HOME > 全文掲載 >

遺伝性難病の療養不安解消を

武藤 香織
朝日新聞 論壇
2000年11月15日
慶応大学非常勤講師(社会学・医療福祉論) 米国ブラウン大学研究員

last update: 20160122


 イギリス保健省は十月十三日、ある遺伝性疾患の遺伝子検査の結果を、保険会社が生命保険の加入査定をする際に利用する権利を認めた。この病気は二分の一の確率で子どもに伝わり、残念ながら現時点では治療法はない。
 保険会社は、重い病気にかかる可能性が高いと知っている人々があえて高額の保険商品を購入する「逆選択」という現象を恐れている。そのため、「遺伝性疾患の家族」というだけで高額の保険料を提示され、加入を断念せざるを得ない人々の存在が問題になってきた。保健省が検査結果の利用を認める判断を下したのは、発病する可能性がない人々が通常の保険料で加入できるようにするためだ。保健省の委員会は引き続き、保険利用が可能かどうかを当事者も交えながら一件ずつ審査するシステムを構築し、適用疾患を拡大する方向で議論を行っている。
 これまで遺伝子検査の実施は「正確な診断に基づく治療方針の決定」という医療目的に限られてきた。また、遺伝子情報は個人だけでなく、血縁者の情報も含むという特殊性がある。そのため、特に治療法のない疾患に行う発病前の遺伝子検査は、依頼者個人の意思を最優先しつつ家族への影響も考慮して慎重に行うのが原則であった。
 しかし、検査結果の医療目的以外の使用が公に認められたことは、個人が遺伝子検査を受けるか否かの決断に「保険」という新たな判断材料が加わることを意味する。さらに、発病の可能性が高いことが判明して保険から締め出される人に対して、イギリスでは救済措置が用意されていない点も大きな課題である。
 わが国でも、十月二十八日に日本保険学会主催の「遺伝子診断と保険事業」シンポジウムが開かれ、本格化な議論が始まったところである。このシンポジウムでは、遅れている遺伝医療体制の整備が先決であること、信頼できる遺伝子検査技術を持つ疾患の数は限られていることが確認され、遺伝子情報を保険に利用する施策は時期尚早との認識が共有された。引き続き当事者も交えながら議論を継続していく必要があるだろう。
 ただ、ここで強調したいのは、逆選択を生じさせる要因の一つが長期化する療養生活への不安感にもあるという点である。
 遺伝性疾患には介護に人手を要する神経難病が多い。働き盛りの中高年で発病し、家庭に複数の患者をかかえながら、子どもの養育も続けなければならないケースもある。特に病気の進行が中程度で、高齢者対策からも障害者対策からもあぶれる患者と家族を包括的に支援する施策が不十分である。
 一九九七年度から市町村を事業主体にして難病患者居宅生活支援事業が始まり、ホームヘルパー派遣や日常用具給付など難病患者への配慮もなされるようになった。しかし、育児支援の施策がないなど、制度としての使いにくさを指摘する意見も多い。未実施の市町村も少なくない。
 また、在宅療養ができない患者にとっては、安心して長期療養できる施設の数が不足していることも問題になっている。国立療養所の統廃合時期とも重なって入院先を探すのが難しく、せっかく入院できても診療報酬制度や看護力不足などを理由として、定期的に転院を迫られることが患者と家族に大きな負担を与えている。
 さらに、遺伝性の稀少(きしょう)難病では十分な知識を得る機会が少なく、家族は心を閉ざしがちである。介護者や発病の可能性がある人が質の高い回答を得られる相談窓口を増やしたり、当事者同士によるカウンセリングを支援したりする必要性も指摘できよう。
 以上の課題にも配慮することにより、長期療養生活への不安は少しずつでも改善されていくことだろう。国や研究者は、遺伝子検査と保険の問題のみに着目するのではなく、背景にある難病患者の療養生活全般にわたる不安も視野に入れるべきである。そして、その不安を社会全体で共有し、解消する仕組みを考えながら議論を進める必要があるだろう。

……以上……


REV: 20160122
難病  ◇遺伝子検査と雇用・保険  ◇全文掲載
TOP HOME (http://www.arsvi.com)