なものである。最初から社会運動的な志向をもっている。それは『障害』と『不利』の間を切断し、私がやる(べき)こをではなくて、あなたがた(社会)がやるべきことだという主張に連続するものとしてある」(立岩1998:90)。
5:なおICIDHに反対したのは英国の障害学・障害者運動だけではなかった。DPIは以前の規約ではICIDHを受け入れていたが、82年の世界評議会で規約を修正し、障害者の社会参加が不十分なのは障害者の責任ではないとして、ハンディキャップの定義を、社会的障壁を強調したものへと修正したのである。修正後の、DPIの「障害」の定義は以下のとおりである(ドリージャー2000:212)。
ディスアビリティ(障害):身体、精神、感覚の損傷(インペアメント)により引
き起こされる個人の機能的制約。
ハンディキャップ(社会的不利):社会のほかの人と対等なレベルで通常の社会生
活に参加する機会が、物理的、社会的障壁により制限され失われていることである。
*6:しかし杉野は、この「ICIDH-2」において「医療モデル」と「社会モデル」は統合可能なものと想定されていることに疑問を投げかける。保健医療政策として解決されるべき問題(むろんそれは従来の「医療モデル」を肯定するものではない)と、社会政策として解決されるべき問題は次元が異なる問題であるとし、「リハビリテーション研究」とは異なるパラダイムによる「障害」研究を確立する意義を主張している。(杉野2000:142-161)
*7:医療モデルの近接概念が「個人モデル/個人の悲劇モデル」がある。これはその名のとおり、障害者の問題状況の原因を個人(の身体的損傷)に求め、社会的視点を欠落させた見方のことである。「個人モデル」は「医療モデル」と並列されることもある(例「医療/個人モデル」)。これは「医療モデル」と同様、「社会モデル」の対概念であり、社会モデル提唱者が命名したものである。
*8:特に肢体不自由者の成人で、施設や養護学校での「機能回復訓練」を辛かった経験として語る人は多い。幼少のころから病院めぐりをし、手術を繰り返し受けた人、親元から離されてまで「訓練」漬けの日々を送らされたという経験は珍しくない。それは子どもらしい遊びや交友関係を奪われることをも意味していた。「発達」「機能回復」の名のもとに、常に保護・監視され、いつでも健常者の体に近づこうと努力していなければならなかった、といった経験である。そうした訓練や手術で何かができるようになったという例は少なく、かえって体を痛めたり、(施設職員や医師らが障害の重い者に向ける否定的なまなざしとも関連して)精神的にも苦痛を受けたと語る人が多い。訓練の後遺症としての脳性マヒ者の二次障害の問題は深刻であることも指摘されている。「医学モデル」がどれほど「無駄な」訓練を強いるものであり、また否定的なアイデンティティ形成とも関連しているかを考えるには、当事者の記録を参照するのが最良であろう(安積1993、金1996、尾上1997、小佐野1998、須田1998、樋口1998、小島2000等)。
*9:なお「医学モデル」は、決して極端な能力至上主義のことではなく、私たちの日常の社会通念にまで入り込んでいるものである。誰かが何かを「できるようになる」ことを賞賛するのは、病気からの回復を祝うように「自然」なことのように思えるから、批判すべき「医学モデル」とそうでないものとの間に線を引くのは結構難しい([石川1992]は参考になるが。3-6参照)。だからこそ、「できる」という一見疑いようもなく思える価値を相対化する必要があるし、このことを「生」の現実に則して考えるためには、まずは障害当時者の経験に耳を傾けることが有効なのではないだろうか。
*10:この国勢調査局の事例について。障害をもつ一人の住民が、二種類の調査を受けたとした場合、どれほど印象が異なるだろうか。前者のメッセージは、あなたは「障害のために」さまざまな問題を抱えているんですね、と念押しするものだ。他方後者は、問題は社会の側にあることを明示した上で、「あなたはそれに対して具体的に提言できる資格があるから意見を聞かせてほしい」と請うものである。後者のような社会調査がなされることを当然とする社会であれば、障害者は「人さまの迷惑になっている」という感覚を持たず、社会に主体的に参加していることが実感できるであろう。
*11:バーンズによる批判は、「障害者の日常的な体験、アイデンティティ問題、身体論等を語り始めると、心理学的モデルとの区別が再び曖昧になり、『社会モデル』にこめた批判がなし崩しになる恐れがあるというものだった(Barns1998を石川2000aが引用:159)。
*12:クローの言うインペアメントの抑圧とは、「障害の重度化への不安、昔のように動けないことへの嘆き、子どもの障害へのアンビバレントな感情等はすべてタブーとして語られなくなって」しまいかねない、ということだ。個人にとって切実な感情や考えを述べることが障害者運動や障害学の中で否定されてしまえば、それは個人にとって過酷であるばかりでなく、「社会モデル」が悪しきイデオロギーにも転化しうる。「社会モデル」の強調にはそのような罠が隠れていると、クローは指摘している(石川2000a:159-160)。
*13: なお、「ポスト・社会モデル」的な議論は、日本では例えば倉本(1998,1999a)や石川(2000a)も展開していると言える。
*14:これは一見ろう文化/ろうコミュニティをモデルとしているようだが、Gilson&Depoyは「ろう文化」に言及していない。「言語」という明らかな絆を持つろう者以外の障害者についての、「文化モデル」の可能性を追求しているのかもしれない。
*15:Gilsonらの社会的政治的モデルとは、以下の通りである。
社会モデルにおいては、障害者に敵対する環境、否定的な態度、限られた物理的ア
クセス、コミュニケーションや資源への限られたアクセスが問題である。障害は人間
の状態の多様性をあらわすものとみなされ、『治療すべきもの』では必ずしもない。
社会モデルの目標は、社会と環境における障壁を除去して、社会的かつ物理的に、
またキャリア上も精神的にも完全に参加できることである。政治モデルは社会モデル
と似ているが、障害を権力と資源の領有に移していくものである。M・オリバーによ
ると、障害の政治的定義は、将来の政治行動への方向性を与えるものである。
(Gilson&Depoy2000)
*16:なお石川(2000a:162-165)は、「文化モデル」の主張を推し進めると、「文化モデル」と「社会モデル」が対立させられる恐れがあると言う(ここで石川が念頭においているのは「ろう文化」である)。それは、「文化モデル」では、ややもすれば個々の障害者諸集団が(「同化」とは逆の)「異化」を求めることになり、その集団は主流社会への統合要求を重視しなくなるため、逆に主流社会の方は「統合」(社会参加の権利)や「多様性の承認」の努力を怠ることができてしまう。結果として、同化主義的な社会構造が温存されてしまうというわけである(石川1999c、2000b:33-39。3章の*59も参照)。
第三章.「障害文化」論の系譜
3−1.「障害文化」論の外枠
本章では、障害学の文脈における*1「障害文化」「障害の文化」あるいは「障害者文化」と呼ばれる概念に関わる議論を、系譜を追って展開する。なお、様々な言い方がある中で本論では便宜上「障害文化」という言葉を用い*2、その議論を「障害文化」論と総称する。この節では、本章の議論の外枠となる事項を述べておく。
3−1−1 「文化」とは何か
前置きとして、「文化とは何か」という古典的な主題に触れる。当初これは省略しようと考えた。なぜなら、「障害文化」の意味は論者により文脈により異なる多層的なものであり、「文化」を一概に定義することは不可能だからだ。しかし一定の分析枠組みの必要性、および「素朴な誤解」(一般に「障害文化」と聞くと「障害者が創作した芸術や文学作品」を連想する人が多い*3)を避ける必要性から、倉本(2000b:90-97)に倣って「文化」の定義を行っておくことにする。ここでは三つの要素から「文化」を捉える*4。
まず、「@慣習化された行為・行動様式」としての文化である。意識せずとも慣習的にとられている行動パターンや動作・くせ、生活様式等を指す。次に「Aルールや価値観としての文化」である。ここには信念や美意識も「役割期待」等も含まれる。当然のことながら@とAは密接に関連しあい、コインの裏表と言える。最後が、最もイメージしやすく一般的なものであるが、道具やテクノロジー、芸術作品等の「B生産物」としての文化である。先に挙げた「素朴な誤解」は、Bのみを「文化」とイメージしたことから来ていると言えよう*5。本章では折々にこの枠組みを用いることにする。
3−1−2 「障害文化」とは何か
では「障害文化」とは@〜Bを障害者に当てはめたものなのかといえば、ことはそう単純ではない。各論者が「文化」という語を用いるのにはそれぞれ固有の文脈があり、「障害文化」論という枠組みが意識されているわけでもはない。よって本章では、各論者が何(誰)の影響の下、いかなる文脈・目的で以って主張を展開しているのかがわかるように記述するよう努めたい。そうすることによってこそ、「障害文化」論の射程を示すことが可能だと考えるからである。「障害文化」論の全体を包括する「障害文化」の定義は存在しないため、ここで定義は行わない(3-8で分類を行っている)。
3−1−3 本章で検討する対象
本章では、障害学の文脈で「障害文化」が論じられ始める、1995年頃以降の日本での議論を取り上げる。具体的には文化人類学、社会学、社会福祉学、社会教育学等の領域で発表された論文や著書、あるいは雑誌やウェブサイトで発表されたものを含んでいる。なお本論では、[現代思想編集部編1996]や[長瀬1996b, 1998a]によって紹介された海外の「ろう文化」や「障害文化」事情については述べるが(3-2)、検討対象は国内で発表されたものに絞る。これは、日本における「障害文化」の諸議論が、一定の前提(3-2で述べる事柄の他、障害者運動の歴史と現況、「障害学」的先行研究*6)を共有しており、日本社会の文脈で議論していることからすると、国内に絞ったほうが論点を明確にできると考えたからである*7。
3−2.「障害文化」論の前提
この節では日本における「障害文化」の議論の前提を整理しておく。「文化」概念が意識されるにあたって大きな影響を与えた「ろう文化」の意義を整理し、日本での展開も述べる。さらに長瀬らによって伝えられた海外の「障害文化」について述べる。
3−2−1 ろう文化運動の意義と「障害文化」への影響
80年代の米国に始まる「ろう文化運動」については1-2-2で既に触れたが、ここでは特に、本論の主題である「障害文化」の提唱につながった部分を抽出してみたい。
「ろう文化」と「障害文化」の微妙な関係
最初に断っておくが、「ろう文化」と「障害文化」との関係は複雑であり、前者が後者に含まれるという関係にはない。米国でも日本でも「ろう文化」推進者は「聴覚障害者」という呼称を拒否し、自分達は「言語的少数者」であると主張する。そのため「ろう文化」を「障害(者)文化」の一つとは考えない傾向がある*8。この姿勢に対しては例えば長瀬(1996b)の批判(3-3-2参照)があり、それへの応答(例えば森1999、木村2000)も様々な角度からなされ、議論は今日も続いているが、それを本論で追う余裕はない。
以下ではろう文化運動の意義を、「障害文化」への影響を念頭に置いてまとめたい。ろう文化運動は、図らずも「障害」概念を脱構築し、「文化」の議論に火をつけたのである。
「脱植民地」としてのろう文化運動
ろう文化論者は、ろう者の歴史を「植民地」になぞらえることがある*9。これは、ろう者のありようを専門家が一方的に規定し、「聴者に近づけば近づくほどよい」という価値観の下で教育や医療が行われてきたことを指す。例えば日本でも「ろう文化」の主張は、聴者からは「極端」と評されたり(金澤1998:43)「弱者の強がり」(金澤1999:186)と疑われたり、「違いを強調されるのは悲しい」(江藤1996:98)と思われたりするのだが、これはろう者からすると見当違いである。このズレ*10を認識するには、聴者中心の社会で、ろう者の実感とは乖離した「聴覚障害者」像が歴史的に形成されてきたことを知る必要があろう。聴者に伝えられる「聴覚障害者の声」は、聴者と価値観を共有できる中途失聴者や、口話に長けた難聴者のそれである。かれらが聴者に「聴覚障害者」のニーズを訴え、その結果、「聴者は普通のろう者の姿を知らないまま」という、植民地的構造が再生産されてきたのである(金澤1998:45-46)。
「脱植民地」は容易なことではない。約9割のろう者は聴者の両親の下に生まれ*11、聴者の医師や教師の影響下で育つため、ろう者自身が聴者と同様の否定的な「障害者」観を内面化してしまうことが少なくない*12。だからこそ、自らの文化的アイデンティティに目覚めたたろう者は、自己の尊厳を取り戻すべく、「植民地」からの言わば「独立」宣言として、「言語的少数者としての自己像」を呈示し、「ろう者の誇りDeaf Pride」を謳ったのである。それは、多数派(聴者)社会に承認を求めるものであると同時に、孤立してきた「仲間」への呼びかけでもあった。
「ろう文化宣言」:日本におけるろう文化運動
ここまで記述してきたことは米国と日本に共通するものであったが、ここで特に日本における「ろう文化」の動きを述べる。90年頃より日本にも「ろう文化」の主張は伝えられていたが、それが顕在化した契機は、何と言っても、95年3月にDプロ*13の木村晴美らが雑誌「現代思想」誌上で行った『ろう文化宣言』(木村・市田1995、以下『宣言』と略す)である。『宣言』は「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す言語的少数者である」という一文で始まり、日本手話の性格を述べ、聾教育や通訳養成等の現実問題に対して具体的な提言を行っている。『宣言』の最後は、「ろう者自身も自信と誇りを取り戻しつつある」と言い、ろう者と聴者が「近い将来、対等な立場で向き合うことのできる日が必ず来ると私たちは確信している」と結ばれている。
この『宣言』は、「近代医学の言説とそれを追認する実体主義的障害観に真っ向から挑戦するもの」(倉本1997)であり、「福祉の対象としての聴覚障害者」というイメージを完全に打ち破るものであったから、反響は大きかった。しかし「聴覚障害者」の教育や福祉のために努力してきた人には「受け入れ難い」ものでもあった(金澤1999:185)。『宣言』は研究者や知識人にも衝撃を与え、議論が湧き起こった。それに応えて「現代思想」編集部は96年「臨時ろう文化特集」(現代思想編集部編1996)を編んだほどである*14。
「ろう文化宣言」の意味と影響
『宣言』が日本のろう者の間に「やむことのない」支持(金澤1999:185)を獲得したのは、それが聴者の誤解を正すものであったと同時に、自分達の日常の姿が肯定的に宣言されていたためと考えられる。ろう者の森壮也は、「医学的でなく文化的な意味でのろう者の独自性」は以前も「ろう者のやり方」という言い方で「抑圧された」形では存在したと言う(森1999:159)。それは、手話の使用のみならず、注意を引く際に机や相手の肩を叩くといったコミュニケーション法や、夜遅い時間に互いの家を訪問しあう(訪問された方も驚かない)といった生活文化の独自性を指す。こうした「やり方」は従来、聴者からは「変な癖」「非常識」と見なされがちであった。ところがこれらが「文化」と名づけられ、日々繰り返している生活習慣に別の意味が与えられたのである。『宣言』が謳う「自信と誇り」とは、ろう者が自己のありのままの姿に自信を持ち、その承認を社会に求めていくことをも意味していたのである。
『ろう文化宣言』は「障害文化」という枠組みを意識したものではなかったし、両者の関係が単純でないのは先にも触れた通りだ。それでも『宣言』の持つ「パラダイム転換」的な性格が、ろう者以外の障害者に自身の集団について考える契機を作ったことは疑いない*15。『宣言』は「障害」を文化として捉える試みを一挙に促進させた。日本の「障害文化」論者の殆どが「ろう文化」に言及していることからも、その重要性は明らかである。
ろう文化における「文化」
なお、ろう文化における「文化」の意味内容を、3-1-1の「文化」の定義に照らしてみると、@からBすべてを包含していることがわかる。ろう者独自の行動様式・生活様式や価値観・ルールが存在することは、手話言語(B)の強調とともに繰り返し語られている(現代思想編集部編1996=2000)。ろう文化に関する多彩な論考や「民族誌」(木村1996)を読めば、@ABが互いに密接に関連しあって「文化」を形成していることが読み取れる。
3−2−2 「障害文化」の海外事情
海外で「障害文化」という概念が提起された動きについて、長瀬(1998a:205-209)が紹介している。米国では84年頃から障害文化の議論が始まったが*16、顕著な動きにスティーブン・ブラウンを旗手とする「障害文化運動」がある。ブラウンは94年に「世界中の障害者の歴史、活動、文化的アイデンティティに誇りをもつこと」を目的とする「障害文化研究所」の活動を始めた*17。ここでいう「文化」とは芸術文化ではなく、幅広く行動様式や生活様式を示している点で、ろう者の動きと共通点があると長瀬は指摘する*18。なお長瀬は、ブラウンのような思想は日本の障害者運動にも既にあったとして、70年代の「青い芝」の運動や、自立生活運動における「障害を一つのかけがえのない個性として受け入れ、ありのままの自分をまるごと肯定する生き方」(岡原・立岩1990:159-160)を志向する世界と重なるものだと指摘した。(長瀬1998:205-207)*19。
また異文化コミュニケーション専攻の岩隈によると、元は人種、民族集団間を前提としていたこの部門でも、障害者と健常者のコミュニケーションを主題とした研究が増え、「障害者の固有文化」の存在を主張する人が増え、「障害文化」の証明を示そうとする現象も生まれている*20。ギャローデッド革命(1章*25参照)の後、「ろう者だけでなく、他の障害者たちも自分たちの共通性に目覚め始めた」(岩隈1998:193-196)のだという。
一方、社会モデルを産んだ英国では「文化」の議論は多くない(長瀬1998:206)。しかし2-2-3でも触れたモリスは、障害文化は「正常であるふりをするように仕向ける(健常者からの)圧力を認知するのを可能にし」、「我々の自分自身に対する偏見、そして非障害者の文化がもつ偏見に挑戦する」ものとしている(Morris1991:37)。
3−3.先駆的な議論
本節では、日本における「障害文化」論の先導的役割を果たした二人の提起を概観する。
3−3−1 杉野昭博の「障害の文化」論
盲学校での勤務経験があり、人類学専攻から転じて社会福祉政策を専門とする杉野昭博は、早くも90年に「文化」概念を用いた[杉野1990]を発表していた。その後留学により海外事情も摂取した杉野は、「『障害の文化』と『共生』の課題」と題した論文[杉野1997]を文化人類学の分野で発表した。これは「障害の文化」に関する日本初の本格的な論考であり、他の研究者に影響を与えた*21。
杉野は「文化」に注目した理由を次のように述べる。自分は大学で健常の学生を相手に「障害者福祉」を講義しているが、障害者のことを一般論では語れないと日々実感する。健常者と障害者の間には翻訳を要する「文化の壁」がありそうだ、と(杉野1997:249)。
そこで杉野は、「文化の壁」*22の何たるかを明らかにすべく、個々の障害者のアイデンティティ形成のありようとそれに伴う行動様式に注目し、それを「障害の文化」と呼んで、三層に分類した。その結果が、a.名づけとしての障害、b.名づけに対する反作用、c.名のりとしての障害である*23。順に見ていきたい。
名づけとしての「障害」=従属文化
a(『名づけ』としての障害)は、社会学者ゴッフマン(1970)等の逸脱論にヒントを得たものだ。実際には多様な個々の「障害者」を共通項で括っているのは、彼らをそのように規定し排除している一般社会に他ならない。社会から「障害」ラベルを貼り付けられた結果、障害者はおとなしく従順に、けなげに、「それらしく」振舞うようにといった「役割期待」を内面化し、それを実行に移してしまう。つまり、ここでいう「障害の文化」は健常者社会によって割り振られた「障害者」役割のセットであり、障害者自らが作り上げたものではない。これは健常者文化によって一方的に定義され、意味的にも「重荷」「半人前」といった従属的な役割による自己規定を軸にしてしまう点で、まさに「従属文化」といえる(同:250-252)。(「障害者役割」についてはこの章の*62も参照)
名づけへの反作用=対抗文化
次にb(名づけに対する反作用)は、aの「名づけ」や役割期待に対する反作用に注目するものである。例としては、ゴッフマン(1970)の描いた「健常者のふりをして潜伏(パス)する」といった消極的な抵抗もあれば、一般社会が要求する「盲人らしさ」への反発、身体障害者の入所施設における抵抗など「対抗文化」と呼びうるものも含まれている(同:252-255)。
「名のり」としての「障害の文化」=固有文化
そしてc(『名のり』としての障害)は、健常者文化に規定される先の二者とは異なり、障害者集団の「固有文化」に着目する立場である。いわば自ら障害者として「名のり」出て、積極的に障害アイデンティティを獲得する方向である。しかしこれは容易なことではない。例えば「人さまの世話にならない」ことを美徳とする文化(価値観)の下では、多くの在宅・施設の身体障害者は「自立したいが、そのためには人手を借りなければならない」というジレンマに悩まされる。そこから奮起して「依存して何が悪い」と開き直ることは新しい生活を開拓するための第一歩であるが、多くの場合、不満を持ちつつも、自分の障害を世間にさらしたくないという「羞恥心」から、言葉や行動を抑制してしまう。
では、どのような場合に「名のり」が可能になるのか。個人のジレンマの解消に大きな役割を果たしているのが「ピア・グループ」すなわち、同種の障害をもつ人々の集団である。理屈や制度などの「正当化図式」よりも、むしろ仲間からの同意や承認などの「妥当性構造」こそが意味をもつ。自立生活運動の中での「ピアカウンセリング」はまさにこれである*24。また杉野は「ろう文化」の例をひき、この場合もろうコミュニティという「ピア・グループ」における相互承認が個人にとって重要な役割を果たしていると見る。
つまり、専門家による評価や周囲の健常者による賞賛ではなく、障害者の仲間集団の中で育まれた価値観こそが、「名のり」を可能にする「文化」なのである(同:256-257)。
「共生」の陥穽 〜「名のり」の抑圧〜
さて、ここまで述べて杉野は、「障害者と健常者が同じ場所にいることによって諸々の問題が解決される」と言わんばかりの今日の「共生論」や「ノーマライゼーション政策」はあまりにも平板な「共生」観に基づいているのではないかと問題提起する。養護学校や障害者施設を廃止して,健常者社会にかれらを統合したとしても、それが問題「解決」を意味するのか。「共生」を論じるためには、本質的な価値対立を含んでいる健常者と障害者との「文化闘争」*25を避けて通れないのではないか。杉野はそう問いかける(同:268)。
具体例として杉野は、健常者と同じ職場に働く強度弱視者のケースを挙げる。その人は職場で「同じ人に何度も挨拶してしまう」など、晴眼者ならしないミスのために苦笑されるような事態を日常的に招く。自らの障害について説明し続けるのは大変な労力を要するから、結局その人は極力「障害」が表面化しないよう振舞うことになる。つまり「名のり」を抑圧してしまったのだ*26。ここから言えることは、教育や労働の場における「統合」は、それ自体は望ましいことには違いないが、健常者と同じ場所にいることによって障害者の葛藤や生きづらさが解消されるわけではないということだ。「不可視」化されていた障害者が社会の中で可視化するためには、自らの存在や特徴を「名のる」しかないが、それは障害者側にばかり心身の負担を強いることを意味する。「隔離」が障害者を見えなくするように、「統合」もまた、障害者を圧倒的多数の健常者の中に埋没させて見えなくするのではないか、と杉野は言う*27。
こうして平板な「共生」論の落とし穴を明らかにした杉野は、「青い芝の会」の横塚晃一の思想を例を引きながら、「障害の固有文化」に考察を進める。横塚が述べたように*28、障害者が「闘う」相手は、外なる健常者社会よりもむしろ「内なる健全者幻想」である。健常者へのあこがれを払拭し、自ら「障害」のアイデンティティを引き受けない限り、当人にとっての解放はなかった。そこで杉野は、障害の固有文化とは「障害を肯定する文化」であるとした(同:270)。
まとめ:杉野の「文化」観
まとめると、杉野は、主流文化に規定されたり対抗したり、そこから自律したりといった、「障害」の捉え方の諸相と、そこからくる行動様式等を「文化」とを呼んでいる。3-1-1の分類でいえば「A価値観」に注目し、それが「@行動様式」を規定する様子を「文化」として描いている。その中でも、障害者の「名のりの抑圧」や「内なる健常者幻想」という現実問題の解決を志向すれば、最後の「『名のり』としての障害」「固有文化」に杉野が注目していることは明らかである。なぜなら、平板な「共生」観に安住せず、障害者がありのままに社会に可視化していけるような方策、「文化の壁」をのりこえる方策を(健常者は健常者の立場から)考えなくては、障害者が日常的に抱える問題は先送りされるばかりだからである。
3−3−2 「障害を肯定する文化」:長瀬修の提起
障害者の権利擁護に関わる仕事に長く就いていた*29長瀬は、国連在任中の93年より「ろう文化」に接し、またオランダ留学中に「障害学」や先述の米国の「障害文化」を知ったこと、ナチスの障害者抹殺に関わる翻訳*30に携わったこと等から「障害の文化」に関心を深めた(長瀬1998)。それを日本に紹介してきたことは先述の通りである。長瀬の文章の多くはウェブサイトで読むことができ*31 、関心をもつ広範な人々に影響を与えている。
「社会環境の変革」に魂を入れる「文化」
長瀬は修士論文(Nagase1995)の主題を、当初「障害者の権利」を中心に置く予定であったが、徐々に「障害の文化」を強調する方向に軌道修正していく。「障害者の権利と少なくとも同等、もしかすればそれ以上に重要なのは『「障害者の文化』の認知である」と気づいたと言うのである(長瀬1996c)。そして「障害を持って、障害者として生きることを一つの生き方、文化としてはっきりと認めることが、権利の実現や環境整備と少なくとも同じだけ重要である」として、米国の自立生活運動や「障害文化」に触れた後、日本での「青い芝」等の事例*32を挙げ、その共通性と普遍性を強調した。長瀬は、従来も主張されてきた「社会環境の変革」と、新しい課題である「文化」との関係を,次のように述べる。
障害者の文化を認めるという価値観の変化なしで社会環境の変革を進めることは困
難だし、ともすれば逆に障害者への偏見を強めてしまう。障害と共に生きる価値を認
めることは、社会環境の変革に魂を入れる作業である。障害による差異を祝福として
受け止められる社会を目指すことである。この両面からの取り組みを進めることは障
害自体への見方をも変えるだろう(長瀬1996c)。
長瀬は、障害という差異を消す方向ではなく、差異を肯定的に受け止め合う社会を目指す方向が大切であり、そのような社会でこそ、障害者個人の権利も実現されると考えた。ここには、杉野が言う「名のりの抑圧」への問題意識とも共通性がある。長瀬は恐らく、「障害者の権利」「障害者のニーズ」といった旧来の用語で「問題」を切り出し,健常者一般の良識に訴えかけていくという従来の方法(少なくとも、それだけをしていくこと)の限界を肌で感じていたからこそ、障害文化運動に惹かれたのではないだろうか*33。
ろう文化への賛同と危惧
長瀬はろう文化運動に注目し、賛同してこれを積極的に日本に紹介しつつも、ろう者の一部の「我々は障害者ではない」という言明に危惧を表してきた。長瀬はあくまでも「障害者として生きることを一つの生の形として位置づける障害者文化運動の視点からは、『聞こえない』ことから生まれたろう文化は、障害者文化の頂点の一つ、モデルの一つ」と考える(長瀬1996b:49)。長瀬の危惧は、「障害者ではない」と語られる時、一般社会における否定的で「医療モデル」的な障害観が不問に付されることへの疑問であったと言えよう*34。
まとめ:長瀬の「文化」観
長瀬の言う障害「文化」の意味をまとめるとすると、「障害を肯定する価値観と行動様式」となろう。一般社会で「障害」に否定的な意味が付されている事実を認めた上で、それを「肯定」に転じた思想や、そのための具体的な実践に注目している。長瀬が描くのは、特定の価値・方向を伴った「障害文化」であり、それは米国のブラウンが言う「障害文化運動」と呼びうるものである。長瀬の「文化」観は、3-1-1の分類でいえばA(価値観)に最も近いが、そこから「@行動様式」や「B生産物」が生み出されることを描写、または期待している。長瀬が注目する「価値観、行動様式」は、杉野の言う「障害を肯定する文化=固有文化」とも重なる部分が認められる。
3−4 「障害文化」の社会学的研究
ここまでの流れを受けて、1997年ごろから「障害」の社会的・文化的側面に焦点をあてた研究が出現する。この動きは、「日本でも障害学を」という長瀬らの呼びかけと合流するものであった(山田1998)。この節では、98年の日本解放社会学会*35の学会誌に収録された,ましこひでのりと倉本智明の論考を取り上げる。
3−4−1 「生活文化」研究の意義:ましこひでのりの提起
社会学者のましこは障害者の「生活文化」を多角的に分析し、その社会学的研究の意味を整理した(ましこ1998)。「生活文化」とは文字通り観察可能な「生活のしかた、産出物」を指す。ここでは障害者の「生活文化」を対象化する意義を明らかにしたい。
生活機会と生活文化
社会学は従来、障がい者*36の「生活機会」には関心を向けても、「生活文化、生活世界」には関心を向けてこなかったとましこは言う*37。「障がい者の生活文化」は、知識社会学的に言えば「非障がい者には配分されていない知識」*38である(ましこ1998:6)。要は、大多数の健常者はふだん障がい者と接触することがないために、その生活がどのようなものかわからないということだ。この至極当たり前のことを、最初にましこは確認し、そして「障がい者の生活文化」に目を向けることは、社会学者のバーガーが言う「地理的移動をともなわない『文化衝撃』」だと表現する(同:6-7)。
ましこは生活文化を「障がいによる、なかば必然的な要素(A)」と「周囲の非障がい者=多数派社会がもたらす要素(B)」とに分けて考察した*39。Aの例としては、聴覚とは無縁な生活世界がもたらした,ろう者の手話や独自のコミュニケーション法のように、個々の「障がい」ごとに多様に見出されるものである*40。
多数派社会に規定される生活文化
問題はBである。ましこはこんな例を挙げる。重度身体障害者ががあまり出歩かないという現実は、『公共輸送に依存せず、まちもあるかない』といった『独自の生活文化』があるから、とは言えない。公共輸送機関が障壁を取り除く努力を重ねるなら、「障がい者/非障がい者の人口比まではいかないにしても、予想をはるかにこえた数の障がい者がまちなかに登場するはず」だからだ*41。また、盲人の職業が一部職種に偏っているのは、その能力を有効活用しようとせず、保護・管理・排除の対象として扱ってきた近代社会全体の風潮が規定した「職業文化」にすぎないと考えられる(同:8-9)。
より見えにくいBの問題に、多数派社会が無自覚におしつけている規範や美意識がある。「障がい者は周囲の視線が要求するとおりのふるまいを身につけ」なければならないと思い込まされ、そのため多くの障がい者文化は、「多数派の秩序・規範・美意識」にかなり規定され、妥協を迫られている(同:8-11)。さらに障害者が「保護すべき幼児あつかい」を受けたり、「けなげに生きる」という禁欲主義を押し付けられる問題もある*42。そこでましこは、「多数派のまなざしが影響をあたえているらしい障がい者の生活文化には、きちんとしたメスを入れる必要」があると結論づけた(同:11)。
文化の再生産と多数派社会
さらにましこは、「非障がい者と異質な生活文化」がいかに生産されるのかに注目する。生活文化は通常、生活者としての両親など先行世代の規定する部分(民族、階層、生業等)が相当大きい。民族的少数者は家族からの影響を受けるが、「障がい者文化」の場合、家庭や地域は文化伝達の役割を果たさない。障がいをもつ子どもにとって当人を取り囲む人々はほとんどが非障がい者と言える。その中で社会化されるのであるから、先の分析でいうBの要素が大きくなる訳だ。したがって個人の個性を越えた「障がい者文化」が形成される背景には、家庭や地域を超えた機関やネットワークが存在する(同:15-19)ことが見逃せない*43。障がい者の生活世界では、多様なかたちで文化の「生産/再生産」が行われているのである*44。
まとめ:ましこの「文化」観
ましこは、例えば長瀬の「障害を肯定する文化」という価値的なもの(3-1-1でいうAの中でも特定の価値)とはあえて一線を引き、観察可能な「@慣習化された行為・行動様式」と「Bその産出物」に注目した。そこでの観察から、元々@とコインの裏表の関係にあるA(健常者中心社会の価値観、および、そこから自律して障害者が創りあげた価値観)を抽出した。A(=価値観としての文化)を論じると抽象的になりがちであるが、@の詳細な観察・記述がAを浮かび上がらせることにもなる好例を示したと言えるだろう。
3−4−2 「文化」と「身体」:倉本智明の問題提起1
これまでの議論を引き継ぎ、卓抜した「文化」論を発表し始めたのが倉本智明である。ここでは、障害者文化と障害者身体との関係について着目した[倉本1998,2000b]を取り上げる。
「障害者文化」と「障害者身体」
倉本は「障害者文化」をさしあたり、『感覚機能や精神活動をも含めた身体の形質・機能に関わって、他から分節され、「障害者」と名付けられた人びとが日々生きる文化』と定義づけつつ(倉本1998:31)、これがなんらかの一つの実体を指し表すものではないと念を押す*45。そして「障害者」諸集団の文化に共通性を見出す*46ことは可能かもしれないが、結論を急ぐ前に、個々の障害者の「文化」に関する十分な知見を蓄積する必要があるという(同:31)。また、「民族文化」等と区別されるものとして「障害者文化」を特徴づけるならば、「身体というマテリアルな存在と密接に関連しながら構築される文化」という性格は見逃せない。むろん生活文化の全てが身体によって規定されるわけではないが、「身体と文化」の関係性は、「障害者文化」の重要な要素であり続けると倉本は言う。
そこで倉本は、自身がそこに生きる現代日本の盲文化*47、中でもメディアの諸相に注目し、盲人*48の身体と文化の関連性のスケッチを試みた(同:31-40)。そこでは盲人が用いるメディアの驚くほどの多様性*49や、「晴眼社会」との関係*50が活写されている。
「障害者文化」を考える二つの軸
次に、講演録を元にした[倉本2000b]では、「障害者文化」の諸相を、「身体との関わり」と「支配文化からの影響」*51という二つの軸をクロスさせることで4象限に振り分け、やはり盲文化を題材に考察している。ここでの論点を三点に絞って述べる。
まず、「支配文化が従うよう要求する規範・ルールの中には、障害者の身体とはきわめて相性の悪いものがあ」り、それに従わないことが「逸脱」として制裁の対象となることが指摘される。少なくとも、制裁を予期してしまうがために、障害者が「自由な振る舞いを奪われてしま」いうる、ということである(倉本2000b:110-111)。
次に、支配文化のまなざしと身体という相矛盾する条件の下で、それでも障害者は自らの身体に合った方法を編み出している、ということが指摘される(同:112)。例に挙げられたのが「盲人女性の化粧」である。仮に盲人だけの社会があれば、化粧という「文化」そのものが存在しまいが、彼女らは晴眼社会を生きている。職場の同僚、あるいは好意をもった人の視線を意識して、化粧技術を磨く女性がいる。それも鏡を見て出来ばえを確認することはできないから、晴眼女性とは違う工夫を編み出しているはずである。その化粧は動機の点では「支配文化からの影響」下にあるが、やり方は「身体との関わり」が濃厚である。以上のことをまとめて、倉本は言う。
障害者の生み出した文化の中には、リスク(筆者注:主流社会の規範に違反した場
合の制裁、晴眼者に嫌われる恐れ等)を回避しつつ、なおかつ自身の身体特性という
マテリアルな条件をクリアするための『苦肉の策』*52といった性格をもつものが多
く含まれています。それは『苦肉の策』に過ぎないかもしれないけど、れっきとした
文化でもあるのです*53。(同:112)
倉本は障害者の「文化」を対象化する際に「複眼的な視点によるアプローチ」が必須だと言う。当然のことのようではあるが、これが三点目のポイントである。主流文化が隅々まで浸透したこの社会で日々暮らしている以上、同じ人でもある時はそれに抵抗し、ある時は妥協し、といった使い分けをするのは当たり前であり、それは実は誰もが行っているようなことだ。それら全てを含んで、障害者が日々生きる「ありよう」が、「障害者文化」なのである。*54
まとめ:倉本の「文化」観
ここで展開されたものに限れば、倉本の「文化」観は、先のましこ(1998)と近い。「生活文化」における@とAの表裏一体の関係や、多数派(健常者、晴眼者)社会の価値観を相対化する必要性を示した点でも共通している。ただ非障害者であるましこが自戒を込めて「多数派から障害者への押し付け、抑圧」を抽出することに重点をおいているのに対し、自身が盲人である倉本は、その必要性を肯定しつつも、同時に、障害当事者の「身体の経験」(それがたとえ「苦肉の策」であっても)を記述する意味や、一括りに見られがちな個別の「障害者」内部の生活文化の多様性・多義性に、さらに注意を喚起している。そのことによって、「生活文化」研究の意義がより厚みをもって示されているといえよう。
3−5.「差異派」文化運動の意義:倉本智明の問題提起2
ここでは引き続き倉本の論考を検討するが、少々頭の切り替えを要する。前節では「障害者の(生活)文化」に焦点を当てていたが、この節では実在した/する「障害者文化運動」、中でも「差異派」*55と呼ばれる動きを取り上げ、その意義を考察している。
3−5−1 障害(者)文化運動とは
本題に入る前に、「障害(者)文化」と「障害(者)文化運動」の区別をしておこう。倉本は両者の区別を次のように語る*56。「障害者文化」が「現にそこにあるものとして観察される『文化』それ自体」であるのに対し*57、障害者文化運動は「コミュニティの内外にむけられた集合行為としての『運動』」であり、「個々の障害者集団がこれまで『逸脱』とみなされてきたものを『文化』として相対化する、あるいはそのインパクトで支配文化の秩序の組み替えを図ろうとする」ものであるという。さらに言えば「当該集団に属する者にとって、自身が日々繰り返し行っている行為に貼られた逸脱ラベルをひきはがし、積極的な意味を与えなおす作業」が障害者文化運動だというのである*58。このラディカルな「文化運動」の中でも特に倉本が「差異派」と呼ぶものの起源と、現代の実践とを、その意義とともに描きだしたのが、次に紹介する論考である。
3−5−2 「平等派」と「差異派」*59
「異形のパラドックス」と題したこの論考(倉本1999a)で倉本は、その名の通り、身体障害者が「異形」、つまり「普通と異なる、異様な」と意味付けられた身体を持っていること*60や、障害者と健常者との間に「深い溝」が存在するという事実に正面から向き合った三つの実践を、「差異派」と名づけている。倉本はこの論考の冒頭で、「差異派」が何に対するオルタナティブなのかを明確にするために、現在の障害者運動の中で主流の位置を占める「平等派」障害者運動に、批判の目を向ける(倉本1999a:219-220)。
「平等派」とは、「人間として、市民としての平等」を達成すべく社会的障壁を除去していこうとし、それ(障壁)がなくなれば差別のない社会が現出すると考える志向である。いわば「社会モデル」が有効性をもつような運動であり、倉本もその意義を否定するわけではない*61。しかし、あえてそうした理念(例えば「平等」や「共生」)には還元しえない問題にこだわりつづける,一群の「差異派」の人びとの動きに、倉本は注目を喚起する。
「差異派」がこだわるものとは例えば、健常者と異なる「身体」のかたちや振る舞いや、その身体ゆえの経験である。いわば「障害の有無にかかわらず(同じ人間だ、共生できる)」という言葉を常套句とする「平等派」の運動が、あえて無視してきたことだ。なぜなら「違い」を強調することは、健常者社会の「理解」を得るには得策でないと一般には考えられているからである。だから「差異派」の主張は一見、荒唐無稽に映る。しかしこの主張は、実は深い現実凝視から出てきている。「同じ人間」「平等」という誰も否定できない言葉の裏に何が隠されているのか。そのような、多数派(障害者、健常者を問わず)が「見たくないこと」「見ないですませてきたこと」を白日の下に晒すのが、「差異派」の実践なのである。
3−5−3 「差異派」としての青い芝、ドッグレッグス、態変
倉本は日本における「差異派」の実践として、活動内容も時代も異なる三つの例を挙げた(同:221-244)。最初は、長瀬や杉野も言及した70年代の「青い芝」である(1章*19参照)。そして90年代の障害者プロレス団体「ドッグレッグス」、および80年代から現在に至って活動する劇団「態変」(この両者とも、「障害者運動」を掲げてはいない)を、「青い芝」の残した課題を継承して「独自に支配文化への介入」を試みる実践として取り上げている。
倉本は「青い芝」の革新性の一つに、日常の要求をこえて「『文化革命』という主題を運動にもち込んだ」ことを挙げる。「『鏡に映る自身の姿への嫌悪』という、それまでなら個人的な文脈でしか語られてこなかった問題」を運動の課題として位置付けた同会は、「障害者である己を肯定し、誇りを取り戻し」、「自己定義の変容をめざす運動としての性格」(倉本1999a:224)をも持っていたのである。同会が行ったバスへの強行乗車や福祉施設の占拠など、世間から「過激」と見られた直接行動にしても、「人様の迷惑にならぬよう、おとなしく従順に」*62生きることを強いられてきた当人らにとっては、「世間」にたてつき「健常者と対等にわたりあう」こと自体が、一つの「文化革命」だったのかもしれないと倉本は言う(同:245)。
続く「ドッグレッグス」は、身体障害者をプロレスというおよそ「不適切」*63な舞台に登場させ、闘い傷つく障害者身体を観客の眼前に晒し、「毒」を振りまくことで、障害者像を「異化」*64することに挑んだ実践である。これについては次(3-5-4)で考察する。
三つ目が、金満里が主宰する劇団「態変」である。「態変」は障害者の身体を前面に押し出した肉体表現に挑戦し続け、国内外で評価を得ている*65。結成当初の「態変」の公演は健常者社会に毒づき、「愛と正義」*66の欺瞞性を告発する性格を持つものであった。しかしその後「態変」が切り開いた地平では、障害者身体に割り振られた否定的な意味が反転され、障害者身体そのものの持つ表現力・芸術性が追求された。つまり「態変」の芸術は、健常者によって否定的に「差異化されていた身体」から、障害者自らが主体的・積極的に「差異化する身体」への転換を通して、オルタナティブな価値の地平へと昇華していったのである(同:246-247)。
一見まるで異なる三つの実践に共通するのは、「障害者と健常者の間に穿たれた溝の底深さと、一方的な分割=名付けを押し付ける支配文化を脱構築する必要性の認識」であると倉本は言う(同:220)。つまり、「障害者と健常者は同じ」と主張するのでなく、両者の間には途方もなく深い溝があることを認識した上で、障害者の異質性即ち「差異」を顕わにし、障害者のあるべき姿を一方的に押し付けてくる主流文化(健常者文化)を脱構築する実践なのである。
3−5−4 「差異派」の現状認識と戦略:ドッグレッグスを例に
「差異派」は現行の社会や主流文化をどのように認識し、いかなる介入=文化運動を試みているのだろうか。ここでは特に「ドッグレッグス」を例にして、倉本の考察に注目したい。
不可視化される障害者、という問題意識
倉本は障害者をめぐる現在の社会情勢を、「『ノーマライゼーション』や『共生』といった耳障りのいい言葉が社会にあふれる中、現実の障害者の存在はむしろ不可視化されている」(同:231)と見る。杉野の用語(3-3-1)でいえば「名のりの抑圧」である。「障害者」関連のテレビ番組や「啓発」や福祉イベントの数はこの十年でも飛躍的に伸びた。だが倉本に言わせれば、「メディアや学校教育をとおし、一方的で画一的な障害者イメージが流布される一方、健常者の大半は、彼ら彼女らの生の現実にふれる機会とその意味を読み解くすべをもたずにいる(同:231)」。そして障害者と直に、深く接している者から見ると、メディアや教育の中の「障害者」像は、白々しさと苛立ちを感じさせるものだ*67。「ドッグレッグス」発起人となった北島も、そのように感じている健常者の一人だった。
「予定調和的な拍手」の意味
元は一般的なボランティア団体にいた北島は、「障害者への理解」や「交流」を謳う現行の諸イベントに強い疑問を持つようになる。なぜならそこに足を運ぶのは、障害者の家族や福祉施設職員、ボランティアといった「関係者」ばかりであり、そこでは演技がまずかろうと面白くなかろうと「予定調和的拍手が送られる」(北島1997:20)からだ。本来、障害者の厳しい現状や思いを伝えるべき一般客の姿を見かけることはない。またそこで描かれているのは「清く正しい、ステレオタイプ」の障害者像に限られ、北島が日常のつきあいを通して知る,多様で生々しい障害者の姿は皆無であった。
なお倉本は、北島が苛立ちを募らせたこのようなイベントについて、「障害者の現実を伝えるどころか、逆に、障害者の<生>とそのイメージを健常者にとって都合のいいものへと変形し再生産するための装置」(倉本1999a:231)だと断じている。
「異化」としての障害者プロレス
北島が既存の「福祉」「ボランティア」業界にはないイベントを構想する一方、彼と親しい障害者たちも新たな自己表現の場を求めていた。そこで両者の*68思いが結実して旗揚げされたのが、障害者レスラーの集団、「ドッグレッグス」である。北島は、見慣れた「障害者イコール福祉、ボランティア」という図式や、その「善」なるイメージを払いのけ、観客に「後味の悪さ」や「心にまとわりついて離れない何か」(北島1997:71)を持って帰ってもらうべく、興行に乗り出していく。その後の経緯は省略するが、ドッグレッグスが目指したのは、「健常者にって都合のいい障害者像」の再生産ではなく、それを生み出す主流文化への介入であった。倉本はこの障害者プロレスという取り組みを「障害者という存在について深く考えることなしでも充分に成り立ってしまう大多数の健常者の日常に楔を打ち込み、異化する装置」であったと見る(倉本1999a:232)。
3−5−5 小括:「文化運動」としての「差異派」の意義
「平等派」の主張がなお必要であるにもかかわらず、倉本が批判した理由は何か。それは端的に言えば、「同じ人間」「共生」といった通りの良い言葉が、生身の障害者の姿をますます不可視化し、健常者が何も考えずにすむ構造=主流文化を維持・再生産してしまうからであろう。倉本はドッグレッグスの挑戦を、「誰もが『人権』を口にし、『ノーマライゼーション』を語る時代であればこその逆説的な戦略」と言い、現代にこそ、「差異の顕在化と加害性の自覚を人々に迫る戦略」が求められると言う(同:246)。「加害性の自覚」とは、ソフトな言い回しに慣れた耳にはきつく響く言葉であるが、健常者が「障害学」的なものの見方を持とうとするなら、避けて通れないことであろう。「差異派」が呈示するものに目を凝らし耳を傾けることは、「主流文化」にどっぷり浸かっていた健常者にとっては、認識の上で(倉本の用語を借りれば)「文化革命」を引き起こすようなものである*69。「差異派」に接した者は、「見慣れた風景」を、昨日と同じようにただ眺めているわけにはいかなくなるからだ。つまり「差異派」の実践は、「主流文化」を自明視して疑わなかった人にその自覚と相対化を迫り、またオルタナティブな価値をも示すという点で、まさに「文化運動」なのである。
3−6.「生の全体性」:石川准の提起
社会学者であり自ら全盲である石川准は、以前からスティグマ/障害とアイデンティティに関する完成度の高い論考を発表し(石川1992)、「障害学」に関心を持つ人々に影響を与えてきた。この節では、現在日本における「障害学」の理論的支柱の一人である石川の論文(石川1999a, 2000a, 2000b)の中から、「克服(方法)と肯定(意味)」「生の全体性」をキーワードとして、石川が定義する「障害の文化」と、その意義をまとめてみたい。
3−6−1 「克服」と「肯定」をめぐって
石川の「障害の文化」論を展開する前提として、「障害の克服と肯定」をめぐる議論に対する石川の到達点について触れておきたい。
「克服」か「肯定」かという命題
「医療モデル」を持ち出すまでもなく、一般に「障害」は克服すべきものとされ、障害者が克服努力に励む姿は健常者好みの「物語」として世間に流通してきた。これに対し「青い芝」等の障害者運動が異を唱え、障害を「肯定」する志向を打ち出してきたことは繰り返すまでもない。それでは、「障害学」的な立場からすると、障害を「肯定」することこそ正しく、リハビリテーションやテクノロジーの駆使による「障害の克服」に励む障害者は正しくないのか。そんな単純なものではないはずだとは言えても、そこから先が案外難しい。これについて解き明かしたのが石川(1992、1999a)であった。
障害者はなぜ克服にのめりこむのか
人は普通、何か不便なことがあったら、それを補う工夫をする。同様に、「障害」のために生じる不便を工夫して補うことも、それ自体は当たり前のことだ。しかし現実の障害者はしばしば、度を越した(報われない)克服努力を「自発的に」やってしまう。
その背景を石川は次のように説明する。「障害」を負うということは通常、理不尽な経験だ。そのことへの「割り切り方」の一つとして、「障害は機械の故障のようなもの」に過ぎず、それを負った人の本質とは関係ないという考え方がある*70。しかしこのような「障害=故障」観は、ともすれば、「『障害』以外のところで自分の有能さを証明しよう」という気持ちを障害者に起こさせてしまうのだと言う。自分の価値を証明したい、という気持ちは誰しもが抱き、無意識に日々実行している*71ものであるが、スティグマを貼られた人は尚更それを意識させられてしまう。かくして、他者に対して「自分は(障害とは関係なく)これこれができる」ということを証明しようとして躍起になるというわけだ。
だからこそ、「本来なら、障害を補償するために投入される努力は、不便が緩和される度合いとのかねあいで、おのずと現実的な均衡点に落ち着くはず」なのに、そうならず、「障害が『故障』に過ぎないことを証明したいという衝動が付け加わると、投入されるコストは本来のそれよりも圧倒的に増加」してしまう(石川1992:128、1999a:72-73)。かくして、常識的な判断である「コスト&ベネフィット」の原理が崩れてしまうのである*72。
この石川の説明は非常に明快である。障害者自身が自分は何に囚われているかが見えており、囚われる必要はあるのかどうかを判断できればよいのだが、なかなかそうはいかない。障害者をひたすらに克服努力に向かわせてしまう構造、これこそが問題なのである。
「肯定」への契機
しかし身につけてきた否定的な「障害」観や「役割期待」から自由になるのは、個人では難しい。その「自分を縛っているもの」を解除し、肯定的な自己意識を育てる役割を担うのが、例えば自立生活運動におけるピアカウンセリングである(1章の*24参照)。障害を恥じたり、補うべき『故障』と考えるのをやめ、障害を含めた自分自身を肯定しよう。障害はむしろ『親しい個性』なのだ、とそこでは語られる。つまり、「価値の取り戻し」(*71を再度参照)がそこで起きるのだ。そうした新しい価値観が、同じ障害をもつ者どうしの相互承認によって強化され、安定していく。そのような場所・機会の大切さは、いくら強調してもしきれないほどである。
しかしそれでも、「障害を肯定する」ことはいつでも可能なのかという疑問は当然湧いてくる(石川1992:130-131)。そもそも自分の全てを肯定することなど、誰でもそうできるものではない。ある時は肯定的に思えても、別の時には「この障害さえなければ」と否定的に思ってしまう、といったことは当然起こるだろう。そこで再び悩んでしまうかもしれない。
克服と肯定は同時遂行
石川はあっさりとこう述べる。「克服できなければ肯定するしかないし、肯定できなければ克服するしかない。」「克服によって自己実現・自由が得られることがあるし、肯定によってそれが得られることもある。だから克服と肯定を同時に遂行することがむしろ普通のことだ」(石川1999a:64-65)。つまり、克服が挫折した人は「肯定」のメッセージに共感していくかもしれないし、「肯定」することが苦しくなった人は再び克服へと向かうかもしれない。もし「『障害はかけがえのない個性だから、補ったり克服したりするいわれは一切ない』という規範を杓子定規に考えすぎると、障害を肯定しきれないときには(そうしたことは十分ありうることだ)そんな自分を再度否定しなければならなくなる」(石川1992:130-131)。そのような隘路を回避するためには、むしろ、「障害への否定的な意味付けには根拠がなく、自分がそれを受け入れる必要は全くない」と、わかっていればよいのだという。つまり、障害者は過剰に「否定」されてきたからこそ、「肯定」の契機が大切なのであって、それは常時「肯定しなければならない」ことを意味しない。
「障害に関わる言説は克服と肯定をあれかこれか二者択一的な生き方として概念化し、選択を強いるが、それはむしろ『アイデンティティへの罠』である」(石川1999a:65)と石川が言うのは、理念的な言説が生身の障害者に暴力的に働きうるからである。「肯定」の意義に傾倒するあまりに、障害者が訓練に励んだりテクノロジーを駆使したりすること自体を批判するような,硬直した「運動の論理」やそれに類した言説をも、石川は批判しているのであろう。
3−6−2 石川の文化観:「生の全体性」
それでは、石川は「障害の文化」をどのように考えているのか。
前節まで述べてきた他の論者の「障害文化」論においては、意味論に重きが置かれていたと言える。長瀬が「障害を肯定する文化」を、杉野が「固有文化」を論じてきたことを石川は承知している。そして(3-4で述べた)個々の障害別の「生活文化」分析の意義も了解している。ちなみに自身が生きる盲文化は、(ろう文化に比して)「障害を価値付けない」、「不便だけど何とかする」志向を特徴とすると言い、「対抗文化的な輝きには乏しいが、方法に富む文化ではある」と述べている(石川1999a:64)。また、倉本が展開した「差異派」文化運動の意義を認めてもいる(石川1999c:314-315)。こうして、これまでの議論を踏まえた上で、石川はそれらと距離をとり、『意味』(「障害」の意味づけやアイデンティティ等)と、『方法』(情報、生活技術、各種テクノロジー等)とを、あえて同じ平面においてみせた*73。ここに石川の独自性がある。石川自身の「障害の文化」は、次のように定義される。
人はよりよく生きるために、方法を考えるとともに、意味を与える。障害者もその
ようにして暮らしている。その全体性が、あえて言うなら『障害の文化』である。だ
から、克服のための方法や技術を編み出していくことも、れっきとした『障害の文化』
である。少なくとも私はそう考える。文化とはそもそも、環境への動的な適応なのだ
から(同:315)。
まとめ:石川の「文化」観
要するに石川の「障害の文化」は、リハビリテーション等の克服努力も、情報技術のような「産出物」も、一方で「障害を肯定する価値観」も、それに沿った暮らし方も、その成果である制度(産出物)も全て包み込み、それらは皆「生の全体性」の前に等価だという主張なのである。これは3-1-1での「文化」の定義で言えば@からBの全てを含むという点で多義的なだけではなく、@とBを制御するAの内容に、従来は両極に位置すると考えられていた「克服」と「肯定」を併置した点が非常に特徴的である。石川は言う。「この二つの方向の幅の中で、障害者は考え、選択し、生きていると私は考えています」(石川2000b:32)。
3−6−3 小括:「『生の全体性』としての『障害の文化』」の意義
石川の主張がどのような言説を念頭においてなされているかを考えてみると、この独自の「障害の文化」観には、大別して三つの意義が認められるように思う。二つは主として障害者に向けられたものであり、後の一つは健常者に向けられたものである。
一つめは、「克服」のメカニズムを明らかにした上で、「方法を編み出す」ことを「同化主義」とは区別して再評価したことである。主流文化が障害者に「克服に励む」役割期待を押しつけるために、コスト&ベネフィットの原理が作用しないほどに障害者が克服努力に駆り立てられていく構造がある。しかし障害者個人が生きていく中で行う懸命の「努力」や「工夫」は「れっきとした文化」であり、なんら否定すべきことではない*74。問われるべきは、障害者に対して「こうあるべき」像を押しつけてくる健常者の側なのだ。
次に、「肯定」という思想をも脱神秘化したことである。先述したように、「障害の肯定」が「しなければならない」ものとして障害者にドグマ的に作用する「罠」を避けようとしたのである。「障害を肯定する」考え方は、一般社会の中でいつのまにか身に付けられるものではないから、知っておいたほうがよいし、実感としてそれを得ることも重要だ。しかし常時それに縛られる必要もない。「克服」の苦しさから逃れて「意味」を育むのも「文化」なら、「肯定」しきれずに具体的「方法」を編み出すのも「文化」であり(また、ある程度「肯定」できているからこそ、自らの身体に合った「方法」を工夫し、実践することもあるだろう)、そのどれもが同じ人の人生の、生活の折々で、戦略として使い分けうるものなのである。そうした障害者の「生」の全体性の中に「障害の文化」がある。
最後にこの主張は、健常者に対して、「障害者の生の断片(「生の全体性」の反対)を切り取って」(石川1999a:74)表象することや、障害者に「障害の克服」「純粋さ」等々を勝手に求める「本来性の押しつけ」*75への鋭い警告ともなっているのである。
まとめよう。石川の「障害の文化」論は、障害者がその「身