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「知的障害者と社会教育」

津田 英二 2000/09/02 障害学研究会関西部会第8回

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last update: 20160118


津田さんの発表

知的障害者と社会教育
メインは3(1)の本人活動である。
それ以外のことは、私の問題意識である。
私自身のことから話させていただきたい。社会教育。
障害を持っている人の障害児教育とはかけ離れたところから研究をはじめている。
社会教育とは教育過程以外が社会教育であるが、抑圧からの解放を援助する過程が
社会教育。

社会教育研究のディシプリン
大きな物語な大きく根をおろしている。国家対国民 矛盾を背負い込む社会教育職員と
いう図式

80年代以降瓦解 この過程に学生時代
教科書検定訴訟 国家対国民 教師をどの様に力づけていくか。

自分なりに本質的なことはなんなのか、
学習の場に入りこんでいかないとだめだ。
そう言う場所を探す。4年次くらい。
自主夜間中学。識字。公立にしてもらえないので、自分達でやる。リーダーの方
達とけんかをしてでてきてしまう。メインとして闘争しているのは、公立化を求
めることであった。
学習権を保障するために政治的に動く。
⇔そこはちがうのではないか。で、けんか。

大きな物語から脱皮する為に画策。
参与研究との出会い。
対象になっている人に影響を与えない研究をよしとしてきたが、
アメリカの成人教育を参与観察がよく言われるようになってきた。
(80年代)次の二つの考え方を中心
 当事者が問題状況を把握していく。(内発性)
 研究者が積極的に参与していく。

問題状況に対して研究者が積極的に関与していくときに文化侵略にならないか?
このあたりの問題意識が中心になっていく。
障害者青年学級と関わるようになったことが、動機。
 どのような関わりか。
 文化侵略にならない関わりはどのようなものか
 
 障害者青年学級
  知的障害を持っている人達が余暇活動の拠点を地域に作っていこうというもの
  市民を巻き込まざるを得ない。
  東京では美濃部都政のときに盛ん。
  
  3箇所で参与
  
文化侵略性 発達や教育的価値をめぐって、
知的障害を持つ人たちはどのような生き方をすればいいか外部から価値を押しつ
けている。福祉の領域も同じであろう。どういった生き方、自立の仕方があるのかとい
うこと
を、直接的な人間的な関わりのない場所から説明することによって、「援助する私」と
いう
状況を補強する研究論文がたくさんあることに気が付く。むしろ、わたしは援助する私

援助される知的障害者という形で表れる矛盾に対する問題意識をかき立てるというとこ

にボランティアの存在意義があると考える。

学習の場をきちんとみていきたかった。上から価値をおしつけないには。。。。

知的障害者の文化にちからを与えるにはどうすればいいのか。
知的障害者の文化の内発性を引き出すことが大切なのではないか。
そう言ったときに、二つの問題
侵略を受けた知的障害者の文化の内実を明らかにすることは可能か。言語化することで
文化侵略になってしまうのでは?
具体的には、知的障害者の文化とはなにかというと、ろう文化では言語を媒介としてい
るが、知的障害では、言語を顕在的にはださない。むしろ行動やしぐさ、態度関係の持
ち方が、文化。これは、言語化できないのではないか。すると研究者は文化の一部
を切り取ることになるのでは? 果たしてそれでいいのか。

・知的障害者の文化の状況変革能力とはなんだろうか・
たとえば障害者運動のなかで力になってきたのは、本人が社会的行動力
を持っていたことにある。知的障害の場合もそれを踏むべきか?妥当な方向性なのか、
それとも違う方法があるのか。政治的な発言権をもつよりは健常者が自己変革を
するという点に注目していくべきでは。知的障害の人達が、状況変革する為には、
「出会いの場」。
自分がどう言う出会いがあったのか、そして、どのように健常性がとわ
えれたのか」
権力構造の一端   
・非対称性
一方的
就職、結婚に接したときの権力構造がもろに本人に関わってくる。パートで 20万
近くをもらう 一方、Mさんはフルタイムで2万
結婚 彼らの夢 わたしはそれほどのハードルと思わずに結婚する。
能力主義だけではとらえられない。
たとえば、結婚は資本主義では理解できない

関わりのなかで開放感を味わう。知的障害の人の開放感は普通の人との開放感とは違
う。これは、一つの状況変革能力ではないか。
    
・ささえあいの実感
障害のいろいろの局面でおこる。
ささえあいの軽視が健常の間ではあるのでは。
重度知的障害 地域の中で生活 家族・医師。などの社会のささえあいぬきにしては
ありえない。人間はこうして生きていく。自分を振り返る契機。
     
障害文化概念の意義と課題
  96〜97P
  結論
  障害文化とは一体何か、まとめた。
 1 障害者は障害があるからアイデンティティをもてて、そこで生活できる。
  2障害文化は組織化された創造活動である。
  3
  4障害文化を規定する場合に、違う文化がある。障害文化一般にあたるものはない
が、健常文化と対比する文化。
  DS3月6月に同様の論文
  障害文化をものすごく狭く捉えることに対して、もっと統合的にとらえていかない
とだめになってしまうと言うものあり。5と同様。
  6健常性を問うときの拠点では。
  
  5,6を考えないと行けないのではないか。
  私のやるべきことではないか。a、b、ふたつについて追求したい。
  
  では、自分の活動をふりかえろう。
  
 本人活動 people first 米
 手をつなぐ育成会 知的障害者の親の会として発足 これが導入  
 寺本晃久(学芸大院) 卒論でいい論文 本人活動を書いたもののなかでもっとも優
れたものでは。
 
 拠点で日本でも本人活動
 全国大会で本人宣言資料2)
 本人決議
 決定に参加すること 
 情報提供
 後見人制度などの新しい制度について説明して欲しい
 
 障害の重い人の条項、99年にはじめて出た。8〜12
 10代理答弁、実質的な発言権を持っている人たちは軽い障害を持っている人たち。
 これが、本人活動の考え方を象徴している。つまり知的障害の本人活動は行動能力を

につけていくことが目標だが、一つの戦略として リーダーの養成 が必要。セル
フアドボカシー自己擁護をめざしていく。
 
 リーダーの養成 援助者がいなければ進まない。
 では、援助者の役割は何か。
  「本人活動支援」
  本人活動の意味
   
 まずレクレーション活動からはじまるだろう。いままでは援助者がやってきた。本人
が自分たちでできる様にしよう。仲間づくりをしていこう。グループ運営能力をつけて
いこう。
 これはプロセス。
 停滞してはいけない。レクでおわってはいけない。では、停滞から抜け出す為に
どのような働きかけをするべきか。その思想はなにか。
 一般的な説明
 親亡き後の生活の自立
 社会的状況からの自立
 という物語。
 
 援助者は物語の完成のために働く。
 
 運営委員会をつくる
 自立エンパワーメントができそうな人を委員にし、
 援助者が厳しく育てる。
 援助の方向性は本人の方法ではなくて、
 投票行為や多数決の指導。
 はたして、指導自体違うし、援助者の理想像と本人の文化がずれないだろうか。
 
 抑圧からの解放という物語
 
 援助者は抑圧とどう向き合うか。
  抑圧に対する気付き これがむずかしい。
  フレイレ 識字をしながら、やる
  
  一体なんなのか。
  気付きはすごく難しい人がいる。そう言う場合には周囲の人たちが健常性
の矛盾に気付くことの方が大事なのではないか。
  
  学習の体験は他の人たちに共有されていかないのは、残念。
  社会教育として目指すことの意義。
  健常性を問う場所を社会にオープンにしていくこと。
  
  学校教育と殆どパラレルだが、公民館
  
就労目的ではなく、相互学習の場としての喫茶店の必要性(レジュメ2)のB)

   
本人活動を軸にすえながら、「共生のまちづくり」の文脈から青年学級を組織化
していく方向性が必要では。
本人の自立を妨げる親の問題は大きい。
障害を持っている人を障害を持っている人たちの間だけで育てることに抵抗を感
じない親が多いのではないか。
いろいろなところで抵抗を感じる。しろうとをつれてきてどうするつもりだ。
   
障害学の中では、知的障害に関心を持っている方が少ないのでは。
どのように認識するか。
身体障害の有無で問われる健常性と知的障害であることで問われる健常性は違う
のでは。
   
   身体障害ではどういう健常性がとわれるのか。関心がある。
   障害学では非常に重要では。
   多文化主義の中で重要なことは、白人性。黒人からの問い。
   
   健常とはなにかというといかけが非常に重要なのではないか。
   
障害のアイデンティティという点で、知的障害のアイデンティティは身
体障害のアイデンティティとは違うのではないか。ご意見をうかがいたい。
   
   
質疑応答)
F)健常性について関心がある。健常性を知る場所を作ることが大事であると
いったが、一緒にいるだけで、健常者と障害者の非対称性がわかるのか、健常者に
対してどのようなことがなされるべきか、うかがいたい。
津田)ご指摘そのとおり。
たとえば障害者青年学級でも差が激しい。大きな物語に依存して援助する私のと
ころもおおい。。気がついた人が盛んに言っていくのが重要では。

A)「知的障害者の文化」のイメージについて具体的にお願いします。
津田) Mさんにも指摘され、観念的だと思います。
反省してます。知的障害者の文化が言葉で簡単に言えるくらいなら悩んでいないと思い
ます。追求していくのが、テーマだと思います。態度、しぐさ、人間関係の作り方、
が知的障害独特のものがあるのでは?自閉、ダウン、など種類によって違うのでは。
自閉の文化も存在するのでは。ダウンの関係の作りやすさは独特の者ではないか?
人との接し方は、ここのパーソナリティがあるとおもうが、そういうひとがごち
ゃごちゃになって集まってくる場所の雰囲気、それが文化ではないか。政治的な
文化を作っていく。政治的な発言力を持っていく。知的障害の家族は社会的に共通の
被抑圧状態の特質がでてくるのではないか。
家族の分析は視野に入っていないので、可能性の指摘のみ

A)言語を使って記述すること自体が文化侵略という点をひとまず認めた上で、
実際に「知的障害者の文化」を記述しようとしてきた試みはあるのか?
津田さんのオリジナルなのか。

津田)日本にはこの観点はないのでは。
アメリカはピープルファーストが出ている。アメリカ化に障害者もくみこんでい
くと考えられるような動き。イギリス、フランスはアメリカとは違う観点もある思
うのですが、記述する試みについて私はみたことがない。
G)浜田寿美男の「ありのままに生きる」という岩波から出ている本が、
自閉症の子どもの生や周囲の人との関係を「文化」として記述していた様に
おもう。
津田)自閉の人が自分のことをかくということが何冊かでている。
知的障害ではないかたもいる。あれは、自分たちの文化を主張したいと言うものがあ
る。そういえば、いくつかはあるのでは。

H)1つ目は全障研と対比してあきらかになるのでは。
発達保障のうしろだて(階層的な発達理論)。最重度のひとでも健常者と発達の
道筋は同じだと言うロジック。そこに欠けているのは、津田さんのいう観点が欠
けている。
津田先生が、おっしゃるように、フィールドワークという経験を一つの
研究としてしっかり位置づけていくことは、とても大事。
二つめはレジュメの「言語化によって文化侵略」という点。
言語化、研究そのものを言語化されること自体を今後どうなさっていくのか・

津田)イデオロギー的には全障研の方にシンパシーは持っている。教育と言う領
域に片足を突っ込んでいるので、発達心理学で細分化していくのは一つのありかた
だし、知的障害のひとびとにじかにたずさわっていくときに使わなくてはならな
いと言う点で全面的に否定し去ってしまうほど、アレルギーはない。
文化という視点は発達と言う視点で独自の視点があるということを
認識する必要あり。その点で言語化の必要が義務として出てくるのでは。

E)言語化したときに文化侵略になってしまうレベルと、言語化したときにど
の様に使うかによって文化侵略してしまうレベルとわける必要がある。というの
はこの発表自体、文化の説明自体が、言語化によって成立している。言語するこ
とをやめておこうとすることが逆に侵略を助長するおそれもある。
我々の言語による文化の中で話をすることと、知的障害の「はかなげ」な文化に
接するときに言語で踏み込んでいくことは違うのでは。もうひとつは、侵略的な
使い方は、教育の本質に関わってくること。知的障害の方はほとんど接する機会
がないので、どうしても子どものことから類比して考えてしまうが、子供に教え
ることによって子どもの「文化」を土足で踏みにじることはよくある。学校教育
はまさにそういうことが多いし、社会教育も同じでは。


津田)言語化はある面で必要だ。教育は本質的に文化侵略であるのかということ
は、?文化侵略にならない教育を突き詰めたい。
E)価値とか規範という観点から見れば、教育というのは、まさに 価値を教え
込むものにほかならない。そういう倫理学的な意味では、教育というのはまさし
く「侵略」で、あとはひどい意味での侵略といい意味での侵略 しかないことにな
る。

津田)たしかに参与観察でも同じような議論があり、問題状況を把握するときに、
研究と言う方法を使う。この研究が当事者にその方法を押し付けてしまうのでは。

E)ある面ではそう言うことが言える。人類学ではもっと精緻な理論があるの
では。

D)何故言語化することによって侵略になるのか。障害者を知るためには、基礎
研究も充実して本当に理解できるのではないか。

津田)文化侵略性の高い研究が現実に多かった。発達ではかってに秩序付けられ
てしまった。まさに、基礎研究として、人間の発達過程を観察していくというこ
とは。だけど、生き方を個々人の預かり知らないところで決定している。基礎研
究にも知り方がある。1歩間違うと研究者の枠組で当てはめてやってしまうことが
往々にしてやってきた。
D)当てはめて考えなければいいのでは
津田)実用的な学問ですから、基礎研究で応用されてしまう。
H)障害者をしるためには基礎研究が必要だというが、これまでの科学の考え
方は外に何かあるという考え方。でも果たしてそれはほんとうか。社会的構成主
義と言う立場。我々は全て言葉によって構築しているのです。インタビューして
論文を書くということ自体、障害者はこうだというメッセージをつくっている。
だから、あてはめなければいいというのは非常にむずかしい。障害の受容プロセ
スなんかはそうだ。言うはやすし、である。
D)じゃ、そのそれで言語化しないということなのか?
H)それはまったくない。当事者のオリジナリティを生かした表現方法が例え
ば大事なのでは。
J)知的障害で結婚したい人がおおいというのはどうしてなのか?親は知的障害だ
ったら結婚・子育ては無理だ思っているが、親から子供に積極的につたえないから
なのかな。オルタナティブを伝える、別の幸せもあるんだなということもあ
る。どういうふうに知的障害に結婚が伝わっているのか。、
また、知的障害と健常者の文化的非対称性と身体と健常者のものは違う、
というのは僕もそう思う。どのようにちがうのか、簡単に解説を。

津田)ぼくらだって、結婚のことは学ばない。メディアの影響とか、いつも結婚
したいと言う人は、いつも出てくるのはテレビの主人公だったりして、異性との
出会いの中で、結婚したいと言う認識がある。
北島行徳の「無敵のハンディキャップ」でサンボ慎太郎と北村との関係が最後ま
でそうだ。
 二つ目の質問だが、問われる健常性の質の違いだが、生活の中での非対称性、健
常性のいごこちの悪さ、ささえあい、の3つを話したが、共通部分はいくつかあるが、
共通しない部分はいごごちのわるさ。僕がといかけたので、ぼくは差し控えたい。
それほどかかわりがないので、むしろみなさまにききたい。
 
L)本題から少し外れるが・・。「健常者との非対称性といっても、
知的障害者のそれと身体障害者のそれとでは異なる」という指摘それ自体は
基本的に正しいと思う。ただ、視覚障害や聴覚障害などをも含めて
「身体障害」とひとくくりにし、知的障害との異同を語るのは少し大ざっぱにす
ぎるのではないか?たとえば、盲人のリアリティに即して
いうならば、世界は障害者と健常者に分節されるのではなく、盲人と晴眼者にわかたれる。

 
E)結婚の問題と健常性ということについて考えるのは、知的障害の場合、結
婚について非対称性がある。子どもが「結婚したい」というのを聞いたときの
反応と、知的障害者が「結婚したい」というのを聞いたときの反応が異なる。子
供の場合は軽く受け流せるのが、知的障害の場合は軽く受け流>せないのが一般的反応。

これは優生学、すなわち知的障害者が断種や子宮摘出されてきたことと関係する。


I)抑圧への気付きということを最後に言われたのですが、
知的障害にとっての気付きと言うことは健常者が矛盾に気付くとおっしゃったが、気
付いた後にどうするのか、疑問です。
また、知的障害者の文化で、家族の中で独特な文化があるとおっしゃったが、独特のな
んとも言えない、私自身弟を囲んだ家族の求心力があるのを経験してきた。それは
いごこちのよさ。を感じて暮らしてい
る。最首悟さん、かれが記述している「星子がいる」は知的障害をまざまざとあらわ
している。内発的義務の喚起、これが抑圧への気付きがおこったときにうまれる
とおもう。

津田)気付いた次の1手は短絡的にはいわれる。
気付いた人がすみよい街づくりの主体になっていくということは言われている。
だけど、Iさんがいわれていることはその先にあることだとおもう。それはなん
なんだろう。基本的には、市民せいを持って社会の主体になっていくということ。
だけど、はたらきかけたときに反応がこなかったり、つたわらなかったときに、
次のステップがでてくるかなとはおもう。
I)昨年障害学MLではなしたが、対面的ななかで抑圧を解放していくということで
すが、障害と健常をわけて2分法にするのではなく、n個の個性としてとらえてい
くという言説でなにかいえたらなと思う。そういうのはやっぱり無力なんでしょ
うか?
津田)方法はいろんなものがある。全く個人史として見ていただきたい。

(おわり)


……以上……


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