重度障害者の地域生活を支えるシステム
−新しい介護サービスの可能性を求めて−
田中 恵美子
日本女子大学大学院
人間社会研究科社会福祉学専攻
博士課程前期 (98-72-007)
last update: 20151223
重度障害者の地域生活を支えるシステム
−新しい介護サービスの可能性を求めて−
日本女子大学大学院
人間社会研究科社会福祉学専攻
博士課程前期 (98-72-007)
田中恵美子
2000
目 次
序章 1
i 課題 1
ii 先行研究 3
iii 研究方法 9
iv 論文の構成 10
第1章 「自立生活」への道−戦後障害者福祉政策と障害者運動 12
第1節 戦後初期の障害者福祉政策と障害者運動 12
1. 戦後初期の障害者福祉政策 12
2. 戦後初期の障害者運動 14
第2節 戦後復興期以降 16
1. 運動の広がり 16
2. 障害者運動の変化 17
第3節 「自立生活」への胎動 18
1. 二つの「センター闘争」 18
2. 介護者を巡る問題 21
3. 介護の位置付け 22
4. 分裂と連帯 24
5. 介護料を巡る行政の対応 25
第2章 問われてきたこと 27
第1節 「知」に関する議論 27
1. 障害者たちの主張する「経験知」 27
2. 「臨床の知」と介護における知の課題 29
第2節 「ニーズ」に関する議論 30
1. ニーズを巡る議論 30
2. 介護におけるニーズ把握の課題 34
第3節 「自己決定」に関する議論 35
1. 「自立生活」における自己決定を巡る議論 35
2. 「生活」の中での「決定」とは 36
第4節 介護関係への問い 37
1. 向かい合う自己と他者 37
2. 介護における「主体」とは 39
第5節 サービス提供者として介護者に要求されている役割 40
1. 専門職の定義 40
2. 介護者を専門職化することの意味 42
第3章 練馬区介護人派遣センターの概要とサービス 44
第1節 練馬区介護人派遣センター設立に向けた運動の営み 44
1. 萌芽−練馬区在障会 44
2. 介護システム試行 45
3. 介護人派遣センター構想 46
4. 自立生活センター 47
5. 練馬区に介護人派遣センターを 48
第2節 練馬区介護人派遣センターの特徴 51
1. 介護専従体制 51
2. 介護料全額プール制 52
第3節 地域での暮らし−センターのサービスを利用して 53
1. 1日の流れ 53
2. 地域での暮らしと施設での暮らし 55
3. 生活上のニーズを知り、自分で決めることの意味 56
第4節 介護関係の特徴 57
1. 相手を見るということ―評価すること 58
2. 距離・リズム 59
3. 受けとめるということ−自由になるために 59
4. 一体化していく作業 60
5. 介護関係が揺らぐとき・介護を否定されるとき 62
第5節 介護者と障害 63
1. 介護者の位置 63
2. プロということ 64
3. 障害の位置 65
第4章 新しい介護サービス−実践を検証する 68
第1節 「知」について 68
1. 介護における知識―「協働知」 68
2. 「協働知」を継承する 72
第2節 ニーズについて 73
1. ニーズを誰かが測定することの意味 73
2. 介護におけるニーズで重視されること 75
第3節 自己決定再考 76
1. 「自立生活」障害者の目指した方向 76
2. 自分で決める?−介護場面における自己決定 77
3. 自由とは 78
第4節 障害者と介護者の関係 80
1. 他者ということ、自分ということ 80
2. 介護関係に見る「自己」と「他者」の関係 83
3. 融合の限界 84
第5節 「介護者」という役割−サービス提供者として 85
1. 自己・他者・関係→役割 85
2. 役割取得・役割形成 86
3. 障害者の望むプロ=専門職としての介護者 87
終章 新しい介護システムのために 89
第1節 結論 89
1. 課題に対しての結論−新しい介護サービスの可能性 89
2. 残された課題 91
第2節 今後の方向と残された課題 93
文献目録 99
謝辞 109
序章
i 課題
本研究における課題は、地域に暮らす障害者と介護者の人間関係を通じて、サービス利用者と提供者の対等な関係がどのように構築されているのか、そしてそれを可能にし、支えるシステムとはどのようなものなのかを明らかにすることである。
対等な関係を目指す動きは、今日の社会福祉における目的の一つとなっている。1998年6月に中央社会福祉審議会社会福祉基礎構造改革分科会が公表した中間まとめ、「社会福祉基礎構造改革について」の中で、分科会長の木村尚三郎は「戦後、社会福祉は上から下への恩恵的な福祉という形をとっていた。これからは、江戸時代の言葉を使えば相対と言うことになるが、対等の原理に基づいた福祉、しかも国民全ての人にとっての福祉に変わっていくのであり、今はその転換期にあると思う」と述べている[厚生省社会・援護局 1998 序に代えて]。そして、「改革の基本的方向」である7つの柱(01)の第一番目として、「サービス利用者と提供者の対等な関係の確立」が掲げられ、「個人が尊厳を持ってその人らしい生活を送れるよう支援するという社会福祉の理念に対応し、サービスの利用者と提供者との間に対等な関係を確立する」と述べられている。
さらにこの中間まとめを受けて2000年4月施行を目指した「社会福祉基礎構造改革について(社会福祉事業法等改正法案大綱骨子)」がまとめられた。その理念として「個人が尊厳を持ってその人らしい自立した生活が送れるよう支えるという社会福祉の理念に基づいて、本改革を推進する」とあり、具体的な改革の方向として(1)個人の自立を基本とし、その選択を尊重した制度の確立(2)質の高い福祉サービスの拡充(3)地域での生活を総合的に支援するための地域福祉の充実が掲げられている(02)。
こうした動き、すなわち「サービス利用者と提供者の対等な関係」や「自立」、「選択の尊重」、「地域での生活を総合的に支援する」ということは、これからの社会福祉のキーワードとして掲げられているのであるが、すでに障害者運動の中において目指されてきたものであって、決して目新しいものではない。戦後障害者運動は、彼らにとって恩恵的で一▲01▲方的な配慮を押しつけてきた福祉(03)を、無条件にまとわりつく親の愛(04)を否定し、自らの力で自らの人生を選択し生きる生活形態を創り出してきた。「日常的に介助=手助けを必要とする障害者が『親の家庭や施設を出て、地域で生活すること』」=「自立生活」[安積他 1990/1995:1]とはそうした生活形態である。彼らは、介護者というサービス提供者とともに、「自立生活」を可能にするサービスやサービス提供組織を創り上げてきた。そして現在では全国組織が設立されるまでに至っている(05)。
本研究は、「自立生活」を送る重度の障害者とその生活を支える者たち=介護者が創り出した地域生活の一形態についての記述的研究である。ここでは介護関係を、従来の社会福祉サービスにおける介護関係の理解、すなわち「介護する者」と「介護される者」の関係というように相対的に捉えない。介護する側、あるいは介護される側といった、介護に関わる人間の、どちらか一方から介護を語ることもしない。障害者と介護者は「[ともに]([]に傍点)、ある具体的な行為を[する者同士]([]に傍点)」なのである。主体と客体としてではなく、ともに主体としてある障害者と介護者の介護関係における特徴は、すなわち、「双方の間に優劣や高下のない、双方が同等である」[広辞苑 第五版 1998:1610]という「対等」な関係を具体的に表現するものである。
本研究において「自立生活」を送る障害者の日常生活を記述することによって、重度障害者の「障害」とはなにか、地域における重度障害者の生活を支えるために必要な介護サービスは、そしてそれらを可能にするためのシステムはどうあるべきかが考察される。ここで介護側の提供するもの=「介護サービス」は、従来の社会福祉の介護サービス=[介護側が決定し、提供してきた]([]に傍点)身体介護、家事援助といったサービスの内容では理解できない。ここには、「サービス利用者と提供者がその関係を越えて、[共に創り出すもの]([]に傍点)」という「新しい介護[サービスの形]([]に傍点)」がある。施設を出、親の家庭を出て、地域での「自立生活」をはじめた重度の障害者たちは、この「新しい介護サービス」の創造を目指して、自らの力で介護サービス提供の拠点を作り出してきたのである。▲02▲
本研究では、今日の重度障害者の地域生活における介護サービスを考察し、重度障害者が介護サービスを創るに至った経緯を明らかにし、さらに今後の方向性について検討も行う。本研究における介護関係、介護サービス、介護システムにおける考察が「サービス利用者と提供者の対等性」や「利用者主体」を目的とし、「個人が尊厳を持ってその人らしい自立した生活を送れるよう支える」サービスの確立を実現しようとする、今後の社会福祉のあり方に一つの方向性を示唆するものとなることを目指す。
ii.先行研究
「新しい介護関係」と、それに基づいて位置付けられる「新しい介護サービス」は、障害者たちが、施設や親の家庭での介護を否定した時から、すなわち、地域での生活を始めたときから問われてきた問題である。地域における介護は、それまでの施設や親の家庭での介護とは違ったものでなくてはならなかったのである。
「介助」という言葉は、そのような障害者運動の中で生まれてきた「新しい介護」を指し示すために使われるようになった言葉である。究極Q太郎(ペンネームが使われている)は「介助者とは何か?」の中で、「介護」と「介助」という言葉の中に込められている介護関係の意味を明らかにしながら様々な「介助者像」=「新しい介護者像」について言及し、今後の方向性を述べている[究極 1998]。
究極は、通念的な介護観において、介護は一方が「してあげる者」、「される者」であり、介護者と介護される者=障害者は、常に上下関係で理解され、障害者は「恵まれない者」、「弱者」として捉えられたと説明する。そして、そうした介護の意味を「通念的なものから引き剥がすために“発明された言葉”」が、「介助」なのだという。そして「介助」には、「ひとまず、自立生活者の自立性を支援するために手を貸す人」という意味があると述べている。
しかし、実際は、究極も認めているが、「自立生活」障害者に関わる介護がすべて「介助」という言葉に統一されているわけではない。「あいかわらず『介護』という言葉を使いつづける障害者」[究極 1998:176]もいる。制度的には「介護人派遣事業」というように、介護、介護人という言葉で表現している。「一般に、介助と介護の用語法上の使い分けは厳密ではない」[福祉社会辞典 1999:112]のである。重要な点は、言葉そのものではなく、「自立生活者の自立性を支援するため」ということであり、してあげる−してもらうという「通念的な介護観」と意味を異にするということである。▲03▲
さらに究極が表現しているように「介助」そのものの言葉の定義も「『ひとまず』自立障害者の自立性を支援すること」を表すのであるが、具体的にそれがどのようなことなのかという「意味は一定していない」[究極 1998:178]。「力の強い者が弱い者を守ってやるという含意」[究極 1998:178]、「『弱き者を護る』という観念が潜在している」[岡原 1990/1995:122]「介護」ではなく、「新しい介護」としての「介助」とは、そして「介助者」とはどうあるべきなのか。
究極は、第一に障害者運動の中での介助者像として、「自立生活」運動当初、当たり前であった「運動の同志」、「帯同者」、「理念的同調者」としての介助者を説明する。彼らは「健常者中心に権力関係が構成された歪な社会を変革していく、という理念を共有することにおいて、初めて介助者となった」[究極 1998:179]人たちである。
第二に障害者がやって欲しいことだけをやる「手足の役」になる介助者像を挙げる。これは従来の「“やってやる”的な介護態度、管理者的発想に基づいた介護への批判から」、「障害者の意思を離れて勝手に介助活動を進めてはならない、最大限その意思に従わなければいけない」[究極 1998:179]という思いから唱えられた論である。
そして第三に、「介助サービス?」と題し、最近の増額する介助料を得て「自律する」介助者像を挙げている。上記二つの介助者のように、ある理念や考えのもとに介助に関わるというのではなく、ただ介護料という金銭のために「バイト感覚で」介助をする者たちが増加し、さらにそうした介助者を前提としてアルバイト情報誌を用いて人集めを行っている介助派遣センターの存在を明らかにしている。その是非を問うことはしていないが、サービスとして介助を売り買いすること、そこでの「介助者の自律性」に対して警戒感を抱く障害者がいることを挙げている。
究極の問題意識は、第三の介助者像に見られるように、上記二つの介助者像から離れ、介護料が上がることで自律性を得てきた介助者と、同時にその介護料を使うことで「いつでも代わりはある」と居直る障害者の関係にある。そこでは、かつてのような、お互いの間の「共感」が損なわれつつある。すなわち第一および第二の介助者像に見られるような「介助者が障害者の身体性を身近にし、それを分かち合うことによって、目の前にいる障害者の頭ごなしにことを進めていく不自然な社会に対する意義申立の同志(=共犯者)になっていく」[究極 1998:183]経過が見られないのである。
究極は、障害者と介護者の介護関係を、まず「介護」という言葉に見られる通念的な介護関係、「介護する者」と「される者」の関係と捉え、次に「新しい介護」である「介助」▲04▲という言葉に見られる「共感」=「介助者が障害者の身体性を身近にし、それを分かち合うことによって、目の前にいる障害者の頭ごなしにことを進めていく不自然な社会に対する意義申立の同志(=共犯者)になっていく」関係を挙げ、最後に最近の「介助」関係に見られる「共感」性のなさ、障害者と介助者の関係を抜きにしたサービス=金銭で売り買いできるものとしての介助の問題を挙げている。
しかし、究極は、論文の中で、介助者が「同志=共犯者」になる過程、どのように「身体性を身近にし、それを分かち合っていく」のかということについては全く記述していない。本研究において、筆者は、障害者と介護者が「介護」という行為を通してより一体化していく過程を記述し、分析をすることを目的とする。その上で介護側が提供するもの=介護サービスがどのように創り出されているのかを考察する。本研究においては、あえて「介助」という言葉を用いない。その言葉にも共感性のなさという、上記のような問題が含まれているからである。加えて「介助」には、「手助け」[安積他 1990/1995:1]という言葉に見られるような、比較的簡単な作業という意味合いを感じる。本研究で明らかにされる「介護」は「新しい介護」の形であり、それはある部分では「介助」と一致するが、ある部分では一致しない。それゆえ「生活に対する他者による支援活動の総体が念頭におかれている場合が多い」[福祉社会辞典 1999:112]介護という言葉を使うことにする。
究極のように介助者像を提示するのではなく、「自立生活」障害者たちが、他者による支援=介護を受けながら地域生活を送る上での具体的な人間関係について論じているものとして、岡原正幸の論文があげられる。岡原は「コンフリクトへの自由−介助関係の模索」の中で、「自立生活する障害者が関わるざるを得ない人間関係とそこに内在する問題」として、障害者と介助者の具体的人間関係、「介助」という行為に潜む問題点、そして行き違いについて述べている[岡原 1990/95:122-146](06)。
その中で、岡原は障害者と介助者の関係の中で生じる問題を、@意思決定をめぐるトラブル(活動の主目的[what to do]ではなく、それを達成するための具体的な仕方や形式[how to do]をめぐってのトラブル) A感情・身体をめぐるトラブル(障害者側のやってもらっているという負い目や介助者側の介助行為という重労働に対する肉体的、精神的ストレ▲05▲ス、あるいは身体的介助行為を通して生まれる性的興奮や性的おぞましさなど、社会規範的には持つべきものではない、排すべき感情を持ってしまうというというストレス)とわけて説明し、さらにこれらを乗り越えて関係を続けるために用いていると思われる三つの方法、理念的方法、経済的方法、感情的方法を紹介している。
理念的方法においては、「手足論」(07)と自分の理念的な社会正義へのコミットメントをさらに強化するやり方(08)を、経済的方法では、「雇用者」と「介助のプロ」(09)、感情的方法では、恋人、夫婦、友人などの特別な関係から得る介助における「心理的安定感」(10)などを説明している。だが、上記の方法は、不満や行き違いを解消するための「完全無欠の有効な処方箋とは言えない」[岡原 1990/1995b:135]。▲06▲
地域生活においては、このような不満や行き違いをうまく解消できない不安定な関係に、さらに「世間のまなざし」が加わる。それは、障害者と介助者を「介護される客体」と「介護する主体」に、すなわち「かわいそうな人」と「普通の人にはできないことをしている立派な人」にわけ、両者を「健常者文化」には組み込まれない、マイナスとプラスの両方向に排除していく。
それでは障害者と介助者はどう折り合って、うまくやっていくのか。岡原は、折り合ってうまくやっていこうとしないこと、配慮しないことを提唱する。すなわちコンフリクトである。「取り立てて差異がない時には、エネルギーの浪費の様に思えるコンフリクトだが、障害者と健常者のように、そこに明確な差異があり、その差異を確認してはじめて対等な関係が相互に築けるような場合には、事情は別だ。コンフリクトは避けられるべきものではなく、求められるべきものとなる」のである。すなわち「コンフリクトを悪しき結果ではなく、対等な関係構築のための手段として理解する」[岡原 1990/1995b:136-146]。
岡原の言うように対等な関係構築のためにはコンフリクト、すなわち互いの差異を認めつつも、それを理由に配慮をしたりせず、自己主張をすることが必要である。しかし、岡原の問題設定からも明らかであるが、ここで考察されているのは、障害者と介護者のある一面、すなわち「介助という行為に潜む問題点」を十分に描いてはいるものの、もう一方の重要な側面が描かれていない。介護において、行き違いなどが起らない時、いわゆる日常の営みの中で、介護とはどのようなものであり、障害者と介護者の関係はどのようなものなのであろうか。すなわち、従来の介護関係−「介護する者」と「される者」の関係−が否定される中で、そこからの脱却を目指して創り出された新しい介護関係、介護サービスは、どうあるのか。問題点ではなく、まずそのことが明らかにされる必要がある。でなければ、従来の介護と地域生活で目指された「新しい介護」とは一体なにが変わったといえるのだろうか。
介護の捉え方について、新しい視点を示しているのが小倉虫太郎である。小倉は『私は如何にして<介助者(11)>になったか?』の中で、障害者と健常者の介助を語るときの「対称的」位置付けについて違和感を感じていると述べている[小倉 1998:188]。そして「『介助者』は、別々の共同体の間を結びつけるために勇敢なる立ち振る舞いを見せる英雄的な媒介者[ではなく]([]に傍点)、『障害者』の身体性の健常者社会への翻訳不可能性そのものを[逐語的に]([]に傍点)『健▲07▲常者世界』にもたらそうとする者」とし、「翻訳者」に例えている(傍点は著者)[小倉 1998:189]。すなわち、「介助者」とは、「一人一人その『障害』の在り方の違う『障害者』のそれぞれの『障害』に慣れ親しみながら、己の身体を」障害による「『遅れ』や不意の『攻撃』やイレギュラーな対応−つまり、アテトーゼによる無意識の『暴力』」をも「受け入れていく能力を培う者のことである」[小倉 1998:191]という。
また、介助を「アレンジメント」、「アンサンブル」という言葉で説明し、そのときの障害者と介護者の関係を一体化していくもの、対等なものとして説明している(12)。
従来の(いわゆる親の家庭、あるいは施設での)介護における関係は「介護する者」と「される者」という相対的な関係で捉えられ、障害を持つ人たちの手記や自伝の中でも、そうした場面での介護が「つらい体験」として語られている(13)。また、福祉援助職としての経験から、支援する側とされる側の「強い者と弱い者の関係」(権力関係)、官僚制的特徴について、「必ず生ずるもの」として障害福祉教育に取り入れ、その問題に迫ろうとする研究も見られる(14)。しかし、新しい介護における人間関係は、小倉のいうように、相対的なものとして捉えられないのであり、その点、従来のものとは違っているのである。
岡原の言うように、確かに障害者と介護者、両者が対立する場面は存在する。しかし、日常の中での障害者と介護者の関係には究極のいうように「共感」があり、小倉の言うように「より一体化」していく場面がある。本研究では、障害者と介護者の新しい関係について記述し、その関係におけるサービスのあり方、さらにそれらを支える組織について記述し、理論構築する。本研究によって、従来の、一方向的な介護関係では捉えきれなかった、「新しい介護」の形への模索の過程が明らかになるのである。
iii.研究方法
本研究は、課題で述べたように、障害者と介護者の創り出した新しい介護関係とそこで提供されている介護サービス、さらにそれを支えるシステムについて記述し、考察する。 それゆえ、研究方法として、それらの利点を明らかにするために、「上から下への恩恵的な福祉」で営まれてきた介護関係、提供されてきた介護サービスのあり方への問いなおしを文献を用いて行い、障害者たちが主張し、創り上げてきた介護関係や介護サービスを理論的に分析し、その独自性を明確にした。
さらに上記のような内容を明らかにするに当たって、「自立生活」障害者及び介護者に対する聞き取り調査および参与観察を行った。その対象として、練馬区介護人派遣センター(以下センター)を選び、その協力を得た。
対象の選択にあたって検討した点は以下である。
第一に、サービス利用者である障害者が、介護者とともに創り出した介護サービス提供組織であるという点である。障害者が自らの地域生活を支えるために設立した組織を調査することにより、障害者が、目指した新しい介護サービスの形を明らかにすることができる。
第二に、専従介護者が多いという点である。一般的に障害者組織に関わる介護者は、学生や主婦層のアルバイト、パートが多く、専従介護者を中心にしているのは、センター以外に1ヶ所である(15)。
専従体制にこだわる理由は、専従であると介護体制が固定されやすい。この体制は、低賃金・手当、長時間労働、一定の人員、という条件を備えており、この点で通念的な介護観が生み出された、施設や親の家庭での介護体制に近い。そのような条件の中で、生み出された新しい介護関係、介護サービスを研究することにより、従来の介護体制の再検討を促すことができる。
また、専従介護者は介護サービスを職業として、行っている。その点では、介護専門職の介護のあり方を検討するにあたっても、他の障害者団体のアルバイトやパートでは比較にならないが、センターの場合は比較検討に値する。▲09▲
第三に介護システムの特徴である。センターは、本文でも触れるが、その特徴として介護料の全額プール制というものを行っている。これは行政から出る介護料全額を一端センターにプールし、障害者の必要性に応じて介護時間を設定し、介護者を派遣し、プールした介護料を介護者に分配するというものである。利用者が参加してニードを決め、介護者とともに満たしていくシステムといえる。このシステムの検討を通して、利用者参加の方向性を見ることができる。
第四に組織運営の特徴である。センターでは、障害者も介護者も一定の役割を持ち、各会議に出席し、同等に組織運営に参加している。介護者のみ、あるいは障害者のみという会議や会合はない。代表や事務局長といった役割は存在するが、組織内の上下関係を意味するものではない。センターの組織について研究することにより、サービス利用者と提供者がともに支えあうシステムについて明らかにすることができる。
調査は、1999年8月を中心に、センターの特徴である全額プール制に参加している障害者7名とすでにセンターを止めた障害者1名、さらにそれぞれの介護者約10名程度に聞き取りと、参与観察を行った。1回の調査時間は2時間程度から泊まりを含む10時間以上にも及ぶものもある。長時間であり、また言語障害の重い方もあったので、会話はテープに録音せず、すべてノート記録とした。そのほか、介護者とのやり取りなどもノートに記録した。また直接、筆者が介護に携わる機会も提供してもらい、そこでの体験も記録した。センターの行事や行政交渉、その他会合などに声をかけてもらい、公式場面でのセンターの意向を聞いたり、ざっくばらんに話をする中からもずいぶんと多くのことを知ることができた。
歴史的事実については、インタビューに加えて、障害者団体の集会記録、センターの前身である練馬区在障会の会報、会議記録、センター通信、文献などから調査した。
iv.論文の構成
本研究は序章、終章を含めた6章で構成される。
序章は、本研究の課題、先行研究、研究方法、論文の構成についてまとめる。
第1章では、戦後の障害者福祉政策と運動についてまとめ、障害者が「自立生活」を送るに至る経緯を明らかにする。第1節では、戦後初期の障害者福祉政策と障害者運動、第2節では高度経済成長期以降の特徴をまとめ、第3節では具体的に自立生活に向かう動きとして二つの闘争、“身障センター”医療闘争と府中療育センター闘争を取り上げる。さらに▲10▲、「自立生活」での介護者問題、障害者運動における障害者と健常者(である介護者)の問題を取り上げる。
第2章では、「自立生活」障害者が障害者運動の中で主張したきたことと、それに関わるこれまでの議論を理論的にまとめる。その際、第1節は知識、第2節はニーズ、第3節は自己決定、第4節は介護関係、第5節は専門職という5種類の視点で検討する。
第3章では、聞き取り調査および参与観察の対象である練馬区介護人派遣センター(以下センター)について説明し、調査結果を記述する。第1節にて成り立ちの歴史を追い、 第2節において組織の特徴を説明する。第3節ではセンターの介護サービスを利用している人々の暮らしを記述し、第4節では、サービス利用者である障害者とサービス提供者である介護者の介護関係における特徴を明らかにする。そして第5節では介護者の役割と「自立生活」障害者にとっての障害の意味を記述する。
第4章では、第2章で検討した視点を用いて、障害者たちの主張がどのような形でセンターのサービスや組織の中に活かされているかを考察する。第2章同様、第1節に知識、第2節にニーズ、第3節に自己決定、第4節に介護関係、第5節に専門職として、考察する。
終章では、本研究で得られた結果をまとめ、今後の方向と残された課題について、検討する。
この研究を通して、障害者=サービス利用者が創り出した介護サービス機関において、介護がどのように行われているのかが明らかにされる。そしてそれは、介護全てに求められていることの一端である。この研究が今後の介護サービスにおいて新しい視点を与え、これまでのサービスに再考のきっかけを与えることになることを目指す。
序章・註
(01) @サービスの利用者と提供者の対等な関係の確立 A個人の多様な需要への地域での総合的な支援 B幅広い需要に応える多様な主体の参入促進 C信頼と納得が得られるサービスの質と効率性の向上 D情報公開等による事業運営の透明性の確保 E増大する公費の公平かつ公正な負担 F住民の積極的な参加による福祉の文化の創造
(02) 厚生省ホームページ(http://www.mhw.go.jp/search/docj/houdou/1104/h0415-2_16.html)より。
(03) 戦後の障害者福祉については第1章にて明らかにする。施設生活と「自立生活」障害者の研究は[尾中 1990/1995:101-120]。
(04) 障害者と親の関係に対する研究は[岡原 1990/1995:82-100]がある。
(05) 1986年に八王子に設立されたヒューマンケア協会を皮切りに、各地で「自立生活」を送る障害者たちが「自立生活センター」と称する、あるいはそれに類似する組織を形成している。1991年には自立生活センターの全国組織として「全国自立生活センター協議会(JIL)」が設立した。
(06) 岡原は、「介護」ではなく「介助」という言葉を用いる。「『介護』という用語は一般的であるが、『弱き者を護る』という観念が潜在しているため、多くの障害者は『介護』の代わりに『介助』を用いている」ためである[岡原 1990/1995b:122]。すなわち岡原が述べている「介助」は、究極の述べた意味、筆者の目指す「新しい介護」の意味と同じである。
(07) 障害者側は健常者を自分の「手足」としてとらえる。これは、青い芝の運動でも言われていたことである。この時、健常者の体も含む「身体を統制する主体性は障害者のみに属することになる」。それによって障害者は「少なくとも『やってもらっている』という負債感を軽減する」[岡原 1990/1995b:132]。しかし、究極は、こうした考え方は「介助者からその自由な判断力を奪うことを意味しており、一種の隷属状態におくように見えて、介助者に強い精神的負担を課すように見え」、「このような論(というよりも依頼)に対し、強く反発する介助者もいる」[究極 1998:179]といい、介助者側のつらさを述べると共に、実際には、より障害者自身にとって精神的負担のある行為でもあるということを説明している。本研究では、「手足」となることの積極的な意味を介護の営みから記述する。
(08) 介助者側は、「社会の役に立ちたいし、必要なことだからやっているんで、やって当たり前です」という。そして、「報酬を望んで介助をしているわけではないことを、自分に納得させることとで不満を和らげようとする。だから障害者からの礼金の申し出を…(中略)受け入れない」[岡原 1990/1995b:132]。
(09) 障害者は金銭を払い、介助者を雇うことで負い目をなくそうとする。介助者は自分を「介助のプロ」として、職業労働と割り切ることで不満やストレスを解消しようとする。しかし、現実には労働者と言っても専従者は「ホームヘルパーのほかにはほとんどない」[岡原 1990/1995b:133]。それは、「介助労働だけで暮らしを立てていくことは、よほどの耐乏生活を覚悟しない限り現状では無理だから」であり、したがって、たとえ報酬を払うとしても何らかの「理念」がなければ、介助を続けていくことには結びつかない[岡原 1990/1995b:132-133]。本研究においては、岡原が「ほとんどない」と述べている専従介護者について述べる.
(10) この場合安定した相互作用を導く場合がある。また「『いつ介助者がいなくなるかもしれない』という不安定な介助体制のために余儀なくされていた、欲求の自己規制も緩和される。」しかし、一方でこうした近い関係にある人には介助をしてほしくないという思いもある[岡原 1990/1995b:133]。筆者自身も、介助してもらうために、あるいは介助するために結婚したのではないという言葉を障害者と健常者の夫婦から聞いたことがある。
また、介助者側が「介助者」という関わりだけでなく、もっと親密な関係を持っていきたいとする「理想的な感情的方法」を持っていたとしても、当の障害者が「介助者全部と同じように友達になれない」といったり、「介護用の機器は冷たく見えるかもしれないけど、人間じゃないから、いいという面もある」というように、感情的なつながりを全てに求めているわけでもない[岡原 1990/1995b:135]。
(11) 注6同様。
(12) 小倉は、車椅子を押すという「介助」を行う「時、『障害者』も『介助者』もどちらもが主体であったり、客体であったりすることはなく、いわば『介助』アレンジメント−複合体として歩く方向と速度と調子が暫定的に決定されていく」のであり、「この時『介助者』は、このアレンジメントの中で『障害者』となっており、また『障害者』は、単独であったときの己を別の(もう一つの)『障害者』のあり方へと生成変化させている、ということになるだろう」と述べている。また、同様に視覚障害者と盲導犬の関係について「盲導犬は、視覚『障害者』とともに臨機応変に交通信号や段差、通行人、自動車、障害物など様々な街のコンテクストを自分なりに読み解き、翻訳しながら進路を決定しているのであり、実のところ『イーブン・イーブン』なのだ…つまりこの時、視覚『障害者』は、このアレンジメントの生成の局面において、いわば犬になっていると言えるのであり、また盲導犬のほうも、人間(視覚『障害者』)になっているのである」[小倉 1998:190-191]と述べている。
(13) 例えば小山内美智子 1988、1994 、1997、安積遊歩 1990/95、1993、山田昭義 1998などがある。
(14) 小山 1998
(15) 埼玉県大宮市「虹の会」[立岩 1995c:314(15)]
第1章 「自立生活」への道−戦後の障害者福祉政策および障害者運動
障害者の「自立生活」という生活形態は、戦後の障害者を取り巻く社会環境の中で生み出されてきた。第1章では障害者がこうした生活形態に到達した歴史の変遷を追い、どのような問題がどのように提起され、どのような解決を求めて現在に至るのかを明らかにする。
障害者福祉の歴史については、その取り上げる時期、焦点の当て方など、様々ではあるが(01)、本研究第1章では「自立生活」運動につながる具体的な歴史的記述を目的とするため、第2次世界大戦後から、障害者の「自立生活」が始まり展開を見せ始める1970年代後半までを取り上げる。まとめ方としては第1節を戦後初期−1945年から1950年代初期、第2節を高度経済成長期−1950年代後期から1960年代後期、第3節を「自立生活」という生活形態が生ずる時期−1960年代後期から1970年代として取り上げ、政策の動向と絡めながら障害者運動の展開を見る。
第1節 戦後初期の障害者福祉政策と障害者運動
1. 戦後初期の障害者福祉政策
1945年8月15日、第2次世界大戦が終結した。国土は焦土と化し、戦災により障害を被った人など、多くの戦傷病者が生み出されていた。それに加えて、大量の傷痍軍人が戦地から帰国してきた。1948年の身体障害者数は約50万人と推定されるが、その内324,622人、約65%が退役軍人であった[GHQ 1945-51=1998]。
戦前からの障害者対策として、傷痍軍人に対する保護的な制度があった(02)が、占領軍は民主化・非軍事化政策を進めるにあたって、傷痍軍人に対する優遇措置を撤廃した。そのため、障害者福祉に関する施策は全くの白紙状態となった。生活に困窮した傷痍軍人たちは街頭で、あるいは国電の車中で白衣募金を行い、彼らの生活保障への対策を要求した[佐藤 1982:18]。傷痍軍人の中には、押し売りをしたり、募金を強要するなどの悪質な者が出現し、一般市民から苦情が出るほどであった[山田 1987:104]、[丸山 1998:9]。▲12▲
障害者の大多数を占める傷痍軍人たちの、このような行き過ぎた行動が、「更生意欲の欠乏や虚無的刹那的なものとして見られ」[丸山 1998:101]、早急に対応すべき問題として認識され、戦後の障害者福祉の方向を作り出していった。
戦後初の障害者福祉法として1949年に制定された身体障害者福祉法は、GHQの無差別・平等政策、民主化・非軍事化政策との関わりから、その対象を「身体障害者全般」としたが、現実的には、生活に困窮した傷痍軍人救済策という性格が強く[山田 1987:109-113]、[立岩 1990/1995b:168]、[鄭 1998]、職業更生が可能であるかどうかで対象を限定し、職業更生の見込みのない、重度障害者はその対象から外されることとなったのである[佐藤 1982:133]。また同法第二条には「更生への努力」が常に求められ、障害者が経済活動に参加することが更生であるという価値観を植えつけることとなった(03)。法律をもとに設置された施設もすべて更生施設であり、制度上は職業訓練のための入所施設と位置付けられていた。そのため、そこでの生活は一時的=暫定的なものと捉えられた(04)。障害者雇用対策も進められた(05)が、これらも働ける障害者を対象にしたものであったから、実質的には比較的軽度、あるいは更生が期待できる戦傷病者・傷痍軍人対策といえる。
傷痍軍人、戦争病者と一般障害者(06)をさらに分ける結果となったのが、1952年の戦傷病者・戦没者遺家族等援護法の設立および恩給法の改正による軍人恩給の復活である。これは傷痍軍人関係者による根強い要求運動とサンフランシスコ条約下の再軍備政策が背景になったものである。これにより、「『すべての障害者を無差別平等に援護する』という戦後▲13▲障害者福祉の原則は崩れ、傷痍軍人・戦傷病者にのみ障害年金、更生医療を支給し、国立療養所への入所を図るなどの優遇措置が実施され、結果的に障害者間に格差が作り出されることになった」[山田 1987:116](07)。
その後、1959年の国民年金法の中に障害年金ならびに障害福祉年金が盛り込まれ、一般障害者の所得保障にも手がつけられた。それは、1957年度当時の年金制度案に障害年金が含まれていなかったことからすれば、前進したとも言える(08)が、しかし、その対象は最重度の障害者に限られ、金額も少なく、生活保障といえる額ではなかった(09)。
このように初期の障害者施策は、当時の障害者の大多数を占めた傷痍軍人によって障害者のイメージが形作られていたため、障害者の職業的自立助長を目的とした更生法とそれに付随して「働く可能性のある障害者」を救済するものとなり、結果として法の対象者は比較的軽度または更生可能な傷痍軍人・戦傷病者に限られ、その他の重度障害者の生活援護に関しては、依然として救貧制度である生活保護に依存することを容認したものとなったのであった(10)。
2.戦後初期の障害者運動
終戦後障害者運動の先頭を切ったのは、傷痍軍人や結核患者を中心とした患者運動である(11)。ここで最も重要視されたのは治療・医療の確保の問題であった。戦地から帰った者の▲14▲中には適切な整形外科手術を行うことによって障害が軽減したり、ほぼ完治する者があり、また海外で新薬の開発が進み、これまで治癒不可能であった病気が治るという情報が入るようになったため、医療に対する需要はますます増加した。またその一方で、通常の医療器具、薬品、物資は不足していた。生活の場を失った多くの傷病者たちは、症状が固定したにもかかわらず、病院での生活を余儀なくされた。
こうした状況の中、患者同盟は運動を展開し、10種類におよぶ新薬を健康保険法、生活保護法をはじめとする医療保険に適用させた。また、生活の場を確保する運動として、特設寮開設要求運動を展開した。しかし、この運動は、当時の財政問題から、1949年の国立病院特別会計法による入院患者の強制退院(12)によって分散させられた。[山田 1987:104-105]、[吉本 1981:51-55]。その後、運動は各地域の障害者の、個別の問題へと還元されていき、やがて、視覚障害者、聴覚障害者、肢体不自由者など、各障害種別にそれぞれの運動が展開しはじめる(13)。
このような障害者の連帯を求める動きは、直接的には1948年のヘレン・ケラー来日の影響もあるが、より本質的には孤立した障害者同士の理解を深め、“慰めあい、いたわりあい”[二日市 1986:25]のために結成されたものであった。1947年にはわが国唯一の公立肢体不自由児学校光明養護学校の卒業生が集い、『しののめ』を刊行した。内容は障害者が小説、詩、評論、短歌、俳句、生活記録などを綴ったもので、当初は「障害者による文芸復興運動」[若林 1986:12]とされていたが、やがて社会における自分たちの存在意義を確認するような問題意識が生まれるようになっていった(14)。
徐々に芽生えつつあった障害者運動体の中で、その主要なものは1949年の身体障害者福▲15▲祉法制定にも関わった(15)が、結果として法は、傷痍軍人対策であり、また1.で述べたように重度障害者を除外し、障害者の要求が十分に組みこまれないものであったため、法律改正要求が行われた。1952年の社会事業大会では中央社会福祉協議会(現在の全国社会福祉協議会)が身体障害者福祉法の改正を決議し、検討の結果国会に請願を出し(16)、1954年には法改正がなされたものの、すべての障害者を対象とする保護法にしなかったなど基本的な問題を残したままであった[吉本 1981:52]。
以上のように障害者運動は傷痍軍人や戦傷病者などを含んだ患者運動から始まり、やがて徐々に障害種別の障害者運動が展開するようになるが、それらはまだ連帯することなく、個別に運動を展開していた。そしてそれぞれの運動は時の政策の中に自らの領分をより多くすること、そして減らされる部分についてはそれを反対していくこと、すなわち政策の枠組みの中で運動を展開しており、それ以上ではなかったのである。
第2節 戦後復興期以降
1. 運動の広がり
「もはや戦後ではない」といわれた1950年代中ごろ、「神武景気」、「岩戸景気」といわれる高度経済成長期に、1955年の「森永ヒ素ミルク中毒」、1956年の水俣病、1957年の四日市市公害などが表面化、さらに1958年から61年までポリオが大流行し、1962年には薬害によってサリドマイド児が誕生し、社会問題化した。
戦争ではなく、薬害や公害によって障害者が急速に生み出されていく事態となり、このような中で障害者運動は、介護を一手に担う親や家族が中心の団体が増加し(17)、障害児の就▲16▲学問題や重度心身障害児の“おや亡き後”の生活保障を要求する声が高まってきた(18)。こうした動きを受けて、国は重症心身障害児施設を補助対象とする通達を出し、重度障害者に対する施策として、施設建設を奨励するようになる。同時に精神薄弱児(者)に対してはコロニー構想が持ちあがり、1971年には高崎に国立コロニーが建設された。
親や家族が中心となる運動が盛んになる中で、重度障害を持つ人自身による運動も徐々に広がりを見せ始めた。1957年には光明養護学校の卒業生等によって脳性マヒ者の団体「青い芝の会」が、1960年には難病のグループとして「日本リウマチ友の会」、1963年に「日本筋ジストロフィー協会」が結成された。
2. 障害者運動の変化
1960年代になると、それまでの障害者運動の中に質的な変化が起こってきた。公害や薬害などによる障害児の問題を取り上げることによって、社会に問題を「告発」していく運動体が生まれてきたのである[中野 1987:134]。そしてそのような動きは、一般市民をも巻き込み、また他の団体にも波及していく。「それまで『お願い』に始まり、『お願い』に終わっていたろうあ運動は、その長い経験の積み重ねの上に『ろうあ者の生活と権利を守りぬく』ことをはっきりと打ち出した。」と『ろうあ運動のあゆみ』に記されているが、ここに象徴されるように様々な運動体が主権者としての要求運動を展開するようになったのである[吉本 1981:53]。例えば、視覚障害者はややもすれば保守政治と結びつきがちな従来の盲人団体や運動のあり方に疑問を持ち、「盲人の生活を守る会」など新しい運動体を結成していった。
更なる変化は「連帯」である。1958年に日本身体障害者団体連合会が発足し、全都道府県に支部を持つはじめての全国組織が誕生した。1963年には「青い芝の会」を中心に約20近くの団体が横の連携を取るべく、「身体障害者団体連絡協議会」を結成した。教育問題でも1966年に障害の違いを越え、要求の違いを統一して「障害児(者)の医療と生活と教育▲17▲を守る都民集会」が結成された。1967年には障害種別、有無を乗り越えた、障害者、父母をはじめとする家族、障害関連分野の実践者、学生、大学等の研究者など全ての人が対等平等に参加する研究団体として「全国障害者問題研究会」(全障研)、要求運動体として「障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会」(障全協)が設立された[手塚 1997:221]。
このように1950年代から60年代にかけて、障害者運動は高度経済成長とそれに伴う公害や薬害などの影響を受け、その対象範囲を広げると共に、行政に「ただお願いするだけの運動」から社会問題を告発し、親や、教職員、市民などを巻き込んで、主権者として様々な要求を訴える運動へと展開していったのである。
第3節 自立生活への胎動
1. 二つの「センター闘争」
障害者たちの小さな仲間の集まりが、やがて社会問題を「告発」し、他団体や市民と「連帯」するようになってきたこの時代に、「自立生活」に向かう運動の始まりがあった。国立身体障害者更生指導所、いわゆる“身障センター”における医療問題闘争(1964年)と府中療育センター闘争(1970年)である。
国立身体障害者更生指導所(身障センター)は1949年に設置された、ただ一つの肢体不自由者更生施設であり、1953年には神奈川県相模原から新宿区戸山町に移転し、医学、診療、社会、職業の各リハビリが行われていた。入所者は設立当初傷痍軍人が多かったものの、1950年代半ばから高度経済成長期に入ると激減し、一般の障害者が多数を占めるようになっていた。
当時の障害者たちにとって身障センターはどのような意味を持ったか。当時の在所者の記述にその意味の大きさが現れている。
「発病以来15年間、窓の外を眺めるだけの生活だった。それが2年間のセンター入所中、6ヶ所の手術を受け、杖もなしで歩けるようになった。3時間の大手術も、両腕と右ひじを機械にはめられて屈伸運動するときの痛さも今はただ懐かしい。手術の効果と共に精神的な意義もまた大きかった。入所後半年も経つと、私は顔の表情までが別人のように明るくなり、笑わずにはいられぬ楽しさがわくようにこみ上げてくるのだった。」[二日市 1986:26-27]
「寝たきりの者は座れるようになり、いざっていた者が松葉杖で立てるようになり、松葉杖で歩いていた者がステッキ1本で歩けるようになる」[若林 1986:46]というリハビリ▲18▲テーションは、その多くを外科手術によっていた。このような身体的能力の変化は、しかし、単に外科的な治療の効果のみを意味するのではない。それまで家の片隅で人目に付かぬような生活を余儀なくされ、「精神的にも肉体的にも放置され、幽閉同然の生活を送っていた身障者たち」[二日市 1986:45]がはじめて社会に触れ、社会に残る術を与えられる可能性を持った場所、それが身障センターだったのである。生活の全て、人生までも変えてしまうような大きな意味を持った、まさに「福音」であった。
身障センター闘争は、そうした外科手術が一方的に抑えられるようになったことに端を発している。抗議運動は入所者のみならず、すでに治療を終えた卒業生たちも巻き込んで行われ、身障センターに対する抗議行動から、厚生省に対する闘争へと発展していく。1965年には座りこみ抗議集会が行われるなど、盛り上がりを見せたが、最終的には厚生省の妥協(19)に対する対応−満足すべきか、さらに戦うべきか−で障害者側が結束できず、結局混乱の内に幕を閉じることになった。
この闘争は最終的には「敗北」と認識されたが、その意義については評価の分かれるところでもある(20)。しかしあえてその意義を明らかにすれば、第一に障害者が一つの目標に向かって団結すれば、当局に揺さぶりをかけられるということが確認できたことであり、第二にそうした揺さぶりも具体的な成果を勝ち取るためには要求の内容・仕方が重要な問題であると認識したことであろう。そして第三にこの闘争の根本的な問題は単なる医療問題ではなく、障害を持って生きる人々の生活問題をその根底に含んでいるということが理解されたことであった[若林 1986:56-57]。当時の障害者の生活問題、すなわち放置され、幽閉同然の生活を余儀なくされていたということには、同時に障害者の人権問題があったのであるが、そのことはさらに次のセンター闘争、府中療育センター闘争によって明らかにされる。▲19▲
府中療育センターは、1968年に東京都によって設立された医療施設である。東洋一とも言われる近代的な設備で、当時の革新都政における障害者福祉政策の目玉とされていた。しかし、開設当初より入所者たちはその管理運営に対して憤りを感じていた。入所者は「まず入所すると3日間は個室に閉じ込められ、中には、素っ裸にされて、写真をとられる人もあったという。居室は大部屋で全く間仕切りなどの配慮もなく、1日中パジャマを着せられ、また外部の人たちとの接触は一切禁止、面会も月1回、廊下の片隅には“センターで出す以外一切食べ物は与えないでください”と張り紙がしてあった」。「外出、外泊も3ヶ月に1回認められるだけで、それも親が外出届を書かなければ認められない。さらに在所生の親の話によれば、入所と同時に、解剖承諾書を提出させられた」[若林 1986:66]という。他にも異性職員による入浴介助が行われていたり、職員の手間を省くために髪を切れと罵倒されたり(21)、明らかになっているだけでも相当の人権侵害が毎日の生活の中で行われていた。入所者たちの多くは、そうした情況に疑問を持ちながらも立ち上がることができずにいたが、ごく一部の入所者は良心的な職員によるささやかな援助によってこの情況を内外に知らしめるべく活動をしていた。センターは、そうした活動を阻止しようと、職員の配置換えを行った。これに対し、障害者たちは抵抗した。その手段は、ハンガーストライキである。全く手足のきかない彼らにはそれしか抵抗の手段がなかったとも言える。これは9日間続いたが、抵抗していた障害者の内の一人が強制的に家に引き戻される中、体力の限界もあり、思うような成果のないままに終了した。だが、1972年の在所者一部移転(22)をめぐる東京都庁前の座り込みは1年9ヶ月もの間行われた。彼らの「私達は人形ではない」という主張は当時の「善意と慈愛に満ちた行為を全く疑うことなどなかった」[若林 1986:71]福祉関係者に大きな影響を及ぼした。最終的にはこの座りこみは美濃部知事を交渉の場に引きずり出すまで続き、その後管轄の変更や施設運営に対する協議会の設置などで一応の区切りを迎えた。
この闘争の中で、いくつかの論点が明らかになった。第一には施設の位置付けである。府中療育センターの惨憺たる状況を聞いてもなお、障害者の中には、「わがままだ」と取る▲20▲者も多く(23)、施設を擁護する考えもあった。また、施設の存在そのものは否定しないが、その改善、新たな形を模索する考え方もあった。それに対し、施設そのものを否定し、そこでの生活自体を拒絶する者たちも出てきた。
第二には、健常者との関わり方である。施設内の生活で「職員と障害者の間には歴然とした上下関係があり、障害者にとって職員は、管理者・抑圧者として立ち現れることが多かった」[荒川・鈴木 1997:16]。職員=健常者は「介護する者」としての強さを介護拒否、虐待という武器で見せつけた。障害者は「介護される者」としての弱さ、屈辱感を自らの命に関わる介護さえも介護者の恣意的な行動に左右されるという介護体制から思い知ったのである。しかしその一方で、この闘争における座り込みは、少数の障害者と多くの健常者、特に学生運動から流れてきた学生運動家たちの支援によって成り立っていた。彼らの支援なくして、座り込みや行政交渉などはできなかった。抑圧者としてある健常者と支援者としてある健常者。二つの相反する健常者像が障害者の前に現れたのである。そして運動の方向は今後、常に健常者の関わりによって大きく左右されていく。
上記のような問題にふれ、障害者団体は積極的に闘争に関わることはなかった。特に行動を起こした障害者が「青い芝の会」に属していたにもかかわらず、「青い芝の会」は会として積極的な行動はしなかった(24)。
以上、障害者たちはこの二つのセンター闘争から、(1)団結による自らの力、(2)戦略の重要さ、(3)医療問題に隠された生活問題の存在(4)同時に人権問題の存在を認識したと共に、この先の生活をどこでどのように送るのかを考え、そこでの生活をはじめるようになったのである。ある者は施設に残り、施設改善要求を行い、ある者は新しい施設で、施設の新しい形を模索し、そしてある者は、闘争で知り得た健常者を巻き込む形で、あるいは健常者に担ぎ出される形で地域での暮らしをはじめたのであった。
2. 介護者を巡る問題
施設を出た、初期の「自立生活」障害者たちの日常生活で最も切実な問題は介護者の確保とその質の問題であった。
「次の介護者が決まっているのが三日後とか、そんなことも結構ありがち」で、障害者▲21▲たちは介護者を探すために「時には雨の中をカッパに身を包んで介護者確保の電話をかけるために1時間ほども公衆電話に向かっていた」[資料5 1992:7]こともあった。そのころの介護者は無償のボランティアであり、また大半が学生運動や労働運動に携わる運動家であった。それゆえ彼らにとっては介護そのものよりも反国家、反差別の労働者・学生運動が先行するような状況もあり、結果としてそれらの運動の展望が持てないと、その数を減らしていった(25)。障害者たちは「善意だけでは安定した十分な介護を受けることはできないこと」、「介護者によっては無責任な関わりや、いいかげんな介護を行うことが多い」[資料4 1988:3]ことを実感していく。
一方、残った介護者は精神的にも肉体的にも苛酷な労働をしながら、しかも生活費を他で稼がなくてはいけなかった。余った時間、ボランティアして「あげている」、介護のために時間を裂いて「あげている」という意識が介護者の中に生まれてきても、不思議ではなかった。そしてこの状況では、地域の生活においても、介護を巡る人間関係は相変わらず「介護をする者」と「される者」という上下関係であり続ける要素をはらんでいたのであった。
3. 介護の位置付け
地域での介護者は減っていく。安定した介護がなければ、障害者たちは生きられない。生きるために施設に戻らなくてはならないのか。しかしそこには彼らの生活はない。そうした切迫した状況の中で一部の障害者たちは、地域生活における障害者の介護は施設内での障害者介護と同様、公的責任として果たされるべきであるという論理を展開し、行政に対して介護料要求を行う。
この運動は、各地で大きく分けて二つの形態をなしてばらばらに行われる。一つは介護者を労働者と位置付け、行政から介護料を取り、彼らの生活を支えると同時に障害者自身の介護を安定させるという新たな障害者と介護者の関係を模索する動きと、もう一方で介護はあくまでもボランティアで行い、金銭ではなく、人間関係によって解決されるべきだという考えのもと、行政に介護料という名目で、実質的には組織支援金として第二種法人という形で団体への補助金を要求していくというものであった。それに基づいて目指され▲22▲る、あるいは行われている介護体制も、介護人派遣センター構想、行政委託から始まった「介護人派遣協会」、ボランティアの友人組織づくりなどいろいろであった。
各地でばらばらに始まったこれらの動きは、「全国障害者解放運動連絡会議」(全障連)の結成大会を契機に全国的に広まっていく。全障連は、先に上げた「全国障害者問題研究会」(全障研)に対抗する形で1976年に結成された。全障研には障害者も参加していたものの、その中心は研究者や教師など障害を持たない者たちであり、また運動の矛先もそうした参加者の意図する方向に向かい、結果として国家の隔離政策を推し進める代行的、融和的運動とされた(26)。これに対し、「真に『障害者』の立場に立った組織」(27)[全障連 1977:298]を創り、自らの立場を明確にしていく必要性を感じて−具体的には養護学校義務化反対運動を大きな柱の一つとして−全国の障害者がたちあがったのである。
介護問題は、全障連結成大会では、各地の活動が確認されただけであった が、第2回大会では、自立生活を保障させるための厚生省との闘争が内容に含まれることとなり、全国的規模で共闘していくことが確認された。介護の位置付け−労働なのか、健常者の当然の義務なのか−といった根本的な問題に統一見解が見られないまま、ともかくもその必要性を訴えていくことは合意されたのである。▲23▲
4. 分裂と連帯
しかし、現実問題として、介護をどう位置付けるのかというのは運動の矛先を決定する大きな問題であった。「青い芝の会」では、彼らの支援組織として結成された健常者組織「ゴリラ」との間に亀裂が生まれ、健常者組織が障害者によって解散させられるという出来事が起こり、全国的に波及していく(29)。そこで訴えられたのは、介護を行う専門の健常者を作ってはいけないということである。すべての健常者に介護をさせていくことが運動であり、そのことによって世の中を変えていくのである、というものであった(30)。
その一方で、全く別の動きをする団体もあった。積極的に介護を職業として行う人を組織化していく方向に出たのが、北区や練馬区を中心とした「在宅障害者の保障を考える会」(在障会)(31)である。彼らは一貫して、介護を社会的労働にすることを目指してきた。すでに全障連結成大会にて掲げられている介護人派遣センター構想はそうした考えから生み出されている。介護を労働として位置付け、介護に関わる者=介護者を労働者として位置付ける。そして「障害者と固くロープで体を縛り、激流に飛び込む」[資料 5 1992:10]ような介護者を作り出していくことが、障害者の生活を安定させるために必要だと考えられたのであった。
こうした全く正反対の動きの背景には、一つには障害の程度があげられるだろう(32)。飲む、食べる、排泄するといった生きることそのものに人の手が必要であり、言語障害ゆえにコミュニケーションに慣れが必要で、しかも日常的に医療行為が行われるような障害者は、ボランティアのような不安定な介護では明日の命も知れない。誰かを必ず確保しておかなければならない。▲24▲
また、それまでの健常者との関わり方も影響しているであろう。家族、施設職員、そして労働者や学生の運動家たちといった様々な健常者との出会いの中で、障害者は時に差別され、隔離され、利用され、裏切られてきた。健常者である介護者を「敵」と見るのか、「仲間」としていくのか。これまでの健常者との出会い方が「健常者である介護者」の位置付けを決めてきたともいえるのではないだろうか。
こうして、介護を一般化する方向と専門化する方向に運動は存在し、わかれていった。
5. 介護料を巡る行政の対応
介護料要求運動は、後者の、介護者を施設職員同様、労働者として扱う必要を訴えた障害者と介護者によって行われていく。すでに1974年に東京都では介護人派遣事業により介護料が支払われるようになっていた。これは1973年9月に2人の障害者と介護者が都に対して要求を出したもので、開始時はヘルパーの賃金よりもかなり低い、当初月3回1日5,250円(公務員の臨時バイト額)[新田 1998:117]、[資料2 1985:95]に抑えこまれたものの、家族と同居のものにも支給されるなど、画期的な点もあった(33)。75年には、生活保護他人介護加算特別基準を介護料として要求した(34)。当初国は、「介護者がいないと生活できない者に対し、最低生活を維持していく金は出す」と約束したものの、障害者側が24時間介護に必要な金額を、施設職員の給与から計算し、提示すると、社会通念上可能な介護時間、介護料として、1日4時間、時給400円、1ヶ月48,000円を提示し、これらの根拠として、通常1日8時間の労働に対しその半日分、金額に関しては、「必ずしも介護について熟達していない者」に妥当な金額と説明した。そして、第一には施設入所を適当とし、第二に本人の希望であれば、家族介護や社会通念上可能な、上記の額の範囲内で行いうる介護で生活できる者に限り在宅を認め、それでは地域生活が成り立たない者(=成り立たせようとしない者、さらなる介護料要求を行う者)は施設へ行くべきであるという見解を示したのであった(35)。▲25▲
以上のように、国は障害者に関わる介護および介護者を専門的なものとは見なしていなかった。また家族が無償で介護することも当然のこととしていた。すでにこのころにはコミュニティケアという言葉が登場(36)していたのだが、それは、地域での介護=ボランティアと家族による介護=コストのかからない介護を意味していたのであった。障害者たちはこの情況をその後の運動によって徐々に変更させ、生活を支える実質的な保障として介護料の確保を求めていった(37)。そしてこの運動に終りはない(38)。
そして、最終的には介護料というお金そのものが必要なのではない。あくまでも彼らの介護を行う「介護者」という人材が必要なのである。障害者の地域での生活を支える介護者の数と質を確保し、障害者と介護者の生活を安定させるための組織が、そして「介護する者」と「される者」という関係を越えた両者のあり方が模索され始めたのである。▲26▲
第1章・註
(01) 近世以前の研究として、加藤 1974、生瀬 1989、明治期以降について山田 1987、戦後については、例えば手塚 1981-1997、調・野村 1984、菊池 1999などがある。
(02) 第1次世界大戦後、傷痍軍人自身による運動によって恩給法による生活保障や職業訓練所設立による職業訓練、国鉄無賃乗車など様々な援助が行われていた。その他の障害者には救貧対策としての恤救規則があるだけであった[山田 1987:91-93][手塚 1997:204-205]。
(03) 昭和25年4月1日の法施行通知は、「本法制定の趣旨は、現下の社会情勢下身体障害者がその障害のゆえに、ややもするれば正常なる更生意欲を失い、不健全なる生活に陥りやすいのでその更生意欲を喚起し、残存能力を活用することにより速やかに社会復帰させるための援助と保護を行おうとするものであって、これは単なる同情的慈恵でなく、また、当然の補償もしくは特権としてあたえるものではないこと」[厚生省 1998:117]。とし、障害者を鍛え、社会に戻すこと=労働させることを目的としている。1984年の身体障害者福祉法改正時に社会経済活動とは職業活動のみを意味するものではないことが強調され、いくつかの文言の変更や付加が行われた。しかし、楠は第二条第一項の存在自体が職業的自立を目指すものであると指摘している[楠 1989:29]。
(04) 法制定前にも施設はあった[山田 1987:103][GHQ 1945-51=1998:55]。それらの注目される点は、「最初の計画では、必要な場合に家族のための施設も設けられることにしていた」[GHQ 1945-51=1998:58 4]という点である。
(05) 政府は1947年に身体障害者職業安定要綱を定め、就職斡旋を開始し、1951年から毎年9月に身体障害者雇用促進週間をもうけ、さらに1952年には閣議決定に基づいて、身体障害者雇用促進協会を設置し、身体障害者職業更生援護対策要綱を策定した[山田 1987:114]。
(06) 山田は傷痍軍人、戦争病者を除いた、主に先天性の障害者のことを指して用いている[山田 1987:106-113]。
(07) 1954年に一般障害者に対する更生医療の給付、国立療養所への重度障害者の入所がおこなれるが、更生医療は要保護世帯以上の者には費用の一部負担を課し、国立療養所への入所にあたっても、あくまでも傷痍軍人を基本とし、一般障害者についてはそれに準ずる重度障害者ということにするなど、格差は温存された[山田 1987:116]。
(08) 1957年予算では老齢年金、母子年金の創設を準備する費用のみ計上された[山田 1987:116]
(09) <廃疾年金>対象は永久完全廃疾に該当する者で常時介護を要する状態にある者(外部および内部障害)。拠出制の場合は最低5年以上拠出し廃疾となったときから支給開始、無拠出の年金は、6歳程度以上のもの。拠出制の年金は月額3,500円程度無拠出生の年金は1,500円程度[健康保健組合連合 1959:53]。
(10) 「身体障害者の生活援護は一般的に救貧制度としての生活保護制度に譲り、もっぱら身体障害者の更生の援助を内容とするもの」「身体障害者の職業能力あるいは生活能力を回復させて、すみやかに社会経済活動に参加させること、いいかえれば、身体障害者の自立更生の援護にある」「かくすることによって、被扶養者、被扶助者として消費人口を形成している身体障害者を、生産人口に添加させ、全体としてこの社会の負担を軽減させることも可能なのである。」1956年『厚生白書』(昭和31年度版):74-76
(11) 1946年夏頃から各病院患者自治会が結成され始め、1947年3月には「国立療養所全国患者同盟」が結成、やがて「全日本患者生活援護同盟」という全国組織に広がり、1948年には「日本国立私立療養所患者同盟」が創立された[山田 1987:101-105][吉本 1981:51-55]。
(12) GHQは、国立病院の財政悪化を理由に独立採算性を導入した。それに伴って、入院患者の強制退去が行われた[山田 1987:104-105]。
(13) 視覚障害者は1948年に日本盲人会連合を結成し、GHQの、はり、きゅう、あんま廃止の指導に対して反対運動を起こし、あらたに「あんま、マッサージ、指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律」を制定させた。聴覚障害者は1947年に日本聾唖連盟を再建し、刑法、民法の差別条項の改正などを要求した。肢体不自由者は1946年に鉄道弘済会が国鉄身体障害者団体を結成し、急速に広まるが、国鉄関係者に限られたため、狭い運動であった。1948年には肢体不自由児協会が設立された。さらに1958年には身体障害者の団体として「身体障害者団体連合会」が設立された。知的障害者は1949年に日本精神薄弱者愛護協会が結成された[吉本 1981:51-55]。各障害者団体のホームページは、http://www1.normanet.ne.jp/dantai.htmに登録されている。
(14) “社会から見られた我々”、“家族に望むこと”、“我々の青春とは”などといった問題について文章が書かれたり、収容施設、身障害雇用促進法、幼児期の対策などの問題をテーマにして特集号も組んだ[二日市 1986:25]。
(15) 1948年に厚生省更生課に設置されていた「傷痍者保護対策中央委員会」が身体障害者福祉法の制定に向けて協議を行った。構成メンバーは盲人代表、聾唖者代表、身障者代表、結核患者代表、精神病患者代表などを含む20名で構成されていた。法策定段階において、その対象者が検討されたが、結局、財政的な事情もあり、結核患者や精神病患者などは法の対象から外されている[鄭 1998:56]。
(16) 身体障害者福祉部会が検討し、@法の目的を福祉法とし、国の補償を明確にする。A更生医療の給付、B官公庁の障害者雇用の義務付けなどを含む改正案を作成した[吉本 1981:51-55]。
(17) 「森永ミルク中毒の子どもを守る会」(1955年)、「子どもを小児マヒから守る中央協議会」(1960年)「全国言語障害児を持つ親の会」(1962年)、「全国心臓病の子どもを守る会」、「心臓病の子どもを守る会」、「筋萎縮性の子どもを守る会」、「全国身障障害児を持つ兄弟姉妹の会」(1963年)、「全国重度心身障害児(者)を守る会」(1964年)など[吉本 1981:51-55]。
(18) 1961年に重症心身障害児のための施設として「島田療育園」が開設された。1963年には作家の水上勉が公開書間「拝啓池田総理大臣殿」を『中央公論』に発表。これを機に各種新聞によりキャンペーンが行われた。1967年8月には神田の老医師が息子を殺害する事件が起こった。彼は老衰のために障害を持つ息子の介護ができなくなり、息子の施設入所を希望したが断られ、殺害するに至った。被告は犯行時「うつ病」であったとされ、無罪となったが、判決で裁判長が重症心身障害児・者に対する公の養護の充実を訴えて注目を集めた[立岩 1990/1995b:(9)]。
(19) 1965年3月に身障センター当局が業務運営方針の改定を約束したが、医務課は人員や設備の問題が解決しない限り手術は行わないとして、手術の開始を迫る障害者側と対立した。一向に手術が行われない中で厚生省はこれまで手術を担当していた和田博夫医師の配置転換を行い、配点先東京第一病院との兼任とした[若林 1986:50-51]。
(20) 二日市は「要するにこの闘争において障害者たちは、自分たちのささやかな要求をすら拒否し踏みにじる体制の巨大な影を、改めて思い知らされると共に、例えば前述の和田博夫(医療センターの医師)のような“味方”が究極的にはどれくらい頼りにならない存在であるかを身を持って認識させられたのだった。」[二日市 1986:27-28]と述べているが、その一方で若林は、「障害者団体が自らの力を自覚していくための第一歩となる、極めて大きな意味があった。センター闘争は、障害者運動にとって宝の山といっていいほど、多くの教訓に満ちた出来事であった。」[若林 1986:58]と述べている。
(21) 「私は、『トイレ』でよく攻撃を受けるのである。この『トイレ』は個人攻撃に最適の場所である。私達にとっては大切な場所だがつらい場所でもある。ある時も、『自分で尻の始末ができないくせしやがって、一人前におしゃれなんて生意気なんだよ。面倒くさい、(長い髪を)切っちまえ』とひどい言葉を浴びせられたこともあった」[若林 1986:68]。
(22) 重度肢体障害者を多摩更生園という新しい施設に移転させるという計画があった。
(23) 主に障害が軽度の者の主張であった[荒川・鈴木 1997:16]。
(24) 会の組織基盤も確立しておらず、会の内部収集に追われていたという事情が重なったことも要因であった[若林 1986:71-72]、[立岩 1990/1995b:181(31)]。
(25) 「支援者の手を借りて外に出て自立したのはいいけれど、一つの問題で闘っている時はたくさんの人が来て手を貸してくれましたが、それが終わると砂浜の引き潮のようにサーッと引いてしまったのです」[新田 1998:114-115]。
(26) 「75年の全障研第8回大会は4000名の参加者がいたが、うち障害者は7%で大部分は障害児をもつ親、教職員、特に教員である。…日常的にはサークル活動しかやらず、年一回だけ請願に行くというパターンなのだ」[資料 2:1976:27]。「十年前に結成された全障研も障害者の要求を権利としてとらえて運動を進め、いくらかの成果をあげてきましたが、彼らもまた障害者に対する差別とは戦おうとせず、それどころか障害者の多くが涙をのんで行かされてきた養護学校や施設・コロニーをどんどん作ろうとさえしているのです。それもそのはず、彼らの運動の中心は障害者自身ではなく、大学の『専門家』や教職員・親であり…中略…全障研は全ての障害者が地域社会で教育を受け、働き、生きていける社会を作ろうとするのではなく、『障害をなくすることが障害者の解放だ』などと支配者側と同じことを言っています」[資料 2 1976:288]。
(27) 全障研の評価は次のようにであった。「その(「全障連」)特徴は、要求運動と研究運動を区別せず、暴力的に行政闘争や差別糾弾闘争を推し進めたところにある。…『共生・共育』など耳障りのいいスローガンを使って、世界的なノーマライゼーションの潮流の先頭に立っているかのように見せかけているが、障害の発生予防に反対したり、障害の軽減・克服・リハビリテーション、発達保障の取組を無視ないし軽視するなど、依然として非科学的で分裂的な運動を取りつづけている。…[全障研 1997:401]。
(28) 第一分科会<生活>第2分散会にて−行政闘争および地域住民への働きかけに関する運動の進め方−の中で介護保障に関する報告が行われた。しかし、言語障害のある重度障害者の言葉を通訳するかしないかで、冒頭よりもめ、実質的な話し合いが行われなかった[資料 2 1976:61-74]。
(29) 具体的には甲山事件における裁判の中で、甲山理事会長の差別発言に対し、関西青い芝の会が座りこみ行動を行った際、障害者が闘争をしている間に、介護者グループ・ゴリラのメンバーがドライブに行くなどしていたということが問題視され、さらに障害者と別に健常者だけで会の運営方針を秘密裏に決めていたことなどが発覚し、両者の組織への取組姿勢の違いが問われた。関西の中でも兵庫がいち早く解散を命じ、以後兵庫の青い芝のメンバーが全国を回って健常者組織をつぶしていった[福永 1990:87-97]。
(30) 「脳性マヒ者の活動として、介護やる専門の健常者を作ったかてだめやねん、全ての健常者に介護ささせんかったら何の運動にもならん、セクト的な少数の運動形態を作ることできるけど、世の中を変えていく運動形態としてはなりたたへん」…「『全ての健常者、全ての立場の人間が障害者の介護すんの、これ当然や』と言うことを言おうやないか」[福永 1990:94]
(31) 練馬区在障会は練馬区介護人派遣センターの前身である。第3章参照。
(32) 健常者組織解散が進められた青い芝の会でも重度障害者が多かった大阪ではその組織が残された[立岩 1990/1995b:190][福永 1990:94]。
(33) 現在は家族介護が月12回と制限あり。終章に記述あり。
(34) 東京都の重度心身障害者手当に対し国が生活保護の収入判定を行ったことから、その決定に意義を申し立て、交渉する中で国がその存在を示唆した[立岩 1993b:121]。
(35) 厚生省通達1975年社保35号の内容は以下のようになる。「1.このケースについて処遇等の適性を図るためには、身体障害の程度から見る限り、施設に収容することが適当であると考えられる。ただし、本人が施設に入ることを希望しない場合には、保護の目的を達成する上で支障がない限り、居宅で保護することとして差し支えない。2.ここでいう、保護の目的を達成する上で支障がない場合とは、このケースについては介護需要を満たす他の方法(すなわち施設収容)があると思料されること、生活保護制度の理念等を総合勘案すれば、本人の置かれている状況(家族がいる場合には家族の介護を得られること等の事情を言う。)において、満たし得ない介護需要が、当該地域で雇うことが可能な、必ずしも介護について熟練していない者の半日介護で足る程度の範囲内であると考えるのが適当であり、この範囲を越えるような介護需要を要する場合には、むしろその処遇等を施設によって図ることをすべきであると考える。3.以上のような判断を加えた上で、居宅保護に適すると判断された場合には、本人の置かれている情況において満たし得ない介護需要につき、特別基準を設定することとなるものである。なお、他人介護に関する特別基準の設定は、その額で介護需要を満たし得ることを本人および介護人が認めている場合に行われるものであるから、進達にあたっては、このような前提条件が充足されることを確認する必要がある」[厚生省社会局 1975]。
(36) コミュニティケアという言葉が最初に使われたのは1969年東京都社会福祉審議会の答申「東京都におけるコミュニティケアについて」であるといわれている。その後、1971年に中央社会福祉審議会の答申でも使われる[立岩 1990/1995b:200-201]。
(37) 運動の成果によって、現在は脳性マヒ者のみではなく、その範囲を重度障害者に拡大し、他人介護に関しては月31日8時間分介護料を確保している。ただし、家族介護に関しては12日間と限定されている。
(38) 東京都では、障害者の介護料に対する制度改正は行われていないが、各種手当支給などが見直されている[朝日新聞 1999.12.22:30]。終章では新しいシステムについても触れる。
第2章 問われてきたこと
第1章では、戦後から「自立生活」が始まった初期段階までの障害者施策と運動について記述し、「自立生活」障害者たちが、障害者福祉施策における彼らの位置−「保護されるべき弱者、憐れみの存在」−を脱することを目指し、闘ってきた過程について述べた。第2章では彼らがその際主張した論理、目指した方向について整理し、理論的に検討する。
障害者が目指したことは、介護における人間関係を変えることである。第1章に述べたように障害者は、憐れみの存在、保護され、隔離される存在として扱われてきた。先行研究で述べた[究極 1998]の「介助論」は、そうしたこれまでの「保護する、護る」という意味を包含した「介護」という言葉を使わず、「介助」という言葉を用いて、介護関係の対等性を表現しようとしたことを述べている。
障害者は「新しい介護関係」=対等な介護関係を成り立たせる際、生活上の知識とニーズは障害を持つ自分たちが最もよく知っており、そうした知識やニーズ認識に基づいて、生活を行う上での決定を自分で行うことができることを主張したのである。第2章においては、これまで主張されてきた論理を第1節 知または知識、第2節 ニーズ、第3節 自己決定、第4節 介護関係、第5節 専門職としての介護者の役割、という5種類の視点でまとめ、第3章を検討する際用いることとする。
第1節 「知」に関する議論
1. 障害者たちの主張する「経験知」
障害者たちは、これまで行政や専門職によって決められてきた生活上のニーズやサービスについて、「自分たちのことは自分たちが一番よく知っている」と主張し、それらの決定権を自らの手中に入れることを主張した。この、自分たち自身について障害者が有する知識は、専門職の「専門知」に対して、「経験知」と呼ばれるものである。すなわち、専門家集団が用いる「論証的な理由、観察、または他者によって提供された情報の影響によって獲得した真実よりも、現象としての個人の経験から学んだ真実」[Borkman 1976:446]を重視する、セルフヘルプグループにおける知識体系のことを指す。
「経験知」が注目されるようになったのは、セルフヘルプグループの台頭にある。これまで専門職によって問題の解決が計られていたにもかかわらず、そこでは効果があがらなかった問題−アルコール依存症薬物依存など−が、同じ問題を抱えるセルフヘルパーの助けによって解決を見るようになったのである。全てが理解できる、万能であると考えられて▲27▲きた「専門知」の限界が明らかになった。やがて彼らは経験による共通理解から連帯し、専門職支配を脱して自らの権利を主張するようになる[Borkman 1990:6-7]。“自立生活運動の父”E.ロバーツが「障害者福祉の専門家は障害者自身である」[資料 9 1998:49]と語ったように、彼らは自分たちの知識に対して「経験知」という名称を与える前から、その存在を主張し、力をつけてきたのである[Borkman 1990:7]。
以上のように「経験知」は「生活経験に根ざし」ており、「具体的で実用的で全体的」なものであり[Borkman 1990:5]、「ピア(01)であること」、「経験者だから分かること」、すなわち経験による共通理解を重視している。この「経験知」が同じ経験を持っている他者に与えるインパクトは大きく(02)、ピアカウンセリングや自立生活プログラムを作り出しているのも、この「経験知」である。
しかし、T.ボークマンが言うように「『経験知』、すなわちある出来事の経験の過程から学ぶということは、万民にとって普遍的かつ主要な学習の形」であり、「恐らく人類にとって最も古い学習体系」[Borkman 1990:19-20]といえる。したがって「当然ながら専門職訓練の大部分を占めるもの」でもあり、「専門職は職業上の経験から学びつづける」[Borkman 1990:19-20]のである。しかし、専門職による経験上の学びが「職業ベースの実践や専門枠組みと照らし合わせながら行われるもの」であるのに対して、セルフヘルプグループの用いる「経験知」は以下のような特徴がある。「第一に、セルフヘルパーは明らかに彼ら自身の、そして彼らのピアの経験に頼っている。第二に、彼らの経験知は他の見解から独立して、権限と力を有する。第三に、セルフヘルパーは、『ピアの経験の権限と力』=『経験知』の名称やそれを意味する言葉を持っていなくても、それを認め、応答している。第四に、この知識が形作られ、広められて以来、この知識体系は独自の特徴を持ってきた。第五に、専門職の間では全く認識されず、名も与えられなかったので、この知識は、その現象が目に見える形になり、理解されるために名称を与えられ、議論される必要があった」。このような特徴から、「経験知」はセルフヘルパーだけに用いられるのである[Borkman 1990:19-20]。すなわち、「経験知」は、専門職ではない、セルフヘルパーである障害者側にのみ蓄積されるものであり、介護者側の関わりや知識といったものは含まれないのである。
2. 「臨床の知」と介護における知の課題
1.において、「専門知」の限界が明らかになる中で、セルフヘルパーによる経験に根ざした知識としての「経験知」が注目されるようになったことを述べたが、近年、専門職の分野においても客観的な「専門知」の限界が明らかにされ、専門職の、経験による新しい知識の必要性が唱えられている。その知識の存在に注目し、その意義を唱えているのが中村の「臨床の知」である。
「臨床の知」とは、「個々の場所や時間のなかで、対象の多義性を十分に考慮に入れながら、それとの交流のなかで現象を捉える方法」のことであり、近代科学の方法に対する別のオルターナティブとして説明されている。具体的には「近代科学の目指した三つの原理<普遍性><論理性><客観性>が無視したもの、すなわち<コスモロジー><シンボリズム><パフォーマンス>から現実を捉えなおすものである」[中村 1992:2-11]。コスモロジーとは、「場所や空間を−普遍主義の場合のように−無性格で均質的な広がりとしてではなくて、一つ一つが有機的な秩序を持ち、意味をもった領界と見なす立場」であり、今ここという「空間の質や様相や意味」が関わってくると言うことである。シンボリズムとは、単なる象徴主義と言ったことではなく、「意味の多面性、多義性」を重視すること、すなわち「物事には多くの側面と意味があるのを自覚的に捉え、表現する立場」である。パフォーマンスとは、単に体を動かすと言うことではなく、「行為する当人と、それを見る相手や、そこに立ち会う相手との間に相互作用、インタラクションが成立」している必要がある[中村 1992:133-135]としている。
「臨床の知」が専門職の経験を取り上げたものと理解されるのは、中村の相互作用における理解からである。中村は、相互作用について「パトス的行動」という言葉を用いて説明する。パトス的行動とは、「受動的能動」と言うことである。受動的であり、能動的であるというのは矛盾しているようであるが、意識が受動的であるとき、身体が能動的である(03)と▲29▲いう意味のことである。このことは、相手からの刺激を意識で受動し、身体で能動的に行動するということであり、介護関係で言えば介護者の行為、すなわち障害者の意を受けて介護行為をするという、身体的に能動的でありながら、意識的には受動的であることを十分に表している。そして「直観と経験と類推の積み重ね」が「臨床の知」を創り出すと述べている[中村 1992:136]。
このように、中村は従来の近代科学が目指した「専門知」では捉えきれない、専門職の経験を活かした知識のあり方を提示したのである。
介護のおける知も、上記のように「場」、「経験」、「相互関係」を重視している。したがって、もし、介護者側のみの経験における知識を言うのであれば、「臨床の知」で表現することも出来る。だが、果たして介護において介護者のみで知識を創造することが出来るのであろうか。介護における知と「臨床の知」と異なる点は、障害者と介護者という、立場の違う者同士が、同じ場にあって、両者の主体的相互作用によって、両者の間に知識を創造しているという点である。「臨床の知」では、あくまでも介護者側の知識体系だけが表現され、障害者は観察される者=客体でありつづけている。介護における知識では、障害者と介護者が同じ場面で、同じ行為を違う立場から主体的に経験し、しかも両者の間にお互いに対する理解が生まれる。そのような場面での知識はどうあるのかを検討することが必要である。
第2節 「ニーズ」に関する議論
1. ニーズを巡る議論
社会サービスにおけるニーズは、これまで供給側によって決められてきた。第1章に述べたように、障害者によるサービス創出はそうした供給側のニーズ決定権をみずからのものとすることから始まっている。一般的に我々は自らの生活に関わる必要性=ニーズを自らの力で発見し、それを満たしていく。経済学上はそれが支払能力とかかわっていることで需要(demand)であると認める、明確な、わかりやすい物差がある。しかし社会福祉においては一般的にはサービスと支払能力に関連はない。「社会サービスが支払能力による限定なしにニーズに対処するのであれば、ニーズはどのように測られるべきなのか」[Bradshaw 1972:640]というのが、ニーズを測る最初の問題点である。▲30▲
J.ブラッドショーは以下の4点を挙げた[Bradshaw 1972:640-641](04)。
(1)規範的ニーズ:専門家によって規定されるニーズである。それゆえ、専門職の価値判断(05)によって異なり、絶対的なものではなく、他の定義によって決定されるニーズと一致しない場合もある。また、パターナリズムの汚名を被っている。ニーズに対応させるべき資源の量についての判断、その問題を解決する技術についての判断も専門職によって変わってくる。また、知識発展の結果や社会の価値変化に応じても変化する。
(2)潜在的ニーズ(フェルトニーズ)
他者によって尋ねられることにより感じられるような、表出されにくいニーズを意味している。民主主義において、潜在的ニーズがニーズの重要な要素であり、概念であると想定することができるが、しかし、実際には潜在的ニーズは高齢者の研究とコミュニティ・ディベロップメントでだけ、ニーズを測る物差しとして定期的に使われているようである。それは、潜在的ニーズは、個人のサービスに対する理解や、自分の境遇やおかれた状態への理解が必要とされるため、“本当のニーズ”を正確に測るには不適格な物差と見なされているためである。また、本来は必要としていないのに(06)サービスを要請する人によって不当に利用されていると考えられてもいる。
(3)顕在化されたニーズ
顕在化されたニーズ、または要求は、潜在的ニーズが行動化されたものである。すなわち、本人の「感じられたニーズ」=潜在的ニーズに従い、サービスの申請などを行うことによって、他者もその存在を認識できるようなニーズのことを意味する。この定義によれば、ニーズ全体はサービスを必要とする人々によって定義されている。人は、ニーズを感じない限り、サービスを要求しないが、その一方で、一般的に潜在的ニーズが要求として表出されるということはまれである。顕在的ニーズは主に保健サービスにおけるウェイティングリストに代表されるような、充足されていないニーズを測る物差として使われている。ウェイティングリストは通常“現実のニーズ”の消極的な定義として、受け入れられている。▲31▲
(4) 相対的ニーズ
この定義は、サービスを受ける人の特徴を研究することによって発見された。すでにサービスを受けている人と同じような特徴を持つ人がサービスを受けていない場合には、その人たちはニーズ状態にあるとされる。例えば“Xさんはサービスを受け取っている。それはXさんがA‐Nと言う特徴を持っているからである。ZさんもA‐Nという特徴を持っているが、サービスを受け取っていない。したがって、Zさんはニーズを持っている。”と解釈される。この定義は個人と地域のニーズ測定に使われ、サービスの地域格差を表す。このニーズ測定によって、実践は標準化される傾向にあるが、それが個人のニーズに必ずしも合っているわけではない。ここで問題とされることは、サービス供給側のサービスの量と質のレベルの問題である。また、この状況において、例えばA地区がB地区に比べてニーズがあるという時の、比較すべき特徴を何にするのかが重要なポイントとなる。
また、A.フォーダーも(1)理想的目標・規範(2)最低限基準(3)比較ニーズ(4)フェルトニーズ(5)専門技能(6)ナショナルニーズの6種類のニーズについて説明している[Forder 1974:39-57]。以下、岩田[1991:45-51]の議論を加えながら、簡単に説明すると(1)は、「健康」、「栄養」、「人間発達」などの理想的規範に基づいて測定されるニーズである。しかし、これを実際に使う場合、例えば教育を考えてみればわかるのだが、潜在的な個々人の差異の問題、さらに与えられたものによって生じた個々人の差異の問題があげられる。栄養に関して言えば、吸収率には個人差があり、健康を維持のための必要量も個人差があるのである。さらに難しいのはその目標設定である。栄養のように比較的設定が可能かと思われるものであっても、満足感(feelings of well-being)を考慮しなければならないとなると、その設定は難しい。幸福などは文化によってその概念が異なる。
以上のように(1)はニーズを特定化していくには不充分であるとして、フォーダーは以下の5つを操作概念として提示する[Forder 1974:39-57]。
(2)は、ラウントリーの生存最低限基準、タウンゼントの相対的剥奪、ベバリッジの五大悪など、ニーズの操作概念として最も親しまれているものである。しかし、その短所は、長所同様に、現状に対して最低限の干渉をするということである。すなわち、測定可能なものに目標設定がされやすく、測定されていないものは無視される。従って将来への見通しが希薄になる。
(3)は、(2)の延長線上にある。(2)との違いはコミュニティの平均水準と比較する点である。最低基準と平均水準の比較との違いから、問題がより明らかにされ、ラディ▲32▲カルなアプローチといえる。しかしその欠点としては、「客観性が強まると言っても、そこで採用されたコミュニティの平均なるものの適切性という問題」があり、第二に、「フェルトニーズとの落差が大きいであろうことが指摘されている」[岩田 1991:48]。
(4)は個人の主観的感覚によって導き出されたニーズである。このニーズは、社会サービスにおいて、クライエントの変化への動機という点で、重要なニーズ概念として認識されており、これに沿って援助のアプローチが行われることもある。しかし、実際の援助場面ではクライエントの決定権は限られている。その理由として、臨床心理士、ソーシャルワーカー、マネージメントコンサルタントといった、いわゆるチェンジ・エージェント(change agents)の介入をクライエントが正しく認識できないという点(07)、また、クライエントは現状の痛みやフラストレーションのために、あるいは変化に対して落胆しているために、正しい認識ができない状況にある点等が挙げられている。これに対して、チェンジ・エージェントはクライエントにとって何が不可能なのか、その問題の原因と影響、その後どうすべきか、どのようになるのか、何を変えるべきなのかということに関する知識を有しており、またそれを変えるために必要な技術を持っているとされている。
このような考えに対し、フェルトニーズに基づく実践のためには、知識を広めていくことが求められており、ソーシャルサービス実践主体、専門職、管理者、あるいは代理人に集中している決定権はよりオープンなものにしてされていくべきだと主張されている。しかし、貧困問題や高齢者問題に対する研究から、現実には自分自身のニーズは本人にわからない状況があるということが明らかにされている(08)。
目的を設定するという困難を回避するために、その目的設定を専門職に委ね、専門技術でニーズを測るのが(5)である。問題点としては、第一に専門職の知識が客観的なものとはいえないこと、それは専門職の経験に頼ったものになり、また専門職の専門領域に偏ったものになるということである。第二にいくつかのニーズが次々と起こったとき、いくつかのサービスと技術がコーディネートされる必要がある。そしてその役はクライエントに任されるのであるが、それに関わる知識も影響力もクライエントにはない。第三に、サ▲33▲ービス実施計画にあたり、他の診断によるニーズを付け加えるということが非常に難しい点である。これは専門職によるサービスコーディネート機能がないことよりも、より深刻な問題である。
(6)は、それまでのニーズが個人と環境の関係で持ちあがってきたのに対し、国家が国家として生き残り、文化遺産を維持するという国民共通の利益を含めた、国家を構成する個人としてのニーズの総称を言う。このアプローチは、個人のニーズに関わる枠組みにまでも広げられる可能性がある点で、潜在的には非常にラディカルな側面を持っているのだが、しかし、実質的にはとても保守的なものでしかない。なぜなら、第一に、政府の優先順位決定は強力であり、第二に、政府は葛藤を避ける方向に進む。これらの要素から現状維持の方向へ進む結果となり、また国民全体が望んでいる場合にしか変化が起きない。
これらの分類は、どれが正しいというのではなく、ニーズ測定の種類とその長所・短所を明らかにしたものである。それらは「何を変えることができ、何が変わる必要があるのか」[Forder 1974:57]という社会変化に対する価値との関係で使われていくものである。そしてこれらの組み合わせがどのような現象として現れているのか、また、実際の政策決定場面でどのように使われているかはブラッドショーによって分析されている[Bradshaw 1972:641-643]。
日本のニーズの捕らえ方としては、貨幣的ニーズ・非貨幣的ニーズ、児童、高齢、障害などの各類型別のニーズ把握が行われている。これらはいずれもニーズのある種の形であって、ニーズの本質をさしているものではない[岩田 1991:43]。むしろ三浦が操作的概念として挙げた「ある種の状態が一定の目標なり、基準から見て乖離の状態にあり、そしてその状態の回復・改善等を行う必要があると社会的に認められたもの」[三浦 1985:60]という定義が、ニーズの本質を提示しようとしているものと考えられる。しかし、現実には、日本において、これらの論とはまったく別にニーズの類型把握が行われており、生活問題に見られる共通の事実や状況から、価値や目的と絡めてニーズが語られてはおらず、十分とは言えない[岩田 1991:43-67]。
2. 介護におけるニーズ把握の課題
そもそも上記のようにニーズを測定するのはなぜか。ブラッドショーは、通常であれば支払能力でその必要量を把握できる要求が、社会サービスにおいては、それでは測ること▲34▲ができないものとしてあり、したがってニーズ=必要性として測る必要があると述べている(09)。フォーダーも同様のことを述べている(10)。
「自立生活」運動において、障害者は、介護ニーズ=「何を、どの程度必要とするのか」を、自らの生活を最もよく知っている自分たちで決めることを主張した。そしてそのことを実践してくる中で、他者から生活能力のある者として、何が正しいのかを自分で決められる者として、尊重される経験を得た。これによって、これまで奪われてきた能力や力、自尊心を取り戻してきたのである。彼らが望んでいた本当のニーズとは何だったのだろうか。もちろん介護サービスそのものでもあったが、ただそれだけではない。それらがどうあるべきかを彼らが決定できることが重要なのである。
自らが感じるニーズには、ブラッドショーやフォーダーの言うように、確かに欠点もある。第一にサービス量が必要以上申告され、資源が無駄に使用される可能性があるということである。第二にサービスの存在を知らないとそのニーズさえ生まれないということである。こうした問題に対して、現在、障害者たちは「自立生活」の実践の中でどのように対処しているのか。現場ではどのように問題を克服し、どのような問題が残されているのか。検討が必要である。
第3節 「自己決定」に関する議論
1. 「自立生活」における自己決定をめぐる議論
自己決定をめぐる議論は様々に行われているが、「自立生活」に関する記述の中で問題になるのは、自己決定できる能力を問うものである。
自分の生活を自分で制御する、形作る。それが「自立生活」の重要なポイントである。そのため自己決定能力の有無が「自立生活」の要件であるという主張がある。そのような中で、知的障害者や精神障害者、あるいは痴呆や意識障害を伴うような人といった自己決定できにくい人には「自立生活」は難しいというような捕らえ方があり、新たな能力主義の存在が指摘されている(11)。特にこの考え方は1980年代にアメリカから「自立生活運動」が▲35▲伝わってきたときに顕著になった(12)。例えば楠は「ここ(アメリカの自立生活理念)で言われる障害者の自立、あるいは「自立生活」とは、障害者自らが経験し、悩み、判断し、自己決定するということを意味している。…しかしながらこの理念は…『比較的有能で若く富裕な障害者』によって実践がなされているという点で、特に脳性麻痺者や『精神遅滞者』、『精神障害者』がその対象とされにくいという問題を内包している」[楠 1989:26-32]と指摘している。
さらに進んで、「パーソン論」、あるいは「自己決定主義」とも言われているが、「決定能力が人であることの指標であるとされ、それを有していることが生存を認められるために必要」[立岩 1998b:61]とされたり、「『何でも自分で決定できることがよいことなのだ』、『決定できる限りにおいて人間は人間なのだ(人間としての価値を持つのだ)』」[立岩 1999a:92]とされるような、自己決定能力によって、その人の存在価値そのものまでも判断されるような行きすぎた議論まで行われている。
2. 「生活」の中での「決定」とは
「自立生活」を送るにあたって、自己決定は「鍵」[立岩 1999a:90]とされたのであるが、実際の生活において、「自分(だけ)で決める」ということは「常によいことでもないし、第一義的に大切なことでもない」[立岩 1999a:92]。そして、我々の日常はそう簡単に自分の決定だけでことが運ぶわけではない。
糸賀美智子は、障害を持たない者であっても社会生活を営む中では、「そもそも『自己決定』『自己選択』を100%行使している人などいないだろう」[糸賀 1998:92]という。そして限られた選択肢で、何とか折り合ってやっていく中に、人の多面性を発見したりする生活の面白さがあるのだと説明する(13)。また、立岩真也は「決定しないことの快」を説明す▲36▲る。我々は何から何まで自分で決定することを望んでいるだろうか(14)。何もかもが自分の思い通りになるわけはないし、ならないことが普通である。またならないからこそ、我々は生きているという実感を持つのである。
とすると、他者が代わって判断し決定することは、必ずしも否定されることではない。また自己決定が他者によって思うように行えない場面も−ある程度「しかたない」とあきらめる場面があっても−普通の生活である。しかし、生活の全てにわたって他者に代行され決定が行われる生活を送ってきた障害者にとって、そのことを一概に肯定することはできない(15)。どのような時に代行が許されるのか。どこまでの自由が許されるのか。それが問われているのである。
第4節 介護関係への問い
1. 向かい合う自己と他者
介護において、「介護する者」と「される者」の関係は、第1章に見るように、常に問われてきた問題である。行為主体としてある介護者と介護行為を受ける者としてある障害者は、介護において、常に主体と客体として捉えられ、「介護する者」と「される者」はそれぞれが自分たちの立場で介護を語ってきた。しかし、介護の場面で、介護者と障害者は果たして主体と客体として捉えられるのであろうか。
「介護する者」と「される者」が主体と客体としてあるとはどのような状態か。ここでは、奥村隆の「『原形』としての社会」[奥村 1998:33]の言説を用いて、主体と客体として「自己」と「他者」が存在することを説明する。この言説で使用される公理は「存在証明」である。石川准は、この「存在証明」のために我々は「人生の大半を消費する」[石川 1992:15]とまで言う。では、「存在証明」とは、そしてそれをもとに描かれる「『原形』としての社会」とはどのようなものなのか。
「存在証明」という言葉について、石川は「『私』が生きているということを、しかも価▲37▲値のある存在として生きている、ということを証明しようとする行為」[石川 1999:50]であると説明する。存在証明には、「印象操作」、「名誉挽回」、「開き直り=解放」、「価値の奪い取り=差別」という4つの方法があるという[石川 1990:27-33]。そして我々の様々な行動は、その目的を達成するために行われるばかりではなく、「存在証明」のために目的にストレートに結びつかず、ずれて行われるとする(16)。
さて、「存在証明」の前提条件となるものについて、若干説明を加える。「価値があるということ」を「証明する」ためには、「価値があること」を示すことと、それが「承認される」ことが必要になる。「私」の価値とはどのように表されるのか。
石川はその表現方法に「アイデンティティ」をあげる。石川はアイデンティティを「世界の中の位置を表すもの」、あるいは「分類」であるといい、「所属」「能力」「関係」の三つの種類をあげている[石川 1999:50-64]。
これに対して、R.D.レインは「自己アイデンティティ」と「社会的アイデンティティ」という分類を行っている。「自己アイデンティティ」とは「自分が何物であるかを、自己に語って聞かせるストーリー説話である」[Laing 1961/1969=1975:110]。そして「社会的アイデンティティ」とは「自己」に対して他者が与えるアイデンティティのことである。
石川の言う、「所属」「能力」「関係」と言うアイデンティティとレインの言う「自己アイデンティティ」と「社会的アイデンティティ」の関係は以下のように説明できる。「私」は、自分のアイデンティティの位置を「所属」「能力」「関係」の中のどの位置を表すか、決める(=自己アイデンティティ)が、そのとき、「私」は他者が「私」を承認する「私」の「所属」「能力」「関係」の位置(=社会的アイデンティティ)から判断を行うのである。
このような自己アイデンティティと社会的アイデンティティの関係をレインは、「補完性」という言葉を用いて説明する。「女性は、子供がなくては母親になれない。彼女は、自分に母親のアイデンティティを与えるためには、子どもを必要とする。男性は、自分が夫になるためには、妻を必要とする。…<アイデンティティ>にはすべて、他者が必要である。誰か他者との関係において、また、関係を通して、自己というアイデンティティは現実化されるのである。そしてこの『補完性』は形式化され、文化的に規定されており、『役割』と言う言葉で表現されるものでもある」[Laing 1961/1969=1975:94]。子どもが母親だと認めること、承認することによって、一人の女性は母親になることができる。「他者」の▲38▲承認が、「私」のアイデンティティを明らかにする。そして「私」が「他者」の存在に意味を与える。この相互補完的な関わり、「自己を他者が充足させたり完成させているような人間関係の機能」を「補完性」というのである[Laing 1961/1969=1975:94]。奥村はこれを「承認の体形の社会」[奥村 1998:36]と呼ぶ。
しかし、と奥村は問う。「承認」するということはどういうことなのか。
「他者が、私を、承認する。−これによって私は私の存在を確かめ得るのであった。しかし、このことは次のことをも意味する。すなわち、私の存在証明は他者の承認に依存する、私の存在は他者次第である。ここでは他者が『主体』であり、私は他者という『主体』にとっての『客体』であるに過ぎない。この関係が重要になればなるほど、他者が『主体』であり、私が『客体』であるという様相は強まってゆく。そこでは次のような不安が生じるだろう。私のアイデンティティは他者という『主体』に『呑み込まれる』のではないか」[奥村 1998:37]。
奥村は、承認という行為は「『他者』を『自由な行為者』=『主体』として体験」[Laing 1960/1969=1971:59]することであり、それは、「ひとが自己を他者の体験の客体(・・)として体験する可能性と、したがって、自己の主体性が消褪したと感じる可能性にさらされる」[Laing 1960/1969=1971:59]ことであると説明する[奥村 1998:39]。そして、我々は他者の存在証明のために、自己の存在を定義されること=客体化されることを恐れ、自己の存在証明のために、他者による他者の状況定義を「奪い取り」、「剥奪」[奥村 1998:40]し、自己の状況定義を押しつける。ここでは「主体」と「主体」が両立できず、状況定義権を巡る闘争が繰り広げられるのである。これを奥村は「葛藤の体系としての社会」[奥村 1998:40]と呼ぶ。
存在証明をめぐって、「主体」と「主体」が出会うことによって創り出される社会。「承認と葛藤の体形としての社会」[奥村 1998:41]が原形として浮かび上がってくる。
2. 介護における「主体」とは
上記の理論を用いて、主体と客体が存在する介護場面を想定すると、「介護する者」と「される者」の関係が理解できる。これまでの施設職員として、親や家族として、介護者は障害者を弱者として、保護すべき存在として捉えたきた。障害者自身もそうした者として自らを捕らえていた時には、両者のアイデンティティの位置は安定したものであり、承認しあっていた。しかし、障害者は決められた障害者としてのアイデンティティ、役割を否定▲39▲し、自らの位置を変えようとし始めたのである。そのことは同時に介護者にとっては、これまでの、「善意と慈愛に満ちた好意を全く疑うことのなかった」[若林 1986:71]介護者としてのアイデンティティ、役割が否定されることを意味する。両者は自己の存在証明のためには、介護場面におけるお互いのアイデンティティ、役割を「奪い取り」、「剥奪」[奥村 1998:40]し、自己の定義を押しつけなければならないのである。
上記の論では、主体が客体を「呑み込み」、葛藤する場面を説明したが、しかし、実際の介護の場面で繰り広げられている関係はこれだけではない。小倉の言うように、ある具体的な行為を行う際、介護アレンジメントにおいて障害者と介護者が「どちらも主体であったり、客体であったりすることはなく」、「『イーブン・イーブン』」[小倉 1998:190]である場面がある。あるいは究極が言うように「介助者が、障害者の身体性を身近にしそれを分かち合」い、「障害者の頭ごなしに事を進めていく不自然な社会に対する異議申立ての同志(=共犯者)になっていく」[究極 1998:183]過程がある。両者が主体的に関わる関係としての介護関係はどのようにあるのか。その可能性を探る必要がある。
第5節 サービス提供者として介護者に要求されている役割
1. 専門職の定義
第1章で述べたように、介護を専門の職業として生きる者=専従介護者という役割は、地域での介護が家族やボランティアによって行われるべきと考えられていたときから、障害者によって創り出されてきた。近年、介護職の専門職化が社会的にも進んでいる。1987年に「社会福祉におけるケアワーカー(介護職員)の専門性と資格制度について(意見)」で、はじめて介護職員の学問的な研究成果がまとめられ[山手 1997:54-55]、その直後「社会福祉士および介護福祉士法」が制定された。介護という職業が制度化され、資格が付与されることになって、10年以上経っている。一般的に専門職とはどのように定義されているのか。
「専門職」とは、professional、professionの略語であり、「報酬または生計のために特定の職業、研究または科学に従事する人」、「報酬または生計のためにスポーツや陸上競技に参加する人、または金銭のために訓練を受けたもの」、「演劇作品に出演することで金銭を得る人」、「学問的専門分野に属している人、あるいは高度なレベルの訓練と熟練を要求される職業についている人」、「知識の分野で十分な権限、または実践的な経験を持っている人」などとなっている[professional :Webster's Third New International Dictionary▲40▲ 1986:1811]。スポーツ、演劇など様々な分野の人が「プロ」、「専門職」と呼ばれているのだが、要約すると「ある特定の技術、知識を用いて、特定の分野で働き、その業で収入を得ている者」ということとなる。
「専門職」に関する定義は、上記のように広い解釈から、いくつかの要素をその要件とするものまで様々であるが(17) 、特に社会福祉においては、ソーシャルワークの専門性とソーシャルワーカーの専門職としての条件について議論が行われてきた。1915年の全米慈善・矯正会議において、A.フレックスナーは「Is Social Work a Profession?」という講演を行い、その中で、医学教育とソーシャルワーク教育を比較し、@社会科学における基本的な準備 A占有的、特殊的な知識の体系と伝達可能な専門的技術 B一定の教育と州の監督下においてテストされた専門的資格 C専門職の団体 D専門的実践のための綱領 という以上5点が、専門職として、ソーシャルワークには欠けていると指摘した[秋山 1998:234-235]。
E.グリーンウッドは@体系的な理論 A専門職的権威 B社会的承認 C倫理綱領 D専門的文化 を専門職の条件としてあげた。これらの内Aの専門職的権威が、社会福祉専門職の場合、公的権力を根拠とした、機関や組織に属するものであるということから、他の専門職と比べて、専門職としての独自の職権であるのかどうかが疑問視されている[秋山 1998:235-236]、[植田他 1997:289-291]。
これらの分類に対し、カーサウンダースは専門職の発展段階を研究し、
@ 可能的専門職(自称専門職) Would-be Profession:職業に携わる者は専門職であることを望んでいるが、社会的には認められていない。専門職と自称しているのみ。
A 新生専門職 New-born Profession:専門的な知識と技術を持って職業界に参入してきた新しい専門職。
B 準専門職 Semi-Profession:社会的に一応認知されているものの、専門職としての完成度がやや低い。
C 完成専門職 Full Profession, Complete Profession:高度な理論と技術に裏付けられた▲41▲職業行為を言い、社会的評価も高く収入も比較的高い。
の四段階にわけた。それを受けてA.エツィオーニは、社会福祉専門職の立場を(1)専門教育の年限が低い(5年以下)(2)生死やプライバシー(法的)へ直接関わることが少ない(3)秘密保持が比較的なされない(4)自律性(autonomy)が低い(5)ワーカーの多くが女性で、男性ほどには地位向上や競争を求めない などの理由で、Bの準専門職とした[秋山 1997:238-239]。
G.ミラーソンは専門職の定義として、「専門職とは、主観的にも客観的にも、相応の職業上の地位を認められ、一定の研究領域を持ち、専門的な訓練と教育とを経て、固有の職務を行う、比較的地位が高い、非肉体的職務に属する職業をいう」とし、属性として、(1)公衆の福祉という目的(2)理論と技術(3)教育と訓練(4)テストによる能力証明(5)専門職団体の組織化(6)倫理綱領 を挙げた。そしてミラーソンは、(4)のテストによる能力証明を、社会的承認の方法として重視した[秋山 1998:236-237]。
専門職問題の研究者、石村善助は、「プロフェッションとは、学識(科学または高度の知識)に裏付けられ、それ自身一定の基礎理論を持った特殊な技能を、特殊な教育または訓練によって修得し、それに基づいて、不特定多数の市民の中から任意に呈示された個々の依頼者の具体的要求に応じて、具体的奉仕活動を行い、よって社会全体の利益のために尽くす職業である」[石村 1969:25-26]と定義した。これに対し、秋山智久は、石村の「奉仕活動」という言葉は「プロフェッショナリズムからすると、時代遅れで曖昧な表現」とし、専門職成立の条件として@高度な理論体系、A伝達可能な技術 B利他的な価値観(営利第一でない) Cテストか学歴による能力証明に基づく社会的承認 D専門職集団の組織化 E倫理綱領の存在を挙げた[秋山 1998:238]。
このような一般的な専門職性の分類に対して、笠原幸子は、「専門職性の一般的概念とは、時代とともに変化していくもの」[笠原1997:147]と捉え、介護の専門職である介護福祉士の「専門職性を伝統的な専門職性の一般概念に当てはめることはできない」[笠原1997:148]と述べる。
2. 介護者を専門職化することの意味
障害者運動の中では、介護職を専門職化して行くことに対して、その是非が問われている。それは、すでに説明したように、障害理解を一般化していく問題と、そして、専門職一般に対して障害者が抱いている思いがあるからである。▲42▲
障害者が専門職一般に対してどのような考えを持っているのかということは、障害者自身の手記に記されている。障害者の手記の中に登場する専門職は、医師、看護婦などの医療職、養護学校や普通学校の教師などの教育職、そして入所施設の職員や生活保護担当のケースワーカーなどの福祉専門職がある。骨形成不全の障害を持つ安積純子は施設での体験を「最悪だった」と綴っている[安積 1990/1995:22-27]。医者にモルモット扱いされたこと、看護婦に親との面会を謝絶されたこと、そうした様々な体験によって「人の顔色をうかがう」[安積 1990/1995:24]ようになったり、「健常者に近づくことこそ一番だと言う信念」[安積 1990/1995:27]を植えつけられたこと、それが彼女の専門職との関わりである。また、脳性麻痺の障害を持つ小山内美智子は、生活保護で暮らす障害者として、ケースワーカーとの関わりに疑問を持つ。彼女が妊娠六ヶ月のとき、役所の担当員とケースワーカーが同時に4人きて、生活保護を打ちきる相談をした。「とにかく、夫は若いし健康なんだから働け、という。それは不可能だと言うと、私に施設に入れと言う、子どもが生まれたら、乳児院に預ければ、夫は働きつづけることができるというのだ」[小山内 1988:262]。
常に上下関係があり、「強い人には低姿勢で出てきて、弱い人には強く出る」、「自分より下だと思う人に対しては見下す」[安積 1990/1995:35]。このような専門職との関係が、障害者運動の原動力の一つとなっている。しかし、その一方で介護に関わる者を専門職化(=介護に職業として携わる)していくことは、障害者運動の中でも一部で進められてきている。障害者たちはどのような介護者を望んでいるのだろうか。そこに利用者に望まれる新しい専門職像の一端を見ることができるのである。▲043▲
第2章・註
(01) ピアとは「同じ問題・課題・不安などを共有する仲間」[福祉社会辞典 1999]のことである。
(02) セルフヘルプに関する研究は多々ある。例えばBorkman 1976、 Powell 1990、岡の研究(1990, 1991, 1992, 1993,1994, 1999)、平野・窪田1993 窪田 1993、特に自立生活センターの活動に関して、東京都自立生活センター協議会 1999など。
(03) 「受動的あるいはパトス的とは、身体性を帯びていることであり、受動的行動あるいはパトス的行動とは身体性を帯びた受苦的な行動に他ならないことに気がついてからである」[中村 1992:118]。「《心において受動(情念)なるものは、身体においては一般的に能動であると考えなければならない》」[中村 1992:83]。
(04) 以下の文章はBradshawのニーズ論文を筆者が翻訳し、説明を補ったものである。
(05) Ronald Waltonは“Xはニーズがある”という状態は、経験主義的なものではなく、“Xはある状態Yにある。YはZと言う社会の価値と両立しない。だからYと言う状態は変えられるべきである”という価値判断であると指摘している[Bradshaw 1972:640-641]。
(06) ここでは、他のニーズ判断ではサービスが必要ないと判断される人のことを指していると考えられる。
(07) Lippettらの研究[Forder 1974:52]。
(08) 「Runcimanの研究では、最も貧困な層に属している人は自らが貧困であるという意識を持たない」「Halsallと Lloydの研究によれば、病院に入院している高齢者のうち、3分の2以上が、病気の状態が長いために、健康であったときの状態をわすれてしまったといっている」[Forder 1974:52-53]。
(09) 「社会サービスが支払能力による限定なしにニーズを対処するのであれば、ニーズはどのように測られるべきなのか」[Bradshaw 1972:640]
(10) 「ソーシャル・アドミニストレーションは、金銭的資源によって裏付けられた要求に対する供給を扱う市場経済と対比的に、ニーズと資源の問題に関わる」[Forder 1974:1]
(11) 楠 1989、北野 1992、寺田 1991、谷口 1992、定籐 1986、1990、1992、定籐他 1993、三ツ木 1994などがその考えを紹介している。
(12) それ以前の、日本の障害者解放運動においても「自分の意志で決める」ということを重視していたことは認められるが、しかし、そう強調されたわけではなかった[立岩 1999a:79-107]。
(13) 「アメリカからきた自立生活運動は、障害者主体、自己決定、自己選択が基本理念である。それは確かにすばらしいことだが…そもそも『自己決定』『自己選択』を100%行使している人などいないだろう。ちまたのOLが火曜日の夜に『あしたから一泊の温泉旅行に行こう』と自己決定したところで、『あした』と『あさって』が休みの日でない限り行けない。休暇を取るか、無断欠勤をしないとほとんどムリな話である。こういったことは実はよくある話で、社会生活を営む以上、当然のことだ。また、就職して職場に初出勤したとき、これからいっしょに仕事をする同僚は選べない。気の合いそうな人もいれば、どうもうまくやれそうもない人もいる。それでも、いろいろな人と顔をつき合わせつつ仕事をしていかなければならない。それが普通だと思う。そんな中で自分とは合わないと思っていた人が案外親切だったりするのを発見することもある」[糸賀 1998:42-43]。
(14) 「いちいち決定しないことのほうが多くの場合に『楽』だからであり、何から何まで決定するのは『めんどくさい』からである。『いたれりつくせり』とか『よきにはからえ』とか言うではないか」[立岩 1999a:92]。
(15) 「…脳性麻痺者は生まれたときから全て『代行』されつづけているし、生活すること、あるいは食事をするというほんの小さなことさえ己が生きるのだ、という実感をつかみえないまま一生終っていくのだ」[横田 1979:39](立岩 1998a:226に引用)。
(16) 具体例は[石川 1992:15-17]。
(17) 専門職という概念についての外延的定義も論者によって食い違いが見られる。例えば立岩は「漁師も魚をとる専門家である」、「例えば農業、八百屋、塾の講師…。それぞれ専門性を要する仕事だ…」という[立岩 1999b:141,145]。それに対し、田尾は「知的で技能的な職業がすべてプロフェッションではない。…単一の技術に熟練したスペシャリストとは区別されるべきである。職人や、単なる専門的な技能の保持者とは区別されなければならない。」という[田尾 1995:73-77]。
第3章 練馬区介護人派遣センターの概要とサービス
練馬区介護人派遣センター(以下センター)は、第1章の中で取り上げた障害者運動の内の、介護者を専従として雇う方向を担った団体である。ここでは「介護する者」、「される者」という関係を越えた関わりを、そして新しい介護サービスの創出を、目指している。第3章では、センターが生み出されてきた歴史を第1節で、その特徴を第2節で見る(01) 。さらに、そこで行われている日常生活とその特徴、障害者、介護者という役割について第3節以降で記述する。
第1節 練馬区介護人派遣センター設立に向けた運動の営み
1. 萌芽−練馬区在障会
センターの前身である「練馬区在宅障害者の保障を考える会」(練馬区在障会)は、1974年、全身性障害者である荒木義昭が、当時精神障害者実態調査阻止を行っていた労働組合のメンバーと共に結成した。その当時は、第1章で挙げた二つのセンター闘争や神奈川青い芝の会による「重症児殺し告発運動」(02)などがあり、「自立生活」障害者が徐々に増え始めた時期と一致する。
練馬区在障会の活動は交通問題、住宅問題、公園などの整備を含めた街づくり問題、区役所内喫茶コーナー設立や高校の授業参加に見られるような市民交流など幅広く行われていたが、中でも介護料獲得についての行政交渉が中心事項として重要視されていた。それは「重度の障害者が親から離れ、自立した生活をする時、絶対必要なことは介護者を確保すること」[資料3 1988:1]だからである。
「自立生活」をはじめた当初から、荒木は24時間の介護を必要としていた。荒木のもとには、延べ人数で50人程度、中心として活動する介護者が約20人程度いた。こうした介護者は荒木のこれまでの活動に賛同した人たちである(03)。しかし、これだけの人数がいても▲44▲介護は安定しなかった。突然のキャンセル、遅刻などボランティア特有のいいかげんさもあったが、介護者が減る中で、より少数の核となる介護者に長時間、重労働の介護負担がかかり、腰痛など体を壊す者もあった。また、介護内容も運動中心の介護者であると、その運動の趣旨とあわないからとやめていったり、自分勝手な介護をする者もあった(04)。介護者が絶対的に不足する一方で、施設から、家庭から徐々に自立を目指す障害者たちが地域を目指してくる。「『これ以上自立障害者が増えるといまの自分の介護体制に支障をきたす恐れもあるし、正直言ってやめて欲しい』という声が出るほどに、慢性的な介護者不足」[資料 4 1988:3]の状態だった。
2. 介護システム試行
このような状態で、「自立生活」が可能な障害者は、おのずと限定されていた。ボランティアを集めることのできる「超人的な精神力と魅力を備えている」[資料4 1988:3]者か、あるいはある程度、自分のことは自分でできる者かである。荒木らは「ボランティアを集められる障害者だけじゃなくて、どの障害者も安定した介護を受けられるように」し(05)、どのような重度の障害者も、生活の場の選択肢の一つとして「地域」を選ぶことができるような状況を作り出さなくてはならないと考えた。そのためには、地域に常に介護者がいる必要がある。施設で障害者の生存権が−曲がりなりにも−保障されるのであれば、地域での障害者の生存権保障として、施設職員に代わる、専従介護者がいることは当然である。それが、荒木等が「地域での介護を社会的労働に」と、「自立生活」当初から言いつづけてきたことの理由である。
荒木を含めた数人の障害者たちは、「介護専従(案)」を作成し、専従介護体制を試み始めた。具体的には、一週間に2日、1日8時間から12時間、決められた曜日に介護を行い、それまで、介護に関わる人全員に頭割りで払っていた介護料(06)を専従介護者に集中して払う。専従介護者一人に支払われる介護料は、1980年当時で一ヶ月5万円であった。荒木は当時15万円強の介護料を受け取っていたので、3人の専従を雇い、週6日の介護を埋めた。同様にある障害者は10万円で2人を雇った。介護者は仮に二人の障害者を介護すれば、週4▲45▲日で月10万の収入となる。これが労働に見合う対価であったかどうかは定かではない(07)。しかし、重要な点は、これによって介護で生計を立てる者、介護を労働として位置付ける者が生まれたということである。このことは障害者にしてみれば、かなりの確率で介護者を前もって確保できるということである。幾ばくかの「安心」と「自由」が獲得されたといってもいい。
3. 介護人派遣センター構想
介護専従体制が試行される一方で、重度障害者が在宅で暮らせる一つの案として、介護人派遣センター構想が1976年の全国障害者解放運動連絡会議(全障連)第一回大会で提起された。センター構想のポイントは、外出援助と入浴介護の問題であり、いつでも頼める介護者の確保、同時に障害者の要望に沿って動ける車や、風呂がない人のための入浴設備も完備できるようなセンターをというものであった。介護者に関しては、「24時間介護が必要な人に対しては専従者が」という発想があるものの、基本的にはボランティア、福祉に携わる学生、労働者、家庭の主婦のパートなどを想定していた[資料 2 1976:62]。
しかし、第6回大会の基調で練馬区在障会は、専従介護者をプールし、介護の必要な障害者への派遣を行うことを提言する。公的責任として派遣されるホームヘルパー制度は、「家族の負担の軽減」であり、障害者本人を助けるというより「しわ寄せのくる周りを助ける」という意味で作り出されたものであって、「障害者の要求として作られたものではない」。それに対して、「障害者が自分自身で作り出す介護制度として」、介護人派遣センター構想が全障連の基本的柱とされたのであった[資料 2 1981:40-49]。介護料の支給は確かに介護者の生活苦を軽減させたが、障害者にとっては介護者がいない限り、介護料は何の意味も持たない。障害者と介護者の需要と供給のバランスが崩れた中で、相変わらず障害者は介護者を探さねばならず、その問題は、個々の障害者の努力にのみ頼るような状況だった。そうした地域介護のあり方に疑問が投げかけられたのである。試みが始まった介護専従体制の中で、わずかに確保できた「安心」と「自由」をより確実なものにするためには、どうしても介護人派遣センターが必要であった。
だがこうした動きは時期尚早であった。当時は介護の位置付けがまだ明確になっていな▲46▲かったのである。介護を社会的労働として位置付けるということが、必ずしも合意されていたわけではなかった。むしろ介護は健常者が障害者との人間関係のうえで、当然のこととして無償で行うべきものであり、介護を通して障害者と健常者の理解が深まるのだから、介護は全ての健常者に担われるべき性格のものであって、介護者を専従などに限定するのはよくないなどといった意見が大半を占めていたのである。全国的なセンター構想は難しくなり、個々の活動の中で実現化が模索され始めた。
4. 自立生活センター
こうして介護人派遣センター構想が全国的には実現不可能になっていく中で、また違った動きが生まれていた。アメリカのCIL(08)の活動を組織のモデルとし、介助派遣体制については日本の民間在宅福祉団体の手法を取り入れた[立岩 1995c:268]、いわゆる「自立生活センター」設立の動きである。
自立生活センターの日本での設立は、1986年、八王子のヒューマンケア協会に始まり、それ以降、立川、国立、世田谷、町田、札幌など次々と設立されていった。それぞれが独自性を持つが、「当事者主体」、すなわち障害を持つ者が組織運営の中核を担うということ、さらに単なる運動体ではなく、自らがサービス供給主体となるという体制が確立されていた(09)。
練馬区在障会のメンバーたちもこの体制に関心を持ち、研究を重ねる。しかし、このシステムでは重度障害者の地域生活を支えるのは難しいという結論に達したのだった。▲47▲
自立生活センターで行われる介護・介助は、有償であるという点で、介護に金銭を介在させている専従介護体制と同じである。しかし、決定的な違いは、自立生活センターの場合、多くの人がパートタイム労働として介護・介助に参加する点である。そのことは、比較的簡単に労働力を集めることができ、「自立生活」を始めたい障害者に対して介護・介助サービスを提供しやすい。また、より多くの健常者が関わりやすく、介護・介助の社会化・一般化を目指す意味では非常に重要であり、そのことに積極的な意味もある(10)。しかし、重度障害者にとっては介護は生死にも関わる問題である。重度障害者の介護は、ほぼ24時間必要で、時に医療行為も求められ、しかも言語障害もきつい。単発的な介護者では発語を理解することができない。医療行為も難しい。そのような重度障害者に対して必要な介護とは、できるだけ同一人物で、長い時間、長い期間関われるというものなのである。そのためには、やはり介護だけに専念し、それで生活を成り立たせていく人、「障害者の人と固くロープで体を縛り、激流に飛び込む」[資料 5 1991:10]介護者が必要とされたのである。
5. 練馬区に介護人派遣センターを
練馬区在障会が介護人派遣センターを具体的に構想し始めたのは、活動を始めてから12年を迎えた1986年のことであった。しかし、以前からセンター構想がなかったわけではない。練馬区在障会会報にはかなり初期のころから、センター設立を希望する声が載せられていたし、全都的な動きでは1983年に「介護人派遣センターを創る会」(以下創る会)が結成され、練馬区在障会のメンバーの参加があり、会合の報告が随時会報に載せられていた。しかしこのときは設立に向けた具体的な準備は進まなかった(11)。練馬区在障会メンバー、薄羽によれば、「創る会」はそれまで個人レベルで行っていた介護体制を、「次の社会的な▲48▲システムとしてどのように確立していくのか」ということ、すなわち「『介護の社会的保障、システム化』という考え方」を現実的な問題として取り上げた最初であった[資料 6 1996:23]。だが、「創る会」とは、「『重度障害者の地域自立』ということへの“あせり”」から生まれたものであり、重度障害者たちを「突き動かした原動力」とはなり得たものの、それが実を結ぶまでにはいかなかった。その動きが形を変え、「地域ごとに」行われる方向へと向かったのである。
1986年、練馬区在障会の一部のメンバーによって、「練馬区に介護人派遣センターを」という話が持ち上がった。そのときから91年に「練馬区介護人派遣センター」が設立するまでに、さらに5年かかっている。
何が問題だったか。一点目は介護者をどう位置付けるのかということである。当時すでに介護専従体制は始まっていたが、当然ながら専従体制だけで介護が埋められていたわけではなく、したがって、一人の障害者の家庭にボランティアで入る者、時給体制で入る者など、様々な形態で介護に関わる者がいた。介護専従体制を主にするということは、それまでのそれぞれのあり方を変えることであり、新たに規定しなおすことである。それぞれが新しい位置につくことに時間がかかった。
二点目は一点目とかなり関わる問題であるが、介護料の配分の問題である。障害者に給付されている介護料は、障害者の生活状況に応じて必要なだけ支払われているというものではない。当然、介護者に支払われる給料もそれぞれ違っていた。たとえ低い額でも、あるいは全体として低い額だからこそ、介護料が変化するということに敏感に反応する場合もあった。
三点目として、障害者と介護者の人間関係である。障害者運動などの絡みから「この人の介護だから」という思いで介護を始める介護者もおり、「センターを設立する」ということは、そう言う思いのない人のところにも介護に行かなければならない。逆に障害者はどんな介護者でも受け入れなければならないのか。この問題はセンター設立後も当然続くものである。
ではセンターを作ることのメリットは何か。それは介護専従体制の強化であり、「安心」と「自由」をより安定したものにすることである。
具体例で説明しよう。例として4人の障害者と5人の専従介護者がいたとする(12) (図1参▲49▲照)。A、B、C、Dの4人が月額20万の介護料を得て、a、b、c、d、eを個別に雇っている。個々の介護者がそれぞれの障害者から給料をもらい、合計で一月aが17万、bが16万、cが14万、dが17万、eが12万もらっていた場合、仮にCの介護料が、長期入院など、何らかの理由で出なくなった場合、dは急に9万円の介護料を失うことになる。17万円の給料から一気に9万円減ってしまって生活が困難だと、dが専従をやめるようなことになれば、それまでdが介護に入っていたA、Bの介護が埋まらない。逆に介護者bがけがで急に介護ができなくなった場合、B、C、Dは介護の穴があいてしまう。それぞれの障害者が関わっている専従の中から探すのであれば、Dの場合はc、eの中から探さなくてはならない。選択肢が少ないほど、次の介護者は当然見つかりにくい。
[図1]
障害者 A B C D 給料計
専a 9 5 3 0 17
従b 0 5 3 8 16
介c 6 0 0 8 14
護d 3 5 9 0 17
者e 0 5 3 4 12
余り 2 0 2 0
(万円)
センター構想は、全ての介護料、介護者をセンター共有のものとし、障害者4人で介護者5人を16万で雇うという考え方である。そうなると以下のようなメリットが生まれるのである。
@ AとCの余った介護料を、他の介護の必要な障害者の介護料として有効活用できる。
A 介護料が増え、やりくりができるようになったら、介護者の急病や緊急時に対応して、待機する介護者を置くことができるようになる。
B 介護料という手段を介護者という資源に変換することが容易になるので、介護者▲50▲を探すことが困難で、自立をあきらめていた障害者も自立しやすくなる。
C 集団でシステムを作り、必要な介護量を明確に示すことによって、行政に訴えることができる。
その他、これまでの介護者会議で障害者が一名対介護者数名という中で、話しにくかったことが話しやすくなるのではないかなどと言ったこともふくめて、多くの利点が考えられた。
これらの利点を考え出すに至った勉強会は、86年から実に14回にも及ぶものであった。また、会報などによる情報の共有化、合同介護者会議、さらに派遣センター準備会などが5年間の間に行われた。
こうした粘り強い運動の原動力は、練馬の抱えた重度障害者の状況にも起因するであろう。進行性の難病を抱えた会員や24時間介護の必要な会員の存在が、より安定した介護関係を必要とし、その関係を築けるシステムづくりへの大きな原動力となったのである。
第2節 練馬区介護人派遣センターの特徴
1. 介護専従体制
専従介護者とは、第1節で説明した通り、地域での介護を行うことで生計を立てている者を指し、介護専従体制とは、そのような専従介護者によって地域に暮らす障害者の介護を支える体制のことである。介護専従体制をその中心として行っている組織は少ない。都内では、立川が一部、練馬、田無は中心的にそのようなシステムを導入している。その他はほとんどの組織が学生や主婦などのパートタイマー中心の介護体制をとっている。
専従体制の利点は、一人の障害者に対し、一定の人数の介護者が関わることで、重度障害者にとって生活のリズム、介護者との距離が作りやすいことである。また、パートタイマーとして関わる際に生じやすい、「介護者側の都合に合わせた介護」−できる範囲・頻度・時間において介護する−の発生をできる限り抑えることができる。最長で24時間、医療行為も含めて障害者の「必要性」に合わせた介護を作り出していくことが可能になる。 しかしこのことに対する批判もある。このシステムは介護を一定数の介護者の中だけの仕事にしてしまい、一般の人々に対する障害者理解への窓口を狭める結果となる。介護が障害者の抱える障害を引きうける行為である以上、それを通しての人間関係が障害者理解へと結びつくはずなのだからというのが批判者たちの考えである。センターではもちろんそれを否定しない。介護を通じて障害者が多くの健常者とふれあい、その中から双方に対▲51▲する理解が生まれることは重要なことである。しかし、介護がなければその生が支えられない重度障害者の場合、介護を一般化・社会化するために命をすり減らすことはできない。もし、介護を一般化・社会化していこうとするのであれば、まず介護を安定させ、その上でできる限り障害に対する一般の理解を深めていけばよいのである。センターでは小学校から高等学校まで地域の学校と定期的に交流し、子どもたちに介護を通して障害を理解してもらうことを勧めている。また障害者のそれぞれの興味で様々な活動に参加したり、あるいは支援者という介護料を払わないボランティアを、負担にならない程度介護体制に組み込むことで、できるだけ多くの人との交流を図るのである。このことは、健常者の障害者理解につながるだけでなく、障害者自身にとっても新しい世界との出会いであり、様々な情報を得る場、機会ともなるのである。
2. 介護料全額プール制
センターでは、その基本として介護料全額プール制を謳っている(13)。センターを通じて全面的に介護を埋めたいと考える、自立している、または自立したいと考えている重度の障害者を対象に、行政から支払われる介護料を全額プールする。介護料には、行政が介護労働に対する報酬として介護者に支払うものと、介護を利用する者=障害者に支払うものがあり、前者は「東京都全身性障害者介護人派遣サービス(14) 」、「心身障害者(児)緊急一時保護事業」であり、後者は生活保護の「他人介護加算」である。これらは、通常、介護が必要かどうかで支払いが決められるが、現実には「他人介護加算特別基準」のように、制度を知っているかどうか、運動の成果や判定者の意向など様々な不確定要素が組み合わさって受給が決められている。時給単位、日数分として支給される介護料は、一端センターにプールされ、その後月給として介護者に渡される(15)。
障害者は自分の支払った介護料に関係なく、必要な介護時間を要求する。最長24時間、大抵の場合は10時間程度である。最終的にはセンター内で話し合い、介護時間を設定する。 このように比較的安定した給与体系、組織体系にするまでに長い時間がかかったが、こ▲52▲の体制は、障害者にとって安定した必要量の介護が得られるだけでなく、介護者にとっても、パートやボランティアのような一時的なものとしてではなく、仕事として安心して介護に関わることができるシステムでもある。
介護料のプール化の意義は、双方に「安心感」を生んだだけでなく、「連帯」も生み出したことにある。先に述べたように、施設で暮らす障害者同様、地域で暮らす障害者の生活を保障する介護が必要であり、その調達手段として介護料が支給されている。すなわち、専従介護者が行っている介護は、本来行政が障害者の生存権保障として行うべきものであり、専従介護者の労働者としての生活保障は行政が行うべきものと捉える。介護者の生活が困窮するのは、雇い主である行政の怠慢とみるのである。それゆえ介護料獲得に関しては、障害者も介護者も「仲間」として行政に訴えるのである。
また、介護料はそもそも必要な介護量に対応して支払われているわけではないことは先に述べた。「みんなに同じように分配されることが平等ではなく、必要に応じて分配されることこそが平等である」[資料6 1996:18]という考えから、障害者同士も介護料を通じて補い合う関係である。
さらに支援と呼ばれるボランティアは、介護料を一切受け取らない。彼らはその代わり、彼らの、本来もらうべき介護料がまわされている専従介護者の仕事に対して、無関心ではいられない。すなわち介護料を通じて、障害者、介護者、支援者が互いに連帯しあう。このようにして、介護料は単なる「お金」から、障害者同士、障害者と介護者、さらに支援者を結びつける、まさに「潤滑油」と位置付けられるようになるのである。
第3節 地域での暮らし−センターのサービスを利用して
1. 1日の流れ
朝9時、介護者が訪れる。声をかけ、Aさんをベッドの上に起こす。「今日も暑いですねえ。よく眠れました?」たわいもない会話。「トイレに行きますか?」…うなづき…抱えあげ、トイレへ移動…。
「行きますよ。せーの」障害者と介護者の、トイレへ行こうという意志と、トイレへ移動させようという意志が一体になる。便座に座る。「いいですか。座り心地はどうですか。」…うなづき…(だいじょうぶという意味と取る)カーテンを閉め、外に出る。その間に部屋中のカーテンを開け、布団を直し、ごみを片付ける。「おっお・わ・り・ま・し・た」。「はい。」カーテンを開け、トイレに入る。…
こうして、ある障害者と介護者の1日は始まる。
障害者と介護者、それぞれに違う相手によってこの朝の光景は変わっている。トイレに行き、シャワーを浴び、食事をするという朝の行為内容は変わらずとも、どの時に、どのように、どのタイミングで行動するのか。それは日によって、そのときによって、そして人によって異なる。例えば食事。
「食事は起きたらすぐ考える。そしてその日に何を買うかを考える。来る人に合わせて献立を考える。料理のできる人とできない人がいるから。」(障害者) (16)
「料理はそんなにすごいもんを要求されるわけではないから、たいていのものは作れる。」(介護者)
「すごいもの」を要求しないのは、障害者が介護者のやれる範囲を見極めながら頼んでいるからである(17)。
「できないことを頼んでも仕方ないので、人にあわせて臨機応変に頼む。」(障害者)
「ものを頼むときは、相手のことを考えて頼む。」(障害者)
障害者による「介護者という相手にとっての自分の位置探し」。それは主体的に行われる。そしてそのことは必ずしも消極的な意味を持たない。
「全て自分の責任だから任せられる。」(障害者)
「生活の全ての責任者は障害者自身。障害者が管理者である。」(障害者)
責任者としてあるからこそ、任せることもできるのである。どこからどこまでどのように任せるのか。それも障害者の決めることである。そしてそのことは介護者にとっても了解▲54▲済みである。
「介護者はできるだけ障害者の意向に沿うように動く。主体性を尊重する。押しつけない。」(介護者)
「入ってくる人は、『ぼくの代わりにやる』ということに共感する人が来ているから通じやすい。」(障害者)
「大体『生活は私に合わせる』ということが伝わっている。」(障害者)
人と人が自分の位置を決めていく。そのとき、「相手」に合わせて位置は決められていく。障害者は主体的に自分の位置を、介護者に合わせて決める。介護者はそうした障害者に合わせていく。双方が双方を見極めながら、日々の営みが行われていく。
2. 地域での暮らしと施設での暮らし
そうして「自分で決める地域での暮らし」は、自由で開放的で楽しいのか。必ずしもそうではない。
「自分で決めて、自分で管理するのはたいへん」(障害者)
「結局どこに行っても同じ。」(障害者)
「自分の思っていることを伝えるのは難しい。それはどこに行っても同じ。」(障害者)
「施設のほうが楽。(今は)介護人に来てもらわないと困るし、食事とか考えるのはたいへん。」(障害者)
「施設のほうが、まだ逃げられる。一対一の関係ではない。頼みやすそうな人に頼めばいい。」(障害者)
「施設のように設備がよければ、今でも一人である程度できる。」(障害者)
施設を出たあと、施設にもよい面があったと、振り返って冷静に見ることができるようになる。そうした発言がある。しかし、だからといって、彼らは施設に戻ろうとは考えない。「せっかく施設から苦労して出てきたのに、入れといわれたら困る」(障害者)のである。施設では、自らの責任で生活を築いていくことはできない(55)。そこには抑圧され、管理される▲55▲つらさがあり、地域には自らの責任で選択し、生活していくという自由のつらさがある。それぞれに異なった“つらさ”がある。しかし、抑圧されるつらさは自由のつらさに勝る。
「自宅や施設には行きたくない。」(障害者)
「施設より自由でいい。」(障害者)
「そう言う意味では、病院とか、施設は全て委ねられる心地よさがある。でも長くいるところじゃない。」(介護者)
「生活重視だとか、一人一人と対応するとか、いろいろいいこというけど、施設では限界がある。結局責任があるから、管理しなくてはならない。」(介護者)
「施設は管理する。自分も管理されるみたいでいやだった。自由が好き。」(介護者)
「施設はやだと思った。」(介護者)(19)
障害者にとっても介護者にとっても「自由」であるということ。「管理されない」ということ。それに重きが置かれる。
3. 生活上のニーズを知り、自分で決めることの意味
生活上の介護内容は個々の障害者が生活の中で決めていく。「自分の希望は自分が一番よく知っている」のであり、センターでは「(人に決められてしまう)ニーズではなく、その人その人が必要な介護」[資料 6 1996:57]をするのだ。だから、センターで行う介護内容は決まっていないし、いわゆる「医療行為」といわれる行為も、医療従事者に方法を教わって介護者が行なう。なぜならそれは地域で暮らすとき、当然に必要な行為だからである。
「派遣センターでは、『これはやる、やらない』というまず決め事があって、その範囲で介護をしているわけではなく、『必要なら、希望なら何でもやっちゃう』というのりで介護をしています」[資料 6 1996:19]。
センターで決めるのは、介護時間だけである。ニーズを満たす時間を決めるのである。▲56▲障害者一人一人に支給される介護料は、疾患別、身体障害等級によるものなど、あくまでも医学上の基準にしたがって支給される。センターの仕組みでは介護料は一端プールされる。改めて生活上のニーズに応じた時間配分が障害者、介護者を交えた話し合いの中で行われ、介護者はその介護労働時間に応じて、介護料から給料が払われる。時間配分は、それぞれに支給された介護料の金額とは何の関係もない。結果として金額の多い人の介護時間が長くなることはあっても、それはそう決められているわけではない。介護時間は、その人の「ニーズ必要性」に応じて決められるのである。「介護の必要性は、仮に同じ障害や同じ等級だったとしても、その生活スタイルや考え方、住宅状況によって全く変わってしまう性質のもの」[資料 6 1996:18]である。生活に合わせる介護は、必然的に差異をもつのである。同じ時間を全ての人に保障することが平等なのではなく、一人一人のニーズに応じて配分することが平等なのである。
誰かの介護時間が長いとか、自分の時間が短いとか、もめるのではないかと、すなわちニーズ以上の欲求が表明されることがあるのではないかという心配は、実際の場面では今のところ無用である。行政から支給される介護料が同額でも、介護時間が全くばらばらであるこのシステムで、障害者がもめたことはない。介護が必要以上あることを障害者たちは必ずしも望んではいないからである。「一人でいるとほっとする」(障害者)こともある。24時間、365日、常に誰かに関わらざるを得ないことのつらさはあるのだ。「本当は○時間もいらないのではないか。甘えているのではないか」(障害者)と、問い返すことのほうが多いのかもしれない。
また、誰もが十分な介護保障のない中で、新しい介護者を雇った時、誰の介護を優先して増やすかということも話し合いで決めている。「自由」であり「管理されない」ということは、何もかもから「自由」であり、「管理されない」というのではない。全て自分の思い通り、「自己決定」できるということではない。ただ、そこには「その人の日常生活を全く知らない行政や医者の手に委ねている現状がよいものではない」[資料 6 1996:18]という考えがあり、自分たちで決めることの意義がある。自分で管理するということは、今の状況を理解し、その中で自分の要求をどこまで可能にできるかを見極めることである。障害者たちの日常はそうした管理によって営まれている。
第4節 介護関係の特徴
介護関係とは、本当は誰もがしている「普通の人間関係」(障害者)である。「これがで▲57▲きれば人間関係がスムーズに行く。人間関係の根底みたいなもの」(障害者)である。だからそれぞれの要素は決して特別なものではない。しかし確かに違いはある。
1. 相手を見るということ−評価すること
「××さんは私とは考えが違うから。」(障害者)
「□□さんは僕とは違っているから。」(障害者)
「××さんの〜へのつき合い方は勉強になる。」(介護者)
「○○さんは今□□の状態だから。」(介護者)
「○○さんは施設生活が長いから××だけど、△△さんは地域での生活が長いから…だ。」
(介護者)
「△△さんは○○さんみたいにはしない。」(介護者)
「○○さんは〜だ。」「○○さんは××だけど、△△さんは□□だ」という表現は障害者、介護者ともにある。そのことに対して「ムラ社会」(介護者)だと言う人もある。こういうことを一般的に陰口ともいうのかもしれないが、陰以外でも本人を前にしても公言されているわけだから、そうもいいきれない。
障害者と介護者の営みはまず障害者が自分のあり方を決め、そのあり方によって、介護者があり方を決める。いや、その前に障害者が介護者を見る。介護者のそのまま全てを、長所も短所も含めて、受け入れる。それから自らのあり方を決める。そしてそれに介護者は応える。
人によって自己が決まる。その営みは実は全ての人間関係で行われていることだが、通常はそう表には出ない。そして目指されてはいない。「介護者によって態度を変えているのではないか。人を見ているのではないか。」(介護者)というように、人によって態度を変えることは、批判される。誰に対しても同じように臨むことが期待されている。あるいは「いいこと」とされている。いいかえれば、「自己」が確立している、「私」はこういう人間だというものをもっているべきであり、もっていたい。そして相手にもそうあって欲しい。それが自らのあり方を決めやすくし、人間関係をスムーズにすると考えられているからである。しかし、我々の生は刻々と変化する中にある。「今、ここ」という現実の中で何かをなしていくとき、常に我々は変化し、状況に合わせていく。そうした「今ここ」で、「こと」が起きる場面場面の変化の中で、どうすべきかを迫られるほど、自己という「もの」は見えにくい。だからこそ、陰でもなく、口に出して「この人は『こういう人』」を確認する作業▲58▲が必要になってくる。それは一つの「評価」であり、「相手を知る行為」である。
2. 距離・リズム
「動物の保護区みたいなもので、一定の距離を置く。それは一人一人違う。」(障害者)
「○○さんなんかは、すでにリズムができていて、こっちもそこに入ればいいから楽。自然にリズムができあがっている。生活に慣れている。長い間の慣れがある。介護者とどう向きあるのかというスタンスが自然にできている。」(介護者)
「○○さんと△△さんは障害者のエリートだって□□さんが言ってたね。自分(=○○さんと△△さんという障害者)が介護の経験があって、生活がわかっているから、どこまで任せてどこは譲れないのか、はっきりしていてとてもやりやすかった。」(介護者)
「一端距離がつかめてしまえば、楽になるのだけど、その距離をつかむまでが難しいと思う。(障害者は)たいへんですよ。10人いれば10人違うとり方をする。自分の意思をうまく伝えるのは難しい。」(介護者)
「距離は人によって違う。」(介護者)
障害者も介護者もそれぞれ、お互いの心地よい距離やリズムを探し合う。ある「他者」に対して「自己」の位置を認識する。それは「障害者」、「介護者」という大きな枠=社会規範だけでは、捉えられない、個々の違いを丸ごと全部受けとめることで、そしてさらに「いまここでの」Aさん、Bさんという人との関係=でき「ごと」の積み重ねによって、形作られてくる。
3. 受けとめるということ−自由になるために
「僕はできるだけいろんな人を受け入れようと心がけているから、自分からやめてくれとは言わない。」(障害者)
「いろんな人を受けとめてやってきたから。最初から割りきって。」(障害者)
「こちらからやめてくれとはほとんど言わない。いろんな人がいるから。」(障害者)
「介護」で行われる行為は、掃除、洗濯や食事の用意など一般的にいう家事援助から排泄、入浴など身体介護、さらに医療行為もある。全て生きていくために必要な行為であり、全て通常一人で行う行為である。医療行為も、病気、あるいは障害といったある種の身体の欠損を補うために行われている行為である。その点では、通常は身体が「一人で行う行為」▲59▲である。「普通、人と関わりが切れる時に、そこに人がいる」(障害者)のが、介護行為の特徴といえるであろう。一人で行うことと、介護者と行うこととの違いは一体どのようにあるのか。
一人でものを食べる、トイレに行く、お風呂に入る。一人で行う行為は、我々を「自由」にする。いつ、どこで、どのようにということは「文化」や「習慣」に規定されてはいるものの、その範囲内で、我々は自由に自分の意志でそれらの行為を行うことができる。
しかし、あまりに当然で意識していないのだが、我々はそれぞれの行為を身体に規定されている。比較するまでもなく、障害者の場合は、継続的にそうした意味での身体による規定が、より大きな形で日常生活の中でウエイトを占めるのである。介護者はこうした「大きな形での身体の制限規定」をできるだけ取り除くために存在する。すなわちより「自由」になるために存在するのである。だから「彼らはロボットではない。でも自分の手足として動いてもらう」(障害者)必要がある。
ロボットではなく、しかし手足として、というのは、すなわち、ただ「命令をする相手としての他者」ではないということである。「手足」は我々にとってからだの一部である。介護者は障害者にとって、からだの一部となっていくのである。それは「手足のように使う」という言葉に代表されるような、相手の存在を無視した状態をいうのではない。我々が自らのからだの機能、全てを受けとめているように、相手の存在全てを丸ごと受けとめるのである。「受け入れ」(障害者)、「受けとめ」(障害者)、付き合っていこうとする。彼らは「最初からわりきって」(障害者)いる。完全な人間などないこと、誰にも長所も短所もあることを。そしてその全てを生かし、自由になろうとするのである。その自由を保障する「介護は安心感」(障害者)なのである。
そのとき、介護者の自由は制限されているように見える。しかしそうではない。介護者の自由は障害者の自由の中にある。「Aさんが自由であること」を感じることが自らの自由となるような、一体化していく中に介護者の「自由」がある。
4. 一体化していく作業
一体化していくということ。丸ごと受け止められるということ。それは介護者にとってどのような意味があるのか。
「仕事で営業しているときの自分と本当の自分が分けられてしまった。」(介護者)▲60▲
「(前の仕事では)二つの顔を持っていて、そういうのも、もういいかなと。仕事をやっていて、人を盛り上げている自分ともう一人の自分がいる。」(介護者)
仕事とプライベート。二つの顔を持つ自分。これまでの社会の中で必要とされてきたことである。しかしここではそうした「私」という「もの」の使い分けはできない。全ての障害者と距離を測りながら、より一体化していく。そのときそのときの状況に応じた対応が要求される。常に変化する。と同時に経験によるある程度の予測を立てる必要がある。「慣れたというか。仕事には慣れてきたけど、介護には完璧はない。今、□□さんが考えていることがわかるとかそういうことではない。」(介護者)
「こうだろう」と思いながら、「こうではないかもしれない」と思う。パターン化のできない人間関係。そのときの「私」は「地が出てくる」(介護者)。私は私のままで、いる。 「ここでは素のままの自分でいられる。自然に人の生活に入っていくという感じ。だからつかれない。」(介護者)
「私もわからなくていらいらして、この人もいいたいことたくさんあっていらいらして、でも結局、そうやってぶつかってやっていくしかないよね。お互いが見えてくるから。地が出てくる。」(介護者)
「地が出てくる」(介護者)。「素のままの自分」(介護者)。そうしたあり方は人にとってどのようなものなのか。
「今一対一で『おはようございます』『おはようございます』って言う関係の中で、自分が癒されていくって感じた。同時にこれまでいかに自分を傷つけてきたのかを感じた。」(介護者)
「人と触れ合うだけで癒される。それまで人と関わらないように生きてきて、今接するようになってすごく癒された。」(介護者)
全てを受け入れられること、ありのままに認められること、それによって介護者は癒される。
そして、ありのままを受け止められるということは、同時にありのままを受け入れるということでもある。
「気っていうものがあるなあって感じる。特に○○さんとか、重度でコミュニケーションが取れなくなってきている人の場合、自分の気持ちがすぐに通じてしまう。つかれたって思って(介護に)いくと、相手もつかれてしまうみたいな。通じてしまう。だからそういう人のところに行くときは、できるだけいい状態でいこうって普段以上に気を遣う。」(介護者)
相手のことが自分のことのような領域、結ばれている関係。障害者と介護者の関係は「空▲61▲気のような、微妙な関係」(障害者)である。呼び声と息が漏れる声を聞き分ける。目だけで何かを言いたいのか、何でもないのか理解する。50音を丁寧に発音しながら、うなづきを確認し、そうしながら、最後まで話さなくてもいいたいことを理解する。違う時には違うという首振りを確認し、50音を確認しなおす(20) 。こうした動作の中にもそれが現れている。障害者の言いたいことの大半を第三者に向かって言葉に出して話しているのは、確かに介護者である。様々な動作をしているのは確かに介護者である。しかし、より一体化していく中で、介護者は、その場、そのときのAさんに主体的になろうとしている。といっても、その人自身になれるわけではないし、そのものになりきるわけでもない。そうなれないことを、そうならないことを知りつつ、その人になろうとする。それゆえ「自然に動いちゃうところがあるけど、それはそれでいいと思う」(介護者)。「自立というかこういう(委ねる)形もありだと思う」(介護者)。
「委ねる」ということも快なのである。「すべてを指図しないといけないのは、疲れる。任せるところは任せて、その人のやり方でいいところもある。」(障害者)
5. 介護関係が揺らぐとき・介護を否定されるとき
「生きていくために必要なこともすべてやるのが基本。でも介護者も自分の身は自分で守らなければいけないからぶつかることもある。」(介護者)
「約束したことをやらないというより勘違いが多い。でも一番の問題はお互いが向き合わなくなったとき。一方が向き合うのを辞めてしまったら解決できない。」(介護者)
介護は「すべてを受け入れ合う作業」である。それゆえ、受け入れる「すべて」を読み違えると障害者と介護者の間にかみ合わない部分が出てくる。障害者が介護者の「すべて」をより過大評価し、できること以上のことを要求してしまうと、身を護るためにぶつからなくてはならなくなる。過小評価すると、「○○さんには〜も頼むのに、私には頼まない」(介護者)と介護者はフラストレーションがたまる。「すべて」を受け入れ、生かす。万能ではない人間と一体化するということは、時にあきらめ、時に期待する、そのリズムを我がことのようにするということである。障害者と介護者の間に相手のことを自分のことのように感じる「理解」が存在しない場合、介護関係は危うくなる。
また、介護は「全てを受け入れる作業」なので、「介護について何か言われると全人格を否▲62▲定されたような感覚になる。そういうわけじゃないとわかっていてもそう感じてしまう。」(介護者)ことがあっても決して不思議ではない。介護関係に「相性がある」(介護者)ことも、そこで起きる問題を「めんどくさくしたくない」(障害者)と我慢してしまうこと(「でも我慢するというほどでもない」(障害者))も、ある程度仕方のないことであろう。
上記のような状況に対して通常は、「話し合いをして解決していく」(障害者)。
「話し合いぶつかり合い納得するまで。納得すれば続く。やめていく人もいる」(障害者)。
「一番の問題はお互いが向き合わなくなったとき。一方が向き合うのをやめてしまったら、解決できない。それでやめていく人もいる」(介護者)。
向き合わなくなれば、介護関係は形成されない。向き合い、関わり合う中でしか、相手を受けとめることはできないのである。だから、
「何があっても仕事は仕事。やることはやる。けんかしててもやる。それだけはちゃんとやる。」(介護者)
「いやでも仕事と割り切る。」(介護者)
ことが必要になる。どんな状態でも向き合っていることから、関係は生まれる。しかし、介護者はとりあえず「辞める」ことができる。立ち去ることができる。障害者はいかにしても障害者という役割を辞めることができないのだ。その違いは大きい。
だが介護者にとっても辞めるということはそう簡単ではない。「この仕事には毒がある」(介護者)。他では味わえない深い人間関係があるのだから。
第5節 介護者と障害
1. 介護者の位置
障害者と介護者はそれぞれの存在すべてを受けとめ、より一体化していく。深い人間関係が必要とされる。だから、「(介護者が)ころころ変わっては困る」(障害者)のである。かといって、常に同じ相手ということも難しい。お互いの距離感が計りづらくなる。
「一週間に7人ぐらいで。」(障害者)
「一週間に1回。それぐらいがちょうど、煮詰まらない。」(介護者)
これが介護者の位置である。介護者は「介護をやってくれる人。それ以上でもそれ以下でもない。友達でも家族でもない」(障害者)のである。だから、家族や恋人のように、特定の同一人物と常に一緒にいるものでもない。友達のように相談事をしたりすることは前提とはなっていない。もちろん、人によっては、それぞれの役割が重なることはある。介護者が▲63▲相談相手になるということももちろんある。しかし、「少し離れている人」(障害者)や「特定の相談者」(障害者)の方が相談しやすい。それは、介護者を信頼していないというのではない。介護関係は信頼関係抜きに成立しない。介護者は、自らの身体に近い、近すぎるのである。介護関係は、「個人的な関係も悪くないんだけど、仕事として割り切ることで続く。最終的には割り切った方がいい」(障害者)。基本的には、介護は「社会的労働」(障害者)であり、「仕事」(障害者)なのである。そして、地域生活には、それぞれに役割がある。だから、「施設も、ヘルパーも、支援(21)の人も、介護者もみんな必要。いらないものなんてない。家族も必要」(介護者)なのである。すべてがあって、はじめて豊かな地域生活が営めるのである。
2. プロということ
「プロだから。専従介護者はプロ。プロはプロらしくやって欲しい。例えばプライバシーを守るとか、障害者が望むことは出来る限りするとか。」(障害者)
「これはやりたくないというのはプロじゃない。それで金をもらっているんだから。」(障害者)
「(言いたいことは)たくさんある。緊張感を持って仕事をして欲しい。」(障害者)
「“私は介護のプロ”っていう意識が強すぎて、入り込めない。“いちいちそんなこと、いわなくてもできる”って思っているから、自分のやり方でやってしまう。」(障害者)
「プロ意識があると、迷いがなくなって確認しなくなるから。」(障害者)
「プロじゃなくていい。」(障害者)
相反するプロに対する表現。介護者はプロであるべきなのか、プロでなくていいのか。「プロ」肯定派の意図している「プロ」とは、プライバシーを守り、障害者の望むことを可能にする「奉仕のプロ」である。一方「プロ」拒否派が否定している「プロ」とは、プライドを持ち、権威的、指導的で「抑圧のプロ」である。
否定される「プロ」の弊害とはなにか。
「(学校で)教えられたままやること。凝り固まる。一方的な見方をする。」(障害者)▲64▲
「福祉の勉強もそれはそれで大切なんだけど、いろいろ学んでその人を見れなくなっちゃう。」(介護者)
「先入観みたいなものを持ってしまう。」(介護者)
人は、教えられることで「知識」が増え、視野が広がるものである。しかし、ここで語られている弊害は、教えられることによって視野が狭くなる、凝り固まるということである。介護を「知識」として習得することが生み出す弊害は、「障害者」が、「介護」が、「介護者」が「そういうものである」と固定的に認識することにある。そして、それを持って、介護を、対象者よりも「知っている」と考えること、私の介護は「専門的だ」と認識することである。
介護者に望まれていることはなにか。
「もっとその人を見て欲しい。」(介護者)
「いろいろなところでいろいろな技術を身につけて欲しい。経験が財産。」(介護者)
「経験よりもイマジネーション。どうやったら痛いかとか、イマジネーションできない人は、どれだけ経験年数を重ねてもだめ。施設でいつもミスする人は同じ人だった。」(介護者)
介護関係の特徴は、相手を丸ごと受け止め、一体化していく中での、「賭けの要素」が大きいことである。それを丁寧に教えるのであれば、「介護とはこういうもの」であるかもしれないが、しかしそうとは言いきれない。人によって、時によって、場所によって変化する可能性のあるもの、だから「その人を見ていく」必要があることを認識しなくてはならない。想像力、相手の身になってみること、そのための「いろいろな経験」が重視される。
3. 障害の位置
「施設から出るとき、悩んだ問題が3つあった。一つは介護者と二人きりでどのように過ごしたらいいのか、二つ目は食事のこと(22) 。施設ではどんなものであれ、とりあえず考えなくても出てくる。三つ目は昼間何をして過ごしたらいいのかということ。施設では一応やることはあるから。」(障害者)
新しい習慣を身につけることは誰にとっても難しい。特にこれまで許されなかった、あるいは非常に限られた範囲でしか経験してこなかった、自分の生活を自らの力で形作ると▲65▲いうことは、障害者にとって大変なことである。そのために自立生活プログラム(23)があり、地域生活上の様々なことが教えられるが、しかし、現実的には、日々の生活の中で、その力を獲得していく、慣れていくしかない。施設の中で、親の家庭の中で、決断力、選択力、自己表示力が奪われてきたことが、実は身体の障害そのものよりも地域での生活を困難にしている。
しかし、とはいっても身体の障害は、やはり彼らの中に深く入り込んでいる。
「トイレや食事など、人ができることができない。人と関わらざるを得ない。」(障害者)
「普通、人と関わりが切れる時に、そこに人がいる。何でだろう。辞めたいと思うときもある。」(障害者)
「自分の存在理由とか、自分というものの価値だとか。同じ年代の人はもう結婚している人も、恋人がいる人もいたし、仕事をしている人もいたし、大学にいっている人もいたし。それを自分に置き換えて、やっぱり自分自身は生きていくことにもままならないということに…。いかにしても障害は付きまとうわけだから。いってみれば無能な存在でしょ。僕らは。社会からもそう見られている。つまり憐れみの対象でしかないということ。」(障害者)
障害とはなにか。障害を持つということは、果たして、「無能」(障害者)であり、「憐れみの対象」(障害者)でしかないのだろうか。人ができることができないということ、人と関わりが切れるはずのところに人がいるということ。確かに障害のない者と比べて、身体的能力というものを計れば、無能や憐れみの存在という結果が出るのかもしれない。しかし、問題はそう思わせている社会のあり方であり、まずはそれを問うべきだ。だが、そうであるべきだが、きれいごとを並べても、現状はそう簡単に変わらない(もちろん、変わらないことを肯定しようとは全く思わないが)。ともかくも、そうして障害を受けとめた時に、しかし、彼らは自らの力を発揮するのである。
「自宅で自殺も考えた。なぜ生きているんだろうと。」(障害者)
「死ぬしかないかなと。でも自殺も自分ではできない。だからもう開き直るしかない。」(障害者)
「自分の存在価値は何だろうといえば、何もないわけですよね。何もないということであるならば、自分でその存在価値をつくっていかなければならないわけですよ。同じ苦しみの多▲66▲い人生ならば、あえてその苦しみにぶつかっていこうと思った。でも、やれるだけやろうという、こういう状態になるまでには時間がかかった。」(障害者)
死への意識、無。それは彼らを強くする。彼らは「弱者」から「強者」へと、憐れみの存在である障害者から「自立生活」障害者へと生まれ変わるのである。生活上のすべての責任を取れるのも、危険を冒してまでも地域で暮らすのも、無からくる強さである。自らも身障者の文化人類学者R.マーフィーは言う。「よく生きられた人生なるものの核心は、否定性、活動停止そして死に対する挑戦である」と[Murphy 1987=1992:286]。障害者は、「ほぼ文字通りの意味で、肉の虜である」[Murphy 1987=1992:286]。だが思えば、誰もが自らの身体によって、精神によって、あるいは文化によって「囚われの身」[Murphy 1987=1992:286]なのである。そして、最も「たちが悪い」のは、むしろ文化や社会の規定に隷属することなのだ。それは「絶好の機会」=「我々が文化の束縛から脱して環境から少しでも我が身を引き離し、自分が何者でありどこにいるのかを疑い、再発見する機会」を逃してしまう。障害者は、その不自由な肉体から離れ、「しなやかな心と豊かな想像力を持って」、この機会をつかむことによって、「自由を我がものとすることができる」のである[Murphy 1987=1992:286-287]。
第3章・註
(01) この章では特に、センター設立に大きく貢献した障害者・介護者たちが書いた通信での文章、「派遣センターを知るためのキーワード」などを参考にした。
(02) 1970年5月、横浜市で起った母親による重症障害児絞殺事件に対して行われた減刑嘆願運動に反対したもの。詳しくは、荒川・鈴木[1997:13-32]、立岩[1990/1995b:165-226]、若林[1986]参照。
(03) 荒木は無免許(何度も受験したのだが、免許を交付されなかった)で自動車を運転し、1969年道路交通法違反で起訴され、7年に及ぶ裁判を闘い、敗訴した。荒木裁判闘争と呼ばれる。詳しくは[若林 1986]。荒木はまた1974年の養護学校義務化に反対する運動にも参加し、当時出会った大学生が介護専従となったり、今でも支援として介護に入ったりしている。
(04) 「介護人の入れ替わり、立ち代りは多かった。運動が先行するとだめだった」(支援者)1999年8月インタビューより。
(05) (支援者)1999年8月インタビューより。
(06) 1974年に東京都ではじめて東京都身体障害者(脳性麻痺者)介護人派遣事業が開始され、翌75年からは生活保護他人介護人加算が支給されるようになる。第1章、終章参照。
(07) これは時給にすれば、専従体制にする前で100円、専従体制にした後も200円であった。[資料5 No.6 1991:3]。
(08) Center for Independent Living の略。1962年にアメリカ・カリフォルニア州立大学バークレー校で重度身体障害者のエド・ロバーツが大学内で起こした自立生活運動がその発端となっている。活動内容は、ピアカウンセリング、住宅サービス、権利擁護活動、介助サービス、自立生活プログラムがある。日本の自立生活センターとアメリカ・CILでは、介助サービスと自立生活プログラムのやりかたが異なっている。アメリカでは、介助サービスは利用者・介助者リストを双方に提供することであり、契約後には基本的にタッチしない。また、自立生活プログラムとは、CILで行われている活動、全体を称しており、日本の自立生活プログラムはアメリカでは自立生活技術訓練などといわれる。
(09) 「全国自立生活センター協議会の正会員となる団体は以下の五つの条件を満たすこと。1.意志決定機関の責任者および実施機関の責任者が障害者であること。2.意志決定機関の構成員の過半数が障害者であること。3.権利擁護と情報提供を基本サービスとし、且つ次の四つのサービスの内、二つ以上を不特定多数に提供していること。[・介助サービス ・ピアカウンセリング ・住宅サービス ・自立生活プログラム]4.会費の納入が可能なこと。5.障害種別を問わずサービスを提供していること。 準会員、未来会員になると条件はやや緩やかになりますが、障害者が中心的な役割を担うこととサービス提供は変わりません。」[全国自立生活センター協議会 パンフレット]
(10) 「『…介助を労働として保障すべきだ』という運動も、今は盛んになりつつある。それは確かに大切なことだと思う。…『ハンディ』は、その障害者個人や家族だけで補うのではなく、社会的に補わなければならないのだから。だが、私はあえて時期尚早ではないか、と言いたい。障害者と健全者の個人的な『介助を介在とした生活の重なり合い』をまずあちこちで作り出すべきだ。そうすることで、車椅子を押したり、盲人の案内をしたり、言語障害の人の言葉をじっくり聞いたり、ということが、誰にでもできるようになるのだろう。そうなったとき社会は、かなり障害者を含んで回転していると思う。そうなる前に、『介助』を『労働』として位置付けてしまうことは、『介助』をごく一部の専門家の仕事としてしまう。そして大多数の人々は、相変わらず『車椅子なんて見たこともない、押し方なんてわからない』ということになってしまうだろう。」[堤 1980:19]([立岩 1995:260]より)
(11) 1983年結成。介護専従体制をより社会的なシステムとしていくことを目指したが、全都的なセンター設立は無理、地域ごとに創るべきという考えに達し、1987年に休会。
(12) 以下は資料 4、5、6を参考。
(13) センターでは、介護料を全額プールしない場合でも、介護の必要なところには時給単位で入ることもある。過渡的措置、やむをえないものとして受け入れる。
(14) 従来の東京都重度脳性麻痺者等介護人派遣事業とホームヘルプサービスの自薦登録を合わせたもの。終章参照。
(15) 初任給180,000円。ボーナス一月分。週休二日。年間80時間支援(=無償)として入る。
(16) 本章括弧内小文字は1999年8月インタビュー結果より抜粋
(17) 日によって、気分によって食事内容が決められるという「自由」はもちろんある。しかし、障害者の場合には、それらに「介護者」という大きな要素が加えられる。ある介護者は一度料理に失敗し、それ以来3ヶ月ぐらいはずっとカレーしか作らせてくれなかったと語っていた。そうしたことはセンターだけでなく、他でも聞く話である。筆者が今回の調査ではじめて訪れた時も大抵はどこでもカレーを作った。相手を見極める作業の一つである。
(18) 地域での生活を望みながら情報も援助も得られずに、長い間(人によっては10年以上)、つい最近まで施設生活を送っていた人たちがいる。自分の生きる場所を決めることも彼らにはできないのである。また、現在でも「外出も誰といつ、どこへを医療職、ソーシャルワーカー、施設長、みんなに断らないと出かけられない」(介護者)のが施設の生活である。
(19) 介護者たちは、施設勤務経験者であったり、ボランティアや何らかの形で施設と関わったり、あるいは全く関わらなかったりと様々である。しかし、たとえ全く関わらなかった人でも施設から出てきた障害者から、施設勤務を止めてセンターにきた介護者たちから授産、療護など様々な形態の、しかし、根本の問題は変わらない施設の現状について聞いている。
(20) 1999年8月 参与観察にて。
(21) センターでは、専従介護者以外の、無償のボランティアを支援と呼ぶ。
(22) 「自立生活」で食事内容のやりくりが大変だということは、センター以外でも時々聞く。
(23) 自立生活センターなど障害者団体で行っているもの。障害を持つ人が講師となり、日々の生活、介護者との関係づくり、制度などについて学ぶプログラム。
第4章 新しい介護サービス−実践を検証する
第3章では、練馬区介護人派遣センターの歴史と特徴、さらにそこでの「自立生活」障害者の生活の中から、介護関係の特徴として障害者と介護者がより一体化していく関係を記述し、さらに「自立生活」における介護者の役割について記述した。第4章では、そこで見られた特徴と第2章で取り上げた枠組みとを比較検討し、障害者の「自立生活」を支えている現在のセンターの仕組みについて考察する。
ここでも第2章同様、第1節 知または知識、第2節 ニーズ、第3節 自己決定、第4節 介護関係、第5節 専門職としての介護者の役割、という5種類の視点を取り上げ、考察する。
第1節 「知」について
1. 介護における知識−「協働知」
第2章において、「経験知」や「臨床の知」によって、従来の近代科学が求めてきた「専門知」の限界が明らかにされ、経験とその経験をする場、人との関係を重視する知識体系が創り出されてきていることを明らかにした。介護現場における知識も、介護場面において、介護者と障害者の人間関係の中から作り出されてくるものである。この点では「経験知」や「臨床の知」と同じように従来の専門知と異なるものとして理解される。しかし、介護における人間関係が創り出す知識は、「経験知」や「臨床の知」とも異なっている。 「経験知」は、障害者など同じ経験をしたセルフヘルパーが自らの経験による知識を他者に伝授していく。その際セルフヘルパー同士は同じ経験をした者同士の共感性をすでに有しており、お互いの立場への理解はすでにできあがっている。その上で知識、技術を伝える。
「臨床の知」においては、サービス利用者と提供者が一つの場面に存在するのだが、「臨床の知」を持つサービス提供者は観察者であり、サービス利用者はあくまでも観客や患者といった対象そのものである。そしてサービス利用者と提供者の共感は、人間として、「同じパトス性を持つ者同士として」の理解であり、場面での経験における共通理解は生まれない。
これらに対して、介護における知識では、障害者と介護者が同じ場面で、同じ行為を違う立場から経験し、しかも両者の間にお互いに対する理解が生まれるのである。
立場の違う者同士が創り出す新しい知識−仮に「協働知」とする−については、実は中村▲68▲が「臨床の知」を理解するにあたって用いたデカルトの『情念論』にすでに述べられている。
中村はデカルトの論を引用し、「すべて新しくつくられ、あるいは生じるものは、一般にそれの生じる主体から見れば、受動(パッション=情念)、それを生じさせる主体から見れば能動(アクション)と古来哲学者たちによって呼ばれてきている。したがって、働きかけるものと働きかけられるものとは、多いに異なるにもかかわらず、能動と受動(情念)とはつねに同一の行動であり、それを関係付ける主体が二つあるため、二つの名前を持っている」[中村 1992:82-83]という。さらにフッサールから「心が結合されている身体ほど直接に我々の心に働きかけるものが存在するとは考えられない。《心において受動(情念)なるものは、身体においては一般に能動であると考えなければならない。》」[中村 1992:83]という言葉を引く。中村の理解はここから離れて、サービス提供側の理解へと進むのであるが、上記の考えからデカルトの言っていることは、次のように理解できる。ある一つの行動をするとき、一方から見れば、外的には能動、また一方から見れば、外的には受動に見える。しかし、外的に能動ということは実は内的には受動であり、外的に受動であるということは内的に能動なのである。すなわち、二つの主体は一つの行為において、同等であり、対等であると。
このような障害者と介護者の相互関係による「協働知」−違う立場同士の双方が関わって創り出す知識形態−の形成については、M.ポラニーの「暗黙知」の概念を用いると、理解しやすい。
ポラニーは「暗黙知」を説明するにあたって、「我々は語ることができるより多くのことを知ることができる」と述べた[Polanyi 1966=1980:15]。例えば我々がある人の顔を知っているというとき、我々は何千何百という顔からその顔を区別することができる。しかし、そうであるにもかかわらず、我々はその顔をどのように見分けたのかについて、明確に言葉にすることができない。また我々は人の顔から、その人がどのような状態であるかを理解する。怒っているのか、笑っているのか、気分が悪いのか、そのことは理解できるが、なぜ我々がそれを理解できるのかについて説明することは容易ではない。ここで明らかになるのは、知識には「何であるかを知る」=理論的知識と、「いかにしてかを知る」=実践的知識という二つの種類があり、それらの関係は「一方がなければ他方は存在することができない」[Polanyi 1966=1980:19]というものである。「暗黙知」とは、このうち「実践的な知識」の方を指す。「暗黙知」は「内面化」と「潜入」という行為によって創り出され▲69▲る。例えば杖を用いて歩くとき、我々は「杖を持っている」という感覚そのものから徐々に杖を「内面化」させて、杖の先にあるものが何か理解できるようになる。あるいは、数学の問題を解くとき、英語の長文を読むとき、我々は公式や文法を見ているのではなく、公式や文法を「内面化」させて、応用問題を解き、長文を読んでいくのである。この「杖」、「公式」、「文法」は、「内面化」されることによって「暗黙知」となる。また我々が実際に杖をついたり、問題を解いたりする中に「潜入」してこそ、「内面化」されるのである。繰り返すが、我々が杖の構造を知っていたり、公式や文法が理解できたとしても、それが杖を使った歩き方を知っているのでもなく、公式や文法を用いて問題を解いていくことができるということを意味するのではない。「内面化」し、「潜入」することで「暗黙知」は形成されるのである。
介護場面において考えてみると、障害者が介護者を通して何かをなしていくとき、それはすなわち介護者を「内面化」していくことであり、同時に介護者に「潜入」していくことである。また他方、介護者は障害者を通して何かをなしていくのであり、そのとき介護者は障害者を「内面化」し、障害者に「潜入」していく。互いに相手を「内面化」し、自らを「潜入」させることによって、一体化させていくのである。
さらに、そうして創り出される知識は、より全体的なものであり、詳細を調べ、それを組み合わせることから理解できるものとは異なる。ポラニーは「細部に過度にこだわると、全体が曖昧になり、意味をなさなくなる、また細部を正確に捉えられたからといって真の観念が得られるとは言えない。細部を詳細に理解した上でそれらを統合する『明示的統合』は、時に暗黙知の範囲をはるかに越えるが、一般的には暗黙知に代わることはできない」[Polanyi 1966=1980:37]と述べている。「身体についての生理学者の理論的な知識はそれよりはるかに多くのことを我々に教えてくれる」が、「私が私の身体について持っている知識は、身体についての生理学的知識とは全く別のもの」なのである[Polanyi 1966=1980:37-38](01)。大事なことは、双方が合わさって、知識が形成されているのであり、近代科学の目的である主体性の排除、客観的な知識の確立、すなわち「一切の暗黙知を排除した上で全ての知識を形式化する過程は、自己崩壊に陥る」[Polanyi 1966=1980:39]と▲70▲いうことである。双方の知識が同等に重要であり、必要なものなのである。
このことは「実践的知識」である「暗黙知」は全て形式化しない方がいいということを意味するわけではない。野中は、「暗黙知」を形式化していくことについて次のように言う。「暗黙知はしばしば現場の経験から生まれる意味のある経験的知識ではあるが、それが個人の『勘』にとどまっている限り、組織的に共有できる知識とはなり得ない。しかし、暗黙知がいったん明示化され、形式化されると、その形式知を通じて新たな暗黙知の世界が開かれる。対象に住みこんで意味を読み取り、その思いを言語(概念)を創造して表現し、再びその言語の意味を内面化し、現実に生かして暗黙知を認識、再編、拡大していく。そうして拡大された暗黙知は、さらに新たな形式知へと結びついていく。暗黙知と形式知はこのような相互循環作用を通じて量的・質的な広がりを可能にしていくのである」[野中 1990:57]。すなわち「暗黙知」を形式化し、「形式知」を「内面化」=「暗黙知」化していくことによって、知識は創造されていくのである。であれば、「暗黙知」を形式化していくことは重要なことであり、客観的な知識である「形式知」を学び、「内面化」していくことも必要なことである。
介護に置き換えて考えてみれば、「協働知」も言語化され、形式化されることが必要である。同時に形式化された知識を学ぶことが発想を豊かにするということもありえる。書物や講義などで与えられる身体に関する、あるいは介護技術に対する客観的な知識が、在宅介護における知識をより豊かなものにすることは、予想がつく。しかし、それは実践から得られた、すなわち「潜入」し「内面化」されて得られた「暗黙知」とは異なったものであり、双方が合わさってこそよりよい介護知識が創造されるのである。介護における知識として、M.メイヤロフは、「明確な知識と暗黙の知識、それを知っていることと、それをどうするかを知っていること、そして直接的知識(02)と間接的知識(03)、これら全てを含んでいるものであり、それら全体は、他人の成長を援助する上で様々に関係している」[Mayeroff 1971-=1987:37]と述べ、どれもが必要な知であることを述べている。介護の場面において、全ての知識は必要とされ、対等に重要である。しかし、こと介護においては通常見落とさ▲72▲れがちな「暗黙知」が、なくてはならないものとして認識されることから、「暗黙知」の重要性をより強調しておきたい(04)。
2. 「協働知」を継承する
「協働知」は、介護サービスにおいて視野を広げるものでなくてはならない。介護を凝り固まったものにするようなものであってはならない。センターでは、障害者と介護者の関わりの中から、「協働知」が創り出されてきている。そしてそれが他の介護者にも引き継がれていく。
「協働知」のうち、形式知、客観的な知識というものは、通常のそれらの知識通り、言語によって継承される。暗黙知も、より言語化し、誰にでも理解しやすいような形にすることで、ある程度は形式化することはできる。しかし、どのように暗黙知を形式化し、形式知を豊かにし、それを内面化させたとしても、ポラニーの言うように「言葉によっては、あるいは絵によってさえも完全には表現することのできない」[Polanyi 1966=1980:16]ものが残る。例えば病気の徴候、岩石の標本、植物や動物なども、それを識別することを学生に教えることはなかなかできない。このような「手法的技能(technical skill)」[野中 1990:56]を継承するには、実習訓練が必要である。
センターにおいても新しい介護者が入ったとき、言語によってももちろんだが身体で雰囲気でその「場」を直接経験してもらう。そうして慣らしていく。障害者も新しい介護者も不安なく介護に向かえるまで、いつまでも古い介護者が共に介護に入る。このような、センターでの知識形成は、「指し示して命名する」方法、「直示的定義」[Polanyi 1966=1980:17]と呼ばれる。そして新しい介護者が介護にある程度自信を持った後は、ケース会議などで介護技術を伝え合ったりはしない。ケース会議で話し合われることは、介護時間の配分などであり、それらは当然障害者が中心的に関わって行われる。
他の様々な組織で行われるケース会議のように、介護者同士だけで言語によって形式知を継承しても、それは知識のある一部分だけを伝えることになる。そのことにも意味があるのかもしれない。しかし、これまで述べたように、介護を形式化することは、介護を固定化してしまう恐れがある。継承の場に障害者を交えたとしても、言語による継承だけでは伝わらず残ってしまうことがある。だからといってただその介護の「場」に居れば良いということではない。指し示して命名する方法、すなわち「直示的定義」と呼ばれる方法は、「一つのギャップを覆い隠している」[Polanyi 1966=1980:17]のである。実習訓練によって教え伝えること、言葉にできない知識を伝えるには、教わる側がその意味をつかもうとして努力する「知的協力」、「知的努力」[Polanyi 1966=1980:17]がなくてはならないのである。相手が主体的に、能動的に経験することによって知識の獲得はなされるのである。介護に関する知識は、あくまでも障害者と介護者の、直接の関係の中で、それぞれのやり方を創っていくことによって生み出される。言語による知識の継承は最低限にし、後は実際の介護場面で、障害者と介護者が向き合って、場を共有しながら「潜入」し、「内面化」し、共に創っていく。センターのやり方はそうした「暗黙知」を継承する一つのやり方を示している。
第2節 ニーズについて
1. ニーズを誰かが測定することの意味
第2章で見たように、社会サービスにおいてニーズは何らかの形で、測定され、サービス提供に結びついている。
そもそもニーズを測定するのはなぜか。ブラッドショーは、通常であれば支払能力でその必要量を把握できる要求が、社会サービスにおいては、それでは測ることができないものとしてあり、したがってニーズ=必要性として測る必要があると述べている(05)。フォーダーも同様のことを述べている(06)。
上記のような「ニーズとは何か」と言う問い、すなわちニーズを測定するということの意味を、M.イグナティエフは人間の尊厳と結びつけて述べている[Ignatieff 1984/1996=1999]。
イグナティエフによれば、ニーズには、自然的なものと社会的なものがあると考えられている。自然的ニーズとは人間が生物としての「ヒト」として持つニーズであり、それらは衣食住を満たすものである。しかし我々は一見生物的ニーズと考えられる、衣食住のニ▲73▲ーズにおいても、社会的なものを視野に入れずに考えることはできない。どのような衣服を着、なにをどう食べ、どのように住むのか。それは社会的規範によって定義されている。自己決定と言ってもそれは社会規範の範疇で決めているのである。そして我々は様々なニーズを満たすものを、ただ与えられ、満たされればよいのではなく、一人の人間として尊重され、権利を認められながら、つまり、自己の尊厳を失わずにそれらを手に入れたい。それがニーズなのである。そのためには、人は自分でニーズを決定する必要がある。「誰か人間のニーズについて論じるということは、その人間には自分自身の心を知る能力が欠けていると仮定すること」になり、それは屈辱的なのである[Ignatieff 1984/1996=1999:45]。
しかし、個人個人にニーズの決定権を与えることは、サービスの平等性に欠くと言われる可能性がある。ブラッドショーが言うように、潜在的ニーズ=本人の欲求(want)はサービスを「本来必要としない(と本人以外の他者が決めた)人」にもあるものかもしれないのである。あるいはフォーダーの言うように自分のニーズに気がつかない人もいる。
だが、イグナティエフは言う。そのようにして人を平等に扱おうとすることが、結果として「万人をもののように扱うことになってしまった」[Ignatieff 1984=1999:26]のだと。「それぞれの人格を人間的存在として遇する」ためには、「各人に対してそれぞれの業績、身分、特質および分に応じた扱いにしたがって、−すなわち不平等に、与えること」[Ignatieff 1984=1999:54]が必要(ニーズ)なのである。「私たちがお互いに人間であることを承認するのは、あくまでも私たちが持つあれこれの差異、個人性、来歴、そして、責務に関する特定の文化的徳目の誠実な遂行、そういったもののなかにおいて」なのだから[Ignatieff 1984=1999:83]。ニーズと欲望(ディザーイアー)の違いは、義務、責務との関係にある。「私たちの数ある欲望の内、どれが他者たちが持つ資源への権原を私たちに対して与えるかを問うこと」[Ignatieff 1984=1999:38]によってニーズと欲望の区別がつくのである。
確かに我々は自分のニーズを見誤る、思い違いをするということもある。「私たちは必要ではないものをしばしば欲するのとちょうど同じように、必要なものを自覚的には欲していないということもよくあることなのだ」[Ignatieff 1984=1999:18]。だが、自分に対してさえそうなのであるから、「見知らぬ他人たち」が何を必要としているか、わかると考えることは、「傲慢」なのではないか。「危険」なのではないか[Ignatieff 1984=1999:18]。イリイチも指摘しているように、ニーズを充足することだけでなく、その存在を判断することも許されている専門家は、実はニーズを生みだして、「実際に何が正しいことかを決めてしまう」のである[Illich 1977/1978=1984:18]。そのことが人を不能化し、人を奴隷化し▲74▲てしまう危険すらあるのである。
2. 介護におけるニーズで重視されること
「自立生活」運動において、障害者は、介護ニーズ=「何を、どの程度必要とするのか」を、他者によって決められるのではなく、自分で決定することによって、つまり他者から生活能力のある者として尊重されることによって、自尊心を持つようになった。そして、他者によって何が正しいのかを決められることによって奪われてきた能力や力を、自分の力で決めることによって取り戻してきたのである。このことは、フォーダーも指摘しているように、自分でニーズを把握するということが、本人の変化への動機、意欲を尊重するものであり、その点が重要なのである。主体的に関わるためには、介護におけるニーズは、できる限り自らの判断によって決定されるべきなのである。
それではブラッドショーやフォーダーの指摘している欠点は、実際の現場ではどのように補われているのだろうか。
第一の問題点は、サービス量が必要以上申告され、資源が無駄に使用される可能性があるということである。しかし、介護サービスに関しては、「あればあるほどよいものでもない」のであり、従って「サービスの利用量については利用者による申告制にしても、余計な給付が行われる可能性は実はそう大きくないかもしれない」[資料9:80]のである。それはセンターでの例を見ても明らかだ。センターでは、支給されている介護料とは関わりなく、本人の生活に必要な介護量が、本人を含めた、センターに属する障害者、介護者との話し合いによって決定される。もし介護が誰にとってもあればあるほどよいものであったら、このような制度が出来上がることはないであろう。第一の問題点は介護に関しては当てはまらない可能性が大きい。
第二にサービスの存在を知らないとそのニーズさえ生まれないという問題がある。A.シムらの報告によれば、障害者は、健常者に比べ、生活上の困難を、身体障害によるコントロール不可能なものと判断し、あきらめてしまうことを拒否する傾向にあり、消費者としてサービスを利用しようという傾向があまりないことが指摘されている[Sim 1998:53-74]。この点では、障害者の生活をよく知っている他者の助言や情報提供が必要となる。またサービスの試用も必要になるだろう。センターは、障害者本人を含めて、「『どうしたらその人の考えるような生活スタイルを実現しうるか』という立場を前提とし、より客観的にニーズを判断しうるような機関」を目指して設立されている。しかし、重視されていること▲75▲は、あくまでもその本人の希望が第一にあり、その実現に向けてサービスがどうあるべきかが考えられるのである。つまり、センターは新しいサービスなどの情報を伝えるだけであって、その利用の選択に関して主導権を握ることは許されない。何かが必要であると判断するのは障害者本人である。そうすることが彼らの自尊心を尊重することになるのである。他者の支援を得ながら、自らのニーズ把握を基調としてサービスが決められていく。センターのやり方はそうした形の一つと考えられる。
第3節 自己決定再考
1. 「自立生活」障害者の目指した方向
障害者が「自立生活」のなかで目指したことは、「他者」から「自由」になることであり、「他者」によって「管理されない」ということ、すなわち「自分」の生活を、「自分」で制御するということである。「自己決定」、「自己管理」ということであり、彼らはこれを持って「自立」と称するとも言う(07)。
彼らが主張したことは実にシンプルなことである。「自分のことは自分で決める」ということ、例えば、障害を持たない人が「外出しよう」と決め、外出をするように、障害を持つ人も「外出しよう」と決め、外出をするのだということである。もし能力という言葉を使うとすれば「私は、歩けなくても、外出しようという決定はできる」といったに過ぎない。問題は(障害は)歩けないことなのだと。これは自明のことであろう。しかしそれをなぜ言わなくてはならなかったか。それは歩けない人は、これまで外出しようという決定さえも、できなかった、許されなかったからである。なぜか。立岩は次のように整理する。「自分で決定して、決定したことを自分でやるなら、そしてそれが誰にも迷惑をかけないことなら、ひとまず誰も困らない。ところが例えば身体に障害がある人の場合、その人は決定はできるのだが、(i)その決定の実行は他人が行なう、(ii)その実行に関わる負担を他人が(他人も)負う。となると、自己決定した人のいうことを聞くのは負担であり、負担であることからする不利益がありうる。だから自己決定は実現されにくい」[立岩 1997:129]。
決定は手段に委ねられ、目的へと到達する。その手段がうまくいかない場合、手段だけ▲76▲が補完されればよかったのだが、これまではそうはいかなかった。手段を所有している者の自発性、愛情によらなければならないし(ボランティア・家族)、手段を所有する者の責任によらなければならなかった(施設職員・ホームヘルパー)。
しかし、ともかくも「自立生活」を始めた障害者たちは、その新たな手段である介護者を通して自分の生活を制御している。「彼らは同じ身障者(デイセイブル)でも、もう以前ほど生きる能力に欠ける(デイセイブル)存在ではない」[Murphy 1987=1992:197]のである。
2. 自分で決める?−介護場面における自己決定
しかし、障害者が介護者に対して的確な指示が出せない場合、これまで問われてきた自己決定における第一の問題、すなわち自己決定が困難な人の決定の問題が発生する。だがそれは第3章に見てきたように、障害者と介護者が一体化していく中で解決することができる。
「自立生活」の場面で、何かをしようとするとき、その信号は障害者から発せられる。意識的、知的、精神的な障害があっても、うめき声であれ、「ア」という一言や目線、あるいは[一般的にはその場にそぐわない]([]に傍点)(しかし、その人には意味がある)発言であったとしても、確かに信号は障害者から発せられる。そして、介護者は障害者と一体化する中で、障害者の要求表現と決定の間を埋めていく。例えば「食事をしたい」という自己決定ではなく、「お腹がすいた」という欲求表現を介護者が理解して、介護者が食事をとろうかと促す場面があるだろう。そのとき欲求と決定の間を介護者が援助している。だがここにおいても先に欲求を表現するのは障害者である。あるいは、介護者が、時間だからといって、食事を促したとしても、それを取るかどうかを決めるのは障害者である。
第一の疑問は、上記のように解決される。このときの決定は「自己」だけのものとは言えないかも知れず、したがって厳密には「自己決定」とは言えないかもしれない。しかし、ここで必ず「自己」ひとりの決定である必要はない。そのことに意味があるのではない。決定によって自らの生活を制御できるか、他者に生活を制御されていないかどうかが問題なのである。「自立生活」の場面で、何かをしようとするとき、その信号は障害者から発せられる。そのとき自己の要求表現と決定の間を介護者が埋める場合があって、日常生活が営まれていく。そして、そのことが障害者にとって不自由なものであったり、不便なもの▲77▲であったりするのではない。これも「自立生活」を送る、一つの方法である 。ここで問われるべきことは、障害者自身の決定能力なのではなく、介護者側の洞察力、理解力、一体化していく営みに対する不断の努力であり、すなわち介護側の問題と言えるのである。
しかし、ここで第二の自己決定に対する疑問点が浮かび上がってくる。障害者と介護者は双方を丸ごと受けとめ、それを自己化しつつ、行動する。そのとき、「何かをしようという自己決定」と、それを「どのように行うかという自己決定」があり、後者の自己決定においては介護者そのものの身体的・知的能力、精神状態が非常に深く関与するのである。例えば料理が下手な介護者の時に、自分の望んでいた食事のメニューを変えることが必要になったとする。そのときメニューを変えようという障害者の決定は、果たして自己決定なのか。本来食べたいと思っていた食事を断念したという意味では、自己決定権は損なわれてしまったといえるのではないか。
考えてみれば、人間誰しも限界というものを持っている。誰もが差異を持ち、だからこそ一人一人が異なった人間なのである。とすれば、介護者のそうした違いを受けとめ、より一体化していくということは、介護者の長所も短所も自分のものにしていくということであり、したがって、ある程度の制限はやむをえないということになる。しかし、これでは障害者は我慢しているといえるのではないだろうか。やはり自己決定ではないのではないだろうか。どんな介護者にも自分が望む食事を作らせるべきではないか。あるいは、もしその人ができないのであれば、他の人を今すぐよこせばいいではないか。我々には「選択の自由」があるのだと。このような主張がある。
「選択の自由」が重要であること。それは一方で認めつつ、それだけではないことを考えてみる。
3. 自由とは
イグナティエフは、聖アウグスティヌスの言葉を引用しつつ、二種類の自由について述▲78▲べている。一つは「選択する自由」であり、もう一つは「なされた選択が正しい選択であると知ることから生じる自由」である。近代社会が求めてきた自由は第一の自由、「選択の自由」である。我々は「自由は、外的束縛の問題だろう」と考えてきた。「万人に十分な収入と十分な権利を与えれば、彼らは自分の選択にしたがって自由に行為することができるようになるだろうと考えてきたのだ」。しかし、第二の自由が第一の自由を束縛するのである。「選択にある種の確信が伴わない限り自由は腐敗した善でしかない」。「自由と幸福がぴったりと一致するのは、諸個人が、その自由を正しく用いたということを知っている場合だけ」なのである[Ignatieff 1984=1999:93-96]。
では正しい決定であるということを確信するとはどのようなことか。
「選択する自己」が「正しい決定であるかを知っている」場合、「各人は間違いなく私的利益と公的利益、自己の主張と他者の主張とが一致するような選択をする」。そのことは「同胞、市民、同志という集団が持つ知恵によって常に個人の選択が導かれている」ということを意味する。だとすれば、「自由には一体なにが残るというのだろうか」。そこには選択の自由はない。第二の自由を得るためには第一の自由を棄てなければならない。それは「専制への飛躍」を意味するのである。結局第一の自由と第二の自由を両立することは難しい。「選択の自由」は確かに我々にある。しかし、それが正しいという確信と結びついていなければ、自由に選択をするのは難しい。自由は「内的束縛」によっても左右されるのである。「この世界では満たされることのないニーズ、願いが存在するのだということを確信している」ことが必要となるのである[Ignatieff 1984=1999:96-97]。
1970年代、障害者運動が主張して来たことは、「自分のことは自分で決める」というメッセージだった。その当時、重度の障害者が「地域で暮らす」という選択はなかなかできなかった。施設職員が反対する。家族が反対する。社会が反対する。「わがままだ」と。それは今も、残っている。しかし、一方では、「地域で暮らす」ことを正しいと確信した人、認めた人たちがいて、「選択の自由」が「確信を得た自由」になって今がある。
自己決定は能力なのだろうか。確かに後に誰かに正しいと思われるということを、先に確信することが[できる]([]内に傍点)のであればある種の能力かもしれない。しかし、選択するとき、誰にも人に正しいと思われることなどわからない。わからないで選択するのである。だから迷う。迷った時に「これでよいのだ」と思えることは、[力]([]内に傍点)ではあるが、[能力]([]内に傍点)というのだろ▲79▲うか(09)。
センターでは「仲間」、「共同体」という言葉が使われる(10)。集団の中にあって埋没するのではなく、集団の中にこそ、自らの居場所を発見し、お互いに生かし合う「一緒に生きる」(障害者)仲間として障害者と介護者がある。確かに、「選択の自由」と、「確信の自由」のバランスは微妙である。個人のニーズが認められ、尊重されると同時に、自分以外の人のニーズも承認していく。それらが両立する社会、有機的に連携しつつ、それぞれの自由を束縛しない社会とは、どうあるべきか。たとえ試行錯誤、模索段階だとしても、その一つの試みが「センター」ではないだろうか。
第4節 障害者と介護者の関係
1. 他者ということ、自分ということ
介護関係において、介護者と障害者は「介護する者」と「される者」という中で、主体と客体としてあり、常に主体が客体を支配していく関係として捉えられてきた。しかし、第3章に見るように、「自立生活」における障害者と介護者の関係は、決してそのようなものだけではない。介護場面における障害者と介護者の関係は、主体と主体が支配関係ではなく、調和する形で存在する場面がある。このように、「自己」と「他者」を主体−客体という対立するものとしてではなく、一つの空間に必然的に両立するものとして説明している論に、木村の「あいだ」理論がある。
まず木村は、日本語と外国語(西洋)における人称代名詞を比較し、そこに現れる「自己」と「他者」の関係について説明する。外国語には通常、一人称は一つの呼び方、二人称は一つまたは二つの呼び方しかない。しかし、日本語には一人称も複数あり、一人称と▲80▲二人称がそれぞれに対応する形をとる(11)。すなわちこれらの代名詞、あるいは呼び名は「そのつどそのつど全く具体的な対人関係の状況から、おのずと定まってくるのであって、けっしてそれに先だって決定していることではない」[木村 1972:141]。木村は森の論を用いて「日本においては『汝』に対立するものは『我』ではない…[対立するものも亦相手にとっての『汝』なのだ]([]に傍点)」[森 1971:102]と説明する。「自分が[誰]([]に傍点)であるのか、相手が[誰]([]に傍点)であるのかは自分と相手との間の人間的関係の側から決定されてくる。個人が個人としてアイデンティファイされる前に、まず人間関係がある。人と人との[間]([]に傍点)ということがある。自分が現在の自分であるということは、決して自分自身の『内部』において決定されることではなく、常に自分自身の『外部』において、つまり人と人、自分と相手の『間』において決定される」[木村 1972:142]のである。また日本語においては、人称代名詞がよく省略される。「自分と相手との間で現実に問題になるのは、そのつど当面の話題となっているところの、何らかの事態」[木村 1972:143]であり、その状態において、「事実そのもの、事態そのものの主体が話者どうしの間でいわば相互了解の内に前提にされていて、それが誰であるかということは問題になってこない」[木村 1972:142]のである。
このような自己と他者のあり方は、確かに日本語の特徴として現れるが、日本だけに通用する論理ではないことを、木村は、フロイトらの精神分析理論を応用しながら人間の生誕の歴史をたどり、説明する。人間は母子一体化の段階、排便のしつけなどにより自立を促される肛門期、性を学んでいく男根期、というそれぞれの段階を踏んで徐々に自他未分化の状態から自己が確立していく。我々は誕生時の母子未分化の状態から、徐々に「自己の意に従わないもの」を「他者」として、しかもそれぞれを「母」、「父」と、違ったものとして意識し、同時にそれぞれの他者にとって「違う者」=「他者」としての「自己」を徐々に自覚するのである。
また木村はヴァイツゼッカーの『ゲシュタルトクライシス』から「主体」とは、「有機体と環境とが絶えず出会っているその接触面」で、「主体としての有機体が、客体としての環境と出会うのではない。有機体が環境と出会っている限り、その出会いの中で主体が成立している」と説明し、日本語の自分=自らの分という概念を、ヴァイツゼッカーの「主体▲81▲とは確実な所有物ではなく、それを所有するためにはそれを絶えず獲得しつづけなくてはならないものである」[木村 1988:13-15]と言う言葉の中に見つけるのである。
木村の理論の特徴は、自己の成立を他者との融合状態の中から[自分]([]に傍点)=自らの取り分を明らかにしていく中に見ることである。重要なのは、自己が、自他の融合状態にその成立の根拠を持つという点に加え、自己の成立は、幼児期のみだけではなく、常にこの融合状態から立ち現れるものであるということである。自己は安定し、固定したものではなく、人と人との「あいだ」でそのあり方を変えていく、常に獲得されていくものとされているのである。
そしてそのことを木村は「こと」・「もの」という言葉を用いて説明する。自己との関連でみれば、自他未分化の状態があり、一瞬一瞬のでき「こと」があり、その中に「私」が他との比較の中で「こと」として存在し、それが連続することで「自己」という「もの」が創り出されてくる。それは最初からはっきりとしてそこにあるのではなく、一つ一つの出来事の積み重ねで作り出されていくのである(12)。
そして、この「自己」と「他者」(13)の間には「気」があり、「気」によって我々は「一切の言語的、表情的伝達に先だって、根源的、絶対的に結ばれているのである」[木村 1978:166](14)。
自己と他者が個として、最初から確立したものとして存在するのではないという考え方は、立岩にも見ることができる。立岩は、「私が制御しないものを『他者』」[立岩 1997:105]と言い、「世界が私によって完全に制御可能であるとき、私は私を世界全体へと延長させていったのであり、世界は私と等しくなる」[立岩 1997:106]と述べている。すなわちこれは、木村が言うように、我々は他者=制御できないものの存在によって、[自らの分=自分]([]に傍点)を決めることができるということである。しかもここで重要な点は、「他者を『他者として存在させる』」[立岩 1997:105]ことによって、我々は「生きているという感覚」を、「生を享受している」[立岩 1997:106]のであり、「他者を意のままにすることを欲望しながらも、他者性の破壊を抑制しようとする感覚がある」[立岩 1997:107]ということである。
このように、自己は他者と未分化の状態、一体化した状態として存在し得る。ある空間において、あるいは一瞬一瞬の出来事の中において、同一化、未分化した中から、そのと▲82▲きそのときに他者によって規定されることで、自己は立ち現れ、より流動的に、存在するのである。そうして流動的に立ち現れた「私」ということの連続が「私」と言う「もの」になる。そして他者性が存在するという状態は、人を束縛する面を持ちながらも、人に生きているという感覚を与える、かけがえのないものでもある。
2. 介護関係に見る「自己」と「他者」の関係
介護関係において「自己」と「他者」はどうあるのか。
障害者と介護者が、ある動作=具体的な介護行為を行うとき、障害者は介護者の身体的、精神的な能力を見極める。そして長所も短所も備えた、一人の人間である介護者を受けとめ、最大限に生かしながら、自らのあり方を決めていく。そのとき、障害者は介護者という手段を得て、自らの生活を制御するのである。介護者は障害者の要求を、すなわち障害者の不自由を、自らの能力の可能な限りにおいて受けとめ介護行為のあり方を決めていく。 そこでは障害者と介護者、個々の差異が差異としてそのまま受けとめられる。その違いによってお互いの距離、リズムが、すなわち木村のいう「あいだ」が決まる。しかし、それは常に一定ではない。生活の中で、そのときの精神状態や身体の状況に応じて揺れ動く。E.ゴッフマンの言うように人と人との出会いは常に「賭け」[Goffman:1959=1974:38]なのである。その繰り返しの中で、障害者も介護者も素の自分が出てくる。そして、そうしたありのままの、隠しようのない自分のすべてを受け入れられることで、介護者は他の世界では感じられなかった「癒し」を感じる。障害者は介護者に不自由を受け止められることで「自由」を得るのである。
障害者と介護者、お互いを結びつけるもの。それが「気」である。「気」とは「自分のことが自分のことでありながら、同時に相手のことであり、相手のことがそのまま自分のことでもあるような領域」[木村 1978:163]のことであり、「気において、自己と相手は、一切の言語的、表情的伝達に先だって、根源的、絶対的に結ばれている」[木村 1978:166]のである。障害者と介護者は、障害が重度になり、コミュニケーションの手段が限られれば限られるほど、より「気」によって根源的に一体化していくのである。そして相手を「私自身の延長のように身に感じ」[Mayeroff 1971=1987:18]、「その人の世界へ“入り込んで”いく」[Mayeroff 1971=1987:93]のである。これが、介護という「アレンジメント」を通して、介護者が障害者となり、障害者が「単独であったときの己を別の(もう一つの)『障害者』のあり方へと[生成変化]([]に傍点)させている」[小倉 1998:190-191]と言う状態なのである。▲83▲それゆえ、介護者は、障害者に言葉によって指示されなくても、自然に動いてしまうことがある。しかし、それは勝手に動いているのではなく、障害者の意を感じて動いているのである。すべてを指示しなくても動くということ、それもまた障害者にとって快でもある。
このように「自立生活」障害者にとって介護者という存在は微妙な存在である。介護者とは時に自分の意の通らないもの=「他者」であり、また時に自分の意のままに動くもの=「自己」でもある。それは、場面によって異なるのである。しかし、介護者は障害者の意に沿うことを前提として介護行為を行うため、障害者にとって、介護者は限りなく「自己」に近い「他者」となるのである。
3. 融合の限界
障害者と介護者の間で起こる問題については、すでに先行研究に見たように岡原が@意志決定をめぐるトラブルとA感情・身体をめぐるトラブルを挙げているが、介護関係を障害者と介護者がより一体化していくものとして理解してくると、もう一つ重要な問題点が明らかにされる。それはお互いがお互いを受けとめ合うことに失敗したときである。
障害者は介護者の長所、短所を全て受け入れて、万能ではない人間と一体化し、ある行為を行っていく。その中で、介護者の能力、精神状態などをうまく見極められなかったとき、障害者の介護者に対する理解と、介護者の自分自身に対する理解の間に齟齬をきたす。そのときの障害者の要求は介護者にとっては過大であったり、あるいは過小であったりする。そのどちらも度が過ぎると介護関係にひびが入る。
また、介護者が障害者の望んでいる事を勘違いすることもある。介護者は障害者の「『遅れ』や不意の『攻撃』やイレギュラーな対応」[小倉 1998:191]を受け入れる。と同時にそこで求められていることを受けとって介護行為をするが、受け止めることを間違えることもある。障害者から見れば、そこまでやってほしいといっていないのに介護者がやってしまったり、もっとやって欲しいと思っているのにやってくれなかったりということである。この「勘違い」は、出すぎた配慮や思いやりとも取れるし、あるいは介護者が全く自分の意志を殺してしまうロボット化とも考えられる。介護者側の行きすぎた対応も介護関係を気詰まりなものにする。
両者の間に「私の身になってみればどう思うかを相手が知っていると私が感じている」[Mayeroff 1971=1987:96]ことが必要である。つまり「理解されていると感じる」[Mayeroff 1971=1987:96]ということである。▲84▲
さらに介護はお互いを受け入れ合う関係であるから、介護者にとっては、自分の介護を否定されることが、自分の存在を否定されていると感じてしまうこともある。また、お互いの人間同士の相性が関係を左右することもある。それぞれにとって、始めからリズムや距離のとりやすい人とそうではない人がいる。しかし、そうした動かしづらいものの中で、通常は両者の話し合いの中でかみ合わない部分が解決される。とにかく向き合うということ。そこからなにか関係は生まれる。そしてそうした「動かしづらいもの」=自分の思い通りにならないもの=他者性と付き合っていくことは、もちろん不自由であり、つらいことである。だが思えば我々は誰でも自分の身体や感情でさえ、思い通りに制御することなどできないのである。そしてそれは必ずしも否定的な意味を持つのではない。「私が制御しないものがあることにおいて、私達は生を享受している」[立岩 1997:106]のだから。
第5節 「介護者」という役割−サービス提供者として
1. 自己・他者・関係→役割
介護者は限りなく「自己」に近い「他者」であり、同時に介護者という「役割」でもある。「自己」と「他者」が一体化していく介護関係において、「役割」とはどのようにあるのだろうか。
木村は、我々は自他未分化の中から日々の「こと」という営みを通して、「自己」と「他者」という「もの」を作り上げていくことを説明した。彼は役割と言うことについて、どのように考えていたのか。
人と人とのあいだに「自己」は立ち現れる。「自己」は「他者」の規定に依存して「自己」を規定する。すなわち「自分が何であるか、誰であるかがそのようにして決定されるだけではなくて、自分がいかにあるべきかもまた、この人と人との間からの規定を蒙っている」[木村 1972:146]。すなわち、役割=いかにあるべきかは、その場その場の出来「こと」のなかで他者との「あいだ」で決められていくのである。
彼の論から発展させて、濱口惠俊は、「間人」と「間柄」によって、人間関係のあり方を提示する。「間人」とは、「個人」に対応する言葉であり、自己に重きを置く「個人」に対して「間人」は、人と人との[間]([]に傍点)に重きを置く。そのような間人にとって、社会との関係は「間柄」によって支配される。すなわち、「個人」主義社会においては「個人」と「社会」は契約によって双方の関係を結ぶのであるが、「間人」主義社会においては、個人は社会の一部として存在し、「間柄」によって一つの集合体を作る。「個人」主義社会において集団▲85▲は個人を埋没させるものであるが、「間人」主義においては、それが一つの間柄であり、つながりの中に人がある。このような特徴を、濱口は日本企業に関する研究において「課」の中に見る。「課」とは日本社会特有の集団であり、日本の企業はトップダウンでも、ボトムアップでもなく、この「課」を媒介にした命令系統=ミドルダウン構造を持っている。仕事は個人に任されるのではなく、「課」単位で任され、「課」の中で処理される。「課」の中ではそれぞれの役割を越えて、あるいは役割を明確に限定せずに業務が進められる。「間柄」とは「対人関係の全体システム(それを合理的に認知することは不可能に近いが)を前提において、各個の関係を有機的な連鎖の中で見出そうとする」[濱口 1977:111]のである。こうした関係は、「集団の中では個人が埋没する」という個人主義的発想では理解できない。集団の中でこそ、「間柄」を通して「連帯的自律性」[濱口 1988:27]が発揮されるのである。
2. 役割取得・役割形成
片桐雅隆は、関係によって「役割」が生み出されるという木村や濱口の論と役割取得・役割形成の関係について説明している。
「役割」に対する理解は、それを所与のもの、人々から外在するもの、人々の行為に先立つものとして捉える「規範的パラダイム」と役割を常に解釈の対象とし、流動的で、過程的なものだと考える「解釈的パラダイム」があり[Wilson 1970:57-79]、今日では双方の統合化の試みが行われている[片桐 1996:15]。片桐はこれに対して、双方の統合化を否定はしないものの、すでに後者の中に前者が包含されていることを、シブタニやターナーの理論を用いて証明し、「役割形成」について述べている。
役割形成は、人々によって期待される役割をそのまま内面化し、自己のものとして演じる役割演技とは異なり、役割を一つの素材として考え、それによって自明視されていること=役割期待を「理解」し、「いま、ここ」で「役割」を作り上げていく役割取得の状態としてあり、「過程的産物であるがゆえに、不可避的に伴う現象」[片桐 1996:26]と捉えられる。
このようにして「役割」を理解すると、木村の「もの」・「こと」による自己理解との共通性が見出せる。役割取得とは、「役割を守るとか、他者の期待に応えるといった側面のみを意味するものではなく、それらの行為の前提として状況やその文脈が『わかる』という側面を示し」、「自己の成立以前の自他未分化、自他一体化の状態の中で成立、獲得されてい▲86▲くと考えられ」、「<あいだ>が自己の発生史の上でも、また<もの>としての自己が成立した段階においても、つねに自己を産出する根拠であるのと同じように、役割取得も自己を産出する根拠」なのである[片桐 1996:132]。また、役割形成とはそのような役割取得が行われる状態、すなわち「<いまとここ>という場面に委ねられ」、「その場その場において繰り広げられていく<こと>としての側面を持っている」[片桐1992:132-133]のである。
上記のように説明してくると、介護者=介護する者、障害者=介護される者という役割設定が固定されたものであり、どうしても動かすことのできないものとする前提は変えねばならない。「役割」は徐々にであっても、しかし、確実に作られ、変更されていくものなのである。どうしても動かすことのできないものとしてあるのだとすれば、どうしても動かせないという前提をおくから、再生産されているとも言えるのではないか。
「介護」を語るとき、我々は「介護する者」として、どうあるべきか、あるいは「介護される者」としてどうあるべきかを語ってきた。それは確かに介護の重要な一面であるかもしれないが、一面でしかない。そして、それらは介護を規定し、介護を窮屈なものにしてきたのかもしれない。むしろこれからは、障害者と介護者が共に主体としてある、そのような介護関係の中で、新しい「障害者」という役割がつくりだされ、そして「介護者」という役割を創り出されていると捉えるべきなのである。
3. 障害者の望むプロ=専門職としての介護者の役割
障害者と介護者が一体化する介護関係の中で望まれている介護者の役割はどのようなものか。第3章に見たように、障害者たちは介護者に対してプロであることを望み、また一方でプロであることを拒否する。そこで意味される「プロ」という言葉は一様な意味を持つものではない。だが、障害者が望んでいる介護者という役割にぶれはない。彼らはこれまでの介護知識や介護技術を有した、専門に特化した専門職を望んでいるのではない。いや、知識や技術は、それであったほうがいいが、必ずしも重視されることではない。なぜなら知識や技術は後からいくらでも学習することができ、そしてそのように現場で獲得される知識や技術が重視されるのが介護の特徴だからである。むしろ障害者が介護者にプロとして切望していることは、介護者の態度のあり方である。
第一に、障害者に対して一対一で向き合うこと。介護の対象は、「どれでもよい一般的なものではなく、いつも特定の誰かであり特定の何かである」[Mayeroff 1971=1987:27]。そ▲87▲して向き合う中で、相手から直接学ぶこと、つまり「外側から彼について知るのとは全く対照的に、彼独自の世界の中で、基本的に彼とともにいる」[Mayeroff 1971=1987:97]ことから学ぶことが求められている。
第二に、様々な場面での、様々な経験を有していること。それは第一の要素と相反するようだが、しかし、そうではない。ここで要求されるのは、様々な他者との一対一の関わりから、人と人の「あいだ」を経験し、様々な人との距離のとり方、自分のあり方を知っているということである。ある他者との「あいだ」に自己をじっくりと作り上げると同時に、それに凝り固まることなく、臨機応変に柔軟に別の他者と関係を作る自分を経験していることが−いろいろな他者と向き合った経験をしていることが−より必要とされることである。
「介護者は最初からいるわけではありません。介護者を介護者として創っていくことが必要です」[資料 6 1996:70]。介護者はサービス提供者のプロとして、センターで、サービス利用者たる障害者によって、その関わりを通して創り出されているのである。
第4章・註
(01) 「つきつめれば、医者が知って、患者が知らないという単純な構造ではない。身体について、医者と患者はそれぞれ異なる知のシステムに準拠して、それなりに知っているのである。だから、実際には、医学的医療的知を他の知から優先させ、患者を無知の存在として規定していく仕組みが問題であろう」[岡原 1990/1995b:129(3)]。
(02) 「あることを直接的に知ることとは、単にそれを経験したということだけを意味するのではなく、それと直面し邂逅することであり、それ自身の権利において存在するものとして、それを理解することである」[Mayeroff 1971=1987:36]。
(03) 「間接的知識とは何かについて知ることであり、それについて情報を得ることなのである。私はあることを、実際には経験することなく間接的に知ることもできれば、また直接的に知ることなくあることを経験することもできる」[Mayeroff 1971=1987:37]。
(04) 「私たちは、暗黙の知識、あることをどうしたらよいかを知っていること、あることを知る方法としての直接的知識、などというものに十分な考慮を払わないのである」[Mayeroff 1971=1987:37]。
(05) 「社会サービスが支払能力による限定なしにニーズを対処するのであれば、ニーズはどのように測られるべきなのか」[Bradshaw 1972:640]
(06) 「ソーシャル・アドミニストレーションは、金銭的資源によって裏付けられた要求に対する供給を扱う市場経済と対比的に、ニーズと資源の問題に関わる」[Forder 1974:1]
(07) アメリカの自立生活運動の主張でもあり、「青い芝の会」の主張でもある。[定籐1990:507-511、三ツ木 1994:114-119など]
(08) 斎藤は知的障害者の自己決定について「知的に障害があっても『好き、嫌い』(イエス、ノー)は比較的はっきり表明できる人が多い。ただ、その意思表示が言葉でない場合や言葉であってもなかなか伝わらない場合もある。受け取る側に工夫と忍耐があればかなりカバーできる。…イエス・ノーの意思表示を自己決定につなげていく方法もある。…つまり、肢体不自由者に体を動かす上での介助者が必要なように、知的障害者には判断や決定を援助する人がいればいいのである」と述べている[斎藤 1994:29]([立岩 1998a:228-229]より抜粋)。
(09) それは愛の力や自分を信じる力のように、人の心の中に生まれてくるものであり、しかしやはり他者からもたらされ、他者によってより強化されるものでもある。Empowermentのpowerには、能力とは違った、このような意味も含まれているのであろう。それをem-=授けていくとはどのように可能なのか。さらに検討が必要である。
(10) 「介護は障害を持つ仲間と一緒に暮らしていくために必要なもの」(介護者)「共同体と言う精神でやっている」(介護者)「派遣センターでは障害者と介護者の関係は、まずもって『共に生きる街』を創る仲間であり、障害者と介護の中核を担っている専従は誰もが派遣センターと言う共同組織の共同の運営者として位置付けています。つまり、雇う−雇われる、介護する−されるという関係を越えたところでの、一言でいってしまえば仲間として存在していると思います。」[資料 6 1996:20]
(11) 一人称に「私」、「ぼく」、「おれ」などがあり、さらに子供に対しては、「お父さん」、「お母さん」であるし、孫に対しては「おじいちゃん」、「おばあちゃん」である。二人称にしても、「君」、「あなた」、「お兄ちゃん」、「おねえちゃん」、あるいは「○○さん」と具体的に呼ばれる。
(12) 例えば[木村 1972][木村 1988:155-168]
(13) 木村は「自分と他人」としている[木村 1978:166]。
(14) 木村 1972 では、こうした特性は西洋との比較で、日本的なものとして紹介されている。
終章 新しい介護システムのために
戦後、障害者は、障害者運動を通して自らの位置を形作ってきた。憐れみを受け、保護される存在から主体的に生きる存在への変化は、介護に携わる介護者との関係にも変化をもたらし、新たな介護者の役割を創り出してきた。
本章では第1節にて、課題に対する結論を示し、残された課題について検討し、第2節では現在試みられているシステムと今後の課題について検討する。
第1節 結論
1.課題に対しての結論−新しい介護サービスの可能性−
本研究の課題は、地域に暮らす障害者と介護者の人間関係を考察することにより、サービス利用者と提供者の対等な関係がどのように構築されているのかを明らかにし、またその関係を可能にするシステムについて検討することである。本研究では、練馬区介護人派遣センターのサービス利用者である障害者とサービス提供者である介護者の関係とそのシステムについて記述し、検討してきたが、結論として、そこでの介護サービスやシステムと介護関係の関わりについてまとめる。
これまで障害者が「自立生活」を行う中で主張してきたことは、自らの力で自らの生活を制御するということである。すなわち、生活における様々な決定を自らが行い、その責任を自らが負うということである。そしてそれを可能にするのは、彼らの「経験知」であり、ニーズ認識であり、自己決定能力であるという。つまり「障害者のことは障害者が一番よく知っている」のであり、障害者が「障害者福祉の専門家」なのだと主張してきた。そして障害者は「自立生活」を行う中で自尊心を養い、生きる力をつけてきたのである。
しかし、障害者の「自立生活」は、障害者だけで創りあげてきたものではない。彼らの「自立生活」を支えているのは介護であり、介護なくして、「自立生活」は成り立たないのである。そしてその介護において「自己」と言い、「他者」と言い、「知識」と言い、「ニーズ把握」と言い、「自己決定」と言うとき、そこに必ず介護者がおり、介護者との協働作業があり、相互作用がある。それらを抜きに「自立生活」における介護を語ることはできないのである。「自立生活」において、ある具体的な介護行為を行う際、障害者は意識の上では主体として、行為においては客体として、また介護者は行為そのものにおいては主体として、意識の上では客体としてその行為に臨む。つまり「トイレに行く」と言うとき、障害者は、第三者から見ればトイレに「つれていかれている」かのように見えるかもしれないが、実際は主体的にトイレに「行っている」のである。また介護者は、第三者から見れば障害者をトイレに「つれていっている」かのように見えるが、実際は障害者に「ついていっている」のである。それは我々が生活の中で自らの手足にそうしているかのように、障害者は介護者の機能全てを受けとめて、彼らを生かし、行動するであり、介護者は障害者の意を受け、彼らの不自由を受けとめ、彼らと一体になって動くのである。
このような一体化した関係において、障害者と介護者は、その立場は異なっているのであるが、ともに主体としてある具体的な行為を行う者同士であり、したがって両者の間には優劣や上下はなく、両者の関係は対等なものである。そして、障害者と介護者が対等な立場で介護行為に向かう相互関係の中で「協働知」は、創り出されているのである。
介護に関わるニーズ把握や決定は、この「協働知」をもとに行われる。したがって、障害当事者のみではなく、その介護に深く関わる介護者も、その障害者の意を汲んで介護に関わるニーズ把握や決定を代行して行うことができる。このことは、これまで障害者が「障害者のことは障害者にしかわからない」と主張してきたことの変更を可能にする。すなわち介護においては、障害者と介護者は、「障害者」「健常者」という概念で捉えられてきた立場を超えて、理解し合う可能性があるのだということを示しているのである。しかし、繰り返すが、介護者による代行はあくまでも一体化した関係が築かれ、「協働知」が蓄積された場合にのみ可能である。しかもこの一体化する関係は、障害者と介護者の状態に応じて常に変化していくため、常に互いが自己の中に相手を内面化し、また自己を相手の中に潜入させていかなければ、すなわち「協働知」を創造していく中でしか維持できないものである。
両者の対等な関係を維持していくためには、「協働知」を創り出せる環境とそれを支えるシステムが必要である。センターでの調査結果により、介護サービスの第一の特徴である介護専従体制がこのような環境をつくりだす一つの要因となることが明らかとなった。この体制によって障害者は一定数の介護者と関わりあい、介護者も一定数の障害者と関わりあうため、双方が「協働知」の蓄積をより可能にし、それによって互いの状況をより理解しやすくするのである。
その専従介護者の生活を支えているのが、センターシステムの第二の特徴である介護料全額プール制である。このシステムは行政から時給単位で支給される介護料をプールし、専従介護者が労働者として介護に関わることを可能にした。また、そのことによって障害者のみならず介護者にとっても介護料が生活を左右する大きな意味を持つこととなり、両者の間に連帯感を生み出す結果となった。
ニーズ把握に関しても、センターのシステムの特徴により、障害者と介護者はニーズ=介護時間の決定を行うことが可能になることが示された。行政から支給される介護料の額に左右されることなく、互いの間に介護行為の中で蓄積されてきた「協働知」に基づいてニーズが決定されるため、両者の決定に大きな違いは生じず、決定はほとんど変更されずに遂行される。
上記のようなシステムは、特に身体障害が重度の場合、必要不可欠なものである。なぜなら、彼らは言語によるコミュニケーションがスムーズには行われないため、介護者とのより一体化した関係によって、より彼らの意向は理解されやすくなるからである。障害者と介護者が一体化することによって、重度障害者の介護における様々なニーズ把握が可能になり、それらに対する決定が可能になるのである。
以上のように見てくると、介護の場面において必要とされる介護者は、限りなく障害者という「自己」に近い「他者」という「役割」を持っている。すなわち障害者に必要とされる介護者とは、介護の場面において、[その]([]に傍点)サービス利用者たる障害者に、[そのとき]([]に傍点)必要とされるサービスを[その場で]([]に傍点)提供できる「プロ」=専門職のことを意味している。そしてそうした専門職の「役割」はその障害者との関わりの中から創り出される。すなわち、介護者という専門職の「役割」を創るのは一人一人の障害者である。そして障害者も実は介護者との関わりの中でその「役割」を創り変えている。彼らは、保護される対象であった「弱者」から自らの力で生きていく「自立生活」障害者へと生まれ変わっていくのである。
第2節 残された課題
以上のようにセンターのシステムは、サービス利用者である障害者とサービス提供者である介護者が対等な立場で介護行為において一体化していくことを可能にし、それによって障害者が望むものにより近い介護サービスを提供し、重度障害者が自立した地域生活を送ることを支援している。しかし、このシステムで解決されない課題がある。
それは介護者の選択という問題である。センターでは、介護を専従介護者という特定の労働者に限定しているため、障害者が自分にあった介護者を選択し、自らの介護に当てるということは基本的にはしていない。また、新しい介護者を雇うに際してもセンターで採用するのであって、そこに障害者の意見が反映されているとは言っても、一人一人の障害者が必ずしも自分の気に入った介護者を雇うわけではない。この点は、行政の介護料を得て、個人が介護者を雇っている場合とは異なる。
これまでセンターのシステムでは、介護の内容や時間を決定する際、障害者自身の意向が反映されてきた。障害者の選択権を尊重することがセンターのサービスの特徴であり、それによって障害者はこれまでの介護サービスでは実現できなかった、より満足した「自立生活」を送っている。介護内容、介護時間とともに、介護者を選択するということも、より満足した「自立生活」を送る上で重要な点である。それは介護者の力量が障害者の「自立生活」における可能性を左右するからである。
障害者は介護者を自己に内面化させ、日常生活を営んでいく。介護者が人間である以上、万能ではなく、それぞれが異なった存在である。それゆえ、障害者が介護者との協働作業で達成できることは、介護者の身体的、知的、精神的能力に左右される。つまり、障害者が思い通りの生活を実現するにあたって、介護者という素材そのものが大きく影響するのである。介護者を取り替えることによって今実現したいことが可能になるならば、介護者を選択する自由も障害者にあっていい。
しかし、センターではまだその選択権を認めてはいない。それは、介護者選択の利点は確かにあるが、介護者を選択することで生まれると思われる弊害や新たな課題もあるからである。
介護者を選択するということは、介護関係に競争原理を持ち込む可能性があるということを意味している。もちろん競争原理が全く悪いとは言えない。介護者がいい緊張感を持って仕事に向かうために、[ある程度は]([]に傍点)必要かもしれない。しかし、それがどの程度必要なのか、[どの程度なら]([]に傍点)心地よいのか、を測るのは難しい。
センターで介護者を選択することが障害者に許されたと仮定するとしよう。当然ある障害者に選択される介護者がいる一方で選択されない介護者がいる。実際にそうなるかはわからないが、ある特定の介護者が多くの障害者に支持されるということも可能性としてはありえる。そうなった場合、恐らく障害者の中には「私はこの人でいい」と他の障害者に支持されなかった介護者をわざと選択する者が出てくるだろう。しかし、それは介護者にとっても決して嬉しいことではない。「憐れみ」や「同情」は介護者にとってもつらいものだ。あるいは障害者が本当に他の障害者に支持されなかった介護者を選択したとする。しかし、そのときには、介護者は自信を失ってしまって、本当に自分が選ばれているのだと信じることができなくなってしまうかもしれない。
ようするに、介護を仲間同士で支え合い、障害者も介護者も信頼関係を築くことで成り立っているセンターのような組織の場合、競争原理をいれても、うまく働かない可能性がある。そしていれたことで組織の中核となる信頼関係が崩れてしまう可能性がある。障害者と介護者が一体化していく介護関係も、障害者にのみ選択権が与えられた状態では、両者が対等な関係にあるとはいえず、何らかの影響を受ける可能性がある。実際に「介助者」を選択している障害者と「介助者」の「介助」関係における問題点として、究極は両者の間の「共感」が損なわれつつあることを指摘している(01)。このようなリスクを考えると、センターのような組織での介護者選択権の問題は非常に重大なものである。
さらに、センターに限らず、障害者に介護者選択権の行使を認めた上での課題は以下のようになる。
第一の課題は、介護者選択権の限界、すなわち障害者の介護者選択権はどこまで許されるべきなのかという課題である。障害者は介護者を自己に内面化させることによって、「自立生活」を送る。障害者が介護者選択の権利を得た場合、生活上の限界は介護者を取り替えることによって回避されうるかもしれない。しかし、障害の有無に関わらず、当然だが、どのような人間であっても、あるいは人間だからこそ必ず限界がある。それが「普通の生活」である。ならば、障害者が介護者を「選択する自由」はどこまでなら、「普通の生活」の範囲として認められるのか。
また、第二として、介護者選択権の実体、すなわち「選択する自由」はどこまでなら心地よいものなのかという課題である。人間の生活は、全て思い通りに行くことが必ずしも必要とはされていない。人は、自分の意に従わないもの=「他者」の存在によって、そしてそれと何とか折り合っていく中で生きているいう感覚を覚える。そして互いへの理解、「共感」が育まれる。だとすれば、障害者はどこまで他者性を許せるのか。あるいはどこからは我慢できないのか。
本研究では上記の課題には取り組んでいない。これらの課題については、実際に介護者を選択している障害者と介護者の関係に関する新たな調査が必要となる。そして、今後、さらにより良い介護サービスを追求していくためには、安定した介護関係を築きながら、より障害者の選択権を認めていく介護サービスの仕組みを検討して行く必要がある。
第2節 介護制度における現在の動きと今後の課題
第1章および第3章でふれたが、障害者たちは地域生活における生活保障を求めて、介護料要求運動を展開してきた。彼らの主張は、障害者の生活保障は、施設での生活保障同様、行政がその責任において行うべきであり、したがって本来地域での介護サービスは行政が行うべきであるというものである。
このような運動の結果、東京都全身性障害者介護人派遣サービスや生活保護他人介護加算などの介護制度が創設され、現在障害者たちはこれらの制度を利用して、制度上は自分の思うような地域生活を送ることを可能にしつつある(02)。
施行後5年後の介護保険法見直しにおいて、施行時の対象を逃れた若年障害者や特定疾患以外の障害者をその対象に含めることが検討されている。1996年3月に「身体障害者ケアガイドライン」(中間報告)がまとめられ、施行事業を経て(03)1998年5月に厚生省大臣官房障害保険福祉部企画課から「身体障害者介護等支援サービス指針〜地域生活を支援するために〜」が提出された。その中で「複合的なニーズ」を有する障害者=複数のサービスを総合的かつ継続的に提供する必要がある利用者は、複数の専門職種が対応する必要があるため、ケアマネジメントが必要であり、それらを調整するためにケアマネージャーが必要であるとされている。
これまで「自立生活」において、自らの力でニーズを把握し、決定し、生活を管理する力をつけてきた障害者にとって、介護保険で定められているケアマネージャー制度は、自らの生活を「他者」に管理される可能性を示唆しており、そう簡単に受け入れるわけにはいかない。「ケアガイドライン」に対して障害者たちは、ニーズを最もよく知り、判断できるのは障害を持つ者自身であり、したがってケアマネージャーには障害を持つ者がなるべきであるとして、第一にセルフマネジメント(障害者自身でケアプランを作成し、サービスの管理を行うこと)、第二にケアコンサルタント(サービス提供にあたって情報提供を行い、サービス利用者と共にサービス計画を作っていく障害を持つ当事者)の必要性を主張している[資料 11 1998]。
厚生省の指針を受けて、東京都では1998年度の一年間をかけ、障害者のケアサービス体制について検討が重ねられ、1999年に「平成10年度東京都障害者ケアサービス体制整備検討委員会報告書」がまとめられた(04)。この中では、上記のような障害者の意見が反映され、現金直接給付方式(ダイレクト・ファンディング方式)による試行的事業の実施が行われている。
現金直接給付方式とは、行政が障害者に直接介護料を支給し、その介護料を用いて、障害者がもし身体的制約がなければ行っていたであろう生活が可能となるよう、介護者を募集、雇用、管理、必要があれば解雇する。すなわち障害者が、内容、時間共に介護上のニーズを自らの責任で決定し、管理するシステムである。これによって障害者は「選択の自由」を得、また雇用者としての全ての責任を負うことになる。この方法が、これまで行われてきた介護人派遣事業と異なる点は、介護料がサービス提供者である介護者ではなく、障害者に支払われる点である。その意味ではより障害者の選択権が保障されることになる(05)。
上記の障害者の主張が意味していることを検討してみたい。
ここで重視されていることは、従来の考え方である障害者の「経験知」に加えて、「協働知」の必要性である。「協働知」は本人の知識の中にも含まれており、従来は「障害者である本人」にその存在が認められていたが、ここでは介護者の「協働知」も認識されている。
中西正司は「全ての人は何らかの方法で自己決定ができる」という命題を立てて、セルフマネジドケアを5段階に分け、説明している[中西 1998:28]。その中で知的障害者や意識障害を伴う障害者などの場合、「本人が一番信頼し、頼りにしている人」や「家族や身近な人」が本人の意向をその場で読み取り、ケアコンサルタントと共にケアプランを作ること、としているのである。このことは、その障害者本人と介護者との間で創りあげられてきた「協働知」を、障害者の「経験知」とともに重視していることを意味しており、そのどちらか一方ではなく、両者をかみ合わせることで双方の限界を補い合う方法を提示している。
しかし、上記の考えの中には行政側や従来の専門職側の知識は含まれていない。このことは、これまでの「専門知」に対する障害者たちの評価と見ることができる。つまり、行政や専門職の知識がなくても、自分たちでやれるということを彼らは確信しているのである。実際に「自立生活」においてやれてきていることが、その自信のもとになっている。行政やいわゆるこれまでの専門職は、利用者にそう思わせてきたことを見直し、どうあるべきかを改めて問いなおす必要がある。介護場面では、サービス利用者と提供者の間で創り出される「協働知」が、介護に必要とされている知識の重要なものの一つであるということが本研究によって明らかになった。そして、「協働知」を創造する過程においては、サービス利用者と提供者の対等な関係を生み出すだけでなく、新たな介護者という役割を創り出しているのである。サービス利用者の創り出したサービス提供者である専従介護者という役割の中にこそ、専門職として求められている役割の一端が提示されているのである。そのことを認識し、利用者主体の介護サービスにおける介護福祉専門職のあり方を検討すべきである。
さらに、ニーズ把握、自己決定においても、新しい専門職のあり方を検討する必要性が示唆されている。
主張されている現金直接給付方式は、介護に必要なサービス内容、時間だけでなく、介護者という資源を調達する手段である介護料に関しても、自分たちの判断で必要性を決めるということを主張するものである。この主張は、すでに従来の介護人派遣事業や自薦登録ヘルパー方式を利用する中で実践によって生まれた自信からきている。これまでに一部の障害者は限られた介護料の中ではあったが、それを用いて、介護者を選択し、自らの介護をともに創り出してきている。今回の制度は従来の介護料の縛りをより自由にしたものといえる。
本調査でも明らかになったが、介護はあればあるほどよいものではなく、したがって障害者は必要な介護量を自分で判断する力を、日常生活を営む中で介護者とともに徐々につけていくことは可能である。しかし、現金給付方式では、すでに言い尽くされてきたことではあるが、貨幣の使途の不透明性が常に問題になる。これまでの介護料要求交渉においてもこの点が問題視されてきた。ましてや、今回の方式では、介護者にではなく、障害者本人に支給する。となれば、さらに不透明性が増す恐れはある。
また、障害者が雇用者になるということは、難しい問題を生む可能性もある。確かにこれまで「自立生活」において、障害者は介護者を見つけ、自分の生活に必要な介護を共に創り出してきた。すでに実績はある。しかし、介護者に給与を与え、保険に加入させるなどといった込み入った作業をすることが、「自立生活」をより難しく、能力のある者だけのものといった錯覚を生み出してしまう危険性もある。
これらの点に関して、この制度を主張する障害者たちも、その困難性を認めている。すなわち、この制度は「全ての障害者が使えるわけではない」ものであり、「原則はヘルパー派遣など現物給付」となるだろうということ、そして現金使途透明性の確保などの点で「実施は難しい状況にある」としている[資料15 1999:15-36]。しかし、その意義は、「利用者の選択が最大限認められ」る可能性が広がるということであり、「自立生活」の理念である「福祉サービスの受け手から担い手に、受動的な生活から能動的な生活へ変わる」ための選択肢を増やすことにある。つまりここで主張されていることは、「利用者が自主的に選択できること」、「利用者が一方的にニーズを判定されない仕組みを作ること」であり、「限られたサービスを押しつける仕組みだけは創ってはならない」ということである[資料15 1999:15-36]。当然ながらセルフマネジメント方式も介護サービスの一つの選択肢であって、それを押しつけることはしないということである。従来の登録ヘルパー制度であっても利用者が自主的に選択できることが保障されれば、それはそれでよい。ただそれぞれの制度が使い方によって利用者の生活を制限する。そうしたサービスの限界を知り、自分の生活にあったものを自分で納得して選択し、できるだけ不自由をなくしていくこと(あるいは自分にとって最小限の不自由を自分で納得して選択すること)が最終目的なのである。これまでのサービスにおけるニーズ把握や決定において、サービス提供側の一方的な判定により、利用者の選択権が制限され、限られたサービスが押しつけられてきた。上記の案は、そのことに対する障害者の抵抗なのである。
現金直接給付方式は、「社会通念の許す範囲で自由に使えるシステム」[資料15 1999:26]である。これまで「社会通念の許す範囲」は、一応、行政や専門職によって判断されてきた(その判断基準に「社会通念」がどのような形で反映されているのかということは、はっきりと示されてはいないが)。今後は、障害者の「選択の自由」を尊重しながら、「社会通念の許す範囲」を測っていくシステムを創り出さなければならない。そして常に現状で満足するのではなく、「社会通念」そのものに対して働きかけていかなくてはならない。つまり、納税者への説得を行う、また介護料の使途不明を自主的になくしていく、あるいはそれを許さないシステムの開発といった課題が残されているのである。「選択の自由」を「確信の自由」に変えていく作業は、そしてそれを確実にするシステムの構築はこれからの課題である。そしてこのようなシステム創造に専門職が必要とされているのか。もし、必要とされているのであれば、どのような専門職なのか。今後の専門職の存在意義、あり方が問われている。
終章・註
(01) 「…障害者のニーズを充足させるような高度な介助を求めていくことができる、と。現に、今ではちょっとでも障害者の意にそわないことをした介助者がすぐに馘にさせれられることも少なくない。…だが今もし障害者が『自分の手足になれ。それがいやなら−』というとしたら、そこには単なる乱暴さしかないだろう。そんなサービスなど、いくらでも代わりはあるし、いくつでも使い捨てができる、といった居丈高な態度がその背景にあるからである。ようするに今では、お互いの間に『共感』というものが損なわれつつあるのかもしれない」[究極 1998:183]。
(02) 1974年に東京都で開始された「東京都身体障害者(重度脳性麻痺者)介護人派遣事業」は、障害者運動の成果によって1987年よりその対象を脳性麻痺者に限らず全身性障害者(脳性麻痺、頚椎損傷、筋疾患等による肢体不自由者で、四肢体幹等全身にわたり障害を有している者)に拡大した(このとき「重度脳性麻痺者等介護人派遣事業」という名称に変更)。さらに1993年からは他人介護に限って月31日一日8時間の介護料保障が確立した(家族介護は月12回まで)。ホームヘルプサービスに関しては、1982年の制度改正により民間委託が可能となったため、一部の男性障害者が自分で選んだ介護者を民間事業体に登録させ、その介護者を登録ヘルパーとして自分の介護に派遣させる自薦登録ヘルパー制度を行政に認めさせた。1997年からは東京都では、両制度の一体化が行われ、「全身性障害者介護人派遣サービス」という名称が使われている。この制度は、介護人派遣事業の介護時間と自薦登録ヘルパーの介護時間を合わせ、さらにヘルパー利用可能時間の少ない市区町村では、生活保護の他人介護加算も利用することによって最高一日24時間、365日の介護保障が、全ての市区町村ではないが、制度上可能となっている。
(03) 1997年3月、日本身体障害者リハビリテーション協会より、「身体障害者ケアガイドライン施行事業実践記録」が発行されている[資料 7 1997]。
(04) この報告書は知的障害者、身体障害者双方の合同会議とそれぞれの部会の議論をまとめて作成された。それぞれの部会の委員に両障害当事者が加えられ、かつ合同会議においては両障害者が一堂に集って討論が行われた。これまでそれぞれの障害別に行われ、かつ知的障害に関しては当事者を外す形の多かった会議形式から考えると、画期的な会議であったと思われる。
(05) 例えば親と暮らしている障害者が介護者を親にしている場合、月12回分の介護料が親の収入になる。このため、子どもが家を出て「自立生活」を送ろうとするとき、家族にとっては収入減となるため、「自立生活」を反対されてしまうということが起こる。
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1988 『「日本らしさ」の再発見』 講談社(文庫版)
1998 『日本研究原論』 有斐閣
平野かよ子・窪田暁子 1993 「Self Help Group 論の検討」『東洋大学大学院紀要 第
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I
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Sheil Land Associates Ltd. =染谷育志・金田耕一訳 1999 『ニーズ・オブ・スト
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生瀬克巳 1989 『近世日本の障害者と民衆』 三一書房
石川准 1992 『アイデンティティ・ゲーム』 新評論
1999 『人はなぜ認められたいのか』 旬報社
石村善助 1969 『現代のプロフェッション』 至誠堂
糸賀美智子 1998 「『介助者』という仕事と、介助される側と」『福祉労働』No.79
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K
笠原幸子 1997 「介護福祉史の専門職性」一番ヶ瀬康子監修 日本介護福祉学会編
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片桐雅隆 1996 『プライバシーの社会学』 世界思想社
加藤康昭 1974 『日本盲人社会史研究』 未来社
健康保険組合連合会 1959 『社会保障年鑑』 東洋経済新報社
菊池義昭 1999 「第3章 障害社福祉」一番ヶ瀬康子・高島進・高田真治・京極高宣
編 『戦後社会福祉の総括と二一世紀への展望T総括と展望』 ドメス出版201-228
木村敏 1972 『人と人との間』 弘文堂
1975 『分裂病の現象学』 弘文堂
1978 『自覚の精神病理』 紀伊国屋書店
1988 『あいだ』 弘文堂
『広辞苑第5版』 1998 岩波書店
『厚生白書』1956 (厚生省監修)ぎょうせい
厚生省大臣官房障害保険福祉部企画課 1998 『身体障害者福祉関係法令通知集』
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厚生省社会・援護局企画課/監修 1998 『社会福祉基礎構造改革の実現に向けて』
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窪田暁子 1993 「Self Help Groupにみる類型について」『東洋大学児童相談研究』
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1994 「精神障害者の社会復帰とクラブハウスモデル」『東洋大学社会学部紀要』第32‐1号 東洋大学社会学部:49-66
1998 『小春日和の午後に』 ドメス出版
楠敏雄 1978 「障害者運動の現在」『福祉労働 創刊号』 現代書館:159-165
1979 「『障害者』解放運動とは何か」『福祉労働 第2号』 現代書館:147-153
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京極高宣・垣内芳子 1990 『介護福祉の基礎知識』上、下 中央法規出版
究極Q太郎 1998 「介助者とは何か?」『現代思想−特集身体障害者』vol.26-2
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Laing, R.D. 1960,1969 The Divided Self=1971 阪本健二・志貴春彦・笠原 嘉訳
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Laing, R.D. 1961,1969 Self and Others =1975 志貴春彦・笠原 嘉訳『自己と他者』
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Laing, R.D. 1969/1971 The Politics of The Family and Other Essays Tavistock
Publications =阪本良男・笠原嘉訳『家族の政治学』 みすず書房
M
丸山一郎 1998 『障害者施策の発展』中央法規
Mayeroff, M. 1971 On Caring Harper & Row, Publishers, Inc.=田村真・向野宣之訳
1987『ケアの本質』 ゆみる出版
三澤昭文監修 船津守久・石田一紀・河内昌彦編集 『介護における人間理解−心安
らぐかかわりを求めて−』 中央法規出版
三ツ木任一 1994 「障害者自立生活運動の動向と展望」『社会福祉研究』第60号(財)
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森 有正 1971 「経験と思想(T‐3)‐出発点 日本人とその経験(b)‐」『思想』
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Murphy, R.F. 1987 The Body Silent Henry Holt and Company, Inc.=辻信一訳 1992
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N
中島紀恵子・京極高宣・蟻塚昌克監修 1996 『介護福祉の基礎知識』上・下 中央法
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中村雄二郎 1992 『臨床の知とは何か』 岩波新書
中西正司 1998 「ケアガイドラインで障害者は何を提案しようとしているのか」『福祉
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中野敏子 1987 「第4章 障害者運動の展開」一番ヶ瀬康子・佐藤進 『障害者の福祉
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中田智恵海 1997 「セルフヘルプ・グループと専門職との関連について」『武庫川女子
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新田勲 1998 「介護料制度はいかにしてかちとられていったか」『現代思想−特集身体
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野中郁次郎 1990 『知識創造の経営』 日本経済新聞社
1996 「知識創造システムとしての企業組織」 ダイヤモンド・ハーバード・ビジネス編集部 『エンパワーメント 成功の法則』 ダイヤモンド社
O
小笠原澄江 1992 『逝く春の花』自費出版
小川喜道 1998 『障害者のエンパワーメント』 明石書店
小倉虫太郎 1998 「私は、如何にして<介助者>となったか?」『現代思想−特集身体
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岡知史 1990 「日本におけるセルフヘルプ−そこに見られる相互扶助の伝統と自立=
解放運動の流れをめぐって−」『上智大学社会福祉研究』 1990.3 上智大学文学部社
会福祉学科:5-31
1991 「終戦後結成された日本のいくつかの自助的相互扶助組織について」『上智大学社会福祉研究』 1991.3 上智大学文学部社会福祉学科:25-66
1992 「セルフヘルプ・クリアリングハウス:その実例と問題点」『上智大学社会福祉研究』 1992.3 上智大学:5-49
1993 「セルフヘルプグループと文化の問題−「普遍型」、「適応型」、「独立型」の分類−」『上智大学社会福祉研究』1993.3 上智大学:51-79
1994 「セルフヘルプグループの援助特性について」『上智大学社会福祉研究』 1994.3 上智大学:3-19
1999 『セルフヘルプグループ』 星和書店
岡原文哉 1990/1995a 「第3章 制度としての愛情−脱家族とは」 安積純子・岡原
正幸・尾中文哉・立岩真也 『生の技法』『生の技法−増補改訂版』 藤原書店:75-100
1990/1995b 「第5章 コンフリクトへの自由−介助関係の模索」安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也 『生の技法』『生の技法−増補改訂版』 藤原書店:121-146
奥村隆 1998 『他者といる技法』 日本評論社
尾中文哉 1990/1995 「第4章 施設の外で生きる−福祉の空間からの脱出」 安積純
子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也 『生の技法』『生の技法−増補改訂版』 藤原
書店:101-120
小山内美智子 1988 『車椅子からウィンク』ネスコ社
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1997 『あなたは私の手になれますか』中央法規
小山聡子 1998 「支援する側とされる側の『関係性』‐障害福祉論のとりくみを通じ
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Payne, M. 1995 Social Work and Community Care Basingstoke, Hampshire
Macmillian=杉本敏夫・清水隆則監訳 1998 『地域福祉とケアマネジメント』筒井
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1985 『個人的知識−脱批判哲学をめざして』 ハーベスト社
1966 The Tacit Dimension Routledge & Kegan Paul. Ltd.=佐藤敬三訳 1980 『暗黙知の次元』 紀伊國屋書店
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1990「自立生活(IL)運動と社会リハビリテーション」『総合リハビリテーション18巻7号 医学書院:507-511
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田尾雅夫 1995 『ヒューマン・サービスの組織』 法律文化社
立岩真也 1990/1995a 「第2章 『出て暮らす』生活」 安積純子・岡原正幸・尾中
文哉・立岩真也 『生の技法』『生の技法−増補改訂版』 藤原書店:57-74
1990/1995b 「第7章 はやく・ゆっくり−自立生活運動の生成と展開」 安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也 『生の技法』『生の技法−増補改訂版』 藤原書店:165-226
1990 「第8章 接続の技法―介助する人をどこに置くか」安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也 『生の技法』 藤原書店:227-284
1993a 「東京都脳性麻痺者等介護人派遣事業」『季刊福祉労働』No.59 現代書館:156-162
1993b 「生活保護他人介護加算」『季刊福祉労働』No.60 現代書館:118-123
1993c 「障害者総合情報ネットワーク・他」『季刊福祉労働』No.61 現代書館:153-158
1994a 「当事者組織にお金は出るか→『地域福祉基金』他」『季刊福祉労働』No.62 現代書館:157-162
1994b 「社会的支援システムの変更」『季刊福祉労働』No.63 現代書館:152-157
1994c 「ホームヘルパー制度はもっと使える」『季刊福祉労働』No.64 現代書館:144-151
1995a 「NPOがやっていること、やれること」『季刊福祉労働』No.68 現代書館:146-154
1995b 「第8章 私が決め、社会が支える、のを当事者が支える−介助システム論−」安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也『生の技法−増補改訂版』 藤原書店:227-266
1995c 「第9章 自立生活センターの挑戦」安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也 『生の技法−増補改訂版』 藤原書店:267-321
1996 「NPO法+人を雇う→おもしろいことをやる」『季刊福祉労働』No.70 現代書館:155-162
1997 『私的所有論』 勁草書房
1998a 「一九七〇年」『現代思想』vol.26-2 青土社:258-285
1998b 「空虚な〜堅い〜緩い・自己決定」『現代思想』vol.26-7 青土社:57-75
1998c 「どうやって、英国の轍も踏まず、何とかやっていけるだろうか」『福祉労働』No.79 現代書館:12-22
1999a 「自己決定する自立−なにより、ではないが、とても、大切なもの」 石川准・長瀬修編『障害学への招待』 明石書店:79-107
1999b 「第8章 資格職と専門性」 新藤雄三・黒田浩一郎編『医療社会学を学ぶ』 世界思想社:139-156
手塚直樹 1997 『社会福祉選書7 障害者福祉論 第四版』光生館
U
植田章・岡村正幸・結城俊哉編著 1997 『社会福祉方法原論』 法律文化社
W
若林克彦 1986 『軌跡 青い芝の会−ある脳性マヒ者運動のあゆみ』自費出版
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八木晃介 1984 『現代差別イデオロギー批判』 批評社
山田明 1987 「日本における障害者福祉の歴史」一番ヶ瀬康子・佐藤進 1987 『障害
者の福祉と人権』 光生館:43-128
山手茂 1997 「介護福祉専門職の生涯教育・研修の体系化」一番ヶ瀬康子監修 日本
介護福祉学会編『介護福祉職に今何が求められているか』ミネルヴァ書房:54-62
横田弘 1979「障害者運動とその思想」『季刊福祉労働』No.3:34-43
吉本哲夫 1981 「戦後障害者運動のあゆみと課題」『ジュリスト増刊総合特集』No.24
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Z
全国社会福祉協議会 1984 『ホームヘルプ活動ハンドブック』 全国社会福祉協議会
全国障害者問題研究会 1997 『全障研三十年史』 全国障害者問題研究会出版部
資料
1. 厚生省社会局 1975 東京都民生局長宛「障害者加算の特別基準の設定について」
2. 『全国障害者解放運動連絡会議 大会報告障』 1976〜
3. 『在障会だより』 練馬区在宅障害者の保障を考える会(在障会)1980〜
4. 『第14回介護保障問題学習会用資料 介護料』 1988 練馬区在宅障害者の保障を考える会(在障会)
5. 『派遣センター通信』 練馬区介護人派遣センター 1991〜
6. 『派遣センターを知るためのキーワード』1996 練馬区介護人派遣センター
7. 『身体障害者ケアガイドライン施行事業実践記録』 1997 日本障害者リハビリテーション協会
8. 『ノーマライゼーション推進東京プラン』 1998 東京都福祉局障害福祉部計画課
9. 『自立生活センター提供の自立生活プログラムの効果評価事業報告書('98年度版)』1998東京都自立生活センター協議会
10.“Modernising social services -Promoting independence, Improving protection, Raising standards” Parliament by the Secretary of State for Health by Command of Her Majesty November 1998
11.『障害当事者が提案する地域ケアシステム−英国コミュニティケアへの当事者の挑戦』 1998 ヒューマンケア協会・日本財団
12.『当事者主体の介助サービスシステム−カナダ・オンタリオ州のセルフマネジドケア』1999 ヒューマンケア協会・日本財団
13.『HOWTO介護保障 別冊資料 1巻 自薦登録方式のホームヘルプサービス事業 改定第4版』1999 障害者自立生活・介護制度相談センター
14.『HOWTO介護保障 別冊資料 2巻 全国各地の全身性障害者介護人派遣事業 改定第4版』 1999 障害者自立生活・介護制度相談センター
15.『平成10年度東京都障害者ケアサービス体制整備検討委員会報告書』 1999 東京都障害者ケアサービス体制整備検討委員会
謝辞
本研究を行うにあたって出会った全ての方々に感謝いたします。この論文を書くことの原点は、障害を持つ人との出会い、そのものだったのではないかと思います。私が障害を持つ方と出会ったのは5年ほど前です。そのとき、この論文で描いた介護者のように、私は、彼らとの出会いで癒されました。全てを受けとめられ、肯定されている感じを受けました。介護という「つらくて面倒な仕事」と思われることが、私には単純にそれだけではなかった。深い人間関係に魅せられ、そして、私はこの世界に入り込み、今現在に至るわけです。
私の周りには最初から「弱者」の障害者はいませんでした。私にとって介護は確かにつらくてめんどうでありながら、楽しいものでもあります。障害のある人と一緒に、生活の中でいろいろな「障害」にぶつかっていく。お互いに初めてのことで、ああだこうだと試行錯誤しながら進めていく。あるいは、障害を持つ人が経験のあるときは、その人が「私」という素材にあわせながら方法を考えてやってみる。そうして、何かを乗り越えたときの達成感は、たとえ小さなことでも充実感のあることです。一緒に喜べる楽しさがあるのです。介護のつらくて面倒なだけじゃない部分、そのことを表現したい。そのことを言わなければ。そんな思いが、この論文を書くことを支えてくれていたように思います。
私のこうした思いを受けとめ、調査に快く応じてくださった練馬区介護人派遣センターの皆さんに心から感謝したいと思います。皆さんの言葉の一つ一つが私の中に深く入り込んできました。全く新しいものを知るというよりも、今までぼんやりと自分の中にあったものが皆さんの言葉によって表現されて形になっていく、そんな不思議な、そして嬉しくて楽しくてわくわくする調査でした。本当に有難うございました。
それから、いろいろな思いがなかなか言葉にならないときに助けてくださった助手の方、大学院の先輩、仲間たちにも感謝します。一方的で自分よがりの文章に第三者の客観的な視線で質問をくれたり、いつも暖かい励ましの言葉をくれました。勇気付けられました。本当に有難うございました。
そしてお忙しい中、様々なご助言を下さった先生方に感謝いたします。授業の時間を割いて発表の機会を与えてくださったり、質問に快くお時間を割いてくださったり、また、様々な書物や情報をくださったり、本当に嬉しかったです。有難うございました。
そして最後になりましたが、いつも温かく見守り、ときに厳しく、ときに鋭くご指導くださいました田端光美教授に心より感謝申し上げます。有難うございました。
……以上……