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水俣病は終わっていない

つるたまさひで 2000
『すくらむ』(月刊,大田福祉工場労働組合発行)

はじめに
 「水俣病は終わっていない」ということについて書きたい。きっかけは八月初
旬に東京都写真美術館で行われていた東京水俣展。96年に最初に開催された水
俣展にはとても興味があったのだが、日本にいなかったので行けなかった。今度、
再び東京で開催されると聞いて、行って来た。そして、この展覧会で水俣病とは
なんだったのかという問いをつきつけられた。そして、その会場で購入した岩波
新書「証言水俣病」(栗原彬編・2000年初版)を読んで、その問いは、より
明確に私をつきつけ続けている。この本の年表なども借りながら、以下、書いて
みたい。

水俣病問題の概略
 水俣病がチッソ(新日窒)が出した工場廃液が含む有機水銀が引き起こした病
気だということは説明するまでないことだが、知らない人も多いかもしれないそ
の経過について、少し振り返ってみる。
1953年  この頃から水俣湾周辺で原因不明の患者散発。
1956年  水俣病発生の公式確認。(原因不明の脳症患者4名発生と保健所
に報告、新日窒付属病院から) 
1959年  新日窒付属病院の実験で廃液を投与された猫発症。(この事実の
発覚は68年)
1960年  患者家族互助会と新日窒「見舞金契約」締結。内容は死者30万円
葬祭料2万円、生存患者年金10万円など、「今後原因が工場排水
とわかっても追加保障しない」という内容を含み、後の判決で「公
序良俗に反する」と指摘されたもの。
1968年5月  製造工程の変更により水銀流出止まる。
1968年9月  政府、水俣病についての正式見解発表。厚生省、公害病認定。
1969年〜73年 裁判闘争や自主交渉闘争で「補償協定書」調印へ
1973年〜78年 患者認定基準の問題により未認定患者が増え、患者に補償さ
れないという事態の発生。この問題の顕在化。
1989年〜96年 「和解」への動き
1996年  「水俣病被害者・弁護団全国連絡会議」とチッソ、和解協定書調
印。和解の内容は裁判や認定申請などを取り下げることを条件に
260万円の一時金と医療費・医療手当てを支給。1万人以上が対
象に。(なお「関西訴訟」は和解を拒否し裁判を継続している。)

 この年表で明らかにしたかったのは第一に、水俣病の原因がはっきりしてからも
チッソは製造工程が変更されるまでの約十年間、水銀を流しつづけ、行政もそれを
認めてきたこと。そして、原因を認めた後も「認定制度」の問題で多くの患者を苦
しめつづけ、根本の認定制度が改められることのないまま、多くの患者の高齢化な
どをテコに国・行政の責任をほとんど問わない、非常に不充分なこの「和解」を患
者団体が受け入れざるをえない状況を作ってきたこと。


「和解協定」について
 この96年の「和解協定」に少し触れたい。この結果について水俣病患者連合の
佐々木清登さんは「・・・高齢化が進んで身体はますます悪くなり、そしてどん
どん亡くなっていくことをどうしても考えなければなりませんでした。・・・い
ろいろな問題が山積していましたけれども、決断を先に送れば、解決がいつにな
るかもまったくわかりませんでしたので、本当に身を切る思いで、和解受諾とい
う生涯忘れられない決断をしたわけです。「山を動かすことはできなかった」、
受諾通知のなかにそう書きましたが、私はそのとき初めて人前で男泣きに泣きま
した。」と述べている。水俣展では彼が涙ながらに、和解受け入れについて発表
するビデオが流されていた。
 この和解を「水俣病全面解決」と評価する運動もあり、私たちの労働組合が参
加している大田区労協の水俣支援の運動も幕を閉じたように見える。多くの未認
定患者がこの「和解協定」を受け入れるなか、「支援」の運動は形態を変えざる
得ない。しかし、水俣は私たちに今なお、さまざまな問いを提起し続けている。
以下、その問いのいくつかを概観してみたい。

なぜ、原因解明後も水銀が流されつづけたのか?
 「水俣の証言」の最終章「現代を問う」の扉にこんな文章がある。少し長いが
途中を略しながら、引用する。
「・・・水俣病を生みだしても製造されつづけたのは・・・アセトアルデヒド・
・・オクタノール・・・当時・・・塩化ビニールは、これをもとに作られる可塑
剤を大量に添加しなければ加工できなかった。・・・塩化ビニール製品の普及は
チッソと業界に膨大な利益をもたらす一方で、私たちの暮らしを便利で豊かなも
のに変えていった。日本は水俣病に象徴される悲劇の発生を甘受したからこそ、
急激な経済成長を成し遂げたのである。しかしこの半世紀、豊かさや便利と引き
換えに私たちは多くを失ってしまったのではないか。不知火海とともに病みつづ
けた水俣病と日々向かい合ってきた患者たちの言葉は、この社会の病の深さを気
付かせてくれる。」
 これにつけ足す必要はないかもしれないが、少し蛇足をつける。水俣病の原因
が特定されていたにもかかわらず、水銀が流されつづけた60年代は日本の高度
経済成長の時期とちょうど重なる。その高度経済成長のつけをいまなお、「から
だで払され続けている」人がいることを忘れるわけにはいかない。物質的な豊か
さや便利という麻薬はいまも私たちすべてを支配し、世界中で、いちばん声の小
さい人びとに大きな犠牲を強い続けている。21世紀、私たちはこの流れを変え
ることができるだろうか。

緒方正人さんからのメッセージ
 緒方正人さんはこの「水俣の証言」の最後の証人として、私に上記の問いを思
い起こさせてくれた。そして、制度としての救済ではなく、「個」に帰って魂を
救うことの必要性を説く。(ここだけ書くと、かなりうさん臭いな。)
ぼくが緒方さんと出会ったのは80年代。両親の実家がある水俣の隣り町、水
俣市に次いで多くの患者がいる津奈木町を訪れていた。確か正月?(お盆だった
かなぁ?不確かな記憶)チッソ水俣工場の前でたった一人で座り込んでいる彼の
前を偶然、スクーターに乗って通りかかった。(このスクーター、その昔、水俣
市の教育長をやっていたというおじのスクーターだった。)そこで、緒方さんの
話を聞いた。組織や制度ばかりに頼る運動にずっと関わってきたぼくは最初に彼
の話を聞いたとき、とっても混乱させられ、同時に、とてもひきつけられたのを
覚えている。
 運動の世界を泳ぎまわることで、自分が存在する根拠にほとんど向かいあうこ
とをしないで生きてきた自分がいた、というか今でもいる。緒方さんは「個」に
帰ることの必要性を説くが、ぼくには帰るべき「個」が見つからない。そんなこ
と、考えてもこなかったのだ。
 アジアでの2年の旅を終えて、ぼくはスピリチュアリティという言葉をみやげ
にもらった。その正体はいまだにつかめなくて、説明がうまくできないのだが、
とにかくスピリチュアリティがとても大切だということを頭ではない部分で思い
知らされて、アジアから帰ってきた。緒方さんがいうところの帰るべき「個」の
核に自分のスピリチュアリティがあるのではないかと、今思いついた。。そこに
目を向けようとしないで、バイパスしたまま社会にコミットしてきたし、それは
可能だった。また、一方で社会へコミットすることを抜きにインナーワールドに
閉じこもるのも間違っていると思う。その抜き差しならない関係をもう少し考え
つづけようと思っている。

「障害者にされてしまった」障害者という問題
 水俣病運動には「こんな障害者にされてしまった」という感覚や思いが、いつ
もつきまとっているように感じる。露骨にこういう表現が出てくるわけではない
が、「こんな身体にされてしまった」とか「この子は水俣病のせいで何にもわか
らんようになって」という表現はある。このことは、水俣病を原因としない障害
者の友人・知り合いを多く持つぼくに複雑な感情を抱かせる。
 水俣病運動の世界では、障害のある身体の写真が告発のために多用される。ベ
トナムにおける枯葉材の運動もそうだ。そこからは、その障害を引き受けて、ポ
ジティブに生きていくというイメージは絶対に生まれない。それは明確なマイナ
スイメージのシンボルとして多用される。確かに「されてしまった」というのは
書いたきた通りだ。マイナスイメージを刻印された人たちが、障害のある存在と
して、その生を積極的に生きていくための言説が存在しなければならない。しか
し、ぼくが知る限りでは存在しない。その言説の端緒を障害学に探すことができ
るのではないかと考えている。そして、この「証言 水俣病」の視点はそれにつ
ながることが出来る広さと深さを持っていると思う。

おわりに
 前述の緒方さんの証言の最後の部分を引用する。(ちなみに後書きによると、
この本の証言は水俣・東京展での講演をもとに構成されたもの。緒方さんはこの
文章の確認をお願いした編集者に「講演の瞬間が大事であり、真意は伝わってい
るが、文章化することで自分の手を離れている」ことを強調し、一切の補足訂正
をしなかったという。)

「和解とか救済とかいう言葉が安っぽく論じられまかり通っていく。いくつもの
変換装置がつくられて仕組みの中に組み込まれ、あるいは自ら進んで入ってしま
う。いろんなところでそういうことが起きていると思います。私は、それぞれが
そういう時代の中から身を剥がしていくということを一つ学びました。私もいま
だに救済を求めています。そう願わずにはいられません。それはしかし、今まで
いわれてきたような患者運動、組織運動の中ではなくて、命のつながる世界に生
きるという意味で、、それこそこの世にいる限り、そのことを求めつづけるんだ
ろうと思います。ただ、国のほうを見てではなくて、不知火海を見て、ずっとそ
ういうふうにありたいと思っています。」


  ◆環境

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