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「障害と健康――障害との健康な関係はいかにして可能か」

大津留 直(おつる ただし) 20000901
『現代思想』2000-09

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last update: 20160118


  1. 「障害」とは何か
  2. 病気や怪我が治っても、その当人の日常生活に対する病気や怪我のマイナスの影響が、後遺症として比較的長期に、あるいは一生涯残る場合がある。そのマイナスの影響のことを普通「障害」と呼ぶ。「障害」と慢性の、あるいは先天性の疾患との違いは微妙であるが、慢性の疾患は大抵「障害」を伴うと一般に言われるように、「慢性の疾患」が比較的長期、あるいは、一生涯にわたる身体的、あるいは、精神的欠損の医学的な面を指すのに対して、それに伴う「障害」は、その医学的欠損がその患者の個人的・社会的生活に及ぼす影響を指すことが多いように思われる。「障害」は、したがって、長期の医療やリハビリテーションによって少しずつ改善されたり、老化や病気の進行によって悪化したりすることはあっても、概ねは比較的安定しているものと考えられている。このように「障害」は病気や怪我(disease)そのものではなく、その帰結として一般に理解されており、1980年に世界保健機関が発刊した<WTO国際障害分類試案>では、医学面における「機能障害impairment」、個人的生活面における「能力障害disability」、そして、社会生活面における「社会的不利handicap」に分類している。

    障害の反対語は「健常」であって、「健康」ではない。普通、特に急性の病気や怪我の場合、病人や怪我人は、「回復」し、健康になることを本人も周囲の人々も期待している。それに対して、障害者の場合は、本人も周囲の人々も何よりも、先ず、その障害を受け入れ、その障害と「健康」な関係を築くことが期待されている、と言うことが出来るように思われる。その意味で、障害者は「健常」ではないし、おそらく、「健常」にはなりえないであろうが、「健康」にはなりえると言えるであろう。

    障害者が健常者に比べて失ったものからすれば、「障害」はたしかにマイナスであるが、障害者がその医学的欠損にかかわらず彼に残った機能を、一般の健常者においては見られないほど器用に使って、したたかに生きているのを見るだけでも、「障害」が必ずしもマイナスだけのものでないことは明らかなように思われる。ここには、「障害」を健常者との比較において機能が劣っていることを前提として、リハビリテーションと医療技術を使ってその機能を出来るだけ健常者のそれに近づけてゆくという課題と並んで、それを補う形で、障害者自身に残っている機能を特有の能力として、つまり、もはや健常者におけるそれを基準とするのではなく、発掘し、開発してゆくという課題が開けてくるように思われる。つまり、健常者には隠れている感覚・運動・伝達の諸可能性がまさに「障害」によって、その障害をカバーするために活性化することがあるのではないか。それを生かすことによって、もはや必ずしも健常者の文化に、それよりも劣ったものとして追随するのではなく、いわば、障害者自身が主人公の多様な文化、例えば、聴覚障害者における手話文化を築いてゆくことが可能になるのではないかと思われる。もちろん、「障害」という概念からして、「障害」をできるだけ排除・矯正して健常な状態へ近づけるという課題(「医療リハビリ」)は全面的には否定され得ないであろう。しかし、それを障害者自身の自発的な生活努力(「生活リハビリ」)と独自の障害者文化との「かねあい」の中で、それに固有の限界において位置付けてゆくことは可能であるし、必要でもあると思われる。

    ここに明らかになるのは、したがって、これまで医療の側から一方的に規定される傾向が強かった「健康」という概念を障害者自身にいわば取り返し、個々の障害者が自分自身にとっての「健康」とは何かを考えてゆくという課題である。もちろん、障害者文化も他の(他種の障害者、および、健常者の)多様な諸文化との出会いと対話によって独自の展開を促進されるように、障害者の「健康」を考えてゆくうえでも、医療・福祉関係者との対話と協力が欠かせないことは確かであるが、最終的な決定は障害者自身が担ってゆくことが必要であろう。

  3. 「障害」との健康な関係
  4. 我々が身体的、あるいは、精神的「障害」と言うとき、それは常にすでに「健常」との対比において、その対立概念として考えられている。このあまりにも自明な事態の中に、実は、我々のように「障害者」として生きている者にとっては、すでにある重大な問題が潜んでいる。それは、我々が我々自身を理解しようとする時、まずもって自分の「障害」から理解してしまう傾向があるからである。もちろん、我々は「障害者」であるほかにも、何者か、例えば、教師、会社員、歌人等々なのであるが、しかし、その場合でも、我々は先ず「障害者」であって、その「欠陥」を補うために何者かであろうとしているのではないか、という疑いが我々には常に付き纏う。

    もちろん、それはそれで一向に構わないのであるが、しかし、この理解が我々自身において、例えば、一方的な劣等意識や甘え、依頼心や無闇な反抗という形で専横する危険があることに問題の所在がある。そこに我々が、我々自身の「障害」に対する「健康」な関係とは何かを問わなければならない理由がある。それは、つまり、「障害」が我々自身の自己理解においていかにある意味で《相対化》され得るのか、しかも、その相対化において我々は決して障害者でなくなるのではないのであるから、我々は、そこである意味で我々の「障害」を選びなおし、引き受けなおすということが起こるのでなければならないのではないかという問いである。それは同時に、障害者との出会いを通して起こる、健常者における「健常」という概念の相対化であり、引き受けなおしでもありえるのではないか。その《相対化》とはしたがって、我々が「障害者」や「健常者」である以前に「人間」であることを相互承認することであり、しかも、我々のその都度の関係においてそれぞれが「障害者」であり、「健常者」であることを引き受けなおすことであるのではないか。

  5. 社会的構成概念としての「障害」
  6. 現代において障害者であるということは、すべてを「健常者」という基準で推し測る社会に身を置き、その基準を満たすことが出来ない、あるいは、満たすことが容易でない自分に出会うという形においてである。そこでは、障害者は、「健常者」という基準を持つ社会に「適応」していくように、自分でも知らず知らずの内に決断させられているのである。その適応は、それぞれの障害者の障害によってさまざまに分類され、段階付けられている。そこで「障害学」は、そのさせられた「決断」とそれに対応する「適応」とが現代社会においていかに「構成」されているかを明らかにすることによって、その「させられた決断」を障害者自身に取り戻し、そのさせられた決断に代わって、それぞれの障害者がそれぞれ独自の生き方へと自分自身で決断できるよう手助けすることを課題の一つにしているように思われる。

    つまり、社会学の一つの方法としての「構成主義」は、「障害」が動かしがたい「事実」としてこの世に存在するのではなく、人間社会の慣習や力関係によって「構成」されたものであることを明らかにする。したがって、その慣習や力関係が変われば、現在の社会において「障害」として知覚されていることも「障害」としては知覚されなくなり、したがって「障害」ではなくなるはずだ、という考え方である。しかし、慣習や力関係が変われば、他のことが「障害」として知覚されるのではないか。そもそも、何らかの慣習や力関係、そしてそれへの「適応」ということがまったくない社会などというものは考えられないのであるから、いかなる「障害」もない社会などありえないのではないか。これらの問いに対しては社会学としての「構成主義」はもはや答えることが出来ない。したがって、「構成主義」は、あくまでも絶対化されることなく、一つの可能な方法であるにすぎないことがはっきり意識されなければならない。しかし、この「構成主義」が、現代の社会においていかなる慣習や力関係が「障害」を構成し、障害者の差別を助長しているのかを明らかにするための一つの有効な方法であることは、疑う余地はない。特にアメリカ合衆国においては、障害者の「自立生活運動」が活発化したと同時に、この「構成主義」の方法による分析が進んだ結果として、1990年「米国障害者法(ADA)」が成立し、社会のバリア・フリー化・障害者の機会平等が急速に推し進められている。

    このような社会のバリア・フリー化と障害者の機会平等という意味でのインテグレーションとノーマライゼーションの重要性は、特に日本のように障害者の社会参加がまだまだ進んでいない社会においては強調されても、し過ぎるということはない。

    しかし、一方、この理解によっては、「なぜ私が」というより根源的な実存的な問いには触れることが出来ないこともまた確かであるように思われる。つまり、社会的関係としての「障害」が問題にされる次元から一歩引き下がったところで、この「なぜ私が」という実存的な問いは、発せられてきたし、これからも発せらるであろう。

  7. 実存的な問いと「穢れ・罪」
  8. ところが、この実存的な問いにおいては、今まで述べてきた「医学的」、そして、「社会的」障害理解とは異なる、いわば人間意識のもっと古い層に属する障害理解が吹き出ているように思われる。それは、「障害」が「穢れ」、あるいは、「罪」の顕われであるという、いわば宗教的な障害理解である。我々は普通、このようないわば前近代的な障害理解の呪縛から、今まで述べてきた「医学的」、「社会的」障害理解によってもうとっくに解放されていると思い込んでいる。そして、それは、我々があの「なぜ私が」という実存的な問いに目覚めない限りは、確かに正しいと言えるのかもしれない。つまり、「医学的」障害理解は、我々の注意を身体的、あるいは、精神的な「機能の欠損」としての「障害」へと集中させることによって、我々をもはやこの「なぜ私が」という問いへ向けさせない、あるいは、少なくとも、我々のその問いへの注意をプライベートな領域へと閉じ込めてしまう。そのことによって、この問いは、もはや公の領域においては議論の対象から外されてしまう。それと同じように、「社会的」障害理解は、我々の注意を「医学的な」機能の欠損としての障害から社会的構成概念としての「障害」へと転換させることによって、我々をいよいよあの問いから遠ざけてしまう傾向がある。

    ここで、宗教的障害理解としてあげた「穢れ」や「罪の顕われ」は、我々現代人にとっては一方的に否定的なものと響く。そして、西洋的近代理性も、それを古代的・中世的因習の一つとして一方的に否定的に理解し、その障害概念の呪縛と抑圧から人間を解放するものとして己を理解した。しかし、古代や中世の障害理解としての「穢れ」や「罪の顕われ」がそのように一方的に否定的なだけのものではなかったことが、今日では明らかになりつつある。これは、古代的・中世的因習からの近代的解放が、それ自身、ある歴史的な制約を負ったものであることがニーチェ以来の近代批判によって明らかになってきたのと軌を一にしている。

    もちろん、「穢れ」も「罪」もそれ自体として見るならば、否定的なことであり、それらと「障害」が、自明であるかのように結び付けられた時代、あるいは、社会において障害者がいかに大きな苦しみを受けねばならなかったかは言うを待たない。しかし、そこには、同時に、古代人あるいは中世人が、人生あるいは存在の不条理をいかに受け止め、その不条理を徹頭徹尾経験することによって、まさにそこに聖なるものへの通路を見出していったドラマが隠されているのではないかとも思われる。もちろん、それは、時代により、場所によって非常に異なった形を取ったのであろうし、今でも良く分かっていないことが多いことも確かである。しかし、多くの場合、障害者を一方的に排除するだけの世界ではなかったことは確かなようである。我々はその微かな痕跡を世界の古典の内に求めることが出来ないことはない。

    自ら重度の脳性麻痺者であり、高名な俳人でもある花田春兆氏は、『古事記』にその痕跡を見出している(1)。それによれば、イザナギノミコトとイザナミノミコトとの間に最初に生れたヒルコ(蛭子)は、おそらく脳性麻痺に似た重度障害児であったということである。蛭子とは骨のない蛭のような子という意味であり、『古事記』では葦船に乗せられ、流し棄てられたと伝えられている。ところが、この蛭子を海の彼方からやって来て福を齎す恵比寿神として祭っている神社が西宮夷神社をはじめ日本各地に存在するというのである。日本だけではなく古代の多くの社会において、障害者は、程度や具体的な扱いには差があるにしても、穢れとして忌(いみ)の対象であっただけではなく、同時に斎(いみ)としての神聖化の対象でもあったようだ。そして、この神聖化は、同時に、予言、神話・伝承の記憶・実演など特殊な能力の開発を伴うものであったであろう。この「いみ」の決定的な二義性は現代においても、いろいろな思い掛けない変化・変形を経ながら、抑圧された形であるにしても、我々の心のもっとも深いところになお生き続けているのかもしれない。例えば、障害者が自分の障害を最初は忌み嫌っていたのが、その障害と付き合っていくうちに、その障害がある意味で掛替えの無いものに思えてくるというのも、もしかしたら、「いみ」の二義性が生き続けている一つの証拠なのかもしれない。花田春兆氏はこの現象を、日本文化の源泉が「まろうど」にあるという折口信夫によって提唱された説と重ねて説いている。「いみ」の二義性を自分の身に引き受けるとき、障害者は実際、「まろうど」になるのかもしれない。まろうどがまろうどであるのは、しかし、何か超人的な能力によってではなく、天の声と地の声、神々の声と地霊の声を無心にただ聴く者であることによってである。

  9. 存在の亀裂としての「自己心」、罪
  10. すべての苦しみには、そもそも、二つの側面、つまり、客観化できる計量可能な面と、客観化できない計量不可能な面があるように思われる。なぜなら、すべての苦しみ、すべての痛みは、個々の苦しみ・痛みであると同時に、「人間であることの苦しみ」への門なのである。そして、すべての苦しみ、すべての痛みは、「人間であることの苦しみ」との関係において、その苦しみへの門として経験されるときには、客観化・計量化されえない。「よりによって、こともあろうに、この私が何故このように苦しまなければならないのか。」あらゆる人間的な苦しみには、この「何故、自分が」という問いが隠れている。この「自分」に人間であることの苦しみの正体がある。

    あらゆる弁神論の試みが挫折したかに見える現代においてなお、『ヨブ記』が我々の心を打ち、揺り動かすのは、おそらく、ヨブがこの「なぜ自分が」という問いを持って、神にさえも立ち向かう凄まじさのゆえであろう。しかも、そこでそれほどまでに苦しまなければならないのが「義人」ヨブであるという不条理であろう。しかし、義人が真の意味の義人になり、神と出会うためには、あの「なぜ自分が」という問いがあの先鋭化した形で立てられなければならなかったのであり、そのようにして、「義人」の中に未だに眠っていた「自己義認(正当化)」が呼び覚まされなければならなかったのであろう。そこにおいて初めて、その「自己」が神によって根底から打ち砕かれる可能性が開かれるからであろう。しかも、ヨブの友人たちが通俗的な「因果応報」の理論をもってヨブに懺悔を説得すればするほど、ヨブの「自己心」が呼び覚まされるという『ヨブ記』の作者のドラマツルギーには驚嘆するばかりである。それぞれの人間における「苦しみ」の経験は、現代においても実はさほどは変わっていないのではないか。

    人間の有限性の経験とは、煎じ詰めれば、自分が無であり、大自然、あるいは、神、あるいは、存在が、自分を通して働いている、という経験である。したがって、この経験において初めて、我々は、同時に、存在の秩序、あるいは、大自然を司る法、あるいは、神によって立てられた正義を受け入れ、体現してゆくことができるのではないか。しかし、この経験には、あくまでも我々の「自己」が根底から打ち砕かれなければならない、ということが属している。そのためには、あの「なぜ自分が」という問いが呼び覚まされ、その都度の凄まじさをもって問われなければならない。この経験は人間一人ひとりが通らなければならない道であり、誰も代わってしてくれるわけではない。だから、この経験において、他人を直接的に助けるなどということは誰にも出来ることではない。他人が出来ることは、まずもって、自分自身がその問いに直面することをおいてはないのである。そして、この経験において、各自が、自分の「自己心」をまさに世界の深淵にまで届く存在の亀裂、つまり、「罪」として経験するのである。

    ここに明らかになるのは、『ヨブ記』に見られるような根源的な自己心としての「罪」は、あくまでも否定的なものであると同時に、その自己心がその当人によって引き受けられ、苦しまれている限りにおいて、逆説的に聞こえるが、すでに「聖別」と「義認」を意味したということである。もちろん、その聖別と義認はその当人には隠れたままであり、それだからこそ、彼は苦しむのであるが。そして、その点では「罪」は「穢れ」と等しい。異なるのは、ただ、「穢れ」の場合は、未だに自己心の問題として明確には現れていないことである。

  11. 因果応報との対決
  12. 世界の古典の中で、障害者について、差別と排除の対象としてではなく、障害の中にむしろある肯定的な側面を見ているものの一つに、『新約聖書』がある。中でも、興味深いのは、『ヨハネによる福音書』第九章である。そこには次のように述べられている。

    盲人であった若者は、集まって来た人々にどうして目が見えるようになったのかを説明する。すると、人々は、彼をパリサイ人たちのもとへ連れていった。パリサイ派の人々は、当時のユダヤ教の中でも特に厳格にモーセの律法、たとえば、安息日、を守って行こうとしていた人々であった。イエスは彼らの偽善性を攻撃したので、イエスの集団とパリサイ派との間に対立が生じていた。イエスがこの奇跡を起こした日は安息日であったので、律法を犯す罪人がどうしてこのような奇跡を起こすことができるのか、をめぐって彼らの間に論争が起こった。そこで彼らは、その盲人であった人を彼の両親のもとへ連れて行き、彼が彼らの息子であり、今、目が見えるようになったことを確認しようとしたが、両親はパリサイ派の人々を恐れて何も言わなかった。そこでパリサイ派の人々はもう一度盲人であった人を呼んで、イエスが罪人であることを告白させようとするが、それがうまくいかないことを知ると、その若者を外へ追い出した。

    この引用でまずもっとも重要なのは、「先生、この人が生まれつき盲人なのは、誰が罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」という弟子たちの問いである。ここには、何らかの障害、あるいは、災難が本人、あるいは、両親、あるいは、先祖が犯した罪に対する罰だという我々人間に非常に古くから、根強くある考え方が言い表されている。『ヨブ記』も結局、この考え方との対決であったことを思えば、この考え方が当時のユダヤの民衆においてもいかに根強いものであったかがわかる。いや、むしろ、この『ヨハネによる福音書』の第九章は、まさに『ヨブ記』が提出した問いに対して答えようとするイエス、あるいは、当時の原始キリスト教団の一つの試みであったと言ったほうがよいかもしれない。この考え方は、普通、「因果応報」と呼ばれている。つまり、よい行いはよい結果を生み、幸福、あるいは、神の恩賞をもたらし、悪い行いは悪い結果を生み、不幸、あるいは、神の罰をもたらすという単純明快な考え方である。この考え方は、確かに、人々の中に、よいことをしなければならない、という意識を高めるのに役立つ。しかし、そこには、よいことをするのは、その行為そのものを愛するからではなくて、それをしないと被るかもしれない罰を恐れるがゆえにその行為を行うのではないか、という問題が潜んでいる。しかし、この単純明快な考え方を揺るがすのは、よい行いをした人が必ずしも幸福にならないし、悪い行いをした人が必ずしも不幸にはならないという経験である。世間には、別に悪いことをしないでも、次々に災難が降りかかってくることがあるし、どんなに悪いことをしても幸福な暮らしを続けているように見える人たちもいる。それでも、われわれの意識には因果応報という考え方が根強く残っていて、とんでもない不幸、たとえば、障害を被ったひとをみると、これは、やはり、本人が以前犯した罪に対する罰か、先祖が犯した悪事に対する祟りなのではないかと考えてしまう。イエスの弟子たちもそうであった。それは、おそらく、他人に降りかかってきたとんでもない災難に直面したときのなんとも言えない困惑からきているのであろう。

    しかし、イエス、あるいは、原始キリスト教団は、この考え方をきっぱり否定する。これは、『ヨブ記』においてヨブの友人たちがこの考え方に基づいて、ヨブに過去に犯した罪を神の前に悔い改めるよう説得するのに対して、ヨブがこの考え方をきっぱり否定するのと似ている。ヨブはあくまでも、自分は神の前に義しかったと主張し、それがゆえに今自分を襲っている災難が不可解であることに徹頭徹尾苦しむのである。イエスは、それに対して、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが彼の上に現れるためである。」と言うのである。現代人は、おそらく、ただ神のみわざが現れるためにこんなひどい災難に遭わされるなんてたまったものではない、そんな神だったら無いほうがマシだと思うであろう。しかし、このイエスの言葉は、ヨブのように「なぜ、自分がこのように苦しまなければならないのか」という不可解さに苦しんでいるその都度の自分に向けて、その自分を砕くべく発せられていると理解されるべきであろう。つまり、その「自分が」「自分が」と言っている自分が、その苦しみの不可解さとともに、実はすでに神の働きのうちに取り入れられ、そこで生かされていた、ということであろう。それであるからこそ、また、神のみわざが彼の上に現れるということも起こるのであろう。

    その次に出てくるイエスの言葉は、しかし、どのように理解されるべきなのであろうか。イエスは、「私たちは、私をつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である」と言っている。この言葉はいろいろに理解され得るであろうが、ここでは、次にイエスが行う奇跡と、この福音書が書かれた当時の原始キリスト教団におけるイエスの死と不在の経験とに関係させて解釈してみたい。つまり、昼というのは、イエスという世の光に照らされている時間の経験であり、夜というのはイエスの死によってもたされた光が隠れてしまった時間の経験のことである。夜は、しかし、あくまでも昼との関係において夜なのであり、過ぎ去った昼への追憶とやがて再び訪れるであろう昼への希望においてのみ、夜なのである。この昼への追憶と希望なしには、夜は夜でさえもない無の闇に沈んでしまうであろう。そして、奇跡は、まさに、イエスが世の光であることを、それを信じる用意のある人々に経験させる出来事である。したがって、奇跡とは、あれやこれやの不可思議な行為のことではなく、根源的には、イエスである神的な光が己のうちに宿ることであり、すべてのものがその光のうちに見えてくることなのである。この意味で、イエスがまさに自分たちとともに、自分たちの只中にいるという奇跡を、イエスの死と不在という「夜」における追憶と希望において経験したのが原始キリスト教団の人々であったのである。わたしはこの個所を彼らのそういう経験から読み、理解するよう試みなければならないのではないかと思う。そして、この福音書の記者は、ここに出て来る盲人とは、実は、自分たちのことに他ならないこと、つまり、イエスによって、イエスという世の光のもとですべてを新たに見えるようにしてもらった者というはっきりした意識を持っていたのである。つまり、自分たちが神的な光から遠ざけられており、その意味で罪人であり、盲人であることに苦しむ者は、イエスによって見えるようにしてもらうのであり、逆に自分で神的な光が「見える」と言い張る者は、イエスという世の光への通路を失うことになり、見えなくなるのである。

    こうして、ここに引用した章の最後の個所もまた理解できるようになると思われる。そこで、パリサイ人たちが自分たちも盲目だというのか、と問いながら迫ってくるのに対して、イエスは、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」と言うのである。つまり、ここでは、罪とは何かということが新たに定義しなおされているのである。つまり、パリサイ人たちにとっては、罪はモーセの律法を守らないことであったが、イエスはこれに対して、おまえたちは自分たちが守っていると思い込んでいる律法の核心が何か、つまり、それをイエスはここでは「光」と言い、別の個所では、「愛」とか「永遠の生命」とか言っているのだが、それが見えているのかと問うのである。それが見えていない限りは、どんなに律法を守っても神の前には義とされない、つまり、罪に陥っていると言うのである。逆に、どんなに律法を守ろうとしても、その核心には自力では届かないことを自分のこととして苦しんでいる者、その意味で、盲人である者のみが、イエスを通して、イエスという光の中で神の義が与えられると言うのである。

    しかし、ここで、もし、盲目ということが最初から、このような精神的、あるいは、「神学的」な意味で理解されているならば、何も実際の盲人を引き合いに出してくる必要はないのではないか。神の光が見えるようになるということが根源的な意味での奇跡であるならば、イエスは、この実際の盲人を実際に見えるようにする奇跡を起こす必要はなかったはずであるし、そのことによって神学的にはある混乱が起きているのではないか、という問題が出て来る。実際、イエスの実践と後の原始キリスト教団による神学化あるいは教義化の試みとの間にはある微妙なズレが生じているように思われる。そして、このズレをどのように理解すべきなのかということが、現代のキリスト教神学にとっても少なくとも一つの大きな問題であるように思われる。そして、このズレはわたしにとっては、障害者問題を考えてゆく上での一つの問題でもあるのである。つまり、すべての人間は何らかの意味で障害者なのだと言うことは、すべての人間に共通する有限性とは何かという問いを覚醒する意味では、確かに意味無きことではない。しかし、そう言ってしまったとたんに隠れてしまう問題があることも否めない事実である。だから、そこに、イエスのように具体的に苦しんでいる人々と交わり、そこで苦しんでいる人々自身にとって不可解であるその苦しみに直面し、それをともに苦しみながら、少しでも、その苦しみを和らげる方向を探りながら、しかも、そこに、人間であることの普遍的問題を同時に考えてゆくという課題があるように思われる。イエスである光のもとにすべてが見えてくるという根源的な意味での奇跡は、実際、その都度の具体的な苦しみに直面することなしには、起こり得ないことであるように思われる。その意味で、あの根源的な奇跡は、どのように教義化や神学的な理論化が進んでも、最終的には、不可思議なその都度ごとの出来事なのである。

    しかし、それにしても、なぜイエスは、奇跡によって盲人を見えるようにしなければならなかったのか、という問題はなお残るように思われる。つまり、そこにはなお、障害があるよりも無いほうがよいのだという障害に対する一般的先入見が残っているように思われるからである。そこには、例えば、(後述するように)『荘子』に見られるような、障害そのものに肯定的な側面を見る可能性は、はじめから奪われているのではないか。イエスがもし、もっと長生きしていたら、もしかしたらそういう考えに至りついたのかもしれない。しかし、他方、病気や怪我をすれば、誰でも治してもらおう、少しでも痛みを和らげてもらおうとして病院へ行くものである。そして、その病気や怪我がもとのようには治らないとわかったとき、我々ははじめて覚悟を決めてその病気や怪我と付き合ってゆこうとするのであり、そのとき、はじめて、われわれは、今まで否定的にのみ見ていた病気や怪我や障害の中に、もしかしたら肯定的な側面が潜んでいるのかもしれないと気づきはじめるのである。その意味では、イエスのほうが人間の一般的な心理に対するより深い洞察を持っていたと言えるのかもしれない。

  13. 仏教は因果応報か
  14. ところで、仏教は、この因果応報という問題に対してどのように応えるのか。一般に、仏教は、インドの民衆の間に強く信じられていたカルマン(業)という観念から生い育ってきたため、因果応報という考え方が、特に数多く残っている仏教説話においては専横するほど強いと言われている。そして、この考え方が、例えば、障害は前世の悪業から起因した悪果であるという迷信を民衆の間に助長し、そのため、仏教圏においては、その意味での障害者差別が強いと言われてきた。確かに、仏教にはそのような傾向が強いと言わざるを得ないが、しかし、釈迦自身はそのようなことは教えていないし、仏教の長い歴史においては、一般的な意味での因果応報を打ち破ろうとする思想もあったのではないかと思われる。

    おそらく、釈迦の肉声に近いものを伝えていると言われている仏教初期の経典『スッタニパータ』には次のような章句が残っている。

    ここに表明されているのは、すべての人間は、その生れから見れば、平等であるという釈迦の明確な思想である。そして、個々の人間の差異は、その人間の行為の結果に過ぎないという思想である。悟りとは、それぞれの人間の行為とその結果としての差異をあるがままに見ることであり、そのことによって、実はすべての人間がすでにそこに居る「平等」へと立ち帰ることであり、そして、そのことは同時に、あらゆる行為とその結果との連鎖から離脱することである。そして、人は、この離脱という行為なき行為によってはじめて真の意味での〈バラモン〉になるのであり、「生れにもとづく特権」によってバラモンであるのではない。したがって、ここには、何者か、例えば、障害者として生まれることが前世の悪業の結果であるという考えは言うに及ばず、この世における悪果から前世、あるいは、過去世における悪業を確定できるとする思想も生れる余地はないように思われる。

    たしかに、『スッタニパータ』には次のような、因果応報を思わせる思想も語られている。

    たしかに、ここに語られているのは、当時のインド民衆の間に根強く行われていたカルマン〈業〉の思想をそのまま受け継いだもののように見える。しかし、釈迦によれば、来世において苦しみを受けるのは、なにか特別の罪を犯した者だけではなく、そもそも、来世に生れ変わること自体がすでに苦しみであるのだ。したがって、苦しみから逃れる唯一の可能性は、業の連鎖から離脱し、輪廻を超えること、つまり、解脱することであったのである。そして、業を業たらしめているものは我執である。したがって、ここでも最終的に問題になっているのは、いかにしてこの我執、あるいは、自己心を打ち砕くことが可能か、という問いであったのだと思われる。釈迦においては、したがって、因果応報説は、ただ、解脱へ向って修行する弟子たちを動機付け、鼓舞する意味でのみ語られていたのであろう。つまり、釈迦の注意は、飽く迄も、現在の行為に向けられており、修行者としての弟子たちを来世における苦しみを起因させる悪業から離れるよう警告し、もはや来世に生れ変わることのない解脱への修行へと激励するのである。しかし、それがひとたび口にされると、民衆の習慣化された考え方に引かれて、現在における苦しみは、前世、あるいは、過去世における悪業によって起因された悪果であるという通俗的解釈に門戸を開けることになってしまうのである。

    しかし、『スッタニパータ』における釈迦の教えにおいて考えられるもう一つの重大な問題は、もし、人が日々の修行を通して解脱することが出来なければ、人は、結局、悪業悪果の連鎖の中に留まるほかはない、つまり、輪廻の苦しみの内に留まるほかはないということである。なぜなら、釈迦においては、善業善果は、結局は、修行と解脱との間にしか成り立ちえない関係であるからである。つまり、釈迦における因果応報説は、もちろん、例えば、障害を前世、あるいは過去世の悪業の結果と決めつける通俗的な因果応報説とは異なったものであったが、しかし、そのような通俗的解釈を容認してしまう危険はあったようだ。実際、中村元氏が指摘しているように、原始仏教の僧団からは障害者は排除されていた、あるいは、少なくとも、入ることを許されなかったのである(6)。もし、それが事実であるとすれば、障害者には、実際、輪廻の苦しみを脱する道がほとんど閉ざされていたことになる。

    修行の道に入れない人間は救われることは出来ないのか。この問題を極端にまで問いなおし、独自の答を打ち出したのが、親鸞の「悪人正機」の思想であった。彼は、そのことによって同時に、因果応報という考えをある意味で徹底的に打ち破ったと言うことが出来る。それは、『スッタニパータ』においてすでに説かれていた、すべての人間は生れにおいては平等であるという思想を受け継ぎながら、「一切衆生悉有仏性(一切の生きとし生けるものは、ことごとく、その本性からして仏性をもつ)」という形で徹底させていった大乗仏教の一つの頂点をなしている。

    親鸞は、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(7)と言う。『嘆異抄』の中のこの言葉はすでに法然が言ったのではないかと最近は言われているが、今はその問題には立ち入らない。解脱への修行という善業に励むことが出来る人でさえ往生を遂げるのだから、何らかの事情と理由により、解脱への修行の道を閉ざされ、悪業悪果の連鎖の内に苦しまなければならない者こそ、実は、すでに救われているのであるというのである。それは、大無量寿経に、阿弥陀仏の修行中の姿である法蔵菩薩が四十八の誓願を立て、これらの誓願が実現しない限り、正覚を取らない、つまり解脱には到らないと誓ったと書いてあり、特に、その第十八願に「十方世界の衆生が心を専一にして深く信じ極楽に往生したいと願い、わずか十回でも心を起こす(十念)ならば、必ず極楽に往生できる」(8)とあることによる。法然・親鸞は、善導に倣い、この十念をわずかでも「南無阿弥陀仏」の名号を唱えることと解釈する。しかし、親鸞は、念仏を唱えることが浄土へ生まれ変わるための条件であると考えたわけではない。もしそうであるなら、念仏もわがはからいから出た自力の行であることになるからである。そうではなく、己の悪に照らして、救われるなどということは到底不可能なこの自分がすでに救われているという不思議に出会うことによって迸り出る「南無阿弥陀仏」という感謝の祈りが念仏なのである。

    しかし、それは、決して、「南無阿弥陀仏」という声明・念仏を唱えなくてよいということではなかった。むしろ、私が「南無阿弥陀仏」という声明を唱えるとき、実は、私ではなく、「南無阿弥陀仏」が「南無阿弥陀仏」するという「自然(あるがまま)」の出来事が起こっているということであり、私が念仏を唱えるという最小限の人為(易行)がその「自然」において生かされていることを意味するものであった。だから、「阿弥陀仏」が仏なのではなく、「南無阿弥陀仏」が仏なのだ、と言われるのである。「南無」とは「帰依し奉る」という意味である。それは、「南無阿弥陀仏」という我々の念仏・声明においてのみ、阿弥陀仏が阿弥陀仏自身に帰依するという出来事が起こるからである。つまり、「あるがまま」は、何かある対象として確定されるようなものとしてあるのではなく、すべての自力・難行によって仏になろうとする「はからい」を捨て去り、一凡夫であることを曝け出しながら、私が行なう念仏・声明において仏がすでに生まれているという出来事としてのみ起こるのである。つまり、この悪人である私から迸り出る「南無阿弥陀仏」の念仏において、「悪人正機」という不思議がその都度いわば受肉するのである。そして、その出来事において、悪業悪果の連鎖から逃れられないことを苦しんでいたのも、実は、自分ではなく、阿弥陀仏であったことが露わになるのではないか。その意味で、苦しみも悪も、すでに、救いという不可思議な出来事において起こっていたことになる。それは、自分の悪に対する苦しみと懺悔が、「自分が善業をなし」「自分が修行し」「自分が解脱する」という「自分が」を打ち砕き、阿弥陀仏に縋るほかない自分、そして、まさにそのこによってすでに阿弥陀仏によって救われている自分を発見させるからである。そして、ほかならぬその苦しみと懺悔が、また、すでに救われている自分に驚き、その驚きの中で「南無阿弥陀仏」を唱えている自分を発見させるのである。

    それならば、阿弥陀仏を信じさえすれば、悪を行ってもかまわないのか、いや、阿弥陀仏に救われるためには、積極的に悪を行うべきではないのか、という問いが起こってくる。これに対して、親鸞は書簡の中で、「(阿弥陀仏という)薬があるからといって、毒を好んではならぬ」と諌めている。ここには、親鸞のある深い洞察が隠れているように私には思われる。それは、この問いには、阿弥陀仏の救いを誘うために、自分がなにか出来るという傲慢が潜んでいる、という洞察である。その意味で、ここに言われている悪業とは、実は、自分が自分の救いのためにする「善業」に他ならないということである。つまり、ここで言われているような、実は「善業」である悪業をする人は未だに、自己の業の悪には出会っていないのである。いかなる善業善果からも閉め出されていると自覚し、そのことに苦しんでいる人のみが、自己の業の悪に出会い得るのである。その苦しみにおいてのみ、悪は悪として出会われるのである。そして、悪人正機は、実は、そのような苦しみの内に居る人にのみ、語り掛けられているということが出来るであろう。だから、そこにあるのは、「親鸞一人がためなり」(9)という絶対の孤独であり、言葉の限界である。しかし、そのような絶対の孤独に居る者のみが、阿弥陀仏という普遍の光りに出会うことが出来るのである。

    つまり、ここ、親鸞の悪人正機説においては、あらゆる因果応報という考え方の根底に潜んでいる自己心が露わになり、超克されると言えるのではないかと思われる。なぜなら、因果応報は、善業善果にしろ、悪業悪果にしろ、自己の行いは、それに対応する結果を齎すという考え方であるからである。つまり、それによれば、自己のはからいがその行いの結果を左右するのである。ところが、悪人正機においては、その都度の念仏としての行いは、自己の行いであると同時に、その自己を越え、あらゆる自己のはからいを虚しくする阿弥陀仏の行いなのである。したがって、ここでは、行いの結果が自己の責任を問うかたちで問題にされる道徳的次元が越えられていると同時に、あらゆる因果応報が越えられていると言うことが出来る。

    しかし、そうは言っても、道徳的次元は無視されたり、否定されたりしているのではなく、むしろ、すべてが許されているという宗教的次元の中で、その固有の限界において生かされなければならないと考えられていた。「薬があるからといって、毒を好んではならぬ」という親鸞の言葉は、その意味でも味わうべき言葉であろう。悪業悪果の連鎖から遁れることが出来ず、したがって、地獄が「一定住処」である自分であるにもかかわらず、いや、そうであるからこそ、思い掛けなく阿弥陀仏の誓願によって救われているのであり、そのことへの感謝の中では、重い道徳的責任も、自己のはからいや結果への期待からではなく、行いへの純粋な歓びから担ってゆくことが出来るのではないか。すべてが許されていることに対する感謝の中でこそ、人は、自由に朗らかに、人の目には隠れている小さな善を営々と為すことが出来るのではないか。阿弥陀仏によって摂取され、生かされていることに対する歓びと感謝の内に、障害者と健常者が「人間」として出会い、介助を受けながら、介助されていることを忘れ、介助を与えながら、介助していることを忘れる瞬間がありえるのではないか。そこにおいては、介助者を通して阿弥陀仏が介助し、障害者を通して阿弥陀仏が介助を受けているのである。もし、そのことが一瞬間でも、障害者と健常者、双方によって実感されることがあれば、その実感が彼らのそれからの共生を支えることがありえるのではないか。

  15. 『荘子』における障害者
  16. 『荘子』にはたくさんの「健康な」障害者が寓話の主人公として登場し、「無為自然」の精神を体現する人々として非常に肯定的に描かれている。例えば、『人間世篇』には次のような話が出てくる。

    ここに出てくる支離疏は、もちろん、フィクションであり、「心の働きが不具な人間」、つまり、もはや無理に政治を良くしようとしたり、自分の政策を民衆に押し付けたりしようとする心を失い、「無為自然」を生きる君主こそ、政敵を作ることなく、民衆の反感も買うこともないのだから、幸福な人生を送ることができ、天寿をまっとうすることができることを示唆するための寓話に過ぎない。しかし、この寓話から我々は、ともかくも、当時の中国において、障害者が必ずしも一方的に社会から排除される存在ではなかったであろうことを推測することが許されるように思われる。それどころか、当時すでに、病人や障害者に対して徴兵や労役を免除し、飢饉などの際には、食糧や燃料を配給するという一種の社会保障政策が行われていたらしいことを読み取ることができるように思われる。そして、ここでは、障害者が、そのような社会保障を享受しながら、いわゆる自立した生活を営むことが極めて肯定的に観察されている。そのような社会保障を享受することによって、障害者は、ことによったら、健常者よりもよりしたたかに天寿をまっとうし、幸福な生涯を送ることができるとまで言いたげな口振りである。しかも、この障害者が、徴兵免除や労役免除において「大手を振って」街を歩いたという描写からは、ある種の反骨精神さえ滲み出ているように思われる。

    『荘子』の中でも障害者が最も頻繁に登場する『徳充符篇』における次の寓話では、その反骨精神が更に露わに描写されている。

    ここに表明されているのは、万物斉同という荘子の根本思想に基づく徹底した無差別平等思想である。善・悪、幸・不幸、健常・障害、身分の上下、生と死、そして、主と客などの差異がここでは忘れ去られるべきこととして考えられている。したがって、ここに出てくる「先生」は、イエスのように奇跡によって、めくらを見えるようにしたり、足萎えを歩けるようにしたりするのではなく、このような差異を忘れさせる「善徳」を具えており、人をこのような「善徳」へと導くのである。先生の「善徳」によって洗い落とされる「けがれ」とは、ここでは、未だに残っている差異にとらわれた心にほかならない。だからと言って、道徳的・政治的に無責任な態度を取ることが教えられているわけでは決してない。むしろ、すべての善悪、幸不幸を超えているからこそ、自分の行為の道徳的・政治的責任を従容として自ら引き受け、自分の過失のために足を切られたことをよしとするのである。古代中国では、インドで信じられていたような世代を超えた因果応報という考えは見られないが、自分の過失のために足を切られた、と言う意味での因果応報は、ここでは肯定され、引き受けられる。しかし、この意味での因果応報は、ここでは精神的に無差別平等の世界に遊ぶことをもはや妨げはしない。

    しかし、ここにあるのは、「身体の内にある心の世界(形骸の内)」と「身体の外に現われた形(形骸の外)」の世界、つまり、無差別平等世界と差別不平等世界という徹底的な二世界説であり、したがって、ヨーロッパ形而上学におけるように、この両世界の対立としての差別は克服されないまま残るのであろうか。それとも、この反論自体、あまりに外面的、形式的に考えられているのだろうか。ここでも問題は結局「自己心」にあるように思われる。なぜなら、その都度の事物が差別と不平等の相において現われるのは、それに関わる人間が自己心をもってその事物を見ているからであるからである。したがって、問題はここでも、その自己心をいかに超克するかである。荘子は、しかし、この問いに答える代わりに、次のような寓話で、この問いそのものの未熟さを笑っているかのようである。

    ここでは、自己心を超克しようなどという以前に、自己も他己もすでに、世界が世界を遊ぶ世界遊戯を遊んでいるのである。その世界遊戯を荘子はここで「物化」と呼んでいるのである。したがって、世界に差異や差別があることが、取りも直さず、それらの差異や差別を通して世界遊戯が遊戯していることを示していることになる。差異がその否定性において苦しまれれば苦しまれるほど、その差異を通して遊戯する世界遊戯も深く味わわれるのではないか。そして、まさにこのことが、『荘子』になぜこのように多くの障害者が登場するのかということにたいする理由なのではないか。そうであるとすれば、我々が『荘子』における障害者に深い「健康」を感ずるのも理由無きことではないであろう。『荘子』における障害者は、もはや、健常な状態に近付こうとしたり、奇跡や治療を通して健常になることを望んだりはしない。かれらは、むしろ、障害を自ら引き受けることによって、あの世界遊戯に参加していることを自覚しているのである。

  17. 近代医学における因果応報
  18. 近代医学は、一方では、近代科学の一部門であり、そこでは、厳密な数値関係として表記することが可能な因果関係が支配している。その因果関係は、アリストテレスの四原因の内のいわゆる動力因が、キリスト教中世における目的因の優勢を打ち破って、一人歩きをはじめ、ついにすべての学問における知識を支配するに到ったものである。したがって、近代的学において、因果、あるいは、因果律という場合は、この動力因を指しているのであり、それは、インド的な意味での因果、あるいは、一般的な意味での因果応報とは一応、全く何の関係もない。

    近代医学は他方、医学である以上、あくまでも、人間を「相手」にするのであり、病気の人間を助けて、健康な状態を達成させる技術であるという面を保っている。近代医学は、まず、病気の客観的「兆候」を発見しようとする。そして、それを発見すると、それの「客観的原因」を実証的に検証し、その原因を取り除こうとする。その場合、「実証的」とは、実験によって、どこでもいつでも検証が可能である、ということである。その場合、「悪い」兆候に対する「悪い」原因は取り除かれるべきだと考えられている。これは、通俗的な因果応報の「客観化」された形態に過ぎないのではないか。この因果応報は、「科学的に」実証されている「真理」として自己を主張するのであるから、より精密な実験と理論によってのみ反証は可能である。この客観化された因果応報が専横するところでは、したがって、今まで述べてきた実存的な、あるいは、宗教的な「自己の苦しみ」への問いの可能性は、そもそも最初から奪われてしまっているように見える。「苦しみ」は、科学技術によって解消されることができる限りにおいてのみ「現実的」であると認められるのであって、そのほかは、「非現実」として視野にさえ入れられない。こうして我々は、ハイデッガーの言う「苦しみに気付かない苦しみ Not der Notlosigkeit」の中にいることになる。ヨブがもし現代において現われたとしたら、病院へ連れて行かれて、検査と治療のプロセスへ送りこまれ、おのれの身に起こった不条理を問う暇さえ与えられないであろう。そして、それは、彼をできるだけ早く、「健康」な日常の営利活動へと連れ戻すために行われるのである。こうして、すべてが、結局は、潤滑なる経済活動の問題へと収斂され、医療や社会福祉も、その全体の経済活動との損益関係として計算され、その計算をもとに実施される。「健康」は、今日では、何よりもまず、国家・社会の経済問題であり、国民をできるだけ健康に保つことは、国家支出を押さえるための重要な政策の一つであるとされている。病気や障害は、個人にとっても、国家・社会にとっても、経済活動を停滞させるだけではなく、大きな支出を招くものとしてまず理解されている。ここに通俗的因果応報が現代において獲得した力の正体がある。

    医学が、我々人間のその都度の健康の回復を目的とする限りは、その当の健康を医者が、他の技術者が何かを作り出すようには、「作り出す」ことはできず、結局は、ただ、一人一人の患者の内なる自然治癒力、あるいは、自己治癒力を助けることができるだけである。そこに医学と他の技術との決定的な違いがある。ところが、自然治癒力へのこの信頼は、現代医学における技術的な可能性が表に立つにしたがって、言わば、後方へ退いてゆくのである。つまり、現代医学は、単なる技術という性格をますます強く持ち、その技術を完璧にしてゆけばゆくほど、人間の内なる自然治癒力が何であるかを見失いつつあるのではないかと思われる。こうして、病室は、ますます、純粋な実験室、あるいは、精密機器の工場に近付いてゆく。

    障害者にとってそのことから結果するのは、障害が、医学によって、ますます明白に、修復可能な ー あるいは、修復不可能な ー 故障、つまり、機能欠損と見られることである。医学のこの傾向は、しかし、障害者の親と障害者自身が医学から期待することが変化してきていることにはっきり対応しているのであるから、医学の傾向のみを問題にすることは、もちろん一方的である。つまり、障害者の親と障害者自身が、医学から、障害を可能な限り速く、すんなりと除いてくれること、そして、それが可能でない場合は、技術的な介助機器によって、生活をできるだけ容易にしてくれることを期待する。誰もそのことを放棄しようなどとは思わない。そこから、医者には、ことによったら相矛盾するかも知れない課題が生まれて来る。つまり、医者には、一方では、障害者における、今なお残っている、自然に備わっている機能を活性化することによって、障害者ができるだけ自立した生活を実現できるよう助けることが要求される。しかし、他方では、そうでなくても困難な障害者の生活を、介助機器を与えることによって、少しでも快適にすることが要求される。したがって、これらの諸々の治療方法の中に、各々の障害者に合った「健康」なバランスを見出だすことが、医者にとっても、障害者にとっても課題となってくる。そのためには、しかし、医者と障害者との間の時間を掛けた、骨の折れる共同作業が必要である。こうして、医者自身の側において、諸々の治療方法と治療目的の間に、深い溝ができることがしばしばである。本当に健康なバランスは、医者の側でも、障害者の側でも、見出だすのが容易でない。そのジレンマの中で取られる解決は、結局、経済的条件の許す範囲内で、該当の諸専門企業が提供する介助機器を選ぶ程度のことになってしまっているのが実情であろう。

    もちろん、技術的な介助の可能性は、これからも、いよいよ精密に、多様に、そして、高度になってゆくであろう。そのことによって障害者が受ける「恩恵」が計り知れないのは確かである。しかし、この休むことを知らない精密化・多様化・高度化に巻き込まれることによって、障害者自身の側に生じるであろう混乱と苦悩も、実は、それと同様な程、計り知れないと言えるのではないだろうか。しかも、その中で、人々がますます孤独になる危険性がないとはかぎらない。新しい情報技術の使用において格差が生じないよう、そして、そこに起こりつつある新しい職業による障害者の経済的自立の可能性を高めるために、障害者用の情報機器が開発され、安く提供されることはたしかに重要なことである。しかし、情報技術による「豊かな」コミュニケーションの陰で始まっている人心の新たなる孤立化・荒廃化を見ぬくことは、もっと重要なのかも知れない。とにかく、障害者自身が、そのことについて、少なくとも、自分で決定を下す、醒めた意識が必要となるであろう。もちろん、この関連において、「自己決定」がどれほど役に立つかは大いに疑問であるにしても。

  19. 優生思想と社会の「健康」
  20. 近代欧米諸国における優生思想は、ダーウィンの遺伝的進化論を人間社会に応用しようとしたゴールトンFrancis Galton〔1822-1911〕の社会的ダーウィン主義をその源流とする。つまり、優秀な遺伝的素質を持った子孫を増やし、遺伝的に劣った、あるいは、病的な素質を持った人々を排除することによって、国民、あるいは、人類を改善しようという考え方である。この思想はまずイギリスとアメリカ合衆国において流行し、相当の政治的影響力を発揮した。その後、ドイツのヒットラーは、この考え方を徹底させ、断種法を制定し、障害者に不妊手術を強要し、彼らを「安楽死」という美名のもとにガス室に送った。

    太平洋戦争下の日本においては、このドイツの断種法に倣う形で、一九四一年国民優生法が制定された。この国民優生法の目的は、「悪質なる遺伝性疾患の素質を有する者の増加を防遏すると共に健全なる素質を有するものの増加を図りもって国民素質の向上を期する事」にあった。戦後ドイツでは断種法は廃止されたが、日本では四八年、優生保護法が制定され、国民優生法の優生思想は、かえって、ある意味では拡大される形で継承された。つまり、優生保護法では、国民優生法における「不良な子孫の出生防止」という目的に「母性保護」が付け加えられ、「遺伝性精神病、遺伝性精神薄弱、遺伝性精神病質、遺伝性身体疾患または遺伝性奇形」などのいわゆる劣勢の遺伝素因を持つものに対して不妊や断種などの優生手術を強制できる条項はそのまま残し、それに、人工妊娠中絶を許可できる条項が継ぎ足されている。

    この法律に基づいて、遺伝病によるものかどうかはっきりはわからない場合でも、重症の障害者に対しては、戦後においても不妊や断種などの手術が行われてきた。また、すでに一八八〇年に制定された刑法における「堕胎の罪」とこの優生保護法とによって、人工妊娠中絶が国の人口政策の手段として用いられる可能性に道を開いた。この優生保護法に対して、女性運動と障害者運動との双方から反対運動が起こってきた。女性運動は、女性が子供を産むか産まないかの自己決定権を主張し、「青い芝の会」をはじめとする障害者運動は、優生思想に潜む障害者差別を糾弾した。この両方の運動の接点を探ろうとした女性の障害者もおり、たとえば、樋口恵子さんという女性障害者は、この運動の要点を次のようにまとめている、「妊娠を継続するか否かを決めるのは女性の基本的人権のひとつであるということ、そして障害の有無によって命が価値づけられるものでもないし、社会環境さえ整えば障害の有無は人生の幸不幸にはつながらず、従って女性の体を通して生命の質を管理することは許されない」(13)。

    一九九六年になって、この優生保護法は改正され、母体保護法が制定された。この母体保護法においてはそれまでの優生思想は一応完全に削除されているが、女性の妊娠継続の自己決定権はいまだに確立されていない。この改正には、日本がこのような障害者差別の法律を保持していては、欧米諸国に対する日本の体面に傷がつくという官僚の外交的思惑が主に作用したものであり、国会で十分な議論がなされた結果ではないとされている。

    ところで、現代における優生思想として一時世界的に有名になったのは、ピーター・シンガーやヘルガ・クーゼなどの一部の生命倫理学者たちの主張である(14)。彼らは、ある種の障害を持って生まれてきた子供たちにとっては、「理性的」に計量斟酌をした場合、生きている喜びよりも苦しみの方が明らかに多い、という功利主義的な理由から、障害を持って生まれた新生児は殺した方がよいとし、しかも、それを「安楽死」という美名のもとに主張している。彼らが障害のある新生児を殺したほうがよいとするのは、しかし、そのことによって、民族、あるいは、人類の遺伝的な優秀性を守るためではなく、その当の子供たちのためだと主張する限りにおいて、この思想はたしかに伝統的な優生思想とは、その理由付けにおいて異なっている。

    悲惨な苦しみを味わった者なら、だれでも、苦しんでいる最中、しばしば、もう死んでしまったほうがましだ、と考えたことがあることを知っている。そして、上に紹介した「安楽死」の思想は、実際、障害に苦しんでいる人々にとって、根気よく障害と付き合ってゆくことを学ぶよりも、死んでしまったほうがよいと暗示しているように聞こえるのである。この暗示の持つ社会的な影響を考えれば、この思想の持つ犯罪性は見掛けよりも余程大きいと言わざるをえない。ヨブも自分の生まれた日を呪い、自分を産んだ胎を呪い、出来るだけ早く死ぬことを願った。しかし、この呪いの凄まじさは、ヨブの自己心の強さと表裏一体の関係にあることを肝に銘じるべきであろう。したがって、ヨブにとっては、「安楽死」はおそらく問題設定そのものが当たっていない。問題は、むしろ、神との出会いにおける自己心との「健康」な関係なのだから。まさに、そこへ到るために、ヨブの自己心は一度徹底的に砕かれなければならなかった。

    ピーター・シンガーの新功利主義的な議論(15)は、なかんずく、幸福と不幸・喜びと苦しみが量的に計りえることを前提にしている。前述したように、現代医学においても、同様に、苦痛を客観化・計量化しようとする強い傾向がある。医学は、しかし、この苦痛の客観化・計量化を絶対化することはない。医学は、多くの技術の中の一つの技術であるに過ぎないのだから、この計量化を絶対化しようとしても、そのような一つの技術としては、できないのは当然である。苦痛を計量化することができることを絶対化し、それ以外の苦しみの経験を排除してしまうのは、ピーター・シンガーやヘルガ・クーゼなどの一部の生命倫理学者たちなのだ。まさに、ここに、問題がある。問題なのは、これらの生命倫理学者たちが、障害者たちの障害とその苦しみについての「肯定的な」経験を全面的に排除してしまう傾向を持つことである。ただ、障害が彼らにとって、一方的に否定的なものであるが故にのみ、彼らは、障害を持つ新生児は殺した方が、大多数の人間の幸福の全体値を高めるのに役立つ、と主張するのだ。そこには、功利主義の始祖であるベンサム[Jeremy Bentham (1748-1832)]が説いた「最大多数の最大幸福」という定式の一変形がある。

    この絶対化において、これらの一部の生命倫理学者たちは、しかし、技術・工業社会の支配的な傾向と一致する。技術・工業社会は、一方的に、技術的に生産可能で、市場経済的に流通可能なもののみを現実として容認し、そうでないすべてのものを阻害要因として排除しようとする傾向を持つ。もちろん、我々は、生き延びるためには、技術・工業・市場経済を必要としている。しかし、この技術・工業社会の諸価値が絶対視されるところでは、人間としての人間の存在が忘れられる危険があまりにも大きい。まさに、ここに、これまで述べてきた通俗的な因果応報が絶対化された姿がある。

    ピーター・シンガーやヘルガ・クーゼたちは、これまでの「人間」を主体とする倫理・道徳は、もはや、役に立たないことが証明された、と主張する。なぜなら、それらの倫理・道徳は、現代の科学技術の進歩に追い付いてゆかないし、その進歩によって出て来た問題の解決を提供することができないからである。彼らは、それで、「人間」を主体とする倫理・道徳の代わりに、「人格」を主体とする新しい倫理・道徳が必要なのだと主張する。この新しい倫理・道徳によって、彼らは、いわゆる生命科学の研究の利益追求と、そこに隠れている技術・工業の利益追求を、これまでの倫理道徳による殺人禁止と人間生命の尊厳の擁護とに対して正当化しようとしている、と見るべきであろう。その際、「人格」とは、自分自身の将来の幸福と不幸・楽と苦を「理性的に」計量斟酌することができるもののことを意味している。「人格」は、したがって、必ずしも人間である必要はないのである。「人格」は、むしろ、それによって、幸福と不幸・楽と苦が「理性的に」計量斟酌される当の「量」の担い手なのである。ピーター・シンガーによれば、実際、ある種の動物も「人格」であり、それを理由に、彼は、動物愛護を推進することを主張している。しかし、ここで、「動物愛護」の隠れ蓑の下に実際に起こっていることは、人間の種々の経験が「量」へと還元され、制限され、その他の経験が排除されるという一方的な思想運動である。

    ピーター・シンガーは、自分の理論を「予見的功利主義」と呼ぶ。それは、彼が、ベンサムのような古典的功利主義者に比べて、幸福と不幸・楽と苦の「理性的」な計量斟酌において、各自の将来についての予見的期待をより強く考慮に入れるからである。ピーター・シンガーによれば、障害のある新生児を殺すのが、倫理・道徳的に許されるのは、次の二つの理由が重なるためである。つまり、第一に、障害のある新生児が、すべての新生児と同様、自分の幸福と不幸・楽と苦とを「理性的に」計量斟酌することができる能力に欠けることであり、第二には、障害のある新生児からは、喜びに充ちた将来よりも、苦しみの方がまさった未来が期待されざるをえないことである。

    障害者を社会、あるいは、国家から排除しようとした哲学者は、しかし、シンガーだけではない。それどころか、プラトンやアリストテレス以来、ほんの僅かな例外を除いた多くの哲学者や神学者が障害者を社会、あるいは、国家から排除しようとした。実際、シンガーは、障害を持って生まれてきた新生児を安楽死させるべきだという彼の見解を、プラトンとアリストテレスによって権威付けている。

    プラトンは、『国家篇』において、国家(ポリス)をいかに正義に基づいて建設するかという問いを展開しているが、そこで結婚と出産について次のように言っている。

    そうして生まれてきた子供たちのうち優れたものたちは、養育所で女性監視員によって育てられるべきであるが、障害や奇形を持った子供たちは当然、人里はなれた、人目の届かない場所に隠されるべきである、と。われわれはここにすでに優生思想といったものが語られているのを発見する。しかし、正義とは何かを執拗に問い、国家において正義が実現されるためには、哲学者が王にならなければならないと語っているプラトンがなぜ、このような障害者差別を語ったのか、正義ということで何が考えられていたのか。

    プラトンがここで「優れている」という言葉で言っていることは、決して、自分の富と権力を守り、拡張する力がある、あるいは、自分の感性的な欲望を満たす力があるという意味ではなく、あくまでも正義を守り、実現してゆく力があるという意味であった。しかし、この正義からは障害者は最初から、しかも、詳しい理由は述べられることなく、当然のこととして除外されていたのである。しかし、プラトンが彼の理想国家から排除したのは、障害者だけではなく、詩人と芸術家も除外している。その理由は『国家篇』において詳しく述べられている。プラトンがその理由を詳しく述べなければならなかったのは、多くのポリスから成り立っていたそれまでのギリシャ世界の統一を担ってきたのはホメロスの叙事詩であり、また、彫刻、建築、絵画、音楽などの芸術であったからである。プラトンによれば、本当の正義は非感性的なイデアであり、しかも、多くのイデアの統一を担っている「イデアのイデア」としての善のイデアである。しかし、我々が生きている感性的世界はそのイデアの世界の模倣物であり、詩人や芸術家が行っているのは、その模倣物をまた感性的に模倣しているのに過ぎない。だから、詩人や芸術家は、善のイデアとしての正義には最も遠いのであり、哲学者は、そのイデアを精神という非感性的な眼で見るのであるから、正義に最も近いのである。したがって、その正義を国家において実現するためには、哲学者が王になるのが最もよい道であり、人々を感性的に扇動する危険のある詩人や芸術家は排除されなければならない、というのである。

    ここで我々が思い起こさなければならないことは、かのホメロスは、イーリアスとオデッセイアという二大叙事詩を作ったといわれている詩人であるが、彼は同時に盲目であり、その意味で、障害者であったと言われていることである。そして、このような詩人や芸術家が担ってきたギリシャ世界の統一は、それぞれ固有な文化を持ったポリスの多様性を受け入れ、それを支えるものであったということである。つまり、プラトンがやろうとしたことは、多様性を上から規定し、支配する統一を構想し実現することであったと言えるであろう。そのような統一は、自分の規定と支配に添わない多様性を存在から排除する。それは、プラトンが統一を感性的事物の多に対する非感性的・イデア的な一として理解するのと軌を一にしている。このイデア的な統一は、もちろん、未だに現代における技術的数量化としての総計的統一ではないが、その方向への第一歩ではある。このようなイデア的な一として人間を理解した場合、障害者はそのような「人間そのもの」からははみ出した、本当はあってはならない欠陥物と見られることになるのである。統一をこのように、多に対する一という対立においてのみ捉え、その一にそぐわない多様性を排除するるのではなく、むしろ、多様性を多様性として成立させながら、しかもその多様性にあらゆる対立を超えた統一を与える「一」を見出すことは、我々にとってもなお一つの重大な課題なのである。哲学は、死ぬことを学ぶことと言ったプラトンであるが、その死は結局、感性的多様からイデア的一へ超越することとして理解されているのであり、その都度の多様なものからその当の多様なものへと超越し、その都度の多様なものにおいて「一」と思い掛けなく出会う出来事としての「死」ではなかった。

    これまで見てきたように、優生思想は、人類、あるいは、国家、あるいは、民族というその都度の人間社会全体の「健康」をその「逆陶冶」、つまり、遺伝的資質の劣化から守り、その優秀性を出来るだけ伸ばすために、それを阻害する要素、例えば、遺伝性の奇形・障害・慢性病をその社会から出来るだけ排除しようとする運動である。この思想が、近代的な科学として自己主張したのは、ゴールトンの「優生学」に始まるが、思想としては、すでにプラトンにその淵源を見ることが出来る。しかし、七十年代以来、優生思想は、ナチズムを想起させるという理由で徐々にタブー視されるようになった。今日、生殖細胞の着床前診断や遺伝子治療などの先端医療技術が進んできた結果、優生思想は、一昔前のように、障害者、特に、障害のある新生児を排除することなど主張する必要がなくなりつつあり、したがって、その差別的性格も見えづらくなりつつある。そして、先進国においては、インフォームド・コンセントが定着化しつつあり、障害があると分かった胎児の妊娠を中絶するか、産むかを母親が決める自己決定権が確立しつつある。胎児に障害があると分かっても産もうという母親は実際、少ないのであるから、遺伝性の障害児が生まれる率も徐々に減って来ているという。こうして、優生思想は表面的にはタブー化されているにもかかわらず、実質的には優生思想の目的が一面では徐々に実現されているかに見える。しかし、もう一方では、まさにこの遺伝学の急速な発展によって、実際の障害や疾病には、複数の遺伝子が複雑に絡み合って作用していることもあり、また、その障害や疾病の決定要因としても、多くの場合、一つの限定された要因でしかないことが明らかになりつつあることも確かなことである。(17)

    人間社会が技術・工業的によりよく「機能」することが「健康」と信じられ、それへの飽くなき追求がこのまま進んでゆけば、生れつきの「障害者」は実際、いつの日か、この地上から消え失せるのかも知れない。この「機能化」は、ますます完璧になってゆくであろうからである。しかも、優生学的処置が生殖細胞における「遺伝子治療」という形で行われるならば、それに対する障害者側の抵抗はあまり期待できないであろう。そして、ヒトゲノムが解読されつつある今日、いわゆる「遺伝子産業」における各企業、各国家の競争はこれからますます激化してゆくであろう。それに伴い、国際的な規模における遺伝子の管理が否応なく必要になってくるかもしれない。それは、これまでにない権力の集中を意味するのかもしれない。

    しかし、いつか、また、「人間とは何か」という問いが立ち現れ、その完璧に機能化した人間社会を根底から揺るがすかも知れない。そうだとしたら、我々は、今日すでに、この問いの根源的な力によって、「健康」に生きてゆけるのではないか。つまり、実は、この問いの内にこそ、機能主義的ではない、根源的な「健康」の秘密が隠れているのではないか。そして、この問いにおいて明らかになることは、あらゆる優生思想がその目標としている社会の「健康」は、実は、健常者の自己心、あるいは、エゴの所産である、ということである。この自己心の特徴は、自分自身に気付いてもいないし、苦しんでもいないことにある。しかし、この自己心が障害者の側に感受されると、そこに苦しみを引き起こすことになる。それは、障害者が、この自己心によって、直接でないにしても、この社会から排除されていると感じるからである。この苦しみを共有しない限り、健常者の側は、その社会の遺伝的優秀性を保とうとすることは当然のことで、それについてとやかく問題にする必要もないと考えてしまうのである。その上、彼らは、優生学、あるいは、遺伝学という形で、科学的客観性、つまり、「真理」を自分の味方につけていると思い込んでいる。

    障害者が、間接的であるにしても、彼が所属する社会から排除されることを苦しみと受け取るのは、しかし、障害者の側に自己心があるがゆえであることは言うを待たないであろう。この自己心も、あらゆる自己心と同様、他者による自己の存在の正当性の承認を求めているからこそ、他からの排除に出会うと苦しむのである。そして、我々の自己心は、排除されればされるほど、絶対の承認、絶対の正当性を求めて止まないのである。この自己心から見る限り、しかし、現代において、我々にそのような絶対の承認と正当性を与えるものなどどこにも無いように見える。あらゆる宗教も、その歴史的な形態においては、相対的であり、そこに「絶対者」を求めるのは無理のように見える。しかし、それは、我々自身が未だにあまりにも、絶対者を客観的真理のように表象できると思い込んでいるからなのかもしれない。そのように思い込んでいる我々の自己心を砕きながら、絶対者は、我々が日常において出会うその都度の物として、我々に思い掛けなく語り掛けてくるのではないか。その時、我々は、自己でありながら、自己であることを忘れ去るあの世界遊戯を遊んでいるのかもしれない。そのとき、あらゆる我々によって表象された「健康」は、この世界遊戯の自己忘却としての「健康」の影のようなものであることが明らかになるのではないか。「人間とは何か」という問いのあの力強さが、実は、われわれには未だに見えてこないこの転換を約束しているのではないか。それは、「人間とは何か」という問いそのものが、表象されたものとしての人間への問いという見掛けを打ち破り、したがって、あらゆる「人間は〜である」という表象や情報には満足せず、我々自身の根源へと旅立つことを要求するからである。

    今述べた自己忘却は、そこからはじめて従容として自己であることが引き受けられる自己忘却であり、現実の社会にある差別や排除に対して無関心になったり、それを仕方ないとして容認してしまうことでは決してない。この自己忘却において、むしろ、障害者と健常者は「人間」として出会い、しかも、お互いの苦しみと喜びを共有しながら、懺悔と感謝において障害者と健常者であることを自覚的に引き受けることができる。そのような出会いが一度でも起こることによって、その社会全体が突然輝き始めることがあるものである。

  21. 結論にかえて
  22. 自分の障害を受け入れ、障害との健康な関係を築こうと試みるとき、我々がまず気付くことは、医療やリハビリテーションにおいて、しばしば、あまりにも「機能主義的」な障害概念が支配していることである。そこでは、「障害」は一方的にマイナスであり、したがって、医療やリハビリテーションを通じて障害者を出きるだけ「健常」な状態に近付けることが課題とされる。我々は、このような障害概念を、我々障害者自身の方に言わば取り返し、障害との健康な関係とは何かを我々自身で規定しようと試みる。しかし、この試みにおいて、我々は、我々自身があまりにもしばしば、あの機能主義的な障害概念の虜となっていたことに思い知らされる。

    この我々の内なる「機能主義」に異議を唱えるのは、最終的には、自分の障害を苦しみながら負っている当事者としての「なぜ私が」という実存的な問いである。それは、「機能主義」が我々の苦しみを一つの量として数値化し、計算し、つまり、客観化することによって解決策を示そうとするのに対して、この「なぜ私が」という問いは、我々自身のもはや客観化され得ない苦しみに出会っているからである。そして、この問いにおいて、我々は古い文化における苦しみの経験と出会い、そこから多くのことを学ぶことができる。

    そこから学び得ることの一つは、古い文化における苦しみの経験が、通俗的な因果応報との対決であったということである。通俗的な因果応報とは、悪い行いからは悪い結果が生れ、善い行いからは善い結果が生まれるという単純明快な思想である。それが通俗的であるのは、その際、何が究極的に善であり、悪であるかを自ら問うことなく、通俗的な善悪・幸不幸の概念を無批判のまま使用しているからである。例えば、障害のような不幸に出会った場合、それを当人、あるいは、祖先の悪業の結果であると断定してしまうのは、このような通俗的な因果応報が背景にあるからである。古い文化における苦しみの経験は、このような通俗的な因果応報説と対決することによって、自らの苦しみのうちに聖なる者との出会いを経験していくのである。

    さて、ここで考えられることは、現代の医療において支配的な「機能主義」が、実は、この通俗的な因果応報説の一変形であるのではないかということである。この現代における因果応報説との対決のうちに、我々が「苦しみに気付かない苦しみ」を我々自身の苦しみとして経験するとき、我々には未だに見えてこない根源的な転換が我々にすでに用意されているのかもしれない。なぜなら、「危険があるところ、救う者もまた育つ」(ヘルダーリン)からである。

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    1. 障害学への招待 ― 社会、文化、ディスアビリティ ― 石川准・長瀬修(編著)p.264f
    2. ヨハネによる福音書 9,1―7
    3. 同上 9,35―41
    4. ブッダのことば ― スッタニパータ ― 中村元訳 岩波文庫 p.140/141
    5. 同上 p.147, 148
    6. ブリタニカ国際大百科事典 17, 314 「仏教」の項
    7. 歎異抄 金子大栄校訂 岩波文庫 p.39/40
    8. 浄土三部経 上 (大無量寿経)岩波文庫 p.139
    9. 歎異抄 p.74
    10. 荘子 内篇 森三樹三郎訳注 中央公論社 p.122/123
    11. 同上 p.131-136
    12. 同上 p.76/77
    13. 「堕胎罪撤廃こそが必要だ」朝日新聞1996年2月2日付け 丸本百合子・山本勝美『産む/産まないを悩むとき』岩波ブックレット、1997年 p.18をも参照
    14. Helga Kuhse, Peter Singer: Should the Baby Live? The Problem of Handicapped Infants. Oxford, New York, Melbourne: Oxford University Press, 1985.
    15. Peter Singer: Practical Ethics. Cambridge: Cambridge University Press, 1979.- Second Edition, 1993.
    16. Platon: Politeia. 459d
    17. 米本昌平、松原洋子、ぬで島次郎、市野川容孝『優生学と人間社会。生命科学の世紀はどこへ向うか』講談社現代新書 2000年 p.253f  


……以上……


REV: 20160118
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