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私の体験から、エンパワーとケアマネジメントを考える

長野英子 2001119・1123 
ケアマネイジャー養成講座,久留米障害者生活支援センター



「精神障害者のエンパワメントとは」(第4日目)11月19日
「ユーザーからみたケアマネジメント」(第5日目)11月23日

B「精神障害者のエンパワメントとは」 長野英子先生
(第4日目)11月19日 資料


2000年11月19日   長野英子

☆日本の精神医療の実態および私たち「精神病」者のおかれた現状
 社会からの追放と隔離拘禁の体制としての精神医療体制
 人を誘拐し監禁し時に縛り上げることが合法化されている体制(=精神保健福祉法体制)
 刑事施設に監禁されている人数の約5倍の人間(約34万人)が実質的に精神病院に隔 離拘禁されている。強制的に監禁されているにもかかわらず貧しい医療体制(差別的人員配置、低い医療費)
 毎年のように暴露される精神病院の職員による患者虐殺、虐待(暴露されるのは氷山の一角)
 精神保健福祉法体制下の強制入院制度は非常に恣意的な物でチェック機能もほとんどない。(入院制度コピー参照)
 一人の人間を拉致し終生監禁することが合法化されている。(昨年法改定時の強制移送制度の新設)
 法的差別(差別欠格条項)、社会的差別
 地域精神医療体制という名の地域における監視管理体制の強化(コピー通報制度参照)
 地域そのものの精神病院開放病棟化
 診断名を付けられることが、即烙印として機能し、社会からの排除を合理化している実態
 
☆私の体験
@精神医療体験
登校拒否という状態から医学化され精神科にかかったのは16歳の時
 性差別的な精神科医、沈黙を守ることで内科へ回される
内科でどこも悪くないということで再び児童精神科へ
「這ってでも学校に行け」「学校に行けないのは甘えているから」精神科医の発言
 医師、教師、家族全て私が悪いだから学校に行けないと非難する
1970年17歳で入院
 だまされて電気ショック
 「何かあったら保護室には行ってもらいます」
電気ショックのため朝食時に倒れ大学病院へ転院
 この科に来る人は皆情緒未熟だ 未熟な人格
 エピソード「眠れますから薬はいりません」「眠っているつもりでも寝ていない」
 感情、思想、感覚まで全て「症状である」という思い込み
20歳で精神医療を拒否22歳で大学進学、
卒業後就職し再発以降現在も精神医療にかかっている
 今の「症状」は医療過誤(あるいは過誤ではなく精神医療自体が内包している誤り?)によるものと確信している。いわば精神医療の虐待を原因とするPTSD(心的外傷後ストレス障害)が私の病名であると思う。

A全国「精神病」者集団との出会い 私のエンパワー体験
 反保安処分の集会で全国「精神病」者集団のメンバーがアピールをしていた。
 「キチガイがしゃべっている、キチガイもしゃべっていいのだ」
 全国「精神病」者集団の紹介で地域の患者会に参加
 そこで仲間の一人が怒っているのを目撃
 「キチガイも怒っていい。感情表現してもいいのだ」私にとっては革命的自己変革
B私にとっての全国「精神病」者集団と患者会(セルフヘルプグループとして)の意味
*「精神病」者であることを隠さないですむ
 単に「精神病」者であるという事実を隠さないですむということだけではなく、「精神病」者としての感情や思想、あるいは「症状」といわれるものを隠さないですむ
*自分の感情や思想、感覚を全て「症状」として相対化して、感情表出を常に検閲していた自分からの解放。「自己否定」からの回復
*体験の共有と学習
 自分は孤立していない、仲間がいる
*精神医療への怒りの共有 
 精神医療の体験の共有化とそれに対する怒りの正当性の確信
 そしてその怒りを現実化して仲間と共に闘うこと
*助け合いによる自己の存在理由の発見
 全否定された自己の能力の再発見 潜在能力の開発
 総じて精神医療によるPTSDからの回復は精神医療では無理で患者会においてのみ可能であると確信している。

☆エンパワーとは、そしてそれでいいのか、あるいはもっと遠くまで
 「エンパワー」という言葉自体が外国から来た言葉であり、立場により人によりいろいろな意味で使いあるいは様々な思いを込めて使われていると思うが、私が自分自身の体験から私たち「精神病」者にとっての「エンパワー」とはと考えると、全国「精神病」者集団との出逢いの中で私が獲得したものだと考える。すなわち「自己肯定」であり「誇りの回復」である。すべて精神医療が奪い否定してきた物を取り戻す作業である。
 「自己肯定」と「誇りの回復」があって初めて「いやなものはいや」あるいは「こういうものを望む」という自分の意志に基づく拒否と要求が可能となり、自分なりの生活を作っていくことが可能となる。それが私の「自立生活」であり、この過程が「エンパワー」だと考える。
 確かに私は患者会活動の中でそうした「エンパワー」をえた。
 しかし一方で地域で自立生活を送り自立していかなければならない、主体的で自己決定できる人間にならなければならない、という人間像を理想に掲げ、そのためにエンパワーを、というとしたらそれでいいのか?という疑問もある。一つはなぜ「精神病」者とレッテルを貼られたらそんな立派な人間にならなきゃいけないのか?という疑問。今一つは「自立」「自己決定」結局は専門家の自己正当化の言い換えではないかという疑問。専門家が「自立」を押しつけていいのか? もちろんわれわれ自身仲間にそれを押しつけてはならないのではないか?
 「キチガイ解放」の視点から言えば、「自立」も「自己決定」も「主体的人間」も健常者文化の産物であり、全く違う「人間のありよう」「キチガイ丸だし」の生活を肯定させていくことも必要ではないか? それこそわれわれのエンパワーではないか? われわれの少数者の文化に基づく生活もあっていいではないか? さらにそれを支えるサービスは当然必要ではないか? 既成の現存する社会に適応することだけをなぜ求められるのか? 適応を支えるサービスしかなくていいのか?

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 今回私はあえて「精神病者」の自分を「キチガイ」と差別表現しました。
 「キチガイ」とは「気心が知れない」「気脈が通じない」の「気」が健常者と違っているところから「気違い」と言われます。私側でも健常者とは「気」が違いますので、皆さまのことをあえて「気違い」ともうしてもいいはずですが、言われたときにはどう感じますか?
 愛知 大野萌子 ( 全国「精神病」者集団ニュース2000年8月号より )
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☆自分たちの福祉追求についての経験
 「生きのびること」が患者会の大前提であり、そのため患者会活動の一つとしての福祉権追求という位置づけになるだろう。これは「キチガイ解放」などという遠い問題ではなくて、まさに生命の問題として緊急に必要なこととしてやってきたことである。
 患者会の中で仲間のために本人に協力するとしたら、あくまで本人の希望を叶えるために情報の提供(下記にあるように単なる制度の情報ではなく、その制度を使って実際にどういう生活をしているかという仲間の生活実態モデルの提供)および本人の利益追求の同行人
主に生活保護と障害年金
@障害年金や生活保護をとることへの抵抗
 すでに取っている仲間の存在
 「ファントムに行くか福祉に行くか」
 収入の意味 
 「薬以上の効果 金は症状の3分の1以上を解決する」
A私たちのやり方
 ・ゆっくり話を聞く。何度も時間をかけて
 ・「メモをとっていいですか?」
 ・本人に関する資料はメモも含めすべてまとめてノートファイルして本人が保存
 ・仮にしんどいからやってほしいと言われたとしても専門家あるいは福祉事務所等との接触はすべて本人同席
  電話も本人の目の前で電話する
 ・他者あるいは専門家たちとの交渉
   ある例 生活保護受給中の仲間 環境が悪いので引っ越ししたい
       仲間2人および本人が会議をする
       本人がすることとしては家族、主治医、介護者それぞれにしてもらうことに付きレジュメを作る
       これを1枚のレジュメにまとめた
       本人にこれを見せてそれぞれに要求するようにという
       本人は主治医には、主治医の部分だけ切り離して渡した        なぜか?

【質疑応答】

質問者A「私も精神病院に12回入りました。
変だなと思った部分が2つありました。一つは薬の量が多くて吐いて、げっそりやせて、本当にきつい時期がありました。父と母が面会に来た時に、病院が面会を拒否したんです。今から思うと、父と母が私を見たら、内科に移すだろう、とすると、精神病院は損になるから会わせなかったのではないか、と思うのです。
もう一つは、高校の時に猛勉強して、大学へ2番の成績で入ったんです。スポーツも勉強も頑張って、友人からも認められていましたが、オーバーヒートしてしまって、精神病院に入ったのです。すると、看護婦さんが私を軽蔑した目で見下ろすんです。入院した当初は自信があったのですが、自信がだんだんとしぼんでいって、入院前までアルバイトしていた所の責任者は「退院したら、また働きにきてくれ」と言ってくれていたのに、いざ、退院するころには「自分はもう仕事はできないんだ」と完全に自信を喪失してしまいました。
看護婦さん(精神医療)によるPTSD(心理的外傷)ではないかと自分では思っているのですが、どうでしょうか?」

長野「基本的には、そうだと思います。むしろ、私の仲間で精神医療によってPTSDで苦しんでいない人の方が、例外だと思っています。」

質問者B「PTSDという言葉がわからないのですが。」

長野「心的外傷後ストレス症候群と言いまして、神戸の地震のあとに結構マスコミに載ったと思うのですが、大きな災害とか犯罪に遭ったときに、体も傷つくけれど精神的にも傷つくのだ、ということです。精神的な傷は、体の傷のようには早くは治らなくて、そのあとも様々な症状を障害として残すのです。精神病としての一つの種類の概念です。」

質問者B「ファントムというのはどういう意味ですか?」

長野「講演の中で話をしました、“ファントムに行くか、福祉にいくか”というのは、自衛隊のファントム戦闘機に金がつぎこまれるか、それともあなたの生活費にお金がいくか、という意味です。自衛隊に金を入れるくらいならば、我々の生活保護を皆で取ろう、という意思表示です。」

質問者C「長野さんの影響かどうかはわからないのですが、福岡での文書の中に、“少数者として生きよう”という言葉が、以前よりよく使われます。そのことをよく話される当事者もいるのですが、私もその一人なのですが、よくよく考えてみると、こう思うのです。
“私、病気なんだから仕方なかよ”という感じで生きているのは確かにあるのです。
当事者集団が活動するときも障害者ゆえにそれを出していっています。しかし普段の生活を考えると、家賃を納め、(云々)しつつ、市民として暮らしていると思うのです。そう考えると、当事者達は長野さんがいう“少数者として生きている”とも言えないような気がするのですが。地域の中に混ざりこんで生きていると思うのです。集団となったときに、ある種のカラーが出てきて、エンパワメントしていくような形になっていると思うのですが。どうでしょうか?」

長野「良いご指摘を受けたと思います。先程の私の話に付け加えるとすると、“すべての精神病者が解放運動をしなくてはいけない”と言うわけでは決してないのです。あるいは解放運動した人だけが、自立をできる、などというつもりもありません。中井久夫の「世に棲むむ患者」という本がありますが、その中でもいわれています。生き方は100人いれば、100通りあるわけです。誇りの回復の仕方もいわゆる“セルフへルフグループ”だけでなくてはいけないことは、全くないのです。ただ、PTSDに関しては“セルフへルフグループ”でないと無理だとは思うのですが。「それだけ」じゃない人もたくさんいると思います。世の中で自分の生きる才覚をもつ精神病者は実はたくさんいると思いますよ。いろんな場所にひっそりと紛れ込んで世に住んでいる方はたくさんいらっしゃるんです。
210数万人といっているくらいですから、患者会に組織されている人はむしろ例外と言った方がいいわけです。“セルフへルフグループ”に支えられているわけでなく、アンダーグラウンド的な所に自分を支えるものを持っていらっしゃる方もたくさんいます。それをもっている病者はたくさんいると思うのですが、それをつぶす医療だけは止めて欲しいと強く思います。それをそっと支える医療があれば、“セルフへルフグループ”だの、病者集団など、病者解放だ、とそれほど言う必要もなく生きていけるのではないかと思うのです。
ただ、私もそうなのですが、病者集団と出会わなければ、ひっそりと隠れ住むことができなかった人も確実にいるのです。そこでは私もたくさんのものを得られたし、また、そういうタイプではない人間もいますし、これほど精神病者に対して弾圧が強くなっている所では、闘う人間も必要だと、でも、全員が闘う必要もないということです。」

質問者C「つくづく私も同感する部分が多いです。でも私自身は“医療で支えよう“という考え方には懲りているところがあります。地域の中で一市民として、気が付いたらひっそり生きていたという感じの方が良くて、医療に関わるのはごめんだ、という気持ちがあります。」

司会「病者で運動している人が、24時間運動している(闘っている)と誤解されている部分が多いのかな、とも思いますが。長野さん自身も地域生活をする場面では、どんな場所でも“患者”と名乗っているわけではないだろうと、思うのですが、その辺りを話していただけたらと思います」

長野「確かに、私の病状が重くて視野が狭くなっている時は、24時間闘えますか、という時もあります。そういう時の私の活動量は健常者の何倍も動いていると思いますが、“そう”状態というわけではなく、追い詰められて使命感に燃えて働きつづけるという具合です。それ以外で、だいたい今の状態で私が働けるのは、1日3時間ですね。病者集団は、一人を除いて年に1回は入院しています。結構、病気の重い人間が集まっておりまして、24時間闘うなどということは物理的に不可能ですし、全人格が“活動家だけ”というほど人間的に貧しい人間でもないですし。いろんな側面をみんな持っています。ある時は、酒飲みおばさん、ある時は芸術家・・いろんな方がいろんな側面を持っています。」

質問者D「インターネットをしている東北の人が、ネットを通じて東京の人にコンピューターを壊されたそうです。僕などが書き込んだことを、全く関係がないのに“自分の悪口を言った”というような人で、医者にも行ったのですが“医者もグルだ”と言って、それきりなんです。僕が“医者に行った方がいい”と遠まわしに言うので“おまえも敵だ”と言われて、僕もいやになって関係を切るしかない状態なのですが、彼が医療を受けるようにもっていく方法とか、待つしかない、とか、どういう方法が考えられますか?」

長野「私の力量では、そばにいて、直接つきあえる範囲以外だと、どうしたらいいのかな、と迷いますね。何ができるかな、という感じですね。待つしかないですね。最低限の食事と睡眠がどうなっているか、近くに住んでいれば会えるけれども、遠くにいるとなるとどうするかな・・・。ごめんなさい、お役に立てなくて」

質問者E「ろうあ者の精神障害者の入院者とのコミュニケーションはどのようにしたら良いのでしょうか? 重複障害ということなのですが」

長野「車椅子の身体障害者で精神障害者に対応できる病院はまだあるようですが、手話ができる医者って本当に少ないのですね。私の利用した病院では“自分の患者に聴覚障害者がいる”といって必死で手話を勉強しているドクターがいましたね。むしろ私の方が当事者の方に指導していただきたいくらいで、特に精神病を重複障害としてもっている聴覚障害の人とコミュニケーションが取れないのは、致命的だと思いますね。いろいろなコミュニケーションができる医療従事者がいる病院をさがすしかないという状態ですね。私もきちっとした知識はありません、ごめんなさい。」

質問者F「精神病者にとってケアマネジメントは本当に必要でしょうか?」

長野「私自身、ケアマネジメントのテキストは差別文書だと思っています。この本を読んでも私にとってケアマネジメントが必要だと思う理由が一切わかりません。ありうるとすれば、情報の提供と福祉権に関しての権利擁護官にケアマネージャーがなれば、まだわかります。
権利擁護官というものはオンブズマンではないということを木村朋子さんがお話されたと思いますが、権利擁護官というのは、例えばオランダの権利擁護官制度というものがありまして、精神病院の入院中の患者の権利を守るために、患者の権利擁護官という制度が法的なシステムとしてあります。この患者の権利擁護官というのはですね、決して入院中の患者について審査をする人では無いのです。強制入院中の患者が“出たい”“外で暮らしたい”と言ったら“あんた無理だから、もうちょっと病院にいなさい”なんてことは一切言ってはいけないのです。自分の意見を持ったり、主体的に動いてはいけないのです。患者の意向を達成するためにひたすら動く人なのです。どちらかというと代理人・弁護人に近いです。自分の意見は持たずに患者の意向の付添い人なのです。こういう福祉権に関する患者の権利擁護官にケアマネージャーがなることは良いことだと思うし、必要なことと思います。
ただ、今、福祉の予算が限られている中で、こんなサービスをつくるよりは、むしろ福祉サービスを増やした方が、あるいは障害加算を上積みするとかして、実際にふところによりたくさんのお金が入るようなことに金を使う方が、よいのではないかな、というのが私の感想です。」
  (テープ中断)

長野「・・・だけど、放っといてくれと言われても、実際にホームレスと言われている人たち、そこには私達の仲間もいるわけですが、ばたばた死んでいると言うか、殺されているわけですね。人が死んでおいて、助け合いも病者開放もないわけですから、放っといてくれということもマズイ側面があるわけです。そういう意味で私達は「助け合い」と言う意味で福祉の追求もしてきました。私達には理論も専門知識もありませんし、むしろ本能的に「仲間が食っていくためには何がいるか」ということがまずあって、金が要るだろう、ということがあって、「今日、食うものがない。今日、寝る場所がない。病院に行きたいけれど医療費がない。医療費どころか医者に行く交通費がない。」と生活保護以下で暮らしている仲間は大勢います。そういったときに患者会としては「生存権の追求」を大前提に掲げてやってきました。患者会の中で「仲間のために何ができるか」ということを考えたときに、まず本人の希望を叶えるために私達が何をできるか、行政・役所としてはどういうことが出来るか、どういうサービスがあるかという情報提供ができます。精神保健福祉法32条の他に、高額医療費の負担制度のこととか、生活保護のこと、障害年金、その程度のサービスしかないので、そのくらいの経験しかありません。情報提供と、自分は本人の同行人・付添い人ということをやってきました。まずは、障害年金や生活保護を受けることにとても抵抗を示す仲間は結構います。やはり障害年金をとったら「きちがい」と呼ばれて、差別されて自分に対する周りの見方が変わってしまうのではないか、あるいは生活保護をとったら人生おしまいじゃないか、生活保護なんてみっともない、そういう言い方をされる方がいらっしゃいます。情報提供というのはそういうシステムを紹介するだけではなく、そういう気持ちにつき合わなくちゃいけないんです。
私も年金2級を取っていますよ、年金を取ったといって差別する人がいたら、やはり差別する方が悪いのだし、障害年金をもらっているからといって年金2級のバッチを付けて町じゅうを歩かなくてはならないわけでもないと言っています。私自身もつねに精神病者として自己主張して戦っているわけでもありませんし、地域で過ごしていく上で“あなたお仕事、何しているの?”と聞かれたら“パソコンの入力しています”と嘘をついて、余計なエネルギーを使わないようにしたりしています。ごまかしかたのテクニックとか、生活保護を受けていても、予算をやりくりして、こういう生活をしているんだよ、自分の誇りを否定することなく生きられるんだよということを一つのモデルとして私達は仲間に指し示すことができます。これも一つの情報提供で、非常に大事なことだと思います。
“お上の世話になるのは嫌だ!”と言う人には、先程の“(お金が)ファントムに行くか、福祉に行くか“と言う話もします。戦争の為に武器を買うよりも、福祉に金を使った方が平和利用だ、と。皆で福祉から金をもぎとろう!と言った調子でです。固定収入が入るということが、どれだけ私達の病状に大きな効果をもたらすか計り知れないものがあります。薬よりも効果がありますね。私の場合は、半分以上病状が良くなりましたね。
仕事する→具合悪くなる→辞める→入院する、これを何回も繰り返していましたから、“年金を取る”と自分で決めたときは、気が楽になって本当に病状が良くなりましたね。金、は非常に効き目のある薬ですね。こんなことを、話したりします。緊急の場合は別ですが、
時間があるときは、ゆっくり話を聞く、何度も会う、ということをしながら付き合っていきますね。
メモを取るときは“メモを取ってよろしいですか?”と必ず聞きます。相手に許可を求めてから、です。本人に関する資料は一冊のファイルなどにまとめて、本人に持っていてもらいます。“しんどいから、やってほしい、一緒に行ってほしい”と言われても、やってあげるのではなく、必ず本人と一緒に行き、電話をするときも本人の目の前でします。
ある例ですが、生活保護受給中の人が住んでいるアパートの環境が悪く、騒々しいために夜も充分な睡眠が取れない、引越しをしたいという希望を持っている人がいました。生活保護のワクから引越料から何から出させなければいけない、ということで仲間二人と本人とで相談し、確認をして、制度からお金をとるための1枚のレジュメを作りました。
家族にはコレを、主治医にはコレを、介護してもらっている人にはコレを、してもらってください、というレジュメを作り、それぞれの人に見せて理解してもらおうということになりました。彼は主治医のところに行ったとき“主治医”という記述のところだけ切り取って、見せたのです。“どうして?”とつい聞いてしまったのですが、愚問でした。彼は全体像を主治医に知られたくなかったのですね。彼の人脈とか仲間、家族などがその書類には書かれてしまっていて、それを知られるのを避けたのです。これぐらい、私達は回りに関する情報に関しては慎重ですし、防衛意識はあります。私にとって、非常に鈍感だったなという失敗例として、はっきり記憶しています。
そういう意味でケアマネジメントのガイドラインなどを見ると、私はとっても許せないと言うか、信じられない、こんな無神経なことを誰が書いたんだ、と理解できない思いです。こういった情報に関する私達の神経の使い方、デリケートさ、過敏さを理解してもらわなければ、とてもよい関係を保つなど無理な話だと思います。この辺が非常に専門家はルーズです。専門家は守秘義務なるものを訓練されているはずなのですが、専門家どうしになると非常にルーズになってしまうのですね。私が、逆に専門家に信頼されたということも稀にあるのですが。こちらから“それは私は聞いてはいけない話です”といわなければならないような専門家もいます。弁護士の方がその点はしっかりしていますね。この点がケアマネジメントに対して危惧を持っている点です。」

質問者G「僕は福岡県の○○で仲間と活動しているものです。僕達が主張するときに、周りに対して“偏見、劣っている”といった卑下を持ってしまったり、親も周りとの接触を避けようと仕向けたり、行政の人にも偏見があり、それを知らしめるために周りに主張したいのですが、どういう点に気をつけたらいいのか教えて欲しいのですが。」

長野「私自身、自分は何もできない人間だということをいつも感じていて、病状にも波があることを感じていますが、私自身は本を読むのが好きで、病者集団が書いた本や吉田おさみという人の絶版になってしまった本、病者集団に投稿してくれる人が書いた本など、仲間の体験というものが私を一番励ましてくれました。病者の方もずいぶん、本を書いています。彼らの体験と言うものが私を救ってくれる部分が多々あります」

質問者H「(身体障害のケアマネージャーの受講者です。)生活保護や障害年金の受給について自治体に問い合わせに行きますと、現在“暴力団などの不正受給対策”などで生活保護の用紙さえ窓口に出していないというのが現状のようです。用紙の記入ぐらいまでは行政に頼むということで運動をしたのですが、なかなか理解が得られず苦慮しているところです。対自治体闘争とか福祉の金を削っていこうという意向が見え見えで、政治的にも高まっていかなくては小市民ではお手上げ状態で、自治体の壁を破るテクニック、その辺についてのコメントをお願いしたいのですが」

長野「政治的な戦いは非常に必要だと思いますが、その前提となる“一人一人の具体的な権利”を徹底して守る、“この人間を飢え死にさせてはいけない”という一人一人の具体的な権利の裏付けがあっての、政治闘争だと思います。」

質問者H「権利とか人権というものを常に手の内に握っておかなくては、ならないということになりますよね」

長野「そうだと思います。それに生活保護法の理念と言うものは、立派なものだと私は思います。運用で改悪されているわけですし、通達は法の精神から言ってどうか、ということですが・・・。基本にあるのは、憲法の生存権です。この人が飢え死にするのを見過ごすのかどうか、これは生存権である、と言えば福祉のケースワーカーだって“違う”とは言えないのです。少なくとも私はその建前だけは言いますが、お宅の地域はそれどころではないですか? 具体的な一人一人の権利を守るということを私は中心に据えています。」

質問者I「32条の申請をしたい、と主治医に言ったら“そんなことをしたら、天皇が来るときの取り締まりの対象になる”とか言われて、今のところ公費負担を見送っている人がいるのですが、手帳のデータが警察に蓄積中だということを、人から聞いたのですが、その他、公費負担とか年金とか、警察の資料の出元とかがどこからなのか、その辺がわからないのですが、教えていただけますでしょうか?」

長野「80年ごろまではね、“天皇が来る”ということになると、警察が管内の保健所に“そちらの精神障害者リストを出して下さい”と文章で出したような、のんびりした時代もあったのですが(笑)、ただちに“こんな文章を警察が出した!”という糾弾闘争をしたものですから、最近の警察は上手くやっていて、どこで資料の収集をしているのかは知りません。32条にしろ、年金にしろ、生活保護にしろ、福祉と言うのは必ず登録と引替ですから、福祉を利用しようとするならば、権力によって登録されるのは事実ですし、その登録された情報が“絶対に守秘義務で、外部に漏れない”などと信じられる、のんきな時代ではないと私も思います。
そういう意味では、必ず警察が利用しようと思えば手に入れられるルートは存在すると思います。だから“福祉は全部拒否する”という論理もいえると思います。ただ、私はあまりにも非現実的な論理ではないかとも思います。外国でもこういう考え方はありまして、“犯罪を犯しても福祉の世話にはならん!”というような方針の団体が昔あったそうですが、あまりに失うものが大きすぎますね。少なくとも今、日本でそれをやるとすれば・・。生きるために何が必要かとなると、私は生活保護や年金を人に勧めざるを得ないし、それに代わる手段がないときは、仕方がないなと思っています。手帳に関しては、手帳を取るか、取らないかでそんなに情報の被害が及ぶとは思えません。手帳を拒否して、32条を取っておいて、“私は登録されていない”と思うことは危険だと思います。」

質問者J「精神科のデイケアに勤務しているものです。20年精神科に勤務していたので、
長野さんがもっともなことをおっしゃっていて、すばらしいな、と思いました。精神病院は長野さんがおっしゃるように、その通りだと思います。
一つ教えてほしいのですが、これが制度化されてくると、私達、生活するためにこの制度をやらなくてはいけないと思うのです。当事者の方々の話を聞いておりまして、この手法でいくと病院で聞かれて、私達からも聞かれて“せからしい”と思われて、病状にも影響が及ぶんじゃないかとも思っています。一体、どの辺りにポイントをおいて、進めていったらいいのか、アドバイスをお願いしたいのですが。」

長野「私はこのケアマネジメントが試行事業であるので、全国の試行事業を行っているところから“こんなものは上手くいかなかった”という報告を挙げていただきたいと思っているのです。
それでもやるということに決まったら、お互いゲリラになりませんか。“上に政策あれば、下に対策あり”。アセスメントなんてやったふりすればいいじゃないですか。
要するにお上は書類をそろえればいいのですよ、でしょう? 意外と健常者の福祉関係の方は真面目なんですけれど、こんなものは書類さえそろえればいいのです。やらなきゃいいんです。」

質問者K「こんなケアマネジメントやらなきゃいい、という話なんですけれど。当事者はケアマネージャーとして、事例を作ろうとしているわけで、久留米では当事者にケアマネジメントの講習を受けさせているわけですね。そうなればいくらか違うと思うものですから僕らもこうやって来ているわけですが、最低限、長野さんから見て、ケアマネージャーが当事者だった場合、偏ってはまってしまいがちなところがあると思うのですが、被害的な部分があるものですから。長野さんから見て、“当事者のケアマネージャー”にこうした点は注意した方がいい、という部分を指摘してほしいのですが。」

長野「当事者がケアマネージャーになった場合、うーん・・。先程も言ったように、私はむしろ患者本人の権利擁護官、主体性を持たない、というくらいの意識の方がいいと思います。ただ私は、当事者がケアマネージャーになることに対して、非常に、なったらなったで苦しいだろうし、全国の組織が“ケアマネージャーは当事者しかなれない。しかもそれを支える当事者団体がある”という体制にでもならない限り、(身体の方は理論もあって、自立生活支援センターもあって、組織もあって、全国の組織もあって、その上での当事者がケアマネージャーになるというところですが)孤立した状態でケアマネージャーになるのは、苦しいだろうなと思います。本当にそういうことが必要かな、とも思います。私には何度テキストを読んでも、このケアマネジメントの必要性がわからないので、実際、世の中に出て行ってみないとコメントのしようがないのですが。」

司会「受講者の中には、こんなにケアマネジメントを批判する人がなぜ、講師なのだろう?と疑問に思われる方もいらっしゃると思います。あくまで試行事業でして、新たなサービスには危険性がつきもの、ユーザーからどう見えるのか、ということを研修の段階で、きちんと学んでいきたいというのが私達の趣旨です。
なんで“ケアマネジメントはすばらしい”という講師がいつになっても、なかなか来ないのかなと思われるかと思います。感想の中にもそういう率直なものがありました。長野さんが批判するのは当然だとしても、先日の門屋さんにしろ、木村さんにしろ、“なあに?このケアマネは?”とテキストを書いた人自身が“変だ”と言っています。そういう危険性も可能性も含んだ制度であることを受講者に考えていただき、しかも当事者が横に座っていて、情報をもらいながら、一緒に検討していきたいと思っていますので、“そういう試行事業の研修なのだ”というご理解をして下さい」

C「ユーザーからみたケアマネジメント」長野英子先生(第5日目)11月23日 資料

☆ケアマネイジメント批判
*テキストを読んだ結論「これは我々に対する差別文書である」
 「期待される自立」「期待される精神障害者」像の押しつけそのもの
 アセスメント(査定)は何を査定するのか? 建前では本人の「ニーズ査定」といっているが、じつは本人を「査定」しているではないか。
 とりわけケアアセスメント票の「配慮が必要な社会行動」欄はまるで車椅子を使う障害者は歩けるようになるのが「自立」といっているのと同じ
 さらにこれを広く配布するなら、「精神病」者というのは「こうした点までチェックしなければならない人たちなのだ」という偏見を広めるだけ。
 「訓練」「教育」を押しつけてきた精神医療と同じ
 今度は福祉が「教育」「訓練」を押しつけていく
 エンパワーどころか精神医療が押しつけてきた「自己卑下」「自己否定」を上乗せするだけ
 さらに悪いことにその過程において「本人の同意」が巧みに利用されている。
 「自己決定」は少なくとも「強制」に対する抵抗としての意味であり、それ以外に今まで「強制」してきた側が使うのは、「する側」の自己正当化と自己満足への盗用
 ビデオを見ると要するにあれで楽になったのはサービス提供側だけであり、本人は彼らのために奉仕してあげたというだけの話。

*この事業自体への疑問
 私たちが生き延びるための最小限のサービス(コピー参照および添付資料参照)すらないのが現状。「できないこと」を「ニーズ」というならそれを補うサービスが存在することが前提。それもないのに何をマネイジメント=管理するのか?
 物理的に限られたサービスの「効率的分配」はっきり言えばサービス希望者の選別が目的でない限り、なぜこれが必要なのか? 本人の希望が叶えられる制度的保障は現実にない。その上財政的裏付けも一切ない。そうだとしたら地域での「精神障害者」管理が目的ではないか?

@本人の「ニーズ」中心?
 本人の希望、要求=「ニーズ」ではないことに驚く
 ケアマネージャーによる「ニーズ」決定少なくとも評価
 障害とは何か?それは専門家が決めるのか?
 日常生活を送っている本人の「困っていること」それから出てくる本人の希望こそ「ニーズ」ではないのか?
 テキストでは「ニーズ」の類型化および説明がされ、それが「本人の希望」とイコールではないと説明されているのに、後半の実施上のモデル文書では「本人の希望」となっている。
 本人の希望を本人と一緒に「整理」することと「評価」することの違い
A他職種他機関との情報の共有
 いつ強制入院されるか分からない精神保健福祉法体制下にあり、常に緊張状態で生活することを強いられている私たちには個人情報管理は命綱である。安全保障感は生活と養生のためにも最低限必要。
 自分がもしこれをされたら  誰に対しても何も言えなくなる
               一切の信頼関係が無くなる
 実質的利益としても利益の相反した人間の共同作業はありえない
たとえば福祉事務所のケースワーカーは現実に国家から 要請されているのは(本人個人の意志善意は別として)いかに福祉を切り捨てるかである。
やはりこれも本人の利益ではなくサービス提供者側にだけ利益があるもの。

総じて
 ケアマネージャーがありうるとすればあくまで本人の生存権・福祉権追求のための情報提供と「権利擁護官」
 権利擁護官は自分の価値観や意見を持ってはならず、ひたすら本人の要求追求のために本人と共に動く者
最低限の条件としては(現実にこれが動き出すとしたら、今私がイメージできるものとして)以下。しかしこれを守るとするとケアマネージメントはおそらく成り立たないと思うが。
@本人に関する情報は本人管理(本人管理が困難なら、ケアマネージャーが預かるにしても本人以外開けないような管理)
A本人に関する情報の本人の要請事項以外の他目的利用の禁止
  フォーマルにもインフォーマルにも
Bサービス提供機関とは本人が接触、その権利擁護官としてケアマネージャーが付き添う
  本人のいないところでケアマネージャーがサービス提供機関と接触することの禁止
Cケア会議は開かない
  会議はケアマネージャーと本人のみの間で開き、その結論に基づきサービス計画を立て、それをサービス提供機関に要求していく
Dもちろんガイドラインは無視する ケアアセスメント票は無視 

【講義録】
このテキストを送っていただいて読んでみました。一読、差別文書だ、と。こんなものやられたらとんでもないことになる、というのが感想でした。
どうしてそう思うのか?
まず、我々が地域で生活していく上で“こういうものが欲しい、こういうことが必要だ”ということをずっと言いつづけてきました。病者集団としても個人としても、またいろいろな全国の患者会としても、全国の組織が厚生省に要求してきました。まず私達の意見を聞きなさい、ということを口をすっぱくして言って来ましたが、厚生省は会って意見は聞くけれども、“聞きました”という事実を作っただけで、一切政策に反映されてこなかったわけです。
98年に法が見直しになると言うときに、羅列的ですが、要求を出しているんです。地域でホームヘルパーサービスが始まるにしても、“じゃ、どういうサービスがほしいか”ということを当事者は誰も聞かれていないのです。全家連が精神障害者社会復帰促進センターに指定されたこと自体も当事者に一切、相談が無かったのですが、アンケートなどを取ってそれで意見を聞いたというスタンスです。アンケートが果たして“当事者の意見を聞いた“ということになるかどうかは疑問です。アンケートなどは作りようであって、導き出したい結論を元に、作為的にアンケートを作ることもできるのです。前提として、当事者を無視してこれが作られているわけです。そういう意味でここで”本人中心だ、ニーズ中心だ“といわれても”けっ!うそつき“と思ってしまいます。

さらに“こういうのが精神障害者の自立だ。こういうのが精神障害者だ”という押し付けをとても感じます。
私がこれまで運動してきて“精神障害というものが本当にあるのだろうか”という疑問をもっています。もちろん、医者や専門家の間でも、こういう議論があるはずです。精神障害とは、固定した障害(交通事故で足を切った。その足は生えてこないと言う意味では固定した障害)なのだろうかな?という疑問があります。
なぜ、そういうことにこだわるのかと言うと、このテキストにはいろんな意見は出ているんですよね。その人ができないことに注目するのではなくて、できる事やエンパワメントの部分に触れている部分もあるのですが、そういう考えがあるのに、最後のケア・アセスメントになるとそれが反映されていないのです。たとえば、一番私がこのケア・アセスメントで腹がたつのが、“配慮が必要な社会行動”というアセスメント票があって、“会話の不適切さ、マナー、自殺や自傷の行為その他社会的適応をさまたげる行為”というところで点数をつけましょう、となっているんです。適切な会話ができる、のは、できないよりはできた方がいいのかな、とは思いますが、世の中いろんな人間がいるわけで、普通の会話をしている中で突飛な発言をしてその場の雰囲気に合わないというのは、なにも精神障害者でなくても、ごく日常的にあることであって、それが精神病によるものかどうかは立証不可能だと思うのです。障害であるか、ということについてもそんな証拠はどこにあるんだ、という気がするんです。
なんで、こういうことを問題にするんだ、と考えたとき、身体障害者の方の講演でもありましたが“車椅子の方が歩けるようになればいいんじゃないか、それが自立だ”と言っているのと同じ事だと思うんです。こういう障害者観というのが、精神障害者というのは何もできないものと思われているようで、こんなことまでチェックしてやらないといけないのかと思うと非常に違和感があります。これをするならば、とてもエンパワメントとは言えないと思うのです。
しかも悪いことに、チェック表をするにあたって、“ケアマネジメントの出発点は、自己決定と本人の同意だ”と言われています。だけども、こういうことをする人たちが実は今まで全て強制してきたのですよね。強制してきた専門家たちが“さぁ!”と洋服を着替えるがごとく、ご説明しますから、これがあなたの自己決定です、と言いながら“あなたが決めたのですから、あなたの責任です”と言っているのと同じで、専門家が自分のやっていることを正当化するためだけに、このケアマネジメントがあるのではないか、と思うのです。
これを読んでいると、1ページごとに腹が立つのですが・・・。なぜ、この事業が出てきたか?少なくとも本人である私達の要求ではないことは確かです。では、なぜこういう事業が必要なのだろうか全然わからない。
マネジメントつまり管理する、という言葉が嫌ですね。サービスを管理するのだったらわかる、だが本人を管理する、ケアを管理するというのであれば、これまでのケースマネジメントと何が違うのだろう? 
アメリカに本部がある病者の全国組織の機関紙ですが(冊子を掲示) 歴史が30年ほど経って一同に集まったそうですが、この写真の方がきているTシャツに“私はケースではありません。私は管理される必要がありません”と書いてあります。何事であれ、管理するというのは怪しいというのが私の持論です。
要するに、管理するほどの多種多様なサービスが地域にありますか? 例えば“私が働きたい”と言ったときにメニューがズラーとあって、求人もがんがんあって、選ぶのに困るなんてことがあるでしょうか? ありえない。私が具合が悪いときは一日中ねたっきりですから、掃除とか家事とかやってくれる人が来てくれるといいな、と思ったときに種類がいろいろあって、サービスも迷うくらいあるといいな、とは思うけれど、そういう状況ではまずないですよね。
では一体何を管理するのだろうと考えたときに、わが国の経済状況を考えたときに福祉が充実することはまず、考えられない。それなりにメニューができたときも供給が需要に追いつかない状態であることは明白でしょう。その時、サービスを受けられる人を選ばざるを得ない、そのときのためではないか、というふうにしか私には思えません。
もうひとつは地域で生きる我々自身を、(サービスでもケアでもなくて)我々自身を管理することが目的なのではないかと思います。そういう疑問をもたざるをえません。
追加の資料で保安処分の動向という中で、書いてありますが。我々を危険な人間と考えてヤバイことをする前に閉じ込めてしまえという我々に対する保安処分攻撃というものは非常に強まっています。その状況があって、このケアマネジメント事業があるわけです。ですから私は地域に対する監視網の強化に必ず繋がるという恐れを持たざるを得ません。できればこれが妄想であることを切に希望しています。残念ながらそうじゃないような気がしています。
付け加えれば、“本人のニーズ中心・要求中心”と読むのであれば、ありがたい、
専門家の人たちがよってたかって協力して支えてくれるんだろうか、それならいいな、と思えますが、本当にそうなんだろうか? と考えると、どうやらケアマネージャーが私のニーズを決定・評価されるようですね、私が困っていることを私が決めるのではなく、どうも専門家が決めるらしい、この辺が私には解せない部分です。たしかに私達が患者会などで相談を聞いたりするとき、“本人がこうしたい”という部分を本人が整理する手伝いをすることはあります。でもそれは“この人のニーズは何点”という評価ではなくて、たくさんしたいことをひとつひとつ整理することであり、今の制度としてやれることはこれしかない、となった時、本人のしたいこととの間で調整するというお手伝いはあると思います。それがケアマネジメントだったら私はわかりますが、そういうものではないのだなということです。
もうひとつ私が危惧することは、他職種の人との個人情報の共有です。私達はいつ、強制入院させられるかわからない体制下にいます。このテキストの最後に“強制入院の患者はケアマネジメントの対象ではない”と書いてありますが、私は精神障害者で強制入院の対象でない人というのはいないと思います。“安全保障観”というのは私達障害者にとって最低限必要なものだと思っています。もし、私が入院していてAさんという看護婦さんを選ぶことはあると思います。“この病院の看護婦なら大丈夫”ではなく“Aさんだったら大丈夫。でもBさんだったらちょっと無理”というスタンスで人を選びます。保健所の保健婦だから、でなく、保健婦のEさんはいい人だったな、とか、自分の主治医だから“誰にも言わないでね”といって話すことがある・・・話題によって人を選びますね。それはその人が秘密を守ってくれると思うから話すのですよ。
ところがこれが共有化されるということになったら私は誰にも何も話さなくなると思いますね。誰に対しても信頼関係が無くなると思います。さらに実質的利益として、生活保護一つ取っても非常に厳しい状況にある。申請書を渡さないという水際作戦もまだ行われている。バブルがはじけて仕事につけない人が山ほどいる状態なのに、生活保護を受けている人数が増えていないのは、申請をする段階で切り落としているからなのです。みなさん、ソーシャルワーカーをしていらっしゃれば十分、現場のでき事としてご存知だと思います。
そういうギリギリの状況で温かみのない行為をしている人たちが“ケア会議”として相談に当たったとしても何が得られると言うのでしょうか? 全家連のビデオにもありましたが“障害を持つ息子が父親からいくばくかの援助をもらうためのケア会議を開いており、その中で将来は生活保護を受ける予定だ、と発言をしている”、こんな情報を漏らして何を考えているんだ!と私は頭に血が上りました。隠し通さなきゃダメじゃないか、と。こんなのんきなビデオを全家連が作っていることに失望しました。あの方針では、とてもとても本人の福祉権は守れません。どうしても提供側の意図を感じ、ラクになるためのものであるとしか思えません。

もし、ケアマネージャーというものが必要だとすれば、あくまで本人の生存権・福祉権追求のための情報提供と権利擁護官であるべきだと思います。木村さんのお話にもあった権利擁護官というのは第三者でもないのです。あくまで本人の要請に基づいて、本人の意思を反映するために動く人なのです。ですから自分の意見を持ってはいけないのです。自分の主体で動いてはいけないのです。本人と一緒に動く。できれば本人の横で、できれば本人のちょっと後ろぐらいで、とりこぼしたものを拾うくらいでいいと思うのですが。たとえば、オランダの権利擁護官は“退院したい”といったら、“あなたの場合は医者の意見を聞いて、もう少し病院にいた方がいいのではないですか?“などということは一切やってはいけないのです。“退院したい”といったら、この人の法的な権利はどこにあるか、実質的に退院した後に住まいとして何が可能か、まず情報を整理する。本人が“どこそこに行きたい”といったら徹底的に付き添って協力する。そういう自分の主体・意見は持たない。権利擁護官であるならば、少なくとも本人を管理する人にはならないと思います。私の視点から最低限のものを言います。(これを言うと”それはケアマネジメントではありません“といわれると思いますが)
・ 本人に関する情報は、本人が管理する。
本人が“紛失しそうで怖いから預かってください”といわれた場合は、本人以外が開けられないような方法で情報を管理する。封印・パソコンのパスワードなど。
・ 本人の情報は本人の要請以外での、他目的利用は禁止する。
・ サービス提供機関とはあくまで本人が接触する。
・ 権利擁護官としてケアマネージャーが付き添う。
・ 本人がいないところでケアマネージャーがサービス機関と会うことは、絶対禁止!
・ ケア会議は開かない。会議はケアマネージャーと本人のみの間で開き、その結論に基づきサービス提供機関に要求していく。したがって、ケアガイドライン・アセスメント表は無視。

このぐらいかと思います。先程、住友先生が“選ぶ”ということをおっしゃいましたが、実際にこれがころがっていたとして、ケアマネージャーをどう使うかという財政的な問題もあると思います。本人にケアマネージャー料を直接払って、それによって本人がケアマネージャーと契約して支払うという形なら、まだ納得できると思います。ただし、この福祉の予算が限られた状況で、ケアマネージャーに金を払うということが優先順位として必要だろうか、と当事者としては不服です。当事者仲間の中では、ケアマネージャーに払うよりも現金として自分がほしい、という人はたくさんいると思います。現金でもらって納得できるホームヘルパーを雇いたいなという人が、いると思います。その辺でケアマネジメントを選択する自由をどのように保障するのかなと、思うのです。今後このような地域の福祉サービスを受けるときに、利用者の選別のためにケアマネジメントは強制されていくのではないかな、と不安を抱いています。非常に困った、わけのわからない制度だなと思っています。せっかく皆さんが勉強なさっているのに、頭から水をかけるようですが、私がわけがわからないながら、必死に考えたのはこういう内容でした。
あとは、みなさんからの質疑を待ちたいと思います。

【質疑応答】
質問者A「ケアマネージャーがアセスメントしてヘルパーを派遣する、という方向も見えてくるのですが、それについてはいかがでしょうか?」

長野「そういうふうにならざるを得ないと思います。このアセスメント票が使われるかどうかはわかりませんが、ヘルパーを頼みたいという人が多ければ、優先順位をつけざるを得ないでしょう。だとすれば、何らかの評価をしなくてはならない。ホームヘルパーほしいといったら、ケアマネジメントを強制されるわけですね。そうなると思います。」

質問者B「ホームヘルパーを頼むのにケアマネジメントが必要なのか、それとも単独でホームヘルパーを選ぶような方法をとるのか、どう思われますか?」

長野「まず現金を本人に配る。そして本人が指名したいヘルパーを現金を払って、きてもらう。そういう形が望ましいなと思っています。ただ、ケアマネジメントというものは我々にとって一切利益があるものではないと思っているので、なんらかの資源が限られている以上、対象者を選別せざるを得ないことはあるでしょう。その時に、選別手段として何を使うかということは当然問題に挙がってくるでしょうね。その時に、こういった総合的な職種の人々があつまって評価していくこの手法では、我々にとって被害が多すぎる、と思えます。困ります。」

質問者B「14年からホームヘルプ事業のなかで、精神障害者を扱ってもいいということになっていますが、現行のホームヘルパーをやっている人たちがおります。いわゆる老人専門にヘルパーをやっていた人たちですね。その人たちが新たな規定の9時間の研修を受けただけで、精神障害者のヘルプが可能だと思われますか?私は不安が残るのですが」

長野「どういう資格を持っていなければヘルパーができないという考え方が、そもそも私は変だと思っています。そうではなくて、私が人を募集して、私が面接して、私が選べる、ということが大事だと思いますが、それがしんどいという障害者もいると思います。応募者がそもそもないということも考えられますから、ともかくも我々の地域生活の知恵をそれぞれの地域生活の中で広めていくしかないのではないかと思います。厚生省は大枠の、そんなにがちがちのことは言っていないと思うのですが、ホームヘルパーについては。
老人介護しかしていないヘルパーが精神障害者のヘルパーはできないのではないか、ということですが、まっとうな一般的な生活感覚を持っている人ならば、できると思うのですが。ただ、このまっとうな生活感覚というのは、むしろ専門家ではなくて、普通の人の方が持っていたりしてね。」

質問者C「平成14年度に制度が降りてくるから、このケアマネジメントについて勉強してこい、と病院の上司から言われてやってきたのですが。入院している患者さんを退院させるときに、私達がケアマネジメントして評価して、今度また病院にお金が入るのかな、そのための研修なのかな、と半信半疑でこちらに来ていたのですが、・・?
それじゃいかんよ、ということで話を受け取ったのですが、長野さんがおっしゃるように私達、いらん世話を医療側におるものがやらなくてはいけなくて、私達も家庭があるので、やれ、といわれたらやらなくてはいけないのですが。制度として、やらざるをえなくなったとき、“これだけは気を付けよ”という部分がありましたら、アドバイスをお願いします。」

長野「すみません、住友先生に一つ質問をさせてください。これは、病院にお金が入るのですか?」

住友雄資「単純にいえば、そんな話は聞いていません。今の常識的な判断をすれば、入らないと思います。入ったらおかしいな、というのが率直な感想です。」

長野「医療保険点数の枠には入らないですよね、少なくとも。病院からの業務命令で、儲かるからヤレ、ということはおそらくないのではないかと思うのですが。ケアマネジメントの対象になった患者さんが、おたくの病院に入院しているので、ケア会議に出席してください、という依頼はあるかもしれないですがね。本人の福祉権の権利擁護官になっていただきたいですね。ソーシャルワーカーにもいろんな人がいて、形式的な手続きしかできない人もいて、年金だって生保だって1円でも多く取る! という迫力に欠ける方もいますね。特に年金はいろいろ複雑ですから、やり様によってずいぶん違ったりするのですがね。」

質問者D「私は当事者でありながら、ケアマネージャーの養成研修にも出ていて、ヘルパーもやっているのですが。今回ケアマネジメント講座をずっと聞いていて、他の方はもう一度頭を切り替えて、施設や病院で関わっている当事者の姿を捨てて欲しいと思います。先入観を。それをしないとケアマネージャーとして本人の良い点を引き出すマネジメントもできないであろうし、人と捉えて地域の中で接していくことも難しいのではないかと思うのです。多くの専門家といわれている人たちの話を聞いていますと、今までの医療の垢みたいなめがねでしか判断できなかったり、これ・あれ、と自分達の推論や判断で世話をし過ぎで、誤った判断をしていると思うのです。どれだけ回復を遅らせているか。それに気づいてほしいのです。今までの職歴や、○○長だとか、資格、を捨ててしまって、ゼロから始めてほしいのです。今日も皆さんの質問を聞いていると、専門家くささを感じるし、休憩時間中にある当事者が言っていたのですが、“演習で、ある人にもう少し突っ込んでみたかったけれど、今後のことを考えると不利益を被るのではないかと思って聞けなかった”
という人がいましたが、これが現状ですよ。もう少し、今までの枠を外して人間的に見てほしいな、と思うのです。」

長野「さっきの質問に関してもう一つ。たしかに、病院が儲かるシナリオというのは、一つありますね。ホームヘルパー派遣事業にそれなりのお金が政府から就いたら、“精神障害者地域生活支援センター、ホームヘルパー事業部”というのを病院が経営して、経営のためにケアマネジメントを病院がそこでやって、1件いくらという形で、金を取っていく、というシナリオは当然ありますね。病院が老人介護で、そういう形をとっているところはありますので、この形も出てくるかもしれませんね。どうでしょう? 住友先生」

住友「平成14年度から市町村に相談の窓口が降りるわけですよね。窓口は相談者に応じて、業務を行うわけですが、それが無理なときは地域生活センターに委託をして云々という規定になっているわけですから、理論上、医療法人という法人があって地域生活センターというものをつくって、実際は自分のところの通院患者に対してやる、という理屈を全部たてていけば、これは理論的になりたつだろう、と思います。」

長野「今、各地に地域生活支援センターというのはありますよね。」

住友「あります。ただ、理屈上できる、ということと実際にやっていけるかということになると、別ですが。入院患者を外に出して、支援センターで支援した方が、医療法人としての収入が高くなるのであれば、するでしょうが・・。」

質問者E「先生の話の中で、このテキストを読んでみて、差別文書だと断言されて、改めて内容を見ながら、私達はケアマネージャーとしてアセスメントをしなくてはならないのですが、その時に注意しておかなくてはならないところ。例えば160ページのケア必要度という部分などは、敏感に反応されているところじゃないだろうかと思うのですが。完全に枠にはめようとしている意図がここには見られますので。一方で、本人の希望の欄などは、本人ニーズに添った形でアセスメントをしようと思えば、できると思うのですが、この中で、評価できる部分を教えてください。また、注意点なども」

長野「ごめんなさい・・率直に申し上げて、このテキストに関しては、評価できるところがないです。 最大限善意で解釈しますと、市町村に地域の福祉に関して責任が降りてくる、となると今まで精神障害者とつきあったことがない人も仕事で福祉サービスをしなくてはいけなくなる、と。そうすると誰でもどこでもいつでも、そうそう勉強しなくても対応できる道具が必要だろうということで、このガイドラインとかアセスメント表というのがあるのだと思います。
だけど、私はかえって、知識のない人がこれを読んでどう思うのか? “あぁ、精神障害者というものはこんなこともチェックしなくてはならない人なのか?”と思うだろうと思うんです。 文中のひげそり・入浴・ん?・・突然、人前で性器に手を触れる、とか奇声を発するとかね。そういうイメージを植え付けてしまうことの方が当事者にとってはダメージが大きいです。こういう意味でもムカムカきているのです、私は。
素人さんがするのは、どうかなぁ・・でも、もうちょっと知恵を集めれば、もうちょっとマシなものができると思うのです。でも、これをそのままやろうとすると、偏見をばらまくだけのものだと思うんですよ。私は申し訳ないけれど、これについては評価できないんです。変だな、これは使えない、という参考例くらいにとどめてもらえればいいと思うのですが。
ケアマネージャーには何度も言うように本人の権利擁護官になってもらいたいということです。しっかり勉強してほしいことは“人権とは何か?”ということです。残念ながら、欧米と違って、日本の中で、人権というものは血を流して勝ち取ったものではないのです。だから私も含めて人権意識の低さというのは、どうしようもないもので、どんどん悪くなっていると思います。もっと、人権とは何か、ということを知っていただきたいと思います。学んでいただきたいと思います。」

質問者F「私は福祉や法律、こういった会に出たことがなかったので、いろいろ教えてもらっているのですが、ことごとく長野さんはこのケアマネジメントについて否定的なご意見だったのですが、何も考えずにこういう研修会があるよ、と呼びかけられて出てきてみて、ケアマネジメントのモデルになってみたらどう? という話になりまして。いろんな人間関係や、この場にいること、この場で長野さんのお話を聞いていること、お会いしていること、これはある意味でエンパワメントだと思うのです。この本が長野さんからの目から見て“当事者の差別・偏見につながる”ということは理解できたのですが、あえてユーザーとしてこのケアマネジメントに乗ったとしたら、痛い目に会いますかね?」

長野「たぶん、その質問が出るだろうと思っていました。出たらどうしよう、と昨日の夜ずっと考えていたのですが・・。どう考えても批判せざるをえないし、でも、ここの試行事業の形は当事者が手をあげるということになっているから、うーん、危険だから辞めなさい、と簡単に言ってしまえばいいのですが、皆さんが嫌だと思ったり、危険だと感じたときは、ただちに拒否権があります。この拒否権のことをしっかり自覚なさっておいてください。
私はエンパワメントの過程がうまくいけば、このアセスメントまで行かない前に、もうちょっと違う方向でサービスが受けられるようになるんじゃないかと思います。そういう意味では私も含めて、“断る”ということをしてもいいですよ、ということを今まで医療の中でいわれた事がなかったですし、断る権利があること、その権利を行使をしたこともないのだと思います。でも嫌だと思ったらそれをした方がいいと思います。なぜそういうかと言えば、私はこの内容が差別的だとしか思えないので、これこれこれだけの人が断ったということを厚生省に言ってほしい、と個人的に願っているのです。でもあまりに個人的な願いに人さまを利用することになるので・・。でも途中まで進んでもそこから“断る”ことはできると思います。」

質問者F「断るというのも一つの手段なのですが、ケアマネジメントをしながらこちらが変えていく、“査定は嫌ですからカウンセリングしてください”というふうに、ユーザーに可能なように変えていくこともできるんじゃないかと思うのですが。」
長野「もちろん、そうだと思います。これも含めて、これはいや、こっちにして、ということはできると思います。建前だと思いますが、本人のニーズとエンパワメントとかいてありますから、やってみたら“こんなに皆がエンパワメントされた”という報告もすばらしいと思います。」

質問者G「スタッフの立場から言いますと、例えば10モデルが出て、途中まで9モデルが壊れて、唯一残った1モデルがケア会議を開かなかった、でもいいのですよ。それでもいいのですがね、手を挙げることすら長野さんのように否定されると、この事業は何の意味もなさなくなると思うのです。私がモデルになる、ならない、アドボケイトになる、ならない、は全体の流れから言うと大差ないと思うのですが、厚生省も数百万のお金をかけて事業をさせるのですから、久留米で何か成果をあげるとするなら当事者として手を挙げないことには、と思うのですが」

長野「はい、すみません。ケアマネジメント久留米方式を創生する、セルフケアマネジメントをじっくりつくるということもあると思います。」

質問者G「私も長野さんのいうことはとてもよくわかるんです。でもスタッフの立場から言うと、自らがモデルとアドボケイトになっても何の利益が私にあるのかと考えると、何もないように思うのですが、ケアマネージャーになろうとしている人たちにとっては勉強になるかもしれないけれど、当事者達にとってはあまり勉強にならないと思うんです。ただ、さきほど、質問者Fさんが言ったことも本当ですし、私が言ったことも本当。長野さんが言ったことも本当です。その辺の妥協点の難しさを感じます。」
質問者D「私は○○から車で2時間もかけて来ているのですが、なんで来ているのかと言えば、確かにこのテキストは家族会である全家連が作っていて、当事者会と全家連とは大きな隔たりがあって、家族が考えている思いと、当事者が考えている思いのギャップがあることを感じます。
この本の是非は別として、当事者活動をしているとケアマネジメントと近いことをやっている、ということです。中では近い役割をしている人が多い。なんで私がここに参加しているかというと、危険なんですよ私。事業所の名前が出ているから。私は、当事者であることを隠してホームヘルパーをしている。このことが事業所にばれたらクビになる。その危険を冒してなぜ参加しているか、やはり必要なんです。当事者も専門家もいる、そんな中で新しい事業をしようというところが。今まで専門家だという人たちが頭を変えていく、ユーザーの側から変えていく。そういうことに期待をしているのですね。
この本も今までの体質のものであるけれど、これから始まることはこれからつくりあげることだってできるじゃないですか。そういうちょっとした期待で来ています。」

質問者H「高齢者のケアマネジメント試行事業のときに、参加したことがあります。これが決定じゃない、ということはたくさん出したんです。あるモデルの人の介護度を出したときに、低い数値が出たのです。その利用者がおっしゃるには、“この判定は軽すぎる”ということで、こちらもコメントをつけて市に提出しました。アセスメントの方法も5つか6つのやりかたでもOKということになりました。例えば、社会福祉士法、介護福祉士法、看護協会の方式、MDSHの方式などです。どれを使ってもいいという具合に幅広くなったのです。それは本人主体の考えで貫き通したからだと思うのです。
ここで皆さんが出しているのは、このテキストがあるから、この通りに進むではなくて、これが悪いのなら、どういうふうに私達は変えようか、ということを出さないと、本来の自分主体のものは出せないと思うのです。主催者側にこびることもないし、自分がこういう用具を使ってされたくない、と思うのであれば、使って頂かなくてもいいと思うのですが。サービスを利用するのならたぶん、こういうアセスメントしなくては受けられなくなるのではないかという危惧はあります。ですからご本人が“こういう質問は嫌だ”などを出していかないと変わらないと思います。このテキスト第3版と書いてあるので、変遷があったのだと思うのですが、声を大にして言っていかないと、流されて何も変わらないと思います。変わるのが当たり前という考えで行きたいと思っております。」
長野「最後に、いろんな意見が出てよかったなと思います。」


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