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コミュニケーションと抑圧

群馬大学 金澤 貴之 2001



1.はじめに

 本稿は、コミュニケーションの中で生じる「抑圧」として、聴者の議論に聾者が加わったとき、聾者にとっての「話しにくさ」がどのようにして生じていくのかに注目して、仮説的に論じたものです。原文は5年ほど前に大学院の授業で提出したレポートですが、その後、加筆訂正を加えながら、友人のホームページに掲載させてもらっていました。その後、そのホームページは、潰れてしまい(たぶん…)、日の目を見る機会を失ってしまっていました。男女間の抑圧の研究に関する研究と、聴者−聾者間の抑圧の問題の相違点についてなど、もう少し丁寧な議論も必要だとは思いつつ、「そのうちきちんとデータをそろえて、どこかに投稿しようか…」と思いながら、ズルズルと5年もたってしまいました。いずれきちんと練り直さなきゃと思う一方で、練り直していくためにも、これはこれで、多くの人の目に触れていただき、コメントをいただければと思っています。感想、コメント等、ございましたら、[アドレス削除]まで、お願いします。

 付記:2007.7
 *著者からの申し出によりアドレスを削除させていただきました。
 *また、この文章を練り直して論文にしたものとして、著者より以下を教えていただきました。
  金澤貴之(2003)「聾者がおかれるコミュニケーション上の抑圧」、『社会言語学』『社会言語学』3:2-14

2.「通じ合う喜び」の陰にあるもの

 人と人とが通じあうことは、それ自体とても楽しいことだし、すばらしいことだ。初めてアメリカ人と会って、“Hello.”や“Thank you.”の一言が通じたときの喜びは忘れられない。そして数年前、初めて手話サークルを訪れたとき、挨拶の手話が聾者に通じたときも、たしかに喜びがあった。その喜びが、その後聾者の中に入っていくためのパワーを自分に与えてくれたようにも思う。異なる言語・文化を持つ人とのコミュニケーションは、喜びであり、快感である。
 もちろん、コミュニケーションは「快感」である以前に、そもそも人間が社会的に生きていくうえで不可欠なものである。同じ言語を話す者同士の間では、共通した言語でコミュニケーションを行っていること自体が民族的・文化的アイデンティティの証明でもある。
 コミュニケーションは、共通した言語・文化を持つ者同士の求心力を高める機能をはたす一方で、「通じ合う」喜びによって、異なる言語・文化を持つ者同士での「快感」をも提供する。しかしながらこの「快感」が一歩間違えれば、時として相手を「抑圧」してしまうこともある。そしてそれは、コミュニケーションの持つ肯定的な価値観ゆえに、ついつい見過ごされてしまう。
 ここで重要なことは、「抑圧」に気づくのは抑圧されている側であり、抑圧している側はえてして気づかないということである。たとえば、「歩み寄り」という言葉がある。聾者と関わる聴者や、インテグレーションを肯定的に語る専門家の言説の中では、しばしばこの言葉を耳にする。「お互いが歩み寄ることが大切である」と。しかし、その一方で興味深いのは、そうした言説に対する聾者の反応である。「歩み寄りを強制させられている。」とか、「自分たちばかり、より多く歩み寄らされている」といった反応である。より詳しく言えば、「向こうはちょっと手を動かしただけで、それで聾者にあわせてあげている手話をしてあげているつもりなっているかもしれない。でもほとんど声でペラペラしゃべっていて、私たちにはさっぱりわからない。」という語りである。
 聴者が手話をつけて話すことで得られるのは、「通じ合う喜び」である。しかしそれが聾者にとってはどうであろうか。話がほとんどわかっていなくても、うなずいて愛想笑いを振りまく結果得られるのが疲労だけであったりする。重要なのは、聴者がどれだけ「喜んだ」か、ではない。その「すばらしさ」というポジティブな語り口の陰に、聾者の苦痛が隠蔽されてしまう危険性があることである。
 聴者と聾者とのあるべき関係性について語るとき、感性に頼った議論で「お互いが歩み寄って、一緒にいるべきだ」とか、「聾者だけで集まると、世界が狭くなる」と語っていく前に、するべき議論があるように思われてならない。それは「なぜ、聴者と一緒にいることを聴者は嫌がるのか」ということの理解である。それも、ムードで何となく「気持ち」を理解するのではなく、その構造をきちんと把握することである。つまり、聴者と聾者とが会話を行う際に、聾者が会話に参入しにくい状況が、どのようにして生まれるのかを、分析していくことである。こうした社会学的な立場からの基礎研究の積み重ねがないまま、何となく(それも聴者側からの)常識的な判断で「よい」と考えられている価値観に基づいて、インテグレーションは進められてきた。本稿は、あくまでも仮説呈示にとどまるものであり、今後データに基づいた検証が必要であるのは言うまでもないが、聾者と聴者の関係性を考えていくための社会学的な基礎研究を積み重ねていくための第一歩として、位置づけたい。


3.エスノメソドロジーによる会話分析 ―男女間の抑圧―

 エスノメソドロジーとは、社会学の方法論の1つである。そしてその中心的研究スタイルの中に「会話分析」があるため、言語学と非常に類似した印象を受ける。しかし言語学とは異なり、ことばに注目しながらも研究対象はことばそのものにはおかれない。ことばを通して、「社会的行為の組織化」、「社会的現実性の構成」を分析するものである。
 社会学において、差別や抑圧はしばしば中心的な研究対象の1つであった。基本的に従来の社会学の立場では、差別する者とされる者の間にある、外在化された力関係に焦点が当てられていた。それに対してエスノメソドロジーの場合は外在化されない現象に注目する。すでに「『常識』の中に埋めこまれ、いわば『見られてはいるが気づかれてない』現象」を掘り起こそうとするものである。そして「発言内容の差異」ではなく、「パターン化された話し方に現れる歪み」に注目する。「常識」の中に埋めこまれている、とは、「差別」する方もされる方も気付いていないということでもある。お互いが当たり前のこととして行っていることが、実は一方的な力関係が働いていたりするということにもなる。
 江原らは大学の学部学生男女各16名を集め、会話分析を行った。2名1組にわけ、相手を変え、全部で32組、約16時間分の会話データを収録し、それらを男性同士の会話、女性同士の会話、男女間の会話とにわけ、「うなずき」、「沈黙」、「割り込み」等に注目して分析した。
 その結果、男性と女性とでは、互いに対する「あいづち」「うなずき」等の意味が対照的であった。女性の「支持」に対して、「男性」は非「支持」であった。また、男性の女性に対する「沈黙」の中には、「不自然な沈黙」が見られた。これは女性の展開するトピックへの「関心の欠如」であり、会話の中止要請であった。「割り込み」は男性が女性に対して、より多く会話の中で起こしていた。
 こうした結果を江原らは「日常的・自然的な会話における性差別的事実であり、男性が行使する微細な権力装置なのである」と述べている。ここで注目したいのは、そうした機能が意図的なものではなく自然になされている行為であり、それは同姓と話をする際にも用いられていること、そしてそれにもかかわらず、男性同士、女性同士の間ではスムーズな話者交代が行われているということである。
 端的に言えば、男性は「話したがり」で、女性は「聞き上手」なのだ。男性同士が話をする場合、そこに他の権力(年齢差、身分差など)が介在しなければ、お互いに相手の話を利用しながら自分の話をしたがる。それをお互いにしているために、結果として、頻繁に話者交代が行われることになる。一方、女性同士が話をする場合、「話し手」と「聞き手」に分かれることになる。「聞き手」は一定の間、「聞き手」に徹する。「うなずき」の他に、話をはさむ場合も、それは相手の話を引き出すための「質問」として機能する。そしてお互い「聞き上手」であるため、そしておそらく女性も自分が話したいという欲求もあるだろうから、「話し手」と「聞き手」とが、適宜に入れ替わることになる。
 問題は、「話したがり」の男性と、「聞き上手」の女性とが話をした場合である。お互いが自然に会話をしているはずなのに、なぜか男性の方が話の主導権を常に握っているという結果が生まれてしまう。さらに問題を複雑にするのは、女性は相手の話を聞くことに慣れているし、何より相手の話を聞くことに興味を示すため、話題の主導権を「奪われている」女性自身も、自分が「奪われている」とは思わない点である。「私は聞くのが好きだから、好きでやっているんだ」となる。「自分の話し方は、『男性に迎合』するものではなく『自然な話し方』であると主張していた」ため、そこに差別性を見いだそうとする研究者の解釈は、「非差別者」である女性自身によって否定されてしまうのである。


4.手話言語による聾者同士での話者交代

 さて、このような会話のパターンの違いがもたらす「抑圧」の問題は男女間だけにあるのではない。聾者同士で話が進行する場合と、聴者の間に聾者が混じって話が進行する場合と、聴者同士で議論する場合の3つのパターンを見ていると、それが上述した男女間の分析から得られた知見がうまく当てはまることに気がついた。しかし男女間のそれと異なるのは、男女間の場合、お互いが無自覚であるのに対し、聾者対聴者の場合は、聴者は無自覚であるが、聾者は理由はわからないながらも、モヤモヤとしたストレスのような、ある種の不快感を抱いている場合があるという点である。
 聾者は聴者と話すときと、聾者同士で話す時とで、手話を使い分ける。聴者と話をするときは、聴者にあわせて、日本語に対応した手話を声を出しながら使う。そして、聾者と聴者が集団で話をするときにも、やはり同様に、通常は日本語対応手話を用いる。というのは、手話を「知っている」聴者の中でも、JSLが読みとれる人はごく限られているからである。しかしながら、聾者同士のみで話をするときは、日本語とは異なる言語である、JSL(Japanese Sign Language)を用いている。
 筆者は幸い、聴者でありながらもJSLで進行する会議に同席する機会に恵まれた。それは筆者が聾者並の手話を使えるからではない。「JSLを上達したい」という筆者の願いを聞き入れてくれたある聾者の知人の紹介により、JSLで進行する会議に、あくまでオブザーバーとして参加させてもらえたということである。最初はまったくついていけなかった議論であったが、回を重ねるにつれて少しずつ会話が見えてくるようになっていった。そしてその中で、会話の進行のされ方について興味深い特徴に気づくことができた。
 例えば誰かに発言に割り込みを行おうとした場合、音声言語の場合は声を用いるが、JSLの場合は、手を用いて合図を行う。ここに、音声での会話との違いが2つ生じてくる。1つは、音声言語の場合は、音源がどの位置にあっても、受信可能であるが、手話言語の場合は視界に入らなければ受信できないということである(ただし、聾者の視覚が聴者よりも敏感である点は考慮に入れるべきであるが)。そしてもう1つは、音声は「重なる」ということである。つまり、複数の人が同時にしゃべったときに、声が大きい人が勝つということが起こるということである。
 この2つの特徴の違いがもたらすものは何か。筆者は、話者交代のルールの違いに現れると考える。
 音声言語の場合、会話がとぎれた場合は、参加者すべてが次の発言を行うことができる。しかし会話が進行している限り、話者交代は原則的に「割り込み」によってなされる。つまり、発言者の発言の「間」をうまくつかんで、発言者以外の者が「でもね…」などと「割り込み」を行うことで、発言が譲渡されるのである。ただし、言語を獲得している者にとっては、すでにこの行為自体、自然に行っているものであるため、ことさらに「割り込み」を行っている意識はない。
 一方、手話言語の場合、発言を譲渡するかどうかの判断は、原則的に発言者本人にゆだねられる。言い換えれば、発言者の意志を無視して「割り込み」を行うことが構造的に実現しにくいのである。というのは、手話言語での会話は、発言者の話を他者が「見る」ことによって初めて成立するため、次に発言使用とする場合には、他の参加者の視線を自分の方に向ける作業が必要になるからである。
 音声言語の場合、「そりゃ、お前、違うよー!」と大声を出すことで、前の発言を無効化させることが可能である。そうでなくても、発言者の呼吸をつかんで、タイミングよく「でも…」と発することで、他者の注意を自分に向けることが可能である。しかし手話言語の場合は、自分が手を振って発言したいサインを発したとしても、それは今発言している人の手を物理的に妨げているわけではない。発言者の語りと同時並行的に、干渉しあうことなくなされる行為である。そのため他者に若干の注意を喚起することはできても、発言権を獲得するほどの効果を持つには至らないのである。
 次に発言したいと思う者は、注意を喚起すべく、手を振る。そのときに他の参加者は、今すでに話をしている者に注目している。次に、発話者が手を振っている者に目線を向ける。他の者はその目線の動きで、話者交代を知り、手を振る者に視線を向ける。そして手を振っていた者が話し始める。これが瞬時になされることで、話者交代がなされる。これは実際には瞬時に行われるため、おそらくほとんど意識されないでなされている相互行為であるといえよう。もちろん、現在の発話者と次に発言をしようとする者と、他の参加者の位置関係によっては、発話者の目線に頼らずとも、語りと手の合図の両方が視界に入っている場合もある。とはいえ、やはり音声言語のような声と声の干渉がないこともあり、手話言語の場合は発話者の視線が話者交代のための機能を果たしていると考えられる。
 そのため、そして割り込みが成功するかどうかは、前に発言を行っている人が、発言権を譲渡するかどうかに委ねられる。聾者の議論に慣れていない私自身は、いつ発言権が譲渡されたのかがつかめず、他の聾者の視線が移動したのにワンテンポ遅れて視線が移動することがしばしばある(手話がある程度読みとれるようになった聴者の次の「壁」はここにあるのではないだろうか)。
 こうした話者交代の特徴は、さらに以下のような特徴をも、持っているように思われる。
 まず、聾者同士の会話の場合、聴者同士の会話に比べて、一人の発言時間が長いのではないか。つまり聴者の場合、音声による割り込みが頻繁に行われて、話者交代の頻度が高いのに対して、聾者の会話の場合には、一旦発言権を握ったら、その人が発言権を自ら譲らない限りは話者交代が行われず、それゆえに一人の発言時間が長くなるのではないか。聴者の場合、「声の暴力」みたいなものがあって、話をしていても、割り込みをされて、発言権を奪われてしまうこともある。聾者の場合、どうだろうか。聴者に比べて、聾者の場合、割り込みが失敗に終わることが多く、それはそれでごく自然なこととして受けとめられるような気がする。
 また、聾者の間で発言が譲渡される場合、割り込みの合図は比較的長めに出されているような気もする。つまり、話に割り込もうとした時に、まず手で合図を送る。しかしそれですぐに話者が交代するのではなく、「次に私が話します!」という合図だけだしながらも、最初の話者が話し終わるまで待っている。そしてそれから話者交代が行われる。つまりFig. 1、Fig. 2 のようになる。

              発言の中断
話者A―――――――――……
話者B      |―――――――――――――――――
     割り込み・発言開始
Fig. 1.割り込みと話者交代(聾者の場合)


                発言終了(話者Bへ目線で発言を許可)
話者A――――――――――――――――|
話者B      |………………………|―――――――
      割り込み      発言開始
Fig. 2.割り込みと話者交代(聾者の場合)


5.聴者の会話に聾者が参加したとき −手話を伴った会話の場合−

 さて、上記のような話者交代のルールがあった場合、聴者同士、あるいは聾者同士では、それなりにうまく機能していく。問題は、聴者と聾者とが話をする場合である。発言者による譲渡の意志の有無の確認を待つことなく話に「割り込む」ことに慣れている聴者と、発言権の譲渡を待ってから発言することに慣れている聾者とが話をした場合、どうなるだろうか。お互いが自然に話をしているつもりなのに、気がついたら聴者の方がたくさん話をしているという状況が生まれるのではないだろうか。見えない抑圧の一端をここに読み取ることができるかもしれない。
 音声言語の場合、音声によって割り込むこと自体が、話者Aの声を妨害することになる。一方手話言語の場合、話者Bがどんなに大きく手を振っても、それは合図としてのアピール度を増すことにはなるかもしれないが、話者Aの話を妨害することはない。音声言語でなされるような妨害の状況を仮に手話言語で想定するならば、話者Aの手の動きを物理的に止めることに相当するかもしれない(それは非常に失礼な行為であろうし、実際にはまず行われない)。そのため、音声言語の場合は、話者交代の主導権が、基本的には割り込みをする側の話者Bに握られるのに対して、手話言語の場合は、発言権をすでに持っているところの話者Aに委ねられる。
 さて、それぞれにこうした特徴を持っている場合、聾者同士あるいは聴者同士では、何の支障もなく会話が進行していく。しかしながら、問題は複数の聴者と聾者が議論を行った場合である。ここには2重の問題がある。1つは、上に述べた性質自体が持つ特徴から導き出される問題であり、もう1つは、音声というモードの持つ特徴を聴者のみが利用してしまうという問題である。この2つの問題が重なりながら、抑圧的な状況が生みだされることになる。
 聴者同士の会話は、頻繁に割り込みがなされながら進行していく。一方聾者同士の会話の場合、ある程度のまとまりのある話をしてから、話者が交代される。そのため、聴者は些細なことでも頻繁に割り込みをするのに慣れているし、相手の話が終わる前に割り込むことに慣れている。一方の聾者は、話をある程度のまとまりまで聞くのに慣れている。そのため、聴者と聾者が同じ場で議論をした場合、聾者が割り込もうと思う前に、聴者によって割り込みが行われてしまう。そのため、気がつくと聴者ばかりが話をしているという状況が生まれてしまう。そして聾者にとっては自分が意見を言う前に先に言われてしまうので、モヤモヤした不快感が残ることになる。
 また「交代の主導権」について言えば、聾者の場合は基本的に最初の話し手に置かれるが、聴者の場合、割り込もうとする側に置かれる。もし会話が音声なしの手話で進行している場合は、このことは取り立てて問題にはならない。視覚言語でのルールに統一的に従うことになるからである。ところが、聴者が音声併用の手話を使っている場合、状況は大きく異なってくる。割り込もうとする聴者は、「あの…」といった音声を使って割り込みを行う。その場にいる他の聴者は、その声を聞いて振り向く。その場にいる聴者がごく少数である場合はともかく、ある程度の人数がいた場合は、それによって発言権が移動してしまう。前に発言していた者が聾者である場合、その聾者の意志を無視して、発言権は譲渡されることになってしまう。この場合、聴者にとっては、ごく日常的な形で割り込みを行っているに過ぎないが、発言の主導権を自分から譲ることに慣れている聾者にとっては、自分の意志が無視されたようにも感じるだろう。
 そのため、聾者が発言できるのは、たまたま議論が一呼吸ついて、誰も割り込みを行おうとしない瞬間に限られてしまう。とりわけ議論が白熱している最中は、聾者はただ黙って見ているしかないのである。
 実際、手話がそこそこに堪能な聴者の中に聾者が入って進行する会議の場で、聴者同士で議論が白熱し、聾者の目が「泳いでいる」状況に居合わせることが少なくない。声による「割り込み」によって話者交代がなされるため、いつ、どういうタイミングで発話者が変わったのかが、聾者にはわからないのである。また、聾者が発言しているのに、「でもさー」と声で聴者が割り込んで、周囲の聴者はその声に反応して音源を振り向き、発言していた聾者は、なぜみんなの視線が移動したかがわからないという状況もある。あるいは、意見に反論があって、聾者が手を挙げるが、そのとき同時に別の聴者は声で割り込んだ結果、聴者の方が発言権を勝ち取ってしまう状況もしばしば目にする。
 つまり、聾者と聴者が対等に議論をしようとするためには、単に聴者が手話を覚えて使うだけでは不十分なのである。話者交代のルールも聾者にわかる方法で行わなければ、「歩み寄り」という名の「抑圧」は解消されない。


6.聴者の会話に聾者が参加したとき −手話通訳を介した場合−

 以上の議論は、聴者と聾者の議論のうち、聴者が手話を用いる場合についてであった。聴者が手話を使ったとしても、聾者は会話において構造的に抑圧されることになる。しかしながら、聴者と聾者が共に議論を行う場で、聴者の全員が手話を使える場など、むしろ珍しいことである。たいていの聴者は手話を知らないため、聴者と聾者とが議論する場合は、手話通訳を介することになる。
 手話通訳を介して議論がなされる場合、大抵の聾者は黙って通訳を見ていることになる。時々、そうした場に同席することがあるが、中には聾者に対して、「いつでも、ご自由に発言して下さいね。」といったことを言う方がいる。あるいは会が終わった後で、「おとなしかったですね。遠慮してたんですか? もっと発言されたらよかったのに。」といったことを言う方もいる。もちろんそれはまぎれもなく好意的に発せられた言葉である。しかしながら実際は、「おとなしい」のでも、「遠慮している」のでもなく、そもそも発言ができないのだ。 通訳を介する場合、それがどんなに上手な通訳者であっても、必ずワンテンポ遅れることになる。そのため、これまで議論した問題点に加え、話の進行自体についていけないという問題が生まれる。聴者が音声併用の手話を用いている場合は、上に述べたように確かに聾者に非常に発言しにくい状況が生まれる。とはいえ、聴者の議論のリズムになれている聾者で、カンの鋭い聾者であれば、発言に参加することも不可能ではない。しかしながら、手話通訳を介している場合は、話の進行自体についていけないため、発言したいと思っても、その時にはもう話がズレているという状況も生まれる。それが予測されるために発言するのを控えることになるし、勇気を出して発言し、うまく発言権を取得できた場合でも、発言内容がもはや意味のないものになっていたり、すでに別の人によって一瞬早くなされたものであったり、そうでなくてもワンテンポずれているという印象を周囲に与えることになる。結局聾者はそうした恥ずかしい思いを経験することで、こういう時は発言すべきではないということを悟ることになる。そのため、そうした場で聾者が発言するのは、議論も終わる頃、「最後に一言」といった形で周囲から発言権を譲渡されたときにのみ行われる。そしてそれはえてして議論に組み入れられることはなく、「参考意見」の1つとして受けとめられるにとどまってしまう。結局、手話通訳は「情報保障」は行うが、議論に参加することまでは保障しないのである。
 このように、通訳者を介することで、より以上に聾者が会話に参加できない状況が生まれることになる。しかし現状としては、それが構造的に「やむをえないこと」として理解されるのではなく、本人の性格的な問題として受けとめられる。黙っていれば「おとなしい人」になり、何か発言すれば、「的確な発言のできない人」になってしまうのである。
 ではこうした構造的な問題に対して、「どうしたらいいのか」と言われても、基本的には解決不可能と言うほかない。理想的には、聴者もJSLを使って、聾者的なスタイルで全員が議論することしかないだろう(聾者が聴者的なスタイルで議論するのは不可能であるから)。しかしながら、言うまでもなくこれが行えるのは極めて少数の聴者に限られる。あるいは次善の策として、声つきの手話で行いながらも、発言の意志を伝えるときだけは手で合図をするという約束を決めておくというのも1つの方法である。しかしながら、そうした約束事は日常的な習慣に制約をかけることになるため、簡単に破られてしまう。
 やはり、聾者と聴者が同時的に議論を行う以上、聾者が抑圧されるのは避けられないことなのである。むしろ問題は、それを構造的な抑圧としては受けとめられておらず、それどころか聴者にとっては「歩み寄り」をしているという意識の中で行われているという点にあるだろう。手話通訳を配置するのも、自分で手話をするのも、聴者にとっては、聾者のためを想って歩み寄っている行為なのだから。


7.手話の未熟な聴者による抑圧

 これまで、「あの人は手話ができるかどうか」は、少なくとも聴者の間では、「手話表現ができるかどうか」という視点からのみで語られてきた。しかも、それを判断するのも聴者であるために、その表現が聾者から見てわかりやすい手話であるかどうかは問題視されない場合がしばしばあったように思われる。さらに強く指摘したいことは、聾者の手話が読みとれるかどうかはほとんど議論にのぼらないということである。音声言語においてヒアリングこそが大きな課題であり、英語のヒアリングのために多くのビジネスマンが努力している。ある言語が「できる」というためには、受信ができなければならないということは、わざわざ語るまでもなく、当たり前のことである。しかし、こと手話言語の場合、その「当たり前」が「当たり前」になっていない。
 聴者の中で、JSLが読みとれるものはごく少数である。しかしながら少しでも手話単語を知っていると、周囲からは「手話の上手な人」と思われてしまう。そのため当人は「自分は聾者の手話を読みとれない」ということに正直になれない。ここに問題の発端がある。聾者の手話が読みとれないまま聾者とコミュニケーションを取るために、聴者が「歩み寄り」をしている以上に、聾者にかなり「歩み寄り」を強いることになる。これは成人だけではなく、聾児と聾学校教師(聴者)との間でも、日常的になされている(少なくとも筆者の経験の中では、しばしば、驚くほど頻繁に見られる現象であった)。
 聾学校の教師は、子どもたちと話すときに、自分にあわせさせることを暗に強要せざるをえない。そうしなければ、会話が成立しないからである(もちろん、「強要している」という意識は全くない)。口話の学校の場合、例外的に手話が堪能なごく一部の教師を除けば、先生は子ども同士の会話はわからない。子どもが先生に向かって(先生に会わせたモードで)話すときにのみ、理解が可能になる。
 そのような口話の学校の場合、手話(単語)をちょっと知っているというだけで、「手話の上手な先生」に祭り上げられる。本人も「上手」と思っている場合は当然だが、本人はその気がなく、「私は手話、下手なんです」と訂正を試みても、「謙虚な先生」と解釈され、「上手な人」という評価は変わらない。評価する人が手話を全くできない以上、そうなるのも当然であろう。
 言うまでもなく、手話(単語)を知っていることは、JSLを読みとれるていることを意味しない。まして子どもの会話は、成人のそれよりももっと読み取りが難しい。結局どうするかというと、わかったようなふりをして、ニコニコするしかない。あるいは、わからないことの原因を子どもに帰着させる。「この子たちは『正しい手話』が使えていない」と。
 もちろん、わかったようなふりをしてニコニコするのは、通過点としては誰もが経験する。問題は、そのレベルよりも先に行けている人が少ないということにある。それは手話を使用する学校の教師(例えば高等部)にもあてはまる。そうした教師にとっての手話を用いる動機は「生徒と通じ合う」ためである。そのため成人の聾者と付き合いを持つ必要性を感じることには直結しない。好むと好まざるとに関わらず、学校は先生が「王様」だから、生徒は先生に合わせて話をするため、それで授業は成立してしまうからである。
 手話を使う学校の場合について言えば、この中には、「手話奉仕員」レベルの手話を使える人は結構いるだろう。特に幼稚部で手話を使っている教師の場合は、大まかな読み取りはできる者も少なくない。ただ、それはおそらく形態素レベルで手話単語を1つ1つ弁別して理解して読み取るのではなく、いくつかの単語を拾い集めてそれを想像でつなげて読み取るような方法にすぎない。中には実際に手話奉仕員であったり、県の認定試験をパスしている人もいる。ただ、手話通訳士となると、ごくごく僅かであるし、JSLを形態素レベルで読みとれる者となると、おそらく片手で数えられる程度しかいないのではないだろうか。
 また、手話を使う学校で、先生も自分ではある程度読みとれているつもりのところでも、実際は読みとれていないシーンは多々見受けられる。というよりは、むしろ「手話ができる」先生の方が、自分が実際には読みとれていないことに正直になれないのではなかろうか。
 ところで、「わかっているふりをする」ときに(成人同士の会話でも)「なるほどなるほど。」とやっておいて、「まあ、それはおいといて。」とする。そして自分の話を始める。このパターンをよく見かける。このストラテジーは、必ずしも自分で意識的に行っているとは限らない。むしろ知らず知らずのうちに行っていたりするものだ。なぜこういう方法を取るかといえば、自分が話題の主導権を握っている限りは、常に有利に会話を進められるからである(そういう筆者もついついやってしまっているかもしれないが…)。
 自分が話者になっている限りは、自分に有利に話ができる。だから、聴者は自分が話をしたがる。そうすると、自分は手話をしているという自己満足と、「あの人は手話がうまい。」とか、「(聾者がうなずいて聞いているので)聾者にわかる手話ができる。」という他者からの尊敬、羨望のまなざしを得ることができる。逆に、聾者の話を聞くときには、自分が手話を読みとれない、という事実をさらけ出さなければならない。だから無意識のうちに、手話の読み取りに自信のない聴者は、聾者の話の聞き役に回らないようにしてしまうことが考えられる。そのために、聾者と(手話が不十分な)聴者が話をすると、常に「一方的」な会話が進行していくことになる。そして、手話をする聴者の大多数は(筆者も含めて)不十分な読み取りしかできないのが現状なのである。それゆえ、
  「聾者は聴者とつきあうことで抑圧される」
という現象が生まれる。
 聾学校の教師のほとんどが手話の初心者であることを考えると、聾学校で、子どもは教師と話すときに常に抑圧されている、ということがいえる。もちろん、子どもにとってはそれが当たり前の状態だから、抑圧に慣れているだろうし、気付かないのだろう。そして、成人聾者の中で、そうしたことに気付いた人たちの結論の一つに今の「聾文化」をめぐる活動があるといえるだろう。


8.おわりに

 これまで論じてきたのは、目に見える「差別」ではなく、日常世界に埋没しているあまり、人々が気づかないところにある「抑圧」であった。こうしたことは、「抑圧」を行っている者だけでなく、「抑圧」されている者ですら気づかないものである。加えて言うならば、ここであげた聾者対聴者の例は、いずれも聴者の「歩み寄り」のもとでなされていた行為である。それゆえに、「抑圧」されていることを指摘するのが困難になってしまう。
 これまで何人かの人に、こうした「抑圧」について述べたことがあった。聴者の反応は大きく2つに分かれる。「抑圧」という言葉に大きな反発・抵抗を感じる人と、なるほどと納得する人である。聾者のためによかれと思って、信念を持って「歩み寄り」をしている人ほど、前者の反応を示す。一方、なんだか分からないけれども聾者対聴者の関係性に不自然さを感じている人は、「それを聞いて納得した」という。
 「歩み寄り」は相手のために行う行為であるし、それゆえに、それが相手を「抑圧」していることを受け入れるのは非常に困難な作業である。自分が「歩み寄っている」以上の「歩み寄り」を相手がしていることには、なかなか気づかないものなのだろうか…。

参考文献
山崎敬一・江原由美子,「沈黙と行為――規範と慣行的行為」,山崎敬一『美貌の陥穽』,P47-88,ハーベスト社,1994.
山田富秋・好井裕明,「男が女を遮るとき――日常会話の権力装置」つ『排除と差別のエスノメソドロジー[いま−ここ]の権力作用を解読する』,p213-224,新曜社,1991.


UP:20070724 REV:
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