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障害とは何か?障害者とは誰か?

―架空対談から、書き込み・協同作業による構成―

第一原稿(基底稿)(1) 2001
三村洋明

last update: 20160125


ヒロ:以前から僕とアキさんの間で、障害者問題で、障害とは何かということで、問題を掘り下げ、しかも分かりやすい書を作りたいと話し合っていました。それには対談という形が良いのでは、しかも、障害者に対する差別的な意識と対話する形でやれたらよいということも話していたのです。でも、二人でやるとなるとロールプレーで、どちらかがどっぷり差別的意識をもったものの役割を担うという形になったのでしょうが、これまで、アキさんとは色々話し合ってきたし、馴れ合い的、フィクション的になってしまうということで、困難さを感じていました。ちょうどそんな時に、ジュンさんと会い、一緒に酒を飲んで話をしている時に、かなり酔ったジュンさんから、「障害者問題で、自分の障害者に対して持っている意識を、素直にぶつけると「差別だ!」ということで批判され、それで対話できない情況がある。」という話が出ました。まさに渡りに船で、今回の対談の話を持ち出したわけです。が、その時は話に乗ってくれたのですが、後になって、しらふになって(笑い)やはり気が進まないという電話が来たのですが、この対談の意味ということを繰り返し述べて、何とか説き伏せて(笑い)今回の対談になりました。今回は、アキさんが長時間の話はしんかどいということで、わたしも長くはなしていると言葉が出てこなくなるので、ゆっくり時間を取って、3日間泊り込みでやろうということになっています。まあ、お互いに腹を割って、腹を割ると言うのはほとんど初対面では難しいのですが、そこはジュンさんの率直な性格で、よく知りもしないのですが(笑い)、率直な性格だと思って、思っていること感じていることを出してもらいたいと思って、思ってというより、念じてという言葉の方があっているかな? で、話し合って行きたいと思います。
 で、何から始めましょうか?
アキ:Dプロの話からやったら?
ジュン:Dプロって何?
ヒロ:僕の方から説明する?(アキさん頷く)
Dプロというのは、ろう者の団体で、ろう者というのは、手話を第一言語にする者という意味で、Dプロのひとたちは使っています。その手話を音声言語と対等な言語として認めろ、というようなことを、 95年に「ろう文化宣言」という形で出して、その中で、「今広まっている手話は、手話ではない」とか、そのあたりのことは若干後でニュアンスが変わってきているんですが(*)、「わたしたちの問題は障害者の問題というよりも、寧ろ民族問題である」というような発言をしているのです。それに対して、手話ではないという手話を使っているひとたち(その中では、中途失聴者や難聴者が大きな位置を占めるのですが)から批判が出て、又「障害者ではない」と言う発言には、他の障害者からも批判が出ています。
アキ:障害者ではないというとらえ方には共鳴できるんだけど、「自分たちが障害者ではないと言った時の障害者って、どこにいるの?」ってこと。
ジュン:えっ? どういう意味? 障害者という言葉が嫌いという意味?
ヒロ:そうではなくて、聴障者の場合、といっても手話ができるろう者という場合だけど、ろう者の場合、使う言葉が違う、少数言語使用者というだけで、自分たちの問題は障害者の問題というよりは、マイノリティの民族問題と言った方がよいと言う意味!
ジュン:聴障者というのは、聞こえないから、聞こえが悪いから聴障者と言われるんでしょう? なぜ「障害者でない」と、言うの?
アキ:手話でコミュニケーションがとれたら、何も障害はないと主張しているの!!
ジュン:どうして? 声で会話が出来ないから、手話で話しているんでしょう? 手話というのは補完手段なんでしょう?
アキ:手話というのは、音声言語の補完手段ではなく、ひとつの完成された言語体系なの!
ジュン:手話は、音声言語に合わせて作られたものではないの? 
アキ:手話といっても、国によって、地域によっていろんな違いがあって、歴史的事実としては、その出発点においていろんな経過があると思うけれど、一度言語として確立した場合は、言語としての独自性をもつから、音声言語に合わせて作られたものと言う言い方は当たらないわ!
ヒロ:先ほど話したDプロの主張している、難聴者や中途失聴者の多く使う、又殆どの手話講習会などで教える手話は「手指日本語」というべきもので、それは音声言語に合わせているけれど、日本手話は独自の言語になっていて、日本語にない手話というのもあるんです。手話の語彙が少ないという人もいるけれど、僕はそうは思わない。ろう者と聴者の文化の違いということがあって、ろう者の文化はストレートな表現が多いから、そういう意味でアメリカ的な文化と類比出来るんじゃないかと思っていて、ジュンプル イズ ビューティフルの世界だとは思うけど、語彙が少ないとか言うのは誤解だと思います。また、またろう学校で手話が禁止されていて、そういう中で学んだろう者の場合語彙が少ないまま育ったと言う面、ろう教育の弊害から来る語彙の少なさも在るとは思うし、また手話の歴史が浅いとかがあって、これから作られていく語彙と言うことも在るんだろうけど、言語学的に手話が音声言語に比べて語彙が少ないということは誤解だし、完成された言語に優劣はないと言うのが、言語学者の定説らしいです。
ジュン:ろう学校では手話は禁止されていたの?
ヒロ:そう。最近やっと、手話が取り入れられるようになってきているけど、まだ口話教育、唇の動きで言葉を読み取る読話と声を出す訓練がまだろう教育の主流を占めている状態です。
ジュン:手話が独自の言語体系だとしても、音声言語の方が原基的で効率的で優先的でしょう? もし、そうでなかったら、聞こえるひとたちの間でも、手話が広まって行くでしょう?
ヒロ:原基的ということで言えば、信号以外では、音声よりも身振りの方が原基的だし、身振り言語から発した手話の方が原基的じゃないかな!? それに、アメリカ先住民の部族間の会話が手話で行われていたという話もあるし(*)、音声言語の場合違う言語体系の国に行くと全く話が通じなくなるけれど、手話の場合は、違う手話の人たちとも、ちょっと話していると話が通じるようになると言う話があるんです。音声言語の国際語として試みられたエスペラントは破産してしまったけれど、国際手話はそれなりに定着していっているし、これから手話が見直されて、今、英語が占めている国際語の位置を手話が取って代わるんじゃないかなんて思っているんですけど。
ジュン:手話のことは良く分からないので、保留したとしても、でも声で話せないと、色々不便なことがあるので、障害者と言う規定があるんじゃないかな?
ヒロ:手話については、『現代思想』という雑誌で「ろう文化」というタイトルの特集号を出しているので、一度是非読んでください。で、いろんな不便なことって何かな?
ジュン:例えば、何か危ないことがあると、声で知らせるでしょう? 聞こえないと知らせられないから、危ない仕事にはつけない。
アキ:危ない仕事があること自体がおかしいでしょう? 工事現場なんかで、安全第一なんて看板が在るけど、本当に安全第一でやっていたら、事故なんてもっとずっとすくなくなるんじゃないの? 逆にいうと、障害者を安全管理者として雇って、危ない場面を無くすようにするという、発想の転換が必要だと思うの! 例えば、最近地下鉄の駅のホームにドアがつけられるようになったけど、あれは視覚障害者の転落事故なんかで端的に現れていたことの事故回避のためにつくられていたんだけど、障害者の住みやすい街はみんなの住みやすい街ということの端的な例なの、もっとはやくからやるべきことだったし、そういうことがもっともっと進んで、根本的に街を作り変えていけば、仕事の仕方なんかも変えていけば、みんなにとってよくなることじゃないかな?

ヒロ::結論的な話まで行ってしまったのだけど、ジュンさんは納得できたのかな?
ジュン:聴障者の場合は、軽い障害と言うことで、手話ということで障害者でないと言う言い方が出てくるのだと思うけど、他の障害者の場合はそんなことが言えるのかな?
アキ:障害が軽い−重いという言い方がされるけれど、何をもって軽い−重いと言うのかな? 以前障害者の集会で、「障害が軽い−重いという言い方がされるけど、差別に軽い−重いということはない」言う提起があったの。聴障者の場合、コミュニケーション障害そのものの深刻さがあるし、言葉の獲得の問題も起こる場合があるし、決して「軽い」なんていえることではないと思うわ。多分差別の形の違いの問題だと思うのだけど、・・・。
ジュン:「差別の形の違い」って何?
ヒロ:ちょっと待って! 話が逸れるから、先に「他の障害者の場合はそんなことが言えるのかな?」という発言についてのコメントから。
アキ:そもそも、他の障害者だって、「自分たちは障害者ではない」という言い方はしているのね。例えば、ある電動車椅子を使っている障害者が、「駅や建物にエレベーターがついて、自由に車椅子で移動できれば、わたしたちは障害者ではなくなる」と言う話をしていたの。
ジュン:そういう障壁がなくなれば、障害を感じなくなくなるということはあるかもしれないけれど、でも、それでも障害というのは残るんじゃないかな?
アキ:何が残るの?
ジュン:例えば、そもそも自然の状態で、車椅子が動けないようなでこぼこ道とか、砂地のところとかあるし、それに車椅子の障害者でも下肢障害だけだったら、そんなことが言えるかも知れないけど、重度の障害者の場合、例えば食事や排泄に介助が必要な障害者の場合は、そんなことは言えないでしょう?
アキ:言えるわよ。「介助者が居なければ、食事や排泄が出来ないのではなく、介助者がいればできる。」というように。前の「自然状態」云々という話は、ひとは単に自然状態で生きているのではない、というところで人になったのでしょう? そこで、「自然状態」云々ということを持ち出すのはおかしいわ。
ジュン:人がひとりで身の回りのことをできるかどうかで、障害者かどうかという規定があるんじゃないの?
アキ:そう! 身辺自立と言うような考えがあって、障害者規定があるの。でも、例えば、料理を全く作れない男がいても、障害者って言われないでしょう? そもそも身辺自立って何? どのようなできる−できないが問題になるの? そして、そもそもなぜ身辺自立しなければならないの?
ジュン:それは、身辺自立しないひとばかりだと、ヒトの社会がなりたたない、死んでいくのは、自立できないヒトからで、それは自然の掟なんじゃないの? 昔、貧乏な家で子どもが生まれても間引きすると言う話があって、障害児が生まれると特に間引きの対象になったという話がある。
アキ:確かにそういう話はあったらしい。でも、それは貧困の問題で、社会問題でしょう?自然の掟って話ではないでしょう? 
ジュン:もし、重度の障害者ばかりだったら、介助するヒトが足りなくなるし、食料も生活に必要なものも足りなくなる。社会が成り立たなくなる。ヒトが動物として生きれなくなる。
ヒロ:そういう仮定自体がおかしいけれど、SF的な話になるけれど、今、機械化が進んでいる中で、将来重度の障害者ばかりになっても生きれる可能性は在ると思う。今だって、殆どヒトが居ないで、ロボットが製品を作っている工場なんかもあるくらいだし・・・。
アキ:わたしは科学の発展に過大な期待はもっていないわ。どんな社会を作るのかが先決で、科学は逆に抑圧的機能を果たしてきた歴史があるから。話が逸れるから、またその話は後に回すわね。
生産性が低い社会ではヒトの動物性が出て、自然界の掟で、弱い障害者は生き残れないと言うような話、よく出てくる話だけど、そもそも自然界の掟ということ自体の問題があるし、生産性の低い社会では障害者が差別されるというのなら、生産性の低くない社会では、障害者差別はなくなるというはなしになるでしょう?
ジュン:「自然界の掟ということ自体の問題がある」って何? 僕が聞いた話で、例えば犬や猫が、障害を持った子どもを生んだら食い殺すということがある。
アキ:初耳だけど、そもそも、子どもを産んでいるところを見られると、子どもを食い殺すという話もきいたことがあるわ。それはそんなに普遍的なことなのかな? 自然界のことというより、ヒトと動物との接触という「半自然」の情況でおきることじゃないかな?
ジュン:鶏が強い順に順番により弱いものを突っついていくという話やニホンザルのボス制の問題なんかも、自然界における差別の必然性の問題としてあるし、そのようなことは動物の世界の根底にあるし、ヒトも動物である限り、そこから抜け出せないんじゃないかな?
ヒロ:鶏の突っつきの話、ヒトに囲われた飼育動物の話で、自然界の話として持ち出すのは疑問があるし、ニホンザルの話は、これも、餌付けされたニホンザルにはボス制があるけれど、餌付けされていないものには、ボス制はないという論文も出ています。いずれも囲うということの中でおきることで、差別の問題を色々勉強していくと、囲うということと差別の始まりがつながっていることが在って、・・・。このあたりの話をするとまた脱線していくから、話を戻します。ジュンさんの言っていることは、ダーウィンの進化論の自然淘汰説あたりで広く広まっている考えだと思うんだけど、ダーウィンの進化論自体に、色々批判が出ていて、例えば、今西錦司というひとが、ウスバカゲロウの幼虫の研究から棲み分け理論というのを出していて、優れた一つの種が他の種を滅ぼし生きる場を占有していくというようにならないで、寧ろ棲み分けという形で、共存しうる関係があるというような研究を出しています。自然界というのは、必ずしも競争原理的にはなっていなくて、共生的関係があるという話です。
アキ:そもそも、進化論では、ヒトが最も高等な動物ということになっているけれど、さっき話に出ていた身辺自立という面では、一番自立できていない存在なわけ。他の動物から見ても、ヒトの子ども、こんなに手のかかる子どもはいないわけ。逆に言うと、ヒトが社会を作ったのは、ヒトの子どもが自立できない状態で生まれてくるから、あえて言えば、障害者的存在として生まれてくるから、ひとが自然に働きかけて一定自然から離れた形の社会を作って言ったという面があると思うの。それが、幸せだったかどうかは、別にしてね。兎に角、ヒトは、互いに寄りかかる関係としてある。人という漢字の語源が、寄りかかる漢字であったように、助け合う関係としてあるわけで、それなのに、自立できない云々と言って障害者を否定的にとらえるなんて、おかしいのよ。そもそも、自立しているひとなんてどこにいるの? ひとは歴史的社会的蓄積を利用して生きているわけで、それから自立できるわけがないわけでしょう!? 

ジュン:でも、ひとには欲望というものがあって、よりよい生活を求めようとする。そういう意味で、生産性を追求するわけでしょう? そこで、生産性が低い障害者が差別されるのではないかな?
アキ:二つの問題があって、生産性の中身の問題。もう一つは、人は生産性を求めるものだと言う思い込みの問題。後の方から話をすると、ある程度の生産性がないと生きられないとという意味では生産性は必要だけど、ひとは飽くなき生産性を追い求めるものだと言うのは、今の社会から規定されていることで、それが超歴史的なこととしてとらえるのは明らかな間違いだと思うの! 
ヒロ:資本主義の社会というのは、資本が悪無限的に利潤を追及し、それを止めたら、資本自体が崩壊していくと言う社会だから、生産性を悪無限的に追及するのだけど、それが超歴史的なことかというと違うわけで、例えば、自然の中で生きてきた部族、昔から殆ど変化しないで生活してきた部族などは、生産性を上げるということよりも、寧ろ、現状維持ということに力を注ぐということがあったわけです。それだけでなく、封建時代といわれる社会でも、そういうことがあったわけで、またアジア的生産様式といわれることの内容もそのようなこととしてあったわけで、人は生産性を飽くことなく追い求めるものだと言うのは、資本主義的な社会におけるとらわれだと思います。
アキ:だから、前に言ったように、生産性が問題になる極限状態ときには、障害者は差別される、だから障害者はいつでも差別されると言う論理は、おかしいのよ。そういう極限状態を作らなかったら、障害者は差別されないとも言えるわけでしょう?
ジュン:でも、そういう言い方をすると、ある場合には差別されるのは仕方がないと言う話になるでしょう? そこから、危機予想という形で差別の根拠になるのではないかな?
アキ:仕方がないなんて言っていないわ。生産性が問題にされる極限状態、という仮定自体が、あくまで仮定の話で、しかも、極限状態でも必ずしも弱肉強食のようになるとは思えないし、「生産性が問題になるところでは、・・・」という論理自体の、生産性が必ずどの世界でも問題になるわけではない。ということとして、反論したのよ。
 それに、もうひとつ、そもそも生産性云々と言っても、生産性という言葉自体がいやなのだけれど、あえて使えば、その中身の問題があるわけでしょう? 今の社会は生産性のよい、効率のよい社会だと言われるけれど、公害を撒き散らし自分たちの生きる環境自体を破壊している社会、地球を何百回何千回何万回も滅ぼしえるような核兵器を作っている社会が効率がよいなんていえないし、そんな社会に、障害者が非生産的だと言われたくないわ。そもそも、今社会に何が必要なのかといえば、社会をどうしていくのか、人と人との関係をどう作っていくのか? ということでしょう? そういうことで、障害者は非生産的な存在ではないのよ!
ヒロ:アキ節が出たところで、ジュンさんも、何か、まだすっきりしないようで考えこんでいるようだし、ちょっと休憩しましょうか?

ジュン:休憩の間に考えていたんだけど、アキさんの話だと、障害の否定性などないという話だと思うんだけど、でも障害自体は実際に否定的事実として歴然としてあるでしょう?
アキ:医学的・生理学的・生物学的事実として歴然としてあるという話?
ジュン:そう!
アキ:国連のWHO、世界保健機構の障害者規定というの知っている。それで、障害ということの中身をとらえ返しているの。その中で、impairment機能障害、disability能力障害、handicap社会的不利、という分類をしていて、それを、機能障害があって、それが能力障害になって、それが社会的不利になっていくというような押さえ方が一時広まったのだけど、そういう機能障害をベースにした、医学モデル批判がなされてきて、今、「障害とは社会が障害者といわれる人に作った障壁である」というような規定がやっと出されてきて、その考え方が広まっていくだろうと思うの。(*)
ジュン:確かに、そういう面もあるけれど、さっき言っていた「機能障害」はあるでしょう?
アキ:機能障害の内容とて出される、生物学的・生理学的・医学的事実はあるという話。生物学的事実と言うのは、ずっと在ったと思う?
ジュン:障害というのは、大昔からあったわけで、当然あったでしょう!
アキ:生物学というのは、18世紀末から19世紀にかけて始まったという話があるの。
ジュン:学としては、そうかもしれないけど、生物学的事実と言うことの内容はあったでしょう?
アキ:わたしが言っているのは、あなたが言うように、超歴史的なこととして、生物学的事実があったわけではないということなの。今、「障害」といわれることが時には、浮かび上がらない社会があったし、障害といわれることの中身がみんなの意識としてあっても、意識として浮かび上がっていたとしても、その浮かび上がり方はずいぶん違っていただろうという話。生物学的事実が先にあったわけではなく、先に何か問題あること−否定的なこととして浮かび上がることがあったわけで、そういう中で、後で生物学が始まる中で、それが生物学的事実としてとらえられるようになったわけで、だから、逆にどういう場合に、障害が浮かび上がるのかということが起きるのかというとらえ返しが必要だと思うの。
ジュン:「浮かび上がる」という言い方が分からない。それは現にあって、みんなが障害ととらえるでしょう? 外から見て分からない障害の場合は分からない場合があるけど、浮かび上がる云々という問題じゃない。(*)
アキ:例えば、近視、以前は障害者的にとらえられていたけれど、今、コンタクトが普及して、障害者的にとらえなくなったということもあるわ。おしゃれで、メガネをする人も出てきているくらいだわ。また、『みんなが手話で話した島』という本の中で、ろう者が多く住んでいた島で、その島では、聴者同士が話をする場合も時には手話で話していたので、誰がろう者なのかが浮かび上がらなくなっていたという話があるの?
ジュン:それはろう者の特殊性や、軽度の障害において起きたことで、重度の障害者の場合はそんなことはいえないんじゃないの?
アキ:話が振り出しに戻っちゃったわね。こんな例は出したくないのだけど、ホーバークラフトのような、しかもコンパクトな移動器機ができたら、そしてみんなが使うようになったら、車椅子使用者は障害者として浮かび上がらなくなるでしょう? そんなことよりも、障害者が例えば歩くことができないということでなぜ否定的に浮かび上がるの? 福祉の街づくりにおいて車椅子使用者の立場からみんながよりよい街を作るために提言ができる人として肯定的に浮かび上がる、という反転するとらえ方ができるでしょう? 社会によって、また社会がどのような方向に進んでいくのかによって、障害が浮かび上がらなくなったり、逆に肯定的に浮かび上がる場合だってある。だから、障害というのは、社会的な規定だと言えるし、関係性の問題、関係性の中で浮かび上がる問題だといえるんじゃないの?
ジュン:確かに、そういうとらえ方もできるけど、それは別の側面だし、障害自体は歴然としてある。聞こえない、目が見えない、歩けない、独りで食事ができないと言う問題があるでしょう。それさえないというの? それ自身は否定的なことでしょう?!
アキ:そういうことじゃないの! 別にそれ自体がないと言っているのではないの! あったとしても、それ自体が浮かび上がらない、浮かび上がってもさほど問題にならない関係性ということを言っているの? 例えば、ほくろを障害としてとらえるということは殆どないでしょう! 今、「障害」といわれていることが、ほくろのようなこととしてとらえられる、そのような関係を言っている。「別なこと」と言う話、確かにそうなの。障害者が、逆に反転して、いろんなことをできる人と言うように突き出すのは、あくまで過渡的なことで、障害者差別のない社会では、そのような肯定性もなくなり、寧ろ、障害者として浮かびあがらなくなると思うの、それまでは、例えば、車椅子使用者だから、段差がどのように障害−バリアになるかということが分かる、という反転させて存在をアピールしていく作業を、差別の告発とともにやっていく必要があると思うわ!
ジュン:それでも否定性は残るでしょう? 実際に、障害者自身も、障害がなければという話をしているでしょう?
アキ:確かにそういう話はあるわ。でも、それは障害者自身が、この社会の差別的な障害者観にとらわれているということじゃない?!
ジュン:それは違うと思う。下肢障害者は自分の足で歩きたいということは自然な感情としてある。それは障害者だけでなくて、健常者でも、できたら早く走りたいという思いがある。「できたらできるにこしたことがない。」という感情は否めない。障害の否定性というのは、そういう感情からおきるのではないかな?
アキ:そう? 「できたらできるにこしたことがない」という感情はいつもあるの?
ジュン:あると思う!
アキ:では、例えばセパタクロウとか、ガバディとか、みんなが「できるにこしたことがない」と思うと思う? 
ジュン:それは、そういうスポーツがあるのを知らないひともいるから、そうはならない。
アキ:余り日常的に接しないスポーツなんか、どうでもいいことでしょう。アジア的なものに対する差別意識と相俟って、逆にダサイからやりたくない、というひともいるかもしれないわ! できたら早く走りたいという感情を多くの人が持つのは、小学校の体育の時間や、運動会に必ず徒歩競争というのがあって、そこで競うということを経験してきてきたからじゃない! 昔、ある手話を勉強していた人が、「一度でいいから、耳の聞こえない人に音楽を聞かせてあげたい」なんて話しているのを聞いたことがあるけど、とんでもない勘違いをしているのよ! 生まれた時から聞こえない人が音楽を楽しみたいと思うと思う? 可能性としてはあるけど、もしそうだとしたら、刷り込まれたということじゃない!? ある本に「サリドマイドの障害者」に「自分自身を障害者だと思いますか? 不便を感じたことがありますか?」という質問をしたら、60%位の人が「そうは思わない」と答えたということが書いてあったの。
ジュン:残りのひとは?
アキ:だから、それが刷り込み!! 何もスポーツだけではないわ。例えば、折り紙や陶芸をできないよりはできた方が良いと、みんな思う?  
ジュン:それは、趣味的なことだから、趣味的なことは、個人個人によって違う。でも、みんなが、ほとんどのひとが「できないよりできたことがよい」と思うことがある。
アキ:そうそうなのよ! それが何かということなのよ!
ジュン:独りで生きるのに必要なこと。
アキ:だから(溜息)、また身辺自立を持ち出すの?! 生きるって、生きるって言うことの中には、人は助け合って生きるものだということであれば、ひとりで生きれるかどうかということは問題ではないでしょう? 逆に産業社会では、独りで生きれるひとなんかほとんどいないわよ!
ジュン:でも、実際にできた方が生きていくのに生きていきやすい、ということじゃないの?
アキ:それは、今の社会では、ということなのよ! 最近人権ということがかなり語られるようになって、人権ということは、人の命の重さは同じだということだと思うけど、そんなの嘘っぱちなのよね。何か事故に遭って死んだり、殺されたりしたとき、損害賠償の裁判を起こすと、人の命をお金で計ること自体が自己矛盾なんだけど、それ以外に責任追及ができないから、裁判をやったとして、その人が生きていて将来、どのくらいのお金を稼げるかということで、その金額が決められるの! 人の命が、労働力の価値ということで決められていくの! このあたりのことは、ヒロさんの得意分野ね。わたしばかりにしゃべらせないで、ちょっと話してよ!!
ヒロ:別に得意分野ということではないけど、・・・。マルクスが『資本論』の中で、交換価値を論じているところで、交換価値は標準的人間労働ということで、商品を作るのにどれだけの労働時間が必要なのかを基準にして計られるということを書いているのですけど、今の社会のその標準的人間労働という考え方、ひいては、標準的人間ということが、障害者差別の根拠になっている、と思うんです。障害者の場合は、労働市場に出る前に、身辺自立が労働の前提だということで、排除されてきた歴史があるんだけど、・・・。
ジュン:よく分からない。ヒロさんの話には、労働に対するマイナスのイメージがあるようだけど、でも、労働ということでも、いろんな労働があるわけでしょう!! 最近福祉関係での仕事が増えているし、エコロジー関係も商売が出てきている。そういう意味では、人と人とのより良い関係を作っていく仕事−商売というのがあると思う!
アキ:まあ、出てくる事は出てくるだろうけど、根源的には無理ね! そのような商売が成り立つには、人と人との関係をどうしていくのかということを人がちゃんと考えて行くことになるでしょう! ということは、人が今の社会が会人と人との関係をちゃんと考えないことで成立しているということに気づくことになるし、そうなると市場経済自体の矛盾に気が付き、商売なんてことが崩壊するから。まあ、過渡的な仕事として、出てくることはあるだろうけど。それに、もう一つ、わたしは労働とジュンさんが言っていることをもっと内容的にとらえ返す必要があると思うわ。わたしは、他者のためにする、資本主義社会で搾取ということを伴うことを労働と規定し、体制が変わっても人の生きる営為として必要な活動を仕事と言うように区別した方がいいと思うわ!
ヒロ:ちょっと話が脱線してきたし、疲れてきているので、休憩しましょうか?

ジュン:色々話を聞いてきて、まだすっきりしない。二人の話だと、きっと、「できるということに価値を置くことは悪いことだ」というような話になると思うけど、例えば、先ほど例に出ていた話で言うと、折り紙をやっていて、もっといろんなものを折れるようになりたいとか、陶芸でも、もっと自分の納得できるものを作りたいとかいう感情が出てくるでしょう? そういうことを障害者差別につながることだと批判することになる。
アキ:そういうことじゃないの! わたしが問題にしているのは、ひとはこうあるべきだということで、標準的人間像を作って、それに外れるとかで差別することを問題にしているの? 人それぞれにやりたいことがあって、その中でやりたいことに磨きをかけたいということを差別だなんて言いはしないわ! ひとはこうあるべきだ、ということで、その核には、労働ということが中心に据えられているということがあって、その労働ということを巡って、できる−できないということが問題になっている。「できるべきだ!」という押し付けがなされるそれを問題にしているの! 選択性がそこにはないの。
 選択性の問題で言えば、以前ラジカルな障害者が、ここでラジカルというのは、一般的に使われる「過激」という意味でなく、「根源的な」という意味だけど、尤も、彼の言っている内容が理解できない人には、「過激」ととらえられるから、そんな断り書きは意味はないんだけど(笑い)。その車椅子使用者が、「わたしはエスカレーターとか、エレベーターをつけて欲しくない。階段を上がり下がりするのに、介助を頼みそこでのふれあいということを楽しみにしていたのに、それができなくなる」という趣旨の発言をしていたの。まあ、それでも、階段を使って介助を頼めば、選択性は広がるとはいえるんだけど、当然、「エレベーターを使えば」と拒否されていく現状はあるし、・・・。今の社会の「人がこうあるべきだ」ということを、いかに覆していくのか? それが障害者運動の根底的な課題だと思っているの!
ヒロ:以前、車椅子の障害者と食事していて、たまたま隣の席にすわったから、食事の介助が必要だろうからと、スプーンを持って介助をしようとしたら、「(スプーンを使っての)介助は要らない」と言われたんです。「おかずとご飯を混ぜてくれ」と言われて、そうしたら、お皿に口をつけて食べ始めたんです。横浜の中華街で、わたしは一瞬たじろんだんですけど、でもね、よく考えたら、ナイフとフォークとスプーンを使って食事するのと、箸で食べるのと、それから手で食事する、というのは、文化の違いで、文化に優劣をつけるのはおかしいということは、一般に承認されていますよね。だったら、障害者の文化として、皿に口をつけて食べる、介助者を使って食べるというのも、同等の文化として認められるべきですよね。それが、認められない。なぜかと言う問題なんです。
アキ:それが、標準的人間像を描く中で、「こうあるべきだ」ということで、障害者がそれから外れる者として差別されてきたわけ。でも、標準的人間像、障害者運動の中では、「健全者幻想」として語られてきたことと通じているんだけど、なぜ、そんなものがあるんだって話!
ジュン:「ひとがこうあるべきだ」ということ自体を全部否定するの? では、障害者差別をしてはならないということまで否定することになる。
アキ:そんなことは言っていないの。障害者差別的な「人はこうあるべきだ」ということを否定するということで、言っているの。道徳主義的なことは嫌いだけど、障害者運動サイドのひととひととの関係のあり方というイメージは突き出していく必要があると思っているわ。手話で、「障害」というのは、「こわれる−こわれている」という言葉と同じなの。この表現がいやなんだけど、でもね、「壊れている人」といったら、今の社会では、精神病者に対する差別的に意識があって、精神病者を思い浮かべるひとが多いだろけど、精神病者はわたしは逆に今の社会の矛盾をストレートに感じる人たちだと思うの! 寧ろ、ちゃんと矛盾を感じないで生きれる人の方がおかしいのよ! 自分の発言がいかに人を傷つけるのかということをちゃんと考えないで、「失言」を繰り返しているひとが、政治家と称して社会のリーダーシップをとろうとしているけど、彼らこそが壊れているのよ! 彼らにとって障害者は迷惑な存在なんだろうけど、人と人との関係のあり方ということを根源的にとらえていく立場からすると、彼らこそが迷惑な存在なのよ! 障害者のことを障害をもつ人という言い方をするひとがいるけど、障害者と言われる者を障害者と規定する人たちが、社会が障壁−障害をもっているのよ。むしろ、そういう人が、壊れていると言う意味で、障害者なの、なぜその障害を障害者の問題として押し付けられるの、むしろ障害者の問題と言われることは、健常者の問題でしょう!?
ヒロ:アキ節がでたところで、又ちょっと休憩しましょう!

ジュン:障害者差別の根拠ということを、今まで話していたことと何か違うことがあるのではないかと考えていて思いついたのだけど、ヒトには自分と違ったものに対する恐怖心があるでしょう! それが、障害者差別ということだけでなくて、人種・民族差別ということもそうだけど、差別となって現れるのではないかな?
アキ:メンミというひとがいるの、『差別の構造』という差別の問題で古典となっている本を書いたひとだけど、そのひとが、差別の根拠として、「異質性嫌悪」ということを挙げているの。その話に通じることだと思うんだけど、でもね、そもそもなぜ違うと感じるのかということがあるんじゃない!
ヒロ:哲学の話でよく持ち出される話として、生まれたままの赤ん坊の目にどう映るかという話があるんですよ! 別に複数いてもいいと思うんですけど、単純化するために二人だけの世界を持ち出すと、もし障害者がいて、そのひとだけが子どもに接していたら、異質性嫌悪なんてないでしょう! そのひとだけでなくても異質性嫌悪なんて、生まれたばかりの赤ん坊にはないですよね! そもそも違うという意識さえ、赤ん坊にはないでしょう!
ジュン:でも、実際にはもつようになる!
アキ:わたしが問題にしているのは、「異質性嫌悪」ということをヒトの本能のようなこととして、ヒトの自然性において、逃れられないことだというような論理になっていることを問題にしているの! それはひととひととの関係に於いて生まれることでしょう! 社会的問題でしょう! 昔、確か「サンダーホーム」といったかな、戦争孤児と米兵と日本人女性の間で生まれその施設にひきとられた子どもが一緒になった孤児院の話があったけど、生まれてすぐから、色んな肌の色の子どもが混じって、一緒に生活していたら、肌の色の違いがどう映るんだろうと考えた事があるの! あるエピソードとして、電車の中で、肌の黒いひとに初めて出会った子どもが「あのひとはなぜ黒いの、お風呂に入らないからなの」と母親に聞いて、母親を慌てさせたという話があるんだけど、物心のついたころから「サンダーホーム」で育った子どもの意識と肌の黒いひとに初めて出会う子どもの意識は全然違うと思うの! もちろん、「サンダーホーム」の子どもたちも、外界と遊離していないから、多かれ少なかれ、違うという意識は持っていくと思うけど、・・・。でもね、電車の中の子どもだって、「異質性嫌悪」なんてそもそもないでしょう! 確かに異質性嫌悪といわれるようなことが生まれることはあるけど、必ずしもどのような社会でも生まれることではないし、ヒトの本能と言われることではないし、ヒトの自然性に依拠して、避けられないことではないと思うわ! 最近生物学をやっている人手、反差別論をやっているひとが本を書いていて、その本の中で、ヒトの脳の中に差別ということは組み込まれているとか、書いてあったの! 何のことかさっぱり分からないから、その内容を一生懸命探していけど、とうとう何も書いてなかったの! 差別の問題を論じる、差別はなくならないと主張するひとには、何て思い込みが支配しているんだろうと思っているの! わたしたちも逆に差別をなくしたいということで、思い込みに走るんではないかという思いがあって、今回の討論を企画したんだけど・・・。
ヒロ:さて、もうだいぶ疲れてきたし、時間も遅くなったので、今日はこのくらいで終りましょう! ジュンさん、まだすっきりしないようなので、一晩寝て、今日の話をちょっと反芻してもらい、また議論を煮詰めて欲しいと思います。差別の形の違いの問題も先送りにしているし、科学の「発達」が障害を取り除いていくのかという問題もあるし、明日からの話の中で、煮詰めたいと思います。 
                                <つづく>

<協同作業の呼びかけ>
 この対談は架空対談です。今まで、障害者差別に関しては、その差別意識とちゃんと向かい合い、ちゃんと批判していく作業は殆ど出てきていません。他の差別に対する批判の中で形成された差別に対する批判に依拠し、差別は許されないというところで対応にとどまっていました。そして人権論という倫理主義的な批判から、人権論自体が論理的ではないというところで、差別意識にふたをするような対応になってしまっていたように思えます。
 そのような中で、もうちゃんと論理的な対応で、批判しきっていこうよ!ということで、そして分かりやすさを求めて、対談方式で、差別意識を取り上げ、その批判を試みていこうと思っています。失敗すれば差別意識を広げるという恐れもありますが、現在の理論的深化情況をとりこんで、わたしなりに、批判しきれるという自負を抱いています。
 基底稿の「ジュン」という名前を借りて、取り上げた差別的意識、そして差別的な疑問ということは、わたし自身がかって持った、障害者差別意識の根拠となっていていたことで、今も深層心理的にひきづって内なる批判をしていることです。又、わたしの内なる対話だけでなく、外なる対話として、他者との色んな対話の中で出ていた意見です。そのときには充分に応えられなかったことが、今は基本的に批判はできているのではと思っています。
架空対談という形式をとったために、その中で人物設定をすることになり、そのひとり一人の言葉の中に、筆者であるわたし自身の差別性のようなこともあらわれてしまうのではとの恐れも抱いています。そのことへの批判も含めて、読者空の批判・意見を貰えたらと思います。
 具体的には、このホームページの読者の皆さんに、意見を寄せてもらう、例えば、「あそこのところは、論理的に矛盾していて、批判になっていない」とか、「批判していて、批判できていると思っているようだが、こういう再反論が考えられ、それにどう応えるのか?」とか、又、「それでは批判になっていない、こういう批判の方が良い!?」とか、「こういう意識を取り上げ、それに対するこういう批判ができる、その問題も載せた方が良いのではないか?」とか、「ここのところは、何を書いているのか意味不明だ」とか、兎に角いろんな意見を寄せてもらい、それをこの第一原稿の中に折込み、協同作業として第二稿を出していき、更に順次意見を織り込んで、第三稿・・・と、深化させていく、という新しい試みを考えています。皆さんの批判意見をわたしのアドレスにメールを送ってください。お待ちしています。
  メールアドレスは hiro.ads@f7.dion.ne.jp です。


……以上……

REV: 20160125
障害  ◇全文掲載
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