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impairment/disabilityの政治

寺本 晃久 2000/04/02 第16回日本解放社会学会大会 報告レジュメ


★以下は研究途上における成果を素描したものであり、むしろ議論のたたき台としてまとめたものですし、また口頭報告の時間的な制約もあるため大雑把なまとめにとどめており、文章としてあまりつめられているとは言えません。転載・引用はご遠慮ください。

  「障害」とは何か? たとえば、1980年に世界保健機構(WHO)が提案した国際障害分類(ICIDH)は、障害を機能障害impairment、能力障害disability、社会的不利handicapの3つの階層にわけた。この分類は、それまで「障害」が個人の病理学的な要因においてのみ考えられていたことに対して、社会的な障壁(barrier)によっても「障害」が生産されるという思想へ道を開いた。しかし一方では、handicapの原因としてimpairmentとdisabilityを設定し、依然として比重は個人の身体的要素に置かれていた。そこで英国のオリバーらによって唱道される障害学は、こうした考え方を医学モデルだと批判し、handicapの考え方をさらに進めて、「障害」の本体は端的に社会的差別や障壁だとする社会モデルをうち立てた(Oliver[1990])。だが、他方社会モデルでは説明できないもの、仮に社会的障壁が取り除かれたとしてもなお存在し続けるもの、つまりimpairmentは残るのではないかといった議論もなされた。こうした意見を受けて、オリバーもその後impairmentそれ自体を否定していないと説明したり(Oliver[1996:35-41])、障害学の中にimpairmentによって起こる身体的経験をも含めて考えるべきだといった議論がなされた。impairment/disabilityがあることによって差別・否定されることに抗し、impairmentをもったままで(”ありのまま”で)社会参加する権利が奪われているという主張は、いわゆる障害学においてだけでなく、さまざまな障害者運動の中で語られてきたことでもある。
  しかし、こうした議論が起こるのは、いかに障害問題において「身体性」に対して目を向けることが困難なのかということを表してもいる。「障害は社会的生成物である」といった言明は、それまでどれほどに社会的障壁・差別が個人の身体にべったりと張り付いてきたかということの反映であるのだが、しかし今度は身体について単純に語ることができなくなる。それでも身体に張り付いたhandicapをそぎおとしていったところに、最後に残る身体の経験をimpairmentとして措定し、それを無価値な単なる物質として扱うことはできるのかもしれない。しかし、われわれはその作業をどこまで行えばよいのだろうか? あるいは、身体のある特徴をimpairmentと名指すこと自体がすでにhandicapを一枚付け加えているのだとも考えられるだろう。
  ここでは、impairmentの物質性についてくわしく検討することはできない。しかし、特に知的障害をもつ人については、こうした障害階層論による分析でさえいまだなお十分に行われておらず、それは「知的障害」という物理的に認知が困難な障害であるという特性をもつからでもあるのだが、  だからこそむしろimpairment/disabilityの認識それ自体が歴史的社会的構築によるものでもあることを浮かび上がらせる。本報告では、明治・大正期(特に1880〜1920頃まで)における知的障害の認識の変遷を例にとり、impairment/disabilityの社会的構成について手がかりを得たい。

 1. 「知的障害」の発見

 「知的障害」は、当初から現在のような形で認識されていたわけではない。もちろん、「障害」そのものがまったく認識されていないかったというのでもない。しかし、しばしば他のカテゴリー(不良少年、犯罪者、孤児、狂人、浮浪者など)とともに存在し、その諸カテゴリーの混在する中にうずもれていたと考えられる。
  日本の近代における社会事業の先駆けのひとつとして、1872年(明治5)10月、ロシア皇太子アレクセイ来日にあわせて、乞食・浮浪者を約240名収容したことをきっかけに設立された東京市養育院(東京都養育院[1974:28])には、設立の初期から収容者の中に障害をもつ人々が含まれていた。1873年6月、不具者で生活困窮者も養育院に収容した。そして同年、入院資格を定め、「一、病者は病宅に置き、廃疾者盲人風癲人等各室を異にして、各室に看護人を付し、療養を尽くさしむ……」と規定した(ibid:37)。また1875年(明8)に、盲人室を回収して狂人室を設け、癲狂者5名収容したことがわかっている(ibid:35)。しかし、いわゆる「知的障害」が明文化されるのはさらに後のことである。1886年(明19)、養育院規則が改正され、その第四条入院資格において、「恤救規則に適合したる者」「十五年以下の遺児にして頼るへき所なきもの」の他に「単身白痴ニシテ頼るへき所なきもの」が規定され、ここで初めて「白痴」が登場する(ibid:64)。しかし、1889年(明22)の「東京市養育院窮民及棄児途上病者一覧表」では、在院者総計275名中「病弱」55名、「不具」9名、「盲人」12名とされているが、「白痴」は分類項目にあがっていない。
 だが次第に、知的障害が社会的な関連の中で「問題」として認識されるようになってくる。
 ひとつは、経済制度や家制度の形成における問題として。1899年に施行された民法において、意思能力に障害がある人に後見人を付与し、本人に代わってすべての財産行為・契約行為を行わせる(あるいは許可を下させる)規定が盛り込まれた(禁治産制度)。この制度は第一に、安定した取引社会を形成するために、取引能力の劣る者をあらかじめ排除した。第二に家産を守ることによって、扶養家族の生命と生活を保証することを目的としていた。能力の欠如によって直接・間接的に他者へ危害を加える可能性がここで認識された。しかし、このとき必ずしも知的障害だけが問題とされたのではない。「心神喪失」「心身耗弱」以外に聾唖者、盲者、浪費者、妻がその対象とされたのである。 
  またひとつは、刑罰(犯罪)における問題として。明治中頃より監獄改良と懲治場・感化院の普及に努めた留岡幸助は、犯罪者や感化院入所者の中に、知的障害によって犯罪を犯してしまう一群の人々の存在を見ていた。1893年(明26)に「犯罪病根論」(留岡[1893])でこう書いている。 「余が観察上注意をひくものは脳髄の不正育、不発育より犯罪する者是なり、吾国の刑法大に進歩せりと雖未だ以て裁判医学の進捗せざるより、犯罪は一時脳髄の狂状より来りたるものも、正邪の判断明らかにして犯罪したるものも同一に処断せられたるものあらざる乎を察するに至りては憐憫の情措く能はざるなり、……脳髄不発育より犯罪せしもの甚だ多を見るなり、……」(23)
  また、1897年(明30)の「白痴の種類及び其教育に就いて」(留岡[1897])においては、「白痴」を(1)看守すべき白痴(The Custodial
 Class)、(2)啓導し得べき白痴(The Improvable Class)、(3)癲癇的白痴(The Epileptic Class)の三種類に分類し、「癲癇的白痴のうちには道徳的白痴なるものありて道義観念の全く欠乏せるものあり、犯罪人の一種には慥に此道徳的白痴なるものあり、余が北海道空知集治監に奉職せし当時犯罪者の中に道徳的白痴なるものを見たり、……」と述べている。
  そして、教育において。日本で初めての知的障害者施設「滝乃川学園」を設立した石井亮一は、しかし当初から知的障害者に注目したのではない。石井は1891年(明24)に立教女学校の附属として孤児を養育する東京救育院を設立したが、その直後の10月28日に濃尾地震が起こり、その被災孤児十数名を収容した。その後、孤児の中でもより悲惨環境に置かれていた孤女の救済と職業教育を目的として、同年12月に滝乃川学園の前身である孤女学院を設立した。しかし、孤女学院における教育の中で、通常の教育方法では教育の困難な子供(白痴児)がいることが認識され、彼らに対する特別の教育を開発する必要性が高まった。1896年(明29)に石井はアメリカに留学し、ミネソタ州ファーリーボールドの白痴学校やニュージャージー州のヴァインランド・トレーニングスクールなどを視察した。孤女学院を滝乃川学園に改称し、初めて白痴児を対象として募集した。けれども、白痴児のみを教育・生活させる施設になるのは、さらに後のことである。また、この時期石井の実践はごく限られたものであったし、教育の機能だけではなく生活困窮者や孤児を対象とした慈善救済事業のうちに「白痴」が認識されはじめた段階であると考えられる。
  公教育の普及に従って、児童の間に能力差が生じることが認識されるようになり、「成績不良児」「劣等児」といった学業成績の低い児童に対する教育が問題となっていった。すでに1880年(明13)に松本尋常小学校で「落第生学級」が設けられ、その後一部の活動として成績不良児のための教育が模索されてきていたが、これは必ずしも「知的障害」をもつ児童を対象としたのではなかった。しかし、その中で教育者たちは「知的障害」を見いだすことになる。後に白川学園を設立した脇田良吉は、1899年(明32)当時を振り返って、「予が低能児教育に於ける研究経路」として後にこう書いている。「予が中間児教育に於ける最初の動機は明治三十二年に京都の某小学校で成績不良児の特別教育をなしたのが始めであるが当時は成績不良児は余り干渉せざる方得策ならんとの考であつた。……而して此の成績不良児は学年の進むにつれて多少の変化をしたものもあつたけれども多くは不結果であつた。故に成績不良児を無干渉でおくは余り無責任であるといふ事に想到して明治三十七年より放課後に特別教授を試むる事にした。所が案外成績佳良であつたから翌年には少し外部に向かつて賛成を求め時の京都府事務官田中勝之丞氏の賛助を得て春風倶楽部というを組織し公務の余暇に特殊教育を試みた。然るに集まる児童には成績不良児といふもあつた又中間児もあり白痴もあつたのである。」(脇田1912:101)
  教育という行いの中で、通常の教授のスタイルに適応しない子供の存在が改めて「発見」され、その「劣等児」への対処法や原因を追求する過程で、逆に「知的障害」が注目されていくことになる。

 2.認識の増大  :不可解なものとしての「知的障害」 

  1900年前後を境にして、「知的障害」への認識が急激に増加・拡大し、多様な言説が生み出されていく中で、徐々に「知的障害」が独立したカテゴリーとして取り出されるようになる。しかし、その内容はいまだ曖昧なままで、表層的な把握に終始する。
  まず精神医学の発展とともに、精神医学の分野からの言及がなされるようになってくる。呉秀三が1894年から翌年にかけて『精神病学集要』前・後編を書いたが、そこで「白痴」が他の精神病(早発痴狂、躁鬱狂、変質狂など)とともに、発育制止症として記述された。だが、さらに後になるまで海外の研究の断片的な翻訳にとどまり、白痴に関する記述は非常に小さな位置を占めるにすぎなかった。
  一方、主に教育の分野においては、「成績不良児」「劣等児」などとして同一のカテゴリーに扱われていたものが、この頃までには怠惰や家庭環境によりたまたま成績の低いだけの者と、生来的・気質的に能力が低い者とを区別して扱うようになってきていた。たとえば1906年(明39)の織田勝馬・白土千秋『小学児童劣等生救済の原理及び方法』は、劣等児から痴愚を分離して記述している。「白痴」はより障害の重度なものとして認識されはじめ、1900年(明33)小学校令改正によって、「瘋癲白痴」「不具癈疾」は就学免除、「病弱又は発育不全」は就学猶予と定められた。またこの時期、東京市養育院の収容者統計において「愚者」のカテゴリーが登場する(虚弱49名、不具51名、盲人44名、愚者161名、老衰23名、幼弱249名)(東京都養育院[1974:101])。また、1901年(明34)までには、白痴、唖の職業として、男は炭団製造又は草引、女は洗濯裁縫や院内の子守をさせるようになったことが記録されている(ibid:134)。
  知的障害は、施設での観察をもとにその行動形態や精神的・身体的特徴がくわしく記述されはじめる。1904年(明37)の『白痴児其研究及教育』(石井[1904])で、石井亮一は、「白痴とは精神未だ発育せず、脳髄の或時期に於る不完全、若くは疾患により、普通の能力を得ることも、又社会生存上の義務を果すことも、能はざるまでに、其発育を障碍せられたる人を云ふ」とし、白痴はすべて先天性によるのではなく誕生の際やそれ以後の発生しうるし、また白痴と瘋癲とはしばしば混同されるが、教育によるある程度の発達可能性があることをもって同じではないのだと述べた(ibid:3)。白痴の特徴として、身体面については発育異常、運動の異常、感覚の障害(普通感覚、視覚、聴覚、味覚、嗅覚)をあげ、精神面については記憶力・注意力の欠如、活動の頑迷さ、愛情深さ、言語障害などをあげた。また、原因に基づいて「白痴」をいくつかに分類した。すなわち生来の白痴、小頭性白痴、水頭性白痴、急癇性白痴、癲癇性白痴、外傷性白痴、ソ衡性白痴、脳硬化性白痴、梅毒性白痴、クレチニズム、覚官欠乏に基く白痴、である。
  同じ頃、岩内誠一は「劣等児童につきての調査」において、数十校の小学校に対して「劣等児童」142名を選び出させ、その家庭環境、両親の飲酒・気質、身体的特徴(発育、肥満、頭の大小・形、頭髪、顔容、顔色、眼、鼻、口、歯、耳、身長など)、過去の疾病、動作、体質、を調査した(岩内[1907])。しかし、そこで提示された多くの統計には、「劣等児」とそうでない児童との比較は一切なく、劣等児間の数字の比較についても目立った根拠はないにも関わらず、身体的特徴を列挙したり、原因を親の遺伝や飲酒に求め、「近親結婚の結果は其数少なきも亦其一原因たるべきは茲にも明にして……親の子に対する義務の重大なる所以を解すべく、面して結婚法の改善が社会上に必要なるのみならずして、教育上亦大に考究を要すべき」(3号:23-4)などと述べている。
 このように、生来的・気質的な障害が取り出されて考えられてきたものの、しかしこの段階では知的能力の障害としての「障害」に対する分析は表層的・主観的なものでしかなく、多くは肉体的・生理的な外見における差異、つまり客観的に測定可能な部位についてのみに分析の目が向けられた。 したがって知的障害それ自体の実態・原因はいまだ曖昧なままで、特に劣等・低能といった境界線上にあると目されるカテゴリーについては独立した「障害」という概念は定まってはいなかった。
  大村仁太郎の『児童矯弊論』(大村[1900])では、「知的障害」を独立して取り出す視点は薄く、通常児における能力の優劣の差異の中に含めて扱われている。能力が欠如しているのは単なる個人の「瑕疵」であり、「児童の性格上に多少の瑕疵ありとて之を指して直ちに病者なりとは称へざるべし」(24)と述べている。瑕疵を把握する方法についても、1)観念力発達の如何(領会力、注意力、記憶力)、2)観念が行為に移り行く方法の如何、3)児童が外界の刺激に対する状態の如何、4)倫理的竝に審美的概念の如何、において認識するのだとし、観念的な水準での把握に終始する。ストリュンペルらの説を借りながら、瑕疵の中でも生得的/外来的、急性的/慢性的、天然的/人為的、先天的/後天的といった区分を行っている。また、[1]感情及感覚の範囲に属する瑕疵(放縦、高慢、無遠慮、悲哀、神経過敏、……)、[2]観念の範囲に属する瑕疵(痴愚、放心、怠惰、早熟、空想・妄想、…)、[3]意思及行為の犯意に属する瑕疵(多弁、不器用、偏食、収集癖、詐欺、動物虐待、卑猥、……)、の三種類に分類した。こうした分類によれば、単に性格や倫理観念や行動、しかも外見的に認識可能な要素に注目したものであることがわかる。
  また、1908年(明41)に留岡幸助は、内務省の主催で開かれた感化救済事業講演において、不良行為や犯罪の原因や分類について述べた(留岡[1909])。原因には、自然的原因(気候、温度、四季)、社会的原因(社会制度、人口過密、経済、不景気、米価、法律の精粗、教育、社会状態、飲酒、友人関係、家庭、愛情)、個人的原因(男女の肉体差、遺伝)をあげた。彼は犯罪の原因を知的能力の欠如のみに求めたのではなく、また能力の欠如を認めたとしても、かつて「生来良家庭良境遇に生育せざるを以て云はば発達進歩の機会を失ふたるものなり、故に彼等は良家庭を有せず、良父母なく況んや良学校をや、彼等は貧にして生活に必要なる金銭なきが為に社会の継児として待遇せられ心は曲がり気は倦めり、犯罪者の多くは教育なく常識なきは此が為而己、常径を脱して不義の街に彷徨するも自然なり」(留岡[1896:139])と述べたように、生育環境によって発達が阻まれてきたという。個人的原因である遺伝についても、遺伝決定論で片づけてしまうのではなく、「遺伝の力は人力の如何ともすることか出来ぬといつて躊躇するやうては兎ても目的を達することは出来ぬ。感化事業の徹底は飽まて精力主義て忍耐に忍耐を加へて最後まて奮励せねはならないのてある」(留岡[1909:154])と、感化事業の一層の社会的役割を説いた。
  しかし先述のように留岡は、感化院での実践の中で、入所者にうちにある種の知的障害者を見ている。しかし、知的障害という確固とした認識ではなく、何か不可解なものを見るような目で「惰怠児」として認識している。「彼等は十五分と仕事を続いてやることは出来ぬ。私の処ては十五分間熱心に仕事をするやうになると改良の端緒に就いた者と認識することになつて居る。その怠惰さ加減は女の先生か井側て洗濯をして居ると其の側て見て居るのてある。参考のためにても見て居るのてあるかと思ふとさうてはない、無意味に茫然として居るのてある。井側て見飽か来ると今度は畑の畦に立つて見て居る、さうかと思ふと又ふいと他に行くといふ風て、詰る所それは極つたことをするのを嫌やかるのて結局何もしないのてある。少し能くなつたと思つて外の学校をさせると直くに又他へ転学を願ひ出つる、ちつとも忍耐力かないのてある。此惰怠児の中には馬鹿のやうな者もある。」(159-160)

 3.知能検査以後

  知的能力それ自体における測定や分類ではなく、身体的特徴、しかも外形の特徴において「知的障害」をとらえようとしていた。しかし、一定の経験的・外見的な観点からの分類はあったものの、観察者の主観に従う曖昧な分類であり、外部に明かな障害が認められない者(低能児など)についてはいまだ曖昧な認識でしかなかった。1908年(明43)に、日本に知能検査が紹介され、
  1905年に初めてフランスで知能検査(ビネー・シモン法)が開発されたが、その3年後に三宅鑛一と池田隆徳が日本で初めて紹介した(三宅・池田[1908])。ビネーシモン法は、設問を増やすなどによって1908年版、1911年版と改訂されたが、大筋では、知能検査によって得られた指数によって知的障害を白痴・痴愚・魯鈍(軽愚)に分類するものである。日本ではその後、市川源三[1911]らによって紹介されたが、1915年(大4)に三田谷啓がボーベルタッハのビネーシモン法の改訂をさらに日本版に翻案してから(三田谷[1915))、その後久保良英や鈴木治太郎らによって日本の児童に関する知能検査に基づいた改訂が行われていった。こうした知能検査導入からさらに多様な言及がなされるようになり、量も増えた。しかしそれまでとは明確に異なる規準による測定・分類が生み出されていく。ひとつには、精神神経医学における言説が増大し、知的障害の分類はより細分化した。これは、知能検査の登場によって、それまで接近の困難だった「知能」そのものへまなざしを向けることが可能となったためである。導入以後、個々人の主観によらない共通の尺度に従った分類に移り変わっていった。そして、このことがより大規模な調査や精神鑑定を可能にした。そして、知能検査に基づいて、身体的特徴、心理的・道徳的、遺伝的な特徴や原因を知能とを関連づけた調査が各地で行われるようになる。しかし同時に、身体への注目もさらに深まった。身体への注目はそれまでにもあったが、体重や頭部の大きさや感覚といった外見の観察によって容易に計測できるものだけでなく、さらに体内の脳や神経系統それ自体の状態に対してもまなざしが向けられ、より分析が精緻になっていく。
 (1)医学
  精神神経医学における言説では、呉秀三や三宅鑛一らが果たした役割が大きい。
  たとえば、1908年(明41)に富士川游・呉秀三・三宅鑛一が日本児童研究会第一回講習会で講演したものをまとめた『教育病理学』がある(富士川・呉・三宅[1910])。ここでは、まず富士川が精神の異常を「精神低格」と「精神薄弱」とに分けた。「精神低格」とは、「児童の身体に、何か精神病的の原因があつて、その精神生活が、異常の有様を呈するもの」であり、知能に関わる異常ではなく「主に感情と意思の方面、ひつくるて、簡略にいへば、性格の異常といふもの」である。「精神薄弱」は「児童の身体に何等かの原因があつて、その精神の発達が抑制せられたものであつて、主に智力の障碍が顕はれる」ものとする。(ibid:15-6)
  呉によれば、精神低格=精神病には二つの種類がある。一つは俗に気狂すなわち瘋癲であり、その一つは俗に馬鹿すなわち白痴の二種類。白痴には更に、鈍愚、痴愚、白痴の三種の程度を区別できる(ibid:20)。また精神低格を、精神の異常と身体の異常とに区別し、精神の異常には、感情の異常、智力の異常、意思の異常があり、身体の異常には、発育不良、貧血、頭・歯・耳・鼻・口・眼・指の異常、五感の異常、癲癇、けいれん、ヒステリー、アテトーゼ、チック、麻痺、言語障碍などがある。
  一方、三宅は精神薄弱を「智恵の足らぬもの」とし、狭義のものと広義のものとに分類する。狭義の精神薄弱とは、「生来又は一歳位のんときに病を得て精神の発育が完全でないもの」であり、ここに白痴、痴愚、魯鈍が含まれる。広義の精神薄弱とは、生後二三年以後に疾病、又は其他の原因のために、智力が十分でないもの」、つまり精神衰弱とする。白痴は、被教化不能白痴(白痴院なり、又家庭に於て保育さるべきもの)と、被教化性白痴(特殊の白痴院、又は其他の場所に於て、教育せらるべきもの)とに分けられる(ibid:154)。狭義のものは、遅鈍性と興奮性とに区分することもできる。また、知能だけではなく道徳心の問題としても分類される。「智力に比して徳力の著しく侵されるものがある、これを悖徳病者と名付けます」(ibid:155)と述べる。
  三宅は、さらに1914年(大3)の『白痴及低能児』で、自らの行ってきた調査研究や内外の医学・教育学的知見を用いて、分類を精緻化していく。すなわち、最劣等白痴、軽性白痴、遅鈍性白痴、興奮性白痴、低能(痴愚)に分類し、さらに低能の中に、虚談症、悖徳病、軽躁病、ひすてりー性、躁鬱病、強迫観念症、神経衰弱症、をもつ者が存在することを示した。(三宅[1914])
  また、彼らは精神的・心理的な水準についての診断・分類だけでなく、脳神経の内部についての診断も同時に行った。呉やその門下の者たちは、脳のレントゲン撮影や解剖を数多く試し、脳水腫に白痴の原因を探ろうとした(呉[1915]、樫田[1915]、佐藤[1918]など)。三宅は『白痴及低能児』などで、より身体内的原因による分類を行った。すなわち小顱症、胼胝体欠損、先天性脳水腫、炎症性脳疾患、穿孔脳、脳性小児麻痺、遺伝徴毒、幼年性麻痺性痴呆、家族性黒内障性白痴、生来性皮質外中軸発育制止症、結節性硬化、くれちにすむす、胸腺性白痴、もんごりすむす、いんふぁんちりすむす、などである。
 (2)教育
 公教育においては、この頃すでに義務教育が普及し、白痴児や劣等児に対する特別学級・学校が次々とつくられるようになった。前述のように、滝乃川学園がさきがけて白痴児への教育を行っていたが、1909年(明42)、脇田良吉が京都で「白川学園」を設立、1911年(明44) には川田貞治郎が「日本心育園」そして1919年(大8)に大島藤倉学園を設立した。また1913年(大2)には、東京市養育院から分かれて子供の教育のためにつくられた児童施設「巣鴨分院」で低能児のための学級「異常児学級」が設置された。1907年(明40)に文部省訓令「師範学校規定制度の要旨及施行上注意」において盲人・唖人・心身の発育不完全なる児童の教育と教育方法の研究を目的として特別学級設置を奨励した。これをきっかけに、各地の師範学校で劣等児の特別学級が設けられていった(大井[1975])。
  こうした状況の中、公教育においては就学免除によって白痴児は排除されていた一方、劣等児・低能児に対する教育問題にむしろ注目が集まった。たとえば、乙竹岩造の『低能児教育法』(乙竹[1908])と脇田良吉の『低能児教育の実際的研究』(脇田[1912])がこの頃の代表的な著作であるが、いずれも低能児を中心的に扱っている。脇田は、白川学園における教育の中で数名の児童と寝食を共にし、詳細な記述を行っている。児童を、普通児・低能児・変態児に分類し、変態児は明らかに身体的・精神的に障害があると認められるものであるが、彼は、変態児と普通児との間に、「心身の発達普通児に劣りて白痴盲唖病児又は悖徳児の如く目立たる欠陥を有せざるもので中間状態にある児童」、つまり低能児=中間児を見いだす。そして、さらに中間児を、能力遅鈍性、精神異常性、身体虚弱性、機関障碍性、心性不良児、の5つに分類した。
  また、この頃から後、教育の分野においても、徐々にではあるが、知能検査を用いたさまざまな調査が行われるようになる。大規模で継続的な調査の例としては、1921年(大10)から滝乃川学園が東京府の委託を受けて設置した児童研究所が実施した調査があげられる(東京府児童研究所[1933]、石井[1933])。スタンフォード・ビネー法の智能検査に基づき、1921年(大10)10月から1932年(昭7)12月にかけて、東京府下の3〜20歳の児童4328名を調査した。
 (3)犯罪
  前述の留岡などにおいて認識されていた課題のひとつは、犯罪を犯すことや非道徳的・反社会的行為が、生得的あるいは気質的な原因によって引き起こされるものなのかどうか、社会的要因によるものなのかどうか、という問いであった。しかし、この時期以降、知能検査を用いた犯罪者の調査が行われるようになる。そして、犯罪者の中に知的障害が多数存在することを見いだす。
  たとえば、1909年(明42)に、知能検査を日本に紹介した三宅鑛一と池田隆徳は、懲治場・感化院である熊谷町保護学校63名、浦和市埼玉学園25名を対象に犯罪と知能との関係について調査した(三宅・池田[1909])。すでに紹介されていたロンブローゾの犯罪研究に従い、身体的特徴を調査し、智力検査を実施した。彼らはそこで、感化院入所者のうちに、「重症の痴愚と思はるるもの二〇人、軽症痴愚者と思はるる者一五人、之を合して痴愚者と思はるるもの合計三五人、魯鈍者と思はるる者二二人、先普通と思はるる者三の一人と認定せり」という結果を得た(ibid:316)。「其内最多きは病的に精神発育足らざるもの就中医学上痴愚と名付けらるべきものなることを示し是等を救済すべき為には社会の状況一般改善は勿論各個人に就きては個性教育を以て最大主眼とし、特に精神発育足らざるものには強迫的教育殊に低格者教育法を必用とす。」(ibid:318)
  また、三宅と杉江薫は1911(明44)年7月に、在姫路陸軍懲治隊懲治卒の50名を対象として智力検査を実施し、その他遺伝(両親その他近親の精神病・神経病、飲酒、性格異常など)、疾病、精神及び神経系の疾病、教育程度、成績の良否、性行、経歴、家庭の状況、貧富、境遇、地方の風俗、不良行為、入営後の性行、学業成績、勤怠、犯罪歴などについて調査した。彼らはそこでも痴愚や魯鈍などの知的障害を多く見いだし、「痴愚一七例、魯鈍九例、変質者(刺激性、意志薄弱者、飲酒不堪、盗癖、興奮性、「ヒステリー性」、生来犯罪者、発揚性等)一八例、普通のもの僅かに六人なるを見たり」と報告している(三宅・杉江[1914:352])。そして「痴愚者、魯鈍者及変質者にありては常人よりも道義心薄弱にして性欲を抑ゆるの力乏しく感情の激変甚だしく智力発育亦不十分にして誘惑に拮抗し難く、自活の途を得るに乏しく、其等の結果容易く累犯に陥り易き素因を有するものと認めざるを得ざればなり」とコメントを加えている(ibid:353)。 
  この頃にはすでに、犯罪者の中で知的障害を原因とする者とそうでない者とがかなり明確に区別して認識することができるようになっていた。しかも、知的障害と言っても、重度の位置に置かれた白痴ではなく、痴愚や魯鈍といった、中間の領域にあるとされた者が注目され、分析や記述がなされた。脇田良吉は、日本児童研究会第七回総会で、「低能児も道徳を教えることが出来るか、どーか、又何処迄教えることが出来るかといふことは、低能児教育に従事するもの、最初に研究せねばならぬ問題」だと述べた(脇田[1912b])。同じく杉江薫は、次のように語った。「痴愚と名くるものは、先天性及後天性に精神発育の制止せる場合を総括せるものにして、所謂精神薄弱者なり、……其の精神薄弱に基き、経験知識に乏しく、記憶、推理、判断能力脆弱にして、行為及び其結果に対する熟慮詮考、是非辨別を欠き、高尚なる道義的観念及び之に伴なふ感情欠漏して、悖徳性となり、意思も亦減弱して性欲の発動著しくして衝動行為多し、斯くして痴愚者には反社会的となるもの多く、……痴愚の鑑定は軽度の場合に於いては困難なり……」(杉江[1912:371])
  ただし、犯罪の原因を知能のみに還元する言説は、後年になってやや変成することになる。石井俊瑞(司法省嘱託)は1927年(昭2)にこう述べた。「とにかく不良行為と云ふのは相対的意味であつて、一般社会が享け入れて居る社会的法律的標準から逸脱して居る場合であると解してよからう。処が斯う云ふ犯罪的行為をする不良少年の多くは、精神欠陥者であることが多く、殊にさう云ふものの中精神薄弱(Feeble
 minded)と称せらるる場合に、従来の学者はどう云ふ風に解釈し決定して居るかそれについて少し考察して見たい」(石井[1927:4])。ここで彼は、不良行為をその社会における標準からの逸脱であると定義し、社会環境との関係の中で生じるものだとした。したがって個人の障害はあるとしても、社会的条件も同時に見なければならないとした。「然し勿論吾々は何れにも偏することなく、生来の禀賦と環境とをよく見なければならぬ事は言を俟たない」。しかし、彼はこう述べた直後に、結論としては個人の障害によって犯罪を説明する。「何れにしても精神欠陥あるものは、知能あるものよりも悪い影響に依つて犯罪者となることが多いのである。それはターマンも云つて居ることであるが、吾々の道徳性の第一歩たる善悪を判断する知を欠いておるのであるから、第二の意志能力がどうであらうと、既に見込みがない理である。即ち欠陥あるものは可能的犯罪者であるのである」(ibid:11)。
 (4)優生学
  知能と犯罪に関するさまざまな研究は、優生学へとつながり、さらに多様な言説が生み出されるようになる。優生学の登場の背景には、おそらくは1910年代までに準備されていた視点、すなわち知的能力そのものを客観的に測定可能なものとして扱うこと、それを基に分類すること、そして共通の測定方法と分類にしたがって大規模な調査を実施できること、またこの調査によって貧困や犯罪と知的能力とを結びつけること、という視点が大きな要因のひとつであると考えられるのではないか。
  1905年にゴルトンの『天才の遺伝』が翻訳されたり、19世紀末から20世紀初頭にかけてあいついで制定された精神病や知的障害をもつ人の結婚や生殖を制限した州法が紹介されるなど、海外の思想や法律の情報がもたらされた。(石川[1912]など)。また、1912年にはゴダードによる家系研究「カリカック家」が行われたが、これもまもなく日本に紹介されることになる(1916年(大5)から川田貞治郎が渡米した際に、ゴダードの遺伝研究に触れ、関心を示している(川田[1916]))。  
  1917年(大6)、三田谷啓は「特殊教育論」を著し、「国民の身体と精神の改善」を説き、その文脈に置いて特殊教育を捉え直している。まず、彼は国家の重要問題を「日本民族の改善……云ひ換へて見ると日本の国民がいかにしてより強くなり、より賢くより道徳的となるかの問題」とし、国民の身体と精神の改善には積極的(優良な者を育成すること)と消極的(精神病者・犯罪者・貧民などの保護)があると述べる。そして、「消極的のことを棄てて顧みずに置くとその為に積極的の事業が障碍を受ける」(三田谷[1917:62])とする考えのもとに障害児への特殊教育の有用性を主張する。特殊教育の対象である「異常児童」を主に二種に分類する、つまり(1)身体的異常児童(不具・廃疾・盲児・聾唖児・難聴・言語障碍・癲癇性児童等)と、(2)精神的異常児童(1.先天性及び後天性精神薄弱にして終生その状態に止まるもの、2.精神病的性格、3.急性及び慢性精神病。(1.の「精神薄弱」はさらに白痴、痴愚、魯鈍に分類できる))。このように定義した上で、異常者の存在そのものの損失を次のように述べた。「国民の中に居る異常者の数が多ければ多いだけ国家の損失である。異常児童殊に今論ずるところの精神薄弱者が多く居る場合には却て他人に手数をかけることになるのである。即ち精神薄弱者自己は国家の為に盡すことの出来ぬのみならず普通の人の労力を殺ぐことになるのである」(ibid:63)。そして国家の損失は精神的・物質的両面にあり、精神的な損害は国民全体の精神能力の平均をさげることであり、物質的損害は異常者を生存させるための国家の金銭的負担であるとした。また「犯罪者、浮浪者、不良少年少女等のうちに多数の精神薄弱者の含まるることは確かである」と、犯罪と知的能力を結びつけ、このことがさらに犯罪者に対する精神病院、監獄、養育院、警察等にかかる国家の負担となるのだとした(ibid:64)。しかし、だからといって知的障害者を切り捨てることをよしとせず、逆に特殊教育の必要を説くのだが、ここにはある計算が伴っていた。「特殊の方法で教育を施すとその効果は大抵見らるるのである。勿論言はばコンマ以下のものをコンマ以上にすることはいくら特殊教育でも出来ない。しかし假令〇.八としてもその〇.八たけの性質を善良の方面に発揮することが出来たらそれで己によいのである。若しこれに反対に教育を加へずして其のままにして置けば〇.八が或は悪道に入り、或は不用のものとして止まると言ふわけになるのである」(ibid:66)。また、この教育には生前教育すなわち障害者の生殖制限(「遺伝の方面で、俗に言ふ氏」)と、いわゆる教育としての生後教育教育(「育ち」)があるとした(ibid:72)。
  以上が三田谷の主張だが、ここにはいくつかの計算が働いている。この「計算」に、それまでにもあった遺伝研究との相違を見ることができる。まず、優生学において「優良」なものを増やし「異常」なものをへらすことが目指されるが、そもそもの「優良」「異常」という概念が何なのか定義されなければならない。ここでは特に「異常」を細かく定義づけたのち、それらの数が増えることがすなわち国家・国民の精神的・物理的負担となって返ってくるという。ここですでに個人の障害は単に個人の問題ではなく、存在することそれ自体が犯罪や保護と結びつけられ他者への危害・負担となっている。犯罪者や貧困者に知的障害者が多いという言説は、知能の明確化とそれに基づく調査によって正当化される。また、障害者の数を特定できるという前提があってはじめて、国家の金銭的な負担や精神能力の「平均」といったことが計算可能になるのである。単に切り捨てることは、逆に障害者の数を増やしたり犯罪の増加によって「優良」の者を脅かすため、やはり一定の保護を行った上で、少しでも「優良」へと近づけるために積極的・消極的に教育が必要となるのである。

  4.要約

  まとめよう。@諸カテゴリー(低能児、劣等児、不良少年、犯罪者、孤児、貧困、浮浪者、精神病……)が混在・または不認知の段階があったが、教育や刑罰や経済制度の確立とともに「知的障害」が認識されるようになった。
 @そこで「知的障害」が独立したカテゴリーとして扱われ、そして身体的な原因を探る試みによって、能力の欠如が生来的または気質的な障害だとされてきたものの、多くは肉体的・生理的な外見における差異、つまり客観的に測定可能な部位についてしか分析することができなかった。それでも、健常と白痴の間に、一定の幅をもった層が存在することが認識されるようになり、「白痴」はより能力的に下位に置かれ、しかし他方、白痴の上に中間児や痴愚や魯鈍のように、白痴に比較すれば能力は高いが健常ではないカテゴリーを新たに作り出された。けれども、中間的な層は確定することが困難であり、そのために分類する者によってどのようにも分類しうる、曖昧なものとして認識された。そのためこの層については独立した「障害」という概念は定まってはいなかった。しかし、だからこそ中間的な層が問題となり、注目されたのである。知的障害それ自体の実態・原因はいまだ曖昧なままで、知能の低下や犯罪は、何が生来的・気質的な原因によるものであり、何が環境要因によるのかについては不可知であった。
 Bしかし、知能検査が導入され、認識は大きく変わる。知能や精神に対する接近が可能となり、さらに分類が精緻になっていく。教育については、白痴は「発達の制止した者」としてのみ理解されていたが、劣等・低能と白痴は分離され、しかも白痴の中でも教育可能性が追求され、しかし一方では生来的に教育不可能な者が区別されていった。あるいは、成績不良児や劣等児などとして一括に考えられていたものが、次第に分類されて教育不可能/困難な白痴と、白痴よりは能力的に高いが一般的な教育様式になじまない劣等児・低能児とが区別され、そして一方は教育から排除され、他方は教育に組み入れられていった。
  だが、このように医学や教育において知能そのものへまなざしが向けられたのだが、それは身体的なものを排除したのではない。しかしそこでは、身体に対するまなざしも再構成されていったのである。一旦は精神/身体の二分法によって分割され、それぞれに分析が追求されていく。しかし同時に精神と身体が相互に関係づけられ、精神が肉体に影響を及ぼし、また身体が精神に影響を及ぼすという枠組みにおいて認識が展開されていった。また、共通の規準ができたことによって、より明確な分類が可能になり、大規模な調査ができるようになった。その中で、知能が道徳の欠如や犯罪と結びつけて考えられるようになった。たとえば「道徳的痴愚」「背徳病」として、環境を原因とする犯罪から区別された。共通の規準と調査はまた、より大きな抽象的な水準における計量の可能性へと道を開き、優生学と結託していったのではないだろうか。
  ここまで述べてきたように、impairmentやdisabilityがあらかじめ所与のものとしてあったのではなく、むしろ、人々の認識や分類が深まることによって、さまざまな規定や概念がつけくわわり、逆にimpairmentやdisabilityがつくられていったという側面もあると考える。知的障害の歴史は、常に線が引かれる歴史でもある。

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 @諸カテゴリー(低能児、劣等児、不良少年、犯罪者、孤児、貧困、浮浪者、精神病……)が混在・または不認知
A知的障害の「発見」。独立したカテゴリーで扱われる。
   ・発達・教育不可能
   ・犯罪の環境要因
 ・生来的・気質的なものの不可知
   ・外見による分類
   ・精神/身体の混在       
A知能検査導入・内部へのまなざし             
   →劣等・低能と白痴を分離。教育不能/可能を区別
   →道徳的痴愚を環境要因による者から区別。知能と道徳・犯罪との結託
  →生来的・気質的要因と環境要因を区別。
   →知能自体による分類。身体内部への解剖学的知見。
   →精神/身体の区別と再構成
  ・調査・計量の可能性……身体的特徴、心理的・道徳的、遺伝的特徴
 →優生学へ
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文献
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UP:2000 REV:20081127
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