障害学研究会関西部会第9回例会記録
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「障害者と健常者の関係から見えてくるもの−障害者役割についての考察から−」etc
障害学研究会関西部会第9回例会記録

20001223, 大阪市立大学.


■障害学研究会関西部会第9回例会記録

日時:2000年12月23日(土・祝)
   午後1時30分から4時45分

場所:大阪市立大学 杉本キャンパス内 田中記念館
   3階 3A会議室

内容:
(0) 参加者自己紹介(13:30-14:00)

(1) 海外リポート(14:00-14:30)
「チベットの盲学校−近代化以前にあるもの−」
 報告者:三島 亜紀子 (大阪市立大学大学院後期博士課程)

【記録者注:以下、配布レジュメに補足したもの】

・はじめに
 チベットのプロジェクトの紹介と発表者の関わり。2000年3月に2回目の訪問。たまたま、知人の知人の家の隣が盲学校だった。

・私の立場
 もともと中国好き。政府批判的な立場はとりあえず採らない。

・チベット(西蔵自治区)
言語:チベット語、公用語は北京語
人口:252万人
面積:122万平方キロ
省庁:拉薩(lasa)
歴史:紀元前400年にはこの地にツァンポ(王)がいた。唐代(7世紀)、32世ツァンポのソンツァンガンポがチベットを統一し吐蕃王朝を開いた。元代には烏思蔵宣尉司都元帥府が置かれ、明には二都指揮使司が置かれた。清代に入り康煕帝が西蔵と名づけた。清朝が倒れると独立を宣言するが実現せず、1951年には共産党の軍隊が入り、1959年ダライ・ラマ14世はインドへ亡命。1965年9月に西蔵自治区が発足。
地理:大部分が海抜5000メートル以上の高地。西には聖なる山カイラス、南にはヒマラヤがそびえる。最近グランドキャニオンより長い世界最大の峡谷ヤルツァンポ大峡谷が発見された。主にチベット族が住むが、ほかに漢、メンパ、ロッパ、回族も。農牧業が主な産業で、山羊、漢方薬材、鉱石、セメントなどの産地でもある。

・Blind in Tibet
(http://www.blinden-zentrum-tibet.de/より)
Before the opening of the Project blind children in the Tibet Autonomous Reg ion did not have access to education. They led a life on the margin of socie ty with few chances of integration. According to official statistics more th an 10.000 of the 2.5 million inhabitants of the T.A.R. are blind.Compared t o most areas in the world this is well above the average ratio. The causes o f visual impairment or blindness are both climatic and hygienic: dust,wind,high ultra-violet light radiation, soot in houses caused by heating with coa l and/or yak dung, and lack of vitamin A at an early age. Inadequate medical care also plays a role. Cataracts are widespread. Indeed governmental and pr ivate organizations have set up eye-camps where medical surgery is being per formed and local doctors are taught to do the procedure. However, there is a large group of blind people that can't be helped this way. For this group of people the Project for the Blind, Tibet was founded.

・Project for the Blind, Tibet:内容
0. ラサの盲学校(1998→)
1. 視覚障害児向けの教材づくり
2. re-integration project 地方の学校の備品の整備、教材、紙など
3. 職業訓練
  
・Project for the Blind, Japan:
2001夏 ホームページの日本語訳 
2001秋 募金の開始(0,3+諸経費)
2002  職業訓練の開始(日本人鍼灸師の派遣)
2003 職業訓練(チベット人教師の研修留学)
協力メンバー 鍼灸師(障害学研究会にも出席された戸塚辰永さん含)、チベット滞在日本人、チベット研究家など。
協力団体 ICB(財団法人 全国視覚障害者)

・興味深い点:
「IL運動的な発想からはじまっている」ということ
<以前>盲学校以前は、家にいるか普通校
<今>「自立生活」を口にする盲学校の職員
<今後>「現代化」・「西部大開発」(1999→)の一環としての中国政府による盲学校設立予定

・チベット医学
政治と医学:国家資格化されるチベット医師(1999→)
「祖傳」(伝統的な医師の家系)の存在は保留されている。
盲人の排除:チベット医大に入学できないため、四川省成都にある盲人按摩学校で学び、中国流按摩の免許を取る(視覚障害者はチベット医師の免許が取れない)。ラサの中心地に政府がたてた盲人按摩診療センターがあるが、そこの医師も成都で学んだ。

【質疑応答】(以下、質問者は発言順にアルファベットで表記)
(A)ホームページはまだできない?
(三島)これから取り組む。

(B)チベットの盲学校は高卒以上の教育なのか?
(三島)6-14歳まで、幅がある。2年間(1セメスター4カ月くらい。それを4セメスターで修了)、宿舎生活をしながら盲学校で勉強し、地元の学校に通う予定。そのためにプロジェクト1や2がある。それに加えて年齢を特定しない職業訓練センター設立の動きもある。

(C)「IL運動的な発想」とは?盲学校を自立生活センターのような障害者運動の拠点としていくということか?チベット解放運動との関係は?
(三島)「施設化」や「近代化」、国の事業に対抗する形で出てきたというのではなく、まず「IL運動的な発想」が先にあって順序が逆ということに興味を持った。
解放運動には直接荷担していない。

(D)学校内の使用言語は?
(三島)まずチベット語の点字を教えるが、教材がないので北京語の点字を教えて、さらに英語の点字を教える。2年で三つの言語を学ぶ。チベット語の中の方言の問題もある。チベット語しか話さない教員もいる。

(E)教員の点字能力は?識字率は?
(三島)質問しづらかったのでよくわからない。識字率は、子どもには一から教えている。健常者でも学校に行っていない人は多い。


(2) メイン報告(14:30-15:10)
「障害者と健常者の関係から見えてくるもの−障害者役割についての考察から−」
 報告者:山下幸子 (大阪府立大学大学院博士後期課程)
 コメンテイター:田垣正晋(京都大学大学院博士後期課程)

【記録者注:以下、配布レジュメとそれに対する補足を記す。当日の補足は★で示す】

I. 研究の目的
 障害者は、その障害があるがゆえに、健常者と比べて社会経験の積み重ねや人間関係の構築に課題を抱えていることが多い。それは健常者が障害者を弱く無能であるとみなし、様々な経験を積み重ねる機会から障害者を遠ざけていたことが大きく関係している。そしてそれが障害者の中でも支配的となり、障害があるからできないのだと自信をなくしてしまっている。そこで健常者が障害者に与えるステレオタイプの障害者観が、障害者の生活やアイデンティティにどのような影響を及ぼしてきたのかということ、そして健常者は、障害者にとってどのような存在なのかということを考察する。また、調査において、障害者役割の付与、健常者との関わりの中で揺れる障害者のアイデンティティについても検討していく。
★自立生活センターで介助・プログラムに関わりながら、プログラムだけでは解決できない問題【記録者注:ここは誤筆記】を考える。


II. 研究方法
 障害者役割とは何か、障害者役割がどのように付与され、それを障害者がどのように認識していくのかという考察を行うにあたり、文献研究とともに、3名の脳性マヒの障害をもつ女性障害者へのライフヒストリー調査を行った。
 調査対象者のプロフィールは以下の通りである。また彼女たちは全員、24時間介護が必要な重度障害者である。
・Aさん
 1953年生まれ。養護学校卒業後は親元で生活を送りながら、障害者運動に参加していく。現在は24時間の介助ローテーションを組み、自立生活を送りながら、地域での障害者の自立生活支援に携わっている。
・Bさん
 1959年生まれ。養護学校卒業後、親元での生活を送っていた。その後彼女は5年間重度身体障害者更正施設に入所している。その後また親元に戻り、その時に現在関わっている障害者団体と出会う。彼女は現在、主な介助者であった母親の高齢化から、24時間の介助ローテーションを組み、自立生活を送っている。
・Cさん
 1955年生まれ。養護学校卒業後は親元での生活を送っていたが、27歳の時、自立障害者との出会いがきっかけとなり、自立への準備を進め、8年後に自立生活を始めている。. 調査対象者の選定については、大阪府内の障害者団体で知り合った方や紹介していただいた方に、調査依頼書を送付し、そこで了解をいただいた方を対象とした。
 調査期間は1999年7月から9月までの2ヶ月であり、1回のインタビューで1時間から1時間30分(休憩を含め)。それを2,3回行った。
★文献研究と3名(40代の女性)に対する聞き取り調査。3名とも現在自立生活を送っている。


III. 結果と考察
1. 障害者役割についての理論研究
(1) 基本的用語の確認
役割:
 人々は属する集団の中での地位に対応した行動様式を社会や集団によって期待され、また自身のそのような期待されている行動様式を認識し、行為を通してそれを実現していく。役割とは、このような期待、そしてそれに応えていく行動様式のことである。役割期待と行動とが調和し、相補性が成立した時に社会構造は安定する。
障害者役割:
 障害者への役割期待、そしてその期待に応える行動のこと。
★力関係などによって、好まないのに役割を遂行しなければならないことも起こる。

(2) 文献から
@ゴッフマン『スティグマの社会学』から
「肢体不自由の者は人々が期待している仕方とは違った仕方で行為しないように注意しなくてはならない」
「人びとは、障害者は障害者らしく、無能で弱々しいもの、彼らに劣るものと期待している。肢体不自由の者がこのような期待に背こうものなら、彼らは怪しみ、不安になるのだ」(アーヴィング・ゴッフマン『スティグマの社会学』せりか書房、180頁)
 ゴッフマンはスティグマをもつ者ともたない者との間の気づまりな関係を緩和するために、スティグマ者がより一層の調整を必要とすると述べる。その調整が健常者から期待される役割の遂行である。
 ゴッフマンはスティグマ者がとる4つの調整について述べている。
・常人から排除されることがあるかもしれない人間として自分自身を捉えておく。
・常人はスティグマ者にどのように接してよいかわからないために、監視や冷遇をしてしまう。その時スティグマ者はそのことには注意を払わないですませるか、スティグマのある者は外見とは違って中身は十全な人間だということを穏やかに教える。
・常人がスティグマを無視しがたく思っていると気づいたら、意識的にその場の緊張を解消するための努力をしなければならない。
・スティグマ者にとって自体が気楽なものになるようにと配慮する常人たちの努力が効果的であり、理解されているかのように行為する。

Aスコット『盲人はつくられる』から
 障害者への偏見として、無能、依存、陰鬱、自主性のなさ、内的世界の厳粛さ、耽美主義をあげている。健常者は障害者と接する時はこれらのステレオタイプ化された障害者像を信じ込み、それに依拠した行動をとることになる。また、障害者は社会的に合意を得ている障害者らしい振る舞いを行うと賞賛され、行わなければ制裁を受ける。

B石川准『アイデンティティ・ゲーム』から
 愛やヒューマニズムへの服従を障害者役割としてあげている。愛とヒューマニズムゆえの行為は容易に正当化され、疑念をさしはさむ余地のない絶対的な理念であるとする。

C障害者役割からの脱却を目指す運動−青い芝関連の文献から
C−1青い芝による減刑嘆願反対運動(1970年)
 横塚晃一は世間的には障害者は哀れに振る舞うと健常者は納得すると述べる(横塚晃一『母よ!殺すな』すずさわ書店、30頁)。障害者役割を遂行し、社会のアウトサイダーとならないことで障害者は健常者との関係を円滑に結んでいこうとする。しかし彼らは
健常者からの愛やヒューマニズムに基づく行為こそが、障害者の存在を否定することになるということを、この事件によって認識していった。
→健常者社会への糾弾、脳性マヒ者の世界観の構築
*青い芝の行動綱領
一、我らは自らが脳性マヒ者であることを自覚する。
一、我らは強烈な自己主張を行う。
一、我らは愛と正義を否定する。
一、我らは問題解決の路を選ばない。

C−2健全者幻想
「障害者の意識構造は、障害者以外は全て苦しみも悩みもない完全な人間のように錯覚し、健全者を至上目標にするようにできあがって」おり、「健全者は正しくよいものであり、障害者の存在は間違いなのだからたとえ一歩でも健全者に近づきたい」という意識。
 糾弾の対象とした健全者の価値観を、障害者自身が内面化してしまっている。そのため、健全者から求められる自己のあるべき姿に反発しつつも、完全に反発することは難しかった。


2. ライフヒストリー調査結果
(1) 障害者役割の付与と内面化
Aさん
(養護学校時代の機能訓練についての語りから)
A:「別になんか歩きたいと思ってなかった気がするなあ。だから緊張きつかったから、それを和らげたいなとは思ってたけど。あんまり健常者に近づきたいとか、そういうのあるやんか、それはなかった気がすんねんけどな。」
 Aさんは、BさんやCさんと比べて、特に障害者役割を付与されていると考えられるような語りはみられなかった。Aさんは親や周囲の健常者から特に何も強制されず、自由に育ってきたと語り、そのため自身の障害についても負担に感じることは、あまりなかったと語った。

Bさん
(幼稚園入園拒否についての語りから)
B:「うちの親は幼稚園に私を行かせたいと思って、公立の幼稚園に話にいってんけども、障害者やから無理やって断られて、幼稚園に行けなかった。それを親は私には言わなかった。なんで幼稚園いかれへんのって私は聞いてんけど、あかんとしかゆえへんかった。そのことしかゆわへんかった。何であかんのかなって思ってたんやけど、私もそれ以上言われへんかったから。私もうすうす感じてたんちゃうかな、障害者やからあかんのかなって。親に聞くのはかわいそうかなって思ったんちゃうかな。」

(養護学校時代の機能訓練についての語りから)
B:「障害が軽くなったらええなと思ってやってたけどな。小学校までPTとかやったことなかったから、ほんで(養護学校に)入ってやりだして、座れるようになったし、立てるようにもなったから、ほんで平行棒で歩けるようになってきたから、だんだん障害が軽くなってきたから、いけるやんかとゆうて、思ってた。」
Y:「障害が軽くなったら、どう自分が変わると思ってたんでしょうか。どうなると思ってたんでしょう。」
B:「一人で何でもできるから、楽になるかなって。」
Y:誰がですか?
B:「親が。」

(養護学校中等部時代についての語りから)
B:「訓練が少なくなってきて、勉強しろって言われて、きつかった。何でこんなに勉強せなあかんねんって思ってたけど、私ようゆわんかったし、いい子ぶってたから。親の言うとおりにしてたら楽やから。」
Y:「楽っていうのは?」
B:「何も考えんでも親が決めてくれる。私、ほんまはその時は、親に反対したかってんけど、それができへんかった。」
Y:「どうしてですか?」
B「いい子でとおってきたから。やっぱりそれも障害があるから、いい子にしとかなあかんって思ってたんかな。」
(中略)
Y:「いい子っていうのは、」
B:「反感をもたずに、自分の心を押し殺して、人の言うことにはいはいって言って、そういうのがいいと思ってた。」

 Bさんは自分の障害を、親との関係において否定していた。親に迷惑をかけてはいけないと思っていた。
 そのためBさんは「いい子」になったが、それは本来の性格ではないことが語りから分かる。この背景には、介助をする親への遠慮、Bさんばかりに注意がいき、なかなか親にかまってもらえなかった弟への申し訳なさがあった。

Cさん
(養護学校時代の機能訓練についての語りから)
C:「やらなあかんもんやって。嫌やけどやらなあかんって。」
Y:「どういうところが嫌やったんでしょうね。しんどかったんですか?」
C:「しんどいのと、痛いとか。」
Y:「痛いのか、、、。でもやらなあかんって思ってたんや。それは先生が何か言ったりするから?」
C:「普通の人と同じようになりたいと思ってたから。」
(中略)
C:「完全には治らへんやろけど、ちょっとはましになるって。そういうのはあったと思う。」
Y:「ましになることでのメリットって何なんでしょう。」
C:「だから、健常者に近づくこと、多分。」
(中略)
Y:「健常者になりたかったと。」
C:「なりたかったんやな。小さい時から、親にそうなるようにって言われてたから。隣のおじさんとかは、Cちゃん頭いいから本書いたらって。健常者に負けないようにって。」

 Cさんは親や周囲の健常者から「健常者に近づくこと」を求められていった。またCさんの通う養護学校では障害が軽度であり、勉強ができる障害児はエリートであり、それが目指されていた。そのような状況の中で、Cさんはその役割を内面化し、健常者に近づくことを目指した。

(和文タイプの専門学校時代の語りから)
C:「2年間通ったわけよ。3年間かな?ほんで、就職を考えていく時にやっぱり断られて。ほんで障害者のサークルの手伝いとかやってたのよ。機関誌とか和文タイプで。私それ(和文タイプ)で食べていこうって思ってたのよ。そこで頑張りすぎて寝込んでしまったの。1年間寝たきりになってしまって。
Y:「なんでそこまで頑張りすぎたんでしょう?」
C:「これで食べていく。就職したいしっていうのがあったのよね。」
Y:「そこまで何か、体壊してまで頑張らざるをえない状況だったんかな。」
C:「多分ね。」
Y:「やっぱり人よりずっと頑張らないと一般企業にはついていかれへんってこととか。」
C:「そうそう、そうやなあ。そやから遅いんやから、人の倍頑張らなあかんって。」
Y:「それで頑張りすぎて、結局ダウンしてしまって。」
C:「そうよ。でも健常者に負けるもんかって気持ちもあったから。」
Y:「その頃は自分の障害ってどう思ってはったんですか?」
C:「だから、障害があっても頭では勝てる。」
(中略)
Y:「ダウンしてしまったことで、身体的にしんどくなってきて。その1年間っていうのは、、、。」
C:「だから、もう頑張るとか、健常者にはどうやっても負けるわけやんか。だから同じように進んでも、対等にやろうと思ってもあかんよなって思ったわけよ。」

 彼女たちは健常者から求められる役割を遂行しようと努めたが、それにより身体をこわし、また精神的に多くのストレスを抱えるようになってしまった。つまり彼女たちは、社会から求められる自己のあるべき姿と本来の自己との間に生じるギャップに苦しんでいたのである。


(2) 障害への意識の変化
Aさん
 自身の障害について、特に意識したことがなかったが、障害者運動に参加していく中で、牧口一二の影響を受け、自身の障害観が変化したと語る。
(障害者運動に関わりだした頃についての語りから)
A:「やっぱり牧口さんかな。牧口さんが障害のプラス面って言いだしてたからなあ。プラス面ってなんやの?って。障害をプラスに捉えていこうって感じでゆうてはったし、あとあの、障害者専用はいらんってゆうてはったから。ああなるほどなって思ったことは何度かあったわな。」
Y:「その頃はプラスでもマイナスでもなかったんでしょうか。」
A:「そうそう、そうやな。だから改めてプラスって言われたから、あれって思ったんちゃうかな。何で私がプラスなん?って。」
Y:「じゃあ、牧口さんに会ったことで、自分の障害観っていうのも変わってきたと。」
A:「うん、そうやろなあ。変わったと思うな。」

Bさん
 親子の密着した関係からの打開策として、介助ボランティアと出会う。
(介助ボランティアについての語りから)
B:「ほんでなんとか、たまたま、友達から聞いて紹介してくれて、ボランティアを頼んだら来てもらって。そこからちょっとずつ開けていったんやけど。」
Y:「その時どんな感じでした?」
B:「思ったより世の中おもしろいって。」
Y:「どういうことがおもしろいって思ってたんでしょうね。」
B:「電車に乗ることが、親としか乗ったことがなかったから。」
Y:「お母さんとは乗ったことがあったんですね。」
B:「はい。ほんでしゃべりながら、いろんなことをしゃべって、おもしろいなって。」
Y:「同年代の人ですか?」
B:「はい。初めてこういうこともあるんかって。」
(中略)
Y:その頃ボランティアの存在ってどのようなものだと思ってましたか?」
B:「やってもらう。」
Y:「友達とかは。」
B:「そこまでは、まだ考えられなかった。やってもらう人っていう、そこまでしか考えられなかった。だから、私も22,3の時に健常者の男の人と初めて付き合いだして。向こうから声かけてくれて。最初は怯えてて、私、最初にはっきりゆうたんやんか、障害者やから同情で付き合ってほしくないってはっきりゆうたんよ。ほな相手は同情じゃないってゆうたから、それを信用して、そこからまあ、信じられるようになってきた。ほんでそれまでは、健常者とは絶対無理やろうって、友達とか対等で付き合うのは無理やと思ってたから、ほんまは怖かった。でもうまいこといったから、それからだんだん私も(友達が)増えていった。」
Y:「その出来事って一つの自信になったんかな、Bさんにとって。」
B:「そうやな。」
(中略)
B:「私は障害者やから社会なんかに出られへんって思ってたんやんか。それについて(健常者の友達は)いろいろ話してくれたよ。なんやそういうことなんかって、いろいろ出てきて。なんや私もできそうやなって。社会参加できそうやなって。」

Cさん
 1年間の療養生活の後、自立障害者と出会い、それをきっかけにCさんも自立への準備を進めていく。しかし、家族の反発、特にCさんの主な介助者であった祖母の心配がCさんの自立への意志を揺さぶった。
(祖母についての語りから)
C:「おばあちゃんももう87くらいやったんよ。で、まあ、おばあちゃんも(Cさんの)面倒みられへんっていうとこまできてたけど、私の面倒みるのが生き甲斐やから、私がおらへんようになったら、もう死ぬやろなあって思ってたし。周りもおばあちゃんが死ぬまで(家を出るのを)待っとけって。おばあちゃん捨てるんかって言われて。おばあちゃんが元気な時に面倒みさせといて、みられへんようになったら捨ててしまうんかって。私、3年くらいは待っとこかって。その間にはおばあちゃん死ぬやろし。でも友達はどっちにしても後悔するんやったら、どっちの後悔が大きいかよく考えろって。」
Y:「それで一人暮らしを選択した。」
C:「そう。やっぱり待つのはおばあちゃんが死ぬのを待ってることやん。私おばあちゃんのこと恨むと思ったのよ。やっぱり出て行きたいのに出ていかれへんって思うわけやんか、おばあちゃんのせいで。やっぱりそれは今まで面倒みてもらったのに、それはできなかったわけよ。」
(中略)Cさんが家を出た1年後に祖母は亡くなっている。
C:「だから、私がおばあちゃんを殺したことになるんやけど。だから簡単には(一人暮らしを)やめられないっていうのがあるよ。」

 Aさんはそれまで特に自身の障害を意識したことがないと語っていたが、牧口との出会いにより、障害に、より積極的な意義を見い出している。Bさんは健常者との関わりの中で、「障害者も健常者も同じやんかっていうのがわかってきたみたい」と語る。それまで障害を治そうとし、障害を否定してきたBさんは、自身の障害と「これからも付き合っていくんやな」と感じ始める。
 そして家族との関係を絶たなければ自立という自己実現ができなかったCさん、彼女は「自立するっていったら、健常者に何がわかんねんって言えることができた」と語る。CさんはBさんとは逆に、健常者とは明らかに異なる自分を感じながら、それでも障害をもちながら生きていくことを決めていくのである。


(3) 彼女たちの現在の障害についての意識
Aさん
A:「私は自分の身体、好きだよ。結構好き。」
「(好きではなかった時は)緊張きつかった時。眠れなかった時とかもあったからな、緊張でさ。それは大きくなってきてなくなったけど。」

Bさん
B:「今は別に健常者と同等って思ってるんやけど、私は障害者とは思ってない面があるなあ。」
「(障害があって)別にいいとか悪いとかいうか、もってるっていう感覚がないねん。」

Cさん
C:「(障害については)しょうがないなあ。」
「子どもの頃とかは何で障害者に生んだんやって。でも今はこれが私やから。」

 彼女たちは皆、障害のある自己を認めて生きていく。しかし障害のある自己でよかったかといえば、彼女たちはそうは思えないと答えた。

「みんなほとんど(障害)を肯定できてないわ。私だってほとんど肯定できてないわ。」
★これはAさんの言葉。

 Aさんは障害の肯定について、次のように語っている。
「肯定する、、、。否定しても、生まれてこなかった方がよかったとか思ったことないもん。それでええんちゃうかなって思うけどな。だってそんな悲しいことばっかりちゃうやん、人生って。いろんな人がいてて、その中で障害の重たさとかあってもええんちゃうかなって思うけど。全然ないのは嘘やわな。」
「(肯定か否定か)まあ、どっちがええか悪いかでいうと、私は肯定した方がええと思うけど。価値観が上か下かとか、そこまでは私思えへんから。」
「私は好きやと思ってるから、だから私は肯定したいな、とは思ってるけどさ。そこは好き嫌いで判断したらええんちゃうの?」

  障害の肯定を求めた横塚が健全者幻想を抱えたように、彼女たちも健常者社会に大きく影響を受けながら、それでも自身が望むままに生活を切り開いていこうとする。彼女たちのアイデンティティは常に揺れ動く。健常者社会の価値観の内面化とあるがままの自己への希求とのせめぎあいをめぐって、彼女たちは葛藤しているのである。


(4) 考察
 調査結果から、彼女たちの障害者役割からの脱却を困難にした要因を指摘する。
@介助における権力関係の問題
 Bさんにとって介助者である親や家族との関係を円滑に結ぶことは日常生活に不可欠な介助が安定して得られることにつながった。Bさんは介助する親に遠慮を感じ、少しでも親の負担を軽減しようと努めたのである。
 また親は家族以外の者はBさんを介助することに抵抗したために、密着した親子関係が続いた。そしてBさん自身も慣れた介助者である親以外の者に介助を頼むことに大きな不安を抱えていた。
 このような状況の中で、Bさんは家族との関係の中で役割葛藤が生じたとしても、そこから脱却していくことに困難を感じることとなった。

A障害者の生活世界の閉鎖性の問題
 彼女たちの庇護膜は家族であり、養護学校という場所だった。彼女たちは障害児者と障害児者に理解を示す健常者に囲まれて生活していたのである。
 Cさんは庇護膜を出て健常者社会にふれた時に役割葛藤が生じた。障害者を保護し、十分な配慮がなされる中で、Cさんは役割遂行の困難性や疑問に気づくことがなく、役割を学び取っていったのである。
 しかし健常者に負けないように頑張れという役割は就労先をはじめとする健常者社会では求められていなかった。障害者が社会に出ることの困難性を十分に認識させることのない保護された環境そのものにも問題があるのではないだろうか。
★「庇護膜」はゴッフマンの用語。

B障害者の生活の選択肢の狭さの問題
 障害者は教育、就労、地域生活などにおいて、健常者よりもはるかに生活の選択肢が限られている。健常者ももちろん役割葛藤は経験することがある。しかし健常者の場合は、ある役割付与者と役割を期待される個人との関係で葛藤が生じても、別の場面で自分のアイデンティティを修正・確立していくチャンスがある。一方、障害者の場合は、生活の選択肢がどうしても物理的に狭いために、あらかじめ与えられた場所でのアイデンティティの確立のチャンスしかないことが多くなってしまうのである。


IV. 結語
 これまで、障害者役割の内容と、役割付与者である健常者との関わりによって葛藤する障害者のアイデンティティについて考察してきた。最後に、今後、障害者と健常者との関係を考察していくうえで、重要であろうと考えられる視点を提示する。
 障害者は健常者から求められる自己のあるべき姿と、現実の障害をもつ身体、あるがままの自己とのギャップに悩み、苦しみ、そして自己をつくり変えざるをえなかった。障害者は、その時改めて自己についての問い直しを行っている。
 反対にこの社会のマジョリティである健常者はどうであろうか。確かに健常者も役割葛藤を経験する。しかし役割からの脱却には障害者特有の困難性がある。そしてその困難性に健常者は深く関係しているにもかかわらず、健常者は障害者と比べて、社会の規範が自身の姿とずれることが少ないために、障害者の悩みや苦しみを、健常者はみなくてもすむことができる。
 このように健常者と障害者との間には立場の非対称性があり、意識のずれがある。その違いを認識することなく健常者が「ノーマライゼーション」や「共に生きる」という言葉を語ることは多数派の論理であると考える。そこで健常者はもう一度、自身の立場、社会のあり方、依拠する価値、マイノリティに対する潜在的な差別心に向き合うことが必要であると考える。
★健常者の立場ってなんだろう?と考える必要。障害者との立場の違い(非対称性・意識のズレ)はかなり大きい。単に同化することによって隠されてしまう問題がかなりある。システム作りと共に問い直していく必要がある。


【15:10-15:25 休憩】

【15:25-15:42 田垣さんコメント】
 社会福祉学でのこうした研究は勇気がいるし意義がある。
 障害者同士の関わりについての研究は少ない。海外でも心理学分野ではない。
 文献+ライフヒストリー。ライフヒストリーという方法論の長所を生かすには、仮説をデータから引き出していくという方法もある。
 障害の肯定・否定に関するAさんの語り(p.7)。実際はどうなのかを出していく点で意義あり。
 しかし、「役割」「アイデンティティ」「自己」どう違うのか?自分の考えだけでも出しておくほうがよい。たとえば「自己」は場面や状況によって変わると今日では捉えられている。
 また、3人のライフヒストリーを一般化する際の限界に関して書いておいたほうがよい。
 今後、どの分野でこの研究を発展させていくのか?
 障害の認識は二分法では捉えられない。肯定しているところと否定的に見ているところを、場面や状況に応じて研究していく方法もある。
 スコットの「内的世界の厳粛さ」とは?
 Cさんの「本来の性格ではないことが語りから分かる」と断言してはいけない。「と解釈できる」ということ。生活をメタ化した表現を使った方がよい。
「しょうがない」「仕方がない」はどういう意味なのか聞いてほしいところ。
 文献リストがほしい。

【15:42-16:45 質疑応答】
(D)せっかくのフィールドワークが生きていないと思う。「役割があります」ということを結論にしても、それは当然のこと。障害者役割は一つではない。例えば「がんばれ」もあれば「がまんしろ」もある。重層的なものなので、それぞれを具体的に記述した方が実相に迫れる。
 障害者による「役割の使い方」も考えていく必要がある。たとえば横田弘さんの「おかわいそうで結構じゃん」(「さようならCP」の中の言葉)も面白いやり方。与えられた役割の中で、逆に居直ってしまうという使い方・戦略もある。具体的には、たとえば訓練。どのような重層的役割を与えられ、訓練に誘われていったか、その役割をどう使ったか、などを見ていくと面白いだろう。
(F)障害ということが役割ということにあてはまるのか?役割というのは仮面・ペルソナであり、つけたり外したりできるもの。障害はそうはいかない。
 なお、私たちはこうしてここに集まってきているが、障害者に与えられた究極的な役割が、自分たち障害者が障害者の痛みを分かち合うということだけならば、障害者のコミュニティの中での堂々巡り・悪循環でしかない。そこから抜け出さなければならない。
(A)方法への疑問。依頼書の内容がわからない。過去といっても、確定した過去ではない。力点を置いて伝えたい部分は変わる。依頼に応じた意図があるはずで、そこにこだわる必要がある。違う人に話していれば変わったかもしれない。意図とは違ったことが見えたところがあるか?

(山下さんリプライ)
 初めての調査なので、まだまだ勉強しているところ。ありがたい指摘。役割の重層性・戦略はうまくつかめなかった。
 障害者が役割という仮面をつけたり外したりできないのはなぜかをもっと考えていきたい。3人だけでなく、もっと沢山の人に聞いていかなければ。
 依頼書の内容は、目的(修士論文のためということ)・問題意識・インタビューの方法などについて。インタビューした1年前と今とでは違うだろうし、障害者同士だったりすればまた違うはず。学生に教えてあげるとか、介助者を追いつめないように、といった配慮があったかもしれない。

(F)障害は役割という概念にあてはまるのか?と聞きたかったのだが。障害は自己の本質をかなりの部分まで規定している存在条件。役割というような軽いものではない。役割ならやめることもできるはず。
(A)「障害者性」と呼ばれていたものが「障害者役割」になった?
(G)「障害があるがゆえに」というのは医療モデル・個人モデルでは?
 役割概念は、それにとらわれてしんどい思いをしている人をそこから解き放って楽にする道具として役に立つ。
(B)障害者の役割は、何に対する、誰に対するものか、を考えれば見えてくるものがあるはず。家庭において、社会において、など。役割の定義を初めに記すべき。
(C)「障害があるゆえに」というのにやはり疑問を感じた。「障害者の生活世界の閉鎖性」で、養護学校は、チベットの盲学校のように、座敷牢のようなところに押し込められているところから連れ出す機能もある。
 また、Cさんは頑張りすぎて身体をこわした(→健常者なみに)ということに表れた役割と、就労できなかった(→働かなくてよい)ということに表れる役割は、両方とも障害者役割として使われているので、「障害者役割からの脱却」ということとどう結びついているのか?
(H)3人の方が自立しようと思ったわけと、調査者が理解している障害者役割がどのように変化したと認識しているか?
(I)「自立生活プログラムでは解決されない」とは?

(山下さんの再リプライ)
 定義等、勉強が足りなかった。「障害があるがゆえに」というのは間違っていた。医学モデルではなく、障害が社会においてマイナスのレッテルを貼られているといいたかった。
 3人の方が自立しようと思ったきっかけは、Aさんは障害者運動の影響で、グループホームを経て自立生活へ移った。Bさんは親が高齢化で介助できなくなった。Cさんは最も早くて、2つだけ年上の自立障害者との関わりから。自立生活の前後でとくに変わったわけではない。
 「自立生活で解消されない問題」ではなくて、社会福祉で学んできた施策や制度によって解決されないということが、自立生活プログラムでむしろわかってきたということ【記録者注:記録者の誤筆記であったことが明らかになる】。たとえば外出のプログラムで気づいた。

(J)ライフヒストリーの聞き取りに当たって、「健常者」が「障害者」のライフヒストリーを聞く手続きで注意するべき点は何か。具体的に聞き取りをしてわかったことがあれば教えてほしい。
(山下)調査を始めてみて「健常者として聞き取るとはどういうことか」ということを意識したので、最初の手続きとしては考えていなかった。

(K)障害者役割と病者役割との違いは?病者役割は病気から回復することによって外せるが、障害者役割はずっと継続する点が異なるのか?
(山下)きちんと踏まえていなかった。次回はきちんと答えられるようにする。


参加者 計35名(うち手話通訳2名、介助者1名)


UP:20090717
全文掲載   ◇障害学研究会関西部会 2000   ◇障害学 2000
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