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逆選択の防止と「知らないでいる権利」の確保
〜イギリスでのハンチントン病遺伝子検査結果の商業利用を手がかりに〜

ブラウン大学医学部地域保健学教室
慶應義塾大学医学部医療政策・管理学教室
武藤 香織

『国際バイオエシックスネットワーク』第30号(2000.10.31) pp.11-20

last update: 20160122


はじめに

 ハンチントン病は、晩発性の神経難病であり、常染色体優性遺伝の形式を持つ。1993年にグゼラらの発見により、第4染色体短腕先端部にあるIT15という遺伝子の中にあるCAG(シトシン、アデニン、グアニン)の繰り返し配列が、患者の場合には通常の範囲を超えて伸張し、時には2〜3倍あるいはそれ以上にまで伸張することによって、発病することが明らかになった。このことから、発病前に遺伝子検査をして、発病の可能性を判断することが可能になっている1)。
 2000年10月、イギリスの保健省は生命保険会社に対し、ハンチントン病の家族が過去に発症前遺伝子検査を受けたのかどうか、またその結果について確認する権利を認めた2)。認可されたのは、発症している家族との遺伝的関連性をみるリンケージ検査と、直接的なDNA検査の2種類である3)。保険会社に課せられた条件は、データ保護法(Date Protection Act)に則って個人の医療記録へアクセスすること、今後の保険数理研究の進展を保健省に報告すること(陽性だった人々が、未発症の期間と発病後の症状に応じて保険に加入できる道を模索するため)などであり、保険金が10万ポンド(約1700万円)以下の、住宅ローンの適格担保となる生命保険に関しては対象外とされた。
 WHOの遺伝サービスガイドラインでは「遺伝子情報や検査の結果は、生命保険を含むあらゆる保険の加入時の要件となるべきでない」とされ4)、オランダ5)、フランス6)やアメリカの州の大半が、医学・医療目的以外の利用を原則禁止する方向で遺伝子差別の防止をはかってきた。だが、今回のイギリスの決定は各国の対応とは逆のものであり、イギリスは、遺伝子情報が医学・医療目的以外に生命保険の現場で利用されることを初めて認めた国となる。
 今回の決定を認可した、保健省内の専門監視機関であるGAIC(Genetics and Insurance Committee)は「ハンチントン病をはじめとする特定の遺伝性疾患の家系に属する人々は、保険に加入できないなどの困難に直面している。保険会社に検査受診経験の質問をする権利と、その結果を聞く権利を認めれば、診断を受けて結果が陰性だった人々は、晴れて通常の掛け金で保険に加入できる」というメリットを発表している7)。Harperらによると、イギリスのハンチントン病の発症前検査は、1997年までに2,937件が行われているが、全体の41.4%は「発症リスクが高い」とする結果であった8)。GAICの説明にそのまま乗るとすれば、今回の決定によって、41.2%の人々に対しては、より高額な保険料設定や加入謝絶が容認される可能性が強まり、残りの58.6%の人々が通常の保険に加入できることになる。
 さて、我々はこの決定をどう受け止めるべきだろうか。
 本稿では、まず「発症の予測はできるが不治の病である」という象徴になってきたハンチントン病の発症前検査をめぐる議論と、今回の決定に至るまでにイギリスでどのような議論の経緯があったのかを振り返ることにする。そして、日本において遺伝性疾患の人々を取り巻く状況を考慮しながら、保険における検査結果利用の問題を考えるうえでの課題を指摘しておきたい。

発症前検査のスタイルの確立まで

 ハンチントン病の発症前検査が内包する問題点を指摘する論文は、1970年代から出されていた。1970年にKlawansらが、ハンチントン病の家族歴を持つ無症状者に対してL-dopa(レボドパ)の投与することにより、発症の可能性を持つ者とそうでない者を区別できる、という論文を発表した9)。L-dopaが投与されている期間中、ハンチントン病の家系から参加した者のうち11名の被験者は舞踏様運動を示したというものであり、72年には被験者を拡大して行われた10)。この研究は、「L-dopaの投与が参加者の発症を早めたのではないか」という人体実験の倫理的な議論を生じさせるとともに、「参加者がそれぞれの運命を告知されたのかどうか」という点で、発症前検査の意義を問うきっかけをつくることにもなった11)。当時、大規模なスクリーニングが行われたテイ・ザックス病や鎌状赤血球貧血症など、国家遺伝病法の対象疾患と並んで、ハンチントン病の発症前検査の是非も議論の対象になっていくことになる12)。
 1983年にグゼラらのグループが、第4染色体上にハンチントン病に関係するマーカーを発見したことによって、より正確な発症前検査を確立するための道のりが始まった13)。それ以降、発症前検査のパイロットプログラムが多数行われるようになり、当事者に実際の検査を経験してもらいながら、心理的な影響の測定14)、親が検査を受けない場合に子供に対して行われる25%確率の診断15)など、臨床での応用に向けて研究が蓄積されていった。10年後の1993年に原因遺伝子が確定すると、翌1994年には世界神経学評議会と国際ハンチントン協会が共同して、発症前遺伝子検査のガイドラインを発表している16)。検査を受ける選択をする人々の割合は、発症リスクのある人々全体の5〜20%にとどまっているが17)、この段階に至って、ハンチントン病の発症前遺伝子診断を受けるかどうかは、第三者の誰からも強制されることなく、成人年齢に達した個人が非支持的な遺伝カウンセリングの支援を受けながら自己決定するものというスタイルが確立されたことになる。
 1990年代の中ごろからは、検査結果に基づく差別への具体的な懸念が表明される論文が出てくるようになり、雇用や保険における遺伝子差別の現状についても明らかになってきた。アメリカでは、Laphamらが遺伝性疾患の当事者団体に所属する332名に対して遺伝子差別の経験を調査したところ、25%の回答者は生命保険の加入謝絶、22%が健康保険の加入謝絶、13%は失業を経験しており、「それらの困難は遺伝的素因による差別だと認識されている」と述べている18)。イギリスではLowらが、イギリスで7,000名の遺伝性疾患当事者を対象に調査を行い、「33%の回答者は、生命保険加入時に高額の保険金や加入謝絶などの不利益を受けた」と報告している19)。保険会社は「95%の加入者が平均的な保険料で加入できるのに対して、残りの4%は高い保険料を提示され、1%は加入謝絶される」というデータを提示しているが20)、Lowらは、コントロール群として一般の人々を対象に行った調査結果と照らし合わせてみても、そのとおりの比率の結果になったと判断する。しかし、障害者差別禁止法(Disability Discrimination Act)のなかで一定の条件下で認められている保険における「区別」を超えて、非合法的な差別が存在することも指摘している。今回の決定は、これらのデータから推測される現状を追認する形になったと考えられるが、イギリスではどのような議論の経過があったのだろうか。

イギリスでの検討の経緯

 他の多くの国と同じように、イギリスでも遺伝子検査の結果と保険加入希望者のリスク評価の関係について、長く議論が続いてきた。民間の医療保険に頼るアメリカと違って、イギリスでは基本的な医療サービスは税金で賄われ、社会保障として提供される(NHS, National Health Service)。そのため、民間の医療保険はあくまで補足的な扱いとなるため、生命保険を対象にした議論が中心であった。これは住宅ローンの設定などにおいて、生命保険が適格担保として認められていることが大きく原因している。
 民間の生命倫理学研究機関であるNuffield Council on Bioethicsは、1993年の『遺伝子スクリーニング:倫理的な問題』という報告書のなかで、遺伝子検査と保険の問題について取り上げ、「保険会社には医学的なデータに基づくリスク評価の結果を過大に受け止め、慎重になりすぎる傾向がある」と指摘している。また、保険会社に対して、検査結果を利用しない現行の方針を堅持するように求めるとともに、少なくとも政府との交渉期間中はモラトリアムにすべきだと勧告していた。ただ、そのモラトリアム期間にあっても、「遺伝性疾患の明らかな家族歴がある場合に、検査を受けたかどうかを尋ねること」は例外として認められるとしている21)。
 この議論の公的なスタート地点は、1995年に下院の科学技術委員会から出された報告書であり、遺伝子検査の結果によって保険加入や雇用における差別を生みうることが明示されている22)。この指摘を受け、1996年12月には、遺伝子技術の進展が社会にどのような影響を与えるのかを検討する独立機関として、保健省がHGAC(Human Genetics Advisory Commission)を設置している。HGACに託された課題は広いものだったが、優先課題は遺伝子検査が保険に与える影響について検討し、報告書をまとめることであった。
 1997年2月、イギリスの保険業職能団体であるABI(Association of British Insurers)が声明を発表し、「保険会社に遺伝子検査の結果へのアクセスを禁じることによって、既に検査を受けて最も発病リスクの高い人々がより高額の保険商品を購入する可能性がある。そうなると、全ての人々により高い保険料を求めなければならない」と「逆選択」を恐れる保険会社が、遺伝子検査の結果を利用できるようにしたいと訴えた。そして、12月17日には『遺伝子検査に関する実施要綱』を発表している23)。保険金が10万ポンド(約1700万円)以下の、住宅ローンの担保となる生命保険に関しては、検査結果を利用しないモラトリアム期間を持つとの条件をつけながらも、「保険加入希望者に検査受診を強制することはない。だが、加入申込書のなかで検査受診の経験を尋ねられた場合には、加入希望者は結果を伝えるべきだ」と主張していた。
 一方、全く同じ日に、HGACも『保険をめぐる遺伝子検査の問題点』という報告書を出している24)。こちらの骨子は、「遺伝子検査の結果開示には、少なくとも2年間のモラトリアムが必要。そのモラトリアムは、特定の遺伝子検査について、保険数理上明らかに有意な関連がみられるとの学術的な判断ができた場合に限り、一部の保険商品に限って解除されるべきだ」としており、検査結果のほぼ全面適用を目指すABIとは異なる見解に立っていた。
 1998年には政府からHGACの報告書に対するコメントが発表されている25)。HGACによる勧告はおおむね受け入れられるとしたものの、「保険商品の開発にとって、遺伝子検査の結果は重要な意味を持つことが認められる。メンデル型遺伝の稀少な病気についての遺伝子検査の科学的妥当性と、保険数理への影響に関して、厳密な評価を続けていくことが大切である。そのため、保険会社による検査結果の利用を監視するためのシステムを構築する必要がある」と結論付けていた。
 監視システムに関する提案は、Nuffield Council on Bioethicsによる1998年の『精神障害と遺伝学:倫理的な文脈から』という報告書のなかでも指摘されている26)。「保険会社による検査結果の利用は、簡単に不当な差別につながりうる。特に精神障害の場合には、そのスティグマ(烙印)の大きさに留意しなければならない」と指摘し、「検査結果によって、どの程度の保険料の変更や加入者の増減があったのか、逐一政府に報告されるような監視システムを設けるべきである」と提案している。こうして保健省は「2年間のモラトリアム」の後に、続々と確立されつつある遺伝子検査を保険数理に活用できるかどうかを検討するために、また保険会社からの申請に備えるために、審査システムを構築し始めた。
 その中心となる監視機関として、1999年春にGAIC(Genetics and Insurance Committee)が設立されている。GAICは計8回の会合を通じて、保険会社が使用する申請用紙のフォーマットを作成し、審査システムの設計を行った。検討のプロセスには、ハンチントン病の当事者団体であるHuntington Disease Associationや遺伝性疾患の当事者団体135団体の連合体であるGenetics Interest Groupなどもメンバーに入っており、申請プロセスの原案に対するコメントも行っている27)。そして、最初の具体的な事例として、ハンチントン病の遺伝子検査結果に関して検討を行い、先日の承認に至っている。GAICでは、今後も単一遺伝子疾患に限り、審査の対象として個別に認めていく方針をとっている。
 また、GAICとは別に、HGACの提案に沿ってUK Forum for Genetics and Insurance が設立された。関係する諸団体が参集して定期的に情報交換と対話の機会を持つことを目的としたもので、ABI, Nuffield Council on Bioethics, Genetic Interest Group, British Society of Human Geneticsなどがメンバーとして名を連ねている28)。

ハンチントン病はなぜターゲットに?

 イギリスでは1990年代後半から遺伝子技術の積極的な活用をめぐって、保健省内に複数の検討組織ができていた。遺伝子検査については、1996年にACGT(Advisory Committee on Genetic Testing)が設置されており、翌97年には、市民に対して直接行われる検査サービスを対象としたガイドラインを公表している29)。そのなかでは、「サービス提供者は顧客(検査依頼者)に対して、検査を受けることの意味をよく伝えなければならない。検査結果を開示しないことによって、将来の生命保険や医療保険が無効になる可能性も含めて伝えるべきである」とある。また、翌1998年には晩発性の疾患に対する遺伝子診断についての報告書も出されているが、やはり検査依頼者に伝えるべき内容のなかに「検査結果によっては保険や雇用、家族に対する潜在的な悪影響があるかもしれないこと」を挙げている30)。以上のことからも、この委員会では、検査結果が発病の可能性以外にも、好ましくない社会的な影響を及ぼす可能性をあらかじめ予見していたものの、影響を及ぼす可能性そのものについては、問い直すことはなかったとみえる。
 その後、保健省はHGAC、遺伝子治療を対象にしたGTAC(Gene Therapy Advisory Committee)を統廃合し、2000年4月から新しくHGC(Human Genetics Commission)を創設している31)。HGCは、幅広く遺伝子解析研究や臨床応用における社会的影響を予測・検討する機関として設置された。だが、HGCでは、保険業界における検査結果の利用について、内部の遺伝子診断小委員会においても、また親委員会でも、一度も議題になることはなかった。
こうした保健省の姿勢から窺えることは、保健省は当初から逆選択の防止に積極的であったという点である。発病の原因が100%遺伝的素因にあり、浸透率が高い疾患であるとしても、その遺伝子情報が医学・医療目的以外に使用されて良いのかどうかについて、改めて問い直す機会はなかったと言えるだろう。つまり、その点では保健省とABIともあらかじめ一致していたとも考えられる。
 保険業界も必死であった。ABIの要求に否定的なマスコミとそのイメージを増幅する市民との間でイメージを回復しなければならなかったし、できる限りABIサイドで対応できる裁量を残しておかなければ、政府が遺伝子情報の利用を禁止するなどの厳格な法制化に乗り出すことも目に見えていたからである32)。そのため、数年間にわたって様々な声明を発表しながら政府にプレッシャーをかけてきている。今回の決定が決まった同日にも、ハンチントン病の次に申請を予定している残り6疾患33)について、ABIは「保健省の決定を待つ理由が見当たらない。我々に検査結果を知る権利がないという法的な根拠はどこにもないし、これまでの議題にもあがってこなかった」とのコメントを発表し34)、GAIC会合を事前に牽制するような主張も行ってきた。実際に、GAICが設立される際のコメントとして、保健省は「このまま黙認していては、保険業界があらゆる遺伝子検査を加入時の参考にしていく恐れがあった」ことを認めている。その点では、保健省が逸る保険業界を抑え、保険業界と当事者団体を同席させて議論を行い、監視機関の設置という形で決着をつけたことには意義を認められるだろう。
 だが、なぜハンチントン病なら情報が利用されてもよいのか。そのことを説明するものは何もない。「明らかな家族歴がある疾患」であるということだけがその説明にはならないだろう。
 ハンチントン病の遺伝子検査にも、まだ不確定な要素は多い。その一つが一般の人々とハンチントン病を発病する人々との間にある「グレーゾーン」の存在である。ハンチントン病の遺伝子検査は、CAGリピートの回数から判断されるが、一般的には17回が中央値とされ、発症リスクの高い人は42回が中央値とされている35)。しかし、36回から38回の付近では、両方が混在することもあり、「グレーゾーン」にあたる。ここにあたった場合には、陽性とも陰性とも判断がつかないためリピートの数を告知するしかないが、今回の保健省の決定では、39回以上の繰り返しがあった場合、「発症リスクが高い」と認定するとのことである。
 また、統計上、集団全体をみればCAGリピートの回数と症状の重さについて一定の比例関係が認められてはいるものの36)、個人のリピートの数をもとにして、その人が何歳で発症して何歳まで生きるのかが予測できるわけではない。高齢発症で、高いQOLを保っている患者がいたとしても、リピートの数で確率上の判断をされてしまい、通常の保険加入の道を閉ざされることになる。確率による判断の限界点がここに集約される。

「逆選択」をどう考えるか

 保険会社が遺伝子検査に抱く懸念は、自分の発病可能性を知っている人が逆に高額の保険商品に加入しようとする「逆選択(adverse selection)」である37)。リスクに差のある人々に同一の保険料率を課すことによって、よりリスクの高い人は相対的に安く保険を買える一方で、リスクの低い人は相対的に高い保険を買わされることになってしまう。すると、リスクの高い人が保険に過剰投資するようになり、採算を確保するため保険料率は引き上げられ、結果的にリスクの低い人が保険市場から締め出されてしまうこともある。保険というシステムである以上、リスクの低い人には少ない負担を、危険率の高い人にはより多くの負担を求めるのが公正な保険料率決定の原則である。しかし、この原則が実現できるのは、「情報の非対称性(asymmetry of information)」が存在しない場合に限られる。保険会社が保険加入者のリスク情報を持ち合わせていれば、リスクに応じた保険料率の設定が可能となるが、情報が保険加入者にしか知らされていなければ、逆選択は容易に生じてしまう。保険会社が恐れるところは、発症前遺伝子検査による個人の遺伝子情報が逆選択の問題をより深刻にすると考えている点であろう。
 そこで、逆選択の問題をどのように考えるべきか。逆選択によるデメリットは何も保険会社に限ったことではなく、相対的に割高な保険料を課せられる(あるいはそのために保険商品を購入できなくなる)リスクの低い人にも及ぶことになる。このような社会的非効率性を重視するのであれば、逆選択を防ぐことによってそのデメリットを取り除く方向性が考えられよう。そして、今回のイギリス保健省の決定はまさにこうした考え方を反映したものである。保険会社に遺伝子検査の結果を利用できる権利を与え、情報の非対称性を是正することによって、保険料率を個々人のリスクに応じたものにし、リスクの低い人に生じうるデメリットを解消しようという意図が窺える。とはいえ、この方向性においては以下の点に留意しなければならない。
 一つは、既に議論したように、保険加入の道を閉ざされてしまうリスクの高い人々に対しては、何らかの救済措置が必要とされるということである。今回のイギリス保健省の決定における最大の問題点は、保険加入の道を閉ざされる人々に対して、救済措置が用意されないまま、保険会社にだけ権利が認められた点にある。イギリスのハンチントン病協会では、保健省に対して、発症リスクのある人々が、遺伝子検査を受けなくても入ることのできる生命保険(ハイ・リスク・プール)を社会保障の枠組みで準備してもらいたいと陳情してきたが、それは実現されていない。それは、生命保険が医療保険と違い、「基本的な人権にあたるとはいえない」(WHO)ことから、議論の狭間に陥ってしまったまま積極的な考慮がされにくい結果になっていると考えられる。情報の対称性を確保し、保険というマーケットの機能を重視した場合でも、そのマーケット機能ではカバーしきれない部分(保険から排除されたリスクの高い人々)については、政府による社会保障政策等によって救済されるべきであろう。
 また別の懸念は、発症前遺伝子検査を受診するか否かを決定する要因の一つとして、「保険」という要素が加わってしまう点である。先に述べたように、発病前遺伝子検査は、本来は第三者からのいかなる強制とも独立し、検査の意義と依頼者の人生設計という観点のみの自己決定が尊重されるものとして位置付けられてきた。しかしながら、今回の決定によって、検査結果が保険会社との関係における「取引材料」としての価値を付与されてしまったことになる。ABIがいかに「強制はしない」と誓ったとしても、「説明」が「説得」になり、「強制」につながるという流れは、様々なインフォームド・コンセントの研究からも明らかになっている。保険会社との交渉の過程で「知らないでいる権利」を侵害される恐れや、本来は検査を受けたいと思っている人が保険会社による差別を恐れて「知る権利」を放棄せざるを得なくなる可能性など、発症前遺伝子検査に対する態度を決める材料が複雑になっていくことが予想される38)。「保険」の要因が極力影響することなく、検査受診の自己決定はどのように保障されるべきだろうか。保険会社との交渉に関する苦情を申し立てられる場所を政府内に設けるなど、別の仕組みも検討しなければならないだろう。
 一方、「逆選択」を防ぐことによって社会的非効率性を是正する方向とは全く逆に、保険会社による遺伝子検査情報の利用を禁止する方向性もありうる。例えば、アメリカでは健康保険の例になるが、1996年に団体加入保険の遺伝子情報の請求を禁止する連邦法(The Kassebaum-Kennedy Health Insurance Portability and Accountability Act)39)が通過しており、各州に保険会社に規制する方向で、「過去の病歴や遺伝的条件を加入謝絶の理由にしてはならない」という法律が制定され始めている。さらに連邦法として、医療保険と雇用に関する差別禁止法案(Genetic Nondiscrimination in Health Insurance and Employment Act)も審議中である。
 ただし、こうした方向性のもとでは逆選択の問題は避けて通れない。アメリカをみると、加入者の選別が制限されることに反発した保険会社が制度の厳しい州での営業を手控えたり、保険料が高額になるために健康保険に加入できない無保険者の人数が増えていることが問題になっている。Carrasquilloらによれば、1996年には4,170万人の無保険者がいたが、2002年には4,400万人に膨れ上がると試算され、全体の4割近い人々が無保険のままでいることになり40)、保険会社の情報の入手を制限することで逆にアクセスを困難にしてしまうこともあり得る。
 逆選択と遺伝子差別を同時に防止するために、立岩(1998)は、保険会社を規制すること、全成員が強制的に加入する制度を導入することによって遺伝子差別を防ぎ、同時に逆選択を予防するために、遺伝子検査を受けずに保険会社も自分も情報を持たないまま加入する、という方策を提案している41)。相互扶助として始まった保険の「将来のことはわからない」という――しかし検査の普及が破壊してしまうだろう――前提条件を、人為的に保持するという方向性である。筆者もこの方策を支持するものであるが、遺伝性疾患に属する人々の現状を考えると、さらにいくつかのことを同時に進めていかなければなるまいと考える。その点を次に述べたい。

遺伝性疾患を取り巻く日本の状況

 今後の日本での対応を考えた場合には、以下のような点に留意しなければならないだろう。
 これまでのヨーロッパとアメリカでの議論は、ハンチントン病の家族と保険会社の間に、明らかな情報の非対称性があるという考えを所与のものにしている。しかしながら、日本のハンチントン病の患者・家族にとっての問題は、「病気の理解が十分である」状態が標準的ではない点にある42)。医師は家族には告知をしているが、必ずしも本人に告知をしているとは限らないこと、その告知の内容は医師によってまちまちであり、(段階的ではなく)断片的であったりすること、当事者団体がなかったために当事者自身による情報源が不足していることなどが要因として挙げられる。
 さらに、遺伝性疾患との告知を受けた家族が、患者本人や他の家族員に病名を隠していることも多く、親の病気をみて育つからといって、子供が自らの発病可能性を理解しているとは全く限らない。日本人にとっての遺伝子差別の意味合いは、「結婚」をめぐるものが事例として挙げられること、それゆえ家族や親族のなかで病気の話題が全くタブーになっているという事情もあることを考慮する必要がある43)。
 そして、何よりも遺伝医療のインフラストラクチャーが全く整っていないことが大きな問題である。遺伝相談をできる病院がごく限られていること、専門的な遺伝カウンセラーが不足しており、その養成プログラムも十分でないことが、病名告知と遺伝子検査をめぐる環境を悪化させていると言えるだろう。
 このように、家族歴のある当事者側に有利なはずの情報が混濁している状況下では、逆選択を生じうるほどの情報の非対称性が存在するかどうかが定かではない。例えば、ある家族がハンチントン病を遺伝性の疾患であると知らされていない場合、保険会社からの問い合わせに素直に回答したために、ハンチントン病が遺伝性の疾患であると知っている保険会社が加入を拒否するケース(「情報の非対称性」の逆転)も考えられる。
 従って、日本で遺伝子検査の結果と保険の問題を考える場合には、それ以前に解決しなければならないことが多い。まず病名告知のプロセスをどうするか。家族のなかで病気を伝えていくための支援をどうするか。そのために遺伝医療のインフラをどうするか。当事者団体と医療提供側とのネットワークが強く、遺伝相談のサービスが充実しているイギリスとは、全く環境が違っているという点をまず考慮しなければならない。
 以上のように当事者を支える環境が整わないままに、今回のイギリス保健省のような決定が、そのまま日本で受け入れることについては、倫理的にも社会的にも認められないものと考えられる。
 加えて、ハンチントン病に限って言えば、有病率はイギリスの対人口10万人あたり4〜10人と、日本の0.5〜0.6人とでは、全く違う。ハンチントン病は厚生省の特定疾患として認定されているが、登録している患者数は、526名(1998年現在)である。日本の半分の人口で5000人の患者を擁するイギリスとは、疫学的な状況が異なっている。すなわち、逆選択のもたらす社会へのネガティブな影響は、イギリスに比べれば日本のほうが相対的には小さい、という解釈が可能である。保険会社がどうしても遺伝子検査の情報を入手する必要があるという説得材料とするためには、イギリス以上の相対危険をアピールしなければならない。それは可能だろうか44)。

終わりに

 イギリス政府は、単一遺伝子疾患に限って、生命保険会社に検査結果を利用する権利を認めた。検査を受けて陽性だった人々をどのように救済するか、検査受診の自己決定が「保険」に影響されないようにするにはどのようなシステムが必要か、という問題は残したままである。しかし、既に潜行する不当な差別の問題を無視することなく、検査結果の利用について逐一審査するシステムを保険業界に認めさせた意義は大きい。この決定は、「遠い外国の、稀少な疾患に対する話」ではなく、日本でも近いうちに必ず検討しなければならない。既に日本でも、既に生命保険と遺伝子検査をめぐる裁判が起こっているほか45)、遺伝的素因を理由とした加入謝絶のケースは報告されてきている46)。だが、いまだに生命保険業界と政府との対話は始まっておらず、流動的な状況が続いているうえに、遺伝医療の基盤そのものにも問題を残した状態にある。
 またイギリス政府は、遺伝的要因と環境要因との交絡を考慮する必要のある多因子疾患にかかりやすいかどうかをみる易罹患性検査の結果については、現段階では保険会社に認めるつもりはないと決定している。遺伝的素因の影響をどのように解釈するか、不確定性の問題が大きいからである。だが、今後は多因子疾患のかかりやすさに対しても、遺伝的素因からの具体的な指摘が増えていくことだろう。また、マイクロアレイ技術の進展により、短時間に低コストで多数の遺伝子の発現プロファイルを観察できるようになってきていることも無視できない。こうしたポスト・ヒト・ゲノム時代の流れに伴い、保険会社の逆選択への危機感が煽られる可能性もある。そのため、保険会社だけでなく、当事者に対しても、現段階での遺伝子情報の限界と解釈が十分に伝わるように、科学者との対話の機会を増やしていかねばならないだろう。監督官庁も交え、UK Forum for Genetics and Insuranceのようなつながりを持っておくことが望ましいと考えられる。
 そして最も大切なことは、遺伝子検査を受けた結果、「発病する」ことと向き合って生きる人々にとっても、また検査を受けずに「発病の可能性」を抱えながら生きる人々にとっても、個々の自己決定のプロセスができるかぎり独立したものであり、その選択が最大限に尊重されることである。そのうえで、保険という「リスク・ファクター理論」による装置の限界をどのような制度でカバーしていくのかをも考慮し、遺伝子技術とともに歩む社会を構想していくことが必要であろう。

謝辞

 本稿の執筆にあたり、お忙しいななか迅速かつ有益なコメントを寄せてくださった、金澤一郎先生(東京大学)、ぬで島次郎先生(三菱化学生命科学研究所)、高田史男先生(Children's Hospital, Boston MA)に心よりお礼を申し上げます。


1)Huntington’s Disease Collaborative Research Group (1993) “A novel gene containing a trinucleotide repeat that is expanded and unstable on Huntington’s Disease chromosome”, Cell 72: 971-983.
2) Genetics and Insurance Committee (2000) “Decision of the Genetics and Insurance Committee: Concerning the application for approval to use genetic test results for life insurance risk assessment in Huntington’s Disease (GAIC/01.1)”, Department of Health. [http://www.doh.gov.uk/genetics/gaichuntington.htm]
3)直接的なDNA検査に比べてリンケージ検査の精度は劣るが、CAGリピート数が解釈困難な回数を示した場合には、発症者の出ている家系のリンケージ検査も併用することで精度を高めようとしていると考えられる。
4)World Health Organization (1995) "Guidelines on ethical issues in medical genetics and the provision of genetic services", World Health Organization
5)20万ギルダー以上の保険に対しては、検査結果の開示が必要とされるが、オランダのハンチントン協会は二段階の措置を歓迎している(1999年国際ハンチントン協会会合における報告より)。
6)フランスでは1994年の生命倫理法により、遺伝子検査の実施は医学及び医療目的に限るという制限を民法典に定めている(ぬで島次郎(1994)「フランス『生命倫理法』の全体像」『外国の立法』33巻2号参照)。フランス保険協会は、5年間のモラトリアムを延長して、2004年までは遺伝子検査結果の利用を控える方針とのこと。
7)前出2.
8)Harper PS, Lim C, Craufurd D (2000) “Ten years of presymptomatic testing for Huntington's disease: the experience of the UK Huntington's Disease Prediction Consortium”, J Med Genet Aug 37(8): 567-71.
9)Klawans H Jr, Paulson GW, Barbeau A (1970) Predictive test for Huntington’s chorea, Lancet 2: 1185-1186.
10)Klawans H Jr, Paulson GW, Pingel SP, Barbeau A (1972) Use of L-dopa in the detection of presymptomatic huntington’s chorea, New England Journal of Medicine 286(25): 1332-1334.
11)Hemphill M (1973) Pretesting for Huntington’s Disease: an overview, Hastings Center Report 6: 12-13
12)Lappe M, Gustafson JM, Roblin R (1972) Ethical and social issues in screening for genetic disease, New England Journal of Medicine 286(21): 1129-1132
13)Gusella JF, Wexler NS et al. (1983) A polymorphic DNA marker genetically linked to Huntington's disease, Nature 306(5940): 234-8.
14)カナダとイギリスのグループが多数の論文を出しているが、代表的なものに<カナダ>Bloch et al. (1992) Predictive testing for Huntington’s Disease in Canada: the experience of those receiving an increased risk, American Journal of Medical Genetics 42: 499-507. <イギリス>Harper PS, Lim C, Craufurd D (2000) Ten years of presymptomatic testing for Huntington's disease: the experience of the UK Huntington's Disease Prediction Consortium, Journal of Medical Genetics 37(8):567-71.また、自殺に関する統計はAlmqvist EW et al .(1999) A worldwide assessment of the frequency of suicide, suicide attempts, or phychiatric hospitalization after predictive testing for Huntington's disease, American Journal of Human Genetics 64: 1293-1304.
15)Maat-Kievit A, et al.(1999) Predictive testing of 25 percent at-risk individuals for Huntington disease (1987-1997), American Journal of Medical Genetics. 88(6): 662-8.
16)International Huntington Association and World Federation of Neurology (1994) Guidelines for the molecular genetics predictive test in Huntington’s disease, Neurology 1994; 44: 1533-1536.日本語訳は、日本ハンチントン病ネットワークホームページに掲載(訳・武藤香織) [http://homepage1.nifty.com/JHDN/index.html]
17)Evers-Kiebooms G, Decruyenaere M (1998) Predictive testing for Huntington’s disease: A challenge for persons at risk and for professionals, Patient Education and Counselling 35: 15-26.
18)Lapham EV, Kozma C and Weiss JO (1996) Genetic discrimination: perspectives of consumers, Science 274(5287): 621-4.
19)Low L, King S and Wilkie T (1998) Genetic discrimination in life insurance: empirical evidence from a cross sectional survey of genetic support groups in the United Kingdom, BMJ(317): 1632-1635.
20)House of Commons Science and Technology Select Committee "Human genetics: the science and its consequences", HMSO (HC41).
21)Nuffield Council on Bioethics (1993) "Genetic Screening: Ethical Issues", Nuffield Council on Bioethics
[http://www.nuffieldfoundation.org/bioethics/publication/geneticscreening/rep0013139.html]
22)House of Commons Science and Technology Select Committee "Human genetics: the science and its consequences", HMSO (HC41).
23)Association of British Insurers (1997) “Genetic testing: ABI Code of Practice", Association of British Insurers
[http://www.abi.org.uk/Industry/abikey/genetics/gentest97/gentest97.asp]
24)Human Genetics Advisory Commission (1997) “The implications of genetic testing for insurance”, HGAC [http://www.dti.gov.uk/hgac/]
25)Government response to the Human Genetics Advisory Commission (1998), Department of Trade and Industry, Office of Science and Technology and Department of Health
26)Nuffield Council on Bioethics (1998) "Mental disorders and Genetics: the Ethical Context", Nuffield Council on Bioethics
27)Genetic Interest Group による原案へのレスポンスでは、遺伝子情報が保険加入に利用されることそのものへの反発は認められない。むしろ政府を仲立ちとした個別審査のプロセスに当事者団体が意見陳述できる機会があることを歓迎し、丁寧にコメントしていることがうかがえる。[http://www.gig.org.uk/docs/gig_geneticinsurance.pdf]
28)[http://www.ukfgi.org.uk/]
29)Advisory Committee on Genetic Testing (1997) "Code of practice and guidance on human genetic testing services direct to the public", Department of Health
30)Advisory Committee on Genetic Testing (1998) "Report on genetic testing for late onset disorders", Department of Health
31)[http://www.hgc.gov.uk/]
32)Cook ED (1999) Genetics and the British insurance industry, Journal of Medical Genetics 25: 157-162.
33)ハンチントン病に続いて認可申請の候補となっているのは、家族性腺腫性ポリポーシス(FAP)、筋ジストロフィー、家族性アルツハイマー病、多発性内分泌腺腫症、遺伝性運動・感覚ニューロン障害T型、単一遺伝子が関与する遺伝性乳がんの6疾患である。
34)Guardian紙 (2000.10.13)
35)Quarrell O (1999) Huntington’s Disease: the facts, p. 53. Huntington’s Disease Association.
36)Snell RG et al. (1993) Relationship between trinucleotide repeat expansion and phenotypic variation in Huntington's disease. Nature Genetics 4(4): 393-7.
37)Knoppersによる、医療の文脈における「逆選択」の定義は「平均的な健康指標よりも低く、保険会社が予測しているよりもリスクの高い人々が保険を不当に購入すること」となっている。(Kaufert PA. Health policy and the new genetics, Social Science and Medicine 2000 51: 821-829より引用)
38)蔵田(1996)は、「知る権利」と「知らないでいる権利」を「現代的(積極的)プライバシー権」として解釈可能だとしている。蔵田伸雄「遺伝情報のプライバシー−特に遺伝的雇用差別の問題について−」,『生命倫理』6(1): 35-39.
39)詳しい解説は、[http://www.infosci.coh.org/ccgp/cspp/hipa_act.html]。また州ごとに検索可能な、本法に基づく消費者ガイドがつくられている [http://www.healthinsuranceinfo.net/]。
40)Kaufert PA. Health policy and the new genetics, Social Science and Medicine 2000 51: 821-829.
41)立岩真也「未知ゆへの連帯の限界」,『現代思想』9:184-193. 【『弱くある自由へ』(2000,青土社)所収】
42)武藤香織(1998)「ハンチントン病の発症前遺伝子検査と医療福祉的サポートの現状」,『医療と社会』8(3):67-82.
43)前出42.および、武藤香織、阿久津摂、ぬで島次郎、米本昌平(2000予定)『日本の遺伝病研究と患者・家族にケアに関する調査−家族性アミロイドーシス(FAP)を対象に−』,Studies 生命・人間・社会 No.4.
44)保険会社側の研究報告として、遺伝子研究会編(1996)『遺伝子検査と生命保険−遺伝子研究会報告書』がある。そのなかでは、「単一遺伝子疾患に対しては、その頻度や発症年齢・予後等と現在の遺伝子検査の正確さや簡便さ・コスト等を考慮すると、遺伝子検査を導入する価値は、目下のところ小さいといわざるをえない」と指摘されている。
45)朝日新聞(2000.7.30)「重度障害の保険金支払い請求、遺伝子診断結果で拒否 加入者が生保提訴」
46)前出43.および、熊本日日新聞(2000.8.1)「遺伝子の予言(7)保険加入や就職で差別」


REV: 20160122
ハンチンソン(舞踏)病 (Huntington disease)  ◇遺伝子検査と保険  ◇『弱くある自由へ』  ◇全文掲載
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